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『愛している、とどうか嘯いてはくれないか』

「それを聞いたら全てを受け入れるから、君のキライを、離れたいも受け入れるから。」

 カスミは服の袖を大男に掴まれていた。昼間の時間帯なのにリビングのカーテンは閉めきっていて夜よりも暗い。
 カッと燃えるような怒りが、カスミの中で勢いを増して、乱暴にトモヤの手を振り払う。そのままぐるっと人形のように顔だけを向ける。見下ろす真っ黒な目に、カスミは眼球が鈍く乾く痛みを感じた。田舎のトンネルみたいに出口の光が見えなくてズゥンと淀んでいる目だった。

「どれだけ傷つけても苦しくても君の望んだことなのだから。」

 唇を動かしてトモヤは優しく言葉を続ける。蜂蜜がホットミルクにとけるみたいな声だった。目の奥に映るカスミは自分が汗をかいていることにようやく気付いた。

「だから。」

「愛してる。」

 続きを聞きたくなかった。だからカスミは遮った。
 今までの人生の中で、最低な愛の言葉を吐き捨てて走り出す。玄関の扉を内側から開けようとしているはずなのに、手汗のせいで、カスミはドアノブを掴もうとする手を滑らせた。心臓の音がうるさい。加えて手の震えが邪魔をする。早く、早く。それほどまでに強い焦りと恐怖がカスミを急き立てていた。力いっぱい掴んだドアノブを無理に動かして開けようとする。汗と涙がダラダラ溢れた。ぬぐいもしなかった。
 大きな手がそっと手伝うように、カスミの手へ添えられる。すると扉が開いた。手間取っていた扉がトモヤの手によって、いとも簡単に開けられてしまう。
 カスミの尋常じゃない手の痙攣は止まっていた。だが幽霊にように生気のない青白い顔をし、頭から水をかぶったみたいに全身へびっしょりと汗をかいていた。

「なんで。」

「愛してる、って言ってくれたから。」

 あんなの嘘なのに。扉を開けたことで入った風が、カスミの髪をなびかせる。
 太陽の光が差し込んで、はっきりとトモヤの顔が見れた。
 笑っていた。陽だまりの中で、菜の花を見ているみたいに穏やかで優しい笑顔だった。
 カスミはわからなくなってしまった。自分がどうなりたいのかも、トモヤをどうにかしたかったことも。それほどまでに、外の光へまぶしそうに目を細めるトモヤの顔が、全てを忘れさせるほど美しかったのだ。

「行きたかったんじゃないの?」

 トモヤが遠くの山々を見ながら言った。その指摘でカスミは自身の目的を思い出す。そして靴のかかとを踏んでいたことに気づき、いそいそと履き直した。

「うん、もう帰って来ないと思うから行ってきますは言わない。」

「そっか。」

 カスミは一歩踏み出した。それは本当に小さな一歩でトモヤの手の大きさと変わらない。もう一歩、もう一歩と進めばあんなに大きくて、世界の中心にいたトモヤの存在が、遠くになっていくのを感じる。トモヤはカスミを追わなかった。
 当てもなく歩いていたカスミは徐々に、運動不足で息が荒くなり、足が重くなった。脇の下が激痛に見舞われる。照りつける日差しを避けるように、路地裏へと入っていった。

「そこの人、大丈夫ですか。」

 入ったところとは違った通りの近くに、座って休憩していたカスミの頭上へ、男の声が降ってきた。休んだことでかえってのしかかる疲労感から、カスミは顔上げられず、首を横に振ることでしか答えられなかった。一瞬トモヤかと身構えたが、爽やかで快活な彼の声はトモヤと似ても似つかなかった。

「どうぞ。」

 カスミの眼前に差し出されたのはスポーツドリンクの入ったペットボトルだった。近くの自販機で買ってきたのか、ペットボトルは見るからにひんやりとしている。

「お金、ないです。」

 ほとんど意識のない中、かすれた声で断った。

「僕があなたに飲んでほしいだけです。」

 そう言われてはもう、カスミに断るすべはなかった。ペットボトルを開け、おおよそ半分を一口で飲んでしまう。水分が体に入ると、瞬く間に汗が噴き出る。

「ありがとうございました。」

「服とかって、大丈夫そう?」

正直何度も汗を吸って肌にピッタリと張りつき、気持ち悪くて仕方がなかった。深海魚が地上に上げられて醜く膨れるみたいに、かぶれたような気持ち悪さだった。

「お金がないって、一回相談に行ってみるのはどうかな。」

「相談。」

「そう、専門機関に一人で行くのが大変なら僕もついて行くからさ。」

「あなたは誰なの?」

「宮原健二。警察官です、新米ですが」

 照れくさそうに彼は名乗った。
 以上、旦那となる健二との出会いである。

 あれから三年が経ち、結婚式も終わり、なんとなく落ち着きを感じ始めた頃。
カスミは都会の炎天下、信号待ちに適当なビルを見上げた。
 大画面で流れる映画広告、タイトルは『愛している』だった。映画史上最も感動する作品、涙なしには見れない美しい恋。とも語られている。「きっと大丈夫だよ」トモヤが繰り返した言葉だ。
 カスミはまた肺が潰れたように心が窮屈になる。壊れたレコードの針が戻って、永遠と同じ曲を流すみたいに、頭の中で何度もあの優しい声で繰り返される。トモヤの吸っていたタバコの煙みたいに頭へ染みついた。カスミはトモヤを過去のものとして、整理ができたつもりでいた。しかし実際は、今もなおカスミの心の奥深くへと、根を張っている。離れてからというものの、色褪せない、恐怖の大輪を咲かせていた。
 ぐわんぐわんとカスミの視界が歪む。目の前を通る車の音が遠くから聞こえるような気がした。一歩踏み出したところで足に力が入らず、地面へ目掛けてスローモーションで体が崩れ落ちていく。
 あ、倒れる。と思った。アスファルトに塗られた白がじわりと目に焼き付いた。カスミは熱中症を起こしていたのだ。

 目を覚ましてカスミが見たのは病室の白い天井だった。消毒液の匂いが鼻をくすぐる。

「香澄!」

 健二は勢いよく扉を開け、よく通る声を響かせた。慌てて口元を覆い、身を屈める。しずしずと香澄のベッドの傍へ腰を下ろす。

「あ。健二」

「医者に聞いたけど、日傘もささないで外出するなんて、そりゃ熱中症にもなるよ」

窓のそばには真っ赤な花が花瓶に生けられている。

「これは?」

「宮原様の御友人から見舞いに、と。」

 お名前は渡辺と名乗っておられました。聞いた香澄は身を隠すように前傾姿勢をとる。

「本日中には退院できますのでご用意されてくださいね。」

 看護師はそれだけ言うと病室から出ていった。

「大丈夫だよ、香澄。花瓶と一緒に置いてあったカードを確認したら、渡邊って書いてあって、それ僕の姉さん。ほら、この前野菜を送ってくれた」

 あの人じゃないよ。健二の言葉に香澄は安堵から微笑を浮かべた。

 トモヤは変わらず暗い部屋に住んでいて、今はキッチンに立っていた。背丈と同じ食器棚からカップを取り出し、コーヒーを淹れる。砂糖を入れようとしてやめた。腰を下ろし、背を丸めないと使えない苦労する場所。カスミのために移したのを思い出したからだ。
 テレビと一緒に固定した戸棚を開けて、週刊雑誌みたいに詰まったアルバムの、最も新しい一冊を手に取る。低くて座りづらいソファに左足を上にして腰かけた。
 地獄から帰ってきてしまった連続殺人鬼を思わせる飄々とした風体に、菩薩の微笑が乗せられている違和感。そんなチグハグとした雰囲気をトモヤはまとっていた。夕霞という辛くて熱いタバコを吸って、ぼんやりと太陽の光が濁ったような赤い煙を吐く。
 皮の厚い乾燥した指でアルバムをめくって写真を眺めた。一枚もカメラ目線ではない、カスミの目元を細める特徴的な笑顔を、そっと人差し指の腹でなぞる。その横にはケンジの茶髪が映り込んでいた。写真の日付は二日前。

「だから。どんなドラマで見たきれいな愛してるよりも、俺を捨てるために言った愛してるになるから」

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-05

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