『テート美術館展』



 国立新美術館で開催中の『テート美術館展』が掲げる「光」ほど、美術史を俯瞰できるテーマはないのだろう。
 描かれる対象としての光という点で通覧するだけでもあの有名な「光あれ」という創造の一場面を描くものや、かの救世主が誕生する奇跡を描く宗教画の表現があり、あるいは画家がその目を向けた古典や歴史、さらには市井の人々の姿を劇的に演出するものとして光と影を効果的に用いた名画の数々が顔を覗かせてくる。
 または風景に絞って眺めてみても、光景の美を写実的に捉えようとして視覚の仕組みに直に働きかける技法を生み出した印象派の絵画表現があり、あるいは風景画という一ジャンルの確立に多大な貢献を果たしたターナーやコンスタブルの作品表現が雲を始めとする自然を、光の動きと共に捉えようと究めた証としていくらでも目にすることができる。かと思えば北欧のフェルメールと評されるハマスホイの筆に誘われた光が、しかし建物の外壁に阻まれて静かな陰りに沈む室内の、溺れてしまいそうなぐらいに遅々とした時間の表れに様変わりする場面に出くわして、大いなる戸惑いと不思議な感傷に浸る心地よさを覚えてしまい、そこから離れられなくなる。
 このように少し考えるだけでも絵画表現の歴史に深く関わっているといえる光が、今度は学究的な知識経験に基づく画家の興味の対象とされた時、光の波長として人の目に届く色彩の数々にも関心は及んでその軌跡を追うのに適した写真や映像といった表現手段が積極的に利用され、光と色の実際に迫る作品表現への意欲がどんどんと高まっていく。モホイ=ナジ・ラースローの「光の戯れ 黒、白、灰色」、ヨゼフ・アルバースの「正方形讃歌のための習作」の他にもブリジット・ライリーの「ナタラージャ」が捕まえる感覚の真実は、色が塗られた菱形の図形を一枚の画面上でリズミカルに並べただけで鑑賞者がその一枚に明暗を見出してしまう錯覚を伝えるし、あるいは482本の糸によりぶら下げられた色付きの印刷紙が床に落とす影の形に「動き」という認識を覚えてしまうペー・ホワイトの「ぶら下がったかけら」は、解釈塗れの世界の一面を知る面白さとそこから抜け出ることの難しさの両方を教える底意地の悪い先生として沈黙を保ち続ける。
 これらの試みによって明らかにされ又は提示された人の認識に関する事実と疑義が、現代アートという形で結実したという流れを展示会場の最後を埋め尽くす数々の作品群から見て取れる『テート美術館展』は、だから創造的な芸術の歩みを体感するのに適した展示会だと評価できると考える。



 見え易い仕掛けがそのままダイレクトに表現主題に及ぶ印象を現代アートに覚える筆者は、内なるイメージと遊べる感覚の乏しさに不満を覚えることが少なくない。また作品に施された仕掛けが表現しようとするものと、現に表現されるものとの間隙を埋める為に言葉が多用されるのにも戸惑いを覚えることがしばしばである。そんな現代アートに対する苦手意識を緩和できる機会を本展で得られたことが、筆者にとって僥倖であった。
 例えば本邦で初めて展示されるオラファー・エリアソンの「星くずの素粒子」はスチール製の枠の中に反射ガラスを嵌め込んだ装置が天井から吊るされた状態で回転し、スポットライトから照射される光を爆発したかの様な幾何学模様として展示会場の上下左右に照り返し続けるインスタレーションであるが、その光量と範囲が半端じゃなく、加えて作品表現としての美しさも備わっている。そのために他の作品を鑑賞している間にも目に飛び込んでくる存在感で、理屈っぽさなど微塵も窺えない。
 確かに時間をかけて鑑賞すれば「星くずの素粒子」の装置としての大掛かりな仕掛けが担保する美の儚さと危うさに気付けて、ちっぽけな身体がきゅっと引き締まる思いを抱き、消えゆくことに対する恐れへの関心を持たざるを得ないメッセージ性を見出すことはできる。しかしながらそれも圧倒的なイメージを先行させた表現ぶりがなければ伝わることがないもので、作品という形が必要とされた何らかの問題提起という強い結び付きがかつて現代アート一般に対して覚えたことのない好印象を与え、とても嬉しかった(環境という与件を重視する作家としてオラファー・エリアソンが先ずは訴えかけてくる独特のセンスオブワンダーは「黄色vs紫」というインスタレーションでも味わえる。「星くずの素粒子」と違って、こちらは決められた時間に動作する作品となっているので、鑑賞できる直近の時間を確認してから別の作品を見て回ることをお勧めする)。



 万人に通用するイメージ表現への憧れを筆者は素直に持つ。筆者が趣味で書いたりする詩的表現は日常的でない言葉の用い方をして無意味の虚に迫りゆくイメージ表現を行い、また音としても字面としてもリズムを意識した構成を徹底して行い、読み直して構成し直してを何度も繰り返してやっとこさ具体的な一人に通じる(かもしれない)表現の可能性を担保できる。それぐらい、詩的表現は不特定又は多数人に向けた商品性を得難いと実感する。だから憧れる。伝達力に優れた表現手法に。
 ジュリアン・オピーの連作の一部である「雨、足跡、サイレン」、「トラック、鳥、風」そして「声、足跡、電話」は作者自身が撮影した写真をデジタル情報として加工し、再構成した作品である。ピンぼけに似たイメージの遡行を試みるような作品表現で成し遂げられているのは、種々様々な内容を有している(はずの)鑑賞者の評価基準が絶妙にくすぐられるポイントに重なる原風景(らしきもの)であり、その人為的な刺激が不特定又は多数人に心地いいものとして受け入れられるだろうと確信できる情報としての親しみ易さである。
 光をキャッチし、その全体像を一挙に把握できる視覚の特性を生かしたその表現ぶりを言語を用いる作品表現が真似できない。ここで生じる遅れは、一方で時間を味方につけた文学の味わいとして肯定的に評価できるが、しかしながら他方で情報へアクセスする動機ないしモチベーションの差を受け手に生むであろうことを筆者は否定しない。見てもらわなければ意味がないという点を重視すれば、分かり易さは間違いなく他の作品表現を出し抜く為の武器になる。ジュリアン・オピーの作品表現にはこの武器が備わっているし、にも関わらずイメージ表現として痩せ細ったりしないという点で頭抜けている。カリカチュアの様な誇張とは無縁の、モチーフの特性の保持の仕方がアカデミックな絵画表現に背を向けている様で実は通じているのか?などの素人な夢想を喚起して止まない点でもその作風は面白い。自然風景も建物内の景色も等価に扱いながら反POPな精神性をそこに疑って見れる、そういう仕掛け方に筆者はまた現代アートに対する構えを解けた。



 極めて個人的な感想として、ウィリアム・ブレイクの作品表現を目にする事ができた喜びも伝えたい。奇想の表現者として分類不可能と評されるそのイメージは、けれど理性の命綱を決して手放さず、非合理な羽ばたきにも制限を設けていなかった。大胆な構図で画面を分つ「善の天使と悪の天使」の異形の美しさを、その現れとしてここに記す。



 入場口での長蛇の列も見られた『テート美術館展』。興味がある方は是非、会場に足を運んで頂きたい。

『テート美術館展』

『テート美術館展』

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-07-26

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