長く続いた新聞の歴史に終焉及び公共放送のみにあらず民放局も違法コマーシャルだらけで視聴率低減し番組作
且つての新聞は情報源だったが、現代では何処のドアポストを見ても新聞紙の姿が見られなくなった。
地方は強引な勧誘は見られず、黙っていても半数の家庭では地元紙をとっていたが、東京では朝日がTOPで社会派新聞と言われた。
続く読売毎日等での勧誘員の競争は熾烈を極め、犯罪事件も発生した。日経は実業界エリートの新聞的な見方もされ、新聞を二種類とる者が電車の中で立ち読みをしている姿も見られた。
其の日経も今では部数が極端に減ったが、新聞の人気が亡くなった一つの理由としては、TVの普及と世代が文字に抵抗感を感じ、世代のlevelが漫画・animation主流になったからだろう。
そういう意味では現代は三面記事の世になったという事と言える。だが、TV局も良い番組が見られなくなり、この記事でも「夜のヒットスタジオ」を取りあげたところアクセスが集中した。
昭和の番組はやはり世代を超え好まれる。staffのトークも巧妙だが、豪華なguestと歌唱力の違いも其の理由であり、また、今風世代も見慣れないものに関心を持ったと言えそうだ。
其の中には海外での放送や、海外guestの姿も見られ豪華とも言えるが、当時の世代にはそれがTV局として当然だと思われていた。
同じ人類にしてもこうまで知的レベルの低下が見られるとは、当時は予想すらできなかったが、一億総白痴化の嘆きが聞かれたのも昭和の時代で、何をとっても高度成長が終わりを告げた事を意味していると言えそうだ。
72年から始まった好景気の終焉と少子化の始まりが、正に其のまま現在進行形であると言える。
今の政府の柱が、「少子化対策」と「何とか?」で興味が無いので忘れたが、群馬県知事だったか?投票率が2割台で与党候補者が圧勝をしたのは今はお馴染みの光景であるが、皮肉な事に政府の支持率と同じとは・・。
此れだけ国民の政治や社会への関心が無くなれば・・やはり、人類の終焉を暗示していると言える。
時間の都合上と児童の夏休みでレストランが混みあって来たので、引き揚げる事にするが、最後に一言・・。
夜のヒットスタジオの中の一幕にこんなものが見られた。
芳村真理は好感度が持てるstaffだが、他のstaffも今よりは遥かにレベルが高かったと言える。
古舘伊知郎は、プロレスのアナウンサーで喋りっぱなしの為、「五月蠅い」とこき下ろされた事もあった。
だが、昨今の国会でも話題になった放送法の問題の延長線上に、彼や久米などのキャスターの名も登場をした。
要は、社会風刺の技に長け権力に対しての観点が異なったという意味だ。ほんのさわりだけを申し上げるが・・。
古舘はstudioの多数の業界人の中で「中森明菜」に声を掛けた。その原因はguestに高中正義が呼ばれスタンバイしていたからだ。
高中が作曲をした曲を中森にpresentをしたという件に付き質問を・・。中森は勿論感謝をしているのだが、高中が一度中森に問い合わせのアクセスをしたそうだが、中森は「・・え?聞いていません・・?」。
此れを古舘がジョークを交え上手くfollow。
「・・ああ・・事務所の・・」
この部分なのだが、最近何とか事務所が何時までも取りだたされている。人類お得意の・・性・・何とかなのだが・・。
古舘は勿論jokeを交え話していたのだが、事務所と業界人との関係に古くからの軋轢があった様に聞いている。其れの極みが今になって表面化をしたようでもある・・。
映画監督で広島を主に舞台にした山口組「仁義なき戦い」で一躍映画界での地位を不動のものにした彼~だけでなく他の監督にも同じ様な事が聞かれたが~と複数の女優との関係は有名だ。
まあ、其れはプライバシーの問題であるから・・女優にとっては主役の座を確保するための一種の課程であった。
尾上雄二も法的な問題で何度か全国の広域暴力団と対峙をした事があったようだが、まだそんな時代の一コマだと言える。
随分脱線をしたが・・放送法の問題に限らず・・昭和は人類に思い切った演技をさせたと言える。
昨日だけで番組を語るが、各局で放送している・特に「韓国ドラマ」や「刑事ものにサスペンス~再放送を含む~」は実にくだらない。
どれもこれも似たようなもの・・。
先日、北海道警察の汚職をテーマにしたドラマがあったが、先ず冒頭から筋書きが丸見えなのが既にシナリオとしては落第・・其れに、最後のsceneがあまりにもお粗末過ぎ、警察トップ役も迫力の無い演技であるし・・そもそも信憑性が無さすぎ・・あっと言わせるおとしも無い・・」
今は体育時代と言えるので、文芸関係が苦手なのは分かる・・が其処までは言わなくとも・・まだましなのは「副署長~主役の父はよく知っているのだが二世にしては頑張っている方だろう~お父さんは専ら善人役に徹していたが・・昭和の初めの頃には・・女たらしの汚れ役も演じていたが其れは勿論演技の上での事~」からさらには「科捜研」・・無難なのはワンパターンだが「時代劇~桃太郎~高橋英樹主役につばめ役は、且つて市川雷蔵の映画にも出たり、最初は肉体派女優で・・台湾帰化との噂もあったが・・実際はそうではない様で・・時代物にも上手く個性を生かしていて面白い~」。
「寅さんは既に亡くなった者ばかりだが、面白いものもあり、まあ、好き好きだが・・(夕焼け小焼け~第31回毎日映画コンクール日本映画優秀賞・キネマ旬報BEST10第2位(シリーズ全作品中、最高順位)の日本画最高峰を演じている宇野重吉その他・・)(あじさいの恋で人間国宝役の陶芸家片岡仁左衛門に其の弟子の柄本明の端役演技は素晴らしい)」
科捜研は主役の女性も上手くやっているし、人類の技術力を知る上でも面白い。あの主役の女性は端正な顔立ちだが、顔の骨格がはっきり分かるのも・・頭蓋骨がそのまま窺える・・まあ、それくらい整っている顔だとも言える。
今の詰まらない新聞社や放送局は事なかれ主義に徹しているのだろう。
私達は幾らでも、良い番組・ドラマの原作・音楽番組の企画・その他を作成できるが・・残念乍ら姿を現す訳にはいかない・・。
若し勇気があるのであれば、大衆受けする事だけを目指すのではなく、本当にリアリスティックで面白い企画を思いつく気があるのであれば・・此の国が経験をした戦争の記録を映像化したり、昭和の番組~ラジオ・TVに限らず~を思い出す事からideaを捻出する事が肝要だとも言える。
さて、時間も無くなったので、何れ又・・。
では、文豪作品から・・。
「名人伝」
中島敦
趙ちょうの邯鄲かんたんの都に住む紀昌きしょうという男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己おのれの師と頼たのむべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛ひえいに及およぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔へだてて柳葉りゅうようを射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌は遥々はるばる飛衛をたずねてその門に入った。
飛衛は新入の門人に、まず瞬またたきせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織台はたおりだいの下に潜もぐり込こんで、そこに仰向あおむけにひっくり返った。眼めとすれすれに機躡まねきが忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見詰みつめていようという工夫くふうである。理由を知らない妻は大いに驚おどろいた。第一、妙みょうな姿勢を妙な角度から良人おっとに覗のぞかれては困るという。厭いやがる妻を紀昌は叱しかりつけて、無理に機を織り続けさせた。来る日も来る日も彼かれはこの可笑おかしな恰好かっこうで、瞬きせざる修練を重ねる。二年の後のちには、遽あわただしく往返する牽挺まねきが睫毛まつげを掠かすめても、絶えて瞬くことがなくなった。彼はようやく機の下から匍出はいだす。もはや、鋭利えいりな錐きりの先をもって瞼まぶたを突つかれても、まばたきをせぬまでになっていた。不意に火ひの粉こが目に飛入ろうとも、目の前に突然とつぜん灰神楽はいかぐらが立とうとも、彼は決して目をパチつかせない。彼の瞼はもはやそれを閉じるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡じゅくすいしている時でも、紀昌の目はカッと大きく見開かれたままである。ついに、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹ぴきの蜘蛛くもが巣すをかけるに及んで、彼はようやく自信を得て、師の飛衛にこれを告げた。
それを聞いて飛衛がいう。瞬かざるのみではまだ射しゃを授けるに足りぬ。次には、視みることを学べ。視ることに熟して、さて、小を視ること大のごとく、微びを見ること著ちょのごとくなったならば、来きたって我に告げるがよいと。
紀昌は再び家に戻もどり、肌着はだぎの縫目ぬいめから虱しらみを一匹探し出して、これを己おのが髪かみの毛をもって繋つないだ。そうして、それを南向きの窓に懸かけ、終日睨にらみ暮くらすことにした。毎日毎日彼は窓にぶら下った虱を見詰める。初め、もちろんそれは一匹の虱に過ぎない。二三日たっても、依然いぜんとして虱である。ところが、十日余り過ぎると、気のせいか、どうやらそれがほんの少しながら大きく見えて来たように思われる。三月目みつきめの終りには、明らかに蚕かいこほどの大きさに見えて来た。虱を吊つるした窓の外の風物は、次第に移り変る。煕々ききとして照っていた春の陽ひはいつか烈はげしい夏の光に変り、澄すんだ秋空を高く雁がんが渡わたって行ったかと思うと、はや、寒々とした灰色の空から霙みぞれが落ちかかる。紀昌は根気よく、毛髪もうはつの先にぶら下った有吻類ゆうふんるい・催痒性さいようせいの小節足動物を見続けた。その虱も何十匹となく取換とりかえられて行く中うちに、早くも三年の月日が流れた。ある日ふと気が付くと、窓の虱が馬のような大きさに見えていた。占しめたと、紀昌は膝ひざを打ち、表へ出る。彼は我が目を疑った。人は高塔こうとうであった。馬は山であった。豚ぶたは丘おかのごとく、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は城楼じょうろうと見える。雀躍じゃくやくして家にとって返した紀昌は、再び窓際の虱に立向い、燕角えんかくの弧ゆみに朔蓬さくほうの※(「竹かんむり/幹」、第3水準1-89-75)やがらをつがえてこれを射れば、矢は見事に虱の心の臓を貫つらぬいて、しかも虱を繋いだ毛さえ断きれぬ。
紀昌は早速さっそく師の許もとに赴おもむいてこれを報ずる。飛衛は高蹈こうとうして胸を打ち、初めて「出かしたぞ」と褒ほめた。そうして、直ちに射術の奥儀秘伝おうぎひでんを剰あますところなく紀昌に授け始めた。
目の基礎訓練に五年もかけた甲斐かいがあって紀昌の腕前うでまえの上達は、驚くほど速い。
奥儀伝授が始まってから十日の後、試みに紀昌が百歩を隔てて柳葉を射るに、既すでに百発百中である。二十日の後、いっぱいに水を湛たたえた盃さかずきを右肱ひじの上に載のせて剛弓ごうきゅうを引くに、狙ねらいに狂くるいの無いのはもとより、杯中の水も微動だにしない。一月ひとつきの後、百本の矢をもって速射を試みたところ、第一矢が的まとに中あたれば、続いて飛来った第二矢は誤たず第一矢の括やはずに中って突き刺ささり、更さらに間髪を入れず第三矢の鏃やじりが第二矢の括にガッシと喰くい込む。矢矢しし相属し、発発はつはつ相及んで、後矢の鏃は必ず前矢の括に喰入るが故に、絶えて地に墜おちることがない。瞬く中に、百本の矢は一本のごとくに相連なり、的から一直線に続いたその最後の括はなお弦げんを銜ふくむがごとくに見える。傍で見ていた師の飛衛も思わず「善し!」と言った。
二月ふたつきの後、たまたま家に帰って妻といさかいをした紀昌がこれを威おどそうとて烏号うごうの弓に※(「棊」の「木」に代えて「糸」、第3水準1-90-9)衛きえいの矢をつがえきりりと引絞ひきしぼって妻の目を射た。矢は妻の睫毛三本を射切ってかなたへ飛び去ったが、射られた本人は一向に気づかず、まばたきもしないで亭主ていしゅを罵ののしり続けた。けだし、彼の至芸による矢の速度と狙いの精妙さとは、実にこの域にまで達していたのである。
もはや師から学び取るべき何ものも無くなった紀昌は、ある日、ふと良からぬ考えを起した。
彼がその時独りつくづくと考えるには、今や弓をもって己に敵すべき者は、師の飛衛をおいて外ほかに無い。天下第一の名人となるためには、どうあっても飛衛を除かねばならぬと。秘ひそかにその機会を窺うかがっている中に、一日たまたま郊野こうやにおいて、向うからただ一人歩み来る飛衛に出遇であった。とっさに意を決した紀昌が矢を取って狙いをつければ、その気配を察して飛衛もまた弓を執とって相応ずる。二人互たがいに射れば、矢はその度に中道にして相当り、共に地に墜ちた。地に落ちた矢が軽塵けいじんをも揚あげなかったのは、両人の技がいずれも神しんに入っていたからであろう。さて、飛衛の矢が尽つきた時、紀昌の方はなお一矢を余していた。得たりと勢込んで紀昌がその矢を放てば、飛衛はとっさに、傍なる野茨のいばらの枝えだを折り取り、その棘とげの先端せんたんをもってハッシと鏃を叩たたき落した。ついに非望の遂とげられないことを悟さとった紀昌の心に、成功したならば決して生じなかったに違ちがいない道義的慚愧ざんきの念が、この時忽焉こつえんとして湧起わきおこった。飛衛の方では、また、危機を脱だっし得た安堵あんどと己が伎倆ぎりょうについての満足とが、敵に対する憎にくしみをすっかり忘れさせた。二人は互いに駈寄かけよると、野原の真中まんなかに相抱あいいだいて、しばし美しい師弟愛の涙なみだにかきくれた。(こうした事を今日の道義観をもって見るのは当らない。美食家の斉せいの桓公かんこうが己のいまだ味わったことのない珍味ちんみを求めた時、厨宰ちゅうさいの易牙えきがは己が息子むすこを蒸焼むしやきにしてこれをすすめた。十六歳さいの少年、秦しんの始皇帝は父が死んだその晩に、父の愛妾あいしょうを三度襲おそうた。すべてそのような時代の話である。)
涙にくれて相擁あいようしながらも、再び弟子でしがかかる企たくらみを抱くようなことがあっては甚はなはだ危いと思った飛衛は、紀昌に新たな目標を与あたえてその気を転ずるにしくはないと考えた。彼はこの危険な弟子に向って言った。もはや、伝うべきほどのことはことごとく伝えた。※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45)なんじがもしこれ以上この道の蘊奥うんのうを極めたいと望むならば、ゆいて西の方かた大行たいこうの嶮けんに攀よじ、霍山かくざんの頂を極めよ。そこには甘蠅かんよう老師とて古今ここんを曠むなしゅうする斯道しどうの大家がおられるはず。老師の技に比べれば、我々の射のごときはほとんど児戯じぎに類する。※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45)の師と頼むべきは、今は甘蠅師の外にあるまいと。
紀昌はすぐに西に向って旅立つ。その人の前に出ては我々の技のごとき児戯にひとしいと言った師の言葉が、彼の自尊心にこたえた。もしそれが本当だとすれば、天下第一を目指す彼の望も、まだまだ前途ぜんと程遠ほどとおい訳である。己が業わざが児戯に類するかどうか、とにもかくにも早くその人に会って腕を比べたいとあせりつつ、彼はひたすらに道を急ぐ。足裏を破り脛すねを傷つけ、危巌きがんを攀じ桟道さんどうを渡って、一月の後に彼はようやく目指す山顛さんてんに辿たどりつく。
気負い立つ紀昌を迎むかえたのは、羊のような柔和にゅうわな目をした、しかし酷ひどくよぼよぼの爺じいさんである。年齢は百歳をも超こえていよう。腰こしの曲っているせいもあって、白髯はくぜんは歩く時も地に曳ひきずっている。
相手が聾ろうかも知れぬと、大声に遽だしく紀昌は来意を告げる。己が技の程を見てもらいたいむねを述べると、あせり立った彼は相手の返辞をも待たず、いきなり背に負うた楊幹麻筋ようかんまきんの弓を外して手に執とった。そうして、石碣せきけつの矢をつがえると、折から空の高くを飛び過ぎて行く渡り鳥の群に向って狙いを定める。弦に応じて、一箭いっせんたちまち五羽わの大鳥が鮮あざやかに碧空へきくうを切って落ちて来た。
一通り出来るようじゃな、と老人が穏おだやかな微笑を含ふくんで言う。だが、それは所詮しょせん射之射しゃのしゃというもの、好漢いまだ不射之射ふしゃのしゃを知らぬと見える。
ムッとした紀昌を導いて、老隠者ろういんじゃは、そこから二百歩ばかり離はなれた絶壁ぜっぺきの上まで連れて来る。脚下きゃっかは文字通りの屏風びょうぶのごとき壁立千仭へきりつせんじん、遥か真下に糸のような細さに見える渓流けいりゅうをちょっと覗いただけでたちまち眩暈めまいを感ずるほどの高さである。その断崖だんがいから半なかば宙に乗出した危石の上につかつかと老人は駈上り、振返ふりかえって紀昌に言う。どうじゃ。この石の上で先刻の業を今一度見せてくれぬか。今更引込ひっこみもならぬ。老人と入代りに紀昌がその石を履ふんだ時、石は微かすかにグラリと揺ゆらいだ。強しいて気を励はげまして矢をつがえようとすると、ちょうど崖がけの端はしから小石が一つ転がり落ちた。その行方ゆくえを目で追うた時、覚えず紀昌は石上に伏ふした。脚あしはワナワナと顫ふるえ、汗あせは流れて踵かかとにまで至った。老人が笑いながら手を差し伸のべて彼を石から下し、自ら代ってこれに乗ると、では射というものをお目にかけようかな、と言った。まだ動悸どうきがおさまらず蒼あおざめた顔をしてはいたが、紀昌はすぐに気が付いて言った。しかし、弓はどうなさる? 弓は? 老人は素手すでだったのである。弓? と老人は笑う。弓矢の要いる中はまだ射之射じゃ。不射之射には、烏漆うしつの弓も粛慎しゅくしんの矢もいらぬ。
ちょうど彼等らの真上、空の極めて高い所を一羽の鳶とびが悠々ゆうゆうと輪を画えがいていた。その胡麻粒ごまつぶほどに小さく見える姿をしばらく見上げていた甘蠅が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月のごとくに引絞ってひょうと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石のごとくに落ちて来るではないか。
紀昌は慄然りつぜんとした。今にして始めて芸道の深淵しんえんを覗き得た心地であった。
九年の間、紀昌はこの老名人の許に留とどまった。その間いかなる修業を積んだものやらそれは誰だれにも判わからぬ。
九年たって山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変ったのに驚いた。以前の負けず嫌ぎらいな精悍せいかんな面魂つらだましいはどこかに影かげをひそめ、なんの表情も無い、木偶でくのごとく愚者ぐしゃのごとき容貌ようぼうに変っている。久しぶりに旧師の飛衛を訪ねた時、しかし、飛衛はこの顔付を一見すると感嘆かんたんして叫さけんだ。これでこそ初めて天下の名人だ。我儕われらのごとき、足下あしもとにも及ぶものでないと。
邯鄲の都は、天下一の名人となって戻って来た紀昌を迎むかえて、やがて眼前に示されるに違いないその妙技への期待に湧返った。
ところが紀昌は一向にその要望に応こたえようとしない。いや、弓さえ絶えて手に取ろうとしない。山に入る時に携たずさえて行った楊幹麻筋の弓もどこかへ棄すてて来た様子である。そのわけを訊たずねた一人に答えて、紀昌は懶ものうげに言った。至為しいは為なす無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。なるほどと、至極しごく物分ものわかりのいい邯鄲の都人士はすぐに合点がてんした。弓を執らざる弓の名人は彼等の誇ほこりとなった。紀昌が弓に触ふれなければ触れないほど、彼の無敵の評判はいよいよ喧伝けんでんされた。
様々な噂うわさが人々の口から口へと伝わる。毎夜三更さんこうを過ぎる頃ころ、紀昌の家の屋上おくじょうで何者の立てるとも知れぬ弓弦の音がする。名人の内に宿る射道の神が主人公の睡ねむっている間に体内を脱ぬけ出し、妖魔ようまを払はらうべく徹宵てっしょう守護しゅごに当っているのだという。彼の家の近くに住む一商人はある夜紀昌の家の上空で、雲に乗った紀昌が珍めずらしくも弓を手にして、古いにしえの名人・※(「羽/廾」、第3水準1-90-29)げいと養由基の二人を相手に腕比べをしているのを確かに見たと言い出した。その時三名人の放った矢はそれぞれ夜空に青白い光芒こうぼうを曳きつつ参宿さんしゅくと天狼星てんろうせいとの間に消去ったと。紀昌の家に忍しのび入ろうとしたところ、塀へいに足を掛かけた途端とたんに一道の殺気が森閑しんかんとした家の中から奔はしり出てまともに額ひたいを打ったので、覚えず外に顛落てんらくしたと白状した盗賊とうぞくもある。爾来じらい、邪心じゃしんを抱く者共は彼の住居の十町四方は避さけて廻まわり道をし、賢かしこい渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった。
雲と立罩たちこめる名声のただ中に、名人紀昌は次第に老いて行く。既に早く射を離れた彼の心は、ますます枯淡虚静こたんきょせいの域にはいって行ったようである。木偶のごとき顔は更に表情を失い、語ることも稀まれとなり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」というのが、老名人晩年の述懐じゅっかいである。
甘蠅師の許を辞してから四十年の後、紀昌は静かに、誠に煙けむりのごとく静かに世を去った。その四十年の間、彼は絶えて射を口にすることが無かった。口にさえしなかった位だから、弓矢を執っての活動などあろうはずが無い。もちろん、寓話ぐうわ作者としてはここで老名人に掉尾ちょうびの大活躍だいかつやくをさせて、名人の真に名人たるゆえんを明らかにしたいのは山々ながら、一方、また、何としても古書に記された事実を曲げる訳には行かぬ。実際、老後の彼についてはただ無為にして化したとばかりで、次のような妙な話の外には何一つ伝わっていないのだから。
その話というのは、彼の死ぬ一二年前のことらしい。ある日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行ったところ、その家で一つの器具を見た。確かに見憶みおぼえのある道具だが、どうしてもその名前が思出せぬし、その用途ようとも思い当らない。老人はその家の主人に尋たずねた。それは何と呼ぶ品物で、また何に用いるのかと。主人は、客が冗談じょうだんを言っているとのみ思って、ニヤリととぼけた笑い方をした。老紀昌は真剣しんけんになって再び尋ねる。それでも相手は曖昧あいまいな笑を浮うかべて、客の心をはかりかねた様子である。三度紀昌が真面目まじめな顔をして同じ問を繰返くりかえした時、始めて主人の顔に驚愕きょうがくの色が現れた。彼は客の眼を凝乎じっと見詰める。相手が冗談を言っているのでもなく、気が狂っているのでもなく、また自分が聞き違えをしているのでもないことを確かめると、彼はほとんど恐怖きょうふに近い狼狽ろうばいを示して、吃どもりながら叫んだ。
「ああ、夫子ふうしが、――古今無双ここんむそうの射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途みちも!」
その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠かくし、楽人は瑟しつの絃げんを断ち、工匠こうしょうは規矩きくを手にするのを恥はじたということである。
(昭和十七年十二月)
「真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。夏目漱石」
「我々の生活に必要な思想は、三千年前に尽きたかもしれない。我々は唯古い薪に、新しい炎を加えるだけであろう。芥川竜之介」
「仕事は目的である。仕事をはっきりと目的と思ってやっている男には、結果は大した問題ではない。志賀直哉」
「多勢は勢ひをたのみ、少数は一つの心に働く。徳川家康」
「治世は大徳を以ってし、小恵を以ってせず。軍師諸葛亮孔明」
「by europe123 」
https://youtu.be/eVMQH16oLQA
長く続いた新聞の歴史に終焉及び公共放送のみにあらず民放局も違法コマーシャルだらけで視聴率低減し番組作