Satellites

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聴いてほしい曲があるんだ――ある日「僕」は、以前CDショップで共にアルバイトをしていた「ダンさん」に呼ばれ、彼の経営するバーを訪れる。彼が作ったという曲を聴いて感動したのもつかの間、ある頼みごとをされて……

※6月9日のロックの日に向けて考えていたお話です。BLのつもりで書いたわけではなかったのですが、最終的にBLっぽい雰囲気になってしまいました。苦手な方はご注意ください。

 雨の日の駅は水槽だと思う。ガラス張りの駅舎が曇天に浮かんでアクアリウムのように見えるから。ゆらゆらと尾ひれをなびかせて、魚たちは外へ出ていく。自分の役目を果たす場へ、愛する人のもとへ、楽しいことが待っている場所へ、そしてそのどれでもないどこかへ。それぞれの意志で。
 約束の時間に七分遅れて、僕は“closed”のプレートが掲げられた茶色の扉を開けた。遅刻を詫びる僕に「五分かそこらじゃ遅刻のうちに入らないだろ」と言って笑うその人は、髪を肩下まで伸ばし、腕にはびっしりタトゥーが施され、ごついシルバーリングが右手の人差し指で鈍く光っている。全体的に薄暗い照明の中、カウンターの真上のライトに照らされて、少し眠そうな目が長いまつ毛を上下させた。
 駅裏でひっそりと営業しているこのバーも、もうすぐ三周年になる。今僕の目の前に居る人がオーナーで、彼とは大学時代のアルバイト先で仲良くなった。ロックを愛する青年と地味な男子学生では不釣り合いに見えただろうけど、僕たちを結び付けてくれたのは音楽だった。今はもう閉店してしまったCDショップで僕はロックミュージックと出会い、ダンさんと出会った。この出会いが、僕の人生を少しだけ変えたのだ。
「雨、降られなかったのか?」
「折り畳み傘持ち歩いてますから、平気です」
「さすがだな。俺ん家にはビニール傘が五本あるよ。そのうち二本は破けてて一本は骨が折れてる」
「捨てないんですか?」
「一本一本思い出があるからな」
 女のひとの思い出ですか、と聞きかけてやめた。以前この店に来たとき、ダンさんが女性とまさにまぐわおうとしている場面に出くわしたことがある。それも二回。それぞれ違うひとだった。開店前に連絡も無しに来てしまった僕が悪いのだけど、それ以来僕は今日のように事前の約束が無い限りこの店には寄り付かなくなってしまった。
「それにしても久しぶりだな」
「転職したので、新しい仕事に慣れるのに必死だったんですよ」
「たまには息抜きも必要だぞ。もっと来てくれてもいいのに。寂しいじゃないか」
 そう言って、ダンさんはグラスにジンジャエールを注いでくれる。僕がいつも飲んでいる少し辛味の強いものを。こういう気配りも、寂しいという言葉をさらりと言えてしまうところも、彼の魅力であると同時にこわいところだ。
 静かな店内で、シュワシュワと気泡が弾ける音だけが聞こえている。強い炭酸を飲み下し、ジンジャーの香りを味わっていると、ダンさんは言った。
「聴いてほしい曲があるんだ」
 見れば、カウンター裏に置いてあったギターを取り出し、アンプに繋いで演奏の準備を始めている。
「ライブでやるんですか?」
 狭いながらも演奏スペースを備えたこの店では度々ライブが開催されていて、主に地元のアマチュアアーティストが出演していた。ダンさん自身がサポートとしてステージに立つこともある。このギターもダンさんのものだった。
「いや、ライブではやらないよ。まだな」
「まだ?」
「まあ聴け」
 チューニングを済ませ、ジャッ、と一度勢いよく弦を弾くと、ダンさんは静かに呼吸を整えた。
 朝の訪れを知らせるような優しく囁く音色から、その曲は始まった。だけどすぐにその音は歪みを増し、音符の階段をせわしなく上がったり下ったりしながら勢いをつけていく。いったんスローになったテンポの中で音の上り下りはゆるやかになり、なにか大きな流れに身を任せるような心地がした瞬間、ギターが突然音の階段を駆け上り始めた。そのまま一気に最上階まで到達すると、華やかなコードがジャーンと鳴って、聴き手の体も空へ投げ出される。そこに重力は存在せず、星々が近づいたり離れたりしながら、それぞれの軌道を進んでいる……
「宇宙、ですか?」
 曲が終わり、空気の震えを最後まで見送ってから、僕は言った。
「あたり。よく分かったな。タイトルは“Satellites”にしようかと思ってる」
「衛星……良いですね。スピード感がある中にも雄大さが感じられて、ぴったりだと思います。途中、速弾きで上がったり下がったりするところなんて最高じゃないですか。星ってものすごいスピードで動いているものだし。最後も良かったです。あれだけ激しかった演奏がふっと終わるのが、なんていうのかな……強い光が、暗闇の中にだんだん遠のいていくような感じがして、それこそ宇宙、っていうような……」
 にやにやと僕の顔を眺めるダンさんを見て初めて、自分がしゃべり過ぎていることに気がついた。気まずさをごまかすために飲んだジンジャエールは、すっかり炭酸が抜けてしまっていた。
「すみません、偉そうに」
「いいんだ。むしろ嬉しい。俺が弾いた曲をここまで理解してくれるのはお前だけだよ」
 そう言うなり、ダンさんは僕の肩にぽんと手を置いた。さっきまででフレットの上を踊るように行き来していた指が僕の右肩を包んでいる。その熱に気をとられていると、ダンさんは言った。
「歌詞を書いてくれないか」
 思いがけない言葉に唖然としていると、ダンさんはもう一度「この曲に詞を書いてほしい」と言った。
「出来ません」
「どうして」
「書くのはもうやめました」
「それでお前は生きていけるのか?」
「大丈夫ですよ。生きていくために仕事も変えたんですから」
「そういう意味じゃない。こっちの問題だ」
 とん、とダンさんの人差し指が僕の胸の真ん中を突く。お前には文章を書く才能があるよと言った時と同じ眼差しで。
「この店の三周年記念にライブをやる。そのときに俺のオリジナル曲としてソロでやりたい。英詞で頼む」
「引き受けるだなんて言ってませんよ」
「言っただろ。俺の曲を理解してくれるのはお前しかいないんだ」
「……」
 本当にずるい人だと思う。だけどそれを直接本人にぶつける勇気が僕には無い。ずっと前から、僕はダンさんの衛星軌道上をぐるぐる回っていただけなのだから。
「デモを渡しておく。二週間後にまた来てくれ」
「ダンさん……」
「いいか。お前には来ないという選択肢もある。一応な。だけど俺にはわかる。お前は来るよ。最高の歌詞を持ってな」

 CDショップでアルバイトをしていた頃、あるアーティストのアルバムが発売されたとき、売り場を少し広めにとって、それまでの作品からニューアルバムに至るまでを詳細に書いたポップを置いたことがあった。ちょっとした伝記と言っていいほどのボリュームで、自分で言うのもなんだけど、僕なりの曲の解釈なんかも盛り込んだ大作だったのだ。読んでくれる人が居るのかという不安も杞憂に終わり、お客さんはポップをじっくり読んで、アルバムを手にレジまでやってきた。嬉しかった。だけど一番嬉しかったのは、ダンさんに褒めてもらえたことだった。
「これ、お前が書いたのか」
「そうですけど」
「お前そんなにロック聴いてなかっただろ」
「勉強したんですよ。ファーストアルバムから順に聴いていって、歌詞とかアレンジとか比較してたら自由研究のまとめみたいなポップになっちゃったんですけど……」
「いや、これで良い。アーティストへの愛と敬意を感じるし、こんなふうにすすめられたら誰だって聴いてみたくなるよ。お前の書く文章が良いんだろうな」
 ここで調子に乗ってしまったのがいけなかったのかもしれない。それ以来僕は拙い言葉で詩作をするようになったのだった。
「良く書けてる。あの歌手もお前が詞を書いた方が売れるんじゃないのか」
「ちょっと、勝手に見ないでくださいよ」
「まあそう言うなって。本当に良い出来だよ。やっぱりお前には才能がある」
「また適当なことを……」
 ダンさんは僕の創作ノートを盗み見ては感想を聞かせてくれた。ノートに書き込みがしてあったこともある。密かに表現の仕方を変えればいつも気づいてくれたし、僕の詩の一番の理解者であり唯一の読者だった。そうして創作ノートが交換日記の役割を果たすようになって数か月が過ぎたころ、ダンさんは突然店をやめてしまった。僕は創作のモチベーションと唯一の読者を同時に失ったのだ。
 その後僕は就職活動で忙しくなり、自分が詩作を嗜んでいたことすら忘れたまま、大学卒業とともにバイトも辞めた。ダンさんがバーを始めたと聞いて何度か遊びに行ったときも、創作の話なんて一度もしたことがなかった。なのにどうして急に……
 ダンさんが指定した二週間のうち、最初の一週間は作詞のこともデモの存在も完全に無視して過ごした。だけどそこから一日一日と過ぎるうちにだんだんとこの問題が重たく感じられてきて、僕は期限を待たずに無理ですと直接伝えに行くことにした。
 残業をしても外で食事をして帰るくらいの余裕がある生活に、最初のうちはなかなか慣れなかった。新卒で入った会社は所謂ブラック企業で、部署の人数では明らかにさばき切れない量の仕事を毎晩終電までかかって終わらせていたから。詩を書きたいという気持ちを持ち続けていたとしても、ここ数年の僕にはきっと書けなかっただろうし、書かないでいるうちに書き方だって忘れてしまった。そのことに不思議と寂しさは感じなかった。そうやって色んなことに適応していくのが大人というものだろう。
 駅を出て線路沿いの道を行くと、バーに続く路地の入口にイーゼル看板が出してあった。どうやら今日はライブの日らしい。ゆっくり話せそうもないので引き返そうかと思ったら、セットリストの曲名が目に入った。
(ロックの曲が少ない。ポップスばっかり……)
 あの店はもともとロックバーとして開店したはずだった。これまでもリクエストがあれば邦楽洋楽問わず演奏していたけれど、ポップス曲をやったことなんてあっただろうか。なんだか嫌な予感がして、僕はそのまま店へと向かって歩き出した。
 陽が沈んで夜の色が濃くなるにつれて、街が浮かれ始めている。もう既にお酒が入っている様子の人や、これから飲みに行くのであろう人たちとすれ違う。どこか浮足立った街の雰囲気とは反対に、僕の足は重かった。
 バーの扉の前に立つと、中からバンド演奏の音が漏れ聞こえていた。思い切って扉を開けようとしたとき、ちょうど中から出てきた人とぶつかりそうになる。すみません、と言い合ってふと店内を覗くと、ギターを弾くダンさんの姿が目に入った。
 演奏していたのは、最近耳にすることの多い流行のポップスソングだった。音楽のジャンルに優劣なんてない。それが大前提だとしても、これがダンさんのやりたいことだったのだろうか。僕にはそう思えなかった。ステージに立つダンさんも、音楽を奏でているギターも、ちっとも幸せそうじゃなかったから。
 結局僕は店に入らずそのまま帰宅した。どんな顔をしてダンさんに会えばいいのか、わからなかったからだ。
 来た道を戻って電車に乗ってしまうと、悔しいような悲しいような気持ちになって、危うく泣いてしまうところだった。
『俺の曲を理解してくれるのはお前しかいない』
 この言葉を、ダンさんは一体どんな思いで僕に言ったのだろう。もしかしたらダンさんは昔の僕と同じなのかもしれない。作りたいという気持ちと出来上がった作品を、ただ共有する存在を欲しているんじゃないだろうか。僕たちはきっと、同じ星の衛星だったんだ。数年前に偶然重なった星が一度離れて、今また近づいているんだろう。
 日々をただ生きるなら誰にだって出来る。心を込めて自分の人生を生きるために、ときには軌道を修正しなくちゃならない。人間は星と違って自分の道を決められるのだから。
 書き方なんて忘れてしまった。上手く書けるかわからない。でも、書きたい。書いてあげたい。ダンさんのために。

 期限を五日過ぎて、僕はやっと歌詞を書き上げた。急遽午後休をもらってダンさんの店へと急ぐ。とにかく早く見てほしくて、もういちどあの曲を弾いてもらいたくて、僕は“closed”のプレートを激しく揺らして扉を開けた。
「ダンさん!」
 カウンターにその姿は無く、僕は店内をぐるりと見渡した。ステージと反対側のボックス席、その隅にダンさんは居た。きれいな女の人を跨らせて。
 見知らぬ男が突然登場したことに驚いた様子で、その女性はダンさんの上から飛び降りた。脱ぎかけた服を急いで着ているのが視野の端に映る。僕はそっちを見ないように気をつけながら、ダンさんの目を見て言った。
「歌詞、出来ましたよ」
「お前にしては遅かったな。来ないかと思ったよ」
「だいたい二週間っていう期限が無茶なんですよ。ひとに詞を書かせておいて自分は女の人といちゃついてるなんて……そもそも店に女を連れ込むこと自体どうかしてます。女なんて抱いてないでさっさとギターを持ってきてください」
 女なんて、という言い方が気に障ったのか、女性が僕を睨みつけているのがわかる。ダンさんはそれを見て噴き出し、とうとう声をあげて笑いだしてしまった。
「悪かったよ。たしかに二週間は無茶だったな」
「そんなことは今更どうでもいいです。それに、五日やそこらじゃ遅刻のうちに入らないでしょう」
 ふん、と一度鼻を鳴らしてから、それもそうだなとダンさんは言った。この間にすっかり服を着終えた女性は、僕とダンさんの顔を交互に見やり、わけがわからないとでも言いたげな様子で首を振りながら出て行った。
「始めるか」
 女性の背中を見送ると、ダンさんは何事も無かったかのようにギターをアンプに繋ぎ始めた。少しずつボリュームを上げながら弦を弾いている。眠っていたギターが目を覚まし、楽しそうに鼻歌を歌っているみたいだった。
「見せてくれ」
 差し出された手に黙ってメモを渡す。そういえば、自分が書いたものをこんなふうに堂々と見せたのはこれが初めてだった。ダンさんの視線が紙の上を何度も行き来する間、なんだか僕自身を見つめられているようで落ち着かない。耐え切れずにもじもじし始めたころ、ダンさんは急に「悪かったよ」と言った。
「何がです? 作詞のことですか? それともさっきの女の人?」
「お前の詩を読んでやれなかったこと」
 冗談のつもりで言ったことに真面目な声が返って来たので、僕はすぐに反応出来なかった。視線と一緒に指先を詞の上に滑らせながら、ダンさんは続ける。
「やりたいことをやるためにこの店を始めたはずだったのに、時間がたてばたつほど、どんどん自分が行きたい方向に行けなくなるような感覚があって焦ってたんだ。俺にとってお前の詩がひとつの指針になってたんだろうな。それに気づくのが遅すぎた。そのせいでお前に無理を言うことになって、悪かったよ」
 ダンさんがこんなふうに思いつめた表情をするのは初めてだった。僕より年上で、どこか飄々としていて、それでいて自分の生き方をちゃんと持っている。僕はダンさんをそういう人だと思っていた。もちろんそれも正解なのだろうけど、不安や後悔がひとつも無いわけじゃないだろう。星の裏側が見えないのと同じように。
「今度からはもっと余裕をもった納期でお願いします」
 僕の言葉に顔を上げたダンさんは、一瞬ぽかんとして、それから少し笑った。
「社会人の基本ですよ」
「厳しいね」
「仕方ないじゃないですか。それにあなたには僕の言葉が必要なんでしょ。それをあなたの声で歌ってください」
――僕のために。


I was a satellite
waiting for you to come

All alone
Go around and around
How long do I have to be alone ?
Without you
I don't know where I am
Even who I am
Without you ……


 それから約一か月後に行われた開店三周年ライブは控えめに言っても大成功だった。原点回帰をテーマに掲げ、セットリストをロックで統一した。これがお客さんにも好評で、ダンさんはまた新しい“ファン”を獲得したようだった。ダンさん主演でやるライブも増えて、演奏の後はほぼ毎回間違いなくお客さんに囲まれてしまう。ライブの無い日か開店前に行かない限り、店でダンさんとゆっくり話すのは難しいくらいだった。
「モテる男は忙しいですね」
「なんだよ。拗ねてるのか?」
「別にそういうんじゃ……それより、この前みたいにドアを開けたら裸の女の人が居るなんて勘弁してくださいよ。心臓に悪いです」
「心配するな。『女なんか』もう呼ばないよ」
「あなたって人は……」
 僕を揶揄うように笑うダンさんの腕には相棒のギターが抱えられている。こいつも出番が増えて最近は忙しそうだ。
「次はどんな曲にするんですか」
「そうだな……」
 アンプに繋がれていない乾いた音で、ダンさんは音を探り始める。その一音一音に乗せる言葉を探しながら、僕はその日二杯目のジンジャエールを飲み干した。

Satellites

最後までお読みいただきありがとうございます。

この二人のように、自分の作品をわかってくれる人がいるのは心強いですよね。でも、ひょっとしたら誰かに認められることが呪いになることもあるのではないでしょうか。それを解くには自分の意志が何よりも大切なのかもしれません。

作中に登場する英詞も自分で書きました。一応調べながら書いていますが、文法等間違いがあったらごめんなさい。

Satellites

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-07-19

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