TV放談にUSA大統領、その他全般 a la carte 。文豪有島武郎「小さきものへ」掲載。
連日のTBSは最早報道機関とは言えないlevel。昨日に続き再び・・よく知りもしないくせに「影武者」なのだが、人類が最近開発をしたAIは出来が悪すぎ、素人でも使用可能な代わりに、ミスを作り出すという欠点が表面化している。
その辺りは、いくら説明をしても人類には理解はできない。
ただ、不思議に早稲田卒のキャスターが同じ様な事を云うのも何だろうか?USAに滞在した事が或る者は、特にUSAを神格化する特徴があるが・・今やUSAも地に落ちてしまったと言えそうだ。
大統領候補が空席というのも、如何にもお坊ちゃん世代に相応しい現象であるが、案外マスク氏等がUSAには向いているような気がする。
其れに、戦国時代の影武者を現代にテーマに取り上げるという低レベル差は百も承知だが、するってーと・・私達を・・一体どう表現するつもりなのだろう・・・(笑)
USAのpersonal computerでは、此の国の言葉の変換が使い物にならない程なんだが、此れも此の国が見限られており、単に利用されている事を現わしている。
元々、早稲田は入学試験に教科書には載っていない質問を出す事で有名だったが、教育というものは教科書を最低みっちり覚えておくに越したことは無い。
そのせいか、日露戦争時の常識だった「Z」旗・・今は大国でZの文字が見られるね。
歴史を知らないBSTBSの松原君以前、番組中に「Z旗」って何?と、堤君が目で・・「違い違う・・」などというsceneもあった、東郷・乃木くらい知っていないと・・大国について話もできないよ・・・(笑)
尾上雄二の高校から義塾には数十人入学をしたが、早稲田に行った者は野球で進学した者だけで、体育学部は勉学に関係無くスポーツ選手なら入れる。
まあ、ゼレンスキーは所詮器が小さすぎる・・テロしか無いのでは・・核兵器相手に敵う訳無いだろう(笑)いい加減にしとかなければ国民が減っていくだけ・・最も懸命な策は、降伏か和解しかないよ・・分からなくても死の直前にそう思うだろう・・。
では時間も無いのでUSAバイデンに関するスキャンダルを挙げておしまいにする。
Yahoo!ニュースより。
1)「バイデン 機密文書問題で米司法省が特別検察官任命
2023年1月13日 8時34分
アメリカのバイデンの個人事務所などから副大統領だった当時の機密文書が見つかった問題で、アメリカ司法省は違法性がなかったかどうかを捜査する特別検察官を任命したと発表した。
この問題は去年11月にアメリカのバイデンの個人事務所から副大統領だった当時の機密文書が見つかっていたもので、バイデンの弁護士は12日、東部デラウェア州にある自宅の車庫などからも少数の機密文書が見つかったと新たに発表した。
問題を受けてガーランド司法長官は12日、記者会見を開き、違法性がなかったかどうかを捜査する特別検察官を任命したと発表した。
任命されたのは元連邦検事のロバート・ハー氏。
特別検察官は政権から独立した立場で捜査するため任命され、トランプ前大統領の自宅で200点近くの機密文書が見つかった問題を巡っても特別検察官が捜査にあたっている。
ガーランド長官は特別検察官の任命について「とりわけ慎重さが必要な問題のため、司法省が独立性を保ち、説明責任を果たすとともに事実と法にのっとった決定を下すことを約束するものだ」と述べた。
ホワイトハウスのジャンピエール報道官は定例会見で、特別検察官に全面的に協力するとしたうえで「徹底的な調査が行われることで機密文書が不注意で誤った場所に置かれたものであり、間違いがわかったあとはバイデンや弁護士が適切に行動したことが明らかになると信じている」と強調した。
機密文書を巡って、これまではバイデンがトランプ前大統領を厳しく批判していただけに、今回の事態を受けて野党・共和党のマッカーシー下院議長が「去年11月の中間選挙の前に文書が見つかっていたのになぜアメリカ国民に秘密にされてきたのか」と厳しく批判するなど、攻勢を強めている。」
「ジョー・バイデンのセクハラ疑惑」
「2019年女性民主党員へのセクハラの件」
2019年3月に民主党員で元ネヴァダ州議会議員のルーシー・フローレス(Lucy Flores)は、2014年の選挙活動中にバイデンが背後から両手をフローレス氏の肩に置いて、さらに近づき、髪の香りをかいで、ゆっくりと後頭部にキスしたと主張している[1][2]。フローレスは「何が起きているのか理解できなかった。これほど露骨に不適切な真似を経験したことがない」と告発した[2][3]。
「被害を受けたと主張しているタラ・リード」
ジョー・バイデンのセクハラ疑惑とは、アメリカ合衆国の民主党の政治家ジョー・バイデンが女性に行ったとされる、複数のセクシャルハラスメント疑惑である。
「民主党議員側近へのセクハラ疑惑」
2019年4月には、ジム・ハインズ下院議員(民主党、コネチカット州選出)の側近エイミー・ラッポスは2009年10月バイデンに不適切に触られたと述べた。バイデンが台所に入ってきた際、ラッポスの顔を両手で包み、鼻をこすり合わせたという[4]。ラッポスは「望まない好意の表現は、良くない。女性をモノ扱いするのも良くない」「女性のパーソナルスペースを侵害したり、不適切に触ったり、セクハラをしてレイプ文化を増長させるような男性は、権力の場にいてはいけない」「こうした振る舞いを『単なる好意』、『おじいちゃんみたい』、『フレンドリー』と言ってしまうこと自体、この問題を非常に軽視していることの表れで、問題の一部だ」と批判した[2]。
「2020年事務職員へのセクハラ疑惑」
バイデンがアメリカ連邦議会でデラウェア州選出の上院議員を勤めていた1993年に雇っていた当時20代後半の女性事務職員タラ・リード(Tara Reade)の首や腰を触ったというもの。
AP通信やワシントン・ポストなどは、バイデンが8人の女性からセクハラの告発されていた2019年中にリードに対してもインタビューをしたが、記事として詳しく報道されることはなかった。
2020年3月26日、ニューヨークのラジオ局WBAIの番組「ザ・ケイティー・ハルパー・ショー」のインタビューで、セクハラについてリードが語った[5]。番組でリードが語った内容によると、バイデンが壁に向かってリードを壁ドンしたあとにキスをし、スカートの中に手を入れ性器に指を挿入し、「どこか別の場所へ行かないか」を囁いたという[6]。
2020年4月9日、リードはワシントンD.C.首都警察に1993年春のセクハラについて安全のために報告し刑事告訴したと発表した。
2020年4月、1993年8月11日に放送されたCNNのトーク番組「ラリー・キング・ライブ」で、リードの母親は匿名の視聴者として電話をし、「著名な上院議員の下で働いていた娘が問題を抱えて仕事を辞めた」とラリー・キングに質問していたことが発見される。リードは母親や家族にバイデンとの問題を相談していたという。
リードは、民主党は「すべての女性が安全に発言できる国を作りたいという立場を取っているが、私はその機会に恵まれなかった」とバイデン陣営を批判し、さらにバイデン氏支持者から証拠がないままロシアのスパイだと非難され、殺害予告を受け取ったり、SNSアカウントをハッキングされて、個人情報が抜かれたと述べた[6]。
「米バイデン大統領の次男 “罪を認める” 司法省と合意」
NHKnews 2023年6月21日 6時00分
アメリカのバイデン大統領の次男、ハンター・バイデン氏が、故意に所得税を支払わなかった罪などを認めることで司法省と合意したことが明らかになった。
バイデン大統領が来年秋の大統領選挙で再選を目指す中、選挙への打撃になる可能性がある。
アメリカの裁判所に20日に提出された書面などによると、バイデン大統領の次男のハンター・バイデン氏は、故意に所得税を支払わなかった2件の連邦法違反の罪について認めることで司法省と合意した。
一方で、薬物の使用を申告せずに銃を購入して不法に所持していたことについては刑事訴追を免れる見通しということ。
アメリカのメディアは、これらは司法取引に応じたものだとしていて、裁判所で認められれば収監はされず、保護観察処分になる見通しだとしている。
ホワイトハウスの広報担当者は「大統領と夫人は彼が人生を立て直していくことを支援していく。これ以上はコメントしない」という声明を発表した。
野党・共和党は、ハンター氏がウクライナや中国で行っていたビジネスに、父親のバイデンが関与していないか追及している。
今回の件についても司法省が政権に甘い対応をしているなどと批判を強めている。
バイデンが来年秋の大統領選挙で再選を目指す中、選挙への打撃になる可能性がある。
「トランプ前大統領 「この国の制度は破綻している」と批判」
これを受けてトランプ前大統領は20日、ソーシャルメディアに投稿し「腐敗したバイデン政権の司法省は、ハンター・バイデン氏をめぐる刑事責任をたったの『交通違反切符』程度の処分ですませた。この国の制度は破綻している」として批判した。
機密文書の取り扱いなどをめぐって起訴されているトランプ氏は、これまでも自身の起訴について「バイデン政権による権力の乱用だ」などとして反発を強めている。
また、野党・共和党のマッカーシー下院議長は記者団に対し「アメリカに2層のシステムがあることを示すものだ。司法省は大統領の有力な政治的対抗相手であれば投獄しようとし、大統領の息子であれば甘い取り引きを行う」と述べて司法省は公平性を欠いていると主張した。
此れが氷山の一角であるかどうかは興味はない。
ただ、USAという国の歴代大統領には女性疑惑が多過ぎ、事実である事もかなり以前からの歴史として刻まれている。
また、USAは戦争犯罪に限っても世界中で非難を浴びており、此の国も例外ではない。
以下にその事実を載せる。
その前に、バイデンにはこんな懸念も窺える。
初期の認知症の症状が見られる事であり、USAという国が如何に優秀な人材に枯渇しているのかを物語っている。
通常なら、わざわざ広島に来て迄「・・謝るもんか・・」と駄々っ子のような捨て台詞を吐くような幼稚な真似なのだが・・やはり、彼の場合には持って生まれた資質であるのか・・認知症状のあらわれであるのか?
何れにしても・・第三国のトップとしては万が一の危険を齎す「人類爆弾Suiside bombar~」であると言っても過言ではないだろう。
以前、トランプがChinaに標準を合わせたICBMを発射しようとし(ボタンを押せるのは大統領の権限である。)軍の上層部が気が付き危ういところだった。
すぐに上層部がChinaに架電をし「交戦時には宣戦布告をするので申し訳ない」と、誤った事実があった。
また、最近のバイデンは「既に亡くなった議員の名を挙げたり」、家族の内元の妻と娘が交通事故で亡くなり、前述の犯罪者の息子以外の息子も病で亡くなったのだが、公式の場でその家族に呼びかけたりするsceneが見られた。
演説最後にはいきなり「女王・・」・・此れはUKのエリザベスの事で既に昨年他界をしている。
また、USAにおいても、「招かれざる大統領」と呼ばれていたり、「インフレについて質問をした」記者を罵倒したりの「・・殿、遂に御乱心召されたか・・」の揶揄・・。
此の国でも支持率が20%台の政権に過ぎない自民党が居直るは・・茶番劇を演じるわの・・三文芝居を演じては・・ひんしゅく(軽蔑されること。)を買い三昧(ざんまい)・・。
一年半から二年以降に間違い無く発生する大災害が生じた折には・・最早手の打ちようもなく・・・「国民総生産・・」では無く・・「国民【総清算~お亡くなりになる事~】・・」となるもやむを得なかろう・・「・・くわばらくわばら・・」。
時間が無い・・実は半年も鍵盤に手を触れる事が無かったので・・blankで複雑な操作が出来なく・・練習しなければ・・。
最後に、小さな子供のいる家族にとり、お金のかからない所・・といえば、まあ・動物園は安いが・・今あるのかどうかは分からないが、昔は数寄屋橋に「警察博物館」というものがあり勿論無料だが、モンタージュゲームのようなものがあったり、白バイの幼児用のユニフォームがあったりし、本物の白バイに乗ったところをスマフォで写真がとれるという・・。
幕張の手前の・・海水博物館?の辺りに「地下鉄博物館~もうないかな?」おもちゃ博物館~昔、中野か何処かにあったが・・あのね、本屋で当時は博物館や美術館が載っている本を売っていた。
新横浜の「ラーメン美術館」と言っても、ラーメンは食べれるが、昭和の町がノスタルジックで・・総武線方面の江戸東京博物館も同じ様なものだが・・或るのかどうかはNetで調べてみたら・・。
アジサイのシーズンは終わったが、高いところを走る多摩モノレールで行く「高幡不動」などは、無料で直ぐ近くで不動を拝観できた。
昨日、今年の夏休みは遊興費に余裕が出来た・・などNHKの政府の宣伝だが、平均7万だったね。
7万というと、一人で新幹線で京都に二泊三日してその額だが、新宿のパークハイアットホテルの50階で二人分の夕食を「a la carte」にすると、約7万。
一千も掛からないが階段から都心の夜景が見られたのは、新橋から南に歩いたところに「正マリアンヌ病院」があって、結構高いから上がって夜景を見た事もあったが、今はどうだろう?
また、その内思い出したら・・穴場を教えてあげるよ。
文豪から・・。
小さき者へ
有島武郎
お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――父の書き残したものを繰拡くりひろげて見る機会があるだろうと思う。その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現われ出るだろう。時はどんどん移って行く。お前たちの父なる私がその時お前たちにどう映うつるか、それは想像も出来ない事だ。恐らく私が今ここで、過ぎ去ろうとする時代を嗤わらい憐あわれんでいるように、お前たちも私の古臭い心持を嗤い憐れむのかも知れない。私はお前たちの為ためにそうあらんことを祈っている。お前たちは遠慮なく私を踏台にして、高い遠い所に私を乗り越えて進まなければ間違っているのだ。然しながらお前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、或はいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ。お前たちがこの書き物を読んで、私の思想の未熟で頑固がんこなのを嗤う間にも、私たちの愛はお前たちを暖め、慰め、励まし、人生の可能性をお前たちの心に味覚させずにおかないと私は思っている。だからこの書き物を私はお前たちにあてて書く。
お前たちは去年一人の、たった一人のママを永久に失ってしまった。お前たちは生れると間もなく、生命に一番大事な養分を奪われてしまったのだ。お前達の人生はそこで既に暗い。この間ある雑誌社が「私の母」という小さな感想をかけといって来た時、私は何んの気もなく、「自分の幸福は母が始めから一人で今も生きている事だ」と書いてのけた。そして私の万年筆がそれを書き終えるか終えないに、私はすぐお前たちの事を思った。私の心は悪事でも働いたように痛かった。しかも事実は事実だ。私はその点で幸福だった。お前たちは不幸だ。恢復かいふくの途みちなく不幸だ。不幸なものたちよ。
暁方あけがたの三時からゆるい陣痛が起り出して不安が家中に拡ひろがったのは今から思うと七年前の事だ。それは吹雪ふぶきも吹雪、北海道ですら、滅多めったにはないひどい吹雪の日だった。市街を離れた川沿いの一つ家はけし飛ぶ程揺れ動いて、窓硝子ガラスに吹きつけられた粉雪は、さらぬだに綿雲に閉じられた陽の光を二重に遮さえぎって、夜の暗さがいつまでも部屋から退どかなかった。電燈の消えた薄暗い中で、白いものに包まれたお前たちの母上は、夢心地に呻うめき苦しんだ。私は一人の学生と一人の女中とに手伝われながら、火を起したり、湯を沸かしたり、使を走らせたりした。産婆が雪で真白になってころげこんで来た時は、家中のものが思わずほっと気息いきをついて安堵あんどしたが、昼になっても昼過ぎになっても出産の模様が見えないで、産婆や看護婦の顔に、私だけに見える気遣きづかいの色が見え出すと、私は全く慌あわててしまっていた。書斎に閉じ籠こもって結果を待っていられなくなった。私は産室に降りていって、産婦の両手をしっかり握る役目をした。陣痛が起る度毎たびごとに産婆は叱るように産婦を励まして、一分も早く産を終らせようとした。然し暫しばらくの苦痛の後に、産婦はすぐ又深い眠りに落ちてしまった。鼾いびきさえかいて安々と何事も忘れたように見えた。産婆も、後から駈けつけてくれた医者も、顔を見合わして吐息をつくばかりだった。医師は昏睡こんすいが来る度毎に何か非常の手段を用いようかと案じているらしかった。
昼過ぎになると戸外の吹雪は段々鎮しずまっていって、濃い雪雲から漏れる薄日の光が、窓にたまった雪に来てそっと戯たわむれるまでになった。然し産室の中の人々にはますます重い不安の雲が蔽おおい被かぶさった。医師は医師で、産婆は産婆で、私は私で、銘々めいめいの不安に捕われてしまった。その中で何等の危害をも感ぜぬらしく見えるのは、一番恐ろしい運命の淵ふちに臨んでいる産婦と胎児だけだった。二つの生命は昏々こんこんとして死の方へ眠って行った。
丁度三時と思わしい時に――産気がついてから十二時間目に――夕を催す光の中で、最後と思わしい激しい陣痛が起った。肉の眼で恐ろしい夢でも見るように、産婦はかっと瞼まぶたを開いて、あてどもなく一所ひとところを睨にらみながら、苦しげというより、恐ろしげに顔をゆがめた。そして私の上体を自分の胸の上にたくし込んで、背中を羽がいに抱きすくめた。若し私が産婦と同じ程度にいきんでいなかったら、産婦の腕は私の胸を押しつぶすだろうと思う程だった。そこにいる人々の心は思わず総立ちになった。医師と産婆は場所を忘れたように大きな声で産婦を励ました。
ふと産婦の握力がゆるんだのを感じて私は顔を挙あげて見た。産婆の膝許ひざもとには血の気のない嬰児えいじが仰向けに横たえられていた。産婆は毬まりでもつくようにその胸をはげしく敲たたきながら、葡萄酒ぶどうしゅ葡萄酒といっていた。看護婦がそれを持って来た。産婆は顔と言葉とでその酒を盥たらいの中にあけろと命じた。激しい芳芬ほうふんと同時に盥の湯は血のような色に変った。嬰児はその中に浸された。暫くしてかすかな産声うぶごえが気息もつけない緊張の沈黙を破って細く響いた。
大きな天と地との間に一人の母と一人の子とがその刹那せつなに忽如こつじょとして現われ出たのだ。
その時新たな母は私を見て弱々しくほほえんだ。私はそれを見ると何んという事なしに涙が眼がしらに滲にじみ出て来た。それを私はお前たちに何んといっていい現わすべきかを知らない。私の生命全体が涙を私の眼から搾しぼり出したとでもいえばいいのか知らん。その時から生活の諸相が総すべて眼の前で変ってしまった。
お前たちの中うち最初にこの世の光を見たものは、このようにして世の光を見た。二番目も三番目も、生れように難易の差こそあれ、父と母とに与えた不思議な印象に変りはない。
こうして若い夫婦はつぎつぎにお前たち三人の親となった。
私はその頃心の中に色々な問題をあり余る程ほど持っていた。そして始終齷齪あくせくしながら何一つ自分を「満足」に近づけるような仕事をしていなかった。何事も独りで噛かみしめてみる私の性質として、表面うわべには十人並みな生活を生活していながら、私の心はややともすると突き上げて来る不安にいらいらさせられた。ある時は結婚を悔いた。ある時はお前たちの誕生を悪にくんだ。何故自分の生活の旗色をもっと鮮明にしない中に結婚なぞをしたか。妻のある為めに後ろに引きずって行かれねばならぬ重みの幾つかを、何故好んで腰につけたのか。何故二人の肉慾の結果を天からの賜物たまもののように思わねばならぬのか。家庭の建立こんりゅうに費す労力と精力とを自分は他に用うべきではなかったのか。
私は自分の心の乱れからお前たちの母上を屡々しばしば泣かせたり淋しがらせたりした。またお前たちを没義道もぎどうに取りあつかった。お前達が少し執念しゅうねく泣いたりいがんだりする声を聞くと、私は何か残虐な事をしないではいられなかった。原稿紙にでも向っていた時に、お前たちの母上が、小さな家事上の相談を持って来たり、お前たちが泣き騒いだりしたりすると、私は思わず机をたたいて立上ったりした。そして後ではたまらない淋しさに襲われるのを知りぬいていながら、激しい言葉を遣つかったり、厳しい折檻せっかんをお前たちに加えたりした。
然し運命が私の我儘わがままと無理解とを罰する時が来た。どうしてもお前達を子守こもりに任せておけないで、毎晩お前たち三人を自分の枕許や、左右に臥ふせらして、夜通し一人を寝かしつけたり、一人に牛乳を温めてあてがったり、一人に小用をさせたりして、碌々ろくろく熟睡する暇もなく愛の限りを尽したお前たちの母上が、四十一度という恐ろしい熱を出してどっと床についた時の驚きもさる事ではあるが、診察に来てくれた二人の医師が口を揃そろえて、結核の徴候があるといった時には、私は唯ただ訳もなく青くなってしまった。検痰けんたんの結果は医師たちの鑑定を裏書きしてしまった。そして四つと三つと二つとになるお前たちを残して、十月末の淋しい秋の日に、母上は入院せねばならぬ体となってしまった。
私は日中の仕事を終ると飛んで家に帰った。そしてお前達の一人か二人を連れて病院に急いだ。私がその町に住まい始めた頃働いていた克明な門徒の婆さんが病室の世話をしていた。その婆さんはお前たちの姿を見ると隠し隠し涙を拭いた。お前たちは母上を寝台の上に見つけると飛んでいってかじり付こうとした。結核症であるのをまだあかされていないお前たちの母上は、宝を抱きかかえるようにお前たちをその胸に集めようとした。私はいい加減にあしらってお前たちを寝台に近づけないようにしなければならなかった。忠義をしようとしながら、周囲の人から極端な誤解を受けて、それを弁解してならない事情に置かれた人の味あじわいそうな心持を幾度も味った。それでも私はもう怒る勇気はなかった。引きはなすようにしてお前たちを母上から遠ざけて帰路につく時には、大抵街燈の光が淡く道路を照していた。玄関を這入はいると雇人やといにんだけが留守していた。彼等は二三人もいる癖に、残しておいた赤坊のおしめを代えようともしなかった。気持ち悪げに泣き叫ぶ赤坊の股またの下はよくぐしょ濡ぬれになっていた。
お前たちは不思議に他人になつかない子供たちだった。ようようお前たちを寝かしつけてから私はそっと書斎に這入って調べ物をした。体は疲れて頭は興奮していた。仕事をすまして寝付こうとする十一時前後になると、神経の過敏になったお前たちは、夢などを見ておびえながら眼をさますのだった。暁方になるとお前たちの一人は乳を求めて泣き出した。それにおこされると私の眼はもう朝まで閉じなかった。朝飯を食うと私は赤い眼をしながら、堅い心しんのようなものの出来た頭を抱えて仕事をする所に出懸けた。
北国には冬が見る見る逼せまって来た。ある時病院を訪れると、お前たちの母上は寝台の上に起きかえって窓の外を眺めていたが、私の顔を見ると、早く退院がしたいといい出した。窓の外の楓かえでがあんなになったのを見ると心細いというのだ。なるほど入院したてには燃えるように枝を飾っていたその葉が一枚も残らず散りつくして、花壇の菊も霜に傷いためられて、萎しおれる時でもないのに萎れていた。私はこの寂しさを毎日見せておくだけでもいけないと思った。然し母上の本当の心持はそんな所にはなくって、お前たちから一刻も離れてはいられなくなっていたのだ。
今日はいよいよ退院するという日は、霰あられの降る、寒い風のびゅうびゅうと吹く悪い日だったから、私は思い止らせようとして、仕事をすますとすぐ病院に行ってみた。然し病室はからっぽで、例の婆さんが、貰ったものやら、座蒲団やら、茶器やらを部屋の隅でごそごそと始末していた。急いで家に帰ってみると、お前たちはもう母上のまわりに集まって嬉しそうに騷いでいた。私はそれを見ると涙がこぼれた。
知らない間に私たちは離れられないものになってしまっていたのだ。五人の親子はどんどん押寄せて来る寒さの前に、小さく固まって身を護まもろうとする雑草の株のように、互により添って暖みを分ち合おうとしていたのだ。然し北国の寒さは私たち五人の暖みでは間に合わない程寒かった。私は一人の病人と頑是がんぜないお前たちとを労いたわりながら旅雁りょがんのように南を指して遁のがれなければならなくなった。
それは初雪のどんどん降りしきる夜の事だった、お前たち三人を生んで育ててくれた土地を後あとにして旅に上ったのは。忘れる事の出来ないいくつかの顔は、暗い停車場のプラットフォームから私たちに名残なごりを惜しんだ。陰鬱な津軽海峡の海の色も後ろになった。東京まで付いて来てくれた一人の学生は、お前たちの中の一番小さい者を、母のように終夜抱き通していてくれた。そんな事を書けば限りがない。ともかく私たちは幸さいわいに怪我もなく、二日の物憂い旅の後に晩秋の東京に着いた。
今までいた処とちがって、東京には沢山の親類や兄弟がいて、私たちの為めに深い同情を寄せてくれた。それは私にどれ程の力だったろう。お前たちの母上は程なくK海岸にささやかな貸別荘を借りて住む事になり、私たちは近所の旅館に宿を取って、そこから見舞いに通った。一時は病勢が非常に衰えたように見えた。お前たちと母上と私とは海岸の砂丘に行って日向ひなたぼっこをして楽しく二三時間を過ごすまでになった。
どういう積りで運命がそんな小康を私たちに与えたのかそれは分らない。然し彼はどんな事があっても仕遂しとぐべき事を仕遂げずにはおかなかった。その年が暮れに迫った頃お前達の母上は仮初かりそめの風邪かぜからぐんぐん悪い方へ向いて行った。そしてお前たちの中の一人も突然原因の解らない高熱に侵された。その病気の事を私は母上に知らせるのに忍びなかった。病児は病児で私を暫くも手放そうとはしなかった。お前達の母上からは私の無沙汰を責めて来た。私は遂ついに倒れた。病児と枕を並べて、今まで経験した事のない高熱の為めに呻うめき苦しまねばならなかった。私の仕事? 私の仕事は私から千里も遠くに離れてしまった。それでも私はもう私を悔もうとはしなかった。お前たちの為めに最後まで戦おうとする熱意が病熱よりも高く私の胸の中で燃えているのみだった。
正月早々悲劇の絶頂が到来した。お前たちの母上は自分の病気の真相を明あかされねばならぬ羽目になった。そのむずかしい役目を勤めてくれた医師が帰って後の、お前たちの母上の顔を見た私の記憶は一生涯私を駆り立てるだろう。真蒼まっさおな清々すがすがしい顔をして枕についたまま母上には冷たい覚悟を微笑に云わして静かに私を見た。そこには死に対する Resignation と共にお前たちに対する根強い執着がまざまざと刻まれていた。それは物凄すごくさえあった。私は凄惨せいさんな感じに打たれて思わず眼を伏せてしまった。
愈々いよいよH海岸の病院に入院する日が来た。お前たちの母上は全快しない限りは死ぬともお前たちに逢わない覚悟の臍ほぞを堅めていた。二度とは着ないと思われる――そして実際着なかった――晴着はれぎを着て座を立った母上は内外の母親の眼の前でさめざめと泣き崩れた。女ながらに気性の勝すぐれて強いお前たちの母上は、私と二人だけいる場合でも泣顔などは見せた事がないといってもいい位だったのに、その時の涙は拭くあとからあとから流れ落ちた。その熱い涙はお前たちだけの尊い所有物だ。それは今は乾いてしまった。大空をわたる雲の一片となっているか、谷河の水の一滴となっているか、太洋たいようの泡あわの一つとなっているか、又は思いがけない人の涙堂に貯たくわえられているか、それは知らない。然しその熱い涙はともかくもお前たちだけの尊い所有物なのだ。
自動車のいる所に来ると、お前たちの中熱病の予後にある一人は、足の立たない為めに下女に背負われて、――一人はよちよちと歩いて、――一番末の子は母上を苦しめ過ぎるだろうという祖父母たちの心遣づかいから連れて来られなかった――母上を見送りに出て来ていた。お前たちの頑是ない驚きの眼は、大きな自動車にばかり向けられていた。お前たちの母上は淋しくそれを見やっていた。自動車が動き出すとお前達は女中に勧められて兵隊のように挙手の礼をした。母上は笑って軽く頭を下げていた。お前たちは母上がその瞬間から永久にお前たちを離れてしまうとは思わなかったろう。不幸なものたちよ。
それからお前たちの母上が最後の気息を引きとるまでの一年と七箇月の間、私たちの間には烈しい戦が闘われた。母上は死に対して最上の態度を取る為めに、お前たちに最大の愛を遺のこすために、私を加減なしに理解する為めに、私は母上を病魔から救う為めに、自分に迫る運命を男らしく肩に担にない上げるために、お前たちは不思議な運命から自分を解放するために、身にふさわない境遇の中に自分をはめ込むために、闘った。血まぶれになって闘ったといっていい。私も母上もお前たちも幾度弾丸を受け、刀創きずを受け、倒れ、起き上り、又倒れたろう。
お前たちが六つと五つと四つになった年の八月の二日に死が殺到した。死が総すべてを圧倒した。そして死が総てを救った。
お前たちの母上の遺言書の中で一番崇高な部分はお前たちに与えられた一節だった。若もしこの書き物を読む時があったら、同時に母上の遺書も読んでみるがいい。母上は血の涙を泣きながら、死んでもお前たちに会わない決心を飜ひるがえさなかった。それは病菌をお前たちに伝えるのを恐れたばかりではない。又お前たちを見る事によって自分の心の破れるのを恐れたばかりではない。お前たちの清い心に残酷な死の姿を見せて、お前たちの一生をいやが上に暗くする事を恐れ、お前たちの伸び伸びて行かなければならぬ霊魂に少しでも大きな傷を残す事を恐れたのだ。幼児に死を知らせる事は無益であるばかりでなく有害だ。葬式の時は女中をお前たちにつけて楽しく一日を過ごさして貰いたい。そうお前たちの母上は書いている。
「子を思う親の心は日の光世より世を照る大きさに似て」
とも詠じている。
母上が亡くなった時、お前たちは丁度信州の山の上にいた。若しお前たちの母上の臨終にあわせなかったら一生恨みに思うだろうとさえ書いてよこしてくれたお前たちの叔父上に強しいて頼んで、お前たちを山から帰らせなかった私をお前たちが残酷だと思う時があるかも知れない。今十一時半だ。この書き物を草している部屋の隣りにお前たちは枕を列ならべて寝ているのだ。お前たちはまだ小さい。お前たちが私の齢としになったら私のした事を、即すなわち母上のさせようとした事を価高く見る時が来るだろう。
私はこの間にどんな道を通って来たろう。お前たちの母上の死によって、私は自分の生きて行くべき大道にさまよい出た。私は自分を愛護してその道を踏み迷わずに通って行けばいいのを知るようになった。私は嘗かつて一つの創作の中に妻を犠牲にする決心をした一人の男の事を書いた。事実に於てお前たちの母上は私の為めに犠牲になってくれた。私のように持ち合わした力の使いようを知らなかった人間はない。私の周囲のものは私を一個の小心な、魯鈍ろどんな、仕事の出来ない、憐れむべき男と見る外を知らなかった。私の小心と魯鈍と無能力とを徹底さして見ようとしてくれるものはなかった。それをお前たちの母上は成就じょうじゅしてくれた。私は自分の弱さに力を感じ始めた。私は仕事の出来ない所に仕事を見出いだした。大胆になれない所に大胆を見出した。鋭敏でない所に鋭敏を見出した。言葉を換えていえば、私は鋭敏に自分の魯鈍を見貫ぬき、大胆に自分の小心を認め、労役して自分の無能力を体験した。私はこの力を以もって己れを鞭むちうち他を生きる事が出来るように思う。お前たちが私の過去を眺めてみるような事があったら、私も無駄には生きなかったのを知って喜んでくれるだろう。
雨などが降りくらして悒鬱ゆううつな気分が家の中に漲みなぎる日などに、どうかするとお前たちの一人が黙って私の書斎に這入はいって来る。そして一言パパといったぎりで、私の膝ひざによりかかったまましくしくと泣き出してしまう。ああ何がお前たちの頑是ない眼に涙を要求するのだ。不幸なものたちよ。お前たちが謂いわれもない悲しみにくずれるのを見るに増して、この世を淋しく思わせるものはない。またお前たちが元気よく私に朝の挨拶あいさつをしてから、母上の写真の前に駈けて行って、「ママちゃん御機嫌ごきげんよう」と快活に叫ぶ瞬間ほど、私の心の底までぐざと刮えぐり通す瞬間はない。私はその時、ぎょっとして無劫むごうの世界を眼前に見る。
世の中の人は私の述懐を馬鹿々々しいと思うに違いない。何故なら妻の死とはそこにもここにも倦あきはてる程夥おびただしくある事柄の一つに過ぎないからだ。そんな事を重大視する程世の中の人は閑散でない。それは確かにそうだ。然しそれにもかかわらず、私といわず、お前たちも行く行くは母上の死を何物にも代えがたく悲しく口惜しいものに思う時が来るのだ。世の中の人が無頓着だといってそれを恥じてはならない。それは恥ずべきことじゃない。私たちはそのありがちの事柄の中からも人生の淋しさに深くぶつかってみることが出来る。小さなことが小さなことでない。大きなことが大きなことでない。それは心一つだ。
何しろお前たちは見るに痛ましい人生の芽生めばえだ。泣くにつけ、笑うにつけ、面白がるにつけ淋しがるにつけ、お前たちを見守る父の心は痛ましく傷つく。
然しこの悲しみがお前たちと私とにどれ程の強みであるかをお前たちはまだ知るまい。私たちはこの損失のお蔭で生活に一段と深入りしたのだ。私共の根はいくらかでも大地に延びたのだ。人生を生きる以上人生に深入りしないものは災わざわいである。
同時に私たちは自分の悲しみにばかり浸っていてはならない。お前たちの母上は亡くなるまで、金銭の累わずらいからは自由だった。飲みたい薬は何んでも飲む事が出来た。食いたい食物は何んでも食う事が出来た。私たちは偶然な社会組織の結果からこんな特権ならざる特権を享楽した。お前たちの或るものはかすかながらU氏一家の模様を覚えているだろう。死んだ細君から結核を伝えられたU氏があの理智的な性情を有もちながら、天理教を信じて、その御祈祷きとうで病気を癒いやそうとしたその心持を考えると、私はたまらなくなる。薬がきくものか祈祷がきくものかそれは知らない。然しU氏は医者の薬が飲みたかったのだ。然しそれが出来なかったのだ。U氏は毎日下血しながら役所に通った。ハンケチを巻き通した喉のどからは皺嗄しわがれた声しか出なかった。働けば病気が重おもる事は知れきっていた。それを知りながらU氏は御祈祷を頼みにして、老母と二人の子供との生活を続けるために、勇ましく飽あくまで働いた。そして病気が重ってから、なけなしの金を出してして貰った古賀液の注射は、田舎の医師の不注意から静脈を外はずれて、激烈な熱を引起した。そしてU氏は無資産の老母と幼児とを後に残してその為めに斃たおれてしまった。その人たちは私たちの隣りに住んでいたのだ。何んという運命の皮肉だ。お前たちは母上の死を思い出すと共に、U氏を思い出すことを忘れてはならない。そしてこの恐ろしい溝みぞを埋める工夫をしなければならない。お前たちの母上の死はお前たちの愛をそこまで拡げさすに十分だと思うから私はいうのだ。
十分人世は淋しい。私たちは唯そういって澄ましている事が出来るだろうか。お前達と私とは、血を味った獣のように、愛を味った。行こう、そして出来るだけ私たちの周囲を淋しさから救うために働こう。私はお前たちを愛した。そして永遠に愛する。それはお前たちから親としての報酬を受けるためにいうのではない。お前たちを愛する事を教えてくれたお前たちに私の要求するものは、ただ私の感謝を受取って貰いたいという事だけだ。お前たちが一人前に育ち上った時、私は死んでいるかも知れない。一生懸命に働いているかも知れない。老衰して物の役に立たないようになっているかも知れない。然し何いずれの場合にしろ、お前たちの助けなければならないものは私ではない。お前たちの若々しい力は既に下り坂に向おうとする私などに煩わずらわされていてはならない。斃れた親を喰くい尽して力を貯える獅子ししの子のように、力強く勇ましく私を振り捨てて人生に乗り出して行くがいい。
今時計は夜中を過ぎて一時十五分を指している。しんと静まった夜の沈黙の中にお前たちの平和な寝息だけが幽かすかにこの部屋に聞こえて来る。私の眼の前にはお前たちの叔母が母上にとて贈られた薔薇ばらの花が写真の前に置かれている。それにつけて思い出すのは私があの写真を撮とってやった時だ。その時お前たちの中に一番年たけたものが母上の胎に宿っていた。母上は自分でも分らない不思議な望みと恐れとで始終心をなやましていた。その頃の母上は殊に美しかった。希臘ギリシャの母の真似まねだといって、部屋の中にいい肖像を飾っていた。その中にはミネルバの像や、ゲーテや、クロムウェルや、ナイティンゲール女史やの肖像があった。その少女じみた野心をその時の私は軽い皮肉の心で観ていたが、今から思うとただ笑い捨ててしまうことはどうしても出来ない。私がお前たちの母上の写真を撮ってやろうといったら、思う存分化粧をして一番の晴着を着て、私の二階の書斎に這入って来た。私は寧むしろ驚いてその姿を眺めた。母上は淋しく笑って私にいった。産は女の出陣だ。いい子を生むか死ぬか、そのどっちかだ。だから死際しにぎわの装いをしたのだ。――その時も私は心なく笑ってしまった。然し、今はそれも笑ってはいられない。
深夜の沈黙は私を厳粛にする。私の前には机を隔ててお前たちの母上が坐っているようにさえ思う。その母上の愛は遺書にあるようにお前たちを護らずにはいないだろう。よく眠れ。不可思議な時というものの作用にお前たちを打任してよく眠れ。そうして明日は昨日よりも大きく賢くなって、寝床の中から跳おどり出して来い。私は私の役目をなし遂げる事に全力を尽すだろう。私の一生が如何いかに失敗であろうとも、又私が如何なる誘惑に打負けようとも、お前たちは私の足跡に不純な何物をも見出し得ないだけの事はする。きっとする。お前たちは私の斃れた所から新しく歩み出さねばならないのだ。然しどちらの方向にどう歩まねばならぬかは、かすかながらにもお前達は私の足跡から探し出す事が出来るだろう。
小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
行け。勇んで。小さき者よ。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず。夏目漱石」
「道徳は常に古着である。芥川竜之介」
「取らねばならぬ経過は泣いても笑っても取るのが本統だ。志賀直哉」
「多勢は勢ひをたのみ、少数は一つの心に働く。志賀直哉」
「自分の心は秤のようなものである。人の都合で上下したりはしない。軍師諸葛亮孔明 」
「by europe123 」
https://youtu.be/GHATt1WXYT
TV放談にUSA大統領、その他全般 a la carte 。文豪有島武郎「小さきものへ」掲載。