終わりの季節
私の兄は優秀だった。勉学はもちろん、いろんなことを難なくこなせる人だった。しかし、大学生のころ、不慮の事故に遭い、人生の軌道が大きく逸れた。兄を愛する母は気が狂い、弟である私も精神をすり減らしていった。そして十八年の歳月が流れた。梅雨の時期が来ると決まって兄からメールが届く。メールが届くたびに、事故の話題に触れるたびに、私の胸に小さな波紋が広がる。どうして優秀な兄が死んでしまい、劣等性である私なんかが生きているのか、わからなくなる。そう、実のところ兄はとっくに死んでしまっているのだ。ある日、私は真実と向き合うために、生まれ故郷に帰ることにする。兄の墓の前で会った母は、顔に見たこともない、私の知らない皺を多く刻んでいた。僕は疲れた、母さんも疲れただろう? と、私はできるだけ穏やかに言う。兄さんはどこにもいないんだ、いるふりをするのは、もう、やめにしよう――と。しんと静まったあたりにやわらかな風が吹き抜けた。それは私たちを心から身軽にしてくれるようだった。ようやく長かった梅雨が明けるのだと思うと胸が高鳴った――
一
会社の近くにある公園のベンチで昼食をとっているときだった。一人の女の子が私のところへとやってきた。おじさんにも見せてあげる、そう言って、ふんわりと握り合わされた手を、目の前に差し出す。私は一瞬、とまどった。六、七歳の少女にいきなり話しかけられたこと、お兄さんでなく、おじさん呼ばわりされたこと、何より――手のひらの中に隠されたものの不気味さに対して、とまどったのだ。
不気味さ。どうしてそんなふうに感じたのかわからない。しかし、予感は見事に当たった。
少女の手のひらに包まれているのは、まぎれもなく、蝶の死骸だった。咲き乱れた花畑を舞っている姿が想像できないほど羽はひどく色褪せ、触角が無残にも折れ曲がっている。一見、蛾とも思えるが、羽に残っているわずかな色彩のおかげで見分けられた。
少女がじっとこちらを見つめている。まるで朝顔や昆虫の生態を注意深く観察するようなまなざしだ。とっさに何かを言おうとしたが、言葉は喉の途中で突っかかり、私を激しく咳き込ませた。動揺をごまかすために、笑った。笑いながら食べかけのサンドイッチをパックの中に戻しコーヒー牛乳を脇にどかした。そして私は煙草に火をつけた。子どもを追い払うには煙草は打ってつけだと思ったのだ。
しかし、煙が顔にかかっても、少女はまばたき一つしない。蝶の死骸を提示したまま固まっている。私はいい加減、うんざりしてきた。あるいは、少しいら立っているのかもしれない。少女に対してではなく、すぐ目の前にある蝶の死骸に対して。何かに似ている、と私はふいに思う。たしか、それに似たものを見たことがある。いつ、どこで? とても身近にあったような気がする。もうここまで出かかっているのにはっきりと思い出せない。
どこかで女性の声がした。少女は、はっと我に返ったようだった。長い睫をぱちぱちさせてから、ワンピースの裾をひらりとひるがえした。
私はようやく一人になり、何度か空咳を行った。喉の途中に突っかかっている言葉を吐き出そうとするが、胸をたたいてもコーヒー牛乳を一気に飲み干してみても、すっきりしない。むきになればなるほど言葉はそこに根を生やし重くずる賢い笑いをはじめる。くそっ。私は舌打ちをする。くそっ、くそっ! そうこうしているうちに上司から呼び出しをくらって、ネクタイを締め直しながら、慌てて公園を出た。
二
その二日後の夜だった。一年ぶりに鳥取で暮らす兄からメールが届いた。
『元気にやっているか?』
携帯電話のディスプレーに映し出されたその一言が、私をどれほど悩ますものか、向こうはわかっているのだろうか。きっとわかっていないのだろう。私は、たちまち携帯電話をへし折ってしまいたくなった。もし近くに誰もいなければ本当にそうしていたかもしれない。だが、妻はすぐそばで夕食の後片づけをしているし、息子はソファーの上でテレビゲームに熱中している。いつもと変わらない時間が湖の波紋のようにやさしく広がっている。
ふたたび携帯電話の着信音が鳴り響いた。二通目が届いたのだ。うるさいなあ、ったく。息子が黒光りするコントローラーのボタンをたたきながらつぶやく。小学校低学年だというのに、もう生意気な言葉遣いになってきている。妻はくくっと笑うだけで、注意もしない。
『東京の方はまだ晴れ間がつづくみたいだな。でも、こっちは連日雨でまいっちゃうよ。朝、起きるのがだるい。それにからだじゅうが痛くって痛くって……やっぱりあれだな、この時期になると記憶が強くよみがえるんだ。事故のこととか、いろいろとさ。早く夏がこないかな。スカッとした青空を拝みたいものだ。』
梅雨がはじまると決まって兄からメールが届く。メールのないころは、手紙だった。特に用事があるというわけではなく、私のことを心配しているわけでもない。これは――たんなる、子どもじみた遊びなのだ。地元の大学を出て上京した年、私は、この遊びに誘われた。どうしても断れなかった。乗ってしまった方が楽だった。そしてそれから十五年の月日が流れた。気がつけば私たちは見知らぬ海域に取り残されていた。底荷を失い、船体が破損し、なかば沈みかけていた。電話の向こうにいる人は、どう思っているのだろう?
おおい、おまえもこっち来いよお。ながめ最高だぞ。
私は――頭上いっぱいに広がる梢を見上げた。ずいぶんと高いところまで登っている幼い兄が楽しそうに手を振っていた。巨人のロゴ入り野球帽。半ズボンから伸びる細長い足。木漏れ日が作り出す兄のシルエット。
おおい、どうしたんだよお。もしかして、怖いのかあ?
私はいつも泣きべそをかきながら三つ上の兄を見上げていた。見上げるしか方法がなかった。正直に怖いのだと答えるのが恥ずかしかった。
木登りの他にも、兄は、いろんなことを簡単にやってのける子どもだった。水切り。ベーゴマ。相撲。追いかけっこ。将棋。オセロ。何一つ勝ったためしがない。そのうえ勉強ができて愛敬もあり抜群のリーダーシップを持っていたのだから、弟としては、お手上げだ。
学年が違うために正面切って比べられこそしなかったものの、私と向かい合うとき、クラスメートのまなざしはどこかゆがんでいた。まっすぐに見てもらえなかった。問題に答えられない私を見る教師のまなざしや二十五メートルすら泳げない私を見るみんなのまなざしの手前には、必ず透明な仕切りがあり、その仕切りに、兄の顔がちらちらと反射していた。それを敏感に感じとるたび、私はひどく居心地が悪くなった。私をうなだれさせて、冗談一つ言えなくさせた。兄は気づきもしなかっただろう、自分の存在によって、弟の存在がぼやけてしまうことなど。
とりわけ、母のまなざしはすさまじかった。透明な仕切りをいともたやすく突き破り、感情を包み隠さず、あからさまに私と兄を二分割した。目に入れても痛くないだのなんだのと心からいとおしそうに兄を賛美し、兄が野球をやりたいと言い出せば、二つ返事でグローブからシューズ、巨人のユニフォームまで買い揃えた。私には冷たかった。ことあるごとに、父親の面影が出てきた、というような罵声を浴びせられた。革製のベルトで腕や足に青痣が残るほどたたかれた覚えもある。私が家の中にいるだけで何かしゃくにさわるみたいだった。
私は、しかし辛抱強く待った。母に呼びかけられるのを待っていた。
そろそろ髪を切った方がいいかしら――その言葉を。
母の部屋には古い姫鏡台が置かれていた。鏡のところどころに小さなきれつがあり、抽斗を開けるのも困難な代物だったが、母はいたく気に入っていて、ときどき鏡を見つめながら私を呼ぶのだ。ねえ、おまえ、手先だけは器用よねえ。髪ぐらいちゃちゃっと切れるでしょう?
私はうんうんとうなずいた。兄になりかわったような気分で。失敗したらただじゃおかないわよ、などと言われても、怖くなかった。急いで、勉強部屋から自前の散髪セットを持ってきて、母の髪の毛に触れた瞬間、私は、ようやく認めることができた。母を。そして私をも。梳きバサミでボリュームの多い箇所から切り落とした。縁側の床板は健康的な日差しに満ちていた。母の首は細かった。どういうわけか、毎回、そのことにひやりとさせられた。見てはいけないものを見せられているようで、落ちつかなくなった。
落ちつかないまま私はたずねた。ねえ、お母さん、僕のこと、好き? と。
数秒のためらいのあと、母の頭が、少し前に倒れた。うなずいてくれたのだとわかった。
私はあまりのうれしさに息が詰まった。
散髪が終わると母はたいてい、いつもの態度に戻った。細かった首が頑固になった。あーあ、おかしいくらい頭が軽くなっちゃった、そんなことを言って、伸びをするのだ。兄が家にいれば二人で買いものに出かけ、いなければこちらに不満を向けてくるのだが――私は、しがにもかけなかった。整えられたばかりの髪の毛がつやつやして格好よく、それを見ていると、いつまでも母を独占しているような気持ちにひたれた。
私は誇らしかった。散髪の時間があったからこそ、私は母に望まれている、見捨てられていないと思っていた。長いことそう思っていたのだ。中学校に上がるころだろうか、ふいに、ある疑念が生じた。疑念はやがて決定的な質感へと変わっていった。きっと、そうだ、そうに違いない、と私は今も確信している。母は、兄に細い首筋を見られるのがいやだっただけなのだろう――私に散髪を頼んだ理由なんて、そんなところだ。
父親。
私は母の代わりに、父親をずっと憎んでいた。父は憎まれても仕方がないことをした。私が五つか六つのときに多額の借金を残してある日突然いなくなったのだ。知り合いにだまされたらしいが、なんにせよ家族にとっては迷惑な話だった。母が少しずつ神経をすりへらし穏やかな性格を忘れていくのが子ども心にもたまらなくつらかった。あんなやつ野良犬のエサになってしまえばいいのだという兄のつぶやきを覚えているし、近所のおじさんに、君のうちは自己破産したのかと聞かれてからだじゅうが熱くなったことも覚えている。私は、だから本気で、父が野良犬に食べられてしまうのを願っていた。父がこの世からいなくなれば母の精神はもとどおりになり私に対してやさしくなるのではないかと思い込んでいた。
ただ、父を憎めないときもあった。記憶の片隅から、家の前で自転車を磨いている父の背中がよみがえってくると、私は憎むことをやめた。やめざるをえなかった。鼻の奥がつんとなった。父は、油まみれの手で、車輪の細かい部分まで磨いていた。まるで愛し子をあやしているかのように、ていねいに。
後ろに立つ私の気配に気づくと、決まりが悪そうな笑みを浮かべて、こう言うのだ。自転車をもらってきてやったからよ、兄弟で仲よく使うんだぞ――と。それが一番好きな父の光景だった。
私は、あるいはどこかで父を許すために必死だったのかもしれない。油のにおい。父の苦笑い。錆びついた自転車。
どちらかといえば、父親の血を引き継いだのは、兄の方だった。私は母親似だった。親戚の人にはっきりと指摘されたこともある。しかし、母は頑なに否定した。
問題は目なのよ、目、本当にアレとそっくりだわ! と。
たしかに私の目は切れ長で、不格好で、父と同じだった。でも、他は全然似ていなかった。僕の臆病なところや、人に好かれないところは、お母さん、あなたからゆずり受けたものなのだ、と私は言いたかった。何度も喉まで出かかったものの、結局、言えなかった。母が傷つくことがわかっていたからだ。
問題は目なのよ、目――
とにかく私はたった一つ、外見的な要素があったばかりに、愛情を受けとりそこねたのだった。
三
『やっぱりこの時期はいけない。最近、事故の夢ばかり見ている。それがまたすごくリアルなんだ。車が狂ったように迫ってくるところからスタートして、あっという間に骨の砕ける音が聞こえる、神経がちぎれるのもわかる、一瞬で通り過ぎていく場面もあれば、長々とつづく場面もあって……たとえば、一粒の汗がうなじからゆっくりと背筋を伝って腰まで落ちるのをずっと感じつづけなくちゃいけない、それがどんなに苦痛なことか、おまえにわかるか? 何も夢だけじゃない、起きているときだってそうだ。特に夕方はひどくて、からだがしつこく思い出そうとする。うずいてうずいてどうしようもなくなる。ふしぎなものだな。あのときは目の前が真っ白で、逃げ出すこともできず、ただ立ちすくんでいるだけだった。それなのにちゃんとからだは覚えているんだよな。十八年間、少しも色褪せずに。』
兄からの三日ぶりのメールだった。私はリビングのソファーに身を沈ませて、ため息を漏らした。ローテーブルの上にころがる携帯電話が無責任な沈黙を保っているようで、見れば見るほど、腹が立つ。せっかくの休日が台なしだ。
テレビではニュースキャスターが深刻な面持ちで外国の地震について報じている。それをぼんやり聞きながら、さて、と考える。さて、返信はどうしたものか。手紙で来ていたころは見過ごすことができた。いちいち受け答えをしなくてもよかった。メールという便利な機能が生まれてからは、違う。無視しづらい。私はこれまでどうやって乗りきってきたのだろう? この時期になると、不正確で、ばかみたいにうろたえてしまう私は、まるでずさんな作りの鳩時計のようだ。
ガラス戸の向こうに重苦しい雨雲が立ち込めている。午後も晴れマークのはずだが、どうやら予報ははずれそうだった。
「今年も帰らないつもり?」昼食の皿を用意しながら妻が口を開いた。
「うん?」私は聞き返した。「実家のことか」
「もう何年も鳥取に帰っていないでしょう、お母さんもきっとさびしいと思うわ」
「……母さんに必要なのは兄さんなんだ」
そう答えると、妻は少し目をすがめ諦めたように肩を落とした。
妻は何も知っていない。知らない方がいい。それに自分の中で決着がついていないものをどう説明すればいいのかわからなかった。
しばらくして玄関の扉が勢いよく開けられる音が響いた。息子が友だちを連れてきたらしい。幼い声ががやがやとひしめいている。うまくほほえむことができるだろうか。平和な足音がやってくる前に、私は両手で顔をおおい、筋肉をほぐした。
その夜、妙に目が冴えていた。眠れなかった。すぐ横で寝相の悪い息子がもそもそと動き、妻はささやかな寝息を立てている。私は早く二人のそばに行きたいと思う。もういなくなったものに対して悩むより、目の前にいるこの子たちだけを見ていたい。なぜ当たり前のことがこんなにも困難なのだろう?
二人を起こさないようにそっと布団を剥がしベッドの縁に座る。思ったとおり枕もとの目覚まし時計の夜光針が午前零時を指している。私は舌打ちをした。いやな時間だった。ああっ……あ、ああ……。遠くの方から声が聞こえる。あ、ああっ……ああぁ……。十八年前に生まれたその声は、ときどき私の体内を駆けずりまわり、私を病室の記憶へと向かわせる。抗うすべはなく、いつの間にか、顔のあちこちに包帯を巻かれた兄が泣いているのだ。ちゃんと泣くことができなくて、感情をしぼり出すようにうめいているのだ。午前零時。室内の電灯は強制的に消され窓の外からうっすらと月明かりが忍び込んでいた。たまにナースコールが鳴り、看護師が廊下を走っていくのがわかった。そして私は自分の無力さにいら立っていた。ああ、あっあぁ……ああ……。
私はなんのためにここにいるのか。付きっきりで看病する意味などあるのか。そもそもどうして兄がこんな目にあわなくてはならないのか。言い出せばきりのないことだと知っていても、だめだ。考えるのをやめられなかった。ぐるぐるまわってしまうのだ。私もうめいた、ああああ、と。
二十二歳学生、暴走車にはねられる――新聞にはそのような見出しがつけられ、隅の方で小さく取り扱われていた。よくある類の記事だった。学生が大学から帰っている途中に信号無視の車にはねられたということが冷静な目で書かれていた。しかし、それだけではないのだ。兄は顔の神経を傷め、左腕を失い、下半身の大部分に麻痺が残った。
母の取り乱しようはすさまじかった。どこからか金槌を持ってきて借家の壁に大きな穴を空けて大家を困らせた。慰めにやってくる近所の人たちを片っ端から罵った。おまえが身代わりになれ、などと言いながら、昔みたいにベルトで私をたたいた。おまえが身代わりになれ、今すぐなれ、おまえの健康はこの日のためにあったのだから、つべこべ言わずにお兄ちゃんに差し出しなさい、ほら、ほら、早く!
私は連日、兄の病室に通った。医師の許可を得て、二、三日寝泊まりすることもあった。半分は、家に帰りたくなかったからだ。
こ、こんなことなら……ひとおもいに、し、し、死ねたら。
兄がはじめて言葉らしい言葉を口にしたのは、事故から半月ほどたったころだった。それまではほとんど泣き声しか聞かなかった。
ベッド脇で本を読んでいた私は、一瞬、何が起こったのかわからなかった。兄をまじまじと見つめると、顔の引きつりを気にしてかけているサングラスの向こう側に、光が宿っていた。しかし決して明るい光ではなかった。暗く、先のない光だった。私は目をそらした。そらしたところにも、その光があった。入り口の右手にあるユニットバスにも冷蔵庫の扉にもテレビにも棚にもカーテンのドレープにも――個室のあらゆる場所に光があり、またたいているのだ。私は、目頭をもみほぐし、ふたたび見まわした。光はさらに増えていた。カメラのフラッシュを浴びたときみたいだった。吐き気がした。酸味のある臭いが口じゅうに広がった。
み、見える……のか、み、み、見えるんだな。
兄が苦しそうな口振りの中にも驚きをにじませて言った。
ああ、見えるよ、と私は答えた。兄さん、これはなんだい?
ぜ、ぜ、
え?
ぜっ……
兄がもう少しで何かを言おうとしたそのとき軽やかな靴音が聞こえた。花瓶をかかえた母が鼻歌をうたいながら入ってきた。いつ買ったのだろう、つば広の帽子をかぶり、真新しいブラウスをはおっていた。ハイヒールもこれまで見たことがないものだった。
白くてきれいなお花でしょう、ナツユキソウっていうのよ。母はそう言って窓際の台に花瓶を置いた。
あたりに点在する光のまたたきがより一層強くなった。
兄が何を言おうとしていたのか、私にははっきりとわかっていた。ゼツボウ。この光は、兄さんから放たれるゼツボウなのだ、と思った。
それからというもの、光は、母につきまとうようになった。母が病室にやってくると現れ母の言動に合わせてまたたいたり揺れたりした。色がめまぐるしく変化することもあった。母は光の存在に、兄のいら立ちに、気づいていなかった。気づかないまま毎日同じ言葉を吐きつづけた。生きているとたくさんつらい経験をしなければならないけれどでもね負けちゃだめなのよ負けちゃったらもうそこでおしまいなの何もかもねそんなふうに自分に言い聞かせながら一生懸命がんばっていたらきっといいことがあるものよだから二人でがんばりましょうね、ねっ!
最初は無言で聞き流していた兄だったが、ある日、こう言った。
お、おばさん、ちょ、ちょっと、黙ってて。
軽くもなく重くもない、あらかじめ秤で量っていたかのような、正確な重さを持つ響きだった。
母は、黙った。その瞬間光がぱっと消えた。
兄の反抗的な態度をはじめて目の当たりにした私は驚きを隠せなかった。兄がそんなことをいうなんて、とても信じられなかった。何かの間違いだと思った。しかし、間違いなどではなかったのだ。
お、おばさん。
兄はふたたび口を開いて、言った。
きっ、今日は、もう、帰っていい、から。
そして兄は見舞いに来る人たちにもしつこく毒づいた。友人を偽善者呼ばわりし、恋人に、あるはずのない疑いをいだいた。怒りを押し殺して帰っていく人が大半だったが、中には顔色を変える人もいた。私は、静かにことのなりゆきを見守り、兄の見ていないところで頭を下げた。兄さんの身代わりになっているのだと思うと、いくらでも謝ることができた。
しかし、一度だけ、謝れなかったときがあった。謝るどころか、私は兄の友人を殴ってしまったのだ。
よく覚えている。花瓶の水を入れ替えて病室に戻ってくると、兄の友人が、からだを激しく震わせながら、兄の――麻痺している足をつねっていた。兄は天井を見つめたまま、おまえは内心笑っているんだろとか見せかけの同情なんてしてもらいたくないとか、小言をいっていた。おそろしく異様な光景だった。私はたちまちかっとなり怒鳴り声とともにその友人に向かって突進した。花瓶が割れて電気スタンドが倒れた。看護師が大慌てでやってきた。大勢の人に取り押さえられ、ようやくそこで、私は我に返った。右手の甲が軽くしびれていた。人を殴ったのだという実感があった。兄を見ると、兄は笑っていた。醜い笑顔だった。
四
『あのころは本当にどうかしていた。事故のショックでまわりがよく見えていなかった。母さんをいろいろと傷つけてしまった。つらく当たってしまった。でも、それは母さんを一番信頼していたからなんだ。今なら素直に言える。俺には母さんしかいない、俺には母さんが必要だって。わかるか? おまえは何も心配しなくていい。こっちはこっちでうまくやっている。』
何度かメールのやりとりをしていると母の話になることがある。私は決まってうんざりしてしまう。嘘をつけ。携帯電話をにらみつけながら、そうつぶやく。今日は特に胸がむかむかする。
兄が事故にあってから十八年間、私たちはいったい何を学んだのだろう。いや、何も学んでなんかいない。お互いがお互いをだましつづけているだけにすぎない。
どこからか、かすかに笑い声が聞こえる。私は立ち上がりあたりを見まわす。午前零時のリビングには誰もいない。妻の声でも息子の声でもないその声は、ときどき途切れたりしながら室内をさまよう。私は声の正体に気づいている。兄さん、もういいだろう? 僕は限界だ。疲れた。そろそろおりることにするよ。
私は携帯電話のアドレス帳を開いた。途方もないためらいのあと、思いきって、ボタンを押した。
「はい、もしもし?」
ひさしぶりに耳にした母の声はひどくうつろだった。
「母さん」と私は決死の覚悟で呼びかける。
「ああ、めずらしいわね、どうしたの?」
「今年は鳥取に帰ろうと思っているんだ」
「何よ、急に」
「母さんと話し合いたいことがある」
「ねえ、知っているのよ」と母はため息まじりに言った。「本当は毎年、帰ってきているんでしょう? あたしに内緒で。近所の人がおまえを見かけたってね、教えてくれるの。こそこそするくらいなら、堂々と帰ってきなさい」
「ばれていたのか」私は苦笑いを浮かべた。
「もしくは……もう、帰ってこないでちょうだい」
「母さんは、これからもずっと、逃げつづけるつもりなの?」
言ったとたん空気中にあるさまざまな粒子が重みを増した。さまざまな粒子は一秒ごとに分裂し表面を毛羽立たせて私のからだにからみついてくる。沈黙というものにここまで嫌気がさしたことはない。私は、辛抱強く母の言葉を待つためにテレビをつけ、そこに映し出されているニュースキャスターの顔をぼんやりながめた。ながめつづけた。しかし、いくら時間がたっても、母は口を開きそうになかった。
「実はさ」たまりかねて、私は言った。「兄さんを捨てようとしたことがあるんだ」
電話の向こうで密度がぐっと濃くなるのがわかった。
「たしか兄さんがまだ小学校五、六年だったときだと思う。今は駐車場になっているけど……ほら、郵便局の裏側にあった、昔さ、大きな空き地だったところ、覚えてる? 僕は、ほとんど毎日そこに通って、土管の後ろに隠れて、小さなスコップで穴を掘った。土は固くて掘りづらかった。でも、雨で地盤がゆるむのを待っていられなかった。とにかく一刻も早く兄さんをここに捨てなくてはならない、そう思っていた。あせっていたんだ」
まあ、今さらそんな話をしてもしょうがないけどね、と、私は勝手に話を終わらせた。母の泣いている気配が伝わったからだ。悪いことをしただろうか。しかし、何をどう言えばいいのだろう。何をどう言えば、母を悲しませずにいられるのだろう。
電話を切って、私は何気なくテレビを見やった。テレビ画面には兄が映っていた。そしてにこにこ笑いながら、こんなことを言うのだ。俺も疲れた、早く捨ててくれ、空き地でもどこでもいいから――と。
私はテレビに向かって携帯電話を投げつけた。
あれは、兄が退院して間もないころだった。
僕はいつも空き地で兄さんを捨てるためにがんばって穴を掘っていたんだ。
そう告白すると、兄は肩を揺らして、笑ったのだ。兄はベッドの上で身を起こし、私は椅子に座っていた。母は買いものに出かけていなかった。家の中がひどく静かだったのを覚えている。私たちを邪魔するものなど何一つなく、だから、兄に本音をぶつけてしまったのかもしれない。
他にも兄さんを捨てる方法はいろいろとあった、と私はつづけた。ドラム缶の中や学校のごみ焼却炉の中、橋の下にある水門のすきまに捨てるなんていうアイデアもあった。推理小説が書けるくらい、頭をひねって考えた。それほど僕はおびやかされていたんだ。兄さん、知らなかっただろう?
でも、と兄は言った。お、俺は、こんな目にあって、け、結果的には、お、おお、おまえの方が、か、母さんにとって、いい息子、だ。
サングラスの下の頬が、かすかに痙攣していた。事故の後遺症だった。
違うよ。私はゆっくりとかぶりを振った。母さんがどうこうじゃないんだ。僕は単純に兄さんがうらやましかった。うらやましくて、憎たらしかった。できることなら代わってほしかった。本当にそう思っていたんだ。
窓の外ではすっかり紅色に染まったもみじの葉が風にもてあそばれていた。兄が事故にあってから、とても長い月日がたったような気がした。その間に私は、兄に対する憎しみをほとんど忘れてしまった。しかし、奇妙なことに、うらやましさだけはまだ胸の片隅に残っていて、兄になれるのものならなりたい、代われるものなら今すぐ代わりたい、そんなふうに願っている私が存在しているのだった。
私は顔にほほえみを浮かべようとした、ちょうどそのとき、兄が、ささやきともつぶやきともとれる声を出した。
お、女を、だ、だだ、抱きたい、なあ。
面食らった。しかし、それは内面でのことで、表向きの私は、ひたすら凍りついていた。
兄はそれ以上何も言わなかった。唇はきつく真一文字に結ばれていた。サングラスの奥にある目がどこを見つめているのかわからなかった。
相変わらず家の中は静かだった。母が帰ってくるまで、私は必死に、まるで瞬間冷凍されたように、聞こえなかったふりをしつづけた。
それから一年もたたないうちに、散歩中、兄は突然車椅子を捨てて橋の欄干にしがみつき迷いなく飛び降りてしまったのだった。梅雨のまっただ中で、街全体に陰鬱な気配が立ち込めていた。私はすぐ近くにいたのだが、どうすることもできなかった。一瞬が永遠になり、永遠が一瞬になって、なすすべがなかった。
五
会社を出て駅に向かっているところで息子の声がした。私は空耳だと決めつけて歩調をゆるめなかった。すると、無視するなよー、という聞き覚えのある生意気な言葉が飛んできた。ランドセルを上下に揺らしながらやってくる少年は、まぎれもなく、私の息子だった。私はぎょっとした。
どうしてこんなところにいるのだ? そう聞く前に、息子は両手を合わせて、頭を深く下げ、こちらに向かって拝むようなポーズをとった。
「お願いがあります、お父様!」
この年ごろの子は、こんなにもころころと口調が変わるものなのだろうか。
「一生のお願いです。これを聞いてくれたら、僕、もっとがんばるよ。もっといい点がとれるような気がするんだ」
どうやらテストの結果が思わしくなかったらしい。昨夜、もし五教科の平均が八十点以上だったら新しいゲームソフトを買ってほしいと言われたのを思い出す。しかし、正当な方法では太刀打ちできなくなったのを見て、今度は泣き落としにかかったようだった。この要領のよさはいったいどこから覚えてくるのだろう。息子は、ペットショップで飼い主を求める子犬みたいに、うまく瞳をうるませている。偽りのまなざしだとわかっていても、父親としては、つい甘い気持ちになってしまう。
「今回だけはお父さんが買ってあげるから、その分、しっかり勉強するんだぞ」
そう言ったとたん、息子は叫び声とともに拳を突き上げた。
駅構内にあるおもちゃ売り場で息子がゲームソフトを物色している間、私はずっと、父の後ろ姿を思い浮かべていた。どこからか知らないが、私と兄のために自転車をもらってきて、油まみれの手で、車輪やペダルをていねいに磨いている後ろ姿は、三十年以上たった今でもまったく色褪せていない。それどころかますます洗練されて強くよみがえる。まるで夢の中の残り香のように。
「お父さん、何か悩んでいること、ある?」
プラットホームに向かっているとき、ふいに息子が口を開いた。
「どうして?」驚いて、私は声をうわずらせた。
「テレビの端っこにね、ひびが入ってるけど、あれって、お父さんがやったんでしょ?」
一拍の間があった。
「僕、見ちゃったんだ……夜ね、お父さんがケータイをテレビに投げつけているところ。なんていうか、僕の知っているお父さんじゃなかった」
見られていたのか、と思うと顔が熱くなった。このまま人ごみの中にまぎれ込んでしまいたかったが、もちろん息子を一人にさせることなどできるはずもなく、私は所在ない気持ちで三番乗り場の列に加わった。息子はそれ以上何も聞いてこない。買ったばかりのゲームソフトのパッケージをじっと見つめている。今にも泣き出しそうな表情で。
頭の中にはまだ父の後ろ姿が残っている。電車はなかなかやってこない。
誰にも話していないが、私は一度、父と会っている。たしか大学を卒業して間もないころだった。鳥取の商店街でばったり出くわしたのだ。父はいきなり私を指差して、あ、と言った。私もつられて、あ、と言った。そしてしばらくぎこちないやりとりをつづけてから、もうどうにでもなれというような、投げやりなかたちで、近くの喫茶店に入った。会話ははずまなかった。十数年顔を突き合わせていなかったのだから、本当なら話しても話し足りないはずなのに、何を話せばいいのか、あるいは何から話せばいいのかがわからず、お互い、無言で視線をそらしていた。特に喉が渇いていたわけではなかったが、私は二杯、コーヒーをおかわりして、父は煙草を、五、六本吸った。しかし私は十分すぎるほど満足していた。私は父を覚えていて、父も私を覚えていてくれた、それだけで、私は父の子どもなのだと確信したのだった。
別れ際、父は頭にかぶっていたハンチングをうやうやしく脱いで、どうかしあわせでいてください、と言った。
私は言葉に詰まった。そのときにはもう兄が亡くなっていたのだ。
「お父さん?」
息子に呼びかけられて、私ははっと我に返った。一瞬、めまいがした。めまいの中に父のほほえみが現れて、消えた。
あたりの喧騒に混じって遠くから電車のやってくる音が聞こえる。
「うん、だいじょうぶ」私は息子の手を取りながら言った。「たしかにお父さんは悩んでいるけれど、でも、今に解決してみせる」
六
その週末は、兄の命日だった。私は新幹線で故郷に帰った。飛行機なら一時間弱で着くところだが、毎年、できる限り時間をかけて帰るのは、身構えるためだ。いまだに兄の死を認められない私でも、この日だけは目をそむけられない。逃げられない。だから、思いきり歯をくいしばり、腹部に力を入れる必要があった。
鳥取の駅前広場は若い人たちでにぎやかだった。ハリネズミのように逆立てた髪をいじっている少年やショートパンツから惜しげもなく白い長い足を露出させている少女を見ると、ここはまだ東京なのではないか、というような錯覚に見舞われる。帰省するたびに、私の知っている街のイメージが崩れていく。あったはずの店がなくなり、何もなかった場所に巨大なビルが建っていることに、私はうまく折り合いをつけられない。
商店街の花屋でカノコユリとキキョウ、ミヤコワスレなどを買い、タクシーを拾って、兄の眠る墓地を目指した。タクシーの運転手に話しかけられるのがうっとうしくて寝たふりをしていると、いつの間にか、本当に眠ってしまったようだった。私は浅い眠りの中で女の人と歩いていた。景色は街中から路地へ、路地からふたたび街中へとせわしなく移動して、ピントがぼやけていた。ただ、ハイヒールの硬い音は妙に生々しかった。女性の横顔を盗み見ると、その女性は少し顎を上に向け、背筋を伸ばし、両手を毅然と振って、歩くことを心底楽しんでいる。ねえ、お母さん、と私はおそるおそる呼びかける。ねえ、お母さんったら!
返事はなかった。
「お客さん、着きましたよ」
運転手の野太い声に目が覚めた。私は料金を支払いタクシーを降りた。
山のふもとに立つ墓石は薄汚れていて、一年間、誰もここに来ていないことがよくわかった。他の墓とは明らかに様相が違い、兄の墓は、まるで忘れ去られているみたいだった。しかしこれはある意味、成功でもある。墓を忘れ去ることは死を否定することであり、母は、兄が橋を越えて自殺した日からずっと、兄の死を認めていない。もう、帰ってこないでちょうだい――この間、電話で母がそう言ったのを思い出す。あれは、毎年ここに来て供養する私を咎めていたのだ。兄の死を認めるなと言っていたのだ。
私は花を手向け、そして線香の赤い千代紙をはずし、ライターで火をつけて、そっと墓前に置いた。一つ一つの動作を注意深く行わなければ、精神がどこかへ吹き飛んでいきそうだった。
線香の煙がゆるゆると立ちのぼり、その途中で螺旋を描いて、くたびれたようにちりぢりになる。
どのくらい時間がたったろう。ふと気配を感じて振り向くと、くすんだ山吹色の着物姿が目に入った。
「いつからいたの?」と私は聞いた。
「ついさっきよ」母はうっすらと目尻に皺を寄せている。
皺――見たこともない、私の知らない皺が刻まれている。白粉をつけ、口紅も塗られているものの、それをごまかすことは難しいようだ。
「僕は疲れた。母さんも疲れただろう?」私はできるだけ穏やかに言う。「兄さんはどこにもいないんだ。いるふりをするのは、もう、やめにしよう」
母は大きく肩を落としながら吐息をつき、
「そうね」とつぶやいた。「……今日、おまえがここにいるような気がしていた。会えばそんなふうに言われることも、なんとなくわかっていたわ」
「だったら、来なきゃいいのに」
「行くつもりはなかった。一日家から出ないつもりだったのに、どうしてかしら」
「母さん、ここに来たのは、はじめて?」
「ええ、もちろんよ」母はまた目尻に皺を寄せた。しかし、さきほどの感じとはどこか違う。「大体、あたしは納骨のときでさえ、お墓の前に立つのを拒んだんだから」
「そうそう、葬儀屋の人もずいぶんと困っていたなあ」
「でもね」
「うん」
「もうやめるべきなのかもしれないわね」
「それがいいと思うよ」
しんと静まったあたりにやわらかな風が吹き抜けた。それは私たちを心から身軽にしてくれるようだった。空を見上げると、どこまでも澄んだ青磁色の響きが広がっていた。梅雨が終わりに近づいている証拠だ。なんて気持ちのいい午後なのだろう、と私は思った。
「もうすぐ夏だね」
「そうね」
「母さん、髪切ってあげようか、昔みたいに」
「何よ、急に」
「いやならいいけど」
「……じゃあ」母は、少し恥ずかしそうにうつむきながら、ほつれた髪を耳の後ろに引っかける。「お願いしようかしら」
家は私の記憶にあるかたちをほとんどとどめていた。それはつまりここに住んでいる者がほとんど変わっていないことの裏打ちでもある。母は、自分を変えるのも、家が変わるのも、怖かったのだろう。変わることは、兄の死に直結するから――。
建てつけの悪い戸。柑橘類を思わせる匂い。廊下を歩くときにぎしぎし鳴る音。柱につけられたこまやかな傷跡。台所の入り口にかかったのれん。何もかもが私のいたころと同じだった。このまま奥の部屋から兄が出てきてもおかしくない。もちろん、その兄は、事故にあう前の兄だ。母の理想とする兄だ。
「さあ、座って」私は、姫鏡台の前に母をうながした。「いかがいたしましょう」
「おまえに任せるわ。ちゃちゃっと切ってちょうだい」
「……思いきって、耳のへんまで切ってみる?」
鏡の中の母と目が合った。母は、縁側から差し込む光とまったく同じ明度の微笑を浮かべて、そうね、と答えた。そうね、もう夏ですものね。
霧吹きで髪を湿らせながら、私はうなずいた。ようやく長かった梅雨が明けるのだと思うと胸が高鳴った。
卓袱台の上に携帯電話が置かれている。兄の幻を生み出しつづけたそれは役目を果たし終えたかのように沈黙している。これからは母の言葉で送ってきてほしい。私は生きた人と会話がしたいのだ。
兄さん、だから、ごめんよ。
後ろ髪を持ち上げて五センチほどばっさり切ると、母の華奢なうなじがあらわになり、そこに小さなしみが浮かんでいて、私は息をのんだ。見てはいけないものを見たような気がした。何かに似ている、と思った。何に似ているのか、ちゃんとわかっているにもかかわらず。それは――まさしくゼツボウだった。病室で兄が放ったものだった。私はおそるおそるそこに触れた。冷たかった。指先がじーんとした。
眠っているのだろうか、母は目をつむっている。瞼の裏側に兄を見ているのかもしれない。
ねえ、お母さん、僕のこと、好き?
子どものころ、私は決まってそんなふうにたずねた。たずねないと不安だった。そのときだけは、ちゃんとうなずいてもらえた。遠かった母を身近に感じることができた。
でも、今は違う。母が目を開けたら、私は、こう言うだろう。
ねえ母さん、僕、母さんのことが、好きだよ――と。
七
梅雨が明けたころ、会社の近くにある公園でふたたび少女を見かけた。私はちょうど昼食を終えて煙草に火をつけようとしていたところだった。噴水のしぶきが空中で七色に光り輝くそこをワンピースを着た見覚えのある子が横切っていった瞬間、私は、蝶の死骸のことを思い出して、声を上げた。自分でも何を言ったのかよくわからなかった。
しかし、少女の耳には届かなかったらしく、振り向いてもらえない。彼女は、同年代の子どもたちが集まっている砂場に、早足で歩いていく。赤いリボンで束ねられた髪の毛が揺れている。
私は慌ててあとを追った。
空は湖面のように静かで吸い込まれそうだった。公園を囲む木々の葉がこすれ合い、遠く近く小鳥がさえずっている。その自然の音の中に私の靴音が異質なものとしてまぎれ込んだ。少女の足がふいにとまり、ゆっくりと視線が合わさった。
「こんにちは。おじさんのこと、覚えているかい?」私は息を整えてから、そう聞いた。
「いいえ」と少女は首を横に振った。私のことを覚えているどころか、まるで不審者を見るような目つきだった。
少しとまどいながらも、
「ひと月くらい前だったかな……君にね、蝶々を見せてもらったんだけど」と私はつづけた。
少女は、今度は首さえ振ってくれなかった。無言で、目に涙を浮かべている。今にもこぼれそうだった。
「……ごめんよ、なんでもないんだ。人違いかもしれない、気にしないで」
反射的に左手を振ると、人差し指と中指の間にある、火のついていない真新しい煙草が少し折れ曲がっていて、それに気づくなり、どういうわけか知らないが、私の中で、誰かに殴られたような混乱が起こった。たちまち額や背中に冷や汗が噴き出た。からだがぎこちなくなった。少女は依然として口をつぐんだまま立ちつくしている。話しかけたことを悔やんだものの、もう手遅れだ。
私は、めまいにも似た混乱の世界で、こんなふうにしゃべりつづけた。
あの蝶の死骸はどこで手に入れたものか。もしかしたら、病室の片隅に落ちていたものではないか。私は一度、病室で絶望の光を見たことがある。そしてその光は今、母のうなじに染みとなり、残っている。蝶の死骸は、それに似ているのだ。たしかに、私の知っている、ゼツボウなのだ。ねえ、君はどこであの蝶を拾ったのだろう。よかったら、おじさんに教えてくれないだろうか――
終わりの季節