底の水魚

 歩きなれた道を、歩く。アスファルトを叩く靴の音は軽快に聞こえるだろう。今の私の姿を見た人は、一体どう思うだろうか。何かを楽しみにしているように見えるのだろうか。それとも、左手にあるスーパーのロゴの入ったレジ袋を見て、豪華な食事でも作るのだろうかと思うのだろうか。
 とはいえ周囲の人がどのような想像、あるいは妄想を膨らませようと、本質には迫れないだろう。なぜなら私ですら、どのような理由、目的を持ってそこに行くのか、まったく理解していないからだ。
 右手に現れた白亜のマンションのエントランスを潜り、エレベーターへと向かう。5と記されたボタンを押下し、到着を待つ。目当ての部屋は504号室。もう何度となくここには来ている。自宅ではない。仕事場でもない。家族でも友人でも、念のため宣言しておくならば、恋人でもない人の、自宅兼アトリエだ。
 玄関ドアの鍵はかかっている。外廊下から分かる範囲では部屋は静まりかえっていて、まるで人の気配はしない。しかし私は分かっている。人の気配が、早い話物音がしないからといって、すなわちそれが家主の留守ではない、ということを。
 鍵を開け、中に入る。そう広くない玄関には、よく磨かれた革靴が一足、端のほうに揃えて置かれている。普段履いているサンダルは廊下から一直線のところに置かれていた。靴先は揃っておらず、このサンダルを脱いだ時の家主の心境を、なんとなく窺うことができる。
 リビングへ向かう廊下の途中にあるベッドルームを通り過ぎる。私はそこに入ることを許可されていない。許可されていないが、悲しいとか悔しいとかだとか、そういう感情は全く湧かない。なぜなら本当に、どうでもいいからだ。あいつがどのような環境で寝ていようと、道端に転がる石ころ並みにしか興味が湧かない。庭に咲いた花でも眺めている方がよほど有意義だと断言できる。
 リビングルームに直結するキッチンに入り、ようやくレジ袋を下ろす。袋ラーメンと缶詰を戸棚にしまい、小さな冷蔵庫の中身を確認する。新鮮なフルーツがいくつか入っているだけで、それ以外には何もない。良くも悪くもいつも通りだ。
 アトリエの扉をノックする。返事はない。そうなると後はひとつだけだ。はあ、と思わずため息が出る。別に私が面倒を見る必要などかけらもないことは理解しているが、それでも行かざるを得ない。
 ベッドルームの向かいのドアは、バスルームのドアだ。ノブを捻って中に入るも、電気はついていない。それでも僅かに浴室からは何がしかの音楽が聞こえ、時々水の揺れる音がする。
 浴室のドアを開けると、目当ての人物がいた。スマートフォンで瞑想用の音楽を流しながら、浴槽に肩まで浸かり、目を閉じている。誤解なきようにいうと、眠っているわけではない。温かな水に包まれ、あいつにとって心地の良い音楽を流し、ただ、リラックスしているだけだ。今日はどうやら相当深くまで意識を溶かしているらしい。私が扉を開けても、みじろぎひとつしなかった。
美雨(みう)
 返事はないが、続ける。
「明かりをつけるぞ」
 ぱちん、と音を立てて、スイッチを操作した。人工的な光が降り注ぐ。そこでようやく、槻岡(つきおか)美雨は目を開き、私の方を見た。
「川瀬、君か」
「ああ。悪いか」
「いいえ? なぜ、悪い、などと。何を考えているのかは知らないけど……。ああ、揺蕩うことを邪魔したことに罪悪感でも覚えているんだったら、多少はおもしろいけど。そんなことはないでしょう」
「お前の瞑想を邪魔することは、お前を、つまりはお前の作品と世界を守ることに繋がる。私としてはお前がどうなろうと知ったことではないが、腹立たしいことにお前と結んだ契約だ。契約は履行する。ただそれだけの話だ」
「随分と機械的な物言いをする、機械的な男だね、君は。まあ今に始まったことではないけれど」
 美雨が立ち上がると、ざぱ、と大きな音がした。濡れた体が照らされ、ぬらぬらと光を反射する。今まで一度も、日に焼けたことのないような、白く柔らかい肌。人によってはそれに性的な衝動を覚えるのだろうが、生憎と私にそんな衝動はない。
 槻岡美雨は、水を愛するアーティストだ。イラストやレジン、小説、あるいは音で、水を表現する。水が持つ透明感や煌めき、輝きなどを凝縮したかのような作品群は国内外から高く評価されており、ファンも多い。メディア露出こそ少ないが、個展やギャラリーに行けば、当然、美雨の写真がどこかしらには置いてある。そういうわけで、神秘のベールに包まれながらも、その姿を見ることだけは叶う、そんななんとも曖昧な存在として、創作活動をしている。
 脱衣所で丹念に保湿用ローションを塗る彼を無視してリビングに戻ろうとすると、呼び止められた。背中にローションを塗れという。ため息が出かかるが(事実出たのだが)それもまた契約の内に入っている。断る権利と理由がない。
 肌馴染みのよいローションを塗ってやると、美雨はたいそう不服そうな顔をした。
「川瀬」
「なんだ」
「君の手はざらついている。僕みたいになれとは言わないけど、少しは気を遣ったら」
「……私には必要がない」
「そう。ならこれ以上は言わないけれど。せっかくのアイデアが、それこそ水槽から栓を抜いた時のように流れ出してほしくなかったら、気を遣って。僕は金にも名誉にも興味ないけれど、君はそうじゃないでしょう」
「ああ、その通り。私はお前に寄生して生きている」
「自己否定も大概にね。いくら金に興味がないとはいえ、この社会では金がないと生きていけないことは理解している。君が僕の代わりに、価値に見合った正しい値段をつけて世の中に流通させている。僕にはできないことをしているのだから、これは寄生でなく共生さ」
「そうかい」
 ありがたい講義を聞き流して、今度こそリビングに向かう。我ながら面倒な契約を結んだものだ、と、自嘲しながら。
「レモネード、飲む?」
 その言葉に「ああ」とだけ返し、目を閉じる。あの日、あの時、偶然の出会い。言葉にするとなんとも陳腐で、それがまた腹立たしい。それに縛られている自分自身も腹立たしい。
 しかし、ああ、どうしようもない。才能に焦がれ、欲し、ついぞ欲しいそれを手に入れなかった私が、私の欲するそれを持つ存在に出会ったらこの関係になることは、それこそ天から雨が降るかのように、当然のことなのだから。

底の水魚

底の水魚

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-07-18

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