くたばれバレンタイン
「くたばれバレンタイン!」
先輩は研究室に入って来るなりそう言うと、拳を振り上げた。くたばれ、だなんて穏やかではない。常人であれば先輩に何があったか聞くところだろうけれど、悲しいかな私は先輩の奇行に慣れて、いや慣れきっている人間の1人である。というわけで私は何か余計なことを言うのではなく、先輩の気が済むまで恨み言を吐き出させることにした。
担当教授のご厚意でいただいたコーヒーメーカーのスイッチを入れ、カプセルをはめ込む。先輩が好きなチョコモカを淹れよう。戸棚から先輩用のマグを出して、ティッシュで軽く中を拭う。
「ああ、何がバレンタインだ、元となった聖者も知らん癖に。ああ嘆かわしい、嘆かわしい! 第一この国は神道と仏教の国だ! 異国の宗教の祭典に惑わされるなど実に嘆かわしいことだとは思わないかね。どこもかしこも甘ったるいにおいと甘ったるい空気に満ち満ちていて、この神聖なる学び舎ですらも例外でない。あっちに行けば誰それがチョコをもらった、こっちに行けば何某が告白をされただの、ああ実に愚かなるかな人類よ! そもこの国におけるチョコレートを贈る習慣などというのはね、チョコレート会社が売り上げのために作り出した陰謀なのだよ、陰謀! 本来は花束だとか、そういうもっと素敵なものを贈り合うものなのだ! 断じてチョコレートなどという甘ったるくてとろけちゃうようなものを贈る日ではない!」
先輩はこの長口上を言い切ると、肩で息をした。ちょうどチョコモカが出来上がったからマグを渡すと、「いややはり君は気が利くね」とありがたいようなありがたくないようなお褒めの言葉をいただいた。
「学生は学問を修めるべきだとは思わないかね?」
「その通りだと思います」
「そう! 本来、君や私のような学生が大衆であるべきなのだよ。なんと言っても大学は研究機関なのだからね。学究の徒として、脇目を振らず研究に明け暮れてこそ、学生としての本分を果たしたことになる」
この言葉を聞くのは3回目だ。なんだかんだでこの研究室とは長い付き合い、というか学部1年生の時からの付き合いだ。つまり先輩ともそれだけ長く付き合っていることになる。先輩は毎年、バレンタインに何も貰えずに恨み節を回しに回し、ぶん回しているというわけだ。ここまで進歩がないと逆に少し面白く見えてくるのだが、黙っておこう。
チョコモカを飲み干した先輩の怒りの矛先は、図書館前広場で告白をしていたカップルに向いた。神聖なる図書館を汚すとは何事か、と怒り狂っている。そりゃあ先輩は人と顔を突き合わせるよりも図書館に篭っているか、どこかフィールドワークに出ているかの方が多いだろうけど、大半の学生にとっては図書館前広場なんて友人と待ち合わせに使うか、天気のいい日にベンチに座ってお昼を食べるか、近所の野良猫が日向ぼっこをしているのを眺める場所でしかない。かくいう私も、図書館といえばメディア資料、メディア資料の名のもとに購入されている名作映画を見る場所であるから、先輩に知られたらきっと「君もあの嘆かわしい俗物どもと変わらないのか」と言われてしまうこと請け合いだ。黙っておこう。
「……ああ、くたばれバレンタイン……。日本のバレンタインはおかしい、何がおかしいって私に何もないのがおかしい」
恨み言をぶん回しにぶん回すこと実に47分。やっと素直になった。毎年バレンタインの度に構内中を回って良い雰囲気になっている男女を見つけに行っているという事実については黙っておいてあげよう。先輩の心の平和のためにも。いやもしかしたら気づいているかもしれないけれど、他人に指摘されたら今度こそ先輩のプライドは粉々に砕け散って、憤死してしまうかもしれない。そんな古代中国の人々のような死因は先輩としても嫌だろう。
「何がいけないんだろうな……。やはりこの僻み根性か。女性からの目云々ではなく、客観的に見た場合、己に魅力など感じないからな、こんな男嫌われて当然だ」
傲岸不遜で自信満々の先輩にしては珍しいことにへこんでいる。やはりこの4年間、見ていたのは3年間だけど最初の1年目で何かしらの贈り物をもらえていたらここまで拗らせることはないだろうから4年間とカウントして、バレンタインに贈り物をされなかったという事実が今更になって心に来ているのかもしれない。先輩の言葉を借りるとするならば実に愚かしいことだ。
「顔も中の下だし、取り立てて背が高いわけでも、体つきががっしりしていて、「ああ、この人なら守ってくれそう!」と思わせるような体をしているわけでもない。私にあるのは研究だけだ。研究に明け暮れ、研究こそが恋人だと思い込んでいた」
「……そういう生き方もありだと思いますけどね。私は向いていると思いますよ、研究者。先輩は一途ですし」
「研究は確かに面白い。興味も尽きないし、何よりも私を魅了してやまない。我が一生を賭しても解明できないこともあるに違いない。だからこそ、良い。だが大学で研究に打ち込んで独りっきりの家に帰った時、思うのだよ。ああ、寂しいなぁと」
寂しい、とは先輩らしくもない弱気な言葉だ。続きを促すまでもなく、先輩はつらつらと語る。
「万年床の周囲に積み上がった人類の叡智の結晶。地震が来た時それに埋もれて死ぬのはまぁやぶさかではないが、たまには湯たんぽ以外のぬくもりと共に眠りたい」
期せずして先輩のお家事情が分かってしまった。いや、概ね予想通りなのだが。
「食事も、誰かの手料理が食べたい。もうインスタント麺をお湯でふやかす食事には飽きた。カップラーメンなんてもうとっくに食べ尽くしたから、近所のエスニックフード店でミーゴレンやフォーなんかも買ってみたんだ。生春巻きだって巻けるぞ。だがしかし、誰かの手料理が食べたい。最後に肉じゃがを食べたのは一体いつだろうか……」
先輩が遠くを見つめる。物思う先は自宅かそれとも実家か。おそらく後者、ついでに言うならば恋うるのは母の手料理というやつだろう。
ああ、やれやれ。この悲しい人に付き合っていたらいつまでも渡すものも渡せまい。意を決して、カバンから2日前に買ったチョコレートを取り出した。包装に崩れはない。
「先輩」
「なんだい」
「先輩にはいつもお世話になっているので、チョコレートです。甘いもの、嫌いじゃないですよね」
私の言葉に、先輩は目を真ん丸に見開いた。いつも眠たげな一重の瞳が真ん丸になったのだから、私ですら「この人の目はこんなに開くのかしら」と思ったほどだった。
「君から貰えるとは思ってもいなかったよ。有難う。……それがたとえ、どのような理由からくるチョコレートであっても、バレンタインに貰ったチョコレートであることには変わりがないからな。うむ、今年はようやく真人間としてカウントされたに違いない」
先輩はもう一度、有難うというと箱を大事そうにしまい込んだ。その姿は野生の動物が餌を隠す姿によく似ていた。
気づいていないんだろうなぁ、気づくはずないよなぁ。そんな気持ちは笑顔で覆い隠して、チョコモカのおかわりはいかがですか? と尋ねた。
くたばれバレンタイン