ペシミズムの杭
くだらない事でも千文字以上かけると知りました。そうも出来なければ三文文学や駄文などといった単語が生まれようはずが無いですね、たしかに。
エッセイというもののスタンスがよくわからない。
性欲や便意の処理と同じように、溜まり溢れるモノを白行にぶちまける事に満足感は会っても美徳はないと思うから、スタイルというものを気にしなければならない。
それは、別に不愉快なことではない。
ただ、そうなると何処の誰に対してどのくらいまで媚びるかが問題だ。
正直媚びるという言い方の持つ嫌悪感をなんの躊躇もなく使っているわけではないとだけは弁明したい。僕がどこまで下に見ていいのかという話ではないのです。
僕ごときがどう行動すれば気まぐれにこの黒線迷路で目を遊ばせているあなたの弦に触れないかという話です。
無理、といわれるのは当たり前すぎるのかも知れません。
癖なのです、と断言してみる。それも付箋、逃げ道だ、と言われれば言葉はもう進みません。現にこのスペースに書いた文章は三度目です。くだらなすぎて消し去ったものの後にタイトルだけが残り、そこでまたのうのうと書き出しているのです。
一度目に書いたものは、指南書の如く酷く人を馬鹿にしたものでした。自分というものが知る知識をとにかく他人の顔に塗りたくりたくなる幼稚な衝動が、意識なしでは慣れ流れるのです。それは、痴呆老人と何に変わりもなく、ましてこれといった病状でもない僕がそれをすることは恥ずべきことなのです。
二度目に書いたものは、思い出せないくらいの駄文でした。これでもない、あれでもないと絞りでたものの綴りを、偶然に押していた何らかのキーがページをリロードする事で流し出してくれました。悔いるものは時間と電気代だけです。価値のないものがまるであるように錯覚していた僕を世の中にある必然性というものが救ってくれたのです。感謝の気持ちしかありません。
それでこの三度目です。とどのつまりすごく簡単な事を書くつもりだったのです。
僕はよく考え過ぎだと言われます。
人が怖いのです。だからもし僕がこう行動すればあっちに角がたってしまう、それならこうすればでもあそこに角がたってしまう、そもそも僕如きが行動を起こしていいのか?しかしながらなにもしないことこそ一番の無礼ではないのか?
常に僕の行動には釘が刺さるのです。刺しているのは僕です。僕の中の他人のつもりや代わりとしている僕です。繊細であるとかの問題ではないのです。繊細であれば許される、という考えは傲慢です。ましてや繊細という言葉を思いついている時点で繊細さは微塵もないのです。
しかし人というものは面白くできていて、そんな僕と似た価値観も持つ人間を見ると嫌悪感を感じます。同族嫌悪などという複雑なものではないです。ただただ、行き過ぎたものは害しか及ぼさないというだけの話なのです。
ですから、自分を卑下しすぎる人間は、実はナルシストである危険性を忘れてはならないのです。人は、自分というものが酷く価値のないものであっても、その認識に浸っていてはいけないのです。それは、姿にするならば自慰行為なのです。酷く滑稽でありましょう?
卑猥で、嫌悪感を感じて仕方がないのです。
そういった論理を踏まえて、無償に傲りすぎないようにと癖になってしまった杭の突き立てを、次は浸らないように、まずは境界線を見極めなければいけないという話なのです。
もちろん、当然のことですが私事であるため、見極めなければいけないのは僕です。
知覚せねば理解できないのです。
お恥ずかしい限りです。
自分の首に締めつながっている首輪の紐の端の杭を、どうするかと悩んでいるのですから、こんな俗物のちっぽけな悩み事がせせら笑われても可笑しくないのです。
そして、ここでもまた、必要以上に杭を刺し、公共の場である大地の荒らしてしまったのではないかと、今日もまた悔いきれず、水を濁したまま僕は恥と共に去り行きます。
ペシミズムの杭