虹色湖

一定の感覚で身体を揺する、心地よい電車のリズムに耳を澄ませる。
昼下がりの眠気に意識を遊ばせながら、視線をボンヤリと手元の本に落とした。
特に面白いというわけでも、読まなければならないというわけでもなく、電車に乗るための小道具としての本だ。
表面に印字された活字は、何事か語りかけようとしているが、私の意識の表面を通り抜けることは出来ない。
まどろむような感覚の中、電車は止まることなく進んでいく。

大きなため息のような音を立てて、電車が扉を開いた。
何時の間にか停車していたようだ。
周りを見渡しても、他に乗客の姿は見当たらない。
しばらく待ってみても、再び走り出す気配はみえないので、とりあえず私も電車を降りてみることにした。

電車の外にはホームのようなものはなく、目の前には虹色に揺らめく湖が広がっていた。
風に水面が揺れるたび、滲むように色が混じり合う。
目を凝らすと、湖の底から背の高い植物が、湖面ぎりぎりまで葉を伸ばしている。
その色とりどりの葉や花が、波に揺られ陽の光を受けて、湖を幻想的な色に染めてた。
私は湖の美しさに言葉を失い、時を忘れて立ち尽くした。

「ここは人々の想い出が眠る場所。想い出は時たま風が吹く様に現れて、湖越しに眺めるから、どれも美しいのです。決して、その中に手を伸ばそうなどと考えてはいけません」
湖の方から波の揺れる音に混じって、小さな声が聞こえてきた。
声は聞こえるのだが、姿は見えない。
私が辺りを見回していると、足元で何かが、ガサガサと草むらを掻き分ける音がした。
私が膝を曲げ、草の間を覗き込むと、薄茶色の長い髪が見えた。
間違いなく人の頭だが、背丈は私の膝までもなく、おとぎ話に登場する小人を思い起こさせた。
私がいくつかの草を手でどけてやると、小人は一瞬私の顔を見上げ、お辞儀をするような格好で、草むらの外へ足を踏み出した。
長く美しい髪に、最初は女性かと思ったが、よく見ると男性的な顔立ちをしている。
両目は閉じられ、手には白い杖を持っているのが印象的だ。
埃にまみれた衣をまとっているが、汚らしい印象はない。

「今のは、君が喋ったのかい」
私は腰を曲げたまま、小人に尋ねた。
小人は少し微笑み、軽く頷いてから、私に尋ね返した。
「あなたは、何を捨てにこの場所に来たのですか」
風が草を撫でる様な、か細く軽やかな話し声だ。
「私はただ電車に乗っていて、気づいたらこの場所にいたんだ。
目的があって、ここにいるわけじゃないんだよ。
それより君は、この場所に詳しいのかい。
それなら、帰り方を教えてもらえると助かるんだけど」
振り返っても私の乗ってきた電車は影も形もなく、電車を運んできた線路さえ消えてしまっていた。
「ここから帰る、それは難しいことではありません。
目的もなく、この場所に辿り着くことはあり得ないのですよ。
あなたがこの場所でやるべきことを行えば、あとは望む望まないに関わらず、自然ともといた場所に帰っていく、そういう決まりなのです」

小人は顔を真っ直ぐ私に向け、閉じられた両目を通して、私の心の奥を覗き込んでいるようだった。
頭上では太陽の下を幾つかの雲が横切っていく。
陽の光は地上を照らし、薄茶色の小人の長い髪が風に揺れ、金色に輝いていた。
「あなたは深い悲しみを抱えてこの場所を訪れたのですね。それは、大切な人との別れでしょうか。
悲しみがあなたの身体を締め付けているのが分かります。
それがあなたがこの場所を訪れた理由ですね。
さぁ、その悲しみを湖に沈めてしまいましょう」
そう言うと、小人はキラキラと虹色に輝く湖を指差した。
私はその言葉をしばらく心の中で反芻すると、深く息を吸い込んだ。
「君の言うとおり、確かに私は大切な人との別れ、そういう悲しみを抱えている。
長く私を苦しめている、ある種の呪いの様なものと言えるかもしれない。
それを湖に沈めるということは、この悲しみを美しい想い出として、あの光の一つに変えてしまうということなんだね」
私はもう一度湖へ視線を移す。
様々な色が混じり合った、幻想的な美しさだけが揺れていた。
「残念だけど、この悲しみはあの場所に沈めてしまうわけにはいかないんだ。
美しいだけの想い出には変えられない」

小人は黙って私の話に耳を傾けていた。
「あなたをこの場所に呼んだのは、間違いなくその悲しみです。
あなたの心や身体が悲しみを抱えきれなくなったからでしょう。
しかしあなたは、その悲しみを手放すことは出来ないという。
矛盾していますね」
小人は少し微笑み、軽く頷いてから、私に尋ね返した。

「抱え切れない程の悲しみだから、簡単に想い出にしてしまってはいけないこともあるんだ。
この悲しみや苦しみは私だけのものなんだから。
悲しみや苦しみは、人生において、ある意味では同じ価値を持つと思うんだよ、私は」
誰かに話すというよりも、自分自身に語りかけるような、一語一語が湿りけを含んだ声だった。
「そうですか、あなたのお考えは分かりました。
しかし、困りましたね。
先ほども申し上げた通り、この場所を抜け出すには、記憶を想い出に変えなければいけません。
しかも、記憶なら何でも良いという訳でもない」
あまり困っている風ではないが、小人は口元に手を当てて何事か考えている、という様子を見せている。
「それではこういうのは、どうでしょうか。
この湖には、辛い記憶の他に、手放したくない幸せな記憶を沈めることもできます」
「幸せな記憶を沈めても、ここから出ることが出来るのかい」
尋ねる私の勢いを受け流すような形で小人は続けた。

「帰ることは出来ます、が、一つだけ違うことがあります。
楽しい記憶を沈めた場合には、その記憶はあなたの中から永遠に失われてしまい、二度と浮かんでくることはありません。
喪失感だけが心のぽっかり空いた場所に残るのです」
ゆっくりと波打つ湖は、私の決断を今か今かと待ちわびているようだ。
風が強く吹き、足元の草を巻き上げた。
小人は微動だにせず、無言で私に問いかけてくる。
私は両方の手に乗せられた記憶を眺めた。
一方は陽だまりの様な温もりを感じさせ、もう一方は手当たり次第に水彩絵具を掛け合わせたような鈍色をしている。
しかし、どちらの記憶も同じだけの質量を持っていた。
私はゆっくりと湖には向かって足を進めて行く。
小人の顔にはどこか楽しげな色が揺れている。
手を伸ばせば、湖に手が届く場所まで来ると、私は足を止めた。
ひとつ大きく息を吐き出す。
私にとって過ぎ去った時間は、これから訪れる未来よりも捨てがたいものになっていたことに気づいた。
水面には苦悩する年老いた私の顔と、いつかの青空が映っていた。

虹色湖

虹色湖

一定の感覚で身体を揺する、心地よい電車のリズムに耳を澄ませる。 昼下がりの眠気に意識を遊ばせながら、視線をボンヤリと手元の本に落とした。・・・

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-06

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