うらやむ
今日もまた、うらやむ
「隣の芝は青い」とはよく言ったものだ。
自分に持ってない物を持っている人を見ると、それを持っていることを羨ましく思う。
その、持っている人が友人や身近な人だと、余計に思ってしまう。
持っているもの、と言ってもそれが何かしらの技術であったり、考えであったり、容姿のことであったりと、その「もの」は幅広く存在する。
友人はギターが弾ける。羨ましい。
友人は自分の考えを、人としての軸を持っている。羨ましい。
自分は何も持っていない。ギターも弾けない。考えも別に持ってはいない。
弾けるようになるまで練習すれば良い、考えを持ち、作れば良いと言われればそれで終わってしまう事だが、それはその人の後をついて行っているようで何か、腑に落ちない。
ここである疑念を持つ。
「羨ましい」ではなく、「異なりたい」ではないか?
その「もの」を持っていることで、普通の人とは、ほんの少し異なった人になっていることに対して「羨ましい」が生まれているのではないか。
つまり、「羨ましい」から始まるのではなく、「異なりたい」という思いから、始まっているのだ。
先程文中に出た、「普通」。
これはどのようなものを指すのかを、一度考えたことがある。
全ての値が平均なら普通か?
それとも、「一般論」というように言われる「一般」(広く認められる)が普通か。
考えに考え貫き、出た結論は、
「この世の全ての人が共通して持っている考えや、物だけで構築されたもの」
だ。
例えば、リンゴという単語を聞き何を思い浮かぶか。
赤い、丸い、甘い、木からなる、この辺りだろうか。
この中に全人類が共通し、思い浮かべるものはあるだろうか。
リンゴは全てが全て赤くない、丸くない、甘くない。
強いて言うなら、木からなる、という事象であろうか。
しかしリンゴをそもそも知らない者もいるだろう。
これは、「全人類」という物に反してしまう。
このことから、普通のリンゴ、というものが存在しないことがわかる。
リンゴでさえ、普通というものが存在しないのに、人間で、普通と言うものがあるわけないのである。
しかし、我々は人を見る時、その人が普通かを、まず見る。その普通とは、見ている人の今までの経験などを踏まえ、物差しで測り、出た、相手に合う普通である。
つまり、「普通とは異なっている」というものに当てはまる相手というのは、自分の今までの人生のうちにあったことの無い特殊なものを持っている人ということになる。
そして、あるひとりの人が異なっていると考える人が沢山いると、それが有名になり、テレビに出るようになり、より一層普通では無い人という考えを持つ人が増える。
少しの神格化が起きてしまう。
有名な人は普通でないから、有名なのである。
そしてその、普通でないに当てはまる友人は、有名人になるかもしれぬ存在になる。
有名になりたい、自分は凡人である、と考える人にとって、その友人は妬ましい存在であり、縋りたいという気持ちも生まれる。
異なることに憧れる。
異なれることが羨ましい。
人生を楽しんでいて羨ましい。
異なっていることにより悩んでいる人、勿体ない。
意外と、羨ましがられる存在であるかもしれぬ。
普通でないことに誇りを持つことができる人が増えたなら、この世界はもっと良くなる。
その分、芝は青くなる。
私の芝は廃れるだろうが。
うらやむ