派遣会社消滅
1
四月五日朝の営業会議は、重苦しい空気に包まれていた。その日は二○一○年度に入って初めての月曜日。営業部員から報告される数字はどれもはかばかしくなかった。
「私の担当している東京まほろば銀行が三月末に、うちから出している三人の派遣社員を四月末の契約終了と同時に雇い止めにすると言ってきました。アルバイトに切り替えるそうです」
派遣事業部の中川純一が報告すると、会議室に異様な雰囲気が漂った。東京まほろば銀行は、派遣会社ヒューマン・キャリアの第二位の大株主であることを社内では誰もが知っている。会議の進行役である取締役営業本部長の坂本英雄は、冷静さを装いながら問い返した。
「その三人の派遣社員はどんな仕事をしているんだ?」
「事務処理です」
「東京まほろばの派遣先責任者から雇い止めの理由を聞いたのか?」
「もう派遣社員は使いにくくなったとはっきり言っています。民主党政権が三月末に労働者派遣法改正法案を国会に提出したからです。この法案では、仕事がある時だけ就労する登録型派遣を原則禁止しています。それに加えて、法案提出に合わせるように厚生労働省が派遣法の運用を厳しくする方針を打ち出していますから」
坂本の質問に、中川は端的に状況を報告した。
「リーマン・ショックの痛手からようやく立ち直ったと思ったら、今度の法律の改正案は業界の根幹を揺るがしかねないな。よりによって、うちの株主が雇い止めに踏み切るなんて」
坂本は腕を組んで天井を仰いだ後、気を取り直したように別の中堅の営業部員に目を向けた。
「君の担当である建設業界はどうだ?」
「公共事業の予算が削られているうえ、民需もさっぱり。どこの建設会社も青色吐息です。建設不況が回復する兆しはまったくないので、どこも派遣社員の採用を抑制しています」
坂本が別のベテランの営業部員の顔を見た。
「官公庁はどうだ?」
「競争が激しくなる一方です。以前なら、官公庁の仕事に見向きもしなかった大手派遣会社が入札に参加してきています。落札価格も交通費を考えれば実質東京都の最低賃金を下回っています。赤字受注になりますから、うちは応札を見送りました」
「仕方ないな、赤字受注じゃ仕事をとる意味がない」
坂本の言葉に、ベテラン部員はわが意を得たりとばかりに大きく頷いた。
「派遣業界に本当の冬の時代が訪れたということだな」
坂本がつぶやくように言った。
自民党の小泉政権までは、人材派遣の規制緩和に伴い企業が派遣社員の雇用を増やしたことから、ヒューマン・キャリアの業績は順調だった。しかし、二○○九年八月の衆院選で民主党が圧勝して政権の座に着いてから、経営環境はガラッと変わった。
リーマン・ショックによる景気悪化を背景に製造業での派遣社員の雇い止めが社会問題になり、人材派遣そのものを悪と見なす風潮が広がっていた。社会の空気を敏感に感じ取った民主党政権は、製造業派遣や登録型派遣の原則禁止を盛り込んだ法案を国会に提出したのだった。
会議中は発言せず、坂本の隣に座っていた社長の大野好郎が最後に口を開いた。
「皆さんの報告で、派遣市場が急速に厳しくなってきたという事が理解できた。はっきり言って、今後、需要は縮小する一方だろうと思う。わが社が生き残っていくためには二つの事を手がけなければならない。一つは新規分野の開拓、もう一つはコスト削減だ。坂本本部長には、営業の現場の意見を元に新規分野の開拓についての考え方をまとめておいてもらいたい」
大野の言葉に、坂本が頷いた。
大野は会議のやり取りを聞いていた総務部長の野田哲夫の方に顔を向けた。
「野田部長にはコスト削減計画を練ってもらう。もはや人件費も聖域ではないことを念頭に」
状況変化に対応する大野の素速い指示に、野田も納得した。
大野は今年で六十七歳になる。痩せて小柄な体つきだが、いつも背筋を伸ばし、凛とした雰囲気を漂わせている。ヒューマン・キャリアを設立したのは二十五年前の四十二歳の時だった。東京まほろば銀行の前身である都市銀行を辞め、将来性に目をつけて自ら人材派遣会社を設立したのだという。
大野は信念の人ではあるが、決して人当たりのいい営業マンタイプではない。その性格を反映してか、ヒューマン・キャリアは業界大手に成長することはなく、正社員が四十人足らずの小さな派遣会社として堅実経営路線で生き残ってきた。民主党政権出現に伴う時代の変化を最も肌で感じているのは、長年派遣業界で経営者として舵取りをしてきた大野自身かも知れなかった。
会議室から出る前、大野は坂本を呼び止めた。
「坂本君、東京まほろばに確認してくれないかな、派遣社員の雇い止めをどこまで進めるのかを」
「わかりました」
坂本は頭を下げた。
社長が退出した後、坂本が野田を引き留めた。
「野田ちゃん、一緒に昼めし食べない?」
坂本は同期のよしみという気安さで声を掛けてきた。
坂本は二十年前に野田より一ヶ月遅れでヒューマン・キャリアに中途入社した。年の頃もほぼ同じだっだが、会社の中では坂本が営業で頭角を現し、二年前に取締役に就任していた。
坂本の誘いを断る理由はなかった。時計を見ると、十一時半を回ったばかりだったが、早めの昼食をとるため二人は会社を出た。
ヒューマン・キャリアは大手町と東京駅の中間の賃貸ビルに入居しており、昼食は神田界隈に出るより東京駅周辺の方が便利だ。
坂本の提案で、東京駅の近くのビルの中にある全国チェーンの定食屋に入ることにした。
ビルの四階にあるその店には正午前に到着したことで、外を眺められる窓辺の席を確保できた。備え付けの濡れナプキンで顔を拭きながら、坂本が言った。
「いやあ、野田ちゃん、大変な時代になっちゃったねえ。真面目な話、派遣で食っていくのはもう難しいかも知れないな」
野田は黙って頷く。ウエイトレスが注文を取りにきたので、野田は焼き鯖定食、坂本はほっけ定食を頼んだ。
「さっきの会議で東京まほろば銀行の雇い止めの話が出ただろう? あれは、うちが得意とする5号業務が危なくなっているということなんだ」
坂本がいつにもなく深刻な表情をした。
労働者派遣法が施行された一九八六年には、企業に派遣できるのはいわゆる政令で定めた専門的な十三業務だけだった。それが九六年には二十六業務にまで増えた。「政令業務」というのは秘書、通訳、電話受付などの特別な技能を伴う専門業務でそれぞれに号数がついている。派遣会社は「事務用機器操作」という5号業務で派遣している場合が多い。
これらの専門業務以外にも、小泉政権下の九九年には対象業務が一般事務や製造業分野にも拡大され、それらは「自由化業務」と呼んで政令業務とは区別されている。
「どういう事だ?」
野田が聞き返した
「厚生労働省が、派遣法改正法案提出に合わせるように『専門二十六業務派遣適正化プラン』というのを打ち出しただろう? 三、四月の二ヶ月間、派遣会社に立ち入り調査して、法律を守っていない会社には指導し、悪質な場合は行政処分をすると言っている。この中で5号業務は派遣法が成立した当初、電子計算機、タイプライター、テレックスなどの事務用機器操作という定義だった。だけど、タイプライターもテレックスも世の中から姿を消してしまった。今の厚労省の考え方では、コンピューターを用い、ソフトウエアの専門知識を生かして入力・集計・グラフ化等の作業を行うもの、となっているんだ。だけど、今の世の中はどんな一般事務でもパソコンを使うから、うちでも一般事務を5号業務として派遣しているケースもかなりある」
坂本はひとしきり話した後、鯖の身を箸でつまんでご飯を頬ばった。
「それは問題をはらんでいるな。うちで5号業務で派遣しているものが5号業務としては不適切と判断されたら大変なことになる。うちの派遣人数はおよそ八百三十人だったよね? そのうち5号業務で派遣しているのは何人いるんだ?」
「全体の七割の五百八十人ぐらいかな」
「そのうち厳密には5号業務とは言えないのはどのくらいなんだ」
「うーん、精査してみないとわからないけど、一割か二割はひっかかるかな。さっそく現場の営業マンに洗い出させようと思っている」
「二割といったら、百人を超す、大変な数字じゃないか」
「だから、頭が痛い」
「だけど、5号業務に該当しなければ自由化業務の一般事務に変更する手はあるだろう」
「うん、その手はあるが、そう単純ではない」
「と言うと?」
「人材派遣が原則自由化されて、一般事務も自由化業務として派遣の対象になったけど、自由化業務の派遣は原則一年限りなんだ。野田ちゃんもわかってるように、派遣法の主旨はあくまで専門的な技能・技術を持つ人材を派遣で補うというものだろう? 派遣によって正社員の立場を脅かしたり、雇用を減らすことは避けなければならないという考え方だ。ただし、労働組合や労働者の過半数の代表者の了承があれば、自由化業務も三年を限度に期限を更新できる」
「うちの5号業務での派遣社員は何年ぐらい勤めているの?」
「政令業務は雇用期間に制限が無いから、結構長いんだ。これも洗い出してみないといけないけど、三年以上もけっこう多いと思う」
「確か、自由化業務で三年を超えて仕事を継続してもらうとなると、派遣先企業はその派遣社員を直接雇用しなければならないよね」
「そこが問題なんだ、今日の会議で出た東京まほろばが三人の派遣社員を直接雇用にするって話、実は三人とも三年以上派遣しているんだ。政令二十六業務は雇用期間に制限がなかったからね。確かに、東京まほろばは派遣社員を直接雇用に切り替えるんだろうけど、正社員にはしないでアルバイトかせいぜい契約社員としてしか採用しないだろう。結局、有期雇用であることは派遣と変わらないから、業績が悪化して都合が悪くなれば、会社はいつでもクビを切るよ。そこのところを国は何もわかっていないな」
「企業としてみれば、派遣社員は採用の手間や人事管理のリスクを派遣会社が担ってくれるので便利だったが、今はコンプライアンスのうえから派遣で使うのは危なっかしくてしょうがない、というのが本音かな」
「そうなんだ、例の適正化プランは派遣会社だけでなくて、派遣先企業まで対象にするといわれている。派遣先企業にしてみれば派遣社員を違法に使っていると世間に叩かれたくないだろうからね。東京まほろばはそこに神経を使っているんだよ、うちの株主の立場よりコンプライアンスを優先したということだよ」
「だけど、うちとしてはどうする? 死活問題だな」
「まずやらなきゃいけないのは、5号業務の派遣社員の仕事内容を現場にチェックさせることだ。そのうえで、5号業務として継続できるか判断する。仕事内容を変更すれば5号業務としてやっていけるのであれば、派遣先に業務の手直しを依頼しなければならない。5号業務としての継続が無理な仕事は自由化業務に変更するけど、三年以上派遣しているのであれば派遣先が直接雇用に切り替えても仕方がない」
坂本はすでに問題の解決方法を自分なりに整理しているようだった。この機転の速さと決断力が役員に抜擢された理由なのだろう。
「そこでだ、野田ちゃん、今のような混乱期になると、派遣社員も不安になってどういう行動に出るか予想できない。派遣社員による訴訟が増えることも考えられる。コンプライアンスは野田ちゃんの担当だから、何かあったらよろしくね」
坂本から昼食に誘われた訳が理解できた。坂本は今後派遣社員と会社とのトラブルが増えることを予想し、総務の野田に協力を求めたというわけだ。
「わかった、こんなに先行きが見通せないんじゃ本当に何が起きるかわからないね。派遣社員だけじゃなく、業績が悪化すると、社内の空気も悪くなるし」
「そういうことだ、人は疑心暗鬼になると何をしでかすかわからない」
食事がとっくに終わり、お代わりをした麦茶も冷めていた。話が長くなり、あれほど混んでいた店内は客がまばらになっていた。坂本と野田は立ち上がり、レジに向かった。
その日の夕方、野田がパソコンに向かっていると、電話が鳴った。
「坂本だけど、東京まほろばの人事部長にアポがとれたんだ、一緒に付き合ってくれる?」
「いいけど、どうして?」
「いや、契約がからむ話だから、総務の野田ちゃんも知っていた方がいいと思って」
「わかった、いつだい」
「明日の午前十一時にアポがとれている」
東京まほろば銀行は皇居のお濠端の近くに本社があり、ヒューマン・キャリアから歩いて十分もあれば到着できる。坂本の指示で十時四十分に会社を出ることにした。野田と坂本が連れ立って皇居の方に向かって歩いていくと、皇居のお濠の土手に白い靄のようなものが見えた。
「まだ桜が散っていないんだな」
坂本が独り言のようにつぶやいた。春の日差しが皇居を照らしていた。穏やかな気候のせいか、ビル街を歩くサラリーマンの足取りもゆったりしているように見える。
東京まほろばの高層建ての本社ビルに到着し、受付を済ませた後、十階の人事部にエレベーターで上った。十階フロアの受付電話から坂本が用件を告げると、(迎えに行きますのでお待ちください)という女性の声が野田の耳にも聞こえた。
エレベーター・フロアと執務スペースを区切る自動ドアが開くと、秘書らしい女性が笑顔で現れ、丁寧に頭を下げた。女性に案内されて中に入ると、ヒューマン・キャリアの二倍はある空間で行員たちが静かに仕事をしていた。人事部のほか総務部、経営企画など管理部門が置かれているとのことだった。
「さすがに大手銀行さんは違うな」
坂本が後ろからついていく野田の方を振り返ってささやいた
応接室に案内されると、すぐに濃紺のスーツに身を固めた男性が部屋に入ってきた。オールバックの髪型に白髪が混じり、五十代前半の年頃と思われた。
「わざわざお越しいただいて恐縮です、人事部長の赤間です」
名刺には、人事部長赤間輝男とあった。
ソファーに腰をおろし、一呼吸置いてから坂本が切り出した。
「今日お伺いしたのは、当社の派遣社員の契約打ち切りの件についてです」
「はい」
赤間はすでに用件を予想していたのか、落ち着いた態度である。
「当社から御社に派遣している派遣社員三人について、四月末の契約終了と同時に更新はしないと伺っております。この理由をお聞かせいただけますか?」
「派遣会社さんの方が一番理由をご存じのはずですが、正直に申し上げます。今回の派遣法改正法案の国会提出に合わせて、厚労省が派遣適正化プランを打ち出し、派遣の業務が法律に合致しているかの実態調査に乗り出しましたよね。企業のコンプライアンスがやかましく言われていますので、当行としても法律を厳密に遵守しようと決めたところです。私どもにも落ち度がありましたが、一般事務を5号業務として契約を結んだのは御社の方です、そこに甘さが無かったでしょうか?」
「全くその通りです、申し訳ありません」
坂本は頭を下げた。
「いえ、謝ってもらうには及びません。時代の空気が変わってしまったのです、二十年以上従来のやり方が通用してきたのですから」
赤間は顔の前で手を振りながら、慰めるように坂本に言った。
意志消沈している坂本に替わって確認しておこうと、野田は赤間に聞いた。
「それで派遣社員は基本的にすべて直接雇用に切り替えていくお考えですか?」
「ええ、そのつもりです。当行では約百人の派遣社員が働いておりますが、順次直接雇用に代えていきます。もちろん正社員ではなく、アルバイトもしくは契約社員ですが」
「うちも四十人ほど派遣しておりますね?」
「存じております」
「当社の派遣社員のうち三年未満の者については何とか5号業務から自由化業務に変更して派遣を継続してもらうことはできないでしょうか?」
坂本が必死に訴える。
「確かにそれも検討してみました。派遣から直接雇用に戻すとなると、採用から人事管理までこちらでやらなければならないので仕事が増えますからね。ですが、自由化業務の場合、一年更新ごとに労働組合の了承が必要になってきます。労組の合意を得る煩わしさのある採用よりは、直接雇用にしたほうが面倒が少ないというのが当行の判断です」
法律を根拠にしているだけに、反論の余地が無かった。
「御社には当行も出資しております。要請にお応えしたいのはやまやまですが、この問題ではコンプライアンスを優先させていただきます。何か問題が表面化してマスコミに叩かれでもしたら大きな痛手を被りますから。誠に申し訳ありませんが、この考えは御社の大野社長にもお伝えください」
出資先のヒューマン・キャリアも例外にしないという赤間の言葉は衝撃的だった。
「わかりました」
坂本は力無く答え、視線を落とした。
「坂本さん、厚労省が適正化プランで派遣会社だけでなく、派遣先企業にも抜き打ち調査に入るかも知れないという噂が流れていますよね、何か情報が入りました教えてください」
赤間の言葉から、東京まほろばが厚労省の抜き打ち調査を本気で恐れているのがわかった。
東京まほろば銀行を辞した後、坂本は大きな溜息をついた。
「しかし、銀行というところはドライだなあ、うちの大株主なのに、うちからの派遣社員をごっそり雇い止めにするっていうんだから」
「まあ、出資比率が三十四%の大株主だけど、うちの資本金が一億円だから三千四百万円の出資額だよ。銀行からしてみれば配慮する対象にはならないのかもね、子会社じゃないし」
野田が言うと、坂本は「そんなもんかなあ。だけど今後、東京まほろばへの派遣が四十人も減るとなると大変だよ」と嘆息した。
野田は何も言えず、黙っていた。
帰社してから、二人で大野社長に報告した。
「あの銀行は昔からそういう体質なんだ。状況が早くわかって良かった。まあ、会社として挽回策をどうするかだな」
大野社長は感情を表に出すでもなく、淡々と言った。
2
四月半ばの午前、野田が自分の席でパソコンに向かっていると、前の席にいる総務課長の前川直子が一通の封書を持ってきた。
「この手紙が社長宛に届いていました」
前川は野田より入社が早いベテラン社員である。総務課長という肩書きではあるが、小さな会社であるだけに総務の実務を一手に引き受けている。
野田が封書を裏返すと、差出人が厚生労働省東京労働局需給調整事業部となっている。嫌な予感がした。手紙の表題には「労働者派遣事業に係る定期指導の実施について」とある。例の派遣適正化プランに基づく実地調査だ、と目を凝らした。
文面を見ると、実施日はわずか一週間先の二十二日となっている。通知と実施日の間隔が短いのは、調査対象会社が変な工作をするのを防ぐためだろうか?
用意する必要のある書類は派遣先事業所一覧、労働者派遣基本契約書、就業条件明示書など九種類に及ぶ。
社長に報告する前に坂本営業本部長の耳に入れておかなければならないな、と野田は席を立った。
営業本部のフロアに行くと、窓を背にした本部長席で坂本は資料を読んでいた。
近くに寄って「ちょっと時間ある?」と問いかけると、坂本は顔を上げ「ああ、何だい?」といつもの快活な声で応えた。
「ここじゃまずいから、一緒に来てくれる?」
野田の真剣な様子に、坂本は無言で立ち上がった。
同じフロアの廊下の向こうには派遣登録者を面談する小部屋が六つあるが、社員に話を聞かれるのを警戒して総務部のフロアの社長室に隣接する接待用の応接室に連れて来た。ドアを閉めた後、野田は入口のソファーに腰をおろした。坂本が向かい側に座った。
野田は背広の胸ポケットから封書を取りだし、坂本に手渡した。いぶかしげな表情をして、坂本は封書から手紙を取りだした。
「何でうちみたいな小さな派遣会社に調査に入るんだ?」
一読した後、抗議するような口調で坂本が野田の顔を見た。
「わからない。だけど、実際、こうして労働局から通知書が来ている」
坂本は、考え事をする時のいつもの癖で天井を見上げた。調査の日までは一週間しか無いので、それまでの準備の段取りでも脳裏に描いているのだろうか。
「とにかく社長に報告しよう。用意しなくちゃいけない書類はほとんどが営業本部が作成したものだから、この件は本部長から報告してくれる? 総務担当の北村取締役には私が話しておくから」
坂本は頷いて、もう一度手紙を読み返した。
社長室の入口のドアはいつも開いており、中をのぞき込むと、大野社長は応接用のソファーに座って新聞を読んでいた。
「社長、今、よろしいですか?」
坂本がドアを軽くノックして呼びかけると、大野は「ああ、どうぞ」とこちらを見上げた。
大野は長方形のテーブルの端の一人掛けのソファーに座っている。坂本と野田はテーブルをはさみ、向かい合って腰をおろした。
「社長、東京労働局がわが社を適正化プランの対象として調査すると通知してきました」
坂本が封書を社長に差し出した。
「なんでうちが選ばれたのかな?」
「わかりません、調査の時に労働局の担当者に聞いてみますが」
大野は手紙を読み終えると、
「確かにわが社宛てだな、調査の日まで一週間しかないから、しっかり準備をするように」と封書を坂本に戻しながら指示した。
坂本と野田は一礼して立ち上がり、社長室を出た。
別れ際、坂本が「調査には君も同席してよ」と言ってきたので、野田は「わかった」と答えた。
「早急に、わが社の派遣社員の実態について担当者からヒヤリングしようと思っている。それを終えてから提出する書類を準備する。相談事ができたらよろしくね」
「もちろんだよ、わが社が行政指導を受けるような事があってはならないからな」
野田の言葉に、坂本が真剣な顔つきで頷いた。
席に戻ってから、野田は前川に声をかけた。
「前川さん、派遣スタッフとの契約書の綴りを持ってきてくれる?」
契約書は営業本部の担当者が作成するが、前川が派遣社員の勤務日数や残業に応じての給与計算をする関係で、契約書のコピーが総務部にも置いてある。
「わかりました、何に使うんですか」
「いや、最近、コンプライアンスがうるさくなっているんで、念のため、契約内容をチェックするんだ」
差し障りのない理由を言って、総務部の棚から持ってこさせた。
前川が持参した契約書の綴りをめくりながら目を通した。通訳(6号)、秘書(7号)、受付(16号)、編集(19号)などの専門業務もあるが、最も多い「事務用機器操作」の5号業務の契約内容を見ると、派遣先の部署での業務が「事務用機器操作」と簡単に記載されていて、実際に5号業務に該当するのか、一般事務に過ぎないのか判断できないものがほとんどだった。
これを明確にする作業が必要になるだろうが、一週間では間に合いそうもなかった。労働局の実地調査の時はこの事を正直に話して、自社の調査の結果を労働局に再提出したほうがいいな、と坂本の顔を思い浮かべた。
野田は坂本の席に行き、この事をアドバイスした。
「そうなんだ、派遣先での実際の業務内容については派遣スタッフにアンケート調査して確認するつもりだ。だけど、一ヶ月はかかりそうだから、野田ちゃんが言うように、労働局には事後報告をするしかないな」
この5号業務に関する会社の対応が実地調査を乗り切る大きな鍵になる、と野田は思った。
二十二日の午前十時きっかりに、東京労働局需給調整事業部の斎木と名乗る担当官がヒューマン・キャリアの受付から電話をしてきた。
「前川さん、坂本本部長に連絡して」
野田は席を立ち上がると、受付まで出向いた。三十歳代半ばと見られる男性が「労働局の斎木です」と言って頭を下げた。
野田が斎木を応接室に案内すると、すでに坂本が入口側のソファーに座って待機していた。
斎木を向かい側のソファーに案内し、野田は坂本の右隣に腰をおろした。坂本は当局の担当官を前にして幾分緊張している様子だった。坂本の前には、この日に供えて用意した提出書類が積まれている。
「調査に協力していただき、感謝します」
名刺交換をした後、斎木は丁寧に頭を下げた。
「ご存じのように、政権が変わりまして、派遣労働者保護の観点から実態調査を実施しております。御社にも協力していただきたく、お邪魔しました」
斎木の挨拶が終わると同時に、坂本が口を開いた。
「最初に質問してよろしいですか? なぜ私どものような小さな会社が選ばれたのですか?」
坂本の問いに、斎木は頬をゆるめた。
「ああ、その事ですか。今回の調査は大手派遣会社はもれなく実施しますが、そのほか会社の規模に関係なく、5号業務の割合の高い派遣会社を選んでいます、御社は5号業務が多いようですので」
斎木の言葉に、坂本は気勢をそがれたようにソファーにもたれかかった。
「それでは、準備していただいた書類を提出していただけますか」
斎木に催促されて、坂本が机の上の書類を前に押し出した。
斎木はまず書類がすべてそろっているかを点検した後、一部ずつめくり始めた。とりわけ念入りに目を通したのは、派遣社員との契約書だった。
「契約書の業務内容をもう少し具体的に記載していただかないと5号業務に該当するのかどうか、よくわかりませんね」
「その点は、当方も十分承知しております、派遣社員にアンケート調査をしまして、5号業務に該当するかどうかを明確にわかるようにしてから、その資料を再度提出いたします、なにしろ実施調査の通知からの期間があまりに短かったものですから」
皮肉に聞こえたのか、斎木は苦笑した。
「それで結構です、それと5号業務のスキルに関する御社のガイドラインを作成してください」
「ガイドライン?」
「はい、例えば事務用機器の入力スピードの基準などです」
「ああ、はい、わかりました」
坂本が神妙に頷いた。
「御社で点検されて、5号に該当しない業務に従事している派遣社員に関しては、一般事務扱いの自由化業務として契約し直すなどの対応をしてください」
「はい、わかっております」
「ただし、自由化業務は期限が一年です。派遣先企業が三年以上契約していた場合は直接雇用の義務が発生しますから注意してください」
やはり斎木は5号業務と自由化業務の取り扱いについて指摘してきた。5号業務で契約していても、もしそれが自由化業務と判定された場合、最初に契約した時点に遡って自由化業務とみなされる。自由化業務は一年ごとの更新で三年を限度とするので、もし、三年を超えてしまっていた場合、派遣社員が直接雇用を望む場合、派遣先企業はそれに応じなければならないのだ。今回の適正化プランでは、そうした見直し作業と派遣先企業との交渉も想定しなければならない。
「派遣社員との間で何かトラブルはありますか?」
派遣会社は往々にして派遣社員との間のあつれきを抱えるが、幸いヒューマン・キャリアでは久しく平穏な状態が続いていた。
「いえ、大きなトラブルはありません」
坂本が即答すると、斎木は大きく頷いた。
「それは結構です、製造業分野での雇い止めが大きな社会問題になりましたので、法律をよく遵守し、派遣労働者の権利を守るよう努めてください」
「わかりました」
坂本と野田が同時に頭を下げた。
「提出していただいた書類を精査してから、疑問があればまた連絡します。先ほど言いました課題は二ヶ月以内に回答してください」
実地調査は予想より早く終わったが、与えられた課題をまとめるのが面倒な作業だった。
斎木が立ち上がりかけた時、坂本が問いかけた。
「あの、今回の適正化プランはどういう趣旨から実施しているものですか?」
ちょっと困惑した表情をしながら、斎木が答えた。
「まあ、何と言いましょうか、上からの指示なのですよ、政治主導という。とりわけ厚生労働大臣は熱心です。適正化プランは自分の指示だという事を文書に明記しろとまで言ったようです」
年金問題で自民党を追求して名を馳せた政治家の顔を野田は思い出した。言い過ぎたと後悔したのか、斎木は「今のはここだけの話にしておいてください」と言って部屋を出た。野田と坂本はエレベーターまで同行し、扉が完全に閉まるまで頭を下げ続けた。
3
六月の第二月曜日の午前十時からヒューマン・キャリアの取締役会が社長室の隣の応接室で開かれた。取締役会は毎月一回開かれることになっている。常勤取締役は代表取締役である大野社長と坂本営業本部長のほか、経理・総務担当の北村昭男取締役の三人である。
北村は株主の東京まほろば銀行から出向している。他に、大野社長の知人で会社経営者の武田守という人物が非常勤の社外取締役として名を連ねているが、欠席する場合が多い。経理や総務分野は実質的に総務部長の野田に任されており、野田は議事録担当として取締役会に参加している。
この日の議案はまず北村取締役から五月の月次収支の報告があった。
「五月の売上高は予算比マイナス3・0%減の二億六千三百万円にとどまりました。その一方で、売上原価と販売管理費等を合わせました経費は2・5%増の二億六千九百万円となりました。その結果、経常利益は予算の七百万円の黒字予想が狂い、およそ六百万円の赤字となりました。売上高、経費とも予算と大幅に狂ったのは、派遣先企業での派遣契約打ち切りが多かったほか、退職する派遣社員の有給休暇取得が予想以上に増えたという事情があります」
三月末に派遣法改正法案が衆院に提出された影響は五月の売り上げから端的に出始めた。派遣先企業の間に、四月末で契約終了となる派遣社員の更新を中止する動きが広がったためだ。
ヒューマン・キャリアでは、契約終了で雇い止めとなる派遣社員の人数が新規契約の派遣者数を二十人も上回った。雇い止めが増えると、対象となった派遣社員が有給休暇を最後の勤務月にすべて消化しようとするため、派遣売上げが減る一方、給料の支払いが増えて収支は悪化する。
北村の報告は派遣市場の急速な需給悪化が月次収支に如実に現れたもので、取締役会は一瞬沈黙に包まれた。
議長を務める大野が、企業別の派遣者数の資料に目を落として言った。
「新年度に入ってからの契約終了者は、東京まほろばが八人と一番多いな」
同行から出向している北村取締役が申し訳なさそうに答えた。
「そうですね、四月の三人に続いて、五月も五人雇い止めになっていますから」
大野はこれ以上北村取締役を追及したくないと思ったのか、坂本の方に顔を向けた。
「坂本取締役、六月以降も雇い止めが増えるのかね?」
「基本的にはそう考えた方が無難です、民主党の法案提出で派遣先企業は業種を問わず、派遣社員を減らそうと動いていますから」
「うーん、そうすると、辞める派遣社員は必ず手持ちの有給休暇を消化するので収支は一段と悪化するという訳だな」
大野が北村の方を見た。
「そう考えて間違いないと思います」
「坂本取締役、有給休暇の取得状況は事前に把握できるかね」
「派遣社員には、有給をとる場合は事前にうちの担当の営業部員に連絡するように指示はしています。しかし、現実には、勤務している派遣先企業には伝えてもうちには連絡してこないケースも多く、把握し切れていません。ただし、契約が期限切れとなる派遣社員の有給の残数は把握できますので、そこから推計することは可能だと思います」
「それでかまわないから、なるべく有給休暇の取得を反映した売上げ数字に見直して欲しい」
「わかりました」
「それと、東京労働局に提出するアンケート調査の結果はどうなっている?」
「はい、ようやく集計がまとまったところです」
坂本は大野と北村、野田に資料を配った。
「それでは資料に基づいて説明いたします」
坂本は右の拳を口に当てて遠慮がちに咳をした。
「当社で5号業務で派遣していたのは五百七十三人です。このうち最終的に5号業務として派遣するのは無理と判断したのは六十人ほどになります」
「けっこう多いな、5号業務に該当しないのにはどんなものがあった?」
「はい、一般事務がほとんどです。これらの派遣社員はいわゆる自由化業務に該当しますので、契約を変更しなくてはなりません。5号業務の派遣社員はほとんどが三ヶ月契約なので、契約期限切れと同時に雇い止めにして、本人が望み、派遣先企業が了承するなら自由化業務で改めて契約しようと考えています」
「労働局はなんて言うかな?」
「とにかく実態を正確に報告したうえで、できるだけ早く是正するということを意思表示しようと思っています。ただし、今、言いましたように是正するのは契約期限切れの時ということになります」
「そうだな、雇用期間の途中に契約を見直すのはトラブルのもとだからな」
「ええ」
坂本の報告は、当面の危機回避策として了承された。
「次に、5号業務に関する当社の『スキル適合基準』を作成しましたのでご報告致します。これは東京労働局から作成するよう求められていたものです。この適合基準では、パソコンのキーボードによる日本語と数値のタッチタイピングの一分当たりの速さを決めており、日本語が毎分四十文字以上、数値は毎分百二十文字以上と定めました。これは全国の経済団体のビジネス認定基準に相当するものです。ただし、この適合基準に満たない場合でも、エクセルの作表能力やパワーポイントのプレゼンテーション能力が秀れていれば派遣要件を満たすとしました」
「がちがちに縛ることはしないということだな」
「はい、その通りです。5号業務に求められているのは必ずしもタイピングの速さだけではなく、文章や数表、グラフ等を含めた文書作成の総合的な高い能力だからです。すでにうちの営業マンが担当する派遣社員にテストをした結果、九割は合格しました」
「そうか、能力の高い派遣社員が多いんだな」
大野に安堵の表情が浮かんだ。
坂本の報告が終わって少し間があった後、北村取締役が遠慮がちに口を開いた。
「上期賞与案を作成しましたので、説明してもよろしいですか?」
「ああ、そうだった、もう、その季節なんだな」
大野がいかにも失念していたというように口調で言った。
「今年は急速に業績が悪化していますので、上期賞与の支給額はA案として基準内給与の一・八ヶ月、従業員平均で五十二万六千五百円、B案として二・○一ヶ月、従業員平均六十万三千二百円の二案を作りました。A案は業績悪化をそのまま反映したものです。B案は社員の士気、モラルを保つため支給月数で二ヶ月、支給額で六十万円の大台を維持しました」
「北村取締役、昨年の支給実績はどうだった?」
「はい、昨年上期は基準内給与の二・五か月、従業員平均で七十九万五千七百円でした。
「B案でも昨年よりは十九万円強下回るわけだな。A案だと二十七万円近くも減ってしまうのか。これだと確かに住宅ローンを抱える社員にとってはきついかもしれないな」
「はい」
「上期の業績見通しはどうなってる?」
「派遣社員の人数が減ってきていますので、売上高、経常利益とも予算、前年実績を下回っています。A案を採用しても収支トントンという見通しです」
「下期がより厳しくなることを考えるとA案でも支払える状況ではないと思うが、現場を預かる坂本取締役はどう思う?」
「現場の営業マンを指揮する立場としては、営業マンの士気が落ちるのが一番怖いです。できるならB案でいきたいです」
「そうだろうな、さて、どうするかな」
いつもは即断即決する大野には珍しく、目を閉じ、腕を組んでしばし黙考した。
大野は自分の考えをまとめたのか、組んだ腕をほどき、坂本と北村の顔を交互に見た。
「私の長年の経験からすると、今回の派遣業界の景況悪化はかつてなく厳しいと感じている。賞与はあくまで業績配分であることを考えると、上期はB案を出せる状況ではないと思う。どうだろう、業績が回復し、利益を確保できる見通しが立てば下期賞与で配慮するというのでは? 企業というのはあくまで利益を出さなくてはならない、赤字にはしたくない」
大野は、経営者としての意思を明確に表明した。
「わかりました、異存はありません」
坂本が膝の上で拳を握りしめ、軽く頭を下げて言った。
「私もです、それではA案ということでよろしいですね」
北村が確認すると、大野、坂本が頷いた。
大野が再び発言した。
「これは緊急動議と言うことになるが、上期賞与を大幅に削減した以上、役員報酬もカットせざるを得ない。社長が二十㌫、取締役が五㌫という線でどうだろう」
大野の提案に、野田は頭の中で試算した。取締役の場合、年俸から計算すると、一ヶ月に七万円程度、年間約八十万円の削減になる。社長はそれを大きく上回る。
「異存はありません」
坂本と北村が同時に賛同した。
「申し訳ないが、社員の賞与を削減する以上、われわれも身を削らなければならない。七月の報酬から実施したい。野田君、この決定事項を前川君に伝えてくれ」
「承知しました」
議事録のためのメモをとりながら、野田は返事をした。
取締役会での議案・報告事項が片づくと、取締役たちは肩の力を抜いて世間話を始めた。 この日は、もっぱら政治情勢が話題となった。今月二日、鳩山総理大臣が辞任したからだ。沖縄の米軍普天間基地の移設問題で迷走したうえ、小沢一郎元代表の政治とカネの問題に対処するため小沢と差し違える形で両人とも公職を退いていた。
「本当に、普天間基地を国外あるいは最低でも県外に移設できると考えていたのかね」
大野があきれたように言った。
「政治家というのは理想を抱くと同時に、現実的でなければならないですよね。結局、現実的では無かったということではないですか」
坂本が賛意を表した。
「そうだな、この混乱は派遣法改正法案にどう影響するだろう」
「国会の会期末は六月十六日ですから、今国会で成立しないのは確実になりました」
「喜んでいいものかどうか。いずれにしても企業は法案成立を前提に対応してくるだろうから、くれぐれも神経をとがらして派遣先企業の動向を営業マンに探らせて欲しい」
「わかりました」
その日の午後六時から派遣業界の有志で構成する勉強会「望人会」が開かれるので、野田は午後五時過ぎに坂本と連れだって会社を出た。大手町で地下鉄丸の内線に乗り、赤坂見附にある会場に向かった。
夕方のラッシュはまだ始まっておらず、都心に向かう地下鉄は空いていた。坂本がドアの近くに二つの空席を見つけ、素早く座席に座ると、野田を手招きした。
列車が動き出すと、坂本が騒音に負けない大きな声で話した。
「野田ちゃん、会社を創業しただけあって、さすがに社長は問題の在りかがわかっているね、われわれへの指示も的確だ」
「同感だ」
「うちは独立系派遣会社だから社長の指導力が大きい。望人会の参加者は大手企業が自社向け派遣のために子会社として設立した、いわゆる資本系派遣会社が多いだろう? 常に親会社の意向を気にしていなければならないから大変だな」
「まあ、独立系は社長の決断ですぐに動けるからね」
会話を交わしているうちに、赤坂見附に着いた。
地下鉄の駅から歩いて五分、幹事の派遣会社の入居するビルの四階の会議室が会場だった。受付で会費の三千円を支払い、三十席ほどあるテーブルの後ろ側に二人で座った。
開催時刻の午後六時の十分前に会場はほぼ満杯になった。会合のテーマが「労働者派遣法改正を考える」と今日的なテーマであったせいか、出席率が高かったようだ。
定刻になり、望人会の主催者の挨拶の後、大学の教授の講師が登場した。
教授は労働者派遣法そのものに対して批判的だった。派遣法が成立以来一貫して対象業務を限定してきたことを批判し、時代の変化に法律が適合できなくなっている事を強調した。
講演が終了した後、会場の机を並べ直し、ケータリングからの料理を運び込んでの懇親会が催された。大学教授も参加したので、野田は直接話を伺うため教授に近寄って名刺交換をした。教授は、ビールを片手に鷹揚な態度で野田の質問に答えた。
「派遣会社は今生き残りに必死です、派遣法改正法案の影響で需要が減ってしまって。何か妙案はないですかね?」
「そもそもマスコミによって派遣は悪、っていうイメージが定着してしまったからね。まず業界が一致団結して派遣法改正に反対する行動を起こさなければならないのに、そうした動きが見られないのは業界の事なかれ主義の現れじゃないのかな」
「業界もなかなかまとまりがなくて」
「どうもそのようだね。だけど、このままだと中小の派遣会社は大変なことになるよ」
「はあ」
野田は曖昧な返事をするしかない。
「そもそも一九八五年に派遣法が成立した出発点からおかしかったんだ。業務を限定して派遣を規制してきたから、ひずみや無理が拡大してしまった。政令業務の中には現実的にはもはや存在しないものもあるし、介護とか医療事務とか現在最も専門的な業務が対象になっていない。すっかり時代遅れになっていることに官僚は気付いているけど知らんふりだし、政治家は票にならないから動かない」
教授が持論を述べると、いつの間にか側に来ていた坂本が口をはさんだ。
「先生、そうはおっしゃいますけど、われわれは食っていかなくちゃならないんです。そんなご高説よりも今の法律の中でどう生きていくかの方が大事なんです」
坂本の言葉にムッとしたのか、教授は冷淡に答えた。
「わたしの仕事は制度の矛盾を指摘することです。生き残り策を考えるのはあなた方の仕事じゃないですか」
気まずい雰囲気になり、教授は二人から離れ、他の参加者と懇談し始めた。
坂本は野田にぼやいた。
「大人げないこと言っちゃったけど、毎日営業数字を気にする身としてみれば、制度の矛盾を論議しても間に合わないんだよな」
「わかってる」
野田は坂本の気持ちも理解できたが、大学教授にぼやいてみたところで仕方のないことだった。
二人で話していると、「失礼します」と参加者の一人が近寄ってきた。
差し出された名刺を見ると、NYTビジネススタッフの経営企画・総務担当取締役有藤一政とある。
「NYTビジネススタッフさんといえば、NYTテレフォンのグループ会社でしたよね」
坂本が気さくに聞いた。
「ええ、うちはNYTテレフォンを始め、NYTグループに派遣社員を送り込んでいます。IT技術者の派遣の多いのが特徴です。少ないですが、5号業務でも派遣していますよ」
有藤は笑みを浮かべながら話した。
「派遣社員はどのくらいいます?」
「千五百人くらいです」
「うちの二倍だな、さすが天下のNYTグループですね」
「業績はどうです? うちなんか急速に悪くなっています」
「ええ、IT技術者の派遣需要は結構ありまして、何とかやっています。むしろスマートフォン向けの技術者なんか人手不足で」
「ふーん、うらやましい限りですね、うちは技術者の派遣に弱いなあ。その分、5号業務問題で頭を悩ましていますよ」
坂本は正直に社内事情を打ち明けた。
有藤は真顔になって言った。
「いや、うちは『専ら派遣』という大きな問題を抱えておりまして。派遣法改正法案では、グループ企業への派遣社員は全体の八割以下に抑えなくちゃいけませんよね。そうしないと、企業が人件費を不当に抑えるために派遣会社を設立したということで、派遣免許の取り消しだってありうる。うちは派遣社員のほとんどをグループ企業に派遣しているので、それに引っ掛かってしまうんですよ」
「どういう対策をとるんですか」
野田が聞いた、
「うーん、今、いろいろ考えているんですがね。現実的には、グループ企業以外に派遣を拡大するのは難しいです、競争が激しくて」
有藤は野田の方を振り向いて頭をひねった。
「派遣会社によって悩みはさまざまですね、うちは独立系だから、専ら派遣の問題は最初から無かったものですから」
坂本が言うと「そうですね」と有藤は頷き、手に持ったコップのビールを口に運んだ。
パソコンの画面から目を離し、野田は壁にかかっている時計を見た。午後四時を回っているのを確認してから、経理課長の市村忠夫を呼んだ。市村が野田の机の前にやってきたので、一枚の紙を手渡した。
「五時半からの上期賞与の説明会で配るから、これを社員の人数分コピーしてくれ。配るのは説明会の直前にして。それまでは社員の目に触れないように」
賞与のたびに野田から指示されているので市村はすぐに理解し、紙を受け取った。説明会の日時は一週間前にメールで社員に通知している。
市村に指示した後、野田は北村取締役の席に行き、「先日の取締役会で決定した上期賞与の資料です、本日の説明会で配ります」と言って資料を手渡した。北村は「わかった」と言って受け取った。
定刻の五分前に、野田が資料を綴ったファイルを持って説明会を行う会議室に行くと、市村が入口近くの三人掛けの机に座っていた。机の端には、上期賞与の説明資料が置かれている。
野田は並べられた机の間を通って会議室の前方の隅に置かれたパイプ椅子に座った。出席者と向き合う形で置かれた机には、大野社長と北村取締役が座る二つの椅子が用意されている。
社員が姿を見せ始め、思い思いの場所に座り始めた。定刻の直前に北村取締役と大野社長が会議室に入ってきて着席した。
社員の集まりが遅かったので五時半を過ぎてから二分ほど待つと、打ち合わせでもしていたのか、営業部員が四人ほどあわただしく入って来た。
時計を見て、野田は立ちあがった。
「定刻になりましたので、これから上期賞与の説明会を開催します。北村取締役、お願いします」
資料に目を落とし、北村が上期賞与の支給額の数字を読み上げた。従業員平均で一人当たり二十六万円以上も前年実績を下回るという説明を聞いて、会場に落胆する空気が流れた。ヒューマン・キャリアの上期賞与としては過去最低水準になる。
「それでは、社長のお話をいただきます」
野田が大野の方を見ると、大野は軽く頷いた。
「ただ今、北村取締役が数字を申し上げましたが、上期賞与は大幅に減らさざる得ない状況です。経営者として責任を痛感しています。誠に申し訳ない」
大野が立ち上がって一礼したので、北村があわてて後追いする形で頭を下げた。着席した大野が話を続けた。
「現場で働く皆さんが一番ご存じだと思いますが、派遣業界には今、大変な逆風が吹いています。民主党の派遣法改正法案の提出によって、派遣そのものが存立できなくなる危機に立たされております。派遣先企業が派遣社員受け入れの見直しを進めているのに伴い、当社の派遣社員は減り続け、業績も悪化しています。今回の上期賞与は現状の社業を反映したものであります。経営者として誠に心苦しいのではありますが、業績が回復しましたならばまた元に戻したいと考えております」
大野が経営トップとしての考えを正直に述べた。
大野が「何か質問があればお答えします」と言うと、会議室の中央に座っている中川純一が手を挙げた。大野が「どうぞ」と頷くと、中川は立ち上がった。
「当社の労働者代表として質問します」
中川は、労働組合の無いヒューマン・キャリアの過半数の労働者代表として今年四月に選出された。労働者代表は管理職でない社員が選ばれることになっており、現場の営業の第一線に立つ三十歳を過ぎたばかりの中川に白羽の矢が立った。
「ただいまの会社の説明を聞いていますと、あまりに減額幅が大きすぎるというのが率直な感想です。社業からしても、もう少しソフト・ランディングできる状況ではないでしょうか」
大野が答えた。
「中川君の言うことはよくわかるし、皆さんもよく頑張ってくれています。しかし、当社の派遣社員の人数は毎月減り続けており、上向く兆しが一向に見えません。もし下期に向けて業績が回復するのであれば、下期賞与で上乗せすることを約束します」
「賞与が業績を反映するということは理解できますが、その一方で賞与は生活給であるという側面も見逃せません。業績が回復すれば下期賞与に反映させるというのは確かですね」
「もちろんです、約束します。下期賞与は皆さんの頑張りにかかっていますので、よろしくお願いしたい。蛇足ですが、皆さんにお伝えします。上期の業績悪化と上期賞与削減に関する経営責任を明確にするため、役員の報酬カットを七月分から実施します。社長の私は二○㌫、取締役は五㌫カットします」
居並ぶ社員の間からは目立った反応は出ず、説明会が終わると、社員たちはのろのろと立ち上がった。浮かない顔、沈鬱な表情、あきらめの苦笑い。大野はそうした社員の様子を凝視している。経営者として責任を感じているのか、心なしか寂しそうに見えた。
六月十六日に国会は閉幕しており、労働者派遣法改正法案は継続審議となった。民主党は秋の臨時国会での成立を目指すとしたが、七月十一日の参院選で過半数割れの四十四議席しか獲得できず、惨敗した。民主党は衆院では圧倒的な議席を維持しているものの、参院では少数派といういわゆる「ねじれ国会」が現出し、法案の行方がどうなるのか誰もが予想できない混沌とした情勢になりつつあった。
4
七月下旬の金曜日の夕方、机の上の電話が鳴り、野田は週末の高揚しかけた気分に水を差された。
「おう、野田ちゃん、今、時間があるか? ちょっと相談に乗って欲しいんだ」
坂本の声はすぐにわかった。
「ああ、いいけど、どこで会う?」
「会社の外のほうがいいな」
十分後に、大手町ビルの喫茶店で落ち合うことになった。
地下一階にある喫茶店に入ると、奥のボックスから坂本が手招きした。坂本の向かい側に座り、アイスコーヒーを注文して向き直ると、坂田が声を落とした。
「野田ちゃん、総務の力を貸して欲しいことが起きちゃった」
「何だい、真剣な顔をして」
「ちょっとやばいんだ、うちの派遣社員が居直っちゃって」
坂本の話によると、長期で神田の建設会社に派遣している派遣社員が、法律違反だとしてヒューマン・キャリアを東京労働局に訴えることをほのめかしているという。
「中村礼子という四十代前半の女性なんだ。5号業務で派遣しているんだけど、実際は一般事務の仕事をしているんだ」
「やはり5号業務の問題か」
「そう、中村は一般事務は自由化業務なのに5号業務で契約しているのは法律に違反する、と主張している。中村を担当している営業部員が説得してもらちがあかない」
「どうしてそんなことになっちゃったの?」
「実は、その建設会社は業績不振で人減らしに乗り出したんだ。公共工事の予算が減ったうえに民間需要も低迷しているだろう? 正社員の希望退職を募る前に、まず派遣社員から手をつけようというわけだ」
「中村はそこの派遣で何年働いているんだ?」
「六年目に入る。自由化業務に切り替えるとなると、三年以上雇われているので派遣先企業は直接雇用に切り替えなければならないはずだ、って中村は主張している。自分はもう年だし、慣れた仕事だから、辞めたくないって言っているらしい」
「その会社は直接雇用に切り替える気はないだろう、そもそも雇い止めにして人件費を削減したいんだから」
「そうなんだ、だから困っている」
「先方はうちの得意先だよね? 結局、金で解決するしかないんじゃないの? 労働局に訴えられるのだけは阻止しなければならないな」
普段は強気の坂本が眉をひそめ、野田の方を見つめる。
「だからさ、野田ちゃん、中村に会って話を聞いてくれない? 取締役の俺が直接交渉するわけにはいかないし」
「担当の営業部員が説得できなければやるしかないな、コンプライアンスは総務の管轄だし」
面倒な事はなるべく避けたいが、仕事だと思って割り切らなければならない。
「頼む」
坂本が両手を合わせる仕草をした。話が済むと、坂本はテーブルの上の伝票を取って立ち上がり、「お客さんが来るから」と先に出て行った。
翌日の午前、野田は、中村礼子が勤務する神田の建設会社の派遣先責任者に電話をし、中村に電話するように依頼した。
中村から電話があったのは、午後四時過ぎだった。朝十時から午後六時までの勤務だが、残業があるので七時過ぎに会社の近くまで来て欲しい、という。
野田は午後六時に退社し、神田の方に向かった。二十分ほど歩いて、中村の勤務する会社の四階建てのビルを確認した後、近くの中華料理店でチャーハンを食べて腹ごしらえをした。七時近くに電話して、近くの喫茶店で待っていることを中村に伝えた。
野田が喫茶店に到着して間もなく、白いブラウスに紺のパンツという出で立ちの女性が店内に入ってきた。女性は野田の席にやってくると、「野田さんですか」と話しかけてきた。野田が頷くと、中村は腕時計を見ながら「すみません、昼食も満足にとれなかったので、近くのレストランに移ってもよろしいですか?」と言った。
三分ほど歩き、中村が連れていったのは、オムライスの専門店だった。木造のバンガロー風の店で、酒類も出すせいか、店内を間接照明で薄暗くしていた。店の奥のテーブルに座ると、中村が口を開いた。
「当然、私の身上調書はご覧になっているでしょう。ご存じのように私は独身ですから、いつも軽くアルコールをたしなみながら晩ご飯を食べるのが習慣なんです。ビールをいただいてもよろしいですか?」
「かまいませんよ、私は夕食は済んでいますので」
中村は口元を緩めると、ウエイトレスに瓶ビールとチーズの盛り合わせを注文してから「しばらくしたらオムライスを持ってきて」と言い添えた。
中村はショルダーバッグから煙草の箱を取り出すと、「すみません、職場では吸えないので、一本だけ許してください」と言い、細長いフィルター・シガレットに火をつけ、美味しそうに味わった。
煙からは薄荷の香りが漂った。天井を見上げ、鼻から煙を出している中村の様子を見ていると、都会で働く女性の緊張感に同情の念を覚える一方、自己中心的な立ち居振る舞いにかすかな苛立ちを覚えた。
瓶ビールが運ばれてくると、中村は自分でコップに注ぎ、いただきます、とつぶやいて、美味しそうに喉に流し込んだ。履歴書では満四十三歳という年齢だったが、独身のせいか年齢よりは大分若いように見えた。
「品定めは済みましたか?」
中村が意地悪そうな目をして聞いてきた。
「別に、品定めなんて」
「私にはわかるんです、職場を変わるたびに何回も面接しなくちゃいけなかったから。目は言葉より雄弁なんですよね」
派遣社員とは接触も多かったが、このような挑むような言い方で突っ込んでくるのは珍しい、と野田は思った。
「私は今の会社で仕事を続けたいだけなんです」
中村は、急に話を本題に移した。
「確かに会社の経営が苦しいのはわかりますけど、だからといって五年以上働いてきた人間を簡単にクビにできるんですか? 私は自分の身を守るために、あらゆる手段をとります」
「話は聞いてます、今の中村さんの仕事は5号業務に該当しない一般事務であり、三年を超えて派遣されているから、派遣先が直接雇用の義務を負う、という主張ですね」
「ええ、その通りです」
「だけど、中村さんもこれまで何回も契約を交わしてきて、どうしてそのことを言ってくれなかったんですか? 5号業務という政令業務だと雇用期間に制限が無いから都合がいい、と内心思っていたんじゃないですか?」
「それはいいがかりというものです、契約に関してはあなたたちの責任じゃないですか」
「だけど、派遣先の経営が悪化して、あなたの雇用を継続する余力がなくなったと言っているんですよ」
「そうかも知れませんが、私は私の権利を主張するだけです」
中村の態度は頑なだった。これ以上話しても折り合いがつけられる目途が立ちそうもなかった。
野田は務めて冷静さを装って、コップの水を飲んだ。
「ちょっと困りましたね、すぐには結論を出せないですね。どうしたらうまく決着できるかもう少し検討しましょう」
最初からお金で解決する話を持ち出しても良かったが、まだ早いような気がした。中村も理解を示したように頷いた。
「派遣は辛いんです、契約期間が終わればお役ご免にされるんじゃないかと常に不安なんです。正社員じゃないから賞与も退職金も出ないし、四十を超えると、否応なく老後の生活を意識せざるを得ないんですよ、年をとってからも生きていけるのかって。だから、今の会社でできるだけど働いて、貯金もしたいんです」
中村の言うことも理解できた。しかし、派遣先は中村に辞めてもらいたがっているし、こちらの契約に落ち度があるのは事実だ。今日は中村から直接話を聞いて様子がわかったただけでも収穫だった。野田は中村と後日改めて話し合うことを約束して、別れた。
翌日、出社してすぐに坂本の席に行き、立ち話をした。
「昨晩、中村礼子に会ったけど、なかなか一筋縄ではいかない感じだな。初めて会ったばかりだから、お金の交渉は控えたから」
「うん、一回目だからね、担当者によると、彼女は派遣業界を知り抜いた強者らしい」
「ま、こちらが条件を出すのを待っているということかな。確認だけど、その建設会社は彼女を直接雇用するという意思はないの、一年の契約社員とか」
「いやあ、それは無理だな、建設業界は長引く不況でどこも経営が悪化しているから。」 「それじゃ、お金による解決しかないな、どの位出せるんだ?」
「通常、この手のケースでは、派遣終了とともに別に一ヶ月の給料分といったところが相場かな」
「わかった、派遣終了は二ヶ月後の九月末だったよな。その線でもういちど話してみよう」
「よろしく頼む」
坂本は右手を顔の前に立て、拝む格好をした。
5
八月初めの月曜日の営業会議。現場の営業担当者からの報告は派遣市場の縮小を物語る内容ばかりだった。この日は、新聞各社が派遣社員の削減を進めていることが話題になった。
「現在、新聞社は構造不況業種に陥ったといって過言ではありません。インターネットでニュースが無料で見られるようになって、新聞の購読者がどんどん減っているからです。大手と地方紙を合わせて毎年何十部万も部数が減っているそうです。つまり、毎年地方紙が一社ずつ倒産している勘定です」
新聞社への派遣を担当している営業部員が解説する。
「大手新聞社は子会社の派遣会社を傘下においており、そこから派遣してもらっています。新聞社は業績低迷に伴い派遣を減らしていますので、子会社の派遣会社がジリ貧になるという構図です。一方、わが社は新聞社系列の派遣会社の間隙をぬって、複数の新聞社に合計二十人程度派遣しています。主に記者クラブでのアシスタントで、そのうちの六割は政令業務第8号のファイリング業務です」
「まだ、8号が残っていたのか」
坂本営業本部長がうめいた。
「ええ、8号については減らしてきたのですが、記者クラブや新聞社向けだけが残っています」
「5号と同じく8号については厚労省は厳格だから、早急に改善しないとな」
坂本は念を押した。
政令業務第8号は「ファイリング」という業務である。高度の専門的な知識に基づいて文書の整理保管を行う業務と定義されているが、政令二十六業務のなかで最も業務内容が曖昧といわれていた。
派遣会社は、記者クラブで企業の発表資料をマスコミ各社の資料ボックスに配布したり、新聞記事をスクラップブックに貼り付ける作業などを「ファイリング」業務の一つとしてきたが、高度な専門的な知識を必要とはしない。そのため、記者クラブでの業務は8号業務とはみなせず、一般事務と認識されるようになってきている。
それだけでなく、8号業務という仕事そのものがほとんど世の中に存在しないという認識になってきている。そうした業務が派遣法には残っており、長い間法律を抜本的に見直してこなかったことが業界の混乱の一因にもなっている。
営業部員はさらに別の悪い情報を報告した。
「8号業務以外にも問題があります。それは記事の校正作業で派遣している派遣社員です。実は、校正作業の派遣社員については、政令業務第19号の編集に該当するとして、ある新聞社に長年三人ほど派遣してきました。しかし、厚労省が校正作業は編集には該当しないとの見解を強めていますので、その新聞社は法律違反を世間から叩かれるのを恐れて契約を打ち切りたがっています」
「そうか、派遣法の解釈がますます厳格になってきたな。仕方がない、新聞社の意向に従って契約の期限切れと同時に終了させるしかない」
坂本が即座に判断し、営業部員に指示した。
「わかりました」
会議室に重い空気が漂う中、大野社長がこの日初めて発言した。
「今までの報告を聞いていると、わが社が新聞各社に派遣している派遣社員二十人はほとんど契約が打ち切られると想定しておいた方がいいな。しかし、自由化業務に変更できるものは変更してなるべく残す努力をして欲しい」
「そのつもりではありますが」
坂本が曖昧な返事をしたのは、その難しさを思ってのことだろう。
「さて、派遣市場が縮小し続ける中で、わが社はどのようにして生き残っていくかだ」
大野社長が発言を続けた。
「厚労省のまとめによると、二○○九年に派遣労働者として働いた人数は前年度に比べて二四%減ったという。三百九十九万人から三百二万人に減り、百万人近くが職を失った計算になる。その分、派遣会社の経営が苦しくなったということだ。二○一○年は減少幅がさらに加速しているのはわが社の状況を見ても明らかだ。派遣法改正の動きが無くならない以上、派遣市場は縮小しつづけると見ていいだろう。そこで、わが社がさらにどういう対策をとるべきか、検討してもらった結果をまず営業担当の坂本取締役から話してもらおう」
大野が坂本の方を振り向いた。
坂本は、手元の資料の中からパソコンで印字したメモ書きを取りだした。
「社長がおっしゃるように、派遣市場の縮小で派遣だけでは食べて行くのが困難な時代を迎えています。とりわけ競争力の無い中小の派遣会社にとっては厳しくなっています。こうした中で、わが社が進むべき道は何か。第一は派遣の請負化であります。第二は直接雇用分野の強化です」
坂本が顔を上げ、社員の反応を探るように見回した。
「まず派遣の請負化という対策から話します。確かに、派遣市場は縮小していくでしょう。しかし、派遣先企業の仕事が無くなるわけではありません。派遣先は現在派遣で補っている仕事を契約社員やアルバイトなどの直接雇用で補おうとするでしょうが、直接雇用というのは採用から人事管理まで手間とコストがかかるので、派遣先にしてみれば、それを避けたいと思うのが本音のはずです。そこで、われわれは、派遣先から業務そのものを請負という形で受託して仕事を確保するのです」
「坂本君、派遣は業務の指揮命令者は派遣先企業の社員だけど、請負だと請負元が指揮命令者になるだろう。そこのところの問題は解決できるのか?」
「はい、確かに、製造現場などで偽装請負が問題になったことがありました。これは、工場などの仕事を請け負いながら、相手先の社員の指示で仕事をしたことから、請負の名を借りた実質的な派遣だと問題視されたものです。この危険性は常につきまといます。原則として、請負に変更できるのは、複数の派遣社員を送っている派遣先の業務にならざるを得ないでしょう。複数の派遣社員の一人を指揮命令者にして、業務を請け負うという形にするのです」
社長の大野が頷いた。
「というと、派遣社員を一人だけ送っている派遣先での請負は難しいということだな」
「はい、指揮命令者がいなければ、現場での請負業務は難しいと判断します」
「わかった」
「次に、直接雇用分野の強化です。具体的には、法律で認められている職業紹介と紹介予定派遣の二つに力を入れていきます。わが社は営業本部の下に派遣事業部と職業紹介室を置いておりますが、職業紹介室には実質一人の営業担当者しかおらず、月に一、二人の紹介実績がある程度です。世の中の流れは直接雇用の方向に向かっていますので、派遣事業部の営業部員も職業紹介、紹介予定派遣の営業を兼務することで売上げを伸ばしたいと考えています。職業紹介では企業に人材を紹介した時に斡旋料をもらえます。また、紹介予定派遣では、六ヶ月の派遣終了の後に派遣先企業が直接雇用に切り替えることを了承した際に紹介料をいただくことができます」
「即戦力を直接雇用したい企業の需要を開拓できる可能性はあるが、紹介できる人材を集めることができるのか?」
大野社長が質問した。
「はい、まさにそこが肝心な所でありまして、人材の確保に知恵を絞らなければならないと考えております」
「民主党政権はパートやアルバイト、契約社員といった有期の直接雇用者に関しても規制の網をかけようとしているが、これはどういう影響をもたらす?」
「はい、派遣会社よりは派遣先企業に大きな影響が出るでしょう。派遣法改正の動きに伴って、企業は派遣から直接雇用に切り替えようとしています。しかし、国は有期の直接雇用に関しては、一定期間経ったら正社員としての採用を求める施策を打ち出そうとしています。企業は退職金など人件費負担の増大を恐れ、直接雇用では正社員を増やそうとは全く考えていません。正社員としての採用を迫れば、企業はますます人件費の安い海外に逃げていく可能性があります」
「確かに、直接雇用はすべて正社員にすべきだという論理には無理があるな。パートの主婦は自分や家族の生活パターンに合わせて短時間勤務を選んでいるのだろうしね」
「はい。ただし、今の直接雇用の流れは、わが社にとって職業紹介、紹介予定派遣を推進していく上での追い風にはなるでしょう」
「わかった、いずれにしても新規分野を開拓しないとジリ貧になるのは目に見えている。現場と一緒に具体策を練って進めてくれ」
大野社長の承諾を得て、坂本は「わかりました」と力強く返事を返した。
「さて、次は社内のコスト削減をどう進めるかだ、野田君、頼む」
指名を受け、野田は会議の出席者の顔を見渡した。皆が関心を示し、野田が口を開くのを待っている。
「経費の削減は痛みを伴うものです。しかし、会社を存続させるためには避けて通れません。まず、その点を社員の皆さんにはしっかりと認識して欲しいと思います」
こう発言して、野田はしばらく間を置いた。
「経費削減策として実施するのは、人件費を含む聖域無き諸経費の見直しです。人件費ではまず、残業時間の短縮を目指します。直近のわが社の残業時間は月間平均三十時間程度です。わが社が労働者代表と締結した時間外労働時間の取り決めであるいわゆる三六(さぶろく)協定では、月間四十五時間の残業を上限としています。もちろん、これを超えて残業している社員もおりますので、まず、こうした長時間残業をしている社員は仕事のやり方を見直して率先して残業を削減して欲しいと思います。全社的には、残業時間の半減を当面の目標とします。最初は社員の自発的な取り組みに委ねますが、実効が上がらないときは、第二段階として残業を事前申請制にします」
坂本の表情が少し険しくなった。営業部員の残業を事前申請制にする煩雑さが頭をよぎったのかも知れない。
「次に、アルバイトとの契約打ち切りです。わが社は現在、五人のアルバイトを採用しています。総務に一人、営業本部に四人おります。このうち総務の一人と営業本部の一人は障害者雇用で採用しております。わが社は一・八%という法定の障害者雇用率を達成しておりません。法律改正によって、わが社も二○一一年度からは障害者雇用の不足分を納付金の形で支払わなければならなくなりました。この二人は継続して雇用するとして、他の三人を契約打ち切りの対象とします。三人のアルバイトとは三ヶ月契約なので、契約期限の一ヶ月前に本人に通告して 契約を終了させてください」
「何を言うんだ、野田部長、営業本部のアルバイト三人が辞めたら日々の業務が回らなくなってしまうよ」
坂本が大声を上げた。
「坂本本部長、はっきり申し上げますが、経費削減の本丸は正社員の人件費のカットなのです。そこに手をつける前に非正規社員の整理をしなければならないのです。幸い、わが社は派遣会社ですので、三人のアルバイトを当社の派遣社員として登録して仕事を見つけてあげることができるじゃないですか」
野田が言い返すと、坂本は黙った。
野田の提案に坂本が異議を申し立てたのは、事前に野田と坂本が申し合わせての事だった。会議に出席している社員に納得させるために芝居を打ったのである。その事は大野社長も知らない。
野田は続けた。
「それでも赤字を回避できないのであれば、賞与カットなどの人件費削減に続いて、希望退職の募集と徐々に厳しい対策を打っていかざるを得ません。会社が生き残るための方策ですので、どうかご理解いただきたいと思います。以上です」
野田が発言を終えると、社長の大野が話を引き取った。
「総務部長の提案は経費削減の実施すべき手順を踏んでいると思う。それほどわが社の状況は厳しくなっているということだ。皆さん、どうか、それを理解して欲しい」
社長の発言を締めくくりに会議は終わった。
神田の建設会社から野田に電話があったのは、営業会議のあった翌日だった。派遣先責任者でもあるその会社の総務部長は「中村礼子が正社員にしてくれないと東京労働局に訴えると言っている。何とか穏便に解決してくれないと困る」と泣きついてきた。
野田は「現在、本人と話し合いを続けていますので、もうしばらくお待ち下さい」と電話に向かって頭を下げ、ようやく納得してもらった。
すぐに中村に電話を入れて、二回目の交渉をその日に持つことにした。今回は仕事の関係で夜の八時過ぎにしか会えないという。野田は、中村の指定した神田の居酒屋で待つことになった。
その居酒屋は全国にチェーン展開している店で、野田が八時前に入った時には、早くから飲んで酔ったサラリーマンたちの喧噪で満ちていた。待ち合わせていることを店員に伝えると、奥のテーブルに案内された。
生ビールと枝豆、ポテトサラダ、シメサバを注文した後、(今日はどう話したらいいか)と思案した。中村はあくまで仕事を続けることを希望している。しかし、勤務先は経営の悪化で雇い止めを通告してきている。結局、金で解決するしかなかった。坂本の言うように、一ヶ月の給料分を和解金として提案してみようと腹を固めた。
八時十分に中村は店に現れ、初対面の時よりは硬さがとれた表情を見せた。
「私もビールを注文しちゃおう」
飲みかけの野田のジョッキを見て言った。
中村が注文を終えてから、野田はさっそく本題に入った。
「中村さんは、どうしても今の会社で働き続けたいですか?」
「もちろんです、先日もそう言ったはずです」
「実は、お宅の会社から今日も電話がかかってきまして、どうしても契約延長はできないと言うんです。当社で、別の会社を斡旋しますので、何とか、ご理解いただけ…」
野田が言い終わらないうちに中村は右手でテーブルをバンッと叩いた。テーブルに置いた野田のジョッキの中のビールが揺れた。
薄暗い店内で、中村の形相は般若の面のようだった。
「あなたたちはいつもそうなのよ、いつも派遣社員の犠牲の上に甘い汁を吸っているんだわ。今回だってそうじゃない、派遣先は簡単に雇い止めをするし、あなたの会社は自由化業務を5号業務と法律違反の契約をするし、被害を受けるのはいつも派遣社員なのよ」
「ですから、話し合いで解決をと」
「だけど、こちらの要求は一顧だにしてもらえないじゃない、これからも今の会社で働きたいという」
「それはちょっと難しいかと」
「結局、そうじゃない」
ウエートレスが二人の間の緊張した雰囲気を察して、中村が注文したビールを黙って置いていった。中村が勢いよくジョッキのビールを喉に流し込んだ。
提案を示す頃合いだと野田は思った。
「わずかですが、和解金を出す用意はあります」
「いくら払ってくれるんですか」
中村はジョッキを手に持ったまま上目遣いで野田を見た。
「雇い止めと言っても、法律上は契約期間終了ということになります。契約終了と同時に、賃金とは別に和解金として給料の一ヶ月分をお支払います」
「とても納得できる数字ではありません」
中村が後ろに反り返り、憮然として声を荒げた。
「そうですか、今日提示できるのはこんなところです。派遣社員の処遇であまり例外を作りたくないものですから」
「がっかりしました、野田さんはもっと話のわかる方だと思っていたのに」
中村の顔に失望の色が表れている。しかし、こちらも迂闊な回答をするわけにはいかなかった。
「わかりました、もう少し検討させていただきます、継続して話し合いを続けるということで」
中村は返事をしなかった。
野田は一礼し、伝票を手にして立ち上がった。
中村と別れた後に感じた漠然とした不安は、三日後に現実のものとなった。朝出社し、自分の席でペットボトルの緑茶を飲んでいると、前川直子が「東京労働局から電話です」と取り次いだ。
(野田さんですか、東京労働局需給調整事業部の斎木です)
聞き覚えのある声だと思ったら、労働者派遣の適正化プランの実地調査で来社した斎木だった。斎木は(御社の派遣社員から訴えがあり、事実確認をしたいので本局までご足労願いませんか)と言った。中村の顔が脳裡をよぎった。「すぐ伺います」と答え、受話器を置いた。
会社を出て東京駅まで歩き、JR山手線に乗った。ラッシュアワーを過ぎた午前中の電車は空いていた。田町で降りて、労働局の建物までタクシーで急いだ。労働局は高速道路の側に立つ六階建ての建物で、需給調整事業部は三階にあった。窓口に行き、斎木を呼んでもらった。
間もなく、斎木が資料を小脇に抱えてやってきて、スチール机の向こう側に座った。
「御社に中村礼子という派遣社員がいるのは、間違いないですか?」
やはり中村がからむ件だった。
「はい」
「御社が法律を守っていないと、中村さんが訴えてきています」
「どういう事でしょう」
「自由化業務を5号業務として契約していると入っています。それで契約が五年を超えているので、派遣先に直接雇用してくれるよう希望しているが断られていると」
「はい、これは中村さんの指摘で気付きました。中村さんの仕事は5号業務であると判断して契約した当社のミスです。早速契約書を訂正します。ただし、派遣先の経営が悪化しておりまして、派遣先は二ヶ月後の契約期限とともに終了させたいと言ってきております」
「派遣先は直接雇用は無理だと?」
「はい、非正規社員の整理の後は、正社員の希望退職に踏み切るようです」
「そうですか、困りましたね。つい先だって実地調査に基づいた5号業務見直しの報告書を提出してもらったばかりではないですか。それなのにこういう訴えがあるとなると、御社の報告が信用できないということになりますよ」
「誠に申し訳ありません。この件も自由化業務に訂正しようと判断していた矢先でした」
野田は咄嗟に申し開きをした。確かに、報告書では、5号業務に該当しない業務は極力自由化業務に変更する、と報告していたはずだ。
斎木は小さくため息をついた。
「派遣先の経営が悪化しているのなら仕方ありませんね。派遣法では、派遣はあくまで期間限定の臨時の仕事であり、正社員の仕事を犯すようであってはならない、というのが趣旨ですからね」
「はい」
「しかし、法律は遵守してくださいよ。今は雇い止めに対して政治家やマスコミが何かとうるさいですから、あなた方にはしっかりと法律を守っていただかないと」
「重々承知しております」
「事情がわかりましたので、今回は口頭での注意ということにしておきます。もし、こうした問題が続くようでしたら文書による行政指導になりますよ」
文書による行政指導ということになると、会社の信用にも関わってくるのでどうしても避けなければならない。
「わかっております、ありがとうございました」
野田は深々と頭をさげた。
帰り道は、田町の駅まで歩いた。許認可事業の労働者派遣事業では役所からにらまれるのを極力避けなければならない。その点、今回の労働局の処置は予想より穏便で納得できるものだった。しかし、中村自身はもっと重い処罰を期待しているはずであり、今後、中村がどういう態度をとるのか先を読み切れなかった。
会社に戻り、坂本に経緯を話し、二人で大野社長に報告した。
野田の説明を聞いた大野は動揺するでもなく言った。
「起きたことは仕方がない。こちらが悪意で法律違反を犯したのではないということを労働局が認めたくれたのは幸いだった。今後、中村がどういう態度で出てくるのか見守るしかないだろう」
「一ヶ月の和解金を提案したのは私です、それがこの種のトラブルの相場ですので」
坂本が野田をかばうように言った。
「それはそれでいい。例外として和解金を大幅に増やすということはできない」
社長室を出た後、坂本がぼやいた。
「しかし、自分の思い通りにならないと何でもかんでも役所に訴えてしまうんだなあ。やりにくい時代になったなあ」
坂本のぼやく気持ちもわかるが、今回はこちらの落ち度でもあるだけに、野田は黙って聞き流した。
野田は神田の建設会社の派遣先責任者に電話をし、中村礼子の問題では労働局から口頭での注意は受けたが、契約期間終了と同時の雇い止めについては特に指示は無く、予定通り九月末に契約を終了できると伝えた。派遣先責任者からは「それは助かる。こちらも業績が悪くなる一方でね」と弁解するような反応が返ってきた。
その日、野田は埼玉県ふじみ野市にある自宅に夜の八時半に帰った。妻の康子が晩酌の用意をして待っていてくれた。
東武東上線の上福岡駅から歩いて十二、三分の川越街道の手前に自宅はあった。ふじみ野市に統合される前の旧大井町の頃、区画整理で建てられた一戸建てを三十五年の住宅ローンを組んで購入した。駅からはやや遠く、会社までは一時間半以上かかったが、二階建て四LDKに小さな庭の家はまさにマイホームだった。
二十年前に都内のアパートから引っ越してきた時、野田はまだ三十代の若さであり、一人娘の麻里子は小学一年生だった。
「麻里子はどうしている?」
紺色の上下のジャージに着替え、テーブルについた野田は妻に聞いた。
「一日中部屋にこもって音楽を聴いているわ」
「そうか」
野田は溜息をついて、康子が注いでくれるビールをコップに受けた。
麻里子は今年二十六歳になる。私立の四年生大学を卒業したが、就職先が決まらず、三年前から大手派遣会社の派遣社員として働き始めた。事務用機器操作の5号業務で大手商社に派遣されたが、実際は一般事務の仕事だったようだ。
麻里子の様子がおかしくなったのは一年ほど前からだ。表情が暗くなり、朝起きることができず、会社を休むようになった。母親の説得で心療内科を受診すると、うつ病と診断された。派遣会社からは契約期限と同時に雇い止めになり、それ以来、自宅に引き籠もったままだ。
麻里子の容態が少し良くなった頃、話を聞くと、麻里子が派遣されていた職場での人間関係がうまくいかず、上司にパワハラまがいの仕打ちを受けたことが原因のようだった。
しかし、麻里子の話を聞いても、確かに叱責されたり嫌な思いをしたのは確かなようだが、仕事をしていれば多かれ少なからずそのような経験をするのは誰しもあるような事で、派遣先からパワハラを受けたとは明確には言えないようにも思えた。
「お父さんはすごいね、二十年以上も同じ会社に勤めていられるなんて」
麻里子はそのような事を口にしたが、自分が社会に出て改めて働くことの厳しさを実感したのかも知れなかった。
妻の康子とは、自分たちの教育が間違っていたのかも知れない、と反省し合った。
「一人娘だから、甘やかして育ててしまったのかなあ」
野田がぼやくと、妻が言った。
「あの子は小さい頃から素直で優しかったから怒る必要なんてなかったのよ」
普通に育った若者にとって、社会で働くということはそれほどストレスに満ちているということだろう、と野田は思った。野田自身の事を考えてみても、ヒューマン・キャリアという小さな会社でさえ毎日新しい問題が起き、それに対応せざるを得ないから、一日が終わるとぐったりと疲れてしまう。麻里子の場合は、人生経験が浅いうえ、派遣社員という立場での嫌な体験も多いと想像された。そのストレスに押しつぶされてしまったのかも知れなかった。
日本はバブル崩壊後の「失われた二十年」といわれた後も、景気低迷から浮上できないでいる。二○○八年秋のリーマン・ショック後は、さらに厳しい企業社会に変容した。企業は生き残るために、一生面倒を見る必要のある正社員の採用を抑制し、人件費の安い派遣や契約社員などの非正規社員で補うようになった。このような時代の変化に乗じて、人材派遣会社が成長してきたのも事実だった。人材派遣というシステムが世の中に定着した以上、時計を逆戻りさせれば今度は非正規社員の仕事を奪ってしまうことになる。
しかし、と野田は酔いが回ってくるとつい考え込んでしまう。
給料の安い非正規社員が生活設計を立てられないような社会。非正規社員が増えて、新卒の若者が就職先に困るような社会。このような社会に、若者は将来の希望を見い出せるのだろうか?
一方で、ヒューマン・キャリアの経営が立ちゆかなくなったら、およそ四十人の社員と七百人以上の派遣社員が職を失うのは確かだ。必死になって経営に取り組んでいる大野社長の顔が脳裏に浮かび、会社を潰すことだけは絶対避けなければならない、と野田は強く思った。
「上期の売上高は予算を三・八㌫下回る十七億八千四百万円となりました。この結果、経常利益は三百三十万円にとどまりました。五月から派遣社員の雇い止めが顕著になって、当社の派遣者数が年初の八百三十人から六月末までには七百四十人にまで減ったことが原因です。つまり、長期派遣者一人当たりの売り上げを一ヶ月三十万円とした場合、二千七百万円の減収になります。年間では三億二千万円を超える減収になります。もし、上期賞与を昨年上期並みにしていたら、上期決算は大幅な赤字になっていました」
八月の第二月曜日の取締役会で、北村取締役の上期決算の説明が続いていた。六月の上期賞与の社員への説明会から二ヶ月たっても、市場の環境は好転するどころか悪くなる一方だった。上期決算は賞与削減で何とか黒字を維持する形になったが、誰の目にも業績の悪化は明白だった。
取締役会の議長の大野社長が議事を進行した。
「北村取締役から上期決算の説明がありましたが、質問、意見等はございますか?」
大野が問いかけると、この日久しぶりに参加した社外取締役の武田守と坂本がそれぞれ「異議なし」と答えた。社外取締役は、決算の承認など重要な議題がある場合には出席している。
上期決算が承認されると、大野社長が感想を述べた。
「上期は何とか取り繕ったが、下期が正念場だな」
大野の言葉に、営業担当の坂本の表情が厳しく引き締まった。
この日の取締役会では、ちょっとした朗報があった。坂本営業本部長が現場に檄を飛ばしていた新規の請負事業の開拓で成果があったのだ。
「お茶の水にある出版社から、営業の一部を請け負うことができました。わが社の請負事業としては第一号になります。仕事は、都内の書店を回って注文をとってくること、お得意先の書店の出品スペースを確保することです」
坂本が報告すると、役員の間に久しぶりに明るい空気が漂った。
「それはいい話だ、どのようにして実現できた?」
大野社長が聞いた。
「もともとその出版社には以前から派遣社員を送り込んでいました。出版者側が経営悪化から派遣社員の雇い止めを通知してきたので、請負でできることはないか提案したところ書店回りの仕事を持ち出してきたそうです。書店回りを合理化して人件費を浮かそうというのが狙いのようです」
「それで、どういう態勢で臨む?」
「はい、先方は必要とする人員を最低四人としています。指揮命令者はこちらから出しますが、その他は出版の営業経験者を三人、年俸制の契約社員として当社で雇います。請負事業の一ヶ月の契約額は今後先方と詰めます」
「指揮命令者は誰にするつもりだ」
「営業本部の派遣事業部次長を充てたいと考えています」
「しかし、出版の営業は素人だろう」
「本人は書店回りの営業マンのスケジュール管理や出退管理、先方と当社の連絡、調整などをやってもらいます」
「それは甘いな。先方が最低四人の人員を必要と言っている以上、必ず営業に駆り出されるだろう」
「その時は、営業に出てもらいます、指揮命令者をこちらから出すのは一人分の人件費を浮かそうと言う狙いがありますので」
「それはわかるが、先方も請負事業にしてコストを浮かすのが目的だろう」
「はい、こちらの条件は一つだけあります。決して、売上げノルマには応じないということです」
「それだけは死守しないと、ノルマに翻弄されてしまうぞ」
「はい」
「こちらで雇う契約社員の年俸はどう決める?」
「それは先方との一ヶ月の請負契約額が決定してから決めます」
「しかし、募集をかけるときはある程度の年俸額を示す必要があるのではないか?」
「応相談、という形にします」
「わかった。ただし、坂本取締役、赤字受注になったら意味が無いから、その辺りは慎重に請負事業の仕組みを考えてくれ」
「わかりました」
請負事業が新たにスタートできることは一筋の光明ではあったが、本業の派遣事業は依然として退潮傾向にあった。
「坂本取締役、職業紹介と紹介予定派遣分野を強化するという話はどうなったかね?」
大野が聞いた。
「はあ、現在、派遣の営業部員が派遣先企業で職業紹介、紹介予定派遣の営業も並行して進めるようにしていますが、なかなか実績があがらないのが実情です。企業は派遣会社とは別に、直接雇用についても専門の会社に依頼しているようなので苦戦しているのが実情です」
「そうか、知恵を絞って打開策を考えてくれ」
取締役会の議事が終了すると、大野は久しぶりに出席した武田社外取締役に意見を求めた。
「武田さん、本日はわざわざご出席いただき、誠にありがとうございます。上期決算でご説明しましたように、わが社の業況は悪化しております。何か良いアドバイスがあれば知恵をお貸しください」
「いやいや、アドバイスなどとてもとても。確かに人材派遣業には逆風が吹いていますが、請負事業を開拓するなど地道に取り組むしかないでしょうね」
武田は禿頭を右手でなで回した後、血色のいい笑顔を見せた。武田が取締役会に出席するのは年に数回しかないが、大野は武田に全幅の信頼を置いている。
武田は都内で手広く賃貸マンションを展開する不動産業のオーナー経営者で、七十代前半になる。大野が銀行員時代、融資の営業ノルマを達成できずに追いつめられた時があった。悩んだ末、夜に営業に押し掛けたのが知り合って間もない武田の自宅だった。せっぱ詰まった大野を見て、何を感じたのか武田は黙って融資の話を引き受けてくれた。それ以来、大野は武田に恩を感じ、大野がヒューマン・キャリアを設立するときに社外取締役の就任を依頼したのだった。
「景気がなかなか良くなりませんが、事業の方はいかがですか?」
「ぼちぼちというところですかな。やはり不動産も時代の波に乗っていかないと駄目でしてな、最近は高齢者向けの介護付きマンションなどを手掛けていますよ。これがなかなか需要が多いんですよ」
「武田さんは父親が始めた事業をさらに大きくされて、やはり経営の才覚が備わっていらっしゃるんでしょう」
「いや、大野さんのような創業者の気迫は足りないなあ、二代目は」
武田は小太りの身体を揺すって「ホッ、ホッ」と笑い声を上げた。
夏休みシーズンに入ったので、野田は久しぶりに家族三人で一泊の旅行に出かけたいと思った。妻の康子が「たまに海を見てみたいわ」と言うので、娘の麻里子を誘い、犬吠埼の灯台を見にいくことにした。インターネットで調べると、東京八重洲口からバスが出ていることがわかった。
当日は朝早く自宅を出て、上福岡駅から東武東上線で池袋まで行き、地下鉄丸の内線で東京駅まで出た。午前九時半出発のバスに乗った。バスの一番後ろの座席に、康子を真ん中に三人並んで座った。
真夏の太陽が照りつける中、夏休みで車の少ない高速道路をバスは順調に走り続けた。車内のエアコンで体が冷えるのか、麻里子はカーディガンをはおり、窓にもたれて眠り続けていた。病気が完全に治ったわけではないので、野田は元気のない麻里子の様子が気になったが、いつまでも家に引きこもっているのは逆に身体に良くないと思っていた。
銚子を過ぎて、正午近くにバスは犬吠埼に到着した。ほぼ満員だったバスの乗客はいつの間にか三分の一程度に減っていた。バス停にほど近いホテルに宿泊の予約を入れていた。
午後一時過ぎにフロントで受付を済ますと、部屋の鍵を手渡された。五階の二間続きの和室で、窓からは太平洋の広大な海が見渡された。真夏の太陽の光を浴びて、海は眩しく輝いていた。
「わあー、きれいねー」
妻の康子が歓声をあげた。麻里子の顔に笑顔が浮かんでいるのを見て、旅行に来て良かったと野田は思った。昼食は、康子の手作りのお握りを部屋の中で食べた。旅行費用がかかるので、昼食にお金をかけるのはもったいないと康子が朝早く起きて用意したのだった。
夕方に犬吠埼の灯台まで歩いて行くことにして、それまでは部屋の中でのんびり過ごした。野田は押入から枕を取り出し、和室の畳の上に身を横たえた。エアコンの風が心地よく、いつの間にか眠り込んでいたようだった。
目を覚ますと、康子と麻里子が窓際のソファーに向かい合って座り、景色を眺めていた。
「お父さん、目を覚ましたの? 灯台まで行ってみない?」
康子が振り返って野田に声をかけた。
「そうだな、天気が良いから海が良く見えるだろう」
日差しが強かったので康子と麻里子は日傘を持ち、野田は白い帽子をかぶってホテルの外に出た。海風が強く吹いているせいか、思ったほど暑さを感じなかった。
ホテルの玄関を出て一般道路に入ると、海に突き出した崖の上に白い灯台が見えた。まぶしい光の中で、崖にぶつかる波のしぶきが白く激しく動いていた。
「太平洋は波が荒いのね」
康子が日傘を肩に乗せ、目を細めて言った。麻里子は口数が少ないが、風になびく髪を右手で払う表情は穏やかだ。
風のせいで体感温度はそれほどではなかったが、十分ほど歩くと汗が噴き出してきた。坂を上って灯台の立つ台地に到着すると、太平洋の青い海原がはるか地平線まで続いていた。
野田は、久しぶりに気持ちが高揚するほどの解放感を覚えた。東京のビル街の煩瑣な出来事が大したことのないように思えてくるのが、大自然に接した時の良さなのだと実感できる。
「きれいねー」
麻里子が感嘆した声をあげた。普段家に引きこもっている麻里子が感激するのは珍しかった。大自然に接すると気持ちがリラックスするのかも知れなかった。
太平洋を眺め、灯台の近くを散策し、売店をのぞいているうちに一時間があっという間に過ぎた。
潮風に吹きさらされて、全身の肌に塩がこびりついたような感じがした。野田が「ホテルに戻って一風呂浴びようか」というと、康子が「そうしましょう」と風に負けないように大きな声を返してきた。
ホテルに戻り、大浴場に入ると、ガラス窓越しに太平洋の海が広がっていて、気持ちが良かった。浴槽に身を沈めていると、筋肉のこわばりがほぐれていく心地良さを覚えた。
風呂から上がって浴衣に着替え、部屋に戻ると、康子と麻里子はまだ戻っていなかった。時計を見ると五時半で、予約した夕食までには三十分あった。大汗をかいて喉が乾いていた。備え付けの冷蔵庫から瓶ビールを取りだし、コップを携えて窓際のソファーに腰をおろした。コップに注いだビールを飲むと、冷たい刺激が喉から胃にかけて伝わっていき、美味しかった。
海を眺めながらビールを味わっていると、ドアの施錠が解ける音がして、浴衣に着替えた康子と麻里子が戻ってきた。
「いいお風呂だったわ」
赤い頬をした康子が野田に声をかけた。麻里子の顔も上気している。
六時少し前に、仲居がやってきて部屋の中に夕食を運び始めた。一人一台のお膳の中に刺身や煮物、鍋物などのご馳走が並べられた。床の間を背に野田が座り、野田の前に康子と麻里子が並んだ。
「一杯、どうだ」
野田が康子にビール瓶を差し出すと、「それじゃ、少しだけ」と康子はうれしそうにコップを差し出した。
「麻里子はどうだ?」
「わたしは、ウーロン茶でいいわ」
うつ病の薬を飲んでいる麻里子は普段もアルコールを口にしなかった。
「まあ、天気に恵まれて、いい夏休みになった」
野田がコップを前に差し出すと、「ほんとに、いい日よりだったわ」と康子もコップを持ち上げた。
「三人で旅行なんて、いつ以来だったけ」
「そうね、麻里子が大学生の時に行ったのが最後だったから、四年ぶりね」
康子がすぐに答えた。母親というのは家族の出来事をよく覚えているものだ、と野田は感心した。
食事が進み、ビールから焼酎の水割りに移った頃、酔いが程良く全身に回った。
麻里子に対する普段感じる遠慮とぎごちなさがほぐれてきたので、麻里子に話しかけた。
「だんだんと体調が良くなっているようだね」
「休んでいる間に、ずいぶん睡眠をとったから疲れはとれたみたい」
麻里子が笑顔で答えた。
「ほんとに、この子はよく眠るのよ」
康子が笑った。
「いや、体を休めるのは大事なことだ、疲れをとらないと元気になれないからな」
麻里子が小さく頷いた。
このまま順調に回復して社会に復帰することを野田は強く望んでいたが、それを言葉にすると麻里子を追いつめるような気がして口にはしなかった。
家族水入らずで旅行に来られたことだけで幸せだった。その思いは母親の康子も同じようだった。康子は普段より多くビールのお代わりをし、饒舌だった。
「寝る前に、もう一度お風呂に入ってくるわ」
食事を終えてしばらくすると麻里子が立ち上がり、タオルを持って部屋を出ていった。
康子と二人きりになって、野田が聞いた
「どうなんだ、麻里子は? 良くなっているんだろう?」
「そりゃ、良くなってると思うわ。以前のように、伏せってばかりいないし、旅行にも来れたじゃない」
「そうだな、どうも男親は先行きを心配して取り越し苦労をするようだ。麻里子がこのまま働けなくなったら、どうしようって」
「考え過ぎよ、お父さん」
「そうなんだが、どうしても考えてしまうんだ。働けるようになっても、麻里子は派遣社員だから三十五歳を過ぎたら仕事に就くのは厳しくなる。退職金は無いし、年金だって少ない。老後はどうなるんだってね。麻里子がホームレスになっていることさえ想像するとぞっとする。麻里子を残して、俺は死ぬにも死ねないってな」
「止めましょう、お父さん、麻里子を信じましょうよ」
康子は、目に涙をためながら続けた。
「仕事に復帰して、いい人に巡り会って、結婚して子供を産むかも知れないじゃない? そうすれば私たちにも孫ができるのよ」
6
朝から夏の日差しが厳しかった。お盆過ぎの月曜日の午前十時、社長室の隣の応接室で、ヒューマン・キャリアの臨時取締役会が開催された。坂本営業本部長が陣頭指揮して開拓した出版社の請負事業への進出を正式に承認するためだった。
「第一号議案は、山河出版社との請負事業契約の件についてです。坂本取締役、提案してください」
議長の大野が坂本を指名した。
「概略については、すでに先月の取締役会で報告しておりますが、山河出版社との間で請負事業に関して合意しましたので、今日の取締役会で承認していただければと存じます」
坂本がおもむろに切り出した。事前に、各取締役にはヒューマン・キャリアの定款のコピーと山河出版社との契約書案、請負事業の事業計画が配布されていた。
「それでは、お手元の資料にそって説明いたします。まず、当社は派遣会社ではありますが、定款の事業内容に請負事業も列記されておりますので、今回の請負事業の開始に伴って定款を変更する必要はありません。契約内容は、山河出版社がこれまで手がけていた書店への営業をヒューマン・キャリアが請け負うというものです」
坂本の説明によると、山河出版社にヒューマン・キャリアから指揮命令者を含めて四人を派遣し、書店での出品スペースを確保するとともに、本の受注を代行するというのが基本的な業務だった。一ヶ月の請負金額が定められており、ヒューマン・キャリアはその金額の範囲内で人件費などのコストをまかなわなければならない。
ヒューマン・キャリアにとっては請負金額がまるまる売り上げの増加につながるが、利益をきちんと確保できるかがポイントだった。
「すでに書店の営業経験者の募集をしておりまして、三人の採用は内定しております。指揮命令者は、派遣事業部次長の二宮君を充てるつもりです。これに合わせて、営業本部の中に請負事業部を新設します。私が部長を兼務して二宮君に次長になってもらいます。実施日は九月一日とします」
いよいよ新規事業を開始するとあって、坂本の顔は幾分上気しているように見えた。
「基本的な事を聞きたいのですが、山河出版社は社員が書店回りをするのを中止するということですか?」
北村取締役が質問した。
「そういう事だと聞いています、書店回りは当社に委託したいということで」
「山河出版社はこれまで何人で書店回りをしていたのですか?」
「六人だと聞いています」
「それがわが社で書店回りの業務を請けおう場合、実質三人に減ってしまうのですね? 指揮命令者は現場にはそれほど出ないでしょうから」
「そういうことです」
「それでうまく業務が回るんでしょうか?」
いつもは社内の議論に淡泊な北村取締役が疑義を呈したので、坂本は感情を害したように声を荒げた。
「この請負契約では、書店からの受注に関しては数字のノルマは一切ありません。ですから、山河出版社の営業の指示にもとづいて書店回りをこなせばいいという契約内容です」
「そうですか、逆に営業ノルマが無いというのが不自然で、不安ですが」
「交渉では、先方も営業ノルマを課したいような口振りでしたが、それは断固としてお断りしました。この少ない人数では無理ですから」
坂本の説明に、北村はそれ以上は追及しなかった。
「坂本取締役、採用する三人の年俸はどう決めるのかね?」
大野が質問した。
「請負金額から利益が出るように、四百万円から五百万円の範囲で決めるつもりです」
「人数が少ないから、残業代もけっこう多くなるのではないかね?」
「残業代は、営業手当の中に含める形にします。この点につきましては顧問弁護士の田中先生にも相談しましたが、採用される者が納得すれば法律上は問題ないということでしたので」
「そうか、それで四人は普段どこにいるのかね?」
「山河出版社の中にスペースをもらいました。机とパソコンも使えるので、仕事をするうえでは問題はありません」
坂本に対する質問が途切れたので、大野が「まあ、新しい事業だから、やってみて問題が出てくればその都度対処するということだな」と引き取り、取締役会で正式に了承された。
「ありがとうございます」
坂本が頭を下げた。
九月上旬になっても厳しい残暑が続いていた。野田は所用で外出して、大汗をかいた。会社に戻ると、エアコンの冷気で背中がひんやりとした。自分の席に着くと、パソコンのキーボードの上に一枚のメモが置いてあった。
〈地域協働労働組合の賀川さんという方から電話がありました〉 見慣れた前川直子の文字で、電話番号が添えてあった。前川の席を見ると席におらず、壁のホワイトボードには「昼休み」とあった。腕時計を見ると、正午を回っていた。
地域協働労組という聞き慣れない組織の名前に戸惑い、どういう用件だろうと一抹の不安を覚えた。電話番号を見つめながら、電話するかどうか迷ったが、結局、思いとどまった。
午後一時直前に前川が戻って来て、自分の席に着いた。そのタイミングを見計らっていたかのように電話が鳴り、前川が受話器を取り上げた。
「部長、地域協働労働組合というところから電話です」
野田は一瞬、緊張した。電話を回してもらうと、調子の高い若い男の声だった。
(野田部長ですね? わたしは地域協働労組の書記長をしている賀川といいます。労組の加入者である中村礼子さんの事でお話したいことがあります。今日中にも時間をとってくれませんか?)
有無を言わせない強引な口調だった。
「中村礼子はそちらの労組員ですか?」
(そうです。労組加入者の問題に、組織として対応したいと考えています)
下手に面会を断らない方がいいと思った。
「夕方四時なら会うことができますが」
(午後四時ですね。わかりました、お訪ねします)
電話を切ってから、野田は呆然とした。中村礼子は今月末の契約期限切れを前に、労組に訴え出たのは間違いなかった。しかし、地域協働労組とはどんな組織なのか? 野田は立ち上がり、坂本営業本部長の席に行き、「ちょっと話がある」と廊下に連れ出した。
「深刻な顔して、何だい?」
坂本が怪訝な表情で野田を見た。
「たった今、地域協働労組という団体から電話があって、中村礼子の件で四時に会いたいっていうんだ」
「何だとっ」
「多分、契約終了に対しての異議申し立てだと思う」
坂本が顔をしかめた。
「厄介な事になったな。この件は東京労働局も黙認している事なのにな。俺も出た方がいいか?」
「そうしてくれると助かる。労務については知っているが、派遣の現場には疎いから」
「わかった、場所はどこにする」
「会議室を押さえておくから」
派遣登録者の面談ブースの隣にある会議室は廊下の向こう側なので、社内の業務に支障をきたす懸念が無かった。
大野社長には、労組側の話を聞いてから報告しようと思った。
自分の席に戻ってから、野田はインターネットで「地域協働労組」を検索した。
地域協働労組はインターネットにホームページを作成し、自分たちの活動を簡潔に紹介していた。
それによると、同労組は企業内に組織される労組とは異なり、組合のない会社に勤めている労働者や契約社員、派遣社員、アルバイトなど誰もが加入できることをうたい文句にしている。いわゆる「合同労働組合」である。本部は東京・大田区にあり、加入者が勤務先とトラブルを起こした場合、組合として交渉し、問題を解決することを活動目標としている。
これまで名前を聞いたことが無かった小規模の労組ではあったが、労組がからんできたことで、野田は(厄介な事になったな)と思った。
野田はこの労組の情報を探るため、「望人会」の事務局長をしている石田という知人に電話をかけた。
(電話をいただくとは珍しいですね、野田さん)
「石田さんにお聞きしたいことがありまして、うちでちょっと面倒な事が起きそうなので」
(何ですかね)
「あの、地域協働労組っていう団体をご存じですか?」
(ああ、名前は聞いたことがありますね)
「どんな労組なんですかね?」
(確か、十数年前に結成されたはずですよ。バブル崩壊後の不況で労働者の解雇が相次いだのに機をあわせるように発足したんじゃなかったかな、いわゆる弱い立場の労働者を支援するというスローガンで)
「政治団体やイデオロギーの色はついているんですかね」
(それは聞かないなあ。だけど、昔、全共闘時代に存在したノンセクト・ラジカルという性格に近いんじゃないかな)
野田が少し安心すると、石田は厳しい言葉を継いだ。
(だけど、逆に厄介なんですよ、こういう団体はなかなか妥協しないから。例え裁判に負けたとしても、それに関係なく、要求を通そうとするんだから)
「そうなんですか」
(結局、カネですよ。和解金で折り合うのが一番でしょう。労組も潤う形でね)
確かに、現実的な対応かもしれなかったが、こちらはある程度の非を認めて和解金として給料の一ヶ月分を支払おうとしている。それ以上の要求に応じなければならないのだろうか? 野田は釈然としない気持ちを抱えながら石田に礼を言った。
「ありがとうございました。大変参考になりました」
(いえいえ、だけど、この労組と交渉するとなると大変な気がするなあ。まあ、頑張ってください)
「ありがとうございます」
電話を切ってから、野田はしばし天井を眺めた。
石田の話を聞く限り、相当な覚悟を持って応対しなければならないようだ。野田は、自分の机の奥にしまってあった過去の紛争トラブルのファイルを取り出して読み始めた。
過去にも、会社と派遣社員との間で雇い止めを巡るトラブルは少なくなかった。派遣先企業での評価が低いので契約期限通りに終了してもらおうと思っても、派遣社員が抵抗してトラブルが長引いたりした。しかし、契約書には契約期間を明記しているので、行政側に訴えられても大概は派遣会社の主張が認められた。必死に就労を望む若者と向き合うと、派遣会社に勤めている野田でさえ複雑な気持ちになることもあったが、それは別の話だった。
残暑が厳しい日だったので、野田は約束の時刻の十分前に会議室に行き、エアコンを二十八度にセットした。
四時少し前に前川が取り次いだ電話に出ると、相手が「地域協働労組の賀川です」と名乗ったので、五階のエレベーター前で待っていることを告げた。坂本本部長の席に行き、目で合図をすると、坂本は「来たか」とつぶやいて立ち上がった。
野田がエレベーターの前に行くと、ちょうどドアが開き、三人の男が降りてきた。
「賀川さんですか?」
野田が声をかけると、三人の真ん中にいた背が高く痩せた男が「はい」と小さな声で答えた。三十代半ばのように見えた。残りは一人が二十代前半とみられる若者で、もう一人は白髪混じりの小太りの中年男だった。
会議室に案内すると、坂本が入口側の椅子に座っていて、野田が三人の男を案内すると立ちあがった。野田と坂本が並んで、賀川らと名刺を交換した。
全員が座ると一瞬、緊張した雰囲気が流れたが、それをうち破るかのように賀川が口を開いた。
「私どもは弱い立場にある労働者を支援している団体です。今回はお宅の社員である中村礼子さんの代理として話をしにきました。中村さんはまだ御社の社員ですよね」
賀川が中村がヒューマン・キャリアの社員であることを強調したので、
「はい、今月末まではうちの派遣社員です」
と坂本が答えた。
その答えに、賀川の声を荒げ、ぞんざいな口調になった。
「今月末まではって、お宅、最初から喧嘩を売るつもりなの? われわれがどうしてお宅まで足を運んだか、わかっていないんじゃないの? 中村は法律違反によって雇い止めにされようとしてんだよ。お宅の会社が悪いんじゃないか」
「いやいや、最初からそう喧嘩腰でこられたら、話ができないですよ」
社内では短気で有名な坂本が自分の気持ちを必死に抑えているのがわかった。
「喧嘩を売ってんのはお宅だよ、最初から中村が今月末で辞めるのが当然のような言い方をして」
「それは失礼しました、うちの契約ではそうなっていますので。まっ、お話を伺いましょう」
坂本がそう言うと、野田が黙ってメモをとっているのをチラッと見て、賀川の声が柔らかくなった。企業を相手に相当経験を積んできたような態度だ。
「中村は自分は一般事務で神田の建設会社で働いているのにお宅の会社は派遣法でいう5号業務で契約していたんだって? 中村はそこでもう五年も働いているので派遣先企業に直接雇用してもらえるはずだっって主張している。これはどうなの?」
「はい、私どもが5号業務として契約したのは確かに間違いでした。これについては行政側にも説明して訂正しました。しかし、派遣先の経営が悪化した関係で直接雇用には応じられる状況にはないというのが実情です」
「じゃあ、何なの、中村に泣き寝入りをしろっていうことなの」
「そういうわけではありません、事情が事情ですので」
「中村は今の会社で働きたいと言ってんだよ、もう何年もやっている仕事で慣れているし、何回も派遣で仕事を変わっているんで、何とか続けたいと」
「わかってはいるんですが、何しろ、派遣先が契約を打ち切りたいと言っているんで。申し訳ないんですが」
「お宅はこの問題でどう責任をとるつもりなの?」
「ですから、当社は派遣会社ですから、新たな派遣先を紹介します」
坂本はこう答えたが、本来であれば、ここまで強硬に抗議してくる派遣社員に対しては派遣登録を抹消し、新しい派遣先は紹介しないのが慣例だ。それだけに、坂本が何とか話をまとめようと必死であるのが伝わってきた。賀川と坂本のやり取りに、労組側の二人の男は坂本をにらみながら無言の圧力をかけている。
「派遣会社が派遣先を紹介するのは当たり前じゃない。そうじゃなくて、中村は今の出版社で仕事を続けたいと言ってるんだよ」
「いや、それは何回も話したように、派遣先の経営悪化で難しいと」
「お宅たち、本当に責任を取る気があんの?」
「ですから、中村さんには、当社の気持ちとして、雇い止めの和解金として給料一ヶ月分を上乗せしようとお伝えしているんですが」
賀川は顔色を変えずに言った。
「カネの話じゃない、中村の今の職場を確保して欲しいだけなんだよ」
「弱りましたね」
坂本が頭をかいて首をひねった。頃合いを測ったのか、賀川が坂本の顔をジッと見た。
「ま、今日は当労組の考え方をお伝えしましたので、よく検討して次は良い返事をください」
賀川ら三人の男たちは立ち上がり、挨拶もしないで会議室を出ていった。
「何なの、あれ、一方的に主張するだけじゃない」
坂本が怒ったように野田の顔を見た。
「和解金の話をしても、全然応じようとしなかったな。あれは作戦かも知れないな、金額をつりあげるための」
「うーん、わからないな。いずれにしても社長に報告しよう」
野田と坂本は連れだって、社長室まで行った。
大野社長は机の前に座ってパソコンを見つめていたが、二人が顔を出すと「お、入ってくれ」と立ちあがった。三人でソファーに座り、坂本が地域協働労組との一部始終を説明した。
「和解金の話を持ち出しても、今の職場を確保しろ、の一点張りなんです」
「まあ、それが本音かどうかはわからない。もう少し相手の出方を見ないとな。ただし、和解金を増やす話は控えてくれ」
大野は動揺するわけでもなく、冷静に指示を出した。
「わかりました」
社長室を辞し、野田は自分の席に戻った。
九月二十日に、地域協働労組との第二回目の団交が開かれた。労組側からの申し入れに応じたものだ。今回の団交での回答について、野田と坂本は事前に大野社長の意向を確かめた。二回目ということで、坂本は和解金を増額して解決を図ることを提案したが、社長は認めなかった。類似のトラブルが起きた際の前例にしたくない、という原則を変えなかったのだ。
前進した回答を用意できなかったことから、労使交渉は厳しいものになった。労組側の出席者は賀川書記長のほか第一回目と同じメンバーだった。
「今月末に中村の雇用契約は終了するということになっているけど、お宅は派遣先に改めて直接雇用を働きかけてくれたの?」
賀川が真向かいに座る坂本に問い質した。
「その件については、第一回目の交渉でお話しましたように、派遣先の経営が厳しく、先方からは無理だとの返事をもらっています」
「相変わらず誠意が無い回答だな。前進した回答を得られなければ妥結のしようがないよ」
賀川は失望したように、体を後ろに反らした。他の二人のメンバーは前回同様、発言しないで坂本の顔を見ている。
「ですから、先方は正社員の削減に踏み切らざるを得ないほど経営が悪化しているので、まず派遣社員から契約を打ち切りたいという意向なんです」
「弱い立場だよな、派遣社員は。そう思わないか?」
賀川が身を乗り出して、上目遣いに坂本を見た。
「当社の派遣社員ですので、全力を挙げて次の派遣先を紹介しますよ」
「困ったな、中村本人は慣れた今の職場で働きたいといってるんだがな」
賀川の独り言のような言葉に、坂本は返事をしなかった。
「一回目の交渉で、会社側から和解金の話を持ち出してきたよね」
「ええ、私どもの慣例で給料の一ヶ月分をお支払いすると回答しました」
「それは、もう少し配慮してもらえるのかな」
労組側の本音が出た、と野田は緊張した。
「申し訳ありませんが、一ヶ月という原則は変えられません。これが私どもの相場ですので」
坂本がきっぱり言うと、賀川は当てが外れたというように、顔を曇らせた。
「それは失望しましたね。相変わらずのゼロ回答ということだな。中村に提案したことと変わらないのであれば、労組の存在意義がないということになる」
賀川が腕を組んで、坂本と野田の顔を交互ににらんだ。
「お宅の会社、本当にこの問題を解決する気があるの? このままだと大変だよ」
問題が泥沼化するのを避けたいのはやまやまだったが、大野社長からは労組に譲歩する事を固く止められていた。坂本と野田は黙ったまま相手の反応を待った。
「いや、驚いたね、労使交渉というのは回を重ねるごとに進展していくはずなのに、最初から拒否とはね。職場の確保もノー、和解金の上乗せもノーでは引っ込みがつかないんでね。いいんですね、どうなっても」
賀川の脅しといえる言葉にも返事のしようが無かった。
賀川は二人のメンバーに目配せすると、立ちあがった。
「子供の使いのまま終わることはできないということは覚えておいて欲しい」
賀川ら三人が会議室から出ていった後、坂本がつぶやいた。
「あいつら、どういう手で巻き返してくるかな?」
「わからないけど、闘争が長引くのは避けられないな」
「だけど、大野社長はどうして和解金の上乗せを認めないんだろうな」
「社長らしいよ、原則を曲げたくないんだろうな」
「営業から言わせてもらえば、少し融通がきかないと思うよ」
「潔癖なんだよ。それにこういう問題で譲歩するとすぐに業界に広がるだろう」
「それはある、労組側にしてみれば会社側の譲歩を喧伝して、別の会社との交渉に利用しようとするだろうし」
「大野社長はそこまで見据えていると思うよ。だから我々は社長の指示に従えばいいよ」
「そういうことだな」
坂本は納得したように小さく頷いた。
十月に入って、ヒューマン・キャリアでは二〇一一年十二月期の予算編成作業が始まった。予算編成は経理担当の北村取締役の指揮で行われるが、実際の作業は総務部の中にある経理課に営業などの各部の数字が集まり、集計して作成している。経理課長の市村忠夫は高卒で五十代半ばだが、会社創業以来経理を担当しており、野田は安心して実務を任せられた。
この時期になると、二○一一年予算とともに当該年度の二○一○年十二月期の決算見通しを作成することになっているが、派遣市場の縮小で派遣人員が減っているため、七月以降の下期は予算未達の月が多く、利益確保は極めて難しくなっていた。
「こんなに厳しい年は、入社以来初めてです。下期は賞与を出せるかどうかという瀬戸際です」
市村が額に皺を寄せ、野田の机の上に数字を書き込んだ資料を置いた。
野田が資料を手にすると、市村が説明した。
「九月までは実績で、十月から十二月までの三ヶ月は営業現場から出してもらった見通し数字です。これによりますと、月次収支は八、九月とも赤字になり、十月以降の見通し数字を集計した場合、今年度は予算通りの賞与を支払うと、三千五百万円前後の経常赤字になります」
「そうなるか。当初予算では一千二百万円ぐらいの黒字を見込んでいただろう」
「派遣先の雇い止めが相次いで、派遣人員が当初予算を下回っているのが最大の原因です、十二月の派遣人数は予算をおよそ百人下回ると現場では予測しています」
「うーん、こんなに派遣人員が減ってしまうと、残業代など経費削減を進めても焼け石に水、だな」
「はい、予算に計上している賞与を削減するしか手はありません」
「賞与は下期にどれくらい計上していたっけ?」
「正社員三十五人で二千八百七十万円です、一人当たり平均八十二万円になります」
「下期賞与の削減がポイントだな。これは北村取締役に報告したうえで大野社長の判断をあおがないといけないだろう、賞与をどう扱うかを。それを決めないと、二○一一年度予算も策定できない」
「はい」
その日の午後、社長室で北村取締役が大野社長に二○一○年度の業績見通しを説明した。野田と市村も同席した。
「上期賞与は大幅に削減したんだよな?」
大野が聞いた。
「一人当たり平均支給額は五十二万六千五百円、昨年の上期を二十六万九千二百円下回りました。過去最低水準です。これを二回に分けて支給しました。二回目の支給額は七万円です」
「さて、現場からあがってくる売上げ見通しでは通期に大幅赤字になるのであれば、下期賞与をゼロにしてでも何とか黒字を確保したい」
野田は大野社長の決断の早さと経営者としての冷徹さを感じた。賞与がゼロであれば、社員の志気が大きく低下するのは間違いない。
「ただし、これから二ヶ月営業に力を入れて、予算を上回る利益はすべて賞与に振り向ける」
上期賞与の説明会で約束したように、下期賞与は社員の頑張り次第というわけだ。
大野は野田を見て言った。
「野田君、就業規則を調べて下期賞与を本当にゼロにできるか、顧問弁護士の田中先生に相談してくれ」
「わかりました」
「いずれにしても、例年通り、二○一一年度予算は十二月半ばまでには決定する」
大野の指示を受け、野田は田中英二顧問弁護士に電話を入れた。秘書の女性が出て、本日の夕方四時なら時間がとれるという。野田はアポを確定した後、ヒューマン・キャリアの就業規則を読み返した。
賃金・賞与に関しては、就業規則に付属している給与規定に定めている。「賞与は原則として年四回支給する。支給額は経営状況、業績等を勘案してその都度決定する」とある。
年四回としたのは、年四回だと賞与が健康保険や厚生年金の保険料徴収の対象にならないからである。上期二回、下期二回の支給になるが、どちらも二回目は支給額が少ない。
いずれにしても原則として年四回支給するという給与規定にどれだけ縛られるのかが焦点だった。
田中弁護士事務所は京橋のオフィス・ビルの二階にあった。応接間に通されて待っていると、田中弁護士が「お待たせしました」と笑顔で入ってきた。野田は用件を告げ、ヒューマン・キャリアの給与規定のコピーを手渡した。
「先生、この規定は賞与を年四回払う必要があるということでしょうか?」
四十代半ばと見られる田中弁護士は、引き締まった身体に濃紺のスーツと赤のネクタイがよく似合った。田中は規定を一読した後、あっさり言った。
「あ、この規定だと年四回支給しなければなりませんね、原則として支給するとなっていますから。例外として支給しなくてもいい場合がありますが、その例外というのは倒産の回避といった緊急事態でなくてはなりません。単年度赤字を避けるといった程度では、仮に労働者側に裁判に訴えられれば負けるでしょう」
「そうですか、単年度の赤字回避だけではまずいですか」
「ただし、年四回といっても、一回の支給額は一万円でもいいわけです」
「賞与が出せなくなるほど経営状態が悪化した場合は困りますね」
「規定を変えるんですね、経営が悪化した場合は賞与を支給しない、という一文を追加したらどうですか」
「従業員にとっての就業規則の不利益変更になりませんか?」
「いや、御社には労働組合がないですよね、労働者の過半数代表の意見を聞く必要がありますけど、労働者代表が反対意見を出してもかまいません。その反対意見書を添えて、会社として就業規則の変更を労働基準監督署に提出すればいいことです」
「そんな事ができますか」
「可能です。赤字になったら普通は賞与は減額、赤字が続けば賞与は出せないというのが世間の常識です。そのくらい社員は理解出来るでしょう。会社が無くなれば職を失ってしまうんですよ。賞与は賃金とは性格が違うんです。賃金はよほどの事がない限りカットはできないですけどね」
法律家としての経験に裏打ちされているのか、田中は自信に満ちた態度で説明した。
給与規定の解釈について理解した野田は、礼を言って辞した。
午後六時近くに会社に戻った野田は、田中弁護士の判断を北村取締役に伝えた後、北村に同行して大野社長に報告した。
「うーん、やはり年四回支払う必要があるのか」
大野は一瞬うなったが、その事にはあまりこだわっていないように見えた。
「つまり、下期も二回支給する必要があるが、金額はいくらでもいい、といいわけだな?」
「はい」
野田は答えた。
「わかった、そうするしかあるまい。ただし、田中弁護士が言うように就業規則の変更を検討して欲しい。実施は来春でいいだろう、来年上期の賞与に反映できるように」
社長室を退室しようとすると、大野が言った。
「野田君、坂本君を呼んで。君も一緒にいてくれ」
営業本部のフロアに行くと、坂本がパソコンとにらめっこをしていた。社長に呼ばれていることを伝えると、「おっ、わかった」と言って立ち上がった。
二人で社長室に入ると、大野社長が応接ソファーで待っていた。
「他でもない、業績が予想以上に悪化している、アルバイトの削減が避けられなくなっている」
大野の言葉を受けて坂本が答えた。
「それじゃあ、障害者雇用を除いたアルバイト三人は今の契約期間で終了ということですね」
大野が無言で頷いた。
「そうして欲しい。それで、三年以上務めているアルバイトはいるのか?」
「三人のうち一人がそうです」
「その人から説得して欲しい、業績が悪化しているから、次の契約は結べないと。三年以上務めると、中には直接雇用を求めてくる人もいるからね。いずれにしても三人には当社の派遣社員になってもらうことを提案して、雇用を確保する姿勢を示して欲しい」
「わかりました。三人とも契約期間は三ヶ月ですから、一ヶ月前の契約終了通知を含めて三、四ヶ月以内には三人とも終了できると思います」
大野が野田の方を向いた。
「三人のアルバイトの人件費を合計すると年間いくら削減できるか?」
「およそ七百五十万円です」
「人件費は利益に相当するから、それだけでもだいぶ助かる。アルバイトの方も生活がかかっているだろうから心苦しいが、今の雇用制度では正社員を優先することになっているからね。それに経営が一段と悪化した場合、非正規社員がいると正社員の削減には手をつけられない」
大野の言葉に、ヒューマン・キャリアの経営が苦しくなってきたことを実感した。経営の厳しさを最も肌で感じているのは、長年会社を引っ張ってきた大野自身なのだろう。
「野田君、今年の三月下旬に総務のアルバイトに障害者を一人雇ったよね、確か、国から助成金が出ると行っていたが」
「ええ、総務では交替のアルバイトとして、難聴で一級の障害者を雇いました。採用して六ヶ月が過ぎた今月初めにハローワークから助成金申請の書類が届いています。助成金は合計百万円で、三回に分けて支給されます。百万円というのは、派遣社員の雇用数も合わせて当社が大企業とみなされるからです。中小企業であれば二百四十万円が支給されるのですが。審査の関係で一回目が支給されるのは十二月になると思います」
「十二月決算に間に合うのかな。助成金は利益そのものだから、赤字になるかどうかの瀬戸際の時には助かるな」
「はい」
「それで、障害者雇用率はどのくらいになる」
「法定雇用率が一・八%なのに対して、わが社は一級と二級の重度障害者二人を採用していて障害者雇用率は一%強になります。一般の会社は社員数に比例した雇用率でいいのですが、派遣会社は派遣社員を含めて計算しなければなりませんので、法定雇用率を達成するには、正社員が三十五人の当社で七人の障害者を雇用しなければならないのです」
「それは無理というものだ」
坂本が吐き捨てるように言った。
「法律ですから、いかんともしようがありません。未達成の分は納付金としてお金で納めなくてはなりません」
「決算が赤字の場合もか?」
「ええ、納付金は赤字でも納めなければなりません。そういう法律になっています」
「あきれたな」
坂本が腕を組んだ。
「うちの納付金はいくらになる」
大野が聞いた。
「重度障害者は二人分の障害者雇用にカウントされますから、当社は四人雇用していることになっています。ですから、不足人数は三人です。一人が不足すると当面の間、月四万円納付しなければならないので年間三十六万円。三人で百八万円です」
「納付金は経営が苦しい時は辛いな。百万円の利益をあげるには十人くらいの派遣社員に仕事をしてもらう必要があるんだから」
坂本がぼやいた。
「国の制度ですから、わが社だけが特別に見逃してもらう訳にもいきません」
野田が応じた。
「だけど、この納付金は一体何に使っているんだ?」
坂本が怒りを抑える口調で言った。
「一応、障害者雇用の促進に使用するということになっています。それに伴って障害者雇用の団体に国から官僚OBが天下っています」
「結局、自分たちの定年後の仕事の確保のためじゃないか」
「障害者雇用は法律に基づく弱者の救済策ですから、派遣社員も社員としてカウントされる派遣会社や障害者を雇う余裕の無い中小企業は制度の厳しさを感じていてもおおっぴらに批判することはできないのです」
二人のやり取りを聞いていた大野が口を開いた。
「わが社に躁うつ病で休職になっている社員がいたな」
「はい、派遣の営業を担当していた入社五年目の男性社員です。一年の休職期間が十月末に終了します。本人からはすでに復職願いが出ています」
坂本が部下の名前を上げた。
「確か、躁うつ病の場合も障害者として認められると聞いたことがあるが」
大野の質問に野田が答えた。
「統合失調症や躁うつ病などの場合は精神障害者に分類されます。自治体に申請して精神障害者手帳を交付してもらえば、精神障害者として認定されます」
「この際、この社員に精神障害者手帳を申請してもらうよう、野田君から話してもらえないか。もし精神障害者として認定されれば一人分の納付金を納めなくて済むようになる」
大野の言葉に野田は驚いたが、「わかりました」と返事をした。経営の厳しさが大野を冷徹にさせていることを肌で感じた。
「ただ、社員にとっては、精神障害者として認定されることには抵抗があると思います。障害者手帳交付に同意してもらえるかはわかりません」
「君の意見は理解できるが、わが社も企業として存続できるかの瀬戸際にある。生き残るためには、何でもやらなくてはならんのだよ。社員が路頭に迷うのを防ぐためにはもはや手段を選べない。それに精神障害者として認定されれば、税金の控除とか、自治体の様々な優遇措置があると聞いているから、その社員には有利な面も説明して。治療を続けて回復すれば、障害者手帳を返上すればいい」
大野社長が障害者雇用に予想以上に詳しいので野田は驚いた。
「野田君、よろしく頼む」と言った後、大野は坂本の方を見た。
「話はまだ終わりではない。坂本君、この障害者雇用を新しいわが社のビジネスとして展開できないか、ということだ。先ほどの話でも制度改正で中小企業にもかなり負担が重くなっているという話だったな」
「はい、従来、障害者雇用の納付金の対象企業は常用労働者が三百人以上でした。それが制度改正によって、今年の八月からは常用労働者二百人以上に引き下げられています。先ほども言いましたように、実際に納付金を納めるのは来春からになりますが」
野田が説明すると、大野が話を引き取った。
「つまり、わが社がこれだけ障害者雇用で苦労しているんだから、中小企業の多くにとって頭の痛い問題であることが想像できる。その紹介ビジネスに参入できないかということだ。すでに障害者雇用の紹介ビジネスを実施している会社もあるようだし」
「障害者を紹介する専門の会社は何社かあります。わが社にも売り込みにやってきたことがありました」
野田が返答した。
「そうだろう、だから坂本君、障害者の紹介ビジネスに参入することを前提に検討して欲しい」
「はあ、検討はしてみますが、うちには障害者雇用のノウハウが全くありません。また、そこに振り向ける営業部員が不足しているのが現状です」
坂本は本人らしくない弱気な態度で返答した。請負事業に参入したばかりなので、派遣以外にさらに新規事業を手掛けることに二の足を踏んでいるのは明らかだった。
7
地下鉄大手町駅から階段を上って、野田は地上に出た。秋晴れの一日が始まる予感を感じながら東京駅の方向に歩いて行くと、ヒューマン・キャリアの入居するビルの前で異様な光景が目に入った。ビルの入口に三、四本の赤旗が立っており、その前で紺の作業服を着た男がマイクで演説をしている。
「ヒューマン・キャリアは違法行為を行いながら、派遣社員の首を切るという許し難い暴挙を行っている会社である。しかも、われわれの要求を全く無視する不誠実団交に終始しており、われわれは断固として抗議するものである…」
顔を判別できる距離まで近づくと、演説しているのは、地域協働労組の賀川書記長だった。中村礼子の姿も見えた。五、六人の労組員が出社を急ぐサラリーマンらにビラを配っているが、受け取る者はほとんどいない。
野田は途中でビルの裏口に回り、荷物搬入用のエレベーターに乗って会社に入った。
野田の顔を見た前川が「部長、おはようございます、会社の前が大変です」と一枚の紙を差し出した。ビルの入口で地域協働労組が配っているビラである。
「うん、ありがとう」
自分の席に戻って、ビラを読むと「ヒューマン・キャリアは派遣法違反」、「派遣社員を途中解雇」という見出しが踊っている。賀川が演説している内容を簡潔な記事にまとめている。
野田はビラを社長や役員らに渡すために十枚ほどコピーした。大野社長が出社してきたので、ビラを一枚持って社長室に入った。
「何やら唐突だな、話し合いも満足にしないで実力行使とはね」
大野社長が突き放すように言って、野田からビラを受け取り、ざっと目を通した。
「以前、君たちから聞いた報告通りの内容だな、坂本君、北村君に三十分後に社長室に来てもらってくれ」
野田が二人の役員に声をかけて自分の席に戻った時、階下からシュプレヒコールが聞こえてきた。
「ヒューマン・キャリアは違法派遣を止めよー」
「解雇を撤回せよー」
シュプレヒコールが終わった頃、一階の受付から電話がかかってきた。
(労働組合の人が社長に面会を求めています)
野田は即座に判断を下した。
「私が今から降りていく。絶対にエレベーターに乗るのを防いでくれ、家宅侵入罪だと言ってな」
(わかりました)受付から緊張した声が伝わってきた。六十歳を過ぎた受付係は、定年退職後の気楽な仕事として選んだのに荷が重い役割を押しつけられた、とでも思っているに違いなかった。
野田がエレベーターで一階に下りて行くと、賀川たちはまだ受付の回りを囲んでいた。野田の顔を見ると、白髪の痩せた受付係は安堵の表情を浮かべた。賀川らが一斉にこちらを見た。
「野田さん、あんたじゃ話がわかんないから、社長に会わせろよ」
賀川が一歩前に出て、抗議するように大きな声を出した。
「それはできません。正式な団交の申し込みがあれば、坂本と私で応対します。ですから、今日のところはお引き取りください」
「と言ったって、あんたらじゃ、何も決められないじゃないか」
「話し合いには応じますので、実力行使は控えてください」
「何言ってんだよ、デモは労働者の権利だよ」
「わかりました、それは認めます。だけど、そちらが会社の中に入ってくるのであれば家宅侵入罪で警察を呼びます」
野田の毅然とした姿勢に、賀川は不快な表情を浮かべた。
「どうしようもない石頭だな。改めて抗議にくるからな」
いつの間にか賀川の傍らに並んだ中村礼子が甲高い声をあげた。
「会社側には何の誠意も無いじゃない、あまりにも横暴よ」
もうすぐ派遣期間が終了するからか、中村からは切迫感が伝わってきたが、野田は感情を抑えて言った。
「あなたが労組に駆け込んだ以上、これからは労組を交渉窓口と考えますから」
中村は、賀川書記長の顔を見た。賀川が野田に向き合った。
「それでいい、解決するまで皆で押し掛けてくるよ」
賀川の言葉をきっかけに、労組のメンバーは引き返し、玄関前でシュプレヒコールを繰り返した後に去っていった。
野田はこれからの長い交渉を思い、目の前が暗くなった。
会社に戻り、大野社長と坂本に地域協働労組の一隊が引き挙げた事を伝えた。
大野社長は「長丁場になると思うが、会社の原則は曲げないから、そのつもりで。まずは野田君、地域協働労組にどう対応したらいいか、田中先生に相談して」と言った。
大野社長の指示に、野田は一瞬、いつも明快な判断を下す顧問弁護士の端正な顔を思い浮かべ、午後からでも訪ねてみようと思った。
午前中は同じビルに入居する企業の総務部を訪ねて、自社の問題でデモの騒音にさらされることに対するお詫びをして回った。「派遣会社さんは労務問題が大変ですね」と同情の声を掛けられたことがせめてもの慰めだった。
挨拶回りの後に 田中弁護士事務所に電話を入れると、夕方の四時にアポがとれたので、野田は午後三時半に会社を出た。終日秋晴れが続いていたので、野田は会社から徒歩で三十分足らずの田中弁護士事務所まで歩いて行くことにした。
日が短くなり、傾いた秋の日差しが立ち並ぶビル街を照らしていたが、まだ外気は温かく、気持ちが良かった。大手町から歩いて東京駅八重洲口に出て、京橋の田中弁護士事務所の前まで行くと約束の時間の三分前だった。
事務所の応接室で待っていると、電話で応対している田中弁護士の快活な声がドア越しに聞こえてきた。五分ほど待たされ、秘書から差し出されたお茶を飲んでいると、「いやあ、お待たせしました」とドアを勢いよく開けた田中弁護士が笑顔を見せた。
野田は立ち上がって挨拶をした後、地域協働労組との経緯を話し、今後の対応へのアドバイスを求めた。
「基本的には、御社の派遣社員が加盟している労組が団体交渉を求めてきたら応じざるを得ません、法律で労組の団交の権利は保障されていますので。ただし、どう回答するかは会社側の判断によります」
「当社としては、その派遣社員の雇い止めに関しては、東京労働局の了解を得たと理解しているんです」
「労組にとっては行政がどう判断しようが、裁判で判決が出ようが関係ないですからね」
「団体交渉に応じても、会社の前でのデモを中止してもらうわけにはいかないですか?」
「それは無理ですね、労組の示威行動も憲法で保障されていますから。常識ある労組であれば交渉が続いている間はデモはやらないものなんですがね」
「同じビルに入居している企業に迷惑をかけて申し訳なくて」
「それはお互い様ですから、挨拶は欠かさないようにすることです」
「今日は大挙して会社に押し掛けようとしたので、家宅侵入罪で警察に訴えると言ってようやく退去してもらいました」
「それで結構です。団体交渉を申し込んできたら応じる。会社の前での示威行動は黙認するが、会社の中には入れないという原則を貫けばいいと思います」
「わかりました、もうひとつ、労組側からは会社が不誠実団交だと非難されているんですが」
「これは、労組がよく使う表現です。自分たちの満足いく回答を引き出せないときにこう言います。会社側は労組の要求にゼロ回答をしても、団交そのものには応じる姿勢をみせれば問題ないと思います」
いつものように田中弁護士のアドバイスは明快だった。野田はさらに先行きの懸念について質問した。
「このまま会社と労組側が平行線をたどって、労組側が裁判に持ち込んだ場合はどうしたらいいですか?」
「裁判になったら闘えばいいんじゃないですか。今回のケースではこちら側に分があると思いますよ。確かに、派遣業務の分類では瑕疵がありましたが、これはきちんと行政側に説明をしているし、派遣契約で雇用期間をきちんと定めているので契約に基づく雇い止めであることを主張できます」
「ええ」
「結局、経済闘争だと思いますよ、労組側は。中村さんから組合費を徴収していても、示威行動の費用を考えると、かなりの持ち出しになっているはずです。会社側から和解金の上乗せを引き出すのが目的でしょうから、さらに費用のかかる裁判に踏み切るとは考えにくいんですがね」
「そうだといいんですが」
あれこれと心配する野田に同情したのか、田中は、
「ま、万が一裁判になったら、顧問弁護士の私が手を尽くしますよ」と笑顔を見せた。依頼主に安心感を抱かせることが田中弁護士が成功している秘訣なのかもしれないと、野田は思った。
年内にかけて気の進まない仕事をいくつか片づけなければならなかったので、野田は憂鬱だった。一つは復職する社員に、障害者手帳の取得を要請しなければならないこと、もう一つは契約期限の到来するアルバイトに契約終了を告げなければならないことだった。
田中弁護士に電話で相談する前に、野田は躁うつ病で休職している社員がヒューマン・キャリアに入社する前に提出した経歴書を確認していた。名前は石川洋一とある。入社は五年前だが、その前に別の大手派遣会社に勤務し、一年間、無職の後、ヒューマン・キャリアに入社した。当時はリーマン・ショック前で景気も上向いていて、営業マンが不足していた。野田も採用時の面接に立ち会ったが、この無職の期間については就職活動をしていたと明るい表情で説明していたが、あるいは躁うつ病の治療をしていたのかも知れないと今になると想像してしまう。
石川の休職は二回目で、入社二年目に三ヶ月休んだ。その後、復職したが、厳しい営業現場の疲れがたまったのか、一年前に休職した。一回目も二回目も「躁うつ病」との診断書が提出された。
ヒューマン・キャリアの業績が急速に悪化しているとはいえ、まさか本人は障害者手帳の取得を会社から要請されるとは思っていないだろう。そもそもそうした会社の行為が合法なのか、野田は自信がもてなかった。
田中弁護士の秘書に電話すると事前に告げていた午後三時の五分前に、野田は応接室に一人で入り、ドアを閉めた。三時に携帯電話からかけると、田中弁護士の快活な声が聞こえてきた。
(野田さん、今度はどんな問題が起きました?)
「このところ、ご相談する案件が多くてすみません」
(いえいえ、そのために毎月御社から顧問料をいただいてますから)
「実は、躁うつ病で一年間休職していた社員が復職するんです。それはいいんですが、先生もご存じのように、派遣法改正の影響で当社の業績が急速に悪化しています。それで障害者雇用の助成金を支給してもらうために、当該社員に障害者手帳の交付の取得を要請しようと思うんですが、これは違法ではないですか?」
(そこまでやらなければならないほど業績が悪化していますか?)
「ええ、今期は赤字になる可能性があります」
(そうですか、微妙な話ですね。日本の企業社会にはなじまないですが、違法ではありませんよ。法律では、躁うつ病は精神病の一種として国の定めた障害者手帳の交付の対象になりますよ。それに基づいて会社が社員に手帳の取得を要請するというのは何ら違法ではありません。ただし、社員にしてみれば、精神障害者のレッテルを貼られるわけですから嫌なはずです。社員が拒否したらどうします?)
「すみません、そこまで考えていませんでした」
(この案件は、法律的には合法でもモラルの問題が伴います。なるべく無理強いするのは止めた方がいいと思います。問題がこじれた場合、人権団体が動き出すことも視野に入れておいたがいいでしょう)
「そうですね、私自身、気が進まないのです」
(そういうことであれば、慎重に対応することです。就業規則に休職者の取り扱いの規定があるはずですから、その手順を踏んでください)
いつものように、田中弁護士の歯切れのいいアドバイスを得たので、礼を言って電話を切った。
野田は応接室の椅子に座ったまま思案していたが、大野社長の毅然とした顔が脳裏に浮かび、(まず本人に要請してみるしかないな)と腹を固めた。
応接室を出て、自分の席に戻り、机の中から就業規則を取りだした。休職者の項目を読んでいると、復職に際しては、会社と契約している産業医の診断が必要とある。前回石川が復職した際には、かかりつけの医者の回復診断書だけで認めてしまったことを思い出した。かかりつけの医者だけではまずいのかを確認するため、野田は再び応接室に入り、田中弁護士にもういちど電話をかけた。
「たびたびすみません、聞き忘れた事がありまして」
(かまいませんよ、どうぞ)
「就業規則で確認しましたら、産業医の診断が必要とありますが、かかりつけの医者との違いはどこにありますか」
(かかりつけの医者は患者の言い分をそのまま診断書に書くことが往々にしてあるんです、とりわけメンタルな病気の場合は。産業医は会社から委託されていますので変な診断はできません、責任を問われますから。それに、ここが肝心なのですが、メンタルな病気の場合、もし、復職を認めた後に何らかの原因で当該社員が自殺でもしたら、復職を認めた会社側が責任を問われ、多額の慰謝料を支払わなければならないことになります。ですから産業医がしっかり復職者の回復の程度を判断する必要があるんです)
野田は総務担当の自分の甘さを指摘されているようで恥ずかしかった。やはり、就業規則の手順を踏まなければならない、と肝に銘じた。
席に戻った野田は、前川を呼んだ。前川はメモ帳と鉛筆を携えてやってきた。
「前川さん、石川君から復職願いが出てきているよね、手続きに入ってほしいんだ」
「はい、そのつもりでいますが」
「それで、石川君にメールを打って欲しい、かかりつけの医者の診断書とは別に、うちの産業医の面談を受けて欲しいと」
「産業医ですか? 前回はその手続きはしませんでしたよね」
「そうなんだが、就業規則を読んで欲しい。復職に際しては産業医の面談とその結果の診断が必要とある」
「そうでしたっけ? うちは休職者がほとんどいないのでうっかりしていました」
「ま、コンプライアンスの上からも就業規則に則った手続きをしようということだ」
「わかりました」
その日の夕方、前川が野田の机の前にやってきた。
「部長、石川さんから返事が来ました。なぜ産業医の診断が必要なのか、問い合わせてきています。それと産業医の面談には会社の人間が同席するのかと」
「あくまで就業規則にもとづく手続きであることを伝えて欲しい。それと産業医の面談には会社の人間は同席しないと。何を懸念しているのかな」
「復職できないのではないかと恐れているのではないでしょうか」
「心配し過ぎだよ」
「わかりました。メールで返信しておきます」
前川が生真面目な表情で答えた。自分の机に戻った前川の後ろ姿を見ながら、石川に障害者手帳を持たせるのは難しいかな、と野田は思った。
石川が産業医の面談を受けたのは、それから一週間後の事だった。
ヒューマン・キャリアは内科と精神科の二人の医者と産業医の契約を結んでおり、精神科の医者は東京八重洲口に近いビルで個人のクリニックを開業していた。その産業医から石川との面談結果について電話で連絡が入った。
(石川さんと面談した結果では、仕事に復帰できると判断します。もちろん躁うつ病の場合、症状に起伏がありますが、現在は安定した状態といえます。ただし、しばらくは残業をさせないでください。少しずつ体を慣らしていく必要がありますので)
「先生、復職というのは以前の仕事をこなせる状態まで回復したということではないですか?」
「その通りですが、厚労省では、復職者の回復状態に合わせて仕事のカリキュラムを組むように指導しているものですから」
「わかりました、先生、念のためですが、復職を認める診断書には躁うつ病という病名を明記しておいてください」
「そうしましょう」
障害者手帳を申請してもらうためには、躁うつ病という診断がなければならない。本人の了承を得ていないが、準備だけはしておく必要があった。
野田は坂本に電話をし、産業医から石川の復職の許可が下りたことを伝えた。
「当面は営業の戦力にはならないな、このまま辞めてもらったほうがありがたかったんだが」
坂本が本音をもらしたので、野田は「社員の前でそういう事を言うとパワハラになる。絶対に口にしないで」と釘を差した。
復職の手続きのために石川が前川に会いにやって来るというので、野田は精神障害者手帳取得の件を石川に打診してみることにした。いずれ話をしなければならないし、本人にとっても早く会社の姿勢がわかったほうがいいだろうと考えた。
出社日に、石川は午前十一時頃に会社に姿を現した。産業医の診断書や復職願を前川に提出したのを確認し、野田は応接室で石川と会った。
病み上がりの石川は青白い顔をして、神経質な目で野田を見た。
「石川君、病気が回復して良かったね。一年ぶりの復職になるから、当面、残業はやらないで体を慣らしていって欲しい」
「ありがとうございます」
石川は少し表情を緩めた。
「実は、折り入って頼みがあるんだ。今、会社の業績は急速に悪化しているのは知っているよね。今期に赤字に転落するのを防ぐため、あらゆる分野でコスト削減に着手している。そこで相談があるんだ」
野田の言い方に、石川が真顔になった。
「言いにくい事だが、君の病気に関する事だ。躁うつ病はいわゆる精神障害者に該当するのは知っているよね? 実は、精神障害者を雇うと、国から助成金が支給されるんだ。会社を助けると思って、精神障害者手帳の申請をしてもらえないだろうか?」
石川の表情に怒りの色が浮かんだ。
「何の話かと思ったら、そういう事ですか。病気が治ってようやく復職できると思ったら、会社はそんなひどい仕打ちをするんですか? 病気から回復したのに、私を障害者扱いにするんですか。人の気持ちを考えたことがあるんですか?」
「そう言われれば、身も蓋もないが、これは会社からのお願いということだ」
「私は回復したんです。自分が精神障害者という烙印を押す手帳は持ちたくありません」
石川の目は怒りに満ちていた。業務命令というわけにはいかない、と野田は悟った。脳裏に、同じ心の病で静養している娘の麻里子の顔が浮かんだ。
「わかった、君の気持ちを考慮して今の話は無かったことにしよう、申し訳なかった」
野田は陳謝した。石川の怒りの表情を見て自分の行為にやるせなさを感じる一方、行政側や人権団体に訴えられることを恐れた。大野社長には正直に話さざるを得ないと覚悟した。
話が終わり、石川は憮然とした表情で部屋を出ていった。
野田の心に苦い思いが残った。ゆっくりと立ちあがり、隣の社長室を訪ねた。
大野の机の前に立ち、頭を下げた。
「実は、たった今、石川君に障害者手帳の取得を頼んだのですが、自分は回復したので持ちたくないと断られてしまいました。強制するわけにもいかず、力が及びませんでした」
大野は、恐縮する野田を慰めるように言った。
「それは申し訳なかった。石川本人にも君にも嫌な思いをさせてしまったな」
大野の言葉に、野田は意外な気持ちがした。石川に障害者手帳を持ってもらうよう指示したのは大野自身だったからだ。
「経営危機を乗り切るため、会社があらゆる手段をとらなくてはならないのはその通りだが、本人が断るのであればしょうがない。この話はこれで打ち切ることにしよう」
大野の言葉に、野田は救われる気持ちがした。しかし、経営が悪化するということはこういう事なのだと痛感した。
十月末までにやらなければならない気の重い仕事に、アルバイトの雇用打ち切りがあった。取締役会での方針にもとづき、十一月に期限切れとなる営業のアルバイト一人に野田が雇い止めを通告しなければならなかった。経営が悪化すると、総務という仕事が辛く思えるのはこういう時だった。
対象となるアルバイトは、年齢が二十八歳の有田という女性で二年半前に採用した。採用の面接には最終的に五人が残り、坂本が一番推薦した女性は結局、掛け持ちで応募していた他社に正社員で入社した。有田は二番目に評価された女性で、やはり営業のアルバイトでの採用という事に躊躇していたが、野田が電話で強く入社を進めた結果、決心してくれたのだった。
有田の仕事ぶりは評価が高かった。派遣社員としてヒューマン・キャリアに登録を希望する人に、派遣社員としての法律的な位置づけや仕事の進め方などを説明してもらう一方、派遣先を探す仕事をしてもらった。いわば、正社員と変わらない仕事をしてくれたうえ、繁忙期には残業代のつかない早出出勤までしてくれたのを野田は知っている。それだけに、野田は有田に契約の打ち切りを伝えなければならないのは気が重かった。
有田に話をする日、野田は坂本にも同席してもらった。有田が派遣社員として仕事を続ける意志がある場合、相談に乗る必要があると判断したからだ。
終業まで一時間前の午後五時に、前川に有田を呼んでもらった。
坂本と二人で応接室で待っていると、「失礼します」と言って有田が入ってきた。二人の前に座った有田は落ち着いていた。
「有田さん、当社の業績が悪化しているのはご存じですね?」
野田は切り出した。
「はい、社員の皆さんから聞いております」
「誠に申し訳ないのですが、単刀直入に申し上げます、当社は目下、経営合理化を進めておりまして、その一環として人件費削減に踏み切りざるを得ないのです」
「つまり、来月末に期限切れとなる私の契約を延長しないという事ですね」
有田はすぐに理解したようだった。
「そこで、相談だが、有田さん、あなたは本当によく仕事をしてくれた。十一月以降はうちの派遣社員として仕事をしてもらえればありがたいんだが。あなたの望む仕事を全力で探しますから」
坂本が提案した。
「アルバイトを続けていて、いつかはこういう日が来るのではないかと恐れていました。正社員ではなく、有期雇用ですからね」
そう言って、有田は一呼吸置いた。
「実は、こちらにアルバイトで雇われる時、本当に悩んだんです。当時はまだ二十五歳でしたから、正社員になるチャンスはあったはずなんです。ですが、こちらから熱心に勧められたもんですから、つい心が動いてしまって。いつかは正社員になるチャンスもあるかも知れないと一生懸命働いたんですが、甘かったんですね」
野田は言葉が出なかった。
「こちらの派遣社員になることは了承します。ただし、私も独自に就職活動をします、正社員になれる最後のチャンスと思って。つまり二股をかけますが、よろしいですね、少しは賢くなりましたので」
「もちろんです、あなたにとって一番有利な条件を選んでもらってかまいません」
「ありがとうございます」
有田は明るい声で応えたが、大きなふたつの瞳からは涙が流れ落ちた。野田は胸が塞がった。
有田が退室した後、坂本が「ちきしょう」とつぶやいた。
「あんないい子を正社員で雇えないなんて、力不足を感じるよ」
「全くだ、辛いな、こんな役割」
「派遣の仕事については、俺が全力で面倒をみる」
「それより、ほかで正社員になる働き口が見つかった方が幸せだ」
「それはもちろんだ」
会社は業績が悪くなると、社内の人間関係がぎすぎすしてくる。今のヒューマン・キャリアにはすでにそうした現象が現れていると野田は思った。
重い足取りで自分の席に戻ると、野田の姿を見た前川がやってきて茶色の封筒を差し出し、声を低めて言った。
「飯田橋の職安から連絡がきました、例の障害者雇用の第一回目の助成金は十二月初めに支給されるそうです」
封筒を受け取って職安からの通知を読むと、前川の言った通りで、助成金の第一回目の金額は三十四万円とあった。大きな金額ではないにしても、十二月決算が赤字に転落するかどうか瀬戸際に追い込まれている会社にとっては朗報である。社長に報告しておこうと思って立ち上がると、その障害者雇用で雇っているアルバイトの女性が戻ってきて、前川の隣の席に座った。
「郵便局は混んでいた?」
前川が声を掛けると、古川というそのアルバイトは「ちょっとだけ」と手話の手振りをしながら、聞きとりにくい発音で返事をした。 古川は四十代後半の女性で、耳が不自由なうえ、言葉もうまく話せないので国から第二級の障害者に認定されている。半年前に前川が職安で障害者雇用を申し込み、二人いた候補のうちから採用した。野田と前川が二人に面接した時、もう一人は三十代の内臓疾患のある男性だった。男性があまりに饒舌で違和感を覚えたのに対し、古川は寡黙だったが、長年専業主婦をこなし、大学に入学する息子の学費を稼ぐのを応募の理由にした真面目さに確かなものを感じて採用したのだった。
アルバイトなので、前川の指示にもとづいて簡単な事務作業や郵便物の投函などの業務に従事している。
この半年間休んだことはなく、真面目に仕事をこなすので、野田が「前川さん、いい人に来てもらって良かったな」と言うと、社員の仕事ぶりには辛口の前川が珍しく「ほんとに助かります」と手放しでほめるのだった。
古川の中年女性らしいふっくらした後ろ姿を眺めながら、野田は社長室に向かった。
助成金の支給が十二月決算に間に合ったことを大野社長に報告すると、大野は「それは朗報だ」と頬を緩めた。
「野田君、わが社も助成金を当てにするほど業績が悪化してしまったということだな、情けないと思うよ」
大野社長が独り言のように言った。最近は今期の決算をいかに黒字にするかで頭が一杯なのだろうと思った。
「そろそろ冬の賞与を決めなくてはならない時期だから、原案をまとめておいてくれ。ただし、通期の決算が赤字にならないような支給金額に抑えるのが原則だ」
大野社長が黒字決算に執着しているのがわかっているだけに「承知しました」と答えながらも、野田はその難しさを肌で感じていた。
お茶の水の山河出版社から受注した請負事業が二ヶ月を経過した十一月初め、事業そのものは月次収支で黒字が出ていたが、請負事業に携わる契約社員の残業時間の多さが問題として浮上してきた。三人の契約社員は残業時間を営業手当の中に含む契約を交わしている。しかし、タイム・カードに記録された実際の残業時間はそれを大幅に上回る実態を示していた。
このことがわかったのは、社員の出社・退社の時間を管理している前川がタイム・カードを見て気づき、二ヶ月にわたって野田に報告してきたからだ。
請負事業を開始した一ヶ月目は、仕事に慣れないために残業もやむを得ないと判断して野田は様子を見てきたが、二ヶ月目も同様に残業が多かった。
前川が示した残業の資料によると、山河出版社からの請負事業に従事している契約社員三人の残業時間は九月、十月とも月間六十時間から百時間にのぼった。
「部長、やはり残業がやたら多いですね」
「そうだな、前川君、営業手当に残業代を含んでいるというんだが、営業手当だけで何時間分の残業に当たるか計算してくれないか」
「もう計算しています。営業手当だけでは月間十時間分の残業にしかならないですよ」
前川は給与担当者として自分なりに懸念していたようだった。
何らかの対策をとらなければならないと判断した野田は、資料を持って坂本の席にいった。
「山河出版社の契約社員、残業が多過ぎるよ」
野田が持参した資料に目を通した坂本は困惑した表情を浮かべた。
「想定外だな、こんなに残業が多いとは。何が原因かな。指揮命令者の二宮君に確かめてみよう」
坂本は目の前の電話に手を伸ばし、山河出版社の二宮の直通電話のダイヤルを回した。
「ああ、二宮君か、今、いいか?」
二宮は席にいたようだった。
「そちらで勤務している三人の契約社員の残業時間が滅法多いんだが、どうしてか理由を聞かせてくれるか?」
坂本の問いに、電話の向こうで二宮が懸命に説明しているようだった。ふんふん、とうなずきながら坂本が五分ほど話している間、野田は坂本の机の脇にあるパイプ椅子に座って見守った。
「わかった。こちらでも対策を考えてみるが、現場の指揮官である君が残業が増えないように知恵を絞ってくれ」
電話を終えた坂本が、野田の方を振り返った。
「いや、予想以上に仕事が多いらしい。出版社のほうから巡回する書店のリストを渡されるんだが、それが関東一円なので移動に時間がかかるうえ、店舗数が多いらしいんだ。うちの契約社員は書店回りから夕方や夜に戻ってきて、その日の営業報告をまとめたりするからどうしても残業が多くなるって言うんだ」
「出版社からは書店回りの人員は四人と言われていたんだろう? 二宮君は内勤で出版社にいて、契約社員の三人だけが外回りをしているんだから、一人当たりの負担が重くなっているんだ。やはり、二宮君にも外回りをしてもらうほかないんじゃないか」
「そうか、弱ったな。二宮君は最初この仕事を嫌がったんだが、慣れない書店回りはする必要はない、と説得して引き受けてもらったんだ」
「そんなことを言っている場合じゃないんじゃないか。これはコンプライアンスがからむ問題なんだよ」
「コンプライアンス、ちょっと大袈裟じゃないか?」
「決して大袈裟じゃない。これほど残業が多い状態が続いてごらんよ。もし、三人の契約社員の誰かが裁判所に訴えでもしたら、どうなる? うちは負けるよ、残業代の未払いで」
「そういうことになるか。田中先生は残業代を営業手当の中に含めるのは問題ないと言っていたんだがな」
「そういうやり方は違法でないにしても、程度問題なんじゃないか。実際の残業がべらぼうに多くて残業代を支払わなければ問題になるよ。タイム・カードを証拠として裁判所に提出されたら一目瞭然だよ」
「困ったな、どうすればいいかな?」
「二宮君にも外回りをしてもらうしかない、皆で負担を分かち合うんだ」
「そうか、彼を説得するしかないか」
「社長にも実情を話しておいたほうがいいな」
「わかった」
坂本は前言をひるがえして二宮を説得しなければならないことが気が重いのか、表情がさえなかった。坂本の気持ちもわかるので、野田は二宮の説得に同席しようと思った。
「二宮君には夕方早めに会社に戻ってもらわないか、私からも話すから」
坂本が野田の顔を見て「わかった、後で時間を連絡するから」と言った。
野田はかねて用意していた「残業願」の用紙を机の中から取りだした。経費削減の一環として本社の残業を抑制する方法として、残業の事前許可制を導入しようとして用意していたものだ。本社では残業が漸減していたので導入のタイミングを見計らっていたが、山河出版社の契約社員には適用した方がいいと判断した。
午後五時に二宮が会社にあがってきたので、坂本と野田は応接室で二宮と話し合った。事前に坂本から残業の件を指摘されているせいか、二宮は浮かない顔をして二人の前に座った。坂本が話を切りだした。
「電話でも話したが、この二ヶ月間、残業が予想以上に多いな。何とか減らせないか、残業の管理は君の仕事だぞ」
「わかっていますが、何しろ外回りの仕事が大変なようで」
二宮が頭に手をやり、目を伏せる。
「そこを何とかするのが指揮命令者の役割じゃないのか」
「例えば、北関東や神奈川も営業エリアなんです。栃木や小田原当たりの書店までカバーするとなると、往復だけでも時間がかかります」
「それはわかるが、何とか残業を減らす方法を考えて欲しいんだ」
野田が坂本に助け船を出した。
「二宮君、本当は残業というのは上司の許可がいるんだ。通常、部下は上司に断らないで残業しているがね。法律的には、これは上司が黙認しているととられるんだ。だけど、上司は部下の残業を規制できるんだ」
「ですが、実際に仕事があるんですよ」
現場の苦労も知らないで物を言って欲しくない、という目つきで二宮が野田を見る。
「確かに、仕事はあるだろう。こちらは残業の管理をして欲しいと言っているだけなんだ、これを使ってくれないか」
野田は残業願の用紙を二宮に差し出した。
「残業願だ、二枚の綴りになっている。一枚目には、残業をしなければならなくなったらその理由と残業終了予定時刻を書いてもらって、君が印鑑を押して承認する。二枚目の用紙には残業終了時刻を書くようになっている、終了予定時刻と違ったらその理由も書いてもらう、これにも君の印鑑を押す」
「ずいぶん、面倒な手続きがいるんですね」
二宮が用紙に目をやってから、顔を上げる。
「こうすることによって、無駄な残業を無くすことができるんだ。事前に承認がいるということで、抑止力にもなるはずだ」
二宮が軽く溜息をついた。
「契約社員から反発を受けませんかね」
「それは君から説得して欲しい。最大の理由は残業が多すぎて契約社員の不満がたまるのを防ぎたいんだ。最悪の場合、残業代の未払いで裁判にでも持ち込まれたらわが社は勝てない」
裁判と聞いて、二宮が驚いた表情を浮かべた。本社が本気でこの問題を懸念しているのを理解したようだ。
「それと、二宮君」
坂本が話を引き取った。
「君には誠に申し訳ないが、君も書店を回って営業をして欲しい、全体の残業時間を減らすために」
坂本が頭を下げた。二宮の表情に戸惑いの色が浮かぶ。
「書店営業は素人だから、外回りはしなくてもいいという約束だったはずですが」
「君の言うとおりだが、これだけ残業が多いと事情が違ってくる。それに、わが社が書店営業のノウハウを蓄積するという役割を果たすと考えてくれないか」
坂本に言われて、二宮も観念したようだ。
「わかりました、指示に従います」
「よろしく頼む」
二宮が苦笑いを浮かべ、一礼して席をたった。
坂本と野田は一緒に社長室に入り、坂本が大野社長にこの件を報告した。
坂本の報告を黙って聞いていた大野は、
「しばらくしても残業が減らなければ、契約内容の変更も含めて考え直さなければならないな」
と言った。
坂本はうなだれてまま頷いた。
「やはり、請負事業は大変だな。請負元は自社でやるより外部に発注した方が合理化できると判断するのだから、引き受ける側もよほど工夫しなければならないということだな。二宮君には申し訳ないが、契約社員と一緒に外回りで頑張ってもらおう」
話が終わりそうになったので、野田が切り出した。
「山河出版社の請負事業では残業に関して事前許可制を導入したいと思いますが、よろしいでしょうか? 当初は当社への導入を考えて準備してきたものですが」
大野は一瞬、考えを巡らして指示した。
「それは残業を減らすうえで効果があるだろうから、すぐに実施してくれ」
「わかりました。ついでにお聞きしますが、本社での実施時期はいかがしましょうか? このところ残業は減ってきていますが」
「ただ、本社では通期決算の見通しが固まった段階でいいんじゃないか、決算は相当厳しいと覚悟しなければならないから。実施時期は新年度の始まる一月からということで」
「はい」
大野の指示がおりたので、坂本と野田は社長室を退室した。自分の席に戻る前に坂本が野田に話しかけた。
「今日、望人会があるだろう、一緒に参加した後に軽く一杯やらない? たまに、息を抜かないとストレスがたまるから」
坂本がおどけたようにウインクした。いつも元気に振る舞っているが、営業現場の指揮官だけに疲れが蓄積しているに違いなかった。
「たまにいいね、付き合うよ」
野田自身、このところ社内で辛い折衝が続いていただけにリラックスしたい気分だった。
望人会の例会はいつもの赤坂見附のビルで開催されることになっていた。野田と坂本は連れだって例会開始時刻の午後六時直前に会場に到着した。
受付に石田事務局長がいて、坂本と野田の顔を見ると笑顔を見せ、資料を手渡してくれた。
「いらっしゃい、お好きな席にどうぞ。今日は出席者が少ないんですよ」
「やはり、派遣法改正法案が店ざらしになっているからかな」
「そうでしょう、これだけ延び延びになっているんですから」
十月に臨時国会が招集されたが、法案は審議が行われないままになっていた。
「石田さん、国会は十二月上旬には閉会でしょう、結局、また継続審議になるということですよね」
坂本の問いに、石田は「恐らくそうでしょうね」と答えた。
会場に入ると、出席者はまばらだった。春の例会時の緊張感に満ちた空気とはうって変わっていた。
この日の例会の講師は「派遣法改正の行方」と題して石田事務局長自身が務めたが、政治情勢が流動的なだけに結局確証がないままの情勢分析にとどまった。
労働者派遣法改正法案は十月一日に衆議院に付託されたが、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件の発生とそれに伴う日本政府の対応や平成二十二年度補正予算案が論戦の中心となっていた。法案の行方は、年明け一月に開会する通常国会での扱いに先延ばしされることになった。
例会が終わり、この日は懇親会を欠席して野田と坂本は二人だけでいっぱいやるつもりだった。
会場を去って、エレベーターの前まで来ると、後ろから声をかけられた。
「今日は懇親会に出ないでお帰りですか?」
振り向くと、NYTビジネススタッフの有藤取締役だった。坂本が「ええ、たまには外で一杯と思いまして」と答えた。
「私も参加させてもらってよろしいですか? 情報交換させていただければ」
意外な申し出だったが、坂本が即座に「どうぞ、どうぞ」と答えた。こういう申し出は何か意味があることを営業畑の坂本は肌で知っている。
「場所はどこにしましょうか、私どもはどこか安い居酒屋でも入ろうと思っていたんですが」
「そうですね、あまりうるさくなく、食事ができる所がいいですね、いい店を知っていますよ、すぐ近くに」
にこやかに話す有藤に行き先を任せる形になった。
ビルを出ると、地下鉄赤坂見附の方に繁華街を歩いていった。三分ほど歩いて有藤が入ったのは、各階に飲食店が入居するビルだった。
「四階にあるんですよ、お店は」
エレベーターの中で、有藤が言った。エレベーターの壁に飲食店の案内があり、四階には「南欧田舎料理 地中海」とあった。
四階の店に入ると、店員が親しげに有藤に挨拶してきた。有藤がこの店では顔なじみなのだとわかった。
ベランダを望める壁際の四人掛けの席に案内された。
ビールと前菜と肉料理を有藤が頼んだ。
「なかなか洒落た店ですね」
乾杯したあと坂本が感想を述べた。
「美味しくて、値段も手頃なんですよ、ワインもいい味ですよ」
前菜の温野菜とカルパッチョ、ジャガイモとソーセージの煮物が運ばれてきた。カルパッチョは白身魚と生牡蠣で、ほどよい酸っぱさがビールに合った。
坂本が料理をほおばりながら、有藤に質問した。
「以前、御社はIT技術者の派遣をしているとうかがいましたが、今、忙しいんでしょうね?」
「お陰様で、仕事は減っていません。派遣業界には逆風が吹いていますが、うちはNYTテレフォンが発売しているスマートフォンの新製品開発向けに技術者の派遣需要が結構多いです」
「うらやましいですなあ、わが社は5号業務が多い会社ですから、派遣法改正の影響をもろに受けていますよ」
「そうですか。同じ派遣会社でも環境はさまざまですね。それで今期の決算はどんな具合ですか?」
坂本が野田の顔を見た。まだ確定していない業績に関する質問だけにあいまいに返事をすることもできたが、野田はできるだけ正確に答えたほうがいいと思った。
「まだ十一月ですから通期の決算がどうなるかはわかりませんが、厳しいのは事実です。上期賞与も大幅に減らしました。下期の賞与もどこまで払えるかわかりません。派遣需要が大幅に減ってしまった影響で、今期は黒字を確保できるかわかりません」
「そうですか。それじゃあ、来年度予算も大変ですね」
有藤は経営企画担当らしい質問をぶつけてくる。
「その通りです。経費削減も限界がありますからね。まず売り上げを確保しないと会社は利益を出せません」
「まったくです」
スパゲティと子羊の肉料理が運ばれてきたので、有藤は白ワインを頼んだ。
「勝手に頼んですみません。このお肉には赤より白のワインの方が合うんです」
有藤が言うとおり、羊の肉と白ワインの組み合わせは美味しかった。
「ところで、以前、うちは専ら派遣の問題で苦慮していると話しましたよね。派遣法改正法案が店ざらしになっていますが、専ら派遣の問題はどうなると思います?」
有藤がフォークを口元に運びながら坂本に聞いた。
「専ら派遣の規制に関しては、民主党政権は何があっても譲歩しないでしょうね。なぜならこの政権は弱い労働者の立場に立つという姿勢を明確にしているからです。資本系の派遣会社、つまり大会社の子会社の派遣会社はいわば第二人事部という位置づけをされています。親会社に仕事をもらって人材を派遣していますが、実際は親会社の社員がやる仕事を代行しているんです、親会社の給料よりはるかに低い賃金で。民主党はマニュフェストで同一労働同一賃金の旗を掲げていますから、ひとつの会社の中で正社員と派遣労働者が同じ仕事をしていながら賃金格差があるのを容認できないはずです。専ら派遣は同一労働同一賃金の原則を崩す元凶だとみているんじゃないですか」
坂本の解説は予想していた通りなのか、有藤は相槌を打った。
「やはり、そう思いますか。当社は専ら派遣にひっかかりますので何とかしなければならないと思っているんですが。何しろ、派遣法改正法案の採決がずるずる延びているし、現実的には親会社への派遣に精一杯で、他社への派遣を開拓する余裕が無いというのが実情です」
ヒューマン・キャリアでは派遣法改正に合わせて5号業務の見直しなど準備を進めてきたが、NYTビジネススタッフではまだ最大の懸案の専ら派遣問題の解決策を見い出していないようだった。
野田が質問した。
「もし、法案が可決したらどうされるんですか。場合によっては、労働者派遣業の免許が取り消されるかも知れないわけです。そうなったら、親会社に大変な迷惑をかけるでしょう」
「そこなんですよ。何としても専ら派遣の状態を脱却する必要があるのはわかっているんです。ただ、通常の方法では打開策が見つからないだけで」
有藤が白ワインを口に運んでから続けた。
「私は経営企画担当ですから、まさにその方法を見つけなければならないんです。これまで他社への派遣拡大に必死に取り組んできました。だけど、IT技術者の派遣で新規に他社に入り込むというのは至難の業なんですよ。受け入れ先は企業秘密の流出にも神経を尖らせますしね。だから、この際、M&Aしかないかと思っているんですよ」
「M&Aって、企業買収ということですか?」
この混乱と変革の時代には派遣業界でも当然あちこちで起こる可能性があるな、と野田は思った。
「ええ、そうです。派遣会社を買収して、親会社以外への派遣を増やして専ら派遣の状態を脱するのが一番の近道ではないかと思うようになっています」
有藤の目は真剣だった。それにしても同業者に打ち明ける話題だろうか、と野田が思った時、坂本が笑い出した。
「わっはっは、有藤さん、まさか、うちをM&Aの対象にするなんてことはないでしょうね」
有藤は表情を変えなかった。
「坂本さん、今のわが社にとって派遣会社はどこもその対象ですよ。御社も例外ではありません」
「そういう訳で、先ほどうちの業績を聞いたのですね」
話が生臭くなってきて、坂本が真顔になった。
「有藤さん、当社はオーナー会社ですから、オーナーの決断次第です。われわれには何の権限もありませんので」
「ええ、わかっています」
なぜか有藤はさばさばした表情になった。これまで悩んできた専ら派遣の問題を同業に打ち明けたことで、気持ちが落ち着いたのだろうか。
いつの間にか二本の白ワインの瓶が空き、最後にデザートとしてアイククリームが運ばれてきた。
「坂本さん、今日は大変有意義な情報交換ができました」
有藤が、アイスクリームをスプーンでつつきながら言った。
「いえ、私も、派遣法改正法案が派遣会社に大きなインパクトを与えているということを再認識しましたよ。これからも情報交換しましょう、よろしく」
坂本が立ち上がって握手を求めると、有藤も「こちらこそ」と応じた。
レジで有藤が全額支払うというのを何とか押しとどめて、坂本が野田との二人分を支払った。
有藤と別れて、二人で赤坂見附駅に向かう途中、坂本が言った。
「ひょうたんから駒、っていうこともあるしな、後で何を言われるかもしれないから支払いはきれいにしないと。営業担当の交際費で落としたいので、経理処理はよろしくね」
「わかってる」
「今日は飲んでストレスを発散しようと思ったけど、できなかったな」
坂本が笑いながら言った後、付け加えた。
「ああ、そうそう、辞めたアルバイトの有田さんだけど、やはり正社員での採用は無理だったらしく、うちの派遣社員として働くことになったから」
「そう、仕事はできるのにな。やはり年齢がネックになっているのかな」
「それもあるけど、日本の企業社会ではアルバイトから正社員になるというのは極めて難しいということだろうな。申し訳ないことをした」
坂本は右手を挙げ、ひらひらと振ってから踵を返した。
野田は坂本と別れ、赤坂見附駅の地下の構内をしばらく歩き、通勤経路の東武東上線に相乗りしている有楽町線の永田町駅に向かった。
8
野田は十一月半ばの取締役会に議案として提出する下期賞与の原案作りに苦慮していた。労働者派遣法改正法案が国会で棚上げになっているため、派遣社員数は下げ止まってはいたが、下期決算が厳しいのは自明の理だった。
野田は下期賞与を昨年支給した平均給与二・七ヶ月で試算してみると、大幅な赤字でとても無理な数字だった。大幅に削減して一ヶ月の一人当たり三十万二千二百円で計算すると、ようやく百万円程度の経常利益が出る計算だ。しかし、昨年に比べて一・七ヶ月、金額にして五十万円以上も支給が減れば社員の志気は大きく低下するだろう。社員の反発は避けられないだけに野田は迷ったが、黒字確保に執念をすら感じさせる大野社長の顔を思い浮かべて、下期賞与を一ヶ月とする案を作成した。
前方を見ると、座って仕事をしている前川の後ろ姿が見えた。その向こうで北村取締役が所在なさげに新聞を読んでいるので、資料を持って近寄った。
「北村取締役、下期賞与案を作成しましたので、目を通していただければと思います」
北村は「わかった」と言って資料を受け取った。
東京まほろば銀行から出向している市村は、野田らに実務を任せきりでほとんど仕事には口をはさまない。下期賞与についても、野田が作成して説明すれば良かった。
席に戻った野田は試算した数字を眺めながら、しばし黙考した。上期賞与が一・八ヶ月で下期が一ヶ月だと合計二・八ヶ月。例年なら一回分の賞与に過ぎない。もちろん、創業以来初めての低水準だ。これほど賞与を削減したら、社員の不満と反発が高まるのは避けられないが、現実問題として住宅ローンを抱えている社員が困るのではないか、と懸念された。
ヒューマン・キャリアの場合、平均年齢が四十二歳と高い。創業以来、ヒューマン・キャリアは中途採用を繰り返してきたが、居心地がいいのか退社する社員が少なかったうえ新卒採用を手控えてきたため、社員の高齢化が進んでしまったのだ。
住宅ローン以外にも子供の教育費などさまざまな出費を考えると、今回の賞与では不足する場合もあるだろうし、来年以降の事もある。野田は、この際、社員向けの低利融資制度を新設したほうがいい、と思いついた。幸い、会社は創業以来一度も赤字を出したことが無く、毎年の繰越剰余金を積み立てた預金が二億円ほどあった。この預金は派遣社員の給料に充てるので、常に二億円程度を保有している必要があったが、当座はこれで賄えるし、銀行から借金もできるだろうと思った。
野田は大野社長の判断をあおぐため、社長室に向かった。
大野は、野田の提案を黙って聞いた。
「今説明しましたように、下期賞与を一ヶ月に抑えた場合、住宅ローンの返済に困る社員も現れることも考えられます、この際、社内融資制度の新設を考えたいと思いますが、いかがでしょうか?」
「社員は預貯金もあるだろうから、困る社員はそれほど多くはないだろうがね」
「それでも、今回の下期賞与を受け入れてもらおうと、会社側の誠意を示す必要があります」
「そうだな、金利はどうする?」
「民間銀行の住宅ローンより若干下回る水準を考えます」
「わかった。利用者は少ないと思われるから、それでいいだろう。ただし、限度額は二、三十万円、返済期限はなるべく短くなるよう設計してくれ」
「わかりました」
大野社長の了承を取り付けて、野田は心が軽くなった。北村取締役にも報告しようと思った。さらに心配りをするとなると、取締役会で了承された後、労働者代表の二宮に事前に根回しをしておくことだった。
十一月第二週の取締役会の朝。野田が地下鉄大手町駅から地上に出ると、聞き慣れた声によるアジテーションがスピーカーを通して聞こえてきた。まるで、取締役会開催に照準を合わせたような地域協働労組のデモだった。
前方を注視しながら歩いていくと、会社のビルの玄関の前で書記長の賀川がマイクを握っているのが見えた。野田は手前の道を左に曲がり、ビルの裏側に回った。
賀川から女性の声に替わり中村の甲高い声が響いてきたので、裏口の入口で立ち止まって耳をそばだてた。
「わたくしは、ただいま賀川書記長から紹介されました中村です。勤務する建設会社への派遣をヒューマン・キャリアから雇い止めにされ、現在無職のままです。長年勤めた会社に勤務し続けることを希望しましたが、ヒューマン・キャリアは一切こちらの言い分に耳を傾けません。ヒューマン・キャリアは違法な派遣を長年続けながらこの事実を認めず、法律に基づいて正社員にして欲しいというこちらの主張を完全に無視して解雇に踏み切るという暴挙に出たのです ……」
マイクを持つたびに、中村のアジは滑らかになってきていると思った。野田はビルの中に入り、荷物用のエレベーターで会社のある五階まで上った。午前十時からの取締役会の準備のため、地域協働労組のデモに気を取られている暇はなかった。
自分の席に来ると、地域協働労組が配ったビラが机の上に置いてあった。気を利かせて前川が置いてくれたのだろう。
「前川さん、今日は取締役会だから、ビルの前にいる地域協働労組に変わった動きがあったら知らせて」
「わかりました」
前川が後ろを振り向いて返事をした。
野田は取締役会で配布する資料をコピーする前に、もう一度資料をチェックした。取締役会の議題と下期賞与案、新設する社内融資制度の資料などいずれも訂正箇所は無かった。
取締役会を開く応接室で、資料を出席者のテーブルの前に置いていると、後ろで前川の声がした。
「部長、一階の受付から電話がありまして、地域協働労組の賀川書記長が社長に会わせろと言っているそうです」
なんてタイミングが悪いんだ、と心の中で舌打ちをした。腕時計を見ると、取締役会の開催時刻まで十分しかなかった。会社の中まで押し掛けられるの防ぐため、一階まで下りていって事態を収拾しなければならないだろう、と判断した。
野田は社長室に入り、地域協働労組に応対するため、取締役会に間に合わない場合は、前川に記録係をしてもらうことの了承をとった。その事を前川に告げると、何事にも器用な前川もさすがに不安に思ったのか、「私、どうすればいいんですか」と訴えてきた。
「会議室の端に控えて、取締役会の出席者の発言をメモしてくれ。後で私がまとめるから」
前川に指示してから、エレベーターで一階まで降りた。
エレベーターのドアが開くと、目の前に賀川や中村ら七、八人の労組員がいて、一斉に野田の顔を見た。
「賀川さん、私が話を伺います。ただし、十時から会議がありますから、五分だけです」
「社長に会わせてくれ、話がしたい」
「それは無理です、会議があると言ったでしょう」
「会社は不誠実よ、こちらは生活がかかっているのよ」
中村が金切り声を上げた。
「何回も申し上げていますが、団交を申し込んでくれれば、私たちで応対しますから」
「あんたらと団交を重ねても話が全然進展しない。社長に直談判するしかないんだよ」
賀川や中村らが野田を取り囲み、険しい目で迫ってくる。
「中村さんは雇用期限の九月末に契約終了となりました。希望すれば次の派遣先を紹介するとお答えしているはずです」
「派遣社員なんて希望していない。あんたらは法律違反していたんだから、法律に基づいて中村さんを派遣先の正社員にするのが当然だろう」
賀川が怒鳴るように言った。
これ以上、応対しても堂々巡りになるだけだった。
「賀川さん、あなたたちの希望は無理です。東京労働局に訴えてもらってもかまいませんから」
居直りと受け取られても仕方がない、と野田は言い放った。
「野田さん、あんたは本当に融通が利かないね、問題を解決する気がないんだね」
賀川があきれたような表情をした。
「そうよ、いつも、会社に都合のいい主張ばかりして」
中村が憎々しげに野田を見た。
「それでは、会議がありますから」
野田がエレベーターの方に後退すると、「逃げるのかよ」という罵声を浴びせられた。
賀川たちはエレベーターの中までは押し掛けてこなかった。強引に押し掛けると、家宅侵入罪で警察に訴えられることを知っているからだろう。
社内に戻ると、ビルの外で地域協働労組の労組員たちが会社を弾劾するシュプレヒコールを声高に叫んでいるのが窓越しに聞こえてきた。
取締役会が開かれている会議室のドアを軽くノックして中に入った。前川が安堵した表情で野田を見上げた。無言で前川から記録用のノートを引き継いで、椅子に腰をおろした。
取締役会では、北村取締役が第一号議案である下期賞与案の説明の途中だった。
「……というわけで、下期賞与の支給額は一・○ヶ月にとどめる事を提案します。なお、この低い支給額でも今期の経常利益はかろうじて赤字を免れるという厳しいものになります」
北村が説明した議案を引き取り、議長である大野が「ご異議ございませんか」と型どおりの議事進行をした。出席取締役が三人しかおらず、坂本取締役が「異議なし」と発言したので、下期賞与の支給額が決定した。
続いて、北村が第二号議案である「社内融資制度の新設」について説明した。内容は野田が作成した通りで、融資額は一人当たり三十万円、金利は借入時の市中金利より○・二%低くし、五年以内の返済という条件がついている。
「この融資制度は、下期賞与が低水準となり、住宅ローン等の返済に困る社員を対象とするものであります、念のため新設しますが、それほど利用者は多くないと想定しております」
この議案も異議無く承認された後、大野が坂本の方を向いて強い調子で言った。
「今期の業績は何とか黒字を確保したい、期末までの残る一ヶ月半の営業に全力を挙げて欲しい」
坂本は、「はっ」と大きく声で返事をし、頭を下げた。
「社員に対する説明会はいつだっけ?」
大野が北村の顔を見た。
「十一月二十日の午後五時からを予定しています。支給日が二十五日ですから」
「わかった、今回はわたしから社員に丁寧に説明しないといけないな」
ノートにボールペンを走らせながら、野田は(労働者代表の二宮に事前に根回しをしておかないといけないな)と思った。今回は上期賞与の時よりも社員の反発が懸念された。
野田が二宮に声をかけ、終業と同時に東京駅八重洲口の居酒屋に誘ったのは、下期賞与の社員説明会の前日だった。二宮は、野田から誘われるのは下期賞与が相当悪いことを説得されるためだと覚悟している風があった。
二人で大手町のビル街の大通りの前でタクシーを待っていると、風が冷たく身を切り、いつの間にか季節が冬に向かっているのを肌で感じた。天気が良ければ八重洲までは歩いていける距離だが、この時期は身体にこたえた。ラッシュ時に重なり、タクシーが渋滞に巻き込まれて予想以上に時間をとられ、普段は基本メーターで行ける距離だったが、店の近くで降りる直前にメーターが上がってしまった。
店の中に入ると、「いらっしゃいっ」という威勢のいい声で迎えられた、午後六時半過ぎの居酒屋は仕事が終わって飲み始めた客達で早くも騒がしかった。野田は店の奥まで進み、四人掛けのテーブルの壁際の椅子に腰をおろした。
「寒いけど、最初はビールでいくか?」
野田が言うと、二宮は「そうしましょう」と賛同した。手を挙げた野田を見つけてやってきた店員に何品かを注文をした。
「どう、仕事のほう? 君の担当は金融機関だったよね?」
野田は二宮に話の水を向けた。
「いやあ、相変わらず厳しいですよ、私はうちの株主の東京まほろば銀行を担当しているんで。東京まほろばは今年の春からの半年間で派遣人数が大幅に減っちゃいました。今さら、新規開拓は難しいですし」
「派遣法改正法案の成立が延び延びになっているけど、派遣先はどう思ってるんだろうな」
「企業は常に最悪の事態に備えますから、法案が成立することを前提に対処しますよね。だから、決して派遣社員を増やそうなんて考えません。ただ、このところ派遣社員を減らす動きは下げ止まりました。法案の審議がストップしているんで、様子を見ているんでしょう」
生ビールが届けられたので、「お疲れさん」と言って一口飲んだ。
冷たい液体の固まりがのどから胃に流れ落ち、心地よい刺激が身体の中心部を下っていった。
「現場の君たちが肌で感じているように、うちの業績は急速に悪化している。毎月の月次決算をみればわかるよね。今日、誘ったのは、明日の下期賞与の社員説明会の件だ」
二宮は目元を引き締めて野田の顔を凝視した。
「率直に話すけど、下期の賞与は厳しい。昨年と同じ月数で出したら会社は赤字決算に陥るから、それはとても無理だ」
「どのくらいですか?」
「一ヶ月だ」
野田が言下に答えた。
「ひえー、それは厳しいな」
二宮は、想定外という反応を示した。
「決算でぎりぎり黒字を確保するためには、その水準に抑えないとだめなんだ、今の業績では」
「でも、社員だって生活がかかってるんですよ、いきなり昨年の二・八ヶ月から三分の一近くに減らされるなんて」
二宮の口調は野田をとがめるようだった。労働者代表としての自分の立場に思い当たったのかも知れなかった。
「一年くらい赤字になっても、ある程度の賞与は支給すべきですよ」
二宮は怒ったように言った。
「君の気持ちはわかる。だから、こうして何とかわかってほしいと事前に説明している。社員の生活がかかっているのは理解できるから、会社としては住宅ローンの支払いで困る社員を対象に低利の融資制度も新設することにした」
「融資制度を作ってもらってもね」
「少しでも会社の誠意を感じ取ってもらいたいんだ。会社は少しでも業績を確保するため、アルバイトには辞めてもらっているし」
「野田さんを責めてもしょうがないですから、明日の説明会では社長に経営姿勢を問い掛けますよ。そうしないと、社員がやる気を無くしてしまう」
「それは君たちの権利だ、社長も真摯に答えると思うよ」
話の本題を一気に済ませて、二宮と野田はようやく刺身に箸をつけた。
翌日の午後五時半。大野と北村が会議室の前方の席で、社員が集まるのを待っていた。遅れた社員が着席している社長の姿を見てあわてて空いている席に身体を滑り込ませた。
司会をする野田は、定刻を過ぎたのを確認して下期賞与の説明会の開催を告げた。北村取締役が支給額の説明を始めた。いつものように支給数字を述べるだけで、大野が会社の考え方を説明することになっている。机上に置かれた支給額の用紙をみて、社員の多くは険しい表情をしたが、一ヶ月という北村の回答に改めてため息が漏れた。
「それでは、社長の話をいただきます」
大野と北村はそろって立ち上がり、上期賞与の時と同じように社員の前で頭を下げた。
「下期賞与が上期をさらに下回ることに対して、経営責任を感じています。誠に申し訳ない。業績が回復すれば、下期賞与に反映させると皆さんに約束したが、それを守れなかった。皆さんの不満は一身に受け止めることとします」
一呼吸おき、皆の顔を見回してから、大野は続けた。
「人材派遣業界はかつてない逆風にさらされています。派遣法改正法案は継続審議になったままですが、企業は派遣社員の見直しを続けており、好転する兆しはありません。こうした環境の変化に対処するため、わが社は請負事業分野に進出するなど対策に乗り出していますが、焼け石に水、というのが実情です。業績の悪化に歯止めがかかりません。皆さんの頑張りで業績が上向けば必ず賞与も増やしますので、どうかご理解ください」
大野は再び一礼して着席したので、北村も腰を下ろした。
「皆さんのお手元に資料をお配りしていますが、新しく社内融資制度を作りますので、北村取締役から説明いたします」
野田の進行に北村が軽く頷き、座ったまま社内融資制度の説明を始めた。融資制度の新設をどう受け止めているのか、社員たちの一様に固い表情からは読みとれなかった。
北村の説明が終わった後、野田は「質問があれば、どうぞ」と社員に水を向けた。
最後列にいる社員の手があがった。二宮だった。「どうぞ」と野田が指すと、二宮は立ち上がった。
「労働者代表として社員の声を代弁して意見を言います。業績が悪化しているのは営業現場にいるわれわれが一番わかっています。しかし、支給額が一ヶ月というのはあまりにひどい。生活に響きます。当社には労働組合がないからデモをするわけにはいきませんが、もう少し何とかならないのですか。社長、いかがですか?」
居並ぶ社員の何人かが、そうだ、と言わんばかりに頷いた。
大野は二宮の方を見ながら口を開いた。
「二宮君の言うことは誠にもっともな話です。しかし、これ以上支給額を増やすと当社は赤字経営に転落してしまいます、赤字になっても賞与を増やすべきか、経営者として真剣に悩みました。しかし、やはり、赤字になるのは避けたいというのが結論です」
大野は慎重に言葉を選びながら続けた。
「理由を申し上げます。わたしども派遣会社は国の許認可を得て事業を行っており、信用が一番重要なのです。赤字になれば国の監督と指導が厳しくなります。そして、派遣先企業の目が厳しくなり、派遣依頼があっという間に減退してしまう恐れがあります。また資金繰りが悪化すれば銀行からの融資が困難になる可能性があります。つまり、この業界での競争力を失ってしまうのです。派遣会社は他の業種に比べてなおさら赤字に陥ってはならないのです。ですから、何とか歯をくいしばって赤字を回避しなければならないのです。どうか、こうした事情を理解して、不本意ではありましょうが、今回の下期賞与を受け入れていただきたい」
大野はここで言葉を切った。社員の反論を待っているのかも知れなかった。
気迫ある大野の言葉に押されてか、会議室は水を打ったように静まりかえっていた。
「もちろん、こうした事情を招いたのは経営陣の責任です、とりわけ社長の私の責任が重いのは言うまでもありません。上期に続いて下期も賞与を大幅にカットせざるを得なくなった責任をとりまして私は自分の報酬を十二月から五○㌫削減します」
大野の言葉に、野田は驚いた。社長の報酬半減については事前に知らされていなかったからだ。あるいは二宮の発言に触発され、この場で思いついた事なのだろうか?
社員の誰もが押し黙ったままだ。野田は会場の空気を察し、「それでは下期賞与の説明会を終わらせていただきます」と幕を引いた。
社員らが重い雰囲気を引きづったまま立ち上がり、会議室を出ていった。
「坂本君、北村君、ちょっと残ってくれ、それと野田君も」
大野が役員を引き留めた。
「これから臨時取締役会を開きたい、私が言った報酬削減の事で」
坂本が大野と北村の向かい側に着席した。野田も会議室の端に座った。
「役員の報酬削減については取締役会で決議して取締役会議事録に残しておく必要がある。今、社長の報酬を当面の間五○㌫削減することをここで決議したい」
「われわれの報酬もカットしてください、取締役にも責任がありますから」
坂本がせき込むように言った。
「いや、今回は社長だけでいい」
上期賞与の削減で、取締役は報酬の五㌫削減を続けている。それでも社長の削減率と比較するとアンバランスである。野田は、頭の中で、とっさに計算してアドバイスをした。
「参考までに申し上げます。社長が五○㌫、取締役が五㌫カットですと、報酬額が逆転してしまいます、取締役の報酬を一○㌫カットにするとかろうじて社長の報酬が上回ります」
「社長、われわれはそれで結構ですから」
野田の方を振り返って軽く頷いた後、坂本は北村の顔を見た。北村も反対しなかった。
そうか、逆転してしまうか、とつぶやいて「それでいいかな」と大野は二人の取締役に念を押した。
「社員の賞与を大幅に削減して、役員の報酬をカットする以上、今期の配当は中止するしかない」
大野が北村に向かって言った。配当中止は最大の株主である大野自身が一番影響を受けるが、第二位の株主の東京まほろば銀行の意向もからんでくる。
ヒューマン・キャリアでは毎年、期末に十二㌫の配当を実施してきた。資本金一億円の会社なので、東京まほろばにとってヒューマン・キャリアからの配当額は微々たるものではあるが、無配にすれば口をはさんでくる可能性がある。
「お言葉ですが、社長、わが社はわずかではありますが黒字の見通しです、内部留保の繰越利益剰余金を取り崩せば赤字決算でも配当はできます」
北村が珍しく社長に異を唱えた。出向元の東京まほろばに配慮したのに違いなかった。
「社員のボーナスを大幅にカットするのに株主に配当するというのかね、君は」
大野が珍しく怒気を含んだ言い方をした。
「やはり、会社は株主あってのものですから」
たじろぎながらも、北村が反論する。
「君は株主あってのものだというが、第一位の株主である私が無配でいいと言っているんだ」
普段の大野と違って感情を表に現したからか、北村はそれ以上は反論してこなかった。
オーナー社長と第二位の大株主の代弁者の論議だけに、坂本も野田も口を挟むことはできず、黙ってままでいた。
気まずい沈黙が流れた。
「ま、この件はいずれ来年三月の株主総会で正式に決めることになるが、私は考えを変えるつもりは無い」
大野は立ち上がり、ゆっくりと会議室を出ていった。大野が姿を消してしばらくしてから、北村も退出した。
「おい、野田ちゃん、嫌な雰囲気になってきたな、北村さんは東京まほろばの意向を代弁する立場だから、今後、社長との間でもめるかも知れないな」
坂本が腕組みしながら、首を傾げた。
「わからないよ、東京まほろばがどう出てくるかなんて。だけど、社長が東京まほろばにいい感じを持っていないのがありありとわかるね」
「だけど、うちが東京まほろばから受けている融資額ってどのくらいなの?」
「一億円かな、創業時からの運転資金がほとんどだ」
「その見返りとして、東京まほろばは過去に出資比率を増やしたんだな?」
「そう、経営が軌道に乗ってからはいつでも借金を返済できたんだけど、大野社長が借金返済を申し込んでも先方から何とか借りておいてくれって頼まれて先送りしてきたんだ」
「だけど、これだけ経営が悪化すると、重荷になるのは事実だな。返済するとしても、内部留保を大幅に取り崩さなければならなくなる」
「今のうちにとっては大変な事だよ」
野田が会議室の掛け時計を見ると、午後六時半を回っていた。会議室の暖房が切られていて、寒さで身体が冷えていた。坂本と野田は思い合わしたように立ち上がった。
9
日増しに寒さが募り、もうすぐ師走の声を聞こうという十一月下旬の月曜日の午前中の事だった。野田がパソコンに向き合っていると、社長室の入口に社長の大野が現れ、野田を手招きしているのが目に入った。弾かれたように野田は立ち上がり、大野に従って社長室の中に入った。大野は珍しく、入口の扉を閉めた。
「まあ、座ってくれ」
大野がいつもの自分のソファーに腰をおろし、はす向かいのソファーを指し示した。
「午後から一緒に東京まほろばに行ってくれないか」
「かまいませんが、何かありましたか?」
「いやね、あちらの人事部長の赤間という人から電話があって、関連会社担当の常務が会いたいといっているそうだ」
野田は、下期賞与説明会の後に、配当を巡って大野と北村が感情的なやりとりをしたことを思い出した。
「配当についての注文ですかね」
「ま、そんなところだろう」
大野が苦笑いをした。
「午後二時のアポだから、一時半には会社を出るから」
午前中は何件かの用事をこなし、外で昼食をとってから会社に戻ってきた。午後一時半に大野が黒いコートを小脇に抱えて社長室から出てきたので、野田は立ち上がった。
「年をとると寒さが応えてね」
エレベーターを出て大通りに出る前に、大野はコートをはおった。
野田はまだコートを着用していなかった。
大手町のビル街を大野に従ってしばらく歩くと、東京まほろばの高層建ての本社ビルに到着した。エレベーターで十階のフロアに降りると、「いらっしゃいませ」と以前会ったことのある女性秘書が出迎えてくれた。
秘書に応接室に案内された。早めに会社を出たので、約束の時刻までまだ五分ほどあった。ガラス張りの窓の向こうに黄色い銀杏並木が見えた。大野は背筋を伸ばし、前方を見つめている。秘書がお盆にのせたお茶を四つ運んできて、大野と野田の前に置いてからテーブルの向こう側にも二つ並べた。
午後二時きっかりにドアが開いて、二人の男が入ってきた。
関連会社担当常務の角田史雄が、立ったまま大野に挨拶した。
「いやあ、すっかりお待たせしてしまって、すみません」
傍に人事部長の赤間輝男が控えている。角田に続いて、赤間も着席した。
「お久しぶりです、大野先輩もお元気そうで何よりです」
角田が大野に笑顔を向けた。
「すっかり年をとりましたよ」
大野も口元を緩めた。以前、角田が東京まほろばの関連会社担当役員になり、ヒューマン・キャリアに新任の挨拶に来社した時に聞いた話では、角田は大野の銀行時代の十年後輩だった。今では常務に昇進して、東京まほろばが出資しているヒューマン・キャリアの経営にも影響力を持つようになっている。
「どうですか、派遣業界の景気は?」
「今年ほど苦労している年はありません。ご存じのように、派遣法改正法案の影響でどこの会社も派遣社員を減らしていますから」
「今は、コンプライアンスを守らないとマスコミや世間から叩かれる時代ですからね」
「経済界も過剰反応するから、困るんですよ」
「業績にも影響が出ていますか?」
北村から毎月報告を受けていて知っているはずなのに、角田は大野に質問した。
「ええ、今期は社員に泣いてもらって賞与を例年の半分に減らしました。それでようやく経常損益がトントンという惨状です」
角田は軽く頷きながら、核心をついてきた。
「聞くところによりますと、今期は配当を実施しないことも考えていらっしゃるとか」
やはり北村から配当政策に関しても報告があがっていたのだった。大野は意に介さないように答えた。
「ええ、これだけ社員に迷惑をかけたんですから、配当するのは筋違いです」
角田の目が光ったような気がした。
「何とか考え直していただけないですか? 業績が悪化したとはいえ、形だけでも黒字を維持できるのでしたら配当してもらうのが株主の権利だと思っています。当行の子会社にはそうしてもらっています。御社の場合、子会社ではありませんが」
「それはどうでしょうか。検討してはみますが、現段階では難しいですね」
大野は角田の要請をやんわりと拒絶した。
「何とかお願いできませんか? そうでないと、大株主であり、御社に融資していることのメリットがありません。こちらも配当できない会社に融資を続けていていいのか判断を迫られます」
角田は、ヒューマン・キャリアへの融資の引き上げをほのめかした。すでに織り込み済みなのか、大野は慌てた素振りを見せない。
「基本的には、私の考えは変わりません。ま、逆に、今日はこちらの考えをお伝えできて良かった」
角田の表情が険しくなった。東京まほろばの完全な子会社と違って、意のままにならないことに苛立っているのがわかる。
「まだ時間がありますので、何とか再考を期待しております」
角田はそう言うと「次の来客がありますので」と一礼して立ち上がった。赤間が角田の後を追うか迷った顔つきをしたが、結局、その場に残った。
「それじゃ、われわれも失礼します」
大野がゆっくりと身体を起こした。
赤間がエレベーターの前まで送ってくれた。
会社に帰る途中、大野が独り言のようにつぶやいた。
「銀行というものは昔から体質がかわらないな、儲けている会社にはすり寄り、危うくなった会社からはさっと身をひく。バブル崩壊で経営危機に陥った時には、自らが国からずいぶん助けられたはずなのに」
大野の表情にはどことなく寂しさが漂っている。野田は黙って頷くしかなかった。
決算月の十二月に入って、北村は市村経理課長とともに毎日のように残業で会社に居残った。経費削減のため残業抑制を率先垂範しなければならない立場ではあったが、十二月半ばまでには来年度予算の原案を策定しなければならず、やむを得なかった。すでに、来年度予算については、営業本部に数字の提出を依頼している。これに賃上げ、賞与を含む人件費や諸経費を勘案して仕上げるというのが例年のパターンだった。
予算案提出締め切りの二日前、資料を手にした坂本が渋い表情で野田の席にまでやってきた。
「野田ちゃん、相談に乗ってよ」
野田は立ち上がって、坂本と社長室の隣の応接室に入った。
「これ見てよ、数字が低くて困っているんだ」
坂本が示した資料は営業部員たちが予測した来年度の各個人の売り上げ数字を集計したものだが、今期の決算予想の売り上げをさらに二○㌫ほど下回っている。
「これから賃上げ分や賞与などの人件費、諸経費を差し引けば決算が真っ赤になるのは明白だな」
野田は数字を見て一目で判断した。
「そうだろう、どうしたらいいと思う」
「もうちょっと売上げの減少幅を小さくする必要があるな、せめて一○㌫減程度に。環境が悪いとはいえ、営業部員はちょっと腰が引け過ぎじゃないか」
「今年は一貫して派遣需要が減り続けたから、皆弱気になっているのは確かだ」
「もう一回やり直してよ」
野田としては、数字の上積みを要請せざるを得なかった。当初予算は赤字にしないのが原則だ。
「わかった、やっぱりそうだよな」
坂本は納得したように頷いた。
新しい予算数字を坂本が野田に示したのは、予算案提出締切日の午後三時過ぎだった。
「何とか、皆にハッパをかけたけど、これで精一杯だ」
坂本が改めて示した数字を見ると、改善したとはいえ売上げは一五%以上落ち込んだままだ。
「わかった、これをもとにまとめてみる」
野田は坂本から受け取った数字をもとに、人件費や諸経費を積み上げる作業にとりかかった。賃上げをゼロにし、賞与を上期下期とも一ヶ月に据え置いた場合でも、経常利益は赤字の予想だった。
賞与をこれ以上削減したら、社員の生活に影響を及ぼす。赤字予算を作るしかないのかーー。野田はあれこれと知恵を絞ったが、数字をごまかすことはできず、最終的には大野社長の判断をあおぐしかなかった。野田は社長室に行き、大野に事情を説明した。
大野の判断は明快だった。
「賞与を削ってでも、黒字予算に作り替えてくれ、利益が出れば賞与を増やすという方針は変わらない」
上期賞与をを○・四ヶ月、下期賞与を○・六ヶ月に抑えてようやく経常利益が黒字になる予算が形になってきた。しかし、雀の涙の賞与しか計上していない予算は、実質的には赤字予算と同じだった。
十二月半ばの取締役会で予算案は承認された。
来年度予算で賞与が大幅に削減されたことで、社内には沈滞した雰囲気が漂った。会社の将来を憂える声が公然と聞こえるようになった。
新しい年を迎えるまで十日を残すばかりとなったある日、野田は大野に社長室に呼ばれた。毎年恒例になっている同業のスタッフ・リンクの荒川光代社長との忘年会に同席するよう言い渡された。
大野と荒川は旧知の仲だ。荒川は三十二年前に外資系企業に英文タイプの人材を派遣する仕事を始めた。日本の人材派遣業の先駆者がその五年ぐらい前から日本で開拓していた仕事だが、当時会社勤めをしていた荒川はその将来性に目をつけ、会社を辞めて市場に参入したのだった。
荒川は小さな事務所で女子学生を雇って業務を開始し、苦労しながらも顧客を獲得していった。しかし、当時は人材派遣が違法といわれていた時代で、荒川の会社も資金繰り難に陥った事があった。その窮地を救ったのが、当時、東京まほろばの前身の大手都市銀行に勤務していた大野だった。大野は荒川の会社に融資する案件を社内の稟議に上げた。リスクが大きいと判断されて稟議は一度却下されたが、人材派遣ビジネスの将来性を高く買っていた大野は米国の先進事例を盛り込んだ資料を作成して猛烈に巻き返して実現させたのだという。その後、一九八五年に人材派遣法が成立し、スタッフ・リンクは時代の波に乗り急成長した。
大野は人材派遣法の成立直後に自らも会社を興して参入したが、ビジネス・センスは荒川の方が上だった。業界大手に追いつけ追い越せと市場を開拓したスタッフ・リンクは、業界で売上高十位以内の準大手にまで成長したのに対し、後発のヒューマン・キャリアは大手には成長できずに月日が流れた。
しかし、荒川は大野に窮地を助けられた恩を忘れたことが無く、毎年の暮れに大野を招待する忘年会を開いてくれるのだった。
十二月二十六日。大野と荒川の忘年会は、西銀座の中華料理店で開かれた。
開始時刻の午後六時に間に合うように大野と野田は五時半に会社の前でタクシーを拾った。十分前に中華料理店に到着したが、荒川はすでに中年の女性秘書と二人で個室で待っていた。
「あら、大野さん、お待ちしていました」
荒川は大野の姿を見ると立ち上がり、満面の笑顔を見せた。七十歳を過ぎているが、血色はすこぶるいい。短髪を黒く染めているせいか、年齢よりだいぶ若く見える。
野田にも、会釈をして席に座った。野田も昔から顔なじみである。
「毎年、すみませんね。もう、やってくれなくてもいいのに」
大野がおしぼりで手を拭きながら言う。
「大野さんと話をしたいから続けているのよ。この忘年会をやらないと毎年暮れが来た気がしないわ」
同業というよりは、親しい友人同士という雰囲気である。
「今年もお互い元気で何よりでした」と荒川がビールのジョッキを持ち上げ、乾杯をした。
「今年は厳しい年だったなあ」
会社ではこうした愚痴をこばさない大野が珍しくぼやいた。
「ほんとにね、今年ほど派遣業界に逆風が吹いた年はなかったわね」
「法律改正はどうなると思いますか?」
「本当に政治に翻弄されっ放しね。年明けの国会で法案がどう取り扱われるのか皆目見当がつかないわ」
「ひとつだけ言えるのは、法案によってすっかり派遣需要が冷え込んでしまったということだな」
「ええ、それは確かね」
前菜が運ばれ、皿に料理を移す作業でしばらく会話が中断した。荒川は秘書の皿にも盛ってあげるので、秘書が恐縮している。
「だけど、今の雰囲気は、大野さんに助けられた頃に似ている。あの頃は派遣なんて人事の邪道だって思われていたし。実際に、わたし、あるお役人さんに、あなたのやっていることは違法だから止めなさい、って面と向かって言われたのよ」
「市場が成長してから、それに合わせるように法律ができるからね」
「景気がいい時は派遣は重宝がられたけど、今はまた風向きが変わって、派遣は悪、という雰囲気でしょう? 」
「マスコミや世間はそうですが、企業はそう単純には考えていないと思う。制度の変化にうまく順応しようとしているだけじゃないのかな」
「その通りね」
春巻きやふかひれスープ、エビチリなどいくつかの料理が運ばれてきて、そのたびは荒川は「おいしいわね」と率直に感想を口にした。大野は温かい紹興酒を飲んで、顔が赤くなっている。野田は二人の会話を邪魔しないように、控えめに料理を味わった。
「荒川社長はお元気そうで何よりですね、秘訣は何ですか」
大野が聞いた。
「よく食べることかしら、食べるのが大好きなのよ。それから何にでも興味を持つことかな、とりわけ新しいことが大好き」
「羨ましい。わたしは荒川社長の年まで現役は無理ですよ。最近は、根気が無くなってしまって」
「何言っているのよ、大野さんはまだまだよ。後十回は忘年会を続けないとね」
荒川は屈託なく笑った。
忘年会は午後八時半に終わった。
荒川社長と別れた後、大野が「酔い覚ましにコーヒーでも飲んでいこうか」と野田を誘った。
二人で、JR新橋駅の近くまで歩き、高速道路の下の昔ながらの喫茶店に入った。店内はそれほど混んでおらず、周囲にお客のいない奥のテーブルに二人で向かい合って座った。
店員に、ブレンドコーヒーを頼んだ。
大野が煙草を取り出して、一本口に運んだ。
「なかなかやめられなくてね」
大野はそういってライターで火をつけ、うまそうに吸い込んでから、野田に吹きかからないように顔をそむけて煙を吐いた。大野は会社では煙草を吸わない。本数からみれば、健康に害を及ぼすほど吸っているわけではなさそうだった。
「律儀な人だよな、荒川さんは。こちらはうれしいけど」
「よほど大野社長には特別な思いを持っていらっしゃるんでしょう」
「あの人はわたしよりはるかに経営者としての才覚があるよ、あれだけ会社を大きくしたんだから」
「はあ」
大野は遠くを見るような目つきをした。
「わたしには迷いがあるんだな。この年になって自分でも書生っぽいと思うんだが、派遣業という仕事に対して誇りを持てないようになってしまったんだ。とりわけ、バブル崩壊以降はね」
珍しく大野が胸の内を吐露したので、野田は次の言葉を待った。
「荒川さんとの忘年会では抑えたけど、民主党政権が派遣法を改正しようという意図がわからないわけではない。何しろ日本には非正規社員が増えすぎた。人材派遣という制度はもともとは多様な働き方ができる制度を目指したものなんだが、バブル崩壊以降、経済成長が止まってから、企業はすっかり人件費抑制のために利用するようになってしまった」
大野は、灰皿に乗せた煙草を再び取り、軽く吸い込んだ。
「経済の成長が止まり、企業は正社員の採用を手控えるようになったから、大卒の就職先が見つからない。それに伴って派遣やアルバイトの非正規社員が増える。非正規社員は給料が安いから、若者が結婚できなくなり、少子高齢化がますます進む。社会保障も破綻する。今の日本は悪循環に陥ってしまったようだね」
大野は野田に問い掛けてきた。
「確かにその通りですが、うちの会社も社員と派遣社員を合わせて八百人も抱えています。家族を合わせるとその二、三倍の人間の生活を支えているんです」
大野の気持ちは普段自分が考えている事に似ていたが、野田は敢えて同調しなかった。
「そうだな、まずこの人たちの生活を守らなければならない。甘いことは言っていられないな」
大野は何かに気づいたように表情を引き締めた。
「野田君、君のお嬢さんも派遣社員をやってるっていってたな」
「ええ、今は体調を崩して家で静養しています」
「そうか、早く健康を取り戻してくれればいいね」
大野の言葉はうれしかった。野田自身、娘の麻里子が社会復帰できることを誰よりも願っているからだ。
大野が腕時計を見たので、野田は店内の壁に掛かっている時計に目をやった。午後九時を十分ほど過ぎていた。
「愚痴を聞いてもらって悪かったな」
大野が煙草を背広の右ポケットにしまった。
「いえ、社長からそういう話を伺えてうれしいです」
大野が苦笑して立ち上がった。
タクシーに乗った大野を見送って、野田は新橋駅からIR山手線に乗った。
上福岡の自宅に着いた時は、午後十一時近かった。康子が茶の間でテレビを見ていて、「お帰りなさい」と野田を迎えた。
「麻里子はどうしている」
野田が帰宅して麻里子の姿が見えない時、こう聞くのが日課になっている。
「もう、寝ましたよ、疲れたと言って」
「もう寝た?」
「ええ、駅前のトレーニング・ジムに入会したのよ。今日が初日だったんだけど、筋トレとヨガで汗をかいて疲れたといって」
麻里子は運動をできるまでに回復したのか。野田は理屈抜きにうれしかった。
「そうか、体力を取り戻さないとな」
頭の中で計算すると、麻里子が会社を辞めてから一年半近くが経っていた。
10
十二月二十八日に仕事納めをし、新しい年の二○一一年は一月四日が仕事始めだった。午前十時から大野社長が営業フロアに集まった社員を前に挨拶をした。
「皆さん、明けましておめでとうございます。昨年は厳しい年でしたが、今年はまさに正念場の年となります。派遣法改正法案が店ざらしになっているため派遣需要は下げ止まってはいますが、わが社は現状のままでは沈没します。今年は新しい派遣先と新規事業の開拓が至上命題です。皆さんひとりひとりが自覚を持ってこの危機を乗り切っていかなければなりません。どうか今年も頑張っていきましょう…」
大野の挨拶には、年末に新橋の喫茶店で見せた経営者としての迷いも感傷もなかった。ひたすら、社業の回復に意気込みを感じさせる挨拶だった。
続いて、坂本営業本部長の音頭で新年への決意を込めた乾杯をした。
「新しい年には、新しい気持ちで仕事に取り組んで行きましょう」
年を越すと新鮮な気分になるのか、社員の表情もどことなく明るい。
ビールと乾き物だけのおつまみで三十分ほど懇談をした後、社員たちは三々五々職場に戻っていった。役員は神田明神への初詣が毎年仕事始めの恒例になっており、ビルの一階で十時半に集合することになった。
大野、坂本、北村の三人の役員がそろったので、随行する野田は大通りでタクシーを拾った。
「一台でいいだろう」
大野の鶴の一声で一台に四人が乗車することになった。昨年の仕事始めには二台に二人ずつで乗ったが、業績の悪化に伴い、できる限り経費を削減するという大野の意志の表れだった。
タクシーは正月明けのビジネス街を渋滞無く進んだが、神田明神まで三百メートルほどの地点で車の列にぶつかった。歩道にも参拝に行くビジネスマンらの行列ができている。タクシーを降り、歩いて行くことになった。
「もし、はぐれたら各自別々に会社に戻ることにしよう」
大野が役員らに指示した。四人で並んでいても、行列の中で前に進む速度がそれぞれ異なるので少しづつ離れていった。
三十分ほどゆっくり歩を進めていくと、ようやく鳥居が見えてきた。両側に出店が並び、ソース焼きそばやたこ焼きの匂いが漂っている。参拝客が境内を埋め尽くしており、参拝するまでにはまだ三十分以上はかかりそうだった。野田の三列ほど前に大野の後頭部が見えた。坂本と北村は後ろの方にいるのか見当たらなかった。ようやく拝殿が間近になったので野田は財布から千円札を取り出し、最前列に出ると同時に目の前の賽銭箱に投げ入れた。
列から離れて大野の姿を探すと、境内の端の灯籠の近くに立っている。野田が近寄ると、大野が参拝客を見回し、
「今年は例年より人出が多いな、それだけ景気が悪いんだろう」
と言った。
「わたしは社内に飾る熊手とお札を買ってから会社に戻ります」
「わかった、わたしは一足先に帰るとしよう」
結局、各自がばらばらに帰社することになった。
一月の営業会議は二週目の月曜日が成人の日で祝日だったため、翌日の火曜日に開かれた。前週の得意先への挨拶回りで、営業部員は派遣先から新しい情報を得ているはずだった。
朝十時にいつものメンバーが会議室に顔をそろえた。
皮切りに、進行役の坂本営業本部長が口を開いた。
「わが社の新年度が始まったばかりだが、今年は昨年より環境は厳しい。なぜなら、昨年度は派遣法改正法案の影響と景気の停滞が重なって派遣社員数は徐々に減退していったが、今年は底に落ちた最低の数字からスタートしなければならないからだ。社長が新年の挨拶で述べられたように、派遣の新規顧客をどれだけ開拓して盛り返せるか、請負などの新規事業をいかに軌道に乗せられるかがわが社の浮上の鍵になる」
続いて、営業部員からの報告に移ったが、派遣社員の数字はほとんどが十二月の営業会議の時点と変わらなかった。
請負事業部次長の二宮からは、山河出版社の請負事業に関する報告があった。
「十一月からは指揮命令者の私も書店回りに参加しました。その結果、当初六十時間から百時間あった契約社員の残業時間は四十時間から五十時間に減っております。十二月は年末の忙しい時期でしたが、残業願を提出させた効果が出ました。ただ、契約社員の残業代は営業手当に含まれておりまして、その営業手当に比べるとまだ残業が多いというので不満を持つ契約社員もおり、一人が一月末での退社を申し出ております」
「君が書店回りに出た効果は出たと言うことだな。だけどまだ残業が多いな、もう少し減らせないか?」
「はい、私も残業があるときは残業願を必ず出させるなどうるさく指示はしておりますが、外回りが関東一円と広くてどうしても限界があります」
「もう一工夫してくれないかな。せっかく利益をあげているんだから、残業問題でトラブルを大きくしたくない。退社する契約社員は何て言っている?」
「営業手当では割に合わない、残業が多くてただ働きが多すぎると」
「そうか、もともと山河出版では六人が担当していたんだから、四人では無理があるということか」
「指揮命令者の私が言うと弁解がましく聞こえるでしょうが、実際はそうだと思います」
二宮の話を聞いていた大野が「坂本君、ちょっといいか」と片手を挙げた。
「この問題については、迅速に対応しなければならないと考えている。残業が減ったのはわかったが、まだ営業手当には見合わないようだ。すぐに営業手当を引き上げるよう検討してもらいたい。我々が業務を遂行するうえで一番大事なのはコンプライアンスなんだ。この問題で訴えられたりするのは未然に防ぎたい。なぜなら企業というものは一度信用を失墜すれば、回復するまでに長い時間がかかるからだ」
大野の指示に坂本が「わかりました」と即答した。
営業会議が終わった後、坂本と野田は大野に呼び止められた。
「ちょっと私の部屋に来てくれるか?」
大野は社長室のソファーのいつもの席に座り、坂本と野田に話を切りだした。
「山河出版社の契約社員が辞める件で、君たちの意見を聞きたいんだが」
大野が一呼吸置いたので、坂本が次の言葉を待っている。
「後任に中村礼子を充てることはできないか?」
「えっ、あの中村ですか? 地域協働労組に加入した?」
大野が無言で頷く。冗談でないのは、真剣な表情からもわかる。
「なんでまた中村なんですか?」
腑に落ちないという表情で坂本が問いかける。
大野はかみ砕くように言葉を続けた。
「地域協働労組がこのビルに押し掛けてくるのを止めたいからだ。そのためには何らかの解決策を労組側に示す必要があるだろう。労組側は和解金を狙っているかもしれないが、それに応じる気はない。労組だってこちらが和解金を出す気がないとわかれば、妥協案に乗ってくる可能性があるんじゃないか。労組に活動資金が余っているわけではないだろうから」
「その通りですが、労組がこちらの話に乗るかどうか」
「それはやってみないとわからんよ」
「野田君はどう思う?」
大野が野田の方を振り向いた。
「はい、労組もそうですが、中村が応じるかどうかです。彼女はあくまで神田の建設会社に正社員で雇ってもらうことを主張していましたから」
「それは理想の姿だろう。固執するのであれば仕方ないが、労組に提案してみるのも一つの手ではないのか?」
「そうですね、やってみる価値はあるかも知れません。念のためですが、以前提示した和解金一ヶ月分も支払うという言うことですね」
「もちろんだ。彼女は今働いていないんだろうからな」
「ええ、この地域協働労組の闘争は業界にも知れ渡っています。他の派遣会社も彼女の就労を拒否するでしょうから、中村は今後は派遣で食べていくのは無理でしょう」
「その事は中村自身がよく知っているんじゃないか、長く業界で働いているんだから」
「中村自身もそろそろ仕事に就きたいと思っているだろうし、私から労組の賀川書記長に提案してみましょう」
「そうしてくれ、地域協働労組との問題が片づいて、山河出版社の契約社員のめどがつけば一石二鳥だ」
大野の強い口調に、すぐに賀川書記長に連絡をとる必要があるな、と野田は判断した。
社長室を出た後、坂本は目を大きくして「びっくりしたなあ、考えもしないことだった」と言った。野田も同じ思いだった。
「それじゃ、労組への連絡は頼む」と言って坂本が去って行ったので、野田は社長室の隣の応接室に入り、後ろ手でドアを閉めた。椅子に座って携帯電話をとりだし、賀川の電話番号を探した。
(野田さんですか、珍しいですね)
耳に伝わってきた賀川の声には、野田の突然の連絡をいぶかる感じが込もっていた。
「突然で申し訳ないですが、中村さんの問題でこちらから提案があります。検討していただけないですか?」
(ほう、どういう事でしょうか?)
「中村さんをわが社の契約社員として雇いたいんです。もちろん、以前約束した和解金一ヶ月分もお支払いします。中村さんとの問題を解決したいというわが社の意思表示と受け取っていただいてかまいません」
沈黙の後、賀川が(和解金を増やす考えは無いんですね?)と尋ねてきた。
「それは一切考えていません、この問題ではわが社はやましいことはないと判断していますから。裁判で訴えられても最後まで争いますよ」
(契約社員というのは、どういう仕事ですか?)
「わが社はある出版社から書店営業の仕事を請け負っています。その仕事をしてもらいます。収入は中村さんの派遣社員時代を下回ることはありません。基本的に受け入れられそうであれば、改めて詳しい条件の話をします」
電話の向こうから一瞬思案する雰囲気が伝わってきて、(わかりました、検討してみます)という返事が返ってきた。
これまでの闘争の経過を振り返って、野田の提案に乗る価値があると判断したのだろう。
「一週間以内に返事をいただければありがたいのですが」
(なるべくそうしましょう)
以前に比べて、賀川の応対は丁寧になっていた。事態が進展する可能性がある、と野田は思った。
驚いたことに、翌日の夕方には賀川から野田に電話が入った。
(野田さん、提案された件ですが、組織内で話し合った結果、基本的に受け入れることにしました。中村自身も了承しています)
「そうですか、それは良かった」
あまりに早い展開に野田は心の中で驚いた。地域協働労組としては、展望のない闘争に活動資金を投下するのは無駄だと判断したのだろうか?
(契約社員は直接雇用ですから、近いうちに中村が御社を訪問するようにします。雇用条件の細部について詰めなければなりませんから)
「わかりました、連絡をお待ちしています」
腕時計をみると、午後五時少し前だった。社長室のドアは開いているので、大野社長は部屋にいるはずだった。野田は社長室に入って、中村の件を報告した。
「中村を契約社員にする件ですが、地域協働労組が了承しました」
大野は口元を緩めて野田の方を見た。
「そうか、やってはみるもんだな」
野田は坂本の席にも行ってこの事を伝えた。
「へー、意外にあっけなかったな」
坂本の感想に、野田も同感だった。中村の問題には随分悩まされてきた。それがあっけなく片づきそうな展開に拍子抜けした思いを拭いきれない。ただ、正式に決まったわけではないだけに、最後まで気を緩めるわけにはいかなかった。
「中村が訪ねてきたら契約書を交わすけど、契約期間はどのくらいにするの?」
「書店回りの他の契約社員は一年契約だけど、中村の場合、書店営業は初心者だから最初は六ヶ月にしよう。仕事に慣れたら、次の契約更新で一年にするということで」
「わかった」
中村から連絡が入り、本人が会社を訪ねてきたのはその翌日の午前だった。坂本と請負事業部次長の二宮も同席するので、派遣登録者を応対する小部屋で面談した。
「いろいろご迷惑をお掛けしました。この度はお世話になります」
三人を前に、中村は硬い表情で頭を下げた。いろいろ考えた末に、まず迷惑をかけたことを詫びる挨拶をしたのだろう。あれほど頑なだった中村がここまで態度が変わるのか、と野田は思った。
「おおよその話は聞いていると思いますが、改めて説明します」
坂本が切り出し、二宮が仕事の内容を説明した。中村は時折頷きながら聞いていた。
「最初の契約期間は六ヶ月とします、書店営業は未経験でしょうから。仕事を覚えてもらいましたら一年契約にしますが、よろしいですか?」
中村は、即座に「はい」と答えた。
営業手当は残業三十時間分の金額にした。大野社長の指示もあり、他の契約社員にはすでに当初の十時間から大幅に増額して適用している。この営業手当でも請負事業の収支は黒字が出ると試算していた。
契約書にサインをして中村が帰った後、坂本がつぶやいた。
「あまりに神妙なんで驚いたな」
「本当に、会社の前でマイクを握っていた女性なんですかね」
二宮が言った。
「人間は状況に応じて変わるということだ。だけど、彼女は海千山千の強者だ。状況の変化によってはどう態度を変えるかわからないぞ、二宮君。君が指揮命令者なんだから、よろしく頼むぞ。まずは仕事をしっかり教えてくれ」
「はい」
二宮は気を引き締めるように大きな返事をした。
一月下旬のある日の夕方、野田に一本の電話があった。
(野田さんですか、NYTビジネススタッフの有藤です)
有藤が電話をかけてきたのは初めてなので、野田は驚いた。どんな用件だろうと耳をそばだてた。
「実はお願いがあります。わが社の代表取締役専務の宇治田が大野社長にお会いしたいと言っています。取り次いでいただけますか、できれば明日か明後日に」
有藤はこう言って、都合のいい日時を示した。
「用件についてはどう伝えましょうか?」
「ビジネス上の相談ということにしておいてください」
有藤からの電話を切った後、野田は社長室に入った。大野は机に向かってパソコンの画面を見ていた。
「今、NYTビジネススタッフから電話がありまして、宇治田代表取締役専務が明日か明後日に社長に会いたいそうです」
「宇治田専務? 急な話だな、どんな用件だろう?」
「ビジネス上の相談ということだそうで、詳しい内容については聞いていません」
「そうか」
野田から先方が指定した日時を聞き、大野は机の上に置いてあった黒い手帳を開いて、翌日の午後四時を指定した。
自分の席に戻ってから、野田はNYTビジネススタッフの思惑を詮索した。以前、有藤と坂本と三人で食事をした際に、有藤が専ら派遣対策としてM&Aを考えていると話していたことが脳裏によみがえった。
翌日の午後四時少し前、受付からの電話をとった前川が野田の方を振り返って「NYTビジネススタッフの有藤さんという方がお見えになっています」と言った。
野田は急いで受付に向かった。有藤が「急な話で申し訳ありません」と笑顔で頭を下げた。
有藤の隣には、紺のダブルのスーツを来た恰幅のいい年輩の男が立っていた。「宇治田です」と名乗ったので、野田は二人を社長室まで案内した。
大野と宇治田の会談は一時間以上にわたった。社長室から出た宇治田を大野がエレベーターまで案内して行った。野田も立ち上がって大野に従った。
エレベーターのドアが閉まると、大野は野田に言った。
「急な話だが、臨時の経営会議を招集したい」
「えっ? 今日ですから?」
「そうだ、できれば一時間後くらいに」
大野の指示で野田はまず北村の席に行き、経営会議のの招集を告げた。北村はさすがに驚いたようだった。
坂本に伝えると、何事か、という怪訝な表情をした。
経営会議は五時三十分から社長室で開かれた。大野の表情はいつになく厳しかった。
「急に臨時経営会議を開催することにしたのは、役員の意見を集約しなければならない案件が出てきたからだ」
大野が単刀直入に切り出したので、坂本も北村も表情を固くして次の言葉を待った。三人からやや離れた椅子に座って議事録用のノートを広げている野田も大野の顔を見つめた。
「単刀直入に言おう。先ほど NYTビジネススタッフの代表取締役専務の宇治田さんと有藤取締役が私のところに訪ねてこられた。用件はヒューマン・キャリアと合併できないか、ということだった」
坂本が「えーっ」と大声を出した。北村も驚いたように目を見開いた。
「現在国会に提出されている派遣法改正法案には、グループ企業への派遣割合を八割以下に規制するという内容が盛り込まれているよね? 先方が言うには、親会社のNYTとそのグループ企業への派遣が九割以上にのぼるのでどうしてもクリアできないそうだ。そこでわが社に目をつけたと言っている」
「どうしてわが社なんですか?」
坂本が身を乗り出して聞いた。
「わが社はいろんな業種の会社に派遣しているうえ、派遣人数の規模が先方の半分程度なので合併しやすいそうだ。わが社の業績が悪化していることも知っていたな。NYTビジネススタッフはスマートフォンなどの新技術開発向けに派遣需要が堅実なので、合併して管理部門を合理化すれば相乗効果が出ると踏んでいるようだ」
「うちの業績が悪化していることにつけ込んできたとも言えますね」
坂本がつぶやいた。
「まあ、正直そんなところだろうが、打診された以上はこちらも回答しなければならない」
過半数の株式を保有する大野が断れば済む話ではあるが、敢えて経営会議にかけるというのは、大株主の東京まほろば銀行の意向も尊重しなければならないからだ。
「こんな大きな問題は私の一存では判断できません、東京まほろばの担当役員の意向を確認してみます」
北村が絞り出すような声で言った。大野は身を固くしている北村に冷ややかな視線を向けた。
「それはかまわないが、私が過半数の株式を持っていることを忘れないように。私はこの会社と社員にとって最善の方法を選択するだけだ。先方はわが社の企業内容を調査するデューデリデンスをやらせて欲しいといっているので、これは秘密保持契約を交わしたうえで認めようと思う。デューデリデンスの結果、先方が合併の可否を決めるのだろうが、こちらはこちらの判断で結論を出すだけだ」
こう言ってから、大野は「君はどう思う?」と坂本の顔を見た。 坂本は慌てた様子で、すぐには言葉が出てこない。
「いやあ、急な話ですので。わが社の社員と派遣社員にとって一番いい方法であれば……」
「その通りだが、吸収合併されるとなると、私はもちろん退任するが、他の役員もどうなるかわからんのだよ」
「はあ」
坂本は浮かない表情で生返事をした。
「もちろん、今日は結論を出すことはできない。取締役会、株主総会に提案する事項だから、もうすこし議論を深めていこう。野田君、経営会議の議事録にはデューデリデンスを認める件だけは明記しておいてくれ、それから社外取締役の武田さんには私から説明しておく」
大野が話を締めて経営会議は終わった。
坂本も北村も、重いものを背負ったような深刻な表情をして社長室を出た。
野田はこれから忙しくなるであろうことを覚悟した。デューデリデンスとなると、経理・人事・労務の実務責任者である自分が資料を準備したり、あるいは先方の質問に答えたりしなければならないだろう。また、営業の責任者である坂本は派遣関係で対応しなければならなくなる。
大野がNYTビジネススタッフにデューデリデンスの受け入れを伝えてから二、三週後には開始されると見たほうがいい、と野田は判断した。
「野田君、東京まほろば銀行まで一緒に行ってくれ」
大野から指示されたのは経営会議から三日後の午後のことだった。大野は説明しなかったが、話の様子からNYTビジネススタッフに関する件だとは想像できた。
約束は午後三時だったので、大野と野田は二時四十分に会社を出た。一月末の大手町には冷たい風が吹いていて、道行くサラリーマンはコートの襟を立てて背を丸めていた。
東京まほろばの暖房の行き渡ったビルの一階に入って、野田は正直ホッとする心地がした。二人で化粧室に入り、野田は乱れた髪を櫛でなでた。
エレベーターで十階に上り、秘書の案内で応接室で待っていると、角田常務が赤間人事部長と一緒に入ってきた。角田は着席するなり、険しい目で大野を見た。
「御社の北村取締役から報告を受けたんですが、どういう事かと思いましてね、NYTビジネススタッフのデューデリデンスを受けるというのは」
大野は問いただされるのを予想していたのか、あわてる素振りを見せなかった。
「まだ、何も決まったわけではありません、NYTビジネススタッフから話があっただけで。先方は当社との合併を検討したいという意向ですので、デューデリデンスだけは認めようという事です」
「しかし、こんな大事な話、大株主の当行に相談もしないで進めるというのは如何なものですかな。しかもNYTビジネススタッフのメーンバンクはうちのライバル銀行ですよ」
「海のものとも山のものともわからない話なんですから、相談するのは時期尚早ですよ」
「だけど、途中経過でもいいから、報告していただかないと」
「先ほどこの件については北村取締役から報告を受けたとおっしゃいましたが」
大野の指摘に角田は言葉を失った。
「それはそうですが…」
「ご存じのように、わが社は今、創業以来の危機に立たされています。派遣法改正法案の国会審議が宙ぶらりんになっているせいで、派遣社員の雇い止めの動きが改まりません。何しろ当社の大株主でさえ、出資先の派遣会社からの派遣を削減しているくらいですから」
大野が珍しくはっきりわかる皮肉を言うと、角田は露骨に嫌な顔をした。
「そういう状況ですから、わが社は生き残るためのあらゆる選択を排除しないという事をご理解ください」
「それはわかりますが、今後、経営の節目節目には的確な情報をあげてください。こちらもそれに応じて判断しなければなりません。わが社の利益を損なうようであれば株主総会で反対する場合もありうるでしょうから」
角田はやんわりと脅してきた。
「その場合は仕方がないでしょう。いずれにしましても、今まで通り、社業については北村取締役から報告させますから」
そう言って大野は「それじゃ、今日はこれで」と言って立ち上がった。常に相手に心配りをする大野にしては珍しく突き放した対応だった。
帰り道、大野の顔は厳しく、一言も話さなかった。今後、経営の岐路に立たされるかも知れない大野の心中を察して、野田も黙ったまま歩いた。
11
東京まほろば銀行の意向に逆らうような形で、NYTビジネススタッフのデューデリデンスは動き出すことになった。二月上旬の午前、大野は臨時の経営会議を招集した。
「NYTビジネススタッフからデューデリデンスに必要な資料の一覧表が届きました。坂本、北村両取締役が中心になって準備してください」
大野が配布した資料は三枚綴りだった。議事録担当の野田にも配られ、目を通すと、会社の経営にからむ資料の明細が何十項目も記載されていた。調査の目的を秘匿しながら前川や市村にも協力してもらう大変さを思い、野田は身が引き締まった。
「締め切りは二週間後の二月二十五日だ。それまでにそろえて欲しい。その後に、ビジネス、法務、財務の三分野に関して私と役員にインタビューをするという段取りだ」
坂本も北村も、大野の指示を聞き漏らさないように耳を傾けている。
「あ、そうそう、デューデリデンスの件は社外取締役の武田さんにも報告しておいた。我々に任せてくれるそうだ。それとデューデリデンスの件について社内で会話をするときは、企業秘密なので符号をつかうようにしたい。私の一存でM(エム)の件としたい。Mは見合いの頭文字だ」
坂本、北村が意表をつかれた表情をしながらも大野の意図を理解したようだった。
坂本が質問をした。
「ちょっとよろしいですか?」
「ああ、かまわないよ」
「現場からの報告ですが、実は一月、二月と派遣需要が若干上向いてきました。景気回復に伴って、派遣需要の落ち込みが底を打って反転し始めた感じがあるようです」
「そうか、それはいい話だ。派遣法改正法案がいつまでも成立しないから、企業は派遣を利用できるうちは利用しようと思い始めたのかも知れないな。だけど、この一年の派遣需要の落ち込みがあまりにも大きい。とても楽観できる状況じゃないな」
「その通りですが、春に向けて需要が回復していけば泥沼状態からは脱却できる見通しがつきます」
「わかった、朗報だな。業績が回復すればするほどデューデリデンスの結果は良くなるというものだ」
大野の言葉に坂本は黙った。話の流れにそぐわない報告をした坂本は内心ではデューデリデンスに反対しているのではないか、と野田は察した。
自分の席に戻った野田に北村取締役が近づいてきて「社長から指示された資料をそろえる件はよろしく」と念を押した。
野田は経営会議で配られたデューデリデンスに関する資料を机の上に開き、子細に点検した。提出しなければならないのは会社案内、会社組織図、会社設立に関する書類一式、履歴事項全部証明書、株主名簿、定款、取締役会議事録、株主総会招集通知、諸規定などの会社関係の書類から始まって、労働者派遣事業の認可証、監督官庁への各種届け出書類、各種契約書類、従業員の賃金・賞与などに関する資料、紛争関係の有無など合計八十五項目に渡る。この中には営業担当の坂本に引き受けてもらうものもあるが、七、八割は野田の所管である。コピーをとるだけでも大変な作業になるので、野田は一覧表を見ているうちに憂うつになった。
しかも、二週間以内に必ずやりとげなくてはならないのだ。野田は日常の業務は前川や市村に任せて、なるべくこの案件に集中しようと心の中で決めた。
もう一つ懸案があった。秘密裏にデューデリデンスを進めるとなると、社内の会議室を使うわけにはいかない。デューデリデンスにはNYTビジネススタッフ側から会社関係者のほか公認会計士や法律の専門家などが立ち会うだろうから、新たに貸し会議室を借りなければならなかった。
野田は机の引き出しを開け、役に立つかも知れないと保管してあった貸し会議室のパンフレットを取りだした。会社の近くの物件を探していると、うまい具合に会社から三、四分のビルに手頃な物件が見つかった。
野田はその貸し会議室を運営している不動産会社の社名と電話番号を走り書きしたメモをズボンのポケットの中に入れ、会社の外に出た。大通りを数分歩いたところで立ち止まり、携帯で不動産会社に電話をして空いている貸し会議室を下見したい旨を伝えた。
「今から見られないですか、近くにいるんだけど。場所はわかります」
野田が会社名を伝えると、不動産会社の担当者は二十分後に貸し会議室のあるビルの前で待っていると伝えてきた。対応が迅速なのは、それだけ都内の不動産物件が供給過剰なのかも知れなかった。
物件のあるビルの玄関で待っていると、二十代と見られる体格のいい男性が額に汗を浮かべて小走りに野田の方に近づいてきた。不動産会社の営業担当者だったので、挨拶もそこそこに物件を案内してもらうことになった。
五階の貸し会議室は十人程度が仕事をできる手頃な広さがあり、窓からの採光も十分だった。野田は人目で気に入り、二月二十日から一ヶ月間借りる予約をし、場合によっては延長することを申し入れた。貸し会議室は一日単位で借りられることが多いので営業担当者は予想外の長期間の申し込みに満面の笑みを浮かべ、野田の値引き要請にも愛想良く応じてくれた。野田は会社に戻り、NYTビジネススタッフの有藤取締役に連絡した。貸し会議室の賃料はNYTビジネススタッフ側が負担することを了承してくれたので、大野に報告した。
二月二十日から二十四日の間に、野田は手提げ袋にデューデリデンスに関する資料を入れて何回も貸し会議室のあるビルまで運んだ。前川や市村に知られるのを恐れ、朝早く出社して二人がいない時に運んだ。貸し会議室の壁際に並べた二つの長机の上に、資料が山のように積まれた。野田は、リストと用意した資料を突き合わせて、漏れが無いかを入念に点検した。
NYTビジネススタッフは、二十五日から貸し会議室に詰めて作業を始めることになった。同日午前十時にNYTビジネススタッフ側とヒューマン・キャリア側が顔を合わせをすることになった。
当日、開催時刻に合わせて、ヒューマン・キャリアの役員たちは三々五々会社を出た。
野田は十分前に到着して大野たちを待った。坂本、北村に続いて大野が顔を見せた。貸し会議室にはすでにNYTビジネススタッフ側の七人の人員が顔をそろえていて、名刺交換に五分以上を要した。
NYTビジネススタッフ側からは経営企画室長、法務室員、公認会計士、税理士、企業コンサルタントが顔をそろえていた。リーダーとみられる経営企画室長は河野といい、四十代後半と見られたが、他のメンバーは二十代から四十代とヒューマン・キャリアの役員より一回りも二回りも若かった。
「これからしばらくお世話になります」
河野経営企画室長は丁寧に挨拶をした。
「こちらこそお手数をおかけします。当社の値打ちがどれだけあるのか楽しみでもあります」
大野がにこやかに返答した。
「提出していただいた資料をざっと拝見した後、経営陣の方々にインタビューをお願いしたいと考えております。ビジネス、財務、法務の三分野に分けて実施します。日程は三月一日を予定しておりますが、よろしいでしょうか?」
「あらかじめ日程と時刻を決めていただければそれに合わせます」
大野の返事に、河野は「なるべく早く日程を決めてご連絡します」と答えた。
「インタビューの後に、補足して調べていただく事項は結構多いと思います。それについては改めて後日ご連絡致します」
この日の顔合わせは十五分ほどで終わり、大野らヒューマン・キャリアの役員たちは時間差をつけてバラバラに会社に戻った。
(いよいよ始まったのだ)
一番最後に会社に帰った野田は身の引き締まる思いがした。大野社長はデューデリデンスの結果によってこちら側の態度を決めると言ったが、いったん動き出した流れは止められないような気がした。
二日後、大野は役員と野田を社長室に呼び、四枚の用紙を配った。
「三月一日のインタビューの時刻は先方と相談して決めたから、役員はこれに合わせて欲しい」
一枚目の用紙にインタビューの時刻が記載されていて、午後一時からビジネス、二時から財務、三時から法務となっていた。
「ビジネスに関するインタビューは私と坂本取締役が中心になって答えるが、北村取締役と野田総務部長も出席して欲しい。財務に関しては北村取締役と野田部長、法務に関しては坂本、野田部長で対応して欲しい。三枚の用紙にそれぞれの質問項目が書いてあるからあらかじめ答えを準備しておくように」
インタビューは三日後なので準備する時間はそれほど無かったが、提出を要請された資料をそろえた段階で基礎データはまとまっていたので、それほど慌てることもなさそうだった。
三月一日には、大野以下の役員がインタビューを行う貸し会議室に顔をそろえた。大野はインタビュー開始の一時直前に姿を現した。
「お忙しいところお集まりいただきましてありがとうございます。これからデューデリデンスの一環として、経営陣へのインタビューを開始させていただきます」
大野を真ん中にして並んだヒューマン・キャリアの役員を前に、NYTビジネススタッフの河野経営企画室長が幾分緊張した面持ちで切り出した。
「まず最初に、派遣法改正法案が成立した場合の御社の業績への影響を聞かせてください」
大野が軽く頷いて口を開いた。
「これまでの経過を見ますと法案が成立するかどうかは未知数ですが、この法案が国会に提出された時点から大きな影響が出たのは事実です。まず厚労省の業界への指導が厳格になりました。さらに、企業が派遣社員よりも直接雇用を重視するようになりました。この結果、派遣需要が急減して業績に悪影響を及ぼしています」
「三月下旬には株主総会がありますが、今期の業績の見通しはいかがですか?」
「賞与などの人件費を中心に経費を大幅に削減した結果、今期は何とか収支トントンに収まる見通しです」
「来年度についてはどうでしょう?」
「経費削減を徹底して何とか黒字を確保できる予算にしております。請負事業の受注拡大などで何とか活路を見出そうと努力しているところです」
ビジネスに関する質問は、基本的に経営者としての大野の考え方を引き出そうとしているように思えた。大野もその意図を十分わきまえて簡潔に答えた。
「現在、会社で抱えている法律上のトラブルはありますか?」
「当社は派遣社員とのトラブルが比較的少ないほうです。久しぶりに派遣社員との間で問題が起きましたが、それも解決しました」
「どのようなトラブルでしたか?」
「五年を超えて5号業務で契約していた派遣社員から、実際の仕事の内容は自由化業務に相当するので派遣先で直接雇用をして欲しいという要求が出されました。その派遣社員は合同労組に加盟しましたので、その労組と交渉を続けてきました。その後の話し合いの結果、当該派遣社員をわが社の契約社員として雇うということで解決しております」
「そうですか、解決したんですか?」
河野が意外だという表情をした。会社の前で派手な抗議行動が頻繁に行われていただけにヒューマン・キャリアと派遣社員とのトラブルの情報は得ていたようだが、解決したことまでは知らなかったようだ。
「はい、円満に決着しました」
「わかりました。それでは御社の派遣料金についての質問です。派遣料金に関しては何か基準がありますか? 例えば料金表を作成しているとか」
「これについては、坂本取締役に答えさせます」
大野の言葉に、坂本が小さく咳払いをし、姿勢を正して話し始めた。
「はい、料金表はあります。ただし、派遣料金は競合する他社との見合いになります。派遣依頼があった段階で、その業界の世間相場や競合他社の動向などを勘案しながら金額を提案しております」
このあとも幾つかの質問があったが、大野は質問の趣旨に沿って的確に回答した。
「最後の質問ですが」と河野が言った。
「仮に、弊社と合併することになった場合、役員や従業員の継承について何かご意向がありますか?」
「その質問はまだ早いと思いますが、これだけは言っておきましょう。社内で処遇して欲しい社員は何人かいます。これについては交渉がまとまるような場合は書面で提出しますから」
河野は苦笑しながら「わかりました」と答えた。
ビジネスに関する総括的なインタビューは五十分ほどで終了した。
大野と坂本が会議室から退出し、二時からの財務のインタビューに備えて、北村と野田が残った。野田はトイレに行ってから席に戻った。
定刻になり、河野が「それでは財務のインタビューに移ります」と言った。
「最初にまず、会計監査の実施状況についてお伺いします」
「実務は野田部長に任せているので、野田から答えさせます」
北村からは、インタビューには野田が回答するように指示されていた。野田は事前に用意したメモを見ながら答えた。
「わが社は規模の小さい会社でありますが、六年前から監査法人からの任意監査を毎年受けております、すでに直近三カ年の監査法人の報告書は提出していますが、これまで特段問題があるとの指摘を受けておりません」
「御社の税務に税理士は関与しておりますか?」
「いえ、おりません。すべて自社で対応しております」
「御社に連結対象の子会社はありますか?」
「ありません」
「他社の債務保証をしている事実、あるいは御社の債務を他社が保障している事実はありますか?」
「ありません」
「簿外債務も無いですね?」
「はい」
「過去に事業譲渡や合併などの組織再編をしたことはありますか?」
「ありません」
「この一年間で株主構成が異動した事実はありますか?」
「ありません」
「有給休暇引当金の検討など国際会計基準のIFRSに対応した準備は進めていますか?」
「いえ、当社は小さい会社ですし、IFRSの基準が確定してから対応しても遅くないと考えております」
財務や会計に関するデータは事前に提出しているので、河野の質問は未確定の部分に関して言質をとっておこうという意図が感じられた。その後も幾つか質問があったが、特に大きな問題になるようなものは無かった。財務に関するインタビューもやはり五十分程度で終了した。
三時からの法務のインタビューに備えて、野田はそのまま残った。北村は「ご苦労さんですが、よろしく」と野田に声を掛けて引き上げていった。今日のインタビューの内容もただち東京まほろばに伝わるのだろう、と野田は思った。
三時直前に坂本が姿を現し、野田に目配せして席に着いた。
「それでは、法務に関するインタビューに移らせていただきます。野田さん、お疲れでしょうが、よろしくお願いします」
河野という男はなかなか心配りのできる人物のようだった。
「法務に関しては、まず政令二十六業務を適正に行っているかの社内基準があるかをお聞きします」
「社内基準というものはありませんが、法律の趣旨を尊重して実施しているほか、最も多い5号業務に関してはスキル適合基準を設けて適用しています。日本派遣協会の指導もありますし、業界の勉強会にも積極的に参加しております」
坂本がよどみなく答えた。
「同様に自由化業務を適用するかどうかの社内基準はありますか?」
「自由化業務を適用している派遣社員は多くはないので社内基準はありませんが、日本派遣協会のガイドラインを参考にしています。ただ、今春に5号業務を点検しまして自由化業務に切り替えたケースはあります」
「東京労働局の調査があったとか?」
やはり知っていたか、という表情をしながらも坂本は落ち着いていた。
「はい、行政側は大手だけでなく、5号業務の多い中小の派遣会社についても派遣適正化プランの対象にしたようです。わが社もそれに該当しまして、5号業務を見直したわけです」
「業界では、派遣先企業が派遣社員を事前に面接をするのが当たり前になっているようですね? 事前面接は法律では禁止されているはずですが」
坂本はどう答えようかと、一瞬考えるように小首をかしげた。
「あの、蛇の道はへび、とでも申しましょうか、確かに、法律では禁止されてはいますが、派遣先企業がめがねにかなった人材を受け入れたいと思うのは当然です。業界では面接ではなく、職場訪問、職場見学という形で慣行として派遣先企業の職場を訪問することはあります」
「その際は派遣先企業を見学するだけではなく、質問されたりするわけですね?」
「そういうケースもあります。ただ、コンプライアンス上の問題から実施しない企業が増えているのも事実です」
「そうですか、業界の慣行ですか、IT技術者の派遣では事前面接は必要ないのですがね」
河野はそう言ってから、話題を変えた。
「御社はいわゆる請負事業もやっておりますが、偽装請負の恐れはないですね? 請負先企業の指揮命令に従うという、派遣と変わらないやり方をするというような」
「はい、製造業派遣でさんざん問題になりましたから、当社も注意しております。現在、出版社での請負事業を手掛けておりますが、きちんと請負先の出版社に当社の社員の指揮命令者を置いています」
「わかりました、それでは御社が抱える訴訟案件、係争案件がないかお聞かせください」
「裁判になっている案件はございません。係争案件も解決しましたので、現在は派遣社員とのトラブルはありません」
「解決したというのは、神田の建設会社の案件ですね」
「はい、先ほど大野が申し上げたように、係争を起こした派遣社員を請負事業の契約社員として採用するという事で折り合いがつきました」
坂本に替わって野田が答えた。
「現実的な対応だったようですね」
河野が野田に笑顔を向けた。
「法務に関するインタビューはだいたいこんなものです。失礼ですが、他に隠しているようなトラブルはありませんね?」
「ありません」
坂本と野田が同時に返答した。
インタビューは四十分ほどで終わり、河野が最後に言った。
「ビジネス、財務、法務のインタビューはこれで終了しますが、事前に提出していただいた資料も含めて疑問がある点はその都度改めて連絡しますので、回答をよろしくお願い致します」
インタビューする側も回答する側も一気に気が緩んだのか、その場の空気がなごやかになった。
長時間のインタビューすべてに関わったからか、野田は身体が固まったような疲労感を覚えた。
「野田ちゃん、ちょっと休んでいこうか」
坂本が喫茶店でコーヒーでも飲もうというので付き合うことにした。
河野たちに挨拶をしてから貸し会議室のあるビルを出て、近くの全国チェーンの喫茶店に入った。坂本と野田がそれぞれ注文したコーヒーを運んで、二人掛けのテーブルで向かい合っても、坂本はどことなく元気がないように見えた。
「野田ちゃん、社長は、最終的に態度を決めるのはこちらだと言ったけど、デューデリデンスでこうまでぎりぎり問い詰められると、本当に相手に飲み込まれちゃうような気がしちゃうよね」
「まあ、あれだけの陣容でこられると、まな板の上の鯉、みたいな心境になるのは事実だな」
「ほんとにどうなることやら」
コーヒーを一口飲んでから、坂本はつぶやいた。
12
三月十一日の金曜日は晴れた穏やかな日だった。野田は午前中にデューデリデンスに必要な補足資料の準備をして過ごし、東京駅八重洲口まで一人で行って遅い昼食をとってから午後一時に会社に戻った。
午後の始めのゆったりとした時間の流れの中で、パソコンで文章を作成していると、突然、身体が大きく揺れた。あまりの衝撃で何事かと思った。社内のあちこちから大きな悲鳴が上がった。前を見ると、室内全体が大きく左右に揺れ、机の上の物がはじき飛ばされて床の上に散乱するのが見えた。北村取締役と前川、市村が必死に机にしがみついている。
大きな揺れが収まらないので、窓を背にした野田は、窓ガラスが割れて屋外に振り落とされるのではないか、という恐怖感に襲われた。野田は部屋の中央に移動しようと立ち上がった。足下が定まらず、立っていられなかった。野田は、はいずりながら部屋の中央までにじり寄って行った。市村が立ち上がって、壁一面に配置してある書類棚が倒れないように手で支えているのが目に入った。
地震は一度収まったかのように感じたが、すぐに大きな揺れがやってきて長く続いた。床が大きくうねり、野田はめまいに襲われた。野田は近くの机にしがみついた。
揺れが落ち着いたので、野田は立ち上がり、社長室に行った。大野は机の向こうの椅子に端然と座っていた。
「社長、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ、すぐに社員の安否確認をしてくれ」
「わかりました」
野田は社長室を出る前に、壁際のテレビのスイッチを入れた。
《ただいま地震警報が発令されました、震源地は東北地方の三陸沖です》
テレビのアナウンサーが冷静さを保とうとしながら緊急放送を繰り返していた。
野田は営業のフロアに行き、坂本の姿を探した。坂本は自分の席に前に立って大きな声を張り上げていた。
「皆、急いで営業部員の安否確認をやってくれ」
野田が近づくと、真剣な目で言った。
「野田ちゃん、すごい地震だったなあ、こりゃ大変だよ。とりあえず営業部員の安否確認に全力を挙げるから」
「よろしく頼む」
何をやるべきかを坂本はわかっていたので、野田は総務のフロアに戻った。前川、市村が床に散らばった書類や本などの後かたづけをしていた。
「今日はもう帰っていいから」
前川が、不安な表情の障害者のアルバイトに帰宅を促している。
テレビの情報を確認するため、野田は社長室に入った。
《午後二時四十六分、東北、関東地方で大きな地震がありました。震源地は東北の太平洋側三陸沖です、この地震で大津波が予想されています。仙台周辺には十メートルの津波の襲来が予想されています》
十メートルの津波?
間違いじゃないか、と思ってテレビの画面を見入ると、津波の映像が目に飛び込んできた。
《津波が仙台空港に押し寄せています、真っ黒な波が空港を飲み込もうとしています》
アナウンサーの悲鳴に似た実況中継の声が響き渡った。
テレビの中で黒い波が空港に押し寄せるの見て、野田は(嘘だろう)と思った。つい先ほど体感した大きな揺れが蘇り、(これは現実なんだ)と思った瞬間、身体が震え出した。
「野田君、社員の安否確認をした後で、役員が集まろう」
机に座ったまま大野が指示した。
野田は自分の机に戻り、社員名簿を取り出した。一人一人安否を確認するためだ。まず大野社長と北村取締役、坂本取締役、前川、市村の名前の前に丸印をつけた。坂本のところに行き、社内にいる社員と外出して連絡のとれた社員の確認をした。
無事にいる社員たちをチェックした後、どうしても連絡のとれない社員が十人ほど残ったので、同じ部署の社員たちに絶えず携帯に連絡をとってもらうようにした。
夕方の四時近くになってようやく社員全員の安全を確認できた。窓の外を見ると、大勢の人々が歩道を移動していた。交通機関が麻痺してしまったので、徒歩で目的地に行こうとしているのだ。
大野が社員全員を四時半に営業のフロアに集めるように指示してきたので、野田はメールで社内に連絡するとともに、念のため坂本に伝えて営業部員に徹底してもらった。
四時半に大野が営業フロアに足を運び、不安そうに立ち並ぶ社員を前に訓辞をした。
「皆さんが無事で何よりでした。本日はこれで仕事を終え、帰宅できる者は帰宅してください。余震によってビルの窓ガラスが落ちてくる可能性がありますので、注意を怠らないようにしてください。帰宅が無理な社員は会社に泊まりましょう。明日は、出社が困難な人は自宅に待機していてもかまいません。以上です」
大野の言葉が終わると、社員の多くは帰り支度を始めた。ふじみ野市に自宅のある野田は、歩いて帰るのは無理と判断して最初から会社に泊まる覚悟を決めた。
会社の倉庫に行き、非常時の食料品と毛布を確認すると、十人分の在庫があった。備蓄していたカップヌードルだけでは味気ないと思い、近くのコンビニに行ったが、弁当やお握り、パン類はほとんどが売り切れていて、スナック菓子しか入手できなかった。総務担当でありながら、日頃の準備を怠っていた自分を恥じた。
会社に戻る途中の歩道には、帰宅する人々が群れをなして歩いていた。リュックを背負い、ヘルメットを被っている人も意外に多く目についた。友人と談笑しながら歩いている人もいたが、多くは帰路の困難さを思ってか、厳しい顔をしながら黙々と前に進んでいた。
会社に戻ると、居残っている社員は五、六人だけだった。社長の大野も会社に泊まるということだった。野田は倉庫から毛布と食料品を営業のフロアに運び込み、居残る社員に自由に使うように伝えた。コンビニで買ったスナック菓子も一緒に置いた。
自分の席に戻ると、ズボンの右ポケットに入れた携帯電話が振動した。妻の康子から安否を問うメールが届いたので、無事であることと会社に泊まる旨を返信した。
夜になり、テレビに各地の地震の被害が映し出された。大津波が港の堤防を乗り越え、町を破壊する映像に声を失った。町全体が火災を起こしている映像もあった。災害現場の画面に人は映っていないが、多くの人命が失われていることが容易に想像できた。
東京電力の福島原発が津波に襲われたことは、被害がわからない中でもいやが上にも不安を増幅させた。
窓から外を見ると、ひっきりなしに人の群れが移動していて、大勢の歩く音が会社の中まで伝わってきた。
午後十時頃に社内を見回ると、会議室には女性社員二人が毛布にくるまっていた。営業フロアには男性社員三人が座って何やら話していた。社長室の横長のソファーには大野が横になっていた。野田は自分の机のそばに新聞紙を敷き、その上に身を横たえて毛布を被った。まどろんでいると、時折余震に脅かされた。夜が更けるにつれて寒さが身体にこたえた。
遠くの方で列車の汽笛のような音が聞こえ、目を覚ますと明け方だった。野田はゆっくりと身を起こした。寝不足のはずなのに、目が冴えていた。窓から外を見ると、すでに人の群れは見当たらず、静かだった。
社長室をのぞくと、大野が音を消してテレビを見ていた。首都圏の交通機関が動き始めた様子が映し出されていた。
「野田君、帰れる人は帰ったほうがいいな。君ももういいぞ、私も帰る」
三月十二日は土曜日だったので、会社に来る必要はなかった。午前六時を過ぎると、会社に泊まった社員たちが野田のもとにやってきて帰宅する旨を告げて引き上げていった。
「それじゃ、月曜日にまた」
大野が野田に一言告げて帰宅した。
野田は念のため、社内を巡回して地震の被害状況を点検した。階段の壁や会議室などに何カ所かひび割れがあったが、トイレや洗い場などの水回りも含めて、業務に支障の出るような被害は見当たらず、一安心だった。
地下鉄丸の内線に乗ると、ネクタイを緩めた背広姿の男が何人か座席に持たれて目をつぶっていた。野田と同様、昨晩は帰宅できなくてこれから家に帰るのだろう。座って車内の温かい空気に包まれているうちに睡魔に襲われ、野田はまどろんだ。
車内アナウンスで目覚めると、池袋に着いていた。東武東上線に乗り換えると、やはりどこかで一夜を過ごしたであろう帰宅難民者で混んでいた。ようやく空いた座席を見つけて座り、目をつぶった。身体の奥まで重い疲労が残っていた。
目を覚ますと、上福岡駅だった。駅から歩いて自宅にたどり着いた。
玄関を開けると、妻の康子が廊下を小走りでやってきた。
「お帰りなさい、お疲れ様でした」
「こちらも揺れたか?」
「大変だったわ、立っていられなくて」
野田は家の中に入り、背広を脱いで普段着に着替えた。
「麻里子はどうした?」
背広をハンガーにかけている康子がこちらを見た。
「地震の時は一緒に家にいたの、良かったわ。今は部屋にいると思う」
「倒れたものはないか、タンスとか」
「食器が幾つか崩れたけど、片付けましたから」
これまで経験したことのない大地震に遭遇してみて、今年は大変な年になるような気がした。
週が開けた十四日は第二週の月曜日で、午前十時から取締役会が開かれる予定だった。野田はいつもより三十分早く家を出て九時前に会社に着いた。取締役会の準備があるうえ、東日本大震災の影響で何か不測の事態が起きていないか不安だったからだ。
営業フロアには、坂本と二人ほど社員の姿を見掛けた。野田は坂本の席に近寄り「お早う」と声を掛けた。坂本も「お、野田ちゃん、お早う」と返してきた。
「まだ、交通機関が完全には復旧していないから、今日出社できない社員と派遣社員は有給休暇消化の扱いにしてくれない?」
「わかった」
交通が麻痺して出社できない場合は有給休暇の扱いにするように大野から指示を受けていた。
総務のフロアに来ると、誰も出社していなかった。野田が自分の席に着くと間もなく、前川が出社した。朝の挨拶もそこそこに野田は、先ほど坂本に伝えた内容を前川にも指示した。
十時少し前、「お早う」と総務のフロアに声を掛けて大野が社長室に入った。十分ほどしてから大野は社長室から顔を出し、「野田君、ちょっと」と手招きした。
「取締役会は十一時からにずらそう、社員の出社状況の把握に時間がかかるだろうから。坂本、北村両取締役に伝えて」
野田はすぐにその旨を二人に伝達した。
十一時になり、役員が社長室に集まった。未曾有の自然災害が起きたせいか、大野以下の役員の顔が引き締まっている。
「本日の取締役会の議案は今年度の賃金についてだが、その前に東北の大地震に関して確認しておきたい。本日の社員と派遣社員の出社状況はどうなっていますか?」
「営業本部の社員は二人が休み、三人が定時より遅れての出社となります、派遣社員についてはまだ確認できない者もおりますが、十名ほどが休みとの連絡が入っております」
坂本がメモを見ながら答えた。
「派遣社員については、本日中に実態を把握しておくようにしてください。総務はどうですか、北村取締役」
「はい、社員、アルバイトとも全員が出社しております」
「都内の交通機関の混乱はそれほど長くかからないで収束しそうですね。ただし、今回の大震災は未曾有の被害をもたらすだけでなく、これによって間違いなく景気が悪化するでしょう。景気が悪くなれば派遣需要も相当落ち込むことを覚悟した方がいいと思います。坂本取締役は営業の数字の変化に注目しておいてください。といっても、三月二十八日の株主総会は予定通り実施します」
株主総会は総務が担当しているので、北村が「はい」と答えた。株主総会に出席する外部の株主は東京まほろば銀行しかいない。
「それからMの件ですが、デューデリデンスの続きは株主総会の後に延期するという連絡が先ほど入りました。まずは大震災への対応に全力を挙げてください」
震災にからむ案件について話を済ませると、大野は一呼吸を置いて続けた。
「それでは本日の取締役会の決議事項であります本年度の賃金について審議します。北村取締役から提案してください」
大野の指名により、北村が資料に目を落としながら議案の説明を始めた。
「派遣需要の低迷による業績悪化で本年度は賃上げを実施しないことといたします。当社には定期昇給制度がありませんので、社員は昨年と同一賃金になります」
もちろん、この議案は大野の意向を汲んでの事で取締役には事前に知らされていた。
「北村取締役の提案にご異議ございませんか?」
当然、坂本も反対の意志を示さない。
「出席取締役全員が異議なしと認め、本議案は可決承認されました」
型どおりに取締役会が終了した後、野田は大野に呼び止められた。
「野田君、Mの件は取締役会の議事録に一切記録する必要はありません」
野田自身、デューデリデンスを延期する件は議事録に残すべきか迷っていたので、大野の指示に違和感は無かった。この件は、決定した時点から記録に残しておけばいいと考えていた。
例年、その年度の賃金に関する社員への説明会は三月末の株主総会の直後に行われるが、賃金を据え置く異例の事態なので、大野の指示により取締役会が開催された翌日の十五日の夕方五時三十分からに行うことになった。賃金据え置きは初めての事態なので、社員の反発を予想し、なるべく早めに説明しておこうと大野が判断したのだ。
説明会の当日、開催時刻の直前にいつものように市村に資料を会議室に運んでもらった。
野田は五分前に会議室に入り、社員が集まるのを待った。会議室の前方には、大野社長と北村取締役が座る長椅子が置いてある。
会議室に集まってきた社員たちは、出入口近くの長椅子の上に置いた資料を手にして一読すると、顔を曇らせたり、苦笑いを浮かべたりした。その様子を見ていると、野田は罪悪感にとらわれるような気がした。
定刻直前に大野と北村が入室して、社員と向き合う形で前方の長椅子に着席した。
「定刻となりましたので、これから二○一一年度の賃金に関する説明会を開催致します。北村取締役からの説明に続いて、社長からお話をいただきます」
野田はいつものように前方で立ったまま司会をした。北村は小さく咳払いをした後、ごく短く説明した。
「昨今の派遣需要の減少による業績の悪化に伴い、二○一一年度の賃金は据え置きとします」
社員は静かに聞いているが、皆が気持ちを押し殺しているかのような雰囲気だ。
続いて、大野が口を開いた。
「賞与に続いて、皆さんの生活を支える賃金に関してもこのような決断を下さなければならなかったことについては深くお詫びします。皆さんの頑張りで業績を回復させ、一日でも早く賃金と賞与で報いるようにしたいと思っております」
賞与の時と異なり、大野の説明は簡潔だった。
「それでは、意見のある方はどうぞ」
野田が社員に促すと、後方の席にいた労働者代表の二宮が手を挙げて立ち上がった。
「一言だけ言わせてください。賃上げが無いというのはわが社では初めてのことです。しかも、わが社の賃金制度には定昇がありませんから、本当に昨年度と同じ賃金に据え置かれます。社員は真面目に働けば報いられることに喜びを感じるからこそ一生懸命自分の職責を果たすわけです。今回の賃金据え置きには納得はしませんが、東日本大震災で犠牲になられた多くの方々を思い、我々はまだ恵まれていると思えばこそ敢えて受諾しようと思います」
こう述べて二宮は座った。二宮に敬意を表してか、大野が軽く頭を下げた。
他の社員からは意見が出なかったので、野田は説明会を終了させた。
自分の席に戻った野田は、株主総会の召集通知の文案をパソコン画面に取り出した。ヒューマン・キャリアは非公開会社で一週間前までに通知すればいいので、翌日に発送しても十分間に合った。事前に大野や北村にチェックしてもらっているので、プリンターで三通印刷し、株主である大野、東京まほろば銀行の頭取、労働者代表の二宮の宛名を筆ペンで書いた。東京まほろば宛ての封書を社内の郵便物投函の箱に入れてから、大野と二宮に手渡した。株主は三者しかいないので、株主への案内は楽だった。
ヒューマン・キャリアの資本金は一億円、発行株式数は普通株式二千株、額面は一株五万円である。出資比率は創業者の大野が五五%、主力銀行の東京まほろばが三四㌫、社員持株会が一一%となっている。
招集通知の議案の中では、大野の主張で利益剰余金による配当はなく、無配としている。大株主の東京まほろばが反対しても大野が株式の過半を所有しているので承認される見通しであるが、それでも大野と東京まほろばの間で遺恨が残るのは避けられないだろう。
問題はその後の展開だ。NYTビジネススタッフがデューデリデンスの結果、ヒューマン・キャリアに吸収合併を申し込んできた場合、ヒューマン・キャリアがそれを受け入れるとすれば臨時株主総会を開催して特別決議が必要となる。特別決議は出席株主の議決権の三分の二以上に当たる多数で決議しなければならない。東京まほろばが反対すれば否決されるのである。今回の株主総会の議案にはないが、今後の火種として残る。
株主総会までの間に、野田は総会に提出する事業報告と計算書類の作成、点検に忙殺された。公認会計士の監査報告などもそろえ、総会への準備に不備がないか神経を使った。総会進行のシナリオも作成しなければならず、毎年の行事ではあるが、非公開の会社でも準備はそれなりに大変だった。野田は総会の準備に追われる一方、貸し会議室に行って、東日本大震災で散乱した資料の後片づけもした。
三十日の株主総会がやってきた。会場は東京駅に近いホテルの会議室である。野田は株主総会開始時刻の一時間前の十時に会場に行った。
議長席と株主の席の配置を確認し、資料を机の上に置いた。
十時三十分には大野と北村、坂本の三人の役員が姿を現した。
「ご苦労さん、予定通りだね?」
大野が野田に声を掛けたので野田は「はい」と答えた。三人は別室の控え室に入った。間もなく、社外取締役の武田も顔を見せた。
社員持株会代表の二宮が会場に現れ、野田に黙礼すると、机の前にある株主名を書いたプレートを確認してから着席した。資料をめくりながらも、落ち着かない様子である。
定刻の五分前に、東京まほろば銀行の角田常務が人事部長の赤間を伴って会場にやってきた。
「どこに座ればいいのかな?」
角田が問いかけてきたので、野田は二宮の隣の机に案内した。赤間は株主席の後方に並べた椅子の一つに腰を下ろした。
議長役の大野が入場してきて、議長席に着いた。
老眼鏡を掛けた後、腕時計に目を落とした大野が顔を上げた。
「定刻になりましたので、定時株主総会を開催いたします、本日は株主三人、発行株式数二千株全株の株主が出席しておりますので、本株主総会は適法に成立しております」
大野がよどみなく議事を進行させる。
「続いて、事業報告をいたします。当社の二○一○年十二月期の業績は、リーマン・ショック後の国内の景気回復の遅れに加え、派遣法改正の影響による需要減退により減収減益を余儀なくされました。売上高は前年同期比五・一%減の三十六億二千八百万円、、経常利益は百五十万円とかろうじて黒字を確保しました……」
事業報告に続いて、決議事項の第一号議案として「剰余金処分の件」が提案された。大野が提案内容と理由を説明した。
「当期の決算でご報告しましたように当期の経常利益はわずか百五十万円であり、これから法人税等を差し引いた税引き後純利益は百万円を切っております。従いまして、株主への配当を見送りたいと存じます。本日の株主総会には株主として東京まほろば銀行様とヒューマン・キャリア社員持株会様が出席されおりますので、無配にする理由を申し上げます」
大野が間を置いてから、角田と二宮に視線をやった。
「当社は厚労省から許認可を得て人材派遣業を営んでいる会社であります。経営悪化にもかかわらず不自然な配当政策を実施すれば、厚労省からの監視、指導が厳しくなり、自由な営業活動がやりにくくなる恐れがあります。また、夏冬の賞与を大幅に削減するなど 社員には最大の負担を受け入れていただきました。役員報酬の削減は当然実施しておりますし、役員賞与も当然見送ります。何とぞ、業況の悪化を踏まえての措置ですので、株主様にはご理解を賜りたいと存じます」
大野が説明を終えると、「異議あり」と角田が挙手した。
大野が「どうぞ」と発言を促した。
「配当見送りの件は大株主であり、主力銀行である東京まほろば銀行としましては受け入れがたいことです。一般に企業は業績が悪化しても配当を実施することは可能であり、そうしている企業は珍しくありません。繰越利益剰余金を取り崩せば済む話であります。そうではありませんか?」
大野が頷いてマイクを握った。
「確かにおっしゃる通りです。当社は創業以来赤字に陥ったことはなく、それなりの繰越利益剰余金はあります。しかし、業績が急速に悪化している中で、配当できる余裕はないという判断をしております」
「しかし、結果的に黒字決算でありながら株主に報いることをしないというのは、あまりにも行き過ぎた経営判断であると思いますが、いかがですか?」
「それは解釈の違いというものであります。先行きの業績悪化に備えるという事もひとつの経営判断だと思います」
「議長、今回無配にしたというのは、業績とは異なる要因があるのではありませんか?」
「どういう事でしょう?」
「ヒューマン・キャリアはある企業との間で合併の交渉をしていると聞いております。この交渉を有利に進めるためには赤字決算にはしたくないという判断が働いたのではないですか?」
株主総会の場で持ち出す話ではない、と野田は感じた。それだけ東京まほろばは大野社長の経営に疑心暗鬼を抱いてるのかも知れなかった。角田の発言を聞いた二宮が関心を示し、角田の方を振り向いた。
「企業はいつでも他社と協力関係を築くことに関心を払っておりますが、東京まほろば様が指摘する案件は実現するかどうかわからない話です。そのために無配にするということはあり得ません」
大野は淡々と説明したが、角田の指摘は案外当たっているのかも知れないと野田は思った。
「配当の件は議決権の過半数で決することができますが、もし合併というような話が出てくれば株主総会の特別決議が必要で、議決権の三分の二以上の賛成を得られなければ可決できない。当社は三四㌫の議決権をを保有する大株主として拒否権を発動してでも阻止することをあらかじめ伝えておきます」
「株主様の貴重なご意見ありがとうございました。それでは採決に移ります、第一号議案に賛成の方は挙手を願います」
二宮が右手を挙げた。角田が苦虫を噛みしめたように渋面を作った。
「社員持株会様が賛成しましたので、私の保有分と合わせて発行株式の六六㌫が賛成となりますので、第一号議案は可決承認されました」
角田が立ち上がり、後ろの席を振り返った。赤間も慌てて椅子から身を起こした。会場を去る角田の後を赤間が小走りで追っていった。
大株主の東京まほろば銀行の代表が不在のまま、大野は議事を進行させた。第二号議案では社外取締役一人を含む現行の取締役四人の再任が承認された。第三号議案では役員賞与の支給を見送る事が承認された。
総会終了後、真剣な表情をした二宮が野田の所にやってきた。
「野田さん、総会で東京まほろばが話していた件、労働者代表として重大な関心を持っていますよ。社員の身の振り方に関わってくることですから」
「まだ何も決まっていません、海のものとも山のものともわからない話ですから」
「だけど、そういう動きがあるのは事実のようですから」
「進展があれば、大野社長から皆さんに話があるはずです」
二宮は営業を担当しながら労働者代表を務めなければならない役回りは大変だな、と野田はまだ若い二宮に同情した。
株主総会が終わり、世の中では新年度が始まった。四月の第一週の月曜日には毎月恒例の営業会議が開かれた。東日本大震災が発生してから初めて営業部員からの現場の生の声が聞かれるだけに、今後のヒューマン・キャリアの業績を占う上で重要な会議だった。
いつもより気合いが入っているのか、会議室では進行役の坂本が上気した顔で会議の始まる午前十時を待っている。顧客との電話が長引いたりしたのか、直前に駆け込んでくる部員もいる。
坂本が会議室の壁にかかった時計に目をやって時刻を確認してから会議の始まりを告げた。
「昨年の今頃は派遣法改正法案の国会提出で派遣業界は大変だったが、今年は東日本大震災という未曾有の大災害に見舞われ、またしても前途多難の新年度入りとなりました。しかし、営業を続けて顧客を開拓しなければ当社は成り立っていきません。ここは何とか歯を食いしばって全社一丸となって頑張らなければなりません。まず皆さんから震災後の顧客の動向を聞いた上で今後の対策を述べてもらいます。それではまず、金融担当の二宮君からどうぞ」
坂本の指名を受けて、二宮が報告を始めた。
「金融業界はすでに昨年春から派遣社員の受け入れを手控えております。契約社員など直接雇用への移行は今も続いて下ります。そのうえ、今回の大震災の影響が早くも出始めております。金融機関は景気の一段の悪化を予想してこれまで以上に派遣社員を整理し始めており、直接雇用も手控え始めました」
「具体的な例では?」
「はい、私の担当する東京まほろば銀行は大震災以降は派遣社員から契約社員への切り替えも中止しました。昨年春時点四十人ほどいた私どもからの派遣社員はすでに十人に減っていますが、この十人については雇い止めの後に正社員が派遣社員の仕事を受け持つという方針を打ち出したようです」
社員たちの驚いた気配が会議室内に広がった。大株主の東京まほろばは派遣社員の削減だけでなく、契約社員の採用も抑制する方針に転換したのである。
「わかった、そのほかの銀行はどうだ?」
「東京まほろば以外に当社が派遣しているのは一行当たりせいぜい五、六人ですが、それも漸減していく見込みです」
「そうか、金融機関は全滅状態だな。ほかに顕著な動きのある業界はあるか?」
若手の女子の営業部員が挙手をして発言した。
「私は、大学や研究機関などの団体を受け持っています。文科省の管轄にあるのでコンプライアンスには敏感で、派遣を見直そうという動きは依然として続いています。優秀な人材を採用したいという考えから紹介予定派遣への切り替えが目立っていますが、やはり契約社員としての直接雇用です。正社員として採用する動きは皆無に近い状況です」
「紹介予定派遣は直接雇用される段階で紹介料が入ってくるが、その後は何の収入も無くなるからなあ」
坂本が独り言のようにつぶやいた。
「どこか需要が盛り上がっている業界は無いのかね、元気の出るような話が」
坂本が明るい話を引き出そうとしても、営業部員たちは押し黙ったままだ。
「環境が一段と厳しくなったのはわかった。一、二月は派遣需要が底を打って一時上向きかけたと思ったが、三月の大震災によって一気に冷え込んだようだな。とにかく今はいくら営業をしても難しいかも知れないが、各自の担当業界の動きはきめ細かく把握しておいて欲しい」
坂本は営業部員への心構えを示した後、「社長、一言お願いします」と大野の方を振り向いた。
大野は営業部員たちの顔を見回した。
「皆さんの現場からの報告を聞いておりますと、今年は再生を期しておりましたが、そんな甘いものではないと改めて認識しております。大震災によって景気は急速に悪化しており、今後、派遣需要は確実に減退していくはずです。我々はそれにどう対処していくか、乗り切る事ができるのか、まさに今年が正念場の年になります。大震災が予測不可能だったように、我が社の経営もどう変化していくか私にもわかりません。お互い地に足をつけて仕事に取り組んでいくしか打開策は無いと肝に銘じてください」
大野の言葉には楽観的なニュアンスは一切無く、いつもより厳しいように野田には思えた。
正午過ぎに営業会議は終了し、野田は自分の席に戻った。株主総会の準備による疲れがまだ身体から抜き切れていないような気がした。
右手で左肩をもんでいると、同じフロアにいる北村が電話の受話器を握ったままうろたえた声を挙げた。
「そうはおっしゃいましても、まだ決まったわけではありませんから」
電話を置くと、北村は「野田君ちょっと来てくれ」と手で合図をした。北村は席を離れて社長室のドアをノックした。野田は北村の後に続いた。
「社長、入ってよろしいですか?」
北村のあわてた様子に、大野がいぶかしげな視線を投げかけ、応接用の椅子に座ることを勧めた。
「今、東京まほろばの角田常務から電話が入りまして」
大野が厳しい視線を北村に向けた。
「角田常務は、NYTビジネススタッフとの合併話を本気で進めるようでしたら、当社に融資している一億円を一括返済してもらうと言っています」
「理由は何と言っている?」
「大株主の意向を無視して無配にするのもけしからんが、ライバル銀行が主力銀行である会社の傘下に入るのだけは何が何でも阻止すると言っておりました」
大野は腕を組み、野田の顔を見た。
「野田君、うちには今どのくらいの現預金があるんだっけ?」
「確か二億円強ほどあるはずです、ただし、派遣社員への給料への支払いにも充てており、一括返済したら運転資金が足りなくなる恐れがあります。不足分について他行からの融資を受けなければなりません」
「そうか、他行から融資を受けることはできるかな?」
「わかりません、今のうちの業績では銀行も慎重になるでしょうから」
「NYTビジネススタッフとの合併話がどうなるかはわからんが、東京まほろばの意向だからといってすでに開始したデューデリデンスを中止するわけにはいかんな」
大野は腕を組んだまま天井を見上げ、北村に視線を移した。
「北村取締役、角田常務に伝えてくれ。当社は生き残るためにあらゆる可能性の窓口を閉ざすことはできない。それでも東京まほろばさんが融資を引き上げるのではあれば仕方が無いって」
北村の顔に驚きと焦りの色が浮かんだ。東京まほろばから出向している身として、両社の関係をどう取り持っていいか途方に暮れている様子だ。
「社長、お言葉ですが、東京まほろばとの関係を悪化させるのはまずいのではありませんか?」
「君は何を言っている、仕掛けてきているのは先方だよ。うちは最善の経営を模索しているに過ぎないんだ」
「そうではありますが」
「とにかく、東京まほろばとの関係が切れても大丈夫なように知恵をしぼらなければならないな」
大野が腹を括った言い方をした。この先、どういう展開になるのかと野田は不安を拭うことができなかった。
この年は桜の開花が平年より遅れた。企業が入社式を行った四月一日時点で桜はまだ蕾のままだった。一週間遅れでようやく満開になっても、東日本大震災の犠牲者への追悼から花見を自粛する雰囲気が広がり、世の中には重たい空気が漂っていた。
四月の第二週に入って、NYTビジネススタッフがデューデリデンスの再開を申し込んできた。大震災から一ヶ月が経っていた。
ヒューマン・キャリアの経営陣へのビジネス、財務、法務三分野のインタビューは終了していたので、貸し会議室に再び集結したNYTビジネススタッフのメンバーは、野田が準備した資料の点検に時間を費やしているようだった。疑問が出てくると、野田に電話で問い合わせてくるか、貸し会議室に呼んで質問をしてきた。
NYTビジネススタッフ側は大震災後の派遣業界の需要の変化を知りたがり、坂本取締役への再インタビューを申し込んできた。確かに、大震災が起きた後、東日本を中心に工場や輸送設備が大打撃を受け、日本の景気は急速に落ち込みつつあった。ヒューマン・キャリアがどれだけ影響を受けるかに関心を抱くのは容易に想像できたし、企業価値の算定にも関わってくるのは確かなことだった。
第二週の金曜日の午後に、坂本と野田は貸し会議室に足を運んだ。NYTビジネススタッフ側は前と同じメンバーで、河野経営企画室長がテーブルの真ん中に座っていた。
「何回もお呼びだてしてすみません。東日本大震災が起きて環境が大きく変わったものですから」
河野は申し訳なさそうに言った。
「いえ、当然のことだと思います。協力するのはやぶさかではありません」
坂本も意に介さない態度を示した。
「率直にお聞きしますが、今回の大震災で派遣需要に影響が出ていますか?」
「ええ、正直に申し上げますが、昨年から減退してきた需要が一段と冷え切ってきたのは事実です」
「回復の見通しはつかないですよね?」
「いつ回復するのかは全く見当がつきません」
「派遣計画や売り上げ予算は下方修正せざるを得ませんね?」
「まだ、その段階ではないと思います。とにかく、あらゆる打開策を練って予算の達成に全力を挙げるというのが営業のスタンスですから」
「確かに、最初から弱音を吐く訳にはいきませんからね」
河野は白い歯をのぞかせた。
「不幸中の幸いと申しますか、わが社は派遣会社としては規模が小さいので、東北地方での営業活動は展開しておりません。ほとんどは首都圏への派遣ですので、直接的な被害はありませんでした」
河野が野田の方を見た。
「大震災が起きて、休んだ正社員、派遣社員への賃金支払いはどうしていますか?」
「交通機関に支障が出て出勤できない場合は有給休暇の扱いにしました」
「それも業績にはマイナス要因ですね。有給休暇を取得されれば売り上げがあがらないのに人件費が発生するわけですから」
「その通りです」
「影響額は試算しておりますか?」
「いえ、そこまではしておりません」
「わかりました。こちらとしましても、業界動向などを調査して、御社への影響を試算してみます。本日はこのくらいで結構です。お忙しい中、ありがとうございました」
河野は立ち上がって、坂本と野田に頭を下げた。
野田と坂本は会議室を出て、エレベーターで一階に降りた。通りを歩きながら、坂本が言った。
「今日のインタビューは気にいらんな、何かうちがさらに業績が悪化するのを確かめようとしているように感じる」
「先方にしてみれば、大震災の影響を探るのは当然だよ」
「うちの企業価値を低めに見積もろうとしているんじゃないの」
「そうかも知れない。だけど、こちらはあくまで受け身だからどうしようもないよ」
「社長は本当にいい条件ならば合併する腹づもりなのかな?」
「大野社長は本気だと思うよ、デューデリデンスに応じているんだから。実際に合併話に乗るかは条件次第なんだろうけど」
「こうなると何とか自力で業績を回復させたいと本気で思うよ」
「その気持ちはわかるけど、環境があまりにも悪すぎる」
ヒューマン・キャリアの入居するビルが見えてきたので、坂本と野田は歩く速度を緩めた。大通りでは夕方のラッシュが始まろうとしていた。坂本が両手を挙げて背伸びをした。
「今の国会は東日本大震災と福島原発事故の対応一色で、派遣法改正法案はすっかり忘れ去られてしまったな。このままだと今年も成立しないかも知れないな」
「今の政治状況だと、派遣法改正どころじゃないと思うよ。だけど、法律改正を見越して需要が減退したままだから、派遣業界は生殺しの状態だ」
「ほんとに、営業の現場としてはつらいよ」
坂本はぼやいた。
会社の入居するビルに到着したので、二人でエレベーターに乗り込んだ。会社のあるフロアで降り、野田が自分の席に座ると、机の上に一枚のメモがあった。
〈社長がお呼びです〉
前川の字だった。大野は席に座らずに、社長室に行った。
「ドアを閉めてくれ」
野田を見ると、大野がいつもと違う低い声を出した。
野田はドアを閉めてから、大野の前のソファーに腰をおろした。
「はっきり言うが、今から話す件は北村取締役には言わなくていい」
大野は野田を見据えた。
「第三者割当増資の準備を密かに進めて欲しい」
野田の心の準備を待つように、大野は間を置いた。
「目的は二つある。第三者割当増資を実施することによって、東京まほろばが融資を引き上げた場合の資金を確保すること、それとNYTビジネススタッフとの合併話がうまくいきそうな場合、東京まほろばの出資比率を引き下げて反対を押し切るのが狙いだ」
事の重大さに、野田は何を質問していいか頭の整理ができなかった。
「あのう、大株主の東京まほろばと争うことになりますが」
「そういう事だ、だから密かに物事を進めなければならない」
大野は柔和な笑顔を見せた。考え抜いた末の結論だと想像できた。
「実は、大筋では話はついている。うちの社外取締役の武田さんに相談したんだ。そうしたら武田さんの経営する不動産会社で増資分を引き受けてもいいとおっしゃってくれた」
「そうですか、どのくらいの増資を考えておられますか?」
「臨時株主総会で合併の特別決議を否決されるの阻止したいから、まず東京まほろばの出資比率を三分の一未満に引き下げるのが第一。次に、東京まほろばからの融資の一億円を返済しても派遣社員の給料などの運転資金に困らないようにしなければならない」
「わかりました、現在の営業状況などを見ながら、増資額を試算してみます」
「よろしく頼む。この件は合併話が進まない限り実施しないから、君一人で準備してくれ」
「わかっております」
「それと、第三者割当増資は取締役会で決定できるから、場合によっては臨時取締役会を開くようになるかも知れない。ただ、それも合併話の進展次第だな」
野田はこの際、大野の心づもりを確かめておこうと思った。
「社長はNYTビジネススタッフとの合併を本気で考えておられるのですね、吸収合併される場合でも?」
大野が野田を見据えた。
「いい条件なら話に乗るつもりだ、今の経営環境が続けばヒューマン・キャリアが赤字経営に陥るのは必至の情勢だ。いや、すでに実質赤字の会社に陥っている。当社の実力ではここから脱却するのは至難の業だ。経理を見ている君ならわかるだろう。もし、NYTビジネススタッフと一緒になって正社員、派遣社員双方の仕事と生活が保障されればこれほどいいことはない。NYTビジネススタッフだって、自らの懸案である専ら派遣問題を解消するには他社と合併するしか手がないと思っているはずだよ」
「わかりました、社長がそこまでおっしゃるのであれば、私はご指示に従います」
「この際、君には私自身の本音を言っておく」
大野はためらいを振り払うかのように前屈みの姿勢になり、胸の前で腕を組んだ。
「私自身、経営者を続けるには年を取りすぎた。最も経営者としてふさわしくないのは燃えるような闘争心が無くなってきたことだ。それは自分の仕事に疑問を覚え始めたことも理由のひとつだと思う」
大野はソファーにもたれた。
「年末にスタッフ・リンクの荒川社長と忘年会をやった後で君にも話したが、私は人材派遣業の仕事に誇りを持てなくなっている。創業期には人材派遣業は日本の産業社会を下支えする仕組みだと信じていた。しかし、時代が変わって、不況続きの日本では派遣社員は雇用の調整弁になっている。うちも非正規社員を増やす役割を果たしているんじゃないかって悩む事が多くなった。経営者が自分の事業に少しでも疑問を抱けば失格なんだ。だから、どうすればヒューマン・キャリアの社員にとって一番いいかを毎日考え続けているんだ」
大野の本気さが伝わってきた。こちらも必死に対応しなければならない、と野田は身を引き締めた。
「わかりました。社長の心の内を話していただき、ありがとうございます」
大野は柔和な表情で頷いた。社長室を出ると、何か書類を見ているらしい北村取締役の姿が見えた。第三者割当増資を実施するとなると、密かに進めた事で北村から叱責を受ける日が来るかも知れない、と野田は覚悟を決めた。
四月もアッという間に過ぎ去り、五月の連休が近づいてきた。四月下旬の午後七時半過ぎ、野田はいつもより早めに自宅に帰った。携帯メールで連絡していたので、妻の康子と娘の麻里子が夕食を食べずに待っていてくれた。
「先にお風呂に入ります?」
「いや、お腹がぺこぺこだ、ご飯にする」
野田は背広を脱ぎ、普段着に着替えてからリビングの食卓に座った。食卓には、ほうれん草のおひたしや肉じゃが、鯖の塩焼きなど野田が好きな手作りの料理が並んでいる。風呂上がりの麻里子も上気した顔で席についた。年末からヨガを始めて元気になってきたのがわかる。
三人で缶の発泡酒で乾杯した。
「お父さん、ちょっといい?」
麻里子が珍しく自分から話しかけてきた。
「何かな?」
「あたし、五月の連休明けから働くことにしたから」
康子が表情を変えないのは、すでに麻里子から話を聞いているからなのだろう。
「働くって? それはうれしいね」
「近くにある老人ホームなの、お年寄りの世話をする介護の仕事」
「そうか、何でまた老人ホームなんだい?」
「介護が大変なのはわかっているけど一生の仕事にしたいの。経験を積んでホームヘルパーの資格をとって、その後、介護福祉士にも挑戦するつもり」
言葉に迷いがなく、麻里子の決意は固いようだった。
「派遣社員として商社で働いたけどうまくいかなかった。今度は一生続けられる仕事をしたいのよ、お医者さんももう大丈夫だって」
「お父さんは大賛成だよ」
野田の言葉に、麻里子が笑顔を見せた。野田にとって、麻里子が再び社会に出て働く意欲を見せたことが何よりもうれしかった。
「あたし、東日本大震災でいろんな事を教えられたの、突然、自分や身内の人生を奪われた人々からみれば自分は本当に幸せだって。甘えてなんかいられないわ」
「そうか、そう思えるようになって本当に良かった、応援するから」
二十代後半の娘に対しては甘過ぎる親の態度かも知れなかったが、長い間家に籠もっていた娘が、再び立ち上がって社会に出ていこうとする姿に気持ちが揺さぶられた。口数の少ない康子の目が潤んでいるのを見て、野田の胸も熱くなった。
東日本大震災と原発事故によって旅行をする気が起こらず、野田はゴールデン・ウイークを自宅で静かに過ごした。木々の緑が日々鮮やかになる季節になったが、日本中に大震災の犠牲者を悼む厳粛な空気が漂っていた。
ゴールデン・ウイーク明けは、ヒューマン・キャリアの四月の売上げ数字が出る時期だった。社長の大野は連休前から四月の月次決算の行方を気にしていた。もともと四月は休みが多いので売り上げが少ない半面、派遣社員の有給休暇の消化が多く、収支が悪化する月でもあったが、東日本大震災の影響がどれだけ出るかがある程度わかるからである。
月次決算は、営業の数字が経理課長の市村のパソコンに送られてきて、日々発生する経費を差し引いて集計される。五月の十日過ぎ、市村が四月の最終的な収支をパソコンから印刷して野田に見せた。
「やはり赤字ですね」
野田が数字を見ると、四月は売上げが予算を下回った結果、一千万円弱の経常赤字となっている。赤字が一千万円ともなれば、経費の先送りなどの操作しても黒字に転換するのは不可能だった。
野田は、大野社長に正直に説明するしかないと覚悟した。
社長室のドアをノックし、中に入った。
「四月の月次決算の数字がまとまりました。やはり赤字は避けられませんでした」
野田が資料を差し出すと、大野の顔が曇った。大野はしばらく数字を眺めていたが、顔を上げて野田の顔を見た。
「赤字がこれだけ大きいと、数字をやり繰りして黒字に持っていくのは難しいかな?」
「多少の数字の操作では無理ですね。売上げの水増しとか粉飾決算をするなら別ですが」
野田の言葉に、大野が苦笑いを浮かべた。
「NYTビジネススタッフがデューデリデンスを実施している最中だけに赤字は避けたかったが、やはり無理か」
予想以上に悪い四月決算を見て、失望の色が大野の顔に出ている。
「NYTビジネススタッフからの合併の条件が良ければ検討してもいいと思っていたが、これではうちに対する評価は心許ないな」
大野は独り言のようにつぶやいた。
野田は黙礼して社長室を出た。
大野の指示で、翌週の月曜日の朝十時に臨時の朝礼が開かれた。
居ならぶ社員を前に、大野が訓辞をした。
「東日本大震災は派遣業界にも大きな打撃となっております。二○一○年十二月期は皆さんに賞与を我慢してもらって何とか赤字決算になるのを免れました。今期の予算は賞与を夏冬合わせて一ヶ月の水準に引き下げても収支トントンという厳しいものになっておりますが、東日本大震災の影響をもろに受けた四月の月次決算は一千万円の経常赤字と惨憺たる状況になっております。このままではいけません。総力を結集して何とか持ち直さないと我が社の将来はないと覚悟してください。坂本取締役の指揮の下、自分たちに何ができるか、もう一度真摯に考えてください」
大野が社員たちにこれほど真剣に訴えることは無かっただけに、社員たちの間に緊迫した空気が漂った。実直な大野は社員たちから尊敬されている。その大野の言葉に誇張が無いことを社員たちはわかっているだけに、各自の胸に響いているのは確かだった。
13
五月の下旬、夕方の四時過ぎにNYTビジネススタッフの有藤取締役から野田に電話がかかってきた。上司の宇治田代表取締役専務が大野社長に面会するアポをとって欲しいという。都合のいい日時を三つほど提示してきたので、それをメモに書いて野田はいったん電話を切った。開いた社長室のドアをノックをすると、中から「どうぞ」という声が返ってきた。野田は後ろ手でドアを閉め、大野の座る机の近くまで近寄った。
「たった今、NYTビジネススタッフから電話がありまして、宇治田専務がお会いしたいそうです。都合のいい日時はこの三つだそうです」
野田はメモ用紙を手渡した。大野は机の上に置いてあった黒い手帳を取り出し、ページをめくってメモ用紙と見比べた。
「この日の午前十時がいいな」
大野は一番早い二日後を指定した。
「承知しました」
野田が立ち去ろうとすると、大野が質問してきた。
「君はどう思う? デューデリデンスの結果を伝えにくるということかな?」
野田は向き直り、「その可能性が強いと思います」と率直に言った。大野は無言で頷いた。
NYTビジネススタッフの宇治田専務がやってくる日、野田はアポイントの三十分前から自分の机に座って待機していた。午前十時直前に有藤から来訪の電話が入った。
野田が受付に出向くと、宇治田専務、有藤取締役の他にデューデリデンスの現場スタッフを指揮していた河野経営企画室長も同行していた。
三人を社長室に案内すると、大野自らがドアを閉めた。野田は長年の勘が働いて、坂本の在社を確認しておこうと思い、営業のフロアまで出向いた。坂本は自分の机に座り、パソコンに向き合っていた。
「坂本取締役、午前中は会社にいますか?」
「そのつもりだけど、どうして?」
「NYTビジネススタッフの宇治田専務が社長に面会に来ているんですよ」
「Mの件か」
「そうだと思います。何かありましたら連絡しますから」
坂本は頷いた。
社長室のドアは一時間近くも閉まったままだった。会談が長引いているのが吉と出るのか凶と出るのか、野田には判断がつかなかった。
ようやく社長室のドアが開いて、「どうかご検討のほどをよろしく」と言う宇治田専務の声が聞こえてきた。
野田は立ち上がって、三人の見送りに出た大野の後ろに従った。三人がエレベーターに乗り込んだので、大野と一緒にドアが閉まるまで頭を下げて見送った。
大野が「坂本、北村両取締役はいるかな」と聞いてきた。
「はい、お二人とも社内におります」
「すぐに臨時の経営会議を開きたいから呼んできて欲しい」
腕時計を見ると、十一時五分前だった。野田は坂本、北村の二人に社長の意向を伝えた。
十一時に経営会議のメンバーが社長室に集まった。議長の大野がNYTビジネススタッフからもらった資料を机の上に置き、口を開いた。
「NYTビジネススタッフの宇治田専務がお見えになった。デューデリデンスの結果から、当社の全株式の取得を申し込んできた。つまり吸収合併したいということだ」
坂本が息を飲むのがわかった。
「この報告書では派遣業界の現状や将来見通し、当社の業績や財務体質の分析から成長性などを詳細に分析しているが、大事なのは当社の企業価値をどう評価しているかということだ」
大野が間を置くと、一瞬の緊張した空気が漂った。
「結論からいうと、評価が低すぎる。全株式の買収額は三億円と提示してきた」
「しかし、どうしてそんな低い数字を出してきたんでしょうかね? うちの前期末の純資産は三億二千万円ですよ」
北村が、抗議するような声を出した。
「先方が言うには、今期に入っても業績の悪化に歯止めがかからないからだそうだ。昨春の派遣法改正法案の国会提出以来、うちの派遣社員人の人数は漸減してきたが、さらに今年三月の東日本大震災で追い打ちをかけられた。前期の決算はかろうじて赤字を免れたが、先方では賞与の大幅削減によって決算を繕った結果で、実質赤字と判断している。 二○一一年十二月期も四月の月次決算の状況から年間でもかなりの赤字は避けられないと見ている。つまり、先方の評価では、わが社は二年連続の赤字ということだ。派遣市場の縮小が続く中で、当社単独では企業として存続できる可能性は極めて低い、と判断しているようだ」
「NYTビジネススタッフが救済してやる、という事ですか?」
「それに近いな」
企業価値の評価が低いのは低迷している営業成績が原因であるだけに、坂本が顔を曇らせてうつむいた。
「しかし、当社はこの十年間赤字を出したことがない会社ですよ」
「評価が大きく変わったということだろうな」
「しかし、足下を見て買い叩くというやり方ですね」
坂本が憤然として大きな声を出した。
「まあ、M&Aというものはそういうものかも知れないな、交渉ごとだから、買う側は最初は低い金額を提示するということだろう」
「そうかも知れませんが、われわれが断れば、先方だって困るのではないですか。専ら派遣の問題が解決できなくなるじゃありませんか」
坂本の言葉に、大野は笑みを浮かべた。
「だからと言って、買収する側が最初から弱みを見せる事はしないだろう。だけど、この金額はあまりに低すぎる」
大野の心は揺れているように野田の目には映った。
大野は経営者としてはむしろ恬淡とした性格と言っていい。その大野が買収額の低さにこだわるのは、むしろ野田には意外に思えた。これまでの大野の言動からすれば、筆頭株主の自分が受け取る金額よりは、社員や派遣社員の仕事の確保を最優先すると思えたからだ。
「やはり、断った方がいいのではないでしょうか、東京まほろばも反対していますし」
北村取締役が思い切ったように言った。
大野が北村を見つめた。
「東京まほろばの意向よりはわれわれの判断がどうかだ。性急に結論を出す話でもないがね。こちらとしては断る事もできる話だから」
大野の発言で、NYTビジネススタッフからの買収申し込みに対しては検討課題とすることになった。
五月も残り少なくなった頃、野田は大野から夜の宴席に同行するように申しつけられた。
「スタッフ・リンクの荒川社長からのお誘いなんだ。いつも年末にお会いするのに珍しいな」
大野自身、意外に思っているようだった。
荒川が指定してきたのは、昨年末の忘年会と同じ中華料理店だった。大野と野田が連れ立って約束の時刻の十分前に店の中に入り、荒川社長の名前を告げると、個室に案内された。
荒川社長はすでに円卓の入口側に座っていて、二人が入ると立ち上がって「いらっしゃい」と満面の笑みを浮かべた。
「お待たせしてしまったようで」
「いえ、わたくしが早く着いちゃったのよ」
いつも同席している秘書の姿が見えない。
「今日はお一人ですか?」
「ええ、そうなの」
荒川に勧められて、円卓の奥に二人で座った。
ベージュのスーツを着こなした荒川は、年を感じさせない華やかな雰囲気を醸し出している。
最初にビールで乾杯した後、大野が口を開いた。
「今日はお話があるということですね?」
「酔う前に話をしておいたほうが良さそうね」
荒川が真顔になった。
「大野さん、あるところから聞いたんだけど、ヒューマン・キャリアさんが身売りするって。本当なの?」
「どこからそんな話を?」
「名前は言えないけど、金融筋ね」
この話にからむ金融筋と言えば、東京まほろば銀行かNYTビジネススタッフの主力銀行しかない。そういえば、スタッフ・リンクの主力銀行は東京まほろばであることを野田は思い出した。
「さすがにお耳が早いですね。だけど、何も決めているわけではありませんよ。業績が悪化しているのは事実ですから、企業提携は選択肢の一つと考えてはいますが」
お店の係の者が前菜を運んで円卓の上に並べ始めた。
「少し話があるので、こちらが指示するまで料理を出すのを待ってもらえる?」
係の者が荒川の言葉に返事をし、部屋を出ていった。
「大野さん、もし、その話が本当ならうちにも参加させていただけないかしら? ヒューマン・キャリアとうちは事務系の派遣が多くて業態が似ているから、合併すれば相乗効果があると思っているの」
大野が荒川を見つめる。
「派遣業界は大変な時代に入ったわ。これからは企業の規模が大きくないと生き残れないと思っているのよ。だから、うちも良い話があれば同業を買収しようと思っていたところなの。まして大野さんの会社であればこれほど信用できる会社はないし」
「そうですか。それでは私も正直に言いましょう、NYTビジネススタッフの買収金額が低すぎるので踏み切れないでいるのです。もし、金額が折り合えば、私自身は株式の譲渡に応じるつもりでいます。問題は、うちの主力銀行の東京まほろばが反対していることです。NYTビジネススタッフの主力銀行がライバル銀行だからです」
「差し支えなければお聞きしていい? NYTビジネススタッフが提示している金額はいくらかしら?」
大野は一瞬考える素振りを見せたが、すぐにためらいを振り切ったようだった。
「三億円です、うちの純資産をも下回る数字です」
「どうしてそんなに低いのかしら?」
「うちの業績が悪化して、先行きも単独では回復が難しいと判断しているようです」
「大野さんはそれでは納得できないでしょう」
「そうですね」
「うちなら二倍の六億円は出しますよ。人材派遣会社は純資産だけで企業価値は計れません。派遣先企業や登録社員の蓄積、派遣業務のノウハウなどを含めて総合的に評価すべきです。六億円というのはうちの会計監査人にも相談してはじいた数字です。どうでしょう、この金額で」
予想していなかったのか、大野が驚いた表情をした。
「それはありがたいお話です、ただ、NYTビジネススタッフが六億円以上の金額を提示してきたらどうしますか?」
「その時はまた考えますけど、多分、無理だと思うわ」
「それに、あくまで東京まほろばが株式譲渡に反対するときはどうしますか?」
「うちの主力銀行は東京まほろばよ。うちはけっこう預金もしているから、頭取に話せば何とかなると思うわ。とりあえず、大野さんの持ち株を譲っていただくだけでいいですよ。大野さんは過半数の株式を持っているんだから、それだけでもうちの子会社にできるでしょう? 株式譲渡は株主総会の特別決議にかける必要がないでしょうから」
「その通りです」
「時間をかけて、東京まほろばから持ち株を譲ってもらうように交渉していきます。場合によっては、第三者割当増資によって東京まほろばの持ち株比率を下げることもできるし」
「第三者割当増資は私も検討しました。御社に株式を譲渡するとなれば関係なくなる話かも知れませんが」
「そうですか、まあ、第三者割当増資をするかは東京まほろばの態度次第ですが、その必要はないんじゃないかな。それと社員持株会がどうするかは交渉次第でしょう?」
「ええ、社員にとっては同業の大きな会社の傘下に入って経営不安が無くなるとなれば、歓迎する空気が出てくるかも知れませんね」
「最終的にはうちに吸収合併したいと考えていますが、こういう話はあんまり焦らないで段階を踏んでいったほうがいいのよ」
ビジネス界の荒波を乗り切ってきた老練な経営者の現実的な判断だった。話がアッという間に進展して、野田はオーナー経営者同士の決断の早さに感嘆した。
「こういう話になるとは思っていませんでしたが、荒川さんからの提案は非常にありがたいと思っています。お言葉に甘えるついでに、こちらの条件をさらに言わせてもらっていいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
「うちには常勤役員が三人いますが、そのうちのプロパーの坂本取締役だけは継続して雇って欲しいのです。私は当然退任します。東京まほろばから出向してきている北村取締役は東京まほろばの株がどうなるかで出処を決めてもらえばと思います」
「ええ、坂本取締役は営業担当でしたわね。むしろ残ってもらわないと今後の営業に支障をきたすわ」
「それと社員と派遣社員の雇用の確保はくれぐれもよろしくお願いします」
「もちろんよ、派遣会社は人材だけが資産なのよ。社員と派遣社員は会社を成長させる大事な宝物だもの」
「給与水準も引き下げないと約束してください」
「約束します」
「感謝します」
「それでは今後は、うちの法務担当や弁護士と話を進めるということでよろしいですね」
「結構です」
「やはり大野さんとは縁があったようですね」
「最後に、荒川さんに助けられて私もうれしいですよ」
「助けたなんて、これはあくまでビジネスですよ」
オーナー経営者同士のわずか三十分の話し合いで、会社の身売り話が成立してしまった。野田はNYTビジネススタッフがどういう態度をとるのかが気になった。
「それでは料理を持ってきてもらいましょう」
荒川が上機嫌に言った。
それから三日後。NYTビジネススタッフの有藤取締役から大野社長に電話が掛かってきた。NTYビジネススタッフの提案に対する返事を聞くためだった。大野社長が「事情があって、その話は無かったことにして欲しい」と断ると、急遽、宇治田専務と有藤取締役が来社することになり、大野から野田に同席するよう指示された。
社長室のソファーに腰掛けた宇治田は大野が断ったのは意外だったらしく、高慢そうな普段の態度とは異なり、慌てた様子が見てとれた。
「大野さん、私どもの提案のどこに不満がありますか? それによっては私どもも考え直すこともやぶさかではありません」
「買収価格が低すぎます。私どもの会社の企業価値はそんなに低いとは思いません」
「それでは、どのくらいが妥当かと?」
「七億円位ですか」
大野は荒川が提示したのより一億円多い金額を示した。
「そんな、本当にそう思っているんですか?」
宇治田は問い直した。
「そうです。それと社員と派遣社員は全員引き継ぐこと、役員のうち坂本取締役は雇用することが条件です」
「ここでは即答できかねます、帰って社内で検討しませんと」
「この場で判断していただけないのであれば、やはりこの話は無かったことにしてください」
「大野社長は、御社の経営がこの先も大丈夫だと思っているのですか?」
「それは余計な心配というものです」
大野の冷ややかな返事に、宇治田はうろたえたように有藤の方を振り返った。
「どうすべきかな」
「金額にあまりの開きがありますから、いかがかなと」
「そうだな」
そんな二人の様子を見ていた大野がきっぱりと言った。
「ここで返事をできないというのは、経営判断が遅いですね」
宇治田は頑なな大野の態度に、大野にはNYTビジネススタッフに身売りする気持ちが無いと感じたようだった。
「そうですか、それは仕方ありませんな」
宇治田は失望したように声を落とした。派遣法改正法案は成立していないが、NYTビジネススタッフが抱える「専ら派遣問題」の解決策は遠のいたということだった。
それにしても、宇治田は大野の強気の姿勢の理由がわからなかったに違いない。大野は最後までスタッフ・リンクの荒川社長との間で話がついていることを微塵にも表さなかったからだ。
宇治田と有藤が引き上げていった後、大野は野田に言った。
「急な話だが、今日の午後五時半に緊急の社員説明会を設けてくれないか、業界に噂が広まらないうちに社員には説明しておいたほうがいいと思うから」
野田はメールで社内に緊急の社員説明会の通知を出した。
野田は午後五時二十分に会議室に行き、皆が入室するのを待った。
三々五々社員たちが集まり出した。定刻直前に大野が現れ、会議室の前のテーブルに着席した。
いつもの社員説明会のように野田は立ったまま司会をした。
「皆さんに急きょ集まってもらいましたが、本日は大野社長から重要なお話があります」
野田の言葉に、大野は軽く頷いた。
「皆さんの身の振り方に関係がありますので、早めに報告をしようと思い、集まっていただきました。結論から申し上げます。私は保有株式をすべて同業のスタッフ・リンクに譲渡し、経営から身を引く決断をしました。私はヒューマン・リンクの過半数以上の株式を保有しておりますから、ヒューマン・リンクはスタッフ・リンクの子会社になるということです」
大野がここまで一気に話すと、社員の間にどよめきが広がった。
初めて知った坂本、北村取締役もスタッフ・リンクの社名を聞いて驚いた表情をしている。
「皆さん、ご存じのように、わが社は創業以来の危機に見舞われています。二○一○年十二月期の決算は派遣法改正法案の国会提出の影響で収支トントンという結果になりました。収支トントンと言っても、皆さんの賞与を大幅に削減し、役員報酬も減額しておりますから、実質的な赤字決算です。もちろん、配当も実施しておりません。正直に申しますが、なぜ、私が何がなんでも赤字決算を回避しようとしたかと言いますと、他社との提携をも視野に置いていたからです。つまり、黒字決算を維持してわが社を高く売りたかったということです」
大野が社員の賞与を大幅に減額してまで黒字決算にこだわった訳が腑に落ちた。大野はすでに一年前から会社の身売りまでを視野に入れていたということだろう。
「二○一一年度に入りましても業況は改善するどころか、三月の東日本大震災の影響もあって悪くなる一方です。このままでは今年度は確実に赤字決算に転落します。賃上げをゼロにし、上期、下期の賞与を合わせて一ヶ月に抑制しても赤字では今後、わが社に展望は開けません。スタッフ・リンクの荒川社長とは縁があって、当社の株式を引き受けてくれることを了承していただきました。荒川社長は、最終的には当社の全株式を取得して吸収合併し、スタッフ・リンクの企業規模を拡大したいとの意向です。荒川社長は当社の社員全員を引き受けてくれることを約束してくれましたので、スタッフ・リンクの一員として社員が仕事を継続できる道を選択しました。つきましては、皆さん方には社員持株会の株式を譲渡していただきたくお願い致します。ここまで何か質問はありますか?」
高揚した雰囲気が社員の間に漂っていた。他社の傘下に入ることに不安を覚えながらも、業界で格上の会社の一員になることに安堵の気持ちを感じている社員が多いのかも知れなかった。
社員の間から手が上がった。労働者代表の二宮だった。
「大野社長のお話は理解できました。わが社の先行きを考えれば大手の傘下に入った方がいいという判断だと理解します。それはそうとして、スタッフ・リンクの傘下に入った場合、社員の雇用の確保は間違いないですね?」
「それは保障します。株式譲渡契約書に必ず明記させます。それが無ければ私はサインしません。給与水準も引き下げないとの言質をもらっています」
「それを聞いて安心しました。そういう条件であれば、社員持株会の株式を譲渡に反対する理由は無くなると思います。ただし、東京まほろばの持株はどうなるのですか?」
「それについては、今後の交渉次第です。当然スタッフ・リンク側は譲渡してくれるように東京まほろば側に働きかけるはずです。東京まほろば側がどういう態度に出るかはわかりませんが、時間をかけても株式を譲渡してもらうよう交渉していくようです」
「そうしますと、いずれヒューマン・キャリアはスタッフ・リンクに吸収吸収されるというシナリオなのですね」
「そう考えてもらって結構です」
北村取締役が複雑な表情をした。自分の身の振り方に関わってくる問題だからだろう。東京まほろばは、NYTビジネススタッフの主力銀行がライバル行だったのでNYTビジネススタッフへの株式譲渡には反対したが、相手が東京まほろばを主力銀行にしている業界大手のスタッフ・リンクとなるとどういう態度をとるのか、判断しかねる様子だ。いずれにしても、北村は東京まほろばからの出向者なので、経営権が移っても自分が安全なのはわかっているはずだ。
自分たちの雇用が確保されるとの大野の説明に、社員たちの動揺は収まったようだった。いつも成績の数字に苦労している営業部員が大半を占めているだけに、現実的な判断をする社員が多いのかも知れなかった。
社員の理解を得られたと思ったのか、大野は落ち着いた態度で説明を続けた。
「いずれにしましても、私は社長を退任します。つきましては、お世話になった皆さんに私からお礼をしたいと考えております」
大野の言葉に、社員の多くが怪訝な表情を浮かべた。
「私はこの会社を設立して、世間に負けない会社にしようと努力してきました。しかし、小さな会社であるだけに、賞与や退職金はもちろん、福利厚生の面でも大会社に比べるとかなり見劣りしています。経営悪化から、この一年間の上期、下期の賞与を大幅に削減しなければならず、私自身、辛い思いをしました。そして、私が気にしているのは当社の退職金が少ないことです。わが社は中途入社組が多いこともあって勤務年数が新卒入社に比べて短いことも原因です。野田君、うちでは四十歳で入社して六十歳で退職金を受け取るとすると幾らになる?」
大野が突然質問してきたので野田はうろたえたが、退職金の仕組みは頭に入っていたのですぐに答えることができた。
「およそ五百万円です」
「そうなんだ。もちろん、中途入社だから、二回目、三回目の退職金ということになるが、それでも老後の蓄えとしては少ない。いろいろ考えた結果、私が株式を譲渡して受け取る対価はすべて当社に寄付することを決めました」
大野の言葉に、社員の間に驚きの声があがった。
「寄付する金額は当社の特別利益として計上されるはずですが、何年間かに分けて賞与に上乗せするのか、退職金に充当するのか、それは税金面も考えて最も皆さんに役に立つ使い方をしてもらえばいいと思います。このことはスタッフ・リンクの荒川社長にもお願いしておきます。わたしには子供がいませんので、妻と二人で老後を暮らすにはこれまでの蓄えで十分です。これは私の経営者としての気持ちなのです。私だけがいい思いをすることはできません。長い間一緒に働いてくださった社員の皆さんに報いたいのです」
大野が話し終えると、しばしお互いの気持ちを探り会うような沈黙が漂った。それをうち破るように、労働者代表の二宮が立ち上がった。
「大野社長のお話を伺い、私は社長の下で働けたことを大変幸せに思います。会社の業績が悪化したのはわれわれ社員の努力が足りなかったことも反省しなければなりません。株式の譲渡益すべてを当社に寄付するとの話を聞いて、信じられないというと思いとともに、社長がわれわれのことを心から心配してくださっているという真心を感じました。われわれ社員一同、新しい会社になっても、力を出し切って働く決意です。ありがとうございました」
二宮が深々と頭を下げた。社員の間から自然と拍手が巻き起こった。力強い大きな拍手が会議室の中に響き渡った。
(了)
派遣会社消滅