8月1日USAの非科学的思考及び居住経験者の傾向その他ジェミニ広告・高度成長に関係する考え方その他。

8月1日USAの非科学的思考及び居住経験者の傾向その他ジェミニ広告・高度成長に関係する考え方その他。


 車の目つきが険しくなったと思われるが、まるでアニメや漫画並みの形相に見えて仕方が無い・
 戦前の箱型から戦後昭和の丸っこい形から次第にスマートで直線的なスタイルになってから再び丸型になった。
 運転をする上では、大きく変わったのはバンパーの突出が無くなった事であり、これだとギリギリ周囲のものに接近が出来、より巧妙な運転に貢献をした。
 また、容量を重視した事で、セダンのスタイルの良さは無くなったがトランク部分の無駄が無くなった。
 前面はどうも険し過ぎ幼稚な気がするので何れ変わった方が良いと思う。如何に車と言え時代に即して幼稚に見える必要性は無いのでは。

 先ずは且つて自動車に関し深夜に特集番組が存在した。TV神奈川だったような気もするのだが・・。
 司会者も車には詳しいものの様であり、各メーカーの新車の紹介を一日一つで毎週行っていた。
 いすゞは本来トラックメーカであり、現在再び其の路線に戻っているようだ。
 当時、小型トラックでのシェアーはTOPで、大型は日野などと競っていた。
 いすゞが乗用車をつくり始めてからの車種は次のようになる。
 ジェミニの旧型で当時はパワーステで無いものもあったので、おそらく今の女性が止まったままでハンドルを回そうとしたら重くて閉口するのではと思われる。元より、止まったままでハンドルを回す事が良くない事には変わりは無い。
 117クーペは形は洒落ていたが、やはりパワステが付いていない車種もあったし、古くなると稀にだが雨漏りがするなどもあったようだ。
 ITALYのデザイナーであるジュウジアローデザインのピアッツァも、目を引いたが、此れも稀にだが運転席のウインドウが開かなくなり手動で開けて有料道路の料金所を通過したなどもあったようだ。
 此のメーカーの塗はペンキの様で高級感が無くメタリックもあまり無かった。
 其処に登場したのが新型ジェミニであり何と言ってもコマーシャルが抜群だった。
 順番を逆にして、素晴らしい映像の前にこんなエピソードもあった。当時はワゴン車の屋根に窓があり開くという車種もあった。
 ただ、残酷な事件もあり、母親の運転していたワゴン車が線路の下のtunnelを通過する際に子供が上の窓から身を乗り出してしまい・・トンネルに激突。
 前述の番組に順番で登場をしたいすゞの企画関係の二人だったが、新型ジェミニのコマーシャルの好評さに司会者が一言・・。
「・・次の企画はどういった・・?」
 若い社員がつい・・。
「・・そうですね。車の床に窓を設けるなど・・」
 誰も下に流れる地面を見たいとは思わないし基準では違反だろう・・冗談では?
 さて、こんな事を一掃するような素晴らしい映像を見て頂こう。実は昨年先んじてこのブログで紹介をし好評だったが、先日のTV番組でも放送をしていた。

 YouTubeなので下記の画面で見る前に削除される可能性があるので、その場合にはYouTubeの検索に貼り付けて頂きたいのが・・。

 https://youtu.be/A3GmuOVzXXE


 <iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/A3GmuOVzXXE" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" allowfullscreen></iframe>


 もちろんプロのドライバーによるもので、中にはParisの地下鉄の構内を走行するシーなどもあるが・・何れも素晴らしくBackの音楽ともマッチをしている。
 殆どが実際に運転をしていると思ったが、地下鉄のsceneも深夜終電後に撮影をしたので、本物である。
 暴走族が如何にみじめな者達であるのかも感じ取れる。



 次。
 此の国は戦後朝鮮戦争による特需があり、高度成長へのきっかけとなった。ところが、第一次ベビーブームの世代が牽引した時代は、現代と異なり勤勉実直で休みも無かった。
 安倍政権以後しか知らない世代もいるので、如何に安倍政権が景気に貢献したのかと完全に誤解をしているのは今の世代だけでは無い。
 実は、自民にしても安倍政権以前は遥かにレベルが高かったと言える。64年の五輪も景気に貢献をしたが、次の五輪では反対する国民と賛成派が大きく分かれ、政府や自治体が煽ったせいで、二度目の五輪との差が歴然とし過ぎた様だ。
 おまけに汚職迄登場をし未だにくすぶり続けている。
 高度成長も第二次ベビーブームであった72年で終わりをつげ、少子化と共に下り坂を転がり続けているのが現在である。
 安部政権は全く関係は無く、それ以前の自民に較べればすっと落ちる。
 安部君は法人税を二度下げ消費税を上げ、政権も自治体も休みばかりを強調した・・其れも調子に乗り過ぎた結果だった。
 高度成長の始まりには休みについては、一週間で一日も休めない事もあったし、最高でも土曜半ドン日曜休みだった。
 現在も進行形である不況の原因は幾つか挙げられる。
 休みを増やす事により人口の減少と共に働き手の量が減った。当然社会の活気は落ちる。
 では、質の点ではどうかと言えば・・。
 過剰な女性びいきも考えものである。
 例えば、議員に女性を増やす必要は無いに等しい。そうでは無く、男女は平等であり、社会においても同じ事。
 女性の議員が増えて社会が良くなる訳ではない。
 平等を意識しない男性議員がいる事が問題なのであり、自民だけの問題では無いと思われる。
 要は政権与党になれる事が最も大事な事だけを考える政党=世代が悪さをしている事になる。
 女性が良いだけなら、昨夜の報道での自民女性によるParisでの行動はどうだろう?
 男女平等である事は正しいが、男女其々が自ら達の器量というか特長を活かす事も大切な事である。
 育児休暇の落とし穴は、男女平等を不自然に実行してしまったような気がするし、本当は女性の主張は以前より強くなっている。
 昭和の世代やそれ以前の世代での良いところと悪いところを区別しながら今後に活かさなくてはならない。
 例えば、子育ては平等という意味なのだが、母親が高給与をとり働いているとか、共稼ぎが生涯続くのであれば其れも良いのだが・・。
 共稼ぎで知り合って結婚をした後は母親は家庭に入るのが常であった。前述のような事情であれば構わないが、産休を取った後要職で無ければ、退職をするのが高度成長期のパターンと言えた。
 何と言っても、家事・料理・裁縫等は女性の方が上手であり、部屋をカーテンやいろいろに飾るのも女性の方が優れている。
 コックさんに男性ばかりという事は、其れが男性の高給に繋がるからで、そういう男性もいるが職人さんであり、ホワイトカラーでは社会で出世をするしかない。
 何方が働き手として適しているのかにより判別すべきであり、仕事が嫌だからではない。
 時間の都合上此処で此れは終わる。



 次。
 実は公にはされないが、過去USAに縁があった者や報道機関には可哀想だが二国の先の姿。先ずは、USAのlevelもやはり世代の交代のせいなのか下がってしまって、大統領候補ですら出て来ていない。
 USAの経済の構造不況は利上げ程度で何とかなるものでは無く、物価高とinflationを同時に解決するにはまだ十年以上は掛かる・・若し存続すればだが・・・。
 此の国にも言える事なのだが、景況と株価は連動をしていない・・というのも、投資家は=国民では無くほんの一部に過ぎないからだ。
 国民にとっては物価高に対する収入の増や預貯金の大きさなどの方がより重要になる。株式はギャンブルであるから上がったり下がったりは常であり、宛にはならず、先ずは国民の生活を安定させる方が優先される。
 ギャンブルには手を付けず、地道に働き預貯金をし、生活を安定させるのが最も肝心な事である。物価高は簡単にはおさまらない。其れに後述の二国の争いが関係してくる。
 其れは兎も角、まあ、適当にするが・・私達は部外者であり、物事がより呑み込める。
 基本どおりに物事が進んでいる・・此れが報道機関などとは見解が異なる所以だ。
 
 さて・・ここからが誤解をされても仕方が無い事になる・・。
 プーチン大統領の腹の内には私達の予測通りの部分と、未だ気が付いていない部分が存在する。
 Poland寄りに兵を動かしたのは予定通り。
 此処からが言いにくい。
 実は、USAの防空システムはそれ程宛にならず、欧州版は更に脆い。人類が其れに何時気が付くかだが・・。
 小国国内の占領されている部分・・つまり失地回復の事だが・・重要ではない。のんびりやっていれば良いだけ。
 ところが・・決定的なポイントがある。
 使用されるものは一つと二つ合計三つ程度で良いだろう。
 装填されるものはその両方では、5~6種程度になれば完璧だ。
 何を意味するのかは分からないだろうが・・。
 勿論・・核では無く寧ろ遡ることになる。
 先の一つについては防空システムを逆に利用する事になる。



 私達の考えでは・・あくまでも小国は自国の国土復興に手を付けるのが最も聡明だと言える・・其れには終わらせなければならない。
 おそらく、大国は小国を全土占領するつもりはないだろう。代表者がどうなるのかは覚悟が出来ているのだから、先に結論が出る。
 大国は領土が世界一広いのだから、改めて国土を拡げる為に起こしたのではないが、私達にはUSAが仕掛けた事が事の発端である事が見えている。G7など何も関係は無い。
 であれば、USAが大国を直接攻撃をすれば最もRealな事になる。ただ、核兵器の数の上だけでも西全諸国と東三国の差は歴然としている。統一教会などカルト宗教は他国にも信者がいるからトップは亡命したいだろうが・・?
 経済的にも完全に傾いている西側。国民の統率力の点でも、自由主義は共産主義に劣る。
 大東亜戦も此の国は頑張った方だろうが。やはり戦争は「資源」「食料」の多さが決め手となる。そういう点では武器もそれらに劣る事になる。
 鉄のような金属や化学資源・・其れでも大和武蔵は46センチ砲九門航空機に国民が自らを犠牲にするという事は他国では不可能だろう・・だから先の二つがあれば勝てない事は無かったとも考えられるし、負けた方が良かったとも思われる。尾上雄二の記憶年齢は三千年を超えているから、史上の出来事がよく分かる。
 又、此の国のような極小国に於いても「兵糧攻め」という戦法は多く使われた様に戦争の極常識である。人類は水と塩分等・食料が必須な動物に過ぎない。
 少しここで国土の大きさを比較してみる。
 此の国を「1」とする。
 大国はその名の通りabout「45.3」続いてCanada「26.4」USA「26.1」中国「25.5」ブラジル「22.5」Australia「20.9」。India以下は「7」以下になる。
 ああ、史上、停戦などは全く意味が無く、何処の例をとっても停戦中も交戦は続くのが常識だ。
 ゲリラ攻撃も意味は無い。逆にその程度なのかと思われるのが落ちである。
 ただ、一つ最も意味が無い事に互いの国土を攻撃し合う事であり、既に結論は出ている。
 代表だけで攻撃をしたいのは理解はできるがやったところで国民はどうなるのか・・実際にやってみれば自らも理解が出来るし、西側諸国も応援したところで結果が悪い方に繋がるのでは・・まあ、結果が出れば、有無を言わせぬ事になる・・。


 其れでは文豪の作品から掲載をする。


 武蔵野
国木田独歩



     一

「武蔵野の俤おもかげは今わずかに入間いるま郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原こてさしはら久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。
 さてこの望みがはたして自分の力で達せらるるであろうか。自分はできないとはいわぬ。容易でないと信じている、それだけ自分は今の武蔵野に趣味を感じている。たぶん同感の人もすくなからぬことと思う。
 それで今、すこしく端緒たんちょをここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果したい。まず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の美び今も昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣ししゅといいたい、そのほうが適切と思われる。

     二

 そこで自分は材料不足のところから自分の日記を種にしてみたい。自分は二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷しぶや村の小さな茅屋ぼうおくに住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くというのもそのわけである。
九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌きらめく、――」
 これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲あまぐもの南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気すいきを帯びてかなたの林に落ちこなたの杜もりにかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声野やにみつ、浮雲変幻ふうんへんげんたり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしくきわめて趣味深く自分は感じた。
 まずこれを今の武蔵野の秋の発端ほったんとして、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。
九月十九日――「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬがごとし」
同二十一日――「秋天拭ぬぐうがごとし、木葉火のごとくかがやく」
十月十九日――「月明らかに林影黒し」
同二十五日――「朝は霧深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出いで野を歩み林を訪う」
同二十六日――「午後林を訪おとなう。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」
十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
同十八日――「月を蹈ふんで散歩す、青煙地を這はい月光林に砕く」
同十九日――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹を雑まじゆ。小鳥梢こずえに囀てんず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟こうぎんし、足にまかせて近郊をめぐる」
同二十二日――「夜更ふけぬ、戸外は林をわたる風声ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止みたりとおぼし」
同二十三日――「昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田もほとんど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ」
同二十四日――「木葉いまだまったく落ちず。遠山を望めば、心も消え入らんばかり懐なつかし」
同二十六日――夜十時記す「屋外は風雨の声ものすごし。滴声相応ず。今日は終日霧たちこめて野や林や永久とこしえの夢に入りたらんごとく。午後犬を伴うて散歩す。林に入り黙坐す。犬眠る。水流林より出でて林に入る、落葉を浮かべて流る。おりおり時雨しめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなり」
同二十七日――「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白ろに連山の上に聳そびゆ。風清く気澄めり。
 げに初冬の朝なるかな。
 田面たおもに水あふれ、林影倒さかしまに映れり」
十二月二日――「今朝霜、雪のごとく朝日にきらめきてみごとなり。しばらくして薄雲かかり日光寒し」
同二十二日――「雪初めて降る」
三十年一月十三日――「夜更けぬ。風死し林黙す。雪しきりに降る。燈をかかげて戸外をうかがう、降雪火影にきらめきて舞う。ああ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風の音す、はたして風声か」
同十四日――「今朝大雪、葡萄棚ぶどうだな堕おちぬ。
 夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒よさむの凩こがらしなるかな。雪どけの滴声軒をめぐる」
同二十日――「美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀のごとくきらめく。小鳥梢に囀ず。梢頭しょうとう針のごとし」
二月八日――「梅咲きぬ。月ようやく美なり」
三月十三日――「夜十二時、月傾き風きゅうに、雲わき、林鳴る」
同二十一日――「夜十一時。屋外の風声をきく、たちまち遠くたちまち近し。春や襲いし、冬や遁のがれし」

     三

 昔の武蔵野は萱原かやはらのはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもに楢ならの類たぐいで冬はことごとく落葉し、春は滴したたるばかりの新緑萌もえ出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野いっせいに行なわれて、春夏秋冬を通じ霞かすみに雨に月に風に霧に時雨しぐれに雪に、緑蔭に紅葉に、さまざまの光景を呈ていするその妙はちょっと西国地方また東北の者には解しかねるのである。元来日本人はこれまで楢の類いの落葉林の美をあまり知らなかったようである。林といえばおもに松林のみが日本の文学美術の上に認められていて、歌にも楢林の奥で時雨を聞くというようなことは見あたらない。自分も西国に人となって少年の時学生として初めて東京に上ってから十年になるが、かかる落葉林の美を解するに至ったのは近来のことで、それも左の文章がおおいに自分を教えたのである。
「秋九月中旬というころ、一日自分が樺かばの林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生なま暖かな日かげも射してまことに気まぐれな空合そらあい。あわあわしい白しら雲が空そら一面に棚引たなびくかと思うと、フトまたあちこち瞬またたく間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧さかし気げにみえる人の眼のごとくに朗らかに晴れた蒼空あおぞらがのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかに戦そよいだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌しゃべりでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語ささやきの声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末こずえを伝ッた、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変わッた、あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈くまなくあかみわたッて、さのみ繁しげくもない樺かばのほそぼそとした幹みきは思いがけずも白絹めく、やさしい光沢こうたくを帯おび、地上に散り布しいた、細かな落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような『パアポロトニク』(蕨わらびの類たぐい)のみごとな茎くき、しかも熟つえすぎた葡萄ぶどうめく色を帯びたのが、際限もなくもつれからみつして目前に透かして見られた。
 あるいはまたあたり一面にわかに薄暗くなりだして、瞬またたく間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ッたままでまた日の眼に逢わぬ雪のように、白くおぼろに霞む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するようにバラバラと降ッて通ッた。樺の木の葉はいちじるしく光沢が褪さめてもさすがになお青かッた、がただそちこちに立つ稚木のみはすべて赤くも黄いろくも色づいて、おりおり日の光りが今ま雨に濡ぬれたばかりの細枝の繁みを漏もれて滑りながらに脱ぬけてくるのをあびては、キラキラときらめいた」
 すなわちこれはツルゲーネフの書きたるものを二葉亭が訳して「あいびき」と題した短編の冒頭ぼうとうにある一節であって、自分がかかる落葉林の趣きを解するに至ったのはこの微妙な叙景の筆の力が多い。これはロシアの景でしかも林は樺の木で、武蔵野の林は楢の木、植物帯からいうとはなはだ異なっているが落葉林の趣は同じことである。自分はしばしば思うた、もし武蔵野の林が楢の類たぐいでなく、松か何かであったらきわめて平凡な変化に乏しい色彩いちようなものとなってさまで珍重ちんちょうするに足らないだろうと。
 楢の類いだから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨しぐれが私語ささやく。凩こがらしが叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かのごとく遠く飛び去る。木の葉落ちつくせば、数十里の方域にわたる林が一時に裸体はだかになって、蒼あおずんだ冬の空が高くこの上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気がいちだん澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞こえる。自分は十月二十六日の記に、林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視ていしし、黙想すと書いた。「あいびき」にも、自分は座して、四顧して、そして耳を傾けたとある。この耳を傾けて聞くということがどんなに秋の末から冬へかけての、今の武蔵野の心に適かなっているだろう。秋ならば林のうちより起こる音、冬ならば林のかなた遠く響く音。
 鳥の羽音、囀さえずる声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢くさむらの蔭、林の奥にすだく虫の音。空車からぐるま荷車の林を廻めぐり、坂を下り、野路のじを横ぎる響。蹄ひづめで落葉を蹶散けちらす音、これは騎兵演習の斥候せっこうか、さなくば夫婦連れで遠乗りに出かけた外国人である。何事をか声高こわだかに話しながらゆく村の者のだみ声、それもいつしか、遠ざかりゆく。独り淋しそうに道をいそぐ女の足音。遠く響く砲声。隣の林でだしぬけに起こる銃音つつおと。自分が一度犬をつれ、近処の林を訪おとない、切株に腰をかけて書ほんを読んでいると、突然林の奥で物の落ちたような音がした。足もとに臥ねていた犬が耳を立ててきっとそのほうを見つめた。それぎりであった。たぶん栗が落ちたのであろう、武蔵野には栗樹くりのきもずいぶん多いから。
 もしそれ時雨しぐれの音に至ってはこれほど幽寂ゆうじゃくのものはない。山家の時雨は我国でも和歌の題にまでなっているが、広い、広い、野末から野末へと林を越え、杜もりを越え、田を横ぎり、また林を越えて、しのびやかに通り過ゆく時雨の音のいかにも幽しずかで、また鷹揚おうような趣きがあって、優やさしく懐ゆかしいのは、じつに武蔵野の時雨の特色であろう。自分がかつて北海道の深林で時雨に逢ったことがある、これはまた人跡絶無の大森林であるからその趣はさらに深いが、その代り、武蔵野の時雨しぐれのさらに人なつかしく、私語ささやくがごとき趣はない。
 秋の中ごろから冬の初め、試みに中野あたり、あるいは渋谷、世田ヶ谷、または小金井の奥の林を訪おとなうて、しばらく座って散歩の疲れを休めてみよ。これらの物音、たちまち起こり、たちまち止み、しだいに近づき、しだいに遠ざかり、頭上の木の葉風なきに落ちてかすかな音をし、それも止んだ時、自然の静蕭せいしょうを感じ、永遠エタルニテーの呼吸身に迫るを覚ゆるであろう。武蔵野の冬の夜更けて星斗闌干せいとらんかんたる時、星をも吹き落としそうな野分のわきがすさまじく林をわたる音を、自分はしばしば日記に書いた。風の音は人の思いを遠くに誘う。自分はこのもの凄すごい風の音のたちまち近くたちまち遠きを聞きては、遠い昔からの武蔵野の生活を思いつづけたこともある。
 熊谷直好の和歌に、
よもすから木葉かたよる音きけは
   しのひに風のかよふなりけり
というがあれど、自分は山家の生活を知っていながら、この歌の心をげにもと感じたのは、じつに武蔵野の冬の村居の時であった。
 林に座っていて日の光のもっとも美しさを感ずるのは、春の末より夏の初めであるが、それは今ここには書くべきでない。その次は黄葉の季節である。なかば黄いろくなかば緑な林の中に歩いていると、澄みわたった大空が梢々こずえこずえの隙間からのぞかれて日の光は風に動く葉末はずえ葉末に砕くだけ、その美しさいいつくされず。日光とか碓氷うすいとか、天下の名所はともかく、武蔵野のような広い平原の林が隈くまなく染まって、日の西に傾くとともに一面の火花を放つというも特異の美観ではあるまいか。もし高きに登りて一目にこの大観を占めることができるならこの上もないこと、よしそれができがたいにせよ、平原の景の単調なるだけに、人をしてその一部を見て全部の広い、ほとんど限りない光景を想像さするものである。その想像に動かされつつ夕照に向かって黄葉の中を歩けるだけ歩くことがどんなにおもしろかろう。林が尽きると野に出る。

     四

 十月二十五日の記に、野を歩み林を訪うと書き、また十一月四日の記には、夕暮に独り風吹く野に立てばと書いてある。そこで自分は今一度ツルゲーネフを引く。
「自分はたちどまった、花束を拾い上げた、そして林を去ッてのらへ出た。日は青々とした空に低く漂ただよッて、射す影も蒼ざめて冷やかになり、照るとはなくただジミな水色のぼかしを見るように四方に充みちわたった。日没にはまだ半時間もあろうに、モウゆうやけがほの赤く天末を染めだした。黄いろくからびた刈株かりかぶをわたッて烈しく吹きつける野分に催されて、そりかえッた細かな落ち葉があわただしく起き上がり、林に沿うた往来を横ぎって、自分の側を駈け通ッた、のらに向かッて壁のようにたつ林の一面はすべてざわざわざわつき、細末の玉の屑くずを散らしたように煌きらめきはしないがちらついていた。また枯れ草くさ、莠はぐさ、藁わらの嫌いなくそこら一面にからみついた蜘蛛くもの巣は風に吹き靡なびかされて波たッていた。
 自分はたちどまった……心細くなってきた、眼に遮さえぎる物象はサッパリとはしていれど、おもしろ気もおかし気もなく、さびれはてたうちにも、どうやら間近になッた冬のすさまじさが見透かされるように思われて。小心な鴉からすが重そうに羽ばたきをして、烈しく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フト首を回めぐらして、横目で自分をにらめて、きゅうに飛び上がッて、声をちぎるように啼なきわたりながら、林の向うへかくれてしまッた。鳩はとが幾羽ともなく群をなして勢いこんで穀倉のほうから飛んできた、がフト柱を建てたように舞い昇ッて、さてパッといっせいに野面に散ッた――アア秋だ! 誰だか禿山はげやまの向うを通るとみえて、から車の音が虚空こくうに響きわたッた……」
 これはロシアの野であるが、我武蔵野の野の秋から冬へかけての光景も、およそこんなものである。武蔵野にはけっして禿山はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏している。それも外見には一面の平原のようで、むしろ高台のところどころが低く窪くぼんで小さな浅い谷をなしているといったほうが適当であろう。この谷の底はたいがい水田である。畑はおもに高台にある、高台は林と畑とでさまざまの区劃をなしている。畑はすなわち野である。されば林とても数里にわたるものなく否いな、おそらく一里にわたるものもあるまい、畑とても一眸いちぼう数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃いっけいの畑の三方は林、というような具合で、農家がその間に散在してさらにこれを分割している。すなわち野やら林やら、ただ乱雑に入組んでいて、たちまち林に入るかと思えば、たちまち野に出るというような風である。それがまたじつに武蔵野に一種の特色を与えていて、ここに自然あり、ここに生活あり、北海道のような自然そのままの大原野大森林とは異なっていて、その趣も特異である。
 稲の熟するころとなると、谷々の水田が黄きばんでくる。稲が刈り取られて林の影が倒さかさに田面に映るころとなると、大根畑の盛りで、大根がそろそろ抜かれて、あちらこちらの水溜みずためまたは小さな流れのほとりで洗われるようになると、野は麦の新芽で青々となってくる。あるいは麦畑の一端、野原のままで残り、尾花野菊が風に吹かれている。萱原かやはらの一端がしだいに高まって、そのはてが天ぎわをかぎっていて、そこへ爪先つまさきあがりに登ってみると、林の絶え間を国境に連なる秩父ちちぶの諸嶺が黒く横たわッていて、あたかも地平線上を走ってはまた地平線下に没しているようにもみえる。さてこれよりまた畑のほうへ下るべきか。あるいは畑のかなたの萱原に身を横たえ、強く吹く北風を、積み重ねた枯草で避よけながら、南の空をめぐる日の微温ぬるき光に顔をさらして畑の横の林が風にざわつき煌きらめき輝くのを眺むべきか。あるいはまたただちにかの林へとゆく路をすすむべきか。自分はかくためらったことがしばしばある。自分は困ったか否いな、けっして困らない。自分は武蔵野を縦横に通じている路は、どれを撰えらんでいっても自分を失望ささないことを久しく経験して知っているから。

     五

 自分の朋友がかつてその郷里から寄せた手紙の中に「この間も一人夕方に萱原を歩みて考え申候そうろう、この野の中に縦横に通ぜる十数の径みちの上を何百年の昔よりこのかた朝の露さやけしといいては出で夕の雲花やかなりといいてはあこがれ何百人のあわれ知る人や逍遥しょうようしつらん相悪にくむ人は相避けて異なる道をへだたりていき相愛する人は相合して同じ道を手に手とりつつかえりつらん」との一節があった。野原の径を歩みてはかかるいみじき想いも起こるならんが、武蔵野の路はこれとは異り、相逢わんとて往くとても逢いそこね、相避けんとて歩むも林の回り角で突然出逢うことがあろう。されば路という路、右にめぐり左に転じ、林を貫き、野を横ぎり、真直まっすぐなること鉄道線路のごときかと思えば、東よりすすみてまた東にかえるような迂回うかいの路もあり、林にかくれ、谷にかくれ、野に現われ、また林にかくれ、野原の路のようによく遠くの別路ゆく人影を見ることは容易でない。しかし野原の径の想いにもまして、武蔵野の路にはいみじき実じつがある。
 武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当あてもなく歩くことによって始めて獲えられる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処ずいしょに吾らを満足さするものがある。これがじつにまた、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。武蔵野を除いて日本にこのような処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接している処がどこにあるか。じつに武蔵野にかかる特殊の路のあるのはこのゆえである。
 されば君もし、一の小径を往き、たちまち三条に分かるる処に出たなら困るに及ばない、君の杖つえを立ててその倒れたほうに往きたまえ。あるいはその路が君を小さな林に導く。林の中ごろに到ってまた二つに分かれたら、その小なる路を撰えらんでみたまえ。あるいはその路が君を妙な処に導く。これは林の奥の古い墓地で苔こけむす墓が四つ五つ並んでその前にすこしばかりの空地があって、その横のほうに女郎花おみなえしなど咲いていることもあろう。頭の上の梢こずえで小鳥が鳴いていたら君の幸福である。すぐ引きかえして左の路を進んでみたまえ。たちまち林が尽きて君の前に見わたしの広い野が開ける。足元からすこしだらだら下がりになり萱かやが一面に生え、尾花の末が日に光っている、萱原の先きが畑で、畑の先に背の低い林が一叢むら繁り、その林の上に遠い杉の小杜こもりが見え、地平線の上に淡々あわあわしい雲が集まっていて雲の色にまがいそうな連山がその間にすこしずつ見える。十月小春の日の光のどかに照り、小気味よい風がそよそよと吹く。もし萱原のほうへ下おりてゆくと、今まで見えた広い景色がことごとく隠れてしまって、小さな谷の底に出るだろう。思いがけなく細長い池が萱原と林との間に隠れていたのを発見する。水は清く澄んで、大空を横ぎる白雲の断片を鮮かに映している。水のほとりには枯蘆かれあしがすこしばかり生えている。この池のほとりの径みちをしばらくゆくとまた二つに分かれる。右にゆけば林、左にゆけば坂。君はかならず坂をのぼるだろう。とかく武蔵野を散歩するのは高い処高い処と撰びたくなるのはなんとかして広い眺望を求むるからで、それでその望みは容易に達せられない。見下ろすような眺望はけっしてできない。それは初めからあきらめたがいい。
 もし君、何かの必要で道を尋ねたく思わば、畑の真中にいる農夫にききたまえ。農夫が四十以上の人であったら、大声をあげて尋ねてみたまえ、驚いてこちらを向き、大声で教えてくれるだろう。もし少女おとめであったら近づいて小声でききたまえ。もし若者であったら、帽を取って慇懃いんぎんに問いたまえ。鷹揚おうように教えてくれるだろう。怒ってはならない、これが東京近在の若者の癖くせであるから。
 教えられた道をゆくと、道がまた二つに分かれる。教えてくれたほうの道はあまりに小さくてすこし変だと思ってもそのとおりにゆきたまえ、突然農家の庭先に出るだろう。はたして変だと驚いてはいけぬ。その時農家で尋ねてみたまえ、門を出るとすぐ往来ですよと、すげなく答えるだろう。農家の門を外に出てみるとはたして見覚えある往来、なるほどこれが近路ちかみちだなと君は思わず微笑をもらす、その時初めて教えてくれた道のありがたさが解わかるだろう。
 真直まっすぐな路で両側とも十分に黄葉した林が四五丁も続く処に出ることがある。この路を独り静かに歩むことのどんなに楽しかろう。右側の林の頂いただきは夕照鮮あざやかにかがやいている。おりおり落葉の音が聞こえるばかり、あたりはしんとしていかにも淋しい。前にも後ろにも人影見えず、誰にも遇あわず。もしそれが木葉落ちつくしたころならば、路は落葉に埋れて、一足ごとにがさがさと音がする、林は奥まで見すかされ、梢の先は針のごとく細く蒼空あおぞらを指している。なおさら人に遇わない。いよいよ淋しい。落葉をふむ自分の足音ばかり高く、時に一羽の山鳩あわただしく飛び去る羽音に驚かされるばかり。
 同じ路を引きかえして帰るは愚ぐである。迷ったところが今の武蔵野にすぎない、まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはりおよその方角をきめて、べつな路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうることがある。日は富士の背に落ちんとしていまだまったく落ちず、富士の中腹に群むらがる雲は黄金色に染まって、見るがうちにさまざまの形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖くさりのような雪がしだいに遠く北に走って、終は暗憺あんたんたる雲のうちに没してしまう。
 日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身に沁しむ、その時は路をいそぎたまえ、顧みて思わず新月が枯林の梢の横に寒い光を放っているのを見る。風が今にも梢から月を吹き落としそうである。突然また野に出る。君はその時、  
山は暮れ野は黄昏たそがれの薄すすきかな
の名句を思いだすだろう。

     六

 今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居ぐうきょを出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直まっすぐに四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋かけぢゃやがある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。
 自分は友と顔見あわせて笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」といった。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなにおもしろいかを婆さんの耳にも解るように話してみたがむだであった。東京の人はのんきだという一語で消されてしまった。自分らは汗をふきふき、婆さんが剥むいてくれる甜瓜まくわうりを喰い、茶屋の横を流れる幅一尺ばかりの小さな溝で顔を洗いなどして、そこを立ち出でた。この溝の水はたぶん、小金井の水道から引いたものらしく、よく澄んでいて、青草の間を、さも心地よさそうに流れて、おりおりこぼこぼと鳴っては小鳥が来て翼をひたし、喉のどを湿うるおすのを待っているらしい。しかし婆さんは何とも思わないでこの水で朝夕、鍋釜なべかまを洗うようであった。
 茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上のほうへとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。なるほど小金井は桜の名所、それで夏の盛りにその堤をのこのこ歩くもよそ目には愚おろかにみえるだろう、しかしそれはいまだ今の武蔵野の夏の日の光を知らぬ人の話である。
 空は蒸暑むしあつい雲が湧わきいでて、雲の奥に雲が隠れ、雲と雲との間の底に蒼空が現われ、雲の蒼空に接する処は白銀の色とも雪の色とも譬たとえがたき純白な透明な、それで何となく穏やかな淡々あわあわしい色を帯びている、そこで蒼空が一段と奥深く青々と見える。ただこれぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁にごった色の霞かすみのようなものが、雲と雲との間をかき乱して、すべての空の模様を動揺、参差しんし、任放、錯雑のありさまとなし、雲を劈つんざく光線と雲より放つ陰翳とが彼方此方に交叉して、不羈奔逸の気がいずこともなく空中に微動している。林という林、梢という梢、草葉の末に至るまでが、光と熱とに溶けて、まどろんで、怠けて、うつらうつらとして酔っている。林の一角、直線に断たれてその間から広い野が見える、野良のら一面、糸遊いとゆう上騰じょうとうして永くは見つめていられない。
 自分らは汗をふきながら、大空を仰いだり、林の奥をのぞいたり、天ぎわの空、林に接するあたりを眺めたりして堤の上を喘あえぎ喘ぎ辿たどってゆく。苦しいか? どうして! 身うちには健康がみちあふれている。
 長堤三里の間、ほとんど人影を見ない。農家の庭先、あるいは藪やぶの間から突然、犬が現われて、自分らを怪しそうに見て、そしてあくびをして隠れてしまう。林のかなたでは高く羽ばたきをして雄鶏おんどりが時をつくる、それが米倉の壁や杉の森や林や藪に籠こもって、ほがらかに聞こえる。堤の上にも家鶏にわとりの群が幾組となく桜の陰などに遊んでいる。水上を遠く眺めると、一直線に流れてくる水道の末は銀粉を撒まいたような一種の陰影のうちに消え、間近くなるにつれてぎらぎら輝いて矢のごとく走ってくる。自分たちはある橋の上に立って、流れの上と流れのすそと見比べていた。光線の具合で流れの趣が絶えず変化している。水上が突然薄暗くなるかとみると、雲の影が流れとともに、瞬またたく間に走ってきて自分たちの上まで来て、ふと止まって、きゅうに横にそれてしまうことがある。しばらくすると水上がまばゆく煌かがやいてきて、両側の林、堤上の桜、あたかも雨後の春草のように鮮かに緑の光を放ってくる。橋の下では何ともいいようのない優しい水音がする。これは水が両岸に激して発するのでもなく、また浅瀬のような音でもない。たっぷりと水量みずかさがあって、それで粘土質のほとんど壁を塗ったような深い溝を流れるので、水と水とがもつれてからまって、揉もみあって、みずから音を発するのである。何たる人なつかしい音だろう!
“――Let us match
This water's pleasant tune
With some old Border song, or catch,
That suits a summer's noon.”
の句も思いだされて、七十二歳の翁と少年とが、そこら桜の木蔭にでも坐っていないだろうかと見廻わしたくなる。自分はこの流れの両側に散点する農家の者を幸福しやわせの人々と思った。むろん、この堤の上を麦藁帽子むぎわらぼうしとステッキ一本で散歩する自分たちをも。

     七

 自分といっしょに小金井の堤を散歩した朋友は、今は判官になって地方に行っているが、自分の前号の文を読んで次のごとくに書いて送ってきた。自分は便利のためにこれをここに引用する必要を感ずる――武蔵野は俗にいう関かん八州の平野でもない。また道灌どうかんが傘かさの代りに山吹やまぶきの花を貰ったという歴史的の原でもない。僕は自分で限界を定めた一種の武蔵野を有している。その限界はあたかも国境または村境が山や河や、あるいは古跡や、いろいろのもので、定めらるるようにおのずから定められたもので、その定めは次のいろいろの考えから来る。
 僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかしこれはむろん省はぶかなくてはならぬ、なぜならば我々は農商務省の官衙かんがが巍峨ぎがとして聳そびえていたり、鉄管事件てっかんじけんの裁判があったりする八百八街によって昔の面影を想像することができない。それに僕が近ごろ知合いになったドイツ婦人の評に、東京は「新しい都」ということがあって、今日の光景ではたとえ徳川の江戸であったにしろ、この評語を適当と考えられる筋もある。このようなわけで東京はかならず武蔵野から抹殺まっさつせねばならぬ。
 しかしその市の尽つくる処、すなわち町外はずれはかならず抹殺してはならぬ。僕が考えには武蔵野の詩趣を描くにはかならずこの町外はずれを一の題目だいもくとせねばならぬと思う。たとえば君が住まわれた渋谷の道玄坂どうげんざかの近傍、目黒の行人坂ぎょうにんざか、また君と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神きしもじんあたりの町、新宿、白金……
 また武蔵野の味あじを知るにはその野から富士山、秩父山脈国府台こうのだい等を眺めた考えのみでなく、またその中央に包つつまれている首府東京をふり顧かえった考えで眺めねばならぬ。そこで三里五里の外に出で平原を描くことの必要がある。君の一篇にも生活と自然とが密接しているということがあり、また時々いろいろなものに出あうおもしろ味が描いてあるが、いかにもさようだ。僕はかつてこういうことがある、家弟をつれて多摩川のほうへ遠足したときに、一二里行き、また半里行きて家並やなみがあり、また家並に離れ、また家並に出て、人や動物に接し、また草木ばかりになる、この変化のあるのでところどころに生活を点綴てんてつしている趣味のおもしろいことを感じて話したことがあった。この趣味を描くために武蔵野に散在せる駅、駅といかぬまでも家並、すなわち製図家の熟語でいう聯檐家屋れんたんかおくを描写するの必要がある。
 また多摩川はどうしても武蔵野の範囲に入れなければならぬ。六つ玉川などと我々の先祖が名づけたことがあるが武蔵の多摩川のような川が、ほかにどこにあるか。その川が平らな田と低い林とに連接する処の趣味は、あだかも首府が郊外と連接する処の趣味とともに無限の意義がある。
 また東のほうの平面を考えられよ。これはあまりに開けて水田が多くて地平線がすこし低いゆえ、除外せられそうなれどやはり武蔵野に相違ない。亀井戸かめいどの金糸堀きんしぼりのあたりから木下川辺きねがわへんへかけて、水田と立木と茅屋ぼうおくとが趣をなしているぐあいは武蔵野の一領分いちりょうぶんである。ことに富士でわかる。富士を高く見せてあだかも我々が逗子ずしの「あぶずり」で眺むるように見せるのはこの辺にかぎる。また筑波つくばでわかる。筑波の影が低く遥はるかなるを見ると我々は関かん八州の一隅に武蔵野が呼吸している意味を感ずる。
 しかし東京の南北にかけては武蔵野の領分がはなはだせまい。ほとんどないといってもよい。これは地勢ちせいのしからしむるところで、かつ鉄道が通じているので、すなわち「東京」がこの線路によって武蔵野を貫いて直接に他の範囲と連接しているからである。僕はどうもそう感じる。
 そこで僕は武蔵野はまず雑司谷ぞうしがやから起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円まるく甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。そして丸子まるこから下目黒しもめぐろに返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。
 東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。この範囲は異論があれば取除いてもよい。しかし一種の趣味があって武蔵野に相違ないことは前に申したとおりである――

     八

 自分は以上の所説にすこしの異存もない。ことに東京市の町外まちはずれを題目とせよとの注意はすこぶる同意であって、自分もかねて思いついていたことである。町外はずれを「武蔵野」の一部に入いれるといえば、すこしおかしく聞こえるが、じつは不思議はないので、海を描くに波打ちぎわを描くも同じことである。しかし自分はこれを後廻わしにして、小金井堤上の散歩に引きつづき、まず今の武蔵野の水流を説くことにした。
 第一は多摩川、第二は隅田川、むろんこの二流のことは十分に書いてみたいが、さてこれも後廻わしにして、さらに武蔵野を流るる水流を求めてみたい。
 小金井の流れのごとき、その一である。この流れは東京近郊に及んでは千駄ヶ谷、代々木、角筈つのはずなどの諸村の間を流れて新宿に入り四谷上水となる。また井頭池いのかしらいけ善福池などより流れ出でて神田上水かんだじょうすいとなるもの。目黒辺を流れて品海ひんかいに入るもの。渋谷辺を流れて金杉かなすぎに出ずるもの。その他名も知れぬ細流小溝さいりゅうしょうきょに至るまで、もしこれをよそで見るならば格別の妙もなけれど、これが今の武蔵野の平地高台の嫌いなく、林をくぐり、野を横切り、隠かくれつ現われつして、しかも曲まがりくねって(小金井は取除け)流るる趣おもむきは春夏秋冬に通じて吾らの心を惹ひくに足るものがある。自分はもと山多き地方に生長せいちょうしたので、河といえばずいぶん大きな河でもその水は透明であるのを見慣れたせいか、初めは武蔵野の流れ、多摩川を除のぞいては、ことごとく濁っているのではなはだ不快な感を惹ひいたものであるが、だんだん慣れてみると、やはりこのすこし濁った流れが平原の景色に適かなってみえるように思われてきた。
 自分が一度、今より四五年前の夏の夜の事であった、かの友と相携たずさえて近郊を散歩したことを憶えている。神田上水の上流の橋の一つを、夜の八時ごろ通りかかった。この夜は月冴さえて風清く、野も林も白紗はくしゃにつつまれしようにて、何ともいいがたき良夜りょうやであった。かの橋の上には村のもの四五人集まっていて、欄らんに倚よって何事をか語り何事をか笑い、何事をか歌っていた。その中に一人の老翁ろうおうがまざっていて、しきりに若い者の話や歌をまぜッかえしていた。月はさやかに照り、これらの光景を朦朧もうろうたる楕円形だえんけいのうちに描きだして、田園詩の一節のように浮かべている。自分たちもこの画中の人に加わって欄に倚って月を眺めていると、月は緩ゆるやかに流るる水面に澄んで映っている。羽虫はむしが水を摶うつごとに細紋起きてしばらく月の面おもに小皺こじわがよるばかり。流れは林の間をくねって出てきたり、また林の間に半円を描いて隠れてしまう。林の梢に砕くだけた月の光が薄暗い水に落ちてきらめいて見える。水蒸気は流れの上、四五尺の処をかすめている。
 大根の時節に、近郊きんごうを散歩すると、これらの細流のほとり、いたるところで、農夫が大根の土を洗っているのを見る。

     九

 かならずしも道玄坂どうげんざかといわず、また白金しろがねといわず、つまり東京市街の一端、あるいは甲州街道となり、あるいは青梅道おうめみちとなり、あるいは中原道なかはらみちとなり、あるいは世田ヶ谷街道となりて、郊外の林地りんち田圃でんぽに突入する処の、市街ともつかず宿駅しゅくえきともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈ていしおる場処を描写することが、すこぶる自分の詩興を喚よび起こすも妙ではないか。なぜかような場処が我らの感を惹ひくだらうか[#「だらうか」はママ]。自分は一言にして答えることができる。すなわちこのような町外まちはずれの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えていえば、田舎いなかの人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹ほうふくするような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点とくてんをいえば、大都会の生活の名残なごりと田舎の生活の余波よはとがここで落ちあって、緩ゆるやかにうずを巻いているようにも思われる。
 見たまえ、そこに片眼の犬が蹲うずくまっている。この犬の名の通っているかぎりがすなわちこの町外まちはずれの領分である。
 見たまえ、そこに小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分からぬ声を振立ててわめく女の影法師が障子しょうじに映っている。外は夕闇がこめて、煙の臭においとも土の臭いともわかちがたき香りが淀よどんでいる。大八車が二台三台と続いて通る、その空車からぐるまの轍わだちの響が喧やかましく起こりては絶え、絶えては起こりしている。
 見たまえ、鍛冶工かじやの前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。鉄蹄てっていの真赤になったのが鉄砧かなしきの上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事をか笑った。月が家並やなみの後ろの高い樫かしの梢まで昇ると、向う片側の家根が白しろんできた。
 かんてらから黒い油煙ゆえんが立っている、その間を村の者町の者十数人駈け廻わってわめいている。いろいろの野菜が彼方此方に積んで並べてある。これが小さな野菜市、小さな糶売場せりばである。
 日が暮れるとすぐ寝てしまう家うちがあるかと思うと夜よの二時ごろまで店の障子に火影ほかげを映している家がある。理髪所とこやの裏が百姓家やで、牛のうなる声が往来まで聞こえる、酒屋の隣家となりが納豆売なっとううりの老爺の住家で、毎朝早く納豆なっとう納豆と嗄声しわがれごえで呼んで都のほうへ向かって出かける。夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時となると、蝉せみが往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃すなぼこりが馬の蹄ひづめ、車の轍わだちに煽あおられて虚空こくうに舞い上がる。蝿はえの群が往来を横ぎって家から家、馬から馬へ飛んであるく。
 それでも十二時のどんがかすかに聞こえて、どことなく都の空のかなたで汽笛の響がする。


「教えを受ける人だけが自分を開放する義務を有っていると思うのは間違っています。教える人も己れを貴方の前に打ち明けるのです。夏目漱石」

「懐疑主義者もひとつの信念の上に、疑うことを疑はぬという信念の上に立つ者である。芥川竜之介」

「金は食っていけさえすればいい程度にとり、喜びを自分の仕事の中に求めるようにすべきだ。志賀直哉」

「言・格言
徳川家康の名言・格言


徳川家康の名言(2)
天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず。

- 徳川家康 -

重荷が人をつくるのじゃぞ。
身軽足軽では人は出来ぬ。

- 徳川家康 -

一手の大将たる者が、味方の諸人の「ぼんのくぼ(首の後ろのくぼみ)」を見て、敵などに勝てるものではない。

- 徳川家康 -

家臣を扱うには禄で縛りつけてはならず、機嫌を取ってもならず、遠ざけてはならず、恐れさせてはならず、油断させてはならないものよ。

- 徳川家康 -

家臣を率いる要点は惚れられることよ。
これを別の言葉で心服とも言うが、大将は家臣から心服されねばならないのだ。

- 徳川家康 -

我がために悪しきことは、ひとのためにも悪しきぞ。

- 徳川家康 -

人を知らんと欲せば、我が心の正直を基として、人の心底を能く察すべし。
言と形とに迷ふべからず。徳川家康」

「「事機」が有利に展開しているのに、それを生かせないのは、智者とはいえない。「勢機」が有利に展開しているのに、それに乗ずることができないのは、賢者とはいえない。「情機」が有利に展開しているのに、ぐずぐずためらっているのは、勇者とはいえない。軍師諸葛亮孔明」

「多一事不如少一事。余計なことはせずに、一点を目指した方が良いという意味。China故事から」




「by europe123 」
https://youtu.be/GbeCEPdAknI

8月1日USAの非科学的思考及び居住経験者の傾向その他ジェミニ広告・高度成長に関係する考え方その他。

8月1日USAの非科学的思考及び居住経験者の傾向その他ジェミニ広告・高度成長に関係する考え方その他。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted