ある少女の話
『必ず、迎えに来るから』
そう言って、母は立ち去った。
あれから、もう十年も経つのだ。
***
ジリジリジリと目覚まし時計が鳴らされることにより、私の意識は現実へと引き戻された。
布団から腕だけを伸ばして、不快な音の根源を手探りで叩いて止める。
そのまましばらく動かずにいたが、数十秒後、パッと思いきりよく起き上がった。
素早く着替えると、そっと部屋を抜け出す。数年前から一人部屋なのに忍び足で部屋出てしまうのは、大部屋にいたころの名残だ。
廊下にいくつもの個人部屋の扉が並んでいる。早朝のなので、主のいる部屋の扉は当然ながら閉まっていた。
……ふと違和感を感じて、ひとつの部屋の前で立ち止まった。
確か、昨日まではこの扉も閉まっていた。なのに、今は扉が開け放たれている。……部屋の主が出かけていると
いうわけでもなく、部屋の中は、人が生活している痕跡が全くなかった。
…………また、〝モレク〟の感染者が出た。
十数年前、世界は崩壊した。
いや、正確に言えば、私たち人類の文明社会が崩壊した。
突然変異によって発生した病原体――空気感染によって広まるそれは、発生地のヨーロッパから、またたくまに世界へと拡散した。
感染したら最後。治療の手立ては見つからず、どうすることもできなかった。
その病は、感染しても、具体的に体や脳に対する異常は起こらない。
――現れる症状は、〝死〟。人により、いつ症状が出るか程度の差はあれど、かかれば必ず死に至る病。……いわゆる致死率100%のこの病を、人々はある悪魔の名前になぞらえて、〝モレク〟と呼んだ。
裏口にたどりつく。最近ではいつものことだが、今日も誰にも見とがめられなかった。
以前なら、起床時間前にあちこち動き回るんじゃないと、見回りの職員に見つかって注意されたが、今は見回りの職員がいることさえ稀だ。
……モレクによって職員がどんどん減っていくのだから、仕方のないことでもあるのだが。
裏口から外に出ると、抜けるような青空が広がっていた。
モレクは、自然環境や他の動植物を圧迫し続けた人類への皮肉のように、人類にしか被害をもたらさなかった。
まるで、己の欲にばかり目がくらんでいた人類を、神が罰したかのような状況であったそうだ。
小さな国はあっというまに国民の大半が死亡して国として成り立たなくなり、他の国も政府の要人が倒れ、政府がその機能を果たさなくなった。
政府を失った国が崩れるのは容易い。小さい国から次々と倒れていく。
だが、内乱などはものの数年でおさまった――モレクが蔓延してくれば、内乱を始める人間自体がいなくなるから。
ここ日本では、島国ということもあり、外国との接触を絶つことでモレクを防ごうとした。
……結果的に、それは時間稼ぎにしかならなかったが。
外に出ると、そこは人の手の入らなくなった草っ原が広がっている。
目指している所までは、もうすぐだ。
他国との接触を絶っている間、日本国内ではモレクについての研究がされていた。島国で〝鎖国〟状態だったから、モレクの被害が少なく、研究を出来る余裕があったらしい。
大陸の国々は、被害が大きすぎて研究どころではなく、日本でのものがほぼ世界で唯一の研究だった。
死のウイルスを相手にしたこの研究は、奇跡的にワクチンの開発という形で完成された。
だが、その時にはもうすでに、モレクの被害は全国に広がってしまったあとだった。
……それでも、残された人々を救えるなら。そんな研究者たちの思いで、ワクチンは全国に配布された。
このワクチンは、すでに感染してしまった人の症状も止めることが出来たので、人々はこれで救われると喜んだ。
―――けれども、神様はやっぱり私たちを許さなかったらしい。
数年前から、ワクチンを打っているのにもかかわらず、また、モレクの被害が出るようになってきたのだ。
広い草っ原の中に、格子の張られた柵が、行く手をさえぎるように立ち並んでいる。あの向こうには、もうひとつ建物がある。
私は、柵に沿って小走りで駆けていく。やがて、前方に大きな木が見えてきた。
邪魔な柵は、この木の手前で止まっている。木の根元には、先客が寝転んでいた。
私は彼に声をかけた。
「おはよう、陽希(ようき)」
彼―来谷(くるや)陽希(ようき)は、寝転んだ姿勢のまま、私を見上げてニヤリと笑った。
「ああ、今日は若干遅ぇぞ、結美(ゆみ)」
「そうかな?」
私―松田(まつだ)結美(ゆみ)は、十年来の幼馴染に小さく微笑んだ。
私は七才の時に母に置いていかれた、この施設で育った。
陽希は、柵の向こうにある、もうひとつの施設で暮らしている。
……柵で二つの施設が区切られているのは、いや、元々は一つの施設が二つに分けられたのは、モレクに感染している子供と感染していない子供とを分けるためだった。
今では、子供がモレクか正確に見分けられる医師が身近にいなくなってしまい、あまり関係なくなっているような気もするが。
陽希は、モレクに一度感染してからワクチンを打って症状を食い止めた、〝感染しても生き残った〟人のうちの一人だった。
彼と初めて会ったのは、私がまだここへ来て数ヶ月のころだった。
その時の私は、〝母に置いていかれた〟という事実をまだ受け止めきれておらず、とにかく一人になりたい、と思っていた。
だが、一人になろうにも寝室は大部屋で、とても一人にはなれず、早朝に施設を抜け出していた。
昼間は、他の子がたくさんいる草っ原に一人でいると、何故だか少し遠くまで行きたいと思った。普段、部屋の中にこもりきりだったからなのかもしれない。
その時に、柵があることを初めて知った。
「なにこれ……」
思わずそう呟いて、左右を見た。柵は、どちらにも延々と続いているように見えた。
さっき出てきた施設は、もう遥か後方だ。遊ぶにしても、ここまではさすがに来る子供がいなくて、多分まだ誰も気づいていないと思う。……その証拠に、施設にはやんちゃな男の子がいるのに、柵は曲がったりせずに真っ直ぐに立っている。
柵の向こうには何があるのかと少し気になったが、その時は柵を乗り越えられるほどの力はなく、とりあえず、この柵はどこまで続いているのか確かめてみようと思った。
どっちに行くか一瞬悩んで、太陽の出ている方向―右を選んだ。久しぶりにわくわくする気持ちを抑えて、最初は早歩き、だんだんと小走りになって先へ進む。
柵が終わっていたのは、大きな木の手前だった。
ここで終わりかー、なんて少しだけ残念に思いながら、柵のあるほうとは反対側に回ってみる。
次の瞬間、私は気絶しそうなくらい驚いた。
だって、まさかそこに寝転んでじろりと私を見上げてくる男の子がいるなんて、全然思っていなかったから。
「……お前、何笑ってんの?」
回想にふけっていたら、陽希のいぶかしげな声がした。どうやら、知らず知らずのうちに、思い出し笑いをしていたらしい。
私は笑顔のまま、身体を起こした陽希に答えた。
「ちょっと、ここで初めて会ったときのことを思い出してたの」
「……ああ、あの時か」
つられたように、陽希の表情が柔らかくなる。
「めちゃくちゃ驚いたぜ。俺しか知らなかった所に、初めて他の奴が来たんだから」
「嫌なら、追い払えば良かったのに」
「別に、俺が持ってる土地でもねぇし。施設に住んでるんなら、俺が追い払える理由はねぇよ」
若干渋い顔で陽希が言う。……彼なりの照れ隠しだ。
私はまた微笑んで、陽希の隣に座ろうとした。
「……待った」
陽希が何故かストップをかけた。
理由は、すぐに分かった。
陽希は、自分が立ち上がると、少し脇にずれて行った。
「そこ、昨日の雨でまだ湿ってるからやめとけ。座るんならこっちにしろ」
「え、でも」
「俺はさっきまでさんざん寝っ転がってたから、次はお前の番」
「……ありがとう」
笑って座らせてもらう。
優しいところは、初めて会った時から変わらない。
「……近づくな」
木の下で出会った男の子は、そう言って、私から距離をとった。
「え……?何で?」
わけが分からず混乱する私に、男の子はポツッと呟くように言った。
「お前、モレクにかかってないだろ」
「か、かかってないけど……」
「じゃあ絶対に俺に近づくな。俺はモレクにかかってる」
「え……!?」
思いがけない言葉に呆然としていると、男の子は私に背を向けた。
立ち去ろうとしているのが分かって、私はあわてて呼び止めた。
「待って!!」
男の子が足を止めて、私を見る。私は、何故呼び止めたのか自分でもよく分からないままに、とりあえず何か話さなきゃと思った。
「えっと……あなたも、施設にいるの?」
ようやく口に出した質問は、我ながら馬鹿だと思った。ここにいるなら、施設の子じゃないはずがないのに。
男の子は少し顔をしかめた。
「何だ、そっちの奴らは知らねぇんだな」
「……え?」
「お前がいるとこは、まだモレクにかかってない奴がいるところだ。おれみたいに、かかってる奴はあそこにいる」
指さされた先を見ると、柵の向こうにも、かなり遠くだが建物があるのが見えた。
「その柵は、」
男の子が柵に向かって顎をしゃくった。
「向こうにいるお前らと、おれたちを近づけないためのやつだ」
不機嫌そうな口調とは裏腹に、目が心配そうに私を見ていた。
本当はおれたちは会っちゃいけないんだ、お前にモレクがうつるから。
遠まわしに、そう言われているのが分かった。
「お前、元気なさそうだし、こんなとこまで来たんなら、一人になりたかったんだろ?ここは誰も来ないから、来たい時に来ればいい」
おれはもう来ないから。
そう言って、男の子は再び私に背を向けようとした。
今度は声をかけただけでは止まってくれなさそうで、私は急いで駆け寄り、男の子の腕をつかんで引き留めた。
「待って!」
振り返った男の子が、驚きの表情になる。
「お、お前……」
だが、動きが止まったのは一瞬で、男の子はすぐに腕を振りほどこうとした。
「放せよっ!うつるからやめろっつってんだろ!?」
私は、振りほどかれないように必死に男の子の腕をつかんだ。
「うつるのは気にしないから、ここにいてっ!!」
「はぁっ?」
男の子が変なものを見るような目で私を見た。
衝撃が大きかったのか、振りほどく動きが止まったので、私はいくぶんか手の力を抜いて、小さな声で続けた。
「……私、まだここに来てそんなに経ってないし、話すのとかがあんまり得意じゃないから、いつも一人なの。
あの、嫌じゃなかったら……ここで、一緒にいてくれない?私、あなたと友達、に、なりたいから…………」
話すのが苦手だけれど、一生懸命に紡いだ言葉を、男の子は黙って聞いてくれた。
そして、ハァッとため息をつき、空を見上げている。
「おれ、モレクにかかってるんだぞ?それ分かってんのか?」
空を見ながら投げられた問いに、私は少し考えて答えた。
「だって、あの建物には、あなたみたいな人がもっといるんでしょう?こんな近くに建ってるんだから、今さら変わらないよ」
私の答えを聞いた男の子は、空から視線を私に戻した。
それからポツッと言った。
「……変な奴」
「そう……かな?」
首をかしげると、あっさりと頷かれた。
「すげえ変な奴だろ。おれと一緒にいたら、うつるかもしれないのに」
「…………」
何も言わなかった。というより、言えなかった。
自分でも何故そう思ったのか、分からなかったから。
男の子は、しばらく黙って考えていた。
「……いいよ」
「……え?」
唐突に言われ、とまどって聞き返した私に、男の子が続けて言った。
不機嫌そうな口調のままで。
「話聞くくらいならしてやる。他にやることもあるわけじゃないし。その代わり、」
男の子が、私の手を腕からそっと外した。
「こんなに近くには来るな。おれのせいでうつったとか、おれが嫌だから」
……なんて優しいんだろうと思った。
初めて会った私に、なんでそこまでしてくれるんだろうとも思った。
私は、久し振りの笑顔になった。
「嬉しい!ありがとう!」
男の子は私を一瞬見つめて、少しだけ私を向こうに押しやった。
どうやら、もう少し離れろということらしい。
私は素直に離れて、男の子に尋ねた。
「私、松田結美っていうの。あなたは?」
男の子は、私の目をまっすぐに見て答えた。
「……陽希。来谷陽希だ」
あの日から、早朝にここに来る習慣が始まった。
天候が悪い日以外は、毎日通っていた。
陽希は、決して私を近づかせなかった。
その規制がなくなったのは、七年前―陽希がワクチンを打ち、私もワクチンを打ったときだった。
毎朝会って、他愛のないことを話していたこの習慣も、もうすぐ終わってしまうけれど……。
私は、隣に立つ陽希を見上げて聞いた。
「陽希、施設を出るのはいつ?」
ここでは、十七才になったら施設を出なくてはならない決まりがある。
今、私たちは十六才なので、その期限は間近だった。
この質問を陽希にしたのは、これが初めてだ。……何となく、恐くて聞けなかったのだ。
……陽希もこの質問を私にしていないのは何故か知らないが。
「明後日」
「え、明後日!?」
思いがけない言葉に、固まってしまった。
「そんな驚くことでもないだろ」
陽希が笑う。
「俺の誕生日、明後日なんだから」
「で、でも、急にそんな……。もっと早くに言ってくれてれば……」
「言ったら、普段通りに過ごせなくなるような気がしてな。さすがにそろそろ言わなきゃなとは思ってたけど」
「……」
「…………心配させたくなかったんだよ」
ボソッと陽希が言った。若干不機嫌そうに。
……不機嫌そうになったり、渋い顔になったりするのは、彼が照れ隠しをする時や、人に優しくする時。
「お前も、どうせ施設出るの誕生日だろ?なら俺の方が出るの早いし、余計な心配させたくなかったんだよ」
「っ……確かにそうだけど、でもやっぱり言ってほしかったよ」
こんなに突然だと、分かれる心の準備が出来ない。施設を出たら、もう二度と会えないかもしれないのに。
うつむいていると、ポン、と頭に手を乗せられた。
見上げると、そっぽを向いたまま言われた。
「……悪かったよ」
不機嫌そうだけれど、どこか優しい響きのある声を聞いて、私は心を落ち着かせる。
これ以上、陽希にわがままを言っちゃいけない。そう思って。
代わりに、質問した。
「ここを出たら、陽希はどうするの?」
「お前は?」
速攻で聞き返され、一瞬言葉に詰まる。
「結美は、どうすんの?」
「えっ……と」
私はためらいがちに言った。
「お母さんを、探そうかなって思ってる」
母とは、十年前に別れたっきり、一度も会っていない。
何度か手紙はもらったが、住所が書かれていなかったので、返事を出せたのは運よく配達してくれた人に行き会った一度だけだ。
手紙には、何かの薬を作る研究をしていると書かれていたことがあったので、それをもとに探すつもりだ。
……もっとも、薬といったら、この状況では何の薬かの大体のけんとうはつくけど……。
そんなことを陽希にぽつぽつと話すと、陽希はあっさりした口調で言った。
「それ、お前の母さんモレクの研究してたんじゃねぇの?」
「やっぱりそうだよね……」
というより、誰が考えてもそうか。
「……よし、」
陽希がニヤリと笑った。
「それ、俺も手伝ってやるよ」
「えっ?」
「どうせここ出ても、特にやらなきゃいけないこともやりたいこともねぇし。暇だから手伝ってやるよ」
笑ったままで陽希が言った。
「でも、陽希にも迷惑が」
「かからないから言ってんの。てか、俺ここ出てやること本当にないから。結美がいいっつっても勝手にやるからな」
何故か勝ち誇るように言う陽希。……仕方ないか。
私は観念して言った。
「……じゃあ、お願い。でも、迷惑になったらいつでもやめていいから」
「迷惑にならないことは保障してやるけど。結美が出て来るまでけっこう時間あるし、お前が探す前に俺が見つけてるかもな」
自身満々なセリフに私は思わず吹き出した。
そんな会話をして二日後、陽希は施設を出た。
見送りに言った私に、「じゃあな」と拍子抜けするくらいあっさりと手をあげて行った。
その後は、私が手を振っても一度も振り返らないかった。
私は、その後ろ姿が見えなくなるまで見ていた。
***
そして、陽希が施設を去ってから八ヵ月後。
今日が私が施設を出る日だ。
同い年とは言っても、こんなに差があったのかと、今さらながらに思う。
私は門の前に立って、最後にもう一度だけ十年を過ごした施設を眺めた。
……と言っても、私の思い出はあの木の下のほうがたくさんあるけれど。
苦笑して、背を向けた。
特に親しくしていた人も陽希以外にはいなかったので、見送りはいない。
多分、ここに戻ってくることはもうないだろう。
「……行くか」
呟いて、私は一人歩き出した。
施設を旅立ってから、三週間が過ぎた。
私は、病院や薬局を見つける度に、母の事を聞いていた。
写真などは持っていなかったので、この質問をぶつけるしかなかった。
「松田沙代という人を知っていますか?」
医療関係者なら知っている可能性が高いと思ったのだが、ことごとく「知らない」という返答をされた。
簡単には見つからないことは分かっていたが、何の手がかりも見つからないのは、けっこうつらかった。
それから、毎日毎日、泊まる所にも悩まされた。
町から町へ移動する時は、まとまって移動する集団がどこの町にもあったので良かったが、町内では個人行動をせざるをえない。
治安が良い所はごく少数しかいない。自然と、盗みが発生しやすい所は避けて通るようにした。
それから、髪は短く切って外套を羽織り、基本的にフードはずっと被っていることにした。……男子だと思われていた方が、荷物などが盗まれにくのだ。
今は、町から町へ移動する集団に混ざって、多少は整備された道を歩いていた。
時間的にもうすぐお昼なので、そろそろ休憩のはずだ。
「休憩ーっ!ここで昼食とする!」
先頭の方から声が聞こえて、まわりの人々が道のはしにそれぞれ座りこみ始めた。
「なお、この先に薬局があるので、買い物をする者は早めにすませるように!」
薬局?町外でやっているなんて、珍しいな。
食べ物を売る店なら町外でもよく見るが、薬局はこれが初めてだ。
人々も珍しいのか、向かっている人が多い。
お昼を食べてから行ってみることにした。
店に入る時に、最後に残っていた人といれかわりになった。なので、ちょうど店内にいる客は私だけだ。
私は店番をしていたおじいさんの所にまっすぐに向かった。
「あの、すみません」
おじいさんは私が品物を持たずに来たことにびっくりしたようだったが、すぐに「なんでしょう」と応じてくれた。
町内にないここじゃ、どうせ分からないだろうなと思いながら続ける。
「松田沙代という人を知りませんか?」
「知っていますよ」
…………あまりにあっさり言われて、思考が一瞬停止した。
「……はい?」
「モレクの研究をしとった方でしょう。知っていますよ」
何でもない事のように言うおじいさんに、私は必死になって聞いた。
「あのっ、その人を探しているんです!どこにいるかとか、誰かと一緒にいるかとか、分かりますか!?」
「落ち着きなさい、娘さん。あんたの質問には答えますから」
おじいさんの言葉に、私は思わず固まった。
「……えっと、私が女だって、どうして分かりました?」
「そりゃあ、この年まで色んな人間見てれば分かりますよ。あんたさんは、はたから見れば男衆にはどうにか見えますから、大丈夫ですよ」
事情まで、すっかり見通されているらしい。
私はフードを外して少し微笑んだ。
「ありがとうございます。……これ、誰にも言わないでもらえますか?」
おじいさんが頷いてくれたのを見て、私は改めて質問した。
「あの……彼女がどこにいるのか、知っていますか?」
「その前に、あんたさんが松田さんを探す理由を教えてもらえますか?理由によっちゃ教えられません。それだけの研究をしている方なので」
おじいさんが静かな口調で言った。
私は言っていいのか、少しだけ悩んだが、おじいさんのまっすぐに見る目に、この人ならいいかと思い、話すことにした。
「……あの、実は私、彼女の娘で、松田結美といいます。十年前に別れた母に会いたくて、ここまで探しに来たんです」
おじいさんは、しばらくは私の目をじっと見ていた。
「その目を見る限り、嘘ではないようですね。教えましょうかね」
「ありがとうございます!」
私は笑顔になって頭を下げた。
おじいさんは「頭なんぞ下げんでいいですよ」と言って、話し出した。
「松田さんのおられる研究所は、ここから少し離れた所にあります。政府に隠されてたんで、おそらく誰も知らんでしょう。
うちは唯一研究所と連絡を取り合える店でしたが、その連絡もこないだから途絶えているので、現状については分かりません」
連絡が、途絶えてる……?
呆然としてしまった私に、おじいさんが続けて言った。
「連絡が途絶えるのは、以前から研究が忙しい時はよくある事でしたから、そう心配することでもないですよ。
研究所は歩きで三日ほどかかってしまう場所にありますが、道を教えましょうか?」
「は…はい、お願いします!」
「この店の裏手に、森があったでしょう。その中を、東に進み続けて下さい。
方角を間違えなければ、必ず辿り着けます。所々に目印もあるので、それを参考にされると良いでしょう」
そう言って、おじいさんは私に方位磁針を渡してくれた。
「あの森に踏み込む者はおりません。ゆっくり進まれたらいいでしょう」
「ありがとうございます、こんなに……」
「年寄りの親切心です。それに、」
おじいさんが優しく笑った。
「松田さんには色々恩があるので。私の息子や娘は、彼女の作った薬に良く助けられてたんですよ」
「そう……ですか」
「お母さんに会えたら、礼を伝えておいて下さい」
ああ、あとそれから、とおじいさんが思い出したように言った。
「あんたさんの幼馴染だという少年が、数ヶ月前にやってきて、あんたさんと同じ事を聞いていきましたよ」
……陽希だ。陽希も、ここへ来たんだ。
「教えると、すぐに研究所へ向かっていきましたが、心当たりはありますか?」
「ええ……。知っています。彼も、ここへ来たんですね」
陽希の消息も聞くことが出来て、嬉しかった。何しろ、風の便りにも頼れず、本人に連絡をとる手段もなかったから。
「まだ帰ってきておらんから、あちらにいると思いますよ」
「はい。色々、ありがとうございました!」
気をつけなさいよ、という言葉を背中で聞き、私は店を後にした。
***
研究所の場所が分かって、逸る気持ちを抑えながら、無理をしない程度に急いで歩いた。
だが、日が暮れてしまい、とうとう足元が見えなくなったので、今日はここまでにして、明日の明け方からまた歩くことにした。
夜ご飯をすませ、横にはなったものの、なかなか眠れない。
仕方ないので、身を起こして星空を見上げていた。
あと少しでようやくお母さんに会えるが、実感が全くわかない。
正直に言うと、少し恐くもあった。
お母さんは、私のことを覚えていてくれてるんだろうかと。最後に手紙をもらったのが、数年前なのだ。
そんなことを考えていたら、遠くの方から物音がした。
……ザッ、ザッ、ザッ……
…………足音のように聞こえる。しかも、聞こえる方向は私の進路方向だ。この森には人はいないっておじいさんは言っていたのに、誰だろう?
私は少し不安になって、朝になったら進もうと思っていた方向を見つめた。
そして、現れた人物に、私は心臓が飛び上がるくらい驚いた。
……私だけじゃなく、相手も驚いていたけれど。
「陽希!?」
「……結美か!?何でここにいる!?」
疲れきった様子ながら、すごく驚いた顔をして立っていたのは、八ヶ月ぶりに再会する、陽希だった。
「……大丈夫?」
再会した陽希は、あちこちに擦ったり切ったりした傷があり、事情を聞く前にとりあえず手当をすることにした。
手当の最中に聞いたのは、二日間一度仮眠をとったとき以外はずっと走り続けていたということだけで、なぜそんなことをしていたのかは、教えてくれなかった。
「はい、終わり」
最後の傷の消毒を終え、私は陽希の隣に座った。
「……ありがとう」
再会してから、陽希は元気がない。疲れているにしても、いつもの彼らしくないのだ。
……施設にいたころは、私の視線を避けたりしなかった。
「陽希、何があったの?」
「…………」
視線を逸らしたまま、黙っている陽希。
あー、もう、仕方がない。
私は彼の正面に回って、陽希の目を見据えた。
「目を逸らさないでよ、陽希。何かあったんでしょ?話して、お願い」
「…………」
「陽希」
「……分かったよ」
ようやく、陽希が私と目を合わせた。
「そのかわり、落ち着いて聞いてくれよ」
念を押すように言われ、私は黙って頷いた。
なんだか嫌な予感がしたのを、押さえつけて。
「お前も、ここまで来たんなら知ってるだろ?この先に、モレクの研究をしている人たちや……お前の母さんがいる研究所があるのを。
俺は、あそこに施設を出て一ヶ月で着いたんだ。
そんで……お前の母さんに会った」
「お母さんに!?陽希、お母さんに会ったの!?」
「会ったよ!だけど!」
陽希が私の肩に手を置いた。
怖いくらい真剣な瞳が、私を見る。
「ここを一番落ち着いて聞いてくれ。
……お前の母さんは、この前モレクで亡くなった」
「………………え?」
頭を殴られたかと思うような、衝撃だった。
お母さんが?亡くなった?
私、お母さんに会えなかったの?七才のあの日に別れたのが、最後だったの?
お母さんに会えなかったら、私、どうしてここまで来たの?会って、やっと一緒に過ごせると思っていたのに。やっと、……親孝行できると思ってたのに。なんで……。
「……美!結美!!」
ゆさぶられ名前を呼ばれて、ようやく我に返る。
「よう、き、私……」
何と言っていいか分からずにいると、陽希が持っていたリュックから一冊のノートを取り出した。
その最後のページを開き、差し出してくる。
「……ほら、」
意味が分からずに、陽希を見ると、付け足され「お袋さんに、頼まれたんだよ。お前に渡してくれって」
言われて、私はそれを受け取った。
そこには、お母さんの字が並んでいた―――。
『結美へ
十七歳になったあなたに会えなかった事が、残念でなりません。
あの男の子……陽希君に、結美が私を探していると聞いたときは、とても嬉しかった……。
でも、そのときにはもう、私はモレクになってしまっていました。
聞いていると思いますが、私はモレクの研究に携わっていました。
以前完成した、あのワクチン。失敗したと気づいたのは、全国に配布してすぐの事でした。
すぐさま私達は研究を再開させました。今度は失敗しないよう、必死に治療法やワクチン製造の方法を探しました。
でも、研究者も人間です。しかも、モレクの研究をしていれば、毎日のように病原体と向き合うのです。
研究していた仲間は、次々と倒れて行き、数年前、気がついたら残ったのは私だけでした。
仲間の遺志を継ぎ、私は一人きりで研究を続けていました。
ついこの間、ワクチンの完成まであと少しのところまで、ようやくの思いで辿り着きました。
やっと、結美に会える――そう思って、いっそう研究に身をいれていたとき、私は自分がモレクにかかってしまっている事に気づきました。
陽希君がやってきたのは、ちょうどそのころです。
結美、あなたに私の残った力で、出来るだけのものを残します。
私がこうなってしまった以上、やっと完成したこのワクチンを量産して配布する、なんて事はもう出来ません。そうするための時間がなくなってしまいました。
だから、結美、せめて結美だけは助かってほしいと思います。
陽希君にこの手紙と一緒に、完成したワクチンを託しました。結美と陽希君、二人が助かるだけの量ならあります。
受け取ったら、すぐに使って。お願いだから、もう無防備なままで外に出ないで。
……ああ、でも会いたかった。大きくなった結美に一目でも会いたかった。きっと、すごく綺麗で優しい子になったんでしょうね。一度だけ送ってくれた手紙は、お母さんの宝物よ。もらったとき、すごく嬉しかったわ。その手紙にいつも励まされてた。ありがとう。
なのに、結美を施設に置き去りにして、何もしてあげられなくて、研究の事も黙ってて、こんなお母さんでごめんね。
結美の事は、ずっと頭の中にあった。ずっと結美の事考えてた。
言い訳になっちゃうけれど、この数年は手紙を送る手立てがなくなってしまって……。最近は、よくしてくれた薬局の方にも連絡が取れないくらい忙しくて、手紙を届ける方法が見つからなかったに。心配させてしまったのなら、本当に
ごめんね……。
今さらだけれど、もっと結美のそばにいたかった、もっと結美の笑顔が見たかった。
ああ、もう手にちからがはいらない。たぶん、そろそろなんでしょう……
いままでたいへんだったぶん、しあわせになって。これからもたいへんだろうけど、くじけないでがんばって。
さいごにひとつだけ。
むかえにいくってやくそく、おかあさんまもれなくてごめんね……
ゆみのこと、だいすきよ』
視界がうっすらとぼやけた。
最初は、泣いてる事を気づかなかった。
「……これ、」
陽希がノートの上に白い袋をそっとのせた。
「これが、できた薬だって言ってた。それから」
次に乗せられたのは、十枚の白いタオルだった。その全部に綺麗な刺繍がされている。
「これは……?」
「お母さんが作ったんだってさ。毎年毎年、結美の誕生日に合わせて作ったって言ってた」
……もう、こらえられなかっあ。
私はタオルを抱きしめ、生まれて初めて、声を上げて泣いた。
陽希は、そんな私の背中を、黙ってさすっていてくれた。
***
森を抜けた所に、その建物はあった。
陽希に頼み込んで連れてきてもらったここは、研究所という名前にふさわしく、質素な作りだった。
周りは草原で、人の気配はまったくしなかった。
「……こっちだ」
陽希に手を引かれるまま歩いていくと、研究所の裏手に出た。
……そこには、いくつかの石が並べてあった。
陽希が、私をその内の一つの前に立たせた。
石には……『松田沙代』と書かれていた。
「お袋さんの墓だよ」
静かな声で言われ、二日前にさんざん泣いたはずなのに、また涙がこぼれそうになってしまった。
そっと前に座って心の中で話しかけた。
お母さん、私、結美だよ。覚えてる?
お母さんが最後にくれた手紙、陽希からちゃんと受け取ったよ。
大好きって言ってくれて、とっても嬉しかった。別れたとき、まだ小さかったから顔も覚えてないけど、たまにでも手紙をくれるお母さんが私も大好きだったよ。
本当、会いたかった。お母さんに、私も会いたかった。ううん、過去形じゃなくて、今でも会いたい。
誕生日プレゼント、ありがとう。毎年、覚えてくれていたんだ。タオル、すごく可愛くて気にいったよ。大切にするね。
それから……ワクチンだけど、私、考えたけど、今はやっぱり使わないことにするよ。
私も、お母さんみたいに、他の人の役に立てるようなことがしたいから。
だから、見てて、お母さん。私、頑張るから。
私はすくっと立ち上がると、お母さんのお墓に背を向けた。
それまで黙ってて見ていてくれた陽希が、声をかけてくれた。
「本当に、いいのか?お袋さんが、お前のために作った薬だろう?」
「いいの」
自分でも意外なくらい、はっきりした声が出た。
「私、お母さんの研究を完成させたい。あのワクチンがあれば、成分とかは調べられるだろうし。…・すごく大変だろうけど、みんあを助けようとしたお母さんみたいになりたいの」
陽希は、私の言葉を聞いてしばらく黙りこんでいた。
そして、顔を上げたとき、陽希は、何かを吹っ切ったような笑顔になっていた。
「分かった。俺も付き合ってやるよ」
「え!?」
「やりたい事、まだ見つからないからさ。結美のやりたい事に付き合うよ。……迷惑じゃないからな、言うなよ」
私の顔を見て言おうとしてちあことが分かったのか、先回りして言われた。
陽希が手をさし出す。
「一人より、二人の方がいいだろ?それに、俺だって一度くらい、誰かの役に立てることしたいからな」
久し振りに見る不機嫌そうだけれど温かいものがある表情だった。
「……そうか」
私も笑顔になり、陽希の手を取った。
「じゃあ、これからもよろしく。二人で頑張ろうね、陽希」
と、陽希が若干顔を赤くして横を向いた。
「陽希?」
なぜだか分からず首をかしげると、陽希は手を急に離して歩き出した。
「行くぞ、始めるならすぎに始めるからなっ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ陽希!速いって!!」
私は慌てて追いかけながら、笑みがこぼれるのをなぜか押さえられなかった。
***
「陽希!物資届いたよ!」
「おう、ちょっと待ってろ!」
週に一度届く物資便が来たのが分かり、奥に声をかける。
ほどなく中から陽希が出てきて、物資を中に運び始めた。私も彼を手伝い一つのダンボールを持って研究所へ入る。
お母さんの残した研究を再開してから、すでに一ヶ月がたっていた。
再開したとは言っても、まず基本から勉強しなければならず、まだほとんど進んでいないけれど。
勉強は、あの薬局のおじいさんがよく教えてくれた。
研究所からあの薬局に連絡したとき、おじいさんは心から喜んでくれた。
お母さんが亡くなったこと、私がその研究を引き継ごうと思っていることを伝えると、おじいさんは少し沈黙したあと、んばら手伝うと言ってくれたのだった。
私たちにしても、今までの研究を少しでも知っている人に手伝ってもらうのは心強く、お願いすることにした。
お願いしたあとはよく、以前していた研究に使ってたらしい資料などを、手紙にそえて送ってくれる。
「結美、あのおじいさんからの手紙」
「じいさんって……。そんな言い方ないでしょ?お世話になってるんだから」
「他に呼び方見つからねぇんだよ。ほら、投げるぞ」
陽希は相変わらずこの調子で、変わったのは時々なぜか顔を赤くするときがあることだけだ。
投げられた手紙をキャッチし、私は机に向かった。また、新しく資料を送ってくれたのだろうか。
椅子に腰かけると、広げてあったノートの上に手紙を置く。
あの手紙が書いてあったノートの前半部分には、お母さんが薬について書いたメモがびっしりとあった。……大事にしていたノートなんだろうなと、少しだけ泣きそうになったのは秘密だ。
私は、机の上に置いてある、写真立てを見た。その写真でピースサインをしている七才の私と、優しく微笑んでいる一人の女性が写っていた。
……唯一あった、お母さんの写真だった。
ここの机を初めて見たとき、この写真が机の真ん中に置かれていた。写真は、何度も撮りだして眺めたかのように、端々が擦り切れていた。
私は、しばらくその写真を見つめ、おじいさんからの手紙を開けた。
写真の中のお母さんが、笑って見守ってくれているような気がした。
〈fin〉
ある少女の話