四月、雨の夜にはじまる(二)
十九 重たい荷物
ケータイが小さく鳴ったので見てみると、お父さんからの新しいメッセージだった。
「たいへん、もう病院出発したって」
葵は慌ててキッチンに顔を出した。そこでは清呼が唐揚げを作ってる最中だ。
「なんでそんなに早いの?」
「わかんない。でもあと三十分ぐらいで帰ってきちゃうよ」
「まあ何とかなるか。あとは冷凍のポテト揚げるだけだし。葵ちゃん、サンドイッチ切ってくれる?」
「わかった」
葵は冷蔵庫を開けると、ラップをかけてあるサンドイッチを取り出した。
今日はこれから、お母さんと新しく生まれた弟が帰ってくるのだ。お父さんは単身赴任している広島からの帰り道に病院へ二人を迎えに行って、一緒に戻ってくる。
留守をまもっていた葵と楓と信生、そして居候の清呼はお昼ごはんにちょっとしたパーティーを計画していた。けれど準備は間に合うかどうか微妙なところ。戦力になるのは清呼と葵だけで、楓と信生は喧嘩して騒いでるだけだから。
清呼がうちで一緒に住むようになって、そろそろ二ヶ月になる。
三月の終わりに、交通事故で十日ほど入院したのにはずいぶん心配したけれど、それよりびっくりしたのは、退院したら男の子から女の子になってた事だった。
お母さんが説明してくれたところでは、それまで男の子って言っていたのが実は男でも女でもなくて、それがなぜか事故にあって眠ってるうちに、女の子になったらしい。つまり性転換ってこと?と質問してみたけれど、お母さんもよく判らないのよね、と、ごまかされてしまった。そして、失礼だから清呼にあれこれ質問しちゃ駄目よ、と念押しされている。
これで残念ながら、葵も楓も清呼を彼氏にして結婚はできなくなったけれど、お姉さんの方が二人で共有できるからいいかな?って思うのだ。
そして退院してきた清呼は、うちに住むことになった。前はお母さんの事務所で龍村さんと一緒に住んでたのに、女の子になった途端に、それは駄目って事になったのだ。これまたお母さんにきいてみると、ふつう結婚してない女の子は、家族以外の男の人と一緒に住むもんじゃないからよ、って事だった。
はっきり言って清呼じたいがあんまり普通じゃないけど、清呼と一緒に住めるのは大歓迎なので全然OKだ。
とはいえ、うちに来てすぐの頃の清呼は、前と変わったところはなかった。ただ、自分のことを「私」って呼ぶようになったぐらいだ。ところが日にちがたつと明らかに身体つきが変わってきて、さらに気持ちもずいぶん違うと判ってきた
何ていうか、それまでの清呼はコンビニみたいに二十四時間営業で、いつも元気だったのに、女の子になってからは時々「準備中」って感じになる。葵たちがそばにいても全然気づかない様子で、ぼんやり何か考えていたりするし、溜息をついたり、独り言をいったりする事もある。
明らかにもっと違うのは、清呼がちょっとしたきっかけですぐに泣き出すことだった。前からテレビなんか見てしょっちゅう泣いてはいたけれど、うちに来てからの泣き方は明らかに変だったのだ。
清呼はお腹の大きいお母さんを手伝って毎日食事を作ってくれるけど、ある日の朝ごはんにめかぶが出た。そしたら信生が「僕こんなの大嫌い」とわがまま言って、そしたら清呼が「ごめんね、私が買ったんだよ」って大声で泣き出したのだ。みんな冗談かと思って呆気にとられた。
あと、炊飯器にお水を入れ忘れていて、朝あけてみたらお米がカラカラになってた時と、ラップがどこからめくっていいか判らなくなった時も、「全部私が悪い!」って鼻水流して泣いた。
さすがにどうかしたんじゃないかと思って、葵も気をつけていたけれど、ある日一緒に新聞を見ていて、清呼が「車窓」を「しゃまど」って読んだのを、つい「しゃそうに決まってるじゃん」って笑ってしまった。そしたらまた清呼は泣き出して、「私は葵ちゃんみたいに賢くないし、絶対に大学なんか入れない」って言うのだ。葵は本気で謝ったけど、自分の偉そうな態度がすごく嫌になってしまった。
そして一番パニックだったのは、龍村さんが来たときだ。お母さんに用があるついでだからって、ケーキを買ってきてくれて、じゃあ皆でカラオケでも行こうかって話になったのに、楓の馬鹿が「駄目だよ、今日は清呼のブラジャー買いに行くんだよ」って暴露したのだ。
葵はとっさに楓の頬を思いっきりつねったけど、もう間に合わなくて、清呼はテーブルの下に隠れてわんわん泣いた。楓も大声で泣きだすし、信生もわけわかんなくて走り回るし。お母さんはうんざりした顔で「シュラバだ・・・」って呟いてたけど、龍村さんは「何も聞こえなかったから」って速攻で逃げてしまった。
龍村さんなんて清呼にはお兄さんみたいなもんだから、いくら恥ずかしくても泣かなくていいのに。おまけに清呼は、龍村さんが帰ってしまったと聞いてまた泣いて、息が苦しくなってしばらく寝ていなければならなかった。
結局いつも清呼が大泣きした後は、お母さんがそばにいると少しずつ落ち着くみたいだった。それを見ていると葵は、やっぱりうちのお母さんってすごいと思った。でもさすがに赤ちゃんが生まれたらそれも難しいかも、なんて心配していたけど、清呼の泣く回数はだんだん減ってきた。
でもそれと入れ替わりに、お母さんの具合が悪くなった。赤ちゃんが予定よりも早く生まれそうになったのだ。お母さんは「外があんまり楽しそうだから、早く出たくなったんじゃないの」って言っていたけれど、結局入院することになってしまった。
お父さんが週一回しか帰れないから、けっこう大変なんだけど、病院の方はお婆ちゃんが時々様子を見にいってくれたし、うちのことは清呼と葵で頑張った。
葵はもう四年生だからほぼ一人前。楓も二年生だし、大概のことは自分でできるけど、一番困るのは信生だった。末っ子で、いつまでたっても赤ちゃん気分だったのに、お母さんが入院しちゃったので、今度は思いっきり清呼に甘えるようになったのだ。
ごはんは口に入れてあげないと食べないとか、夜はトイレについて来てとか、朝お着換え手伝ってとか、靴はかせてとか、それまで一人でできた事をすっぱりやめて、朝から晩まであれやってこれやって。ちょっと気に入らないと暴れたり、泣いたりするようになった。
あんまり手を焼かせて憎たらしいので、葵は信生の甘えん坊で恥ずかしい写真をいっぱい撮ってやった。で、友達とかお婆ちゃんとかに見せるとすんごいウケるのだ。一度龍村さんのところに楓とおつかいに行った時にも、がっつり見せてあげた。
清呼にもらったウサギのポンキチ抱っこしてテレビ見てたり、シャツのボタン留められなくて楓に手伝ってもらったり。歯ブラシに歯磨き出してくれなきゃ嫌だって真っ赤な顔で泣いたり。
そして圧倒的に多いのが清呼にくっついてる写真。膝に乗ってご飯食べてたり、おんぶするふりして明らかに胸さわってる決定的な証拠も握った。それから、寝る前に一緒に布団に入って、絵本読んでもらってるところも。
龍村さんは最初「子供が子供撮るとこうなるんだ」って妙に感心してたけど、だんだん言葉が少なくなってきて、最後に「信生は毎日こんないい思いしてんのか」って真顔で言った。
「この写真さあ、大事にとっておいて、信生が反抗期になったらばら撒くぞって脅すんだ」
「絶対に言うこときくよね」
葵と楓がケケケと笑うと、龍村さんは「俺にお前らみたいな姉さんがいなくて本当によかったよ」と言った。
「ねえねえ、清呼だけの写真も見たくない?」
「見るけど、それも恥ずかしい写真?」
「そんなの撮らないよ。清呼のは営業中と準備中の写真」
まず営業中は、トランプしながら大爆笑してる写真。でもって準備中は、膝抱えて床にぼんやり座ってるところ。逆光でほとんど横顔の輪郭しかわかんないんだけど、そのせいで何考えてるのか色々想像させるような感じになった。
「やっぱり葵はデボラの娘だな。いい線いってると思うよ」
龍村さんはやけにほめてくれた。
「営業中と準備中ってのも葵が考えたの?」
「そう。でも葵は準備中の方が好きかもね。ほら、昼間はよく知ってるお店でも、夜通るとウィンドウだけ明かりがついてて、何か不思議なもの売ってるみたいな感じがするでしょ?準備中の清呼もそんな感じなんだよね」
「なるほど。いい事言うね」
「ねえ龍村さん、準備中の清呼って何考えてるんだと思う?」
「さあ何だろう。少なくとも信生の事ではないな」
「葵はさあ、佐野さんのこと考えてるんじゃないかと思うんだよ」
「佐野?なんで?」
龍村さんやお母さんと同じ事務所にいる佐野さんは、とてもかっこよくて、頭がよくて、専門学校の先生もしている。なので四月から週に一回、受験生になった清呼の家庭教師をしてあげているのだ。
最初は葵の家に来てたんだけど、周りでみんなが騒いで集中できないからって、今は近くの喫茶店で一緒に勉強している。
「佐野さん来るのが木曜日でしょ?清呼は出かける前になると、鏡を何回も見て、ちょっと服を着替えたり、背中の方まで鏡にうつしてみたり、なんかすごくそわそわしてるんだよね。だから多分、佐野さんのこと好きなんじゃないかな」
「楓もそう思う」
龍村さんは腕組みをして、なるほどねえ、なんて言っている。
「確かに佐野は頭も顔もいいからな。でも二人もあいつのこと大好きだろ?」
「当たり前。龍村さんも佐野さんのこと真似したら、清呼が好きになってくれるかもよ。葵を葵姫、楓を楓姫って呼んだりさ」
「それは知ってるけど、清呼も清呼姫に昇格したのか?」
「ううん、清呼がそれはちょっとって言ったらさ、じゃあプリンセスにしようって」
「それでプリンセス?」
葵たちが声を揃えて「そうだよ」って言ったら、龍村さんは「そりゃ無理だわ」って、諦めてしまった。
葵と清呼が頑張って、楓と信生までがついに協力したせいか、お母さんたちが帰ってくる直前にパーティーの準備は完了した。
テーブルには鶏の唐揚げ、フライドポテト、サラダ、卵とキュウリとハムとツナのサンドイッチ、それからカットしたオレンジとパイナップルが並んでいて、少し遅れた母の日でカーネーションまで飾った。後はオーブントースターでピザを焼けば完璧だ。
新しい弟をお母さんが抱いて、お父さんが荷物を持って家に入ってくると、みんなで「お帰り!」って言った。でもよく考えたら弟は初めてこの家に来るのだった。まずは全員で記念撮影して、それから弟をベビーベッドに寝かせると、それからようやく昼ごはん。
お母さんは「やっぱり家は落ち着くわね。ちゃんとやってくれてありがとう」と誉めてくれたし、お父さんも「これは豪華だな」って驚いていた。
弟の名前はお父さんが貴生って決めた。葵にはあんまりオシャレじゃない感じがするんだけど、信生とワンセットで、お父さんがすごく尊敬する人から一字ずつもらったらしい。
清呼はもう貴生に夢中で、「可愛いよね」ってヒマさえあればじっと見ている。でも葵はまだ微妙だなと思っていた。
生まれた次の日にまず病院で会ったけれど、正直いってツルツルに禿げちゃってる福島のおじいちゃんにそっくりだったし、信生なんか露骨に「変なの」とか言ってた。それが今日見ると、たった何日かなのにもうちょっとだけ大きくなっていて、それでもまだ何か、「可愛い」とは違う不思議な気配を漂わせているのだ。そしてやっぱり信生はこの子を妙に意識していて、しょっちゅう様子をうかがっていた。
午後はお父さんとお母さんに留守の間の報告なんかしていたら、あっという間に時間が経ってしまった。
晩ごはんはカレーライスと、昼の残りのサラダとフルーツ。お父さんはそれでも、ビールまで出してもらったせいか「いつも外食だから家で食べるとほっとするなあ」って嬉しそうだ。葵たちもお父さんがいてくれるとやっぱりほっとするんだけど、もう一つ嬉しいことがあって、それはお風呂。
というのも、信生はやっぱりお父さんが帰ってくると絶対一緒にお風呂に入りたがって、それに楓までくっついてく。そうなると葵は清呼と二人でゆっくりお風呂に入ることができるのだ。この時だけは葵もお母さんが使ってる、いい匂いのする大人用のシャンプーとリンスを使ってもいいことになっていて、これで髪を洗いっこするのが楽しいのだ。
「今日は朝から忙しかったね」
髪と身体を洗って、並んで湯船につかりながら、葵は清呼にそう言った。
「なんか一日あっという間」と言いながら、清呼は髪をゴムで束ねている。もう随分髪がのびたので、そうしないと湯船につかってしまうのだ。
「新しく貴生が来たし、明日からもっと忙しくなるよ」
お母さんは信生を産んだ時と同じように、今回もお腹を切る手術をした。だからしばらくは身体を休めないといけないのだ。という事は清呼と葵が、これまで以上に頑張らなくてはならない。
「もっと楽しくなるからいいよ」
「でも清呼、ごはんと掃除と洗濯と買い物、それで学校も行ったらくたびれない?」
「大丈夫。忙しい方があれこれ考えなくていいからね」
「あれこれ考えるってどんなこと?」
清呼は、うーん、って少し黙った。
「なんか私、まだやっぱり女の子ってものに慣れてなくてさ、時々わけわかんなくなるんだよね」
「どういう風に?」
「いろいろ。たぶん葵ちゃんが何にも不思議だと思ってない事に、いちいち迷ってるみたいな感じ」
そう言うと清呼は湯船にあごまでつかった。
「女の子になったのが嫌なの?男の子でいたかった?」
「ううん。私は女の子になりたかったし、そうなった時は素敵なプレゼントをもらったみたいでわくわくしたよ」
葵は初めてきく話にちょっとびっくりした。清呼ってあんなに普通に男の子だったのに、女の子になりたかったなんて。
「でもね、そのプレゼントが段々と重たくなってきて、じっと持ってるとすごく疲れるんだよね。ああ、でもごめん、葵ちゃんにこんな話するべきじゃなかった」
清呼はぎゅっと目を閉じると、両手で顔にお湯をかけた。
「あのさ、プレゼントが重いなら、持ち方変えてみれば?重たいなら背負っちゃえばいいんだよ。スーパーの買い物袋だって手に提げるより肩にかけた方が楽だし、山登りの荷物だって、リュックに入れたらどこまででも背負っていけるよ」
「なるほど」と言いながら、清呼は髪をなおした。
「たしかに私は女の子って事と自分って事を、分けて考えてるかも。それって自分から少し離して持ってるわけで、そりゃ重たくもなるよね。そうか、背負えばいいんだ。要するに女の子と自分とをぴったり一つにすればいいんだよね」
清呼の言うこと、半分わかって半分わからなかったけれど、どうやら解決策がみつかったみたいだ。
「やっぱり葵ちゃん天才!」
そう言って嬉しそうに笑うと、清呼は葵の頬を両手で包んでくれた。元気が出てきたみたいなので、葵はもう少し別の話もする気になった。
「ねえ、清呼さあ、佐野さんのことってどう思う?」
「佐野さん?好きだよ」
「それって普通に好きって事?」
「普通以外に何かある?」
「あれじゃん、彼氏にしたいとか」
すると清呼はひゃあ、って感じの顔になった。
「そういうんじゃないよ。普通。普通に好き。葵ちゃんだってそうでしょ?」
「でもいつも佐野さんに会うときの清呼ってさあ、オシャレに気をつけてそわそわしてるよ」
「それはさ」と言ってから、清呼はまた湯船にあごまで沈んだ。
「佐野さんは、女の子がどういう風にしてると素敵に見えるかって、具体的にアドバイスしてくれるんだよ。私って今まで男の子で通してたから、それがすごく役に立つんだよね。で、いつも会う時は、こないだ言われたことはちゃんとできてるか、あれこれチェックしてるわけ」
「素敵に見えるようになりたいのは、つまり佐野さんのためじゃないの?」
「それは特別に誰かのためって事じゃないよ」
そう言ううちに、清呼の顔はどんどん赤くなってきた。
「なんだかのぼせてきちゃった。先に上がるね」
「えー?早いね、今上がったら、ノブチンにまたくっつかれちゃうよ」
「きっとお父さんのところに行ってるよ」
そして清呼は本当に湯船から出て、タオルで身体を拭き始めた。いつもは葵が先に上がるので、ちゃんと清呼の裸を見るのはこれが初めてかもしれないな、と思った。
ほどいた髪はもう肩ぎりぎりまで伸びてて、ショートボブって髪型だ。胸はけっこう大きくて、これじゃ信生がさわりたくなるのも仕方ないって感じに柔らかそう。そして背中からお尻までとっても綺麗なカーブを描いていて、いつも服を着てるのが勿体ないぐらいなのだ。
あーあ、これを写真にとりたいな、そしてみんなに清呼のこと自慢したい。
お風呂から上がって、清呼は少し勉強したいからってお父さんの書斎に行ってしまった。そこは家の中で唯一葵たちが勝手に入れない場所で、清呼だけが自由に使わせてもらえるのだ。けれど単身赴任してからのお父さんは、毎週金曜の夜に帰ってきても書斎に入らず、居間でみんなの相手をしている。一週間会わないと、話す事が山ほどたまってしまうからだ。
でも葵はお父さんとあんまり話をしない。何故なら毎日のようにメールを送っているからだ。夜、寝る前に、今日あったこととか、質問したいことをメールで送信しておく。すると朝には返事が届いているのだ。そしてお父さんとのおしゃべりは楓と信生に譲ってあげているわけ。だから今夜も楓たちがいるかと思って居間に行ったら、お父さんは一人、ソファで本を読んでいた。
「あれ?楓たちは?」
「お母さんと寝にいったよ」
お父さんはそう言って分厚い本を閉じたので、葵はその隣に腰掛けた。
「なんだ、やっぱり楓もお母さんいなくて寂しかったんだ」
「そりゃそうだろう。葵もじゃないの?」
「私は平気だよ」と言ってみせたら、お父さんはにこっと笑った。
「葵がしっかりしてるから、お父さんも安心して広島でお仕事ができるよ。でも無理は禁物だな」
「無理なんかしてないよ。それに清呼がいるからね」
「そうだなあ、ずいぶん助かってるなあ」
お父さんは本をテーブルに置いて、マグカップに入っていたお茶を飲んだ。
「ねえねえ、清呼このままずっとうちに住んでくれないかな。大学に入れたら寮に引っ越すって言ってるけど、ここから学校いって、お仕事もここからで、結婚するまで住んでてほしいな」
「それは彼女の自由だからなあ。葵だって大学、いや、もしかしたら高校ぐらいからこの家を離れるかもしれないだろ?」
「えー?そんなのありえないよ。私はずっとうちにいるもんね」
「お父さんはそれも嬉しいけどね」
そう言って、お父さんは葵の頭に手をのせた。
「ねえ、清呼が男の子から女の子になって、お父さんはびっくりしなかった?」
「そりゃびっくりしたよ。最初は冗談かと思ったけどね。去年はじめてうちに焼肉食べに来た時は、中学生と間違えたのに、今じゃ毎週会う度に大人っぽくなってるんだもんなあ」
「大きくなったら葵もあんな風になれるかな。ちょっと無理な気がするんだけど」
「まあ、あんなに急に変わる事はないだろうけれど、それでも負けないぐらい素敵になると思うよ」
「そうかな?お父さんなんでそう思うの?」
「そりゃ、女の子ってのはそういうもんだからさ」
そういうもんって?また質問しようとしたら、隣の部屋から貴生の小さい泣き声が聞こえてきた。お腹すいたんだろうか。
「ねえお父さん、うち、四人兄弟って少し大変じゃない?」
「ん?まあよそに比べればちょっと多いかな。でも大変じゃないよ」
「でもこれから大きくなったら、みんなすごく食べるよ。肉なんか塊で買わないと足りないかもよ」
「お父さんその分しっかり働くから大丈夫だよ。葵は四人兄弟は嫌なの?」
「正直いって最初に聞いた時には、えー?って感じだったけど、今はもう四人兄弟以外考えられない」
「だろ?だからこれでいいんだよ」
お母さんがおっぱいをあげているのか、貴生はすぐに泣き止んだみたいだ。楓と信生はもう寝ていて、お父さんは葵のそばにいて、清呼はまだ勉強している。毎日ずっとこんな風にみんな一緒だったらいいのに。葵はそんな気持ちになって、お父さんに思いっきりもたれかかった。
二十 一、九、五
あいつ、マジで来やがった。
地下鉄の通路を抜け、階段から地上に出ると夏の日差しが照りつけた。朝まだ早いというのに、外の空気は熱気をはらんでいて、龍村は額に浮かんだ汗を拭った。
事の発端は、五月に京都で行われた伯父の葬儀だった。
小学校の頃に別れた父親の、七つ違いの兄にあたる伯父だが、龍村が父親と疎遠になった後も何かと気にかけてくれたし、大学生になるまで毎年、兄と龍村へのお年玉を書留で送ってくれていた。三年ほど前から肝臓がんで入退院を繰り返していたが、最後は自分の意思でホスピスに入って、そこで亡くなった。
告別式は伯父の自宅から遠くない葬儀会館で行われた。父方の親類は何年も会っていない相手ばかりで、中には名乗られないと判らない者もいた。しかし誰もが龍村の顔を見ると即座に「久ちゃん、お父さんにそっくりねえ」と声を上げるのだった。
親族の数はそう多くないので、龍村も告別式の後で斎場へ同行した。荼毘に付す前に伯父と最期の別れをし、あらためてその顔を見たが、そんなに面変わりしていなかったのにほっとした。やはりどこか自分に似た面影があり、自分の死に顔もこんな感じだろうかとも思った。
火葬を待つ間、控え室で世間話をしながら過ごしたが、そこでようやく、龍村は父親や親戚と会話らしい言葉を交わした。
父親ももう五十代後半で、髪は半分ほど白くなっている。最初に勤務した職場を去年退職して、今は嘱託で関連会社にいるらしい。その妻は告別式には参列していたが、龍村と兄に気を遣ったらしく、斎場には来ていなかった。
兄は妻を伴っていたが、やはり家庭を持つ者どうしで話が合うのか、父や伯母、従姉夫妻とすぐにうちとけて話しこんでいる。一方、龍村には彼らと共有できる話題が少ないし、たまにふられる話題が「久ちゃんもそろそろ」的なものだったりして、妙に気疲れした。
仕方ないので併設の喫茶店でも入ってみるかと立ち上がると、自分と同じく手持ち無沙汰にしている人間が目に入った。
腹違いの弟の悟だ。まだ高校生なのでブレザーの制服姿。少し離れたところに座って一人黙々とケータイをいじっている。
「なんか飲みにいかないか?」
声をかけると、びっくりしたように顔を上げたが、「はい」と後についてきた。
喫茶店はけっこう賑わっていて、中には笑い声を上げている家族もいた。あれはたぶん大往生だったんだな、と思いながら席についた。悟がコーラを選んだので、自分はコーヒーを注文し、龍村は何年ぶりかで弟の顔を間近に見た。
どちらかというと柔和な感じだが、目元ははっきりと父親に似ていて、それすなわち龍村にも似ているという事だった。明らかに内気そうな印象で、そのあたりも自分の高校時代を思い出させた。
「いま、何年?」
「高二です」
「部活とかやってんの?」
「一応、美術部」
きっとゲームとアニメと漫画に入れ込んでるんだろうな、と想像しながらコーヒーを飲み、美術部で何をしているかだの、今時の高校でのはやりなどをきいたりして過ごした。
思えば、悟が生まれたおかげで、龍村の家族はばらばらになった。両親は離婚して神戸の家を引き払い、父は新しい家族の住む大阪へ、母は兄と龍村を連れて奈良にある実家へと戻った。
だが、もし悟が生まれず、両親が離婚を回避してあのまま神戸に住んでいたらどうなっていたかといえば、一家は確実に震災に見舞われていただろう。
以前住んでいた場所は火災での焼失こそ免れたが、全半壊した家屋が多く、小学校の同級生やその家族にも犠牲者が出たと聞いた。龍村たちの住んでいた家がどうなったかは知らないが、以前一度、仕事のついでに立ち寄ってみると、あたりは昔の様子が想像できないほどに様変わりしていて、新築家屋が並ぶ見知らぬ場所になっていた。
「まあ、また気が向いたら連絡してよ。家出する時とかね」と連絡先を交換し、控え室に戻ると、ちょうど葬儀社の担当者が迎えにきたところだった。
弟からはその後何度か、近況報告のようなメールが来て、こちらも適当に返事していたのだが、昨夜いきなり爆弾メールが送りつけられた。
「これから夜行バスで東京に行きます。しばらく泊めてください」
そのしばらく後に兄から電話があり、「親父から連絡があって、悟が家出したらしいんだけど、そっちに行ってない?」ときかれた。
つまらん社交辞令なんか言うんじゃなかった。
弟は進路で両親ともめたらしく、パソコンで龍村の住所を検索していた履歴があるというので、あっさり行方をつかまれたようだ。仕方がないので兄には「何日か泊めて、そのうち帰らせるから」と答えておいた。
しばらく歩き回ってようやく、龍村は悟が連絡してきたファストフードの店を見つけた。二階をのぞくと、朝から疲れきった顔をした大荷物の客がちらほら座っていて、どれも同じような長距離バスの利用客らしい。その一番奥、窓際の席に悟は座っていた。
Tシャツ、ジーンズにスニーカー。テーブルにはモーニングセットの食べかすが散らばり、傍らには黒いスポーツバッグが置かれている。
龍村が声をかけると悟はケータイから顔を上げ、「すいません」とだけ言った。
とりあえず事務所に連れて帰ることにして、戻った頃には九時過ぎになっていた。
「この部屋空いてるから、使っていいよ」
そこは前に清呼が使っていた部屋で、ベッドとパソコンデスクはそのまま。家出してきてこの環境はおいしすぎる、そう思いながら「シャワーでも浴びる?」とたずねると、うなずいたのでタオルを貸してやる。
出てきたらちょっと話をしなくては。そう思いながら何となくテレビをつけると、夏休みお勧めの親子お出かけスポット、というのをやっている。世間は夏休みで、だから悟も自由研究といわんばかりに家出してきたのだ。
そこへインターホンが鳴り、ややあって清呼が入ってきた。
「おはよう。デボラさんからスイカ預かってきちゃった」
そう言いながら手にしていた水色のエコバッグをテーブルに置いて、中から大きなタッパーを取り出す。悟の家出騒動ですっかり忘れていたが、今日は清呼が仕事を手伝いに来る日だった。
「冷蔵庫に入れておくから、好きな時に食べてね」
そしてキッチンに向かおうとしたところへシャワーを終えた悟が出てきたので、清呼はタッパーを抱えたまま固まってしまった。一方、悟も状況が飲み込めずに目を白黒させている。
「この人、だれ?」
二人はほぼ同時に同じ質問をした。
まずは清呼へ悟を弟だと紹介し、夏休みだから遊びに来たのだが、今日くる予定だったのを言い忘れていたと説明し、今日はもう仕事はとりやめにすると伝えた。それから悟に清呼を、ずっと来ているアルバイトだと紹介する。
「なんだなんだ、びっくりした。じゃあスイカ、一緒に食べようよね」
清呼はそう言ってキッチンへ準備しに行った。その隙を縫って龍村は悟を手招きした。
「お前が家出してきたことは、あの子に絶対に言うなよ」
「う、うん」
悟は機械的にうなずいた。
「言ったら多分泣くからな、そしたらお前の責任だぞ」
支離滅裂な脅しだが、その位言っておかないと調子に乗って家出少年の自分語りをするかもしれない。そんなもので清呼に春先の家出事件を思い出してほしくなかった。
「じゃあさ、悟くんは高二か。私は一学年上でお姉さんなわけだ」
清呼は色も形もばらばらの小皿とフォークを並べ、嬉しそうに悟に話しかけた。
「はい、どうぞ食べてください。ちょっと生ぬるいかもよ」
「果物は生ぬるいぐらいの方が甘いんじゃない?」
龍村はそう言いながら、フォークに刺したスイカを口に運んだ。悟もぎこちなく手を伸ばす。清呼はそれを見てにこにこと笑った。
「やっぱ似てるよね。なんだか龍村さんが二人いるみたい」
「そこまで似てないよなあ。それはお前も嫌だろ?」
言われた悟が照れくさそうに笑うと、清呼は「ほらね、笑い方も似てるよ」と言った。
「ねえねえ、サトルくんってどんな漢字を書くの?」
「え、覚悟の悟、って字」
そう言って悟はテーブルを指でなぞった。清呼はそれをふーんと見ていたが、ややあって「すごい!」と言った。
「龍村さんのお兄さんは一って書いてハジメさんでしょ?龍村さんのヒサシさんは永久の久でキュウ、そいで悟くんはゴ。一、九、五で全部数字」
偶然だろ、と言いかけたが、あながちそうとも思えない。龍村は父親の姓で、離婚してからも母親は息子たちにその姓を名乗らせていた。苗字の画数が多いから名前は簡単にした、というのが子供の頃にきいた話で、兄と弟で一と九、というのはたまに指摘されることもあったが、悟までがその間をとって五、とは考えたことがなかった。
そう言われると、父親の中では息子はやはり三人で、たとえそれが単なる数字の語呂合わせであっても、何か一貫したものを持たせたかったのかという気もする。
そんな事を考える間にも、清呼はなんだかんだとしゃべっていた。女の子になってからというもの、龍村に対して妙によそよそしくなったというか、極端に口数が減ってしまったのに、一人でも他の人間がいると、以前に変わらずハイテンションだ。しかしそうさせたのは他でもない龍村だった。
あの日、目を覚まして女の子になったと宣言を受け、龍村はついつい清呼にキスしてしまった。それも十代の女の子にいきなりそれはないだろうという本格的な奴で、もしあれが病室でなく彼女が怪我をしていなければ、一体どこまでいったことか。
そして後にやや冷静になって、とんでもない事をしたと焦った。いくら清呼が気持ちを寄せてくれていてもまだ高校生、これから受験という大事な時期なのに、自分と遊び戯れている場合ではない。
そして清呼がデボラの家に引っ越したのを幸いに、意識して距離を保つことにした。デボラの産休に加え、赤井の離脱で仕事量が減ったという事でアルバイトも最小限にし、多忙にかこつけて連絡もなるべく減らした。
だからといって気持ちが冷めたとか、そんな誤解は受けないように時々会いはしたが、できるだけ二人きりになるのを避けた。清呼がここへバイトに来る時も、指示だけしてあとは自室で仕事するようにしている。
それだけしても、龍村は清呼から心を離すことはできなかった。気がつけばその姿を目で追ってしまうし、ふと見下ろした胸元が思いがけず無防備だったりすると、そんな格好で外を歩くなと説教したくなるのだった。
女の子になってからの清呼は、身体の線もさることながら、声が変わった。
前は声域でいえばアルトぐらいのところに、子供っぽい甲高さが混じっていたが、今はその高さが消え、代わりに不思議な艶が加わって、それが深い水底を泳ぐ魚の鱗のように、時折きらりと輝くのだ。何かの拍子に軽く悲鳴をあげられたりすると、これがもっと違うシチュエーションだったら、とついあらぬ妄想にふけってしまう。
そして結局のところ己の欲望に抗えず、時には軽く唇を重ねてしまうのだった。清呼はというと、明らかにそれ以上のものを求めているようで、自分から身を引くことは決してなかった。何だか物足りないといった顔つきをしていたりもするが、あえ口にはしない。
龍村は自分の身勝手さを後ろめたく思った。火をつけたのは自分だし、この先どう展開させるか判っているのも年上である自分なのに、知らん顔で両手を後ろに組んだまま。清呼の口数が少ないのはたぶん、途方に暮れているからだろう。
「で、東京にはどれくらいいて、どんなところに行くの?」
「特に決めてないけど」
龍村がそうして物思いにふけっている間も、清呼は次々に質問を繰り出し、悟はなんとも煮え切らない返事ばかりしていた。
「じゃあ案内してあげちゃおうか。今日はもう仕事ないらしいから」
「ねえ、明日模擬テストがどうこう言ってなかったっけ」
「そうだけど?」
「だったら人の世話焼く前に、帰って勉強した方がいいんじゃない?」
そう言われて、清呼は一気にトーンダウンした。前回のテスト結果では志望校は微妙なラインらしく、今回こそ本気を出すと言っていたはずだ。
「わかった。じゃあ今日は帰る。でもさ、月曜みんなでプールに行くけど一緒にどう?」
「どうって・・・」と呟いて、悟は龍村の顔を見た。
「好きにすれば?お前水着なんて持ってきてんの?」
「そんなの買えばいいじゃん。ね?じゃあ一緒に行くね?」
清呼はそれだけ念を押すと、食器を片付け、空のタッパーをぶら下げて去っていった。
さてそれから食事をすませてちょっと話をと思っていたら、こんどはデボラの子供たちが訪ねてきた。
「清呼がさあ、大ニュース、龍村さんとこに弟さんが来た!って言うから、みんなで会いにきたんだよ」
葵に楓に信生までついてきて、好奇心満々といった表情で当惑顔の悟を取り巻いた。一緒にプールに行くという話まで伝わっていて、その辺も気になるらしく、「お兄ちゃん楓のことおんぶして泳げる?」とか聞かれている。
いい気味だ。親から逃げて家出してきてみれば、その先は子供地獄。世間はそんなに甘くない。
結局そのまま子供たちは居座り続け、更に悟と二人で夕食に来るよう招かれて、落ち着いて話をできたのは夜になってからだった。
「そもそも今回、なんでこっち来ようと思ったわけ?」
帰り道、コンビニで買ったコーラをリビングで飲みながらたずねる。
「それは、進路のことでもめたから」
「お前はどうしたいの?」
「東京の大学に進みたい」
「具体的に学校とか、学部とか決めてんの?その、関西にもいろいろ学校はあるけど、それじゃ駄目って事だろ?」
「それはまあ、僕の偏差値で行けるところでいいんだけど」
「つまりあれか、学校というよりは、東京で、学生になりたいって事かな」
「ていうか、家を出たいんだ。何か、僕は実質的には一人っ子で、このままだと大学出て就職してもずっと家にいそうで」
悟は小さく溜息をついた。
「久兄さんは、大学から東京でしょ?」
「それはちょっと事情があってさ。うちの母親が俺の高校卒業に合わせて再婚したんで、新婚さんの邪魔しないように、新しい親父さんが学校関係のお金を出してくれたんだよ。俺、本当は地元志向だし、そうじゃなかったらわざわざ東京まで来てないよ」
悟はふーん、と言ったきり、黙ってしまった。
実際のところ、父親も経済的に苦しいんだろう。龍村たちの養育費も高校卒業までは負担していたし、そんなに蓄えはないはずだ。今は嘱託であれば正社員ほどの給料は出ないだろうし、無理して悟を東京に出すよりも、節約して老後に備える方が堅実だ。
「まあそれなりの理論武装をしないと、説得は難しいかもね。奨学金という手もあるし。もう少し調べてみたら?」
悟は小さくうなずき、不意に話題を変えた。
「ねえ、清呼ってあの、葉山さんちの子供じゃないんだね」
「ああ、あれはただの居候」
「高校生なのに?いつから一人で東京にいるの?」
「中学卒業してすぐかな。なんか家の事情らしいけど」と、適当にとぼけておく。
「彼氏いたりするのかな」
「直接本人に聞いてみれば?じゃ、俺はこれから仕事するからね。明日も朝は適当に食べといて」
清呼のことはあれこれ聞かれたくないので、軽く突き放して自室に引き上げた。悟もしばらくは何やら物音をたてていたが、長旅の疲れもあるのか、すぐに眠ったようだった。
悟は翌日、聖地・秋葉原めぐりに一日を費やした。どうやら手をつけていないお年玉がごっそりあるらしく、資金は潤沢、何やら色々買いこみ、部屋で戦果を前に悦に入っているようだ。そしてちゃっかり水着まで調達したらしい。
やる気満々、そう思って横目で眺めていたが、いざ月曜の朝が来て悟を迎えに現れたのは子供たちだけだった。
「清呼は下で待ってるのか?」とたずねると、葵はつまらなそうに「ドタキャンされちゃったよ」と言った。「お腹痛いんだって」と楓が付け加える。
「きっと模擬テストで頑張りすぎたんだね。昨日の夜は、なんか頭がフラフラするって早くに寝ちゃってさあ、朝いきなりトイレから出られなくなっちゃった」
「だから楓は、ミモザ紅茶館にトイレ借りに行ったんだよね」
「寝冷えかよ。で、病院とか行ったのか?」
「ううん、家にいる。悟くんにごめんねってさ」
それは全然かまわないけど、そう思いながら、当惑顔の悟を子供軍団に添えて送り出し、デボラに電話した。
「もしもし、さっき子供たち出発したよ。悟にはちゃんと面倒見るように言ってあるから」
「ごめんね、無理やり押し付けたみたいになっちゃって。また後でお礼するわ」
「いいよ、どうせあいつは気楽な家出少年なんだから。清呼は具合悪いんだって?」
「うーん、女の子の、病気じゃないけどプールは見学って奴。判るかしら。よりによって今朝が初めてで、ショックでトイレに籠城されちゃった」
「そっか。で、今はどうしてんの?」
「しばらく休憩中。すぐにまた元気になるわよ」
「それを祈ってるよ」
こればっかりは男の自分には想像のつかない世界だ。昔は赤飯を炊いて祝ったなどというけれど。
「ねえ、それでちょっと相談なんだけど、龍村くんからもあの子に、一度病院で診てもらうように言ってもらえない?」
「俺が?なんでよ」
「だってあなたの言うことよく聞くじゃない。ね、やっぱり普通の女の子とは違うみたいだし、後で色々不安になるより、これを機に一度診てもらって、妊娠や出産に問題がないか確認しといた方がいいと思うのよ」
冗談じゃない。どっと汗が出たのは暑さのせいだけではなかった。
「そういうことは是非、女子の先輩から言ってあげてよ」
「もうとっくに何度も言いました。でも、なんかやだ、の一点張りだもの。あの子、妙なところで頑固よね」
ご意見ごもっとも、そう思ったところへ、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「あ、ごめん、貴生が泣いてるんで切るね。じゃあよろしくね」
はっきり言って薮蛇だった。とりあえず額の汗を拭い、この件は保留にして、仕事に頭を切り替えた。
プールをきっかけに、デボラ家の子供たちは一気に悟になついた。勿論大のお気に入りは清呼だったが、悟でもそれなりに遊べるとなれば問題ない。
清呼が夏期講習と家事で忙しいのに比べれば、悟は完全フリーなので、今日は動物園、明日はプラネタリウムへと「案内してあげる」という口実で連れまわされていた。そして夕方になるとそのまま食事に招待され、後はゲームやトランプの相手をして、九時を回った頃に帰ってくるのだった。
龍村は悟からそれとなく清呼の様子を聞きだしていたが、どうやら復活したらしく、元気にしているようだった。そして悟が現れてから一週たった土曜の午後、清呼は仕事を手伝いに事務所へやって来た。
何となくこれまでとは違う目で見てしまうが、いつもと変わらず「こんちは」と入って来て、悟がいないのを確かめると、黙ってテーブルの上に置かれたメモをチェックして作業にかかる。
二人きりだと本当に静かだな。そう思いながら龍村は自室で仕事をした。時おり休憩がてら冷蔵庫の水を飲みに行くと、清呼は手を止めてこちらを見る、そして何も言わずにまた作業に戻るのだった。
四時を少し回ったころにドアをノックされたので出て行くと、清呼は「任務完了」と言って帰り支度を始めていた。「お疲れさん」と送り出そうかと思ったが、ふと気が変わって「ちょっと話する時間ある?」と声をかけた。
清呼はうなずくとそのまま椅子に座ったので、龍村もその隣に腰掛けてテーブルに片肘をのせた。
「少し真剣な話」と言うと、清呼は「じゃあ駄目。もう受験で真剣には飽き飽きしてる」と、はぐらかそうとした。
「受験と同じぐらい、もしかしたらそれより大事なことだけど」
「何?」と少し怯えたような顔をするので、わざと気楽さを装って続ける。
「デボラから聞いたんだけどさ、こないだプールに行かなかったのは、その、月面経済新聞読んでたからだって」
「ああ」清呼は少しうつむいて、Tシャツの裾をいじった。
「それでさ、多分もうデボラに何度か言われてると思うけど、この際一度、病院で診てもらう気にはならない?」
「ならないよ」
「でも、清呼は子供好きだから、自分のことも今のうちに確認しといた方が安心しないかな」
するといきなり清呼は顔を上げ、きっとした表情で龍村の目を見た。
「私は子供は産まないよ。自分の子供なんて産まないから!」
なんでいきなりここに地雷が。
龍村は驚きのあまり、「どうして」と聞くのがやっとだった。
「だって私の子供って多分私と同じような、男か女かわかんない子だよ。そしたらきっとみんなから変な子だって言われるし、学校に通うようになったらいじめられるよ。私の小学校は人数も少なくてみんな仲良しだったし、何よりもタケルがずっと守ってくれたからよかったけど、それでも中学じゃ三クラスもあって、他の地域の子にからかわれたり、いじめられたりもしたよ。女の子にだけど、服を脱がされちゃったことだってあるんだよ。でもタケルみたいな子がいなければ、私の子供は誰が守ってくれる?だったら私が学校でもずっとそばにいてあげたいけれど、そんな事したらもっといじめられてしまうよ。
それに、中学ぐらいになってからは、私はこの先一体どうなるんだろうって毎日不安だった。将来の事なんて全然考えられなかったし、せいぜい一ヶ月先のことしか考えてなくて、毎日できるだけ馬鹿なことばっかり考えるようにしていたよ。私は今、龍村さんがそばにいて、他のみんなもいてくれて幸せだけれど、私の子供がそんな人に出会えるかどうかわからない。私は東京に来たばっかりの頃は不安で寂しくて毎日泣いてたけど、もし私の子供がずっと不安で寂しいままだったら、なんて言ってあげればいい?
私は中学も高校も居場所がなくて嫌いだったし、しょっちゅうサボったから頭が馬鹿で、今とっても困ってる。もし万が一私の子供が勉強好きで、学校にもちゃんと通いたいと思ってるのに、いじめられたりするのが心配で行けなくて、結局馬鹿になっちゃったらどうしてあげればいい?
自分のことだったら何でも我慢すればいいけれど、私の子供を、辛いことが判ってて、この世界に呼んでくることなんてできないよ。だから子供なんて産まない。絶対!」
溢れる涙を拭いもせず、震える声で一気にまくし立てると、清呼はテーブルに突っ伏した。
「お、俺が悪かった」
まさかそこまで清呼が自分に絶望しているとは夢にも思わず、子供なんか平気で十人ぐらい産むつもりじゃないかと、勝手にそんな想像をしていた。
「そんなつもりじゃなかったんだけど、結果的には非常に不愉快な気持ちにさせて・・・ごめん」
そして立ち上がると、キャビネットの上にあったティッシュの箱をテーブルに置いた。清呼はその気配を察して片手を伸ばすと一枚抜き取り、龍村とは反対の方向に顔を上げて涙を拭いたが、まだ泣き止む気配はない。
龍村は部屋を満たす沈黙に耐えられずに口を開いた。
「そういう不安な気持ちって何となくわかりはするんだ。実のところ俺もさ、小学校の時に親父が浮気して、あいつが、悟が生まれて両親が離婚したじゃない。自分もそれを繰り返すんじゃないかと怖いんだ。もう親戚みんなから言われるんだけど、俺って親父にそっくりなんだよ。母親からも俺の駄目なところは親父譲りだって言われてきたし。だからさ、確実にそれを回避する方法ってのはやっぱり、結婚せず、子供を作らないって事なんだな」
「龍村さんはそんな事しないよ」
清呼はようやく顔を上げ、洟をすすりながら小さい声でそう言った。
「でも判らないじゃないか。どこにもそんな保証はない。そして清呼も、自分の子供は自分と同じ事になるんじゃないかって心配してる。結局俺たち、似たような事でずいぶん悩んでないかな」
「それはあれ?私たちって同じ穴のクジラってこと?」
「・・・ムジナね。まあどっちでもいいけど。とにかく、この事は保留にしよう。少なくとも清呼は大急ぎで子供を産む必要はないし、俺もまだ当分結婚はしないと思う。だからさ、お互いに相手の心配事について考えて、それをひっくり返すことのできる根拠を見つけたら、その時またあらためて」
「対決する?」
「まあそこまで深刻じゃないにしても、話をするって事で」
清呼は黙って頷いた。よかった、一時はどうなる事かと思った。そして腕を伸ばし、肩を抱こうとすると「駄目」と拒まれた。
「優しくされたら泣き止めない」
その腕を引っ込めるわけにもいかず、仕方なく彼女の髪をひと房指にからめると、その柔らかい毛先を弄ぶ。春先から伸ばし始め、もう随分伸びて肩に届いている。女の子になってから、それだけの時間が経ったということだ。
そこへいきなり何の前触れもなく、悟が低い声で「ただいま」と言って入ってきた。ここへ事務所として訪れる人間はみんなインターホンを押してから、という暗黙の了解があるが、悟には言っていなかった。龍村は思わず手を引き、清呼の髪はくるくるとはねて肩に散った。
「あ、お帰り。どこ行ってたの」
「ちょっと、本屋とか」
明らかに二人の雰囲気にとまどった様子で、悟はあいまいな返事をした。そこへ清呼は派手な音をたてて洟をかみ、大声で「私やっぱり夏風邪ひいたみたい」と宣言して、悟の方へ向き直った。
「今日も晩ごはん食べにくるよね?」
悟が素直にうなずくと、「じゃあこれから帰りにスーパー行くから手伝って。龍村さんは七時過ぎぐらいに来てくれれば大丈夫だからね」と言うや、を促して出て行ってしまった。
途中で手土産の缶ビールを仕入れ、言われた時間に少し遅れてデボラの家へ行くと、すでに賑やかな食事が始まっていた。今夜のメニューは春巻きと焼き餃子、そして麻婆茄子という中華尽くしで、さらに胡瓜とセロリのサラダ、最後に見覚えのある大きなオレンジのボウルに入った杏仁豆腐が出た。
龍村は隅の方でデボラと、夏休みで帰ってきている夫の葉山氏と共にビールを飲みながら世間話をし、子供の相手は清呼と悟に任せっぱなしだった。
どうやら餃子も春巻も子供たちが作ったようで、時々異様な形をしたのが混じっている。それがまた嬉しいのか、連中は時々「あたり!」という声を上げてはしゃいでいた。清呼はいまだに赤ちゃん返り中という信生につきまとわれていて、膝にのせたり、料理をとりわけてやったり、休む暇もない。しかしその表情はのびやかで、昼間のあの激しい言葉が夢かと思えるほどだった。むしろそばにいる悟の方が、何やら鬱屈した顔つきだ。
食事が終わるなりトランプを始めた子供たちは、喋る、笑う、怒る、はしゃぐ、暴れる、泣く、一通りのことは全てやった。ベビーベッドに寝かされた小さな貴生までが、時々思い出したように泣き声を上げて、その仲間入りをするのだった。
そして時計が九時を回ったあたりで、龍村と悟はそろそろ帰ることにした。子供たちはまだまだ遊び足りないという感じで不満顔だったが、惜しまれているうちが花というものだ。帰り際、見送りに立っている清呼をちらりと見ると、信生がコアラのように背中に貼り付いていた。
外は連続七日目の熱帯夜で、街には昼間の熱気がまだ立ち込めていた。土産にもらった春巻の残りと福島直送の胡瓜を悟に持たせ、二人並んで夜道を歩く。
「あのさ」
悟が突然口を開いた。
「僕、明日の夜行バスで帰ることにしたよ」
「え、もう決めたの?」思わず顔を見る。
「うん。もう一週間も泊めてもらったから。チケットも予約した」
「なんだ、結局俺は一日もまともに相手してないな」
気がつけば仕事だ何だで、ほとんどデボラ一家に丸投げ状態だ。
「せめて明日ぐらい、どこか行こうか」
「いいよ、明日は葉山さんの模様替えを手伝うことになってるし」
悟は何だかすっかりあの一家に取り込まれてしまったようだ。まあ、家族から逃走してきたら、そこはさらにディープな家族だった、というのも一つの思い出だろう。
龍村は「そっか」と呟き、二人はまたしばらく無言で歩いた。男だけだと、どうも静かになってしまう。
「あのさ」再び悟が口を開く。「兄さんて、清呼とつきあってるの?」
やっぱり昼間のあれはごまかしきれなかったか。しかも何か非難めいた口調。
「まあ、一応、っていうか、かるーく、というか」
こういう言い方では清呼に失礼だと思うのだが、弟の手前ちょっと余裕を見せたい。
「うらやましいな」
悟はぽつりと言った。
「あの子といると楽しいから」
「まあね。いい子だからね。でもああ見えてけっこう手ごわいんだ」
「そうなの?」
「まあ、俺は大学でようやく彼女できたぐらいだから、高二なんてまだまだ」
「そうかな」
そして再び、会話は途切れた。アスファルトの上に、二人の足音だけが低く響く。
「次は家出じゃなくて、ちゃんと遊びに来いよ」
「え?また来ていいの?」
「そりゃ、別に遠慮することはないよ。ずっと住ませろとか、友達五人連れとかだと、さすがに困るけど」
変なもので、今頃ようやく悟が弟だという実感が湧いてきた。歯痒いような性格ばかり気になったが、それも含めて確かに自分と共通の何かを持った存在だと感じる。
そういえば、自分はずいぶん反抗的な高校時代を過ごしたのに、家出はしたことがなかった。それを思うと、悟の方が行動力があるわけだし、あんがい近いうちに彼女をつくるかもしれない。奴の彼女は清呼に似たタイプだろうか、それとも全然違う感じだろうか。
二十一 お見舞いに行きたい
清呼は「葉山家第二応接室」のいつもの席に座っていた。そこは実は喫茶店で、デボラさんの家のすぐ近所にある。家が狭いから、お父さんのお客さんを皆ここへ連れてくるので「第二応接室」と呼んでいるけれど、本当の名前はミモザ紅茶館だった。
毎週木曜の四時に、清呼はここへ来て佐野さんに家庭教師をしてもらう。といっても最初の三十分ぐらいはいつも、お茶を飲みながら色々な話をする。
「いらっしゃい、今日は何にする?」
すっかり顔なじみになったここの奥さんが注文をとりに来る。清呼は「アッサムをミルクティーにして下さい」と頼んだ。
注文を終えると、バッグからファイルを出し、この前の模試の結果をテーブルに広げた。もう十一月も後半で、最初の入試まであと半月ばかり。模試の成績は少しずつ上がってきたものの、今まで勉強をサボりまくった空白は、簡単に埋められそうもなかった。
龍村さんや大鳥さんは「浪人でもいいんじゃない?」と言ってくれるけれど、今までがフラフラした生活をしていたのに、これ以上宙ぶらりんなんて絶対に嫌だった。
目標としては、第一志望の学校に合格して、学生寮に入る。そしてちゃんと勉強して保育士の資格をとって、本もたくさん読んで、四年間で何とか同い年の女の子に追いつくのだ。
まだ男女どちらでもなかった子供の頃、女の子になりたいという清呼に、涼子さんはあんまりいい顔をせず、今から女の子になったって、他の子には追いつけないわよと言った。あの時自分は、それでも頑張ればいけるんじゃないかと思っていた。けれど実際女の子になってみると、現実は思いのほか厳しかった。
手放しで嬉しかったのは最初のうちだけで、あとはどんどん変わっていく自分の身体が怖かった。気分も毎日浮いたり沈んだり。時には一日の間に最低と最高が何度もあって、意味もなく悲しかったり、自分でもわけのわからない理由で大声で泣いてみんなを困らせた。
それがようやくおさまってきたと思ったら、こんどはニキビがいっぱいできて、これがおさまったら、初めての生理がみんなでプールに行く日の朝という、最悪のタイミングでやって来た。これにはまた泣いたし、早い子は小学生のうちからこんなの慣れてるわけ?と思ったら、自分の遅れ具合が絶望的なものに感じられた。おまけに先月は電車で痴漢にあって、これまた立ち直れないぐらい落ち込んだ。
本当にもう次から次へとそういった事が起こるので、時々何もかも嫌になった。けれど、いつもあと少しで口にしそうになっては、絶対に飲み込んでいる言葉がある。
「もう死んじゃいたい」
数え切れないくらいそう思った。でもこれだけは決して口にしてはならない。それは自分との約束だった。
家出事件であんなにみんなに心配かけておいて、「死んじゃいたい」なんて絶対に駄目だ。だからじっと我慢して慣れるまで待つ、それしかない。
デボラさんは「普通の子が何年もかかるところを一度に大人になったんだから、色々あってもおかしくないわよ」と慰めてくれたけれど、それでも清呼は時々、子供だった頃に戻りたくなった。
デボラさんちの信生くんは、保育所の年長さんなのに、五月に弟が生まれる少し前から赤ちゃん返りしてしまった。でも清呼にはその気持ちはよく判った。信生くんはお兄さんという新しい立場には急に馴染めなかったのだ。
お母さんは入院してしまって、帰って来たと思ったらこんどは弟にかかりっきり。それで「お兄ちゃんになったんだから」って、いきなり言われてもどうしていいかわからない。だから思い切って赤ちゃんに戻ってしまったのだ。
葵ちゃんと楓ちゃんは「放っとけばいいよ」と言ったけれど、清呼はできるだけのことをしてあげたかった。だからわがままもきいたし、おんぶやだっこもしたい放題。そして寂しい時にいつも抱いていた、ウサギのポンキチをプレゼントした。
そうしたらまた一つずつ自分でできる事が増えていって、今では弟の貴生くんをだっこしてあげたり、お風呂のときに着替えをとってきてあげたり、お兄さんらしいことも沢山できるようになった。それを見ていると、清呼も自分だって頑張れるかな、と思うのだ。
少しずつ、少しずつ慣れていって、そして他の女の子に追いつく、それが目標だった。
「や、お待たせ」
注文したアッサムのミルクティーが運ばれてきてすぐ、佐野さんが店に入ってきた。今日もいつもと同じぐらいかっこよくて、紺色のコートにちらっと見えるチェックの裏地がオシャレな感じ。コートを脱ぐと中はモスグリーンのセーターにボタンダウンのシャツ。清呼の顔を見るとにこりと笑って、腰を下ろした。
「ミルクティーか、では僕は大人っぽくダージリンにしようかな」と注文を入れ、バッグからオーディオプレーヤーを取り出した。
「忘れないうちに渡しておくよ。これで大体、お勧めの曲は入ってるから。そしてこれが曲名リストね」
「ありがとう。また今日から聴いてみるね」
このところ清呼は時々眠れないことがある。身体はとても疲れていると思うのに、いざ布団に入ると、色々なことが頭に浮かんできて目が冴えてしまうのだ。まず心配なのが受験。そして龍村さんのとのこと。受験はもう勉強するしかないにしても、龍村さんとの事はいくら考えても堂々巡りで、なのにやめられない。
清呼が女の子になってから、二人は何となくいい雰囲気で、龍村さんは時々キスしてくれる。でもそれはとても軽くて優しいキスだ。清呼はいつだって、もうどこでもさわってくれちゃって、と期待しているのに、それだけで「じゃあね」なんてお別れしてしまう
多分龍村さんはそんなに本気ではなくて、いつもの軽いキスはその事を知らせようとしているに違いない。なのに、気がつくと自分の方がしっかりと抱きついていたりして、とてもみっともない感じがするのだ。そして迷惑だから二人きりの時はなるべく黙っていようとするけれど、そうしたら次に会う時はもう嫌われているんじゃないかと、不安で仕方ない。
夜、寝る前にそんな事がちょっとでも頭に浮かぶと、今までやらかした失敗や恥ずかしいことが次々と甦ってきて、葵ちゃんと楓ちゃんがそばに寝てるのも構わず叫びたくなるのだった。
まあそんな感じで、細かい事情は秘密にして、佐野さんに「このごろ何だか眠れない事が多いんだよね」と相談してみた。すると「クラシックでも聴いてみれば」と、何曲かプレーヤーに入れてくれたのだ。
「あの、こないだ入れてくれた「春の祭典」って奴さあ」
「よかったでしょ?イライラしてるときはああいう曲をガツーンと聴いて、それからバッハなんか聴くと落ち着くよ」
佐野さんはダージリンをストレートで飲んでいる。清呼はミルクティーにまだ甘さが足りない気がして、もう一杯砂糖を入れながら話を続けた。
「うーん、あれはちゃんとした音楽なの?何かハチャメチャ過ぎない?わけわかんなかった」
「だからいいんじゃない。僕は最高に頭が混乱した時は、あれを大音響で聞くとすっきりするんだけどな」
「佐野さんでも頭が混乱なんてするの?どんな時に?」
「そりゃ色々ね。僕なんて迷ってばかりの人間だから」
清呼はミルクティーの甘さを確かめながら一口飲み、「嘘みたい」と言った。
「本当だよ。僕がこんなにクラシックを聞くのは、それだけ気持ちを落ち着かせる必要があるって事なのさ」
「信じられない。もしかして、仕事とかじゃなくて、大勢の女の子から好かれて困ってるとか?」
「とんでもない。それどころか本気で好きな人には全然振り向いてもらえなかったりね」
「それは理想が高すぎるとか?」
「理想か」
佐野さんはふっと笑って、両手を頭の後ろで組んだ。
「それだったら、プリンセスみたいな真っ白な女の子に、一から全て教えて理想の女性に育てるってのがいいな。紫の上みたいにね」
「そのプリンセスってのやめようよ。それに私は真っ白じゃないし」
「じゃあ何色?」
「そりゃやっぱり縞模様じゃない?」
「縞模様?」
「あれだよ、ヨコシマな心って奴」
それを聞いた途端、佐野さんは天井を向いてアッハッハと声をあげて笑った。鼻の穴までかっこいい。
「それはちょっと別の意味だよ。帰ったら辞書ひいてごらん。でも縞模様ってのはいいな。僕の印象では清呼は白地にパステルカラーの水玉だけどね」
またやってしまった。清呼が赤面している間に、佐野さんはテーブルに広げてあった模試の結果を手に取ると、「さて、じゃあ本題に入るとするか」と言ってまた紅茶を飲んだ。
「なかなかいい線いってるじゃない。あと半年余分に時間があれば確実だと思うけど、これでも十分だと思うよ」
「そうかなあ」
急にテンションが下がった清呼を見て、佐野さんはまた小さく笑った。
「もっと自信もって。僕が専門学校で教えてる生徒には、もう大学出てる子とか、大学に通いながらって子もいるけど、清呼はその子たちに比べてもひけはとらないよ。頭の回転はいいし、仕事だってちゃんとできてたしね。ただ学校の成績が悪いのは、毎日の積み重ねが足りなかったからだ。でも受験ってのは意外とコツで乗り切るところがあって、それさえ押さえておけばけっこう大丈夫なものさ」
佐野さんにそう言われると、何だか本当にできそうな気がしてくる。どうしてこんなに完璧な人なのに、自分は龍村さんの方が好きなのか、清呼は時々不思議になることがあった。
今でこそそんな事はなくなったけれど、子供だった頃には龍村さんから何かにつけて、馬鹿だのアホだの言われていた。「コブラツイストってどんなの?」と質問したら、いきなり技かけられて泣かされたことまであるのだ。
それに龍村さんは別にオシャレじゃなくて、適当に同じような服ばっかり着ている。髪型も「癖毛だから伸ばすと面倒」って、ワンパターン。顔立ちは普通だと思うけど、佐野さんほど笑顔を見せなくて、真顔で冗談言ったりする。そして葵ちゃんや楓ちゃんの事も呼び捨てだったり「お前ら」だったりで、葵ちゃんは「ああいうのブッキラボーって言うんだよ」って不満そうだ。
それなのに龍村さんはとても優しい。普通の時でもそうだけど、なんだかんだで清呼が思い切りみっともない状態になっても、「あーもう仕方ないな」って言いながら助けてくれるに違いない。
今までも何度かそういうことはあったし、それは心の底ではっきりと感じられるものだった。もちろん佐野さんだってとても優しいんだけど、どこか距離があって、こっちからもそんなに馴れ馴れしくしちゃいけないように思えるのだ。でもその、ちょっと遠い感じが、佐野さんのかっこよさを一番引き立てている気がするのだった。
佐野さんが本気で好きな人ってどんな人だろう。佐野さんに振り向いてくれないなんて、そんな人この世にいるだろうか。
次の日学校から帰って、さて晩ごはんの準備でもしようかと思っていたところへ、龍村さんからメッセージが来た。
「明日のバイト、急用ができたので取消にしてください。もうその後は受験だから当分休みにします」
どうしたんだろう、と清呼は思った。いつも土曜はアルバイトって事もあるけれど、仕事そのものより、会うのが本当の目的だった。会えないとなると急に声が聞きたくなって、電話してしまう。
「もしもし?今お話ししていい?」
「どうぞ」
どうやらマンションにいて、仕事は休憩中みたいだ。
「急用ってどうしたの?」
「うん。実家の婆さんがちょっと入院しちゃってさ。なんか心筋梗塞の軽い奴らしいけどね。ここんとこ急に寒くなったから、そのせいじゃないかな。それでまあ入院して、詰まった血の塊を薬で溶かすらしくて、大事じゃないらしいけど」
「はあ、そうなんだ」
清呼はそれだけでもう心臓がドキドキしてしまった。
「今年はどうせ年末は帰省しないつもりだったし、日帰りで明日、見舞いに行くことにしたんだ。急に予定変えて悪いね」
「連れてってくれる?」
「は?」
「私もお見舞いに連れてって」
「なんで連れてくんだよ」
「だって心配だもの。お正月にお年玉ももらったのに」
本当の事を言えば、もうお婆ちゃんを治してあげることしか考えていなかった。病院でお医者さんがちゃんとみてくれるにしても、痛かったり、苦しかったりするところがあれば、それを少しでも楽にしてあげたい。
「ありがたいけど、お気持ちだけいただいときます。じゃ、まあそういう事で」
龍村さんはそれだけ言うと、一方的に電話を切ってしまった。清呼はもう電話をかけ直さなかったけれど、頭の中で早くも明日の予定をたてていた。
そして翌日、土曜の朝、清呼はまだ薄暗いうちに家を出た。デボラさんには学校の友達と約束があると言ったけれど、もちろんそれは嘘で、龍村さんが出かけるところをつかまえて一緒についていく気だった。
デボラさんの家から事務所のマンションまでは歩いて十分ぐらい。早足で到着すると、玄関が見える植え込みのブロックに腰を下ろした。でも三分もするとお尻がすごく冷たくなってきたので、仕方なく立って待つことにした。まだ十二月にはなっていないのに、吐く息は真っ白。昼間はけっこう人通りがあるのに、この時間はほとんど人がいない、たまに通るのは犬の散歩だったり、ウォーキング中の人だったりした。
時々足踏みして待ちながら、清呼は今日この後、病院でお婆ちゃんに会ってからどうするかを考えた。
とにかく何かうまくごまかして、二人きりになる時間を作らなくてはいけない。例えばいったん帰るふりをして、忘れ物をしたと戻るのはどうだろう。そして五分でも三分でもいい、ものすごく集中してお婆ちゃんの苦しいところを楽にしてあげるのだ。
問題は例の鼻血だった。何故だか人の傷や病気を治すと、使った力に比例する感じで鼻血が出て、眠くなってしまう。だから今日はショルダーバッグにタオルとビニール袋とウェットティッシュを詰め込んできた。
どれだけ龍村さんに怪しまれようと、「何かわかんないけど鼻血出た」と言い張って、あとは新幹線の中で眠りまくるのだ。それでちょっと復活したら、駅からデボラさんの家までなんとか自力で帰って、あとはまた一晩ぐらい寝たら普通に戻れると思う。
そんな事を考えながらじっと待っていたら、辺りはすっかり明るくなってきて、ケータイで時間を確かめるともう七時前だ。龍村さん、寝坊しちゃったのかな、と心配になってきたところへ、マンションの入り口のドアが開いた。
「うわ!何だよお前!」
清呼が駆け寄っていくと、龍村さんは心底驚いた顔をした。
「お見舞いに連れてって」
「何?それでずっと待ってたわけ?冷え冷えじゃん」
龍村さんは清呼の頬をさわって、呆れた声を出した。暖かい手。もっと触れていてほしい。
「とにかく昨日も言ったけど、気持ちだけで十分だから。早く帰って暖かいもんでも飲んでな」
そう言ってさっさと歩いていこうとするので、清呼はあわてて龍村さんにがっちり抱きついた。
「嫌だ、絶対一緒に行く。でなかったら離さないもんね。朝っぱらから外で女の子と抱き合ってるって、龍村さん近所で評判の変質者になっちゃうよ」
そう言う間にも一人、トイプードルを連れたおじさんが、こちらをじろじろ見ながら歩いていく。
「馬鹿、冗談もいい加減にしろっつうの。とにかくもう時間ないんだから、とりあえず駅まで行こう」
やった、久々に馬鹿呼ばわりされたものの、作戦成功。
「だからさ、なんでそうまでして見舞いにこだわるんだよ」
龍村さんはそう言ってまた一口コーヒーを飲んだ。清呼はココアのカップを持ったまま何度目かの「心配だから」を繰り返した。
「命に別状はないし、一週間ほどで退院できるんだから」
せっかく駅のそばまで来たのに、龍村さんは「ちょっと話をしよう」と喫茶店に入った。そしてまた、やっぱり連れて行けない、なんて意地悪な事を言う。
「大体さ、来週受験だろ?呑気に奈良くんだりまでついて来てる場合じゃないよ」
「問題集は持ってきてる」
龍村さんは、はあ、と大きな溜息をついて、それからじっと清呼の顔を見た。
「お前、何かやらかす気だろう」
清呼は一瞬ぎくっとした。でも龍村さんがその秘密を知ってるはずがない。
「言ってる意味わかんない」
平気なふりをしてそう言いながらも、少しドキドキした。今こうやってとぼけてるけど、帰りにはきっと鼻血を出したり眠りこんだり、心配させてしまうに違いない。でもその時はその時、大事なのはお婆ちゃんを治すことだ。
龍村さんはそれからコーヒーを飲み干すと、「よしわかった」と言った。
「仕方ないな。もう時間切れだし、今回は連れて行ってやるよ。俺ちょっとトイレに行ってくるから、この中身でここのお金足りるかどうか数えといて」
そう言って革の小銭入れをテーブルに置くと、龍村さんは席を立った。清呼はすごく嬉しくなって、伝票の金額を確かめると急いで小銭を数え始めた。一円玉を減らしてあげたほうがいいだろうか。色々考えてお金をテーブルの上に積み上げて、それからしばらくしても龍村さんは戻ってこなかった。
お腹でも痛いのかな?ちょっと心配になって、店の奥にあるトイレの方を見たら、おばさんが一人出てきたところだった。それと入れ違いに、外国の男の人が入っていく。て事は男女兼用のトイレか。っていうか、龍村さんはもう中にはいない?そこまで考えてはっと気がついた。
逃げられた。
でもコートとショルダーバッグは席に置いたままだ。清呼はあわてて小銭と伝票をつかんでポケットに入れ、自分のと龍村さんの荷物を抱えると立ち上がった。そしてまずトイレに向かったら、ちょうどさっきの男の人が出てきたところで、中をのぞくとやっぱり誰もいなかった。
しまった、どうしよう。
もう泣き出したい気持ちで、レジでお金を払って、とにかく駅を目指した。何て間抜け。サルでもひっかからないような手口にはめられてしまった。さっきまで嬉しそうに小銭を数えていた自分が本当に情けなかった。
駅のあたりは人でごった返していて、龍村さんを見つけるのは無理だった。うろうろしていたら次から次へと人にぶつかりかけたので、清呼は仕方なく脇によけて、そのまましゃがみこんでしまった。
またやった。考えるのは自分のやりたい事ばっかりで結局大迷惑。気がつくのはいつも何か起こってしまってから。何より悲しいのは、龍村さんがコートも鞄も置いていったことだ。きっとお財布とケータイしか持ってない。風邪でもひいたら自分のせいだ。そして鞄はずっしり重くて、途中で読む予定だった仕事の資料とかが入ってるに違いなかった。今日一日分の仕事を遅らせた犯人も清呼なのだ。
大きな溜息が出たのと同時に、ポケットに入れていたケータイが小さく鳴った。慌てて取り出すと、龍村さんからのメッセージだった。
「ごめん、やっぱり連れて行けません。荷物は事務所に放り込んでおいて」
清呼はにじんできた涙を拭くと、急いで返信した。
「本当にごめんなさい。寒いでしょ?」
しばらくして「大丈夫。気にしないで」という短い返事をもらってから、清呼はようやく立ち上がった。
あまりにも落ち込んで、まっすぐ帰りたくない気分だったので、清呼はバス乗り場へ行くと、最初に来たバスに乗った。適当に乗り継いでゆけば、そのうち帰れるだろうし。
一番後ろの窓際に座って、朝の光の中に流れてゆく街の風景を眺めながら、清呼は龍村さんの事務所のことをぼんやりと考えていた。
今年の二月に赤井さんが突然抜けて、それからデボラさんが産休に入って、龍村さんたちは色々と話し合った結果、事務所を解散する事にしたのだ。マンションは年単位の契約で家賃を安くしてもらっているから、年明けの一月が区切りになる。
龍村さんはもう次に住む場所を見つけていて、今の事務所からそんなに遠くはない。でもそこはみんなの事務所ではなく、龍村さんだけの部屋。だから清呼も気軽に訪ねていくことはできないだろう。それを思うと何だか寂しかった。
デボラさんの旦那さんは単身赴任は諦めて、四月からまた都内の大学の先生になる。でもそうすると准教授ではなく講師って事で、お給料が随分違うらしい。なのでデボラさんはそろそろ貴生くんを保育所にあずけて仕事をしようかな、と言っている。
佐野さんは来年は専門学校の先生を一年休んで、他の仕事もかなり減らして充電するらしい。充電ってどんな事?って聞いたら、「旅行したり、本読んだり、映画見たりね。僕はある程度何かを取り入れないと、すぐに空っぽになっちゃうんだよ」と言って笑った。五月からしばらくヨーロッパ旅行って言ってたけど、やっぱり佐野さんは何をやってもかっこいい。
そうやって事務所が解散する事を考えると、そこに住んでいた時の不安や楽しさ、悲しみや喜びが次々と甦ってきた。
自分はあそこで子供の時間を終わった。けれど今の自分が完璧に大人かというと、それは身体だけで、頭はついさっきの出来事でも判るように相変わらず馬鹿だし、住む場所だって生活費だって、誰かに頼らないと生きていけない。
事務所では居候だったし、デボラさんの家でも居候。大学で学生寮に入れたとしてもやっぱり鉄輪パパがお金を出してくれて、完全に自分の力で生きていけるのは最短でも四年後の事なのだ。なのにどうして張り切って、龍村さんのお婆ちゃんのお見舞いに行くとか、強引な事を考えてしまうんだろう。
いつか自分で生活できるようになったら、一人だけで部屋を借りて住んでみたい。寂しいし、楽じゃないかもしれないけれど、誰にも頼ってないってどんな感じか知りたいのだ。いつも誰かに守られてきて、それが当たり前みたいに感じていたけれど、このごろ時々、それじゃ駄目だという気持ちになる。
それは多分、子供の時代が終わったっていう事で、大人というのは誰かを守るために生きているような気がするのだ。清呼が守りたい人は大勢いる。いつも会ってる人も、もう会えない人も。
人はよく、家族が一番大切だというけれど、それを裏返せば家族以外の人は大切じゃないってことになってしまう。けれど清呼には、家族かそうじゃないかは重要な区別ではない。ただ単に、自分にとって大切な人。どうしてそれだけではいけないんだろう。そんな事考えるのは、自分が家族と離れてしまっているから?それとも、子供を産んで家族を増やすつもりがないから?
バスの窓から見える、街を歩く人たち。あの人たちの誰が大切で誰が大切じゃないかって区別のしようがないし、みんな大切だよね?暖房がきいているせいか急に眠くなってきて、清呼は少しだけ眠ろうと目を閉じた。
二十二 なくてはならない
「ちょっと休憩でもしたら?差し入れ持ってきたわよ」
涼子は声をかけると、提げてきた紙袋を、積み上げられたダンボールにのせた。
「あ、涼子さん、何持ってきてくれたの?」
一番に駆け寄ってきたのは清呼(きよしこ)だ。今日は髪を後ろに束ねているので、いつもと雰囲気が違う。埃で汚れた軍手をジーンズのポケットに突っ込み、紙袋を覗いている。
「缶コーヒーとサンドイッチ。カツサンドは一人前しかないから、早い者勝ちよ」
明日はいよいよ龍村たちの事務所を引き払う日だ。
テーブルやソファなどの家具はリサイクルショップに叩き売って処分し、龍村の荷物は既に運び出したらしい。だから今やっているのは、こまごまとした品物の片付けと掃除だった。そして明日には管理会社の人間が来て、部屋のチェックと鍵の返却ということらしい。
「さすが涼子ちゃんは優しいね」
そう言いながら佐野が奥から出てきて、後に龍村が続いた。ダンボールを一つテーブル代わりにして、そこにサンドイッチの箱を並べ、全員床に腰を下ろした。清呼は缶コーヒーをそれぞれに配っていたが、「あ、フルーチェさん」と言って立ち上がると、洗面所へ消えた。
「あら、あいつも来てるの?」
「うん。見て驚くなよ」
変なことを言うもんだ、と思って顔を上げると、そこにはフルーチェ、というか、以前フルーチェだった人物がいた。
「お久しぶりっす」
声は変わらないが、体積はこれまでの三割減ぐらいで、色は白いが全然プルプルしていない。ただの小太りな男だ。
「あんたどうしたのよ。フルーチェっていうより、杏仁豆腐っていうか、ういろう?」
「ダイエットしてるんだってよ」
清呼が嬉しそうに説明してくれる。
「どうやってそんなに痩せたの?いくらかかった?」
「ただのカロリー計算っす。ネットのダイエットサイトに登録して、毎日地道にやったっす。今もやってるっす」
そ、そんな。それだけでこんなに劇的に痩せられるなら、自分たちが日々大枚をはたいているダイエットサプリだとかエステだとかスポーツジムは何なのだ。
「そういえば夏に会った時に、なんかプルプル感が少ないとは思ったんだけど。いつからそんな事してたのよ。第一、あんたそんなに根性のある人間だったの?」
「フルーチェはかなり緻密な性格してるよね。決めたら継続の人、でしょ」
佐野が笑いながら言う。
「もうかれこれ半年以上になるっす」
「でもなんでダイエット始めたの?」
「それはまあ、健康のためっす」
それじゃどうも腑に落ちないのよね。首をひねりながら、卵サンドをひたすら頬張っている清呼を眺めていたら、いきなり閃いた。
「わかった、清呼が女の子になったからでしょ!」
「そ、それは関係ないっす」と言ってるうちに赤くなってきた。苺フルーチェ、か。
「だって清呼さ、前にあんたと北海道の動物園に行くって張り切ってたもんね。あれまだ真に受けてるんでしょ?」
「え?フルーチェさん、北海道は行くよね?龍村さんが交通費一万円くれるって約束してるから、半分こしようよ。行かなきゃ損だよ」
「あんたそんな約束したの?」
呆れて龍村の方を見ると、「まあね」と、仏頂面をしている。
「馬鹿じゃないあんたたち。どうかしてるわ」
涼子はそして、フルーチェの取り分であったカツサンドをとると一口で平らげた。何がダイエットよ。しかしデブって本当に努力によって劇的に変わるものね。それに引き替え、薄毛はやっぱり難しいんだなあ。
涼子の身辺には近頃ちょっとした変化が起こっていた。最初のきっかけは、十二月にうけた健康診断だった。
今年で三十一なので、オプションで乳癌検診を受けたのだが、あろうことか、いきなり再検査の通知が来た。精密検査は異常なしという結果が出たのだが、そこでちょっとした出来心がおきた。交際相手の森本に「私、乳癌の可能性ありだって」と言ったのだ。
まあ、少し驚かせてやれ、ぐらいの気持ちだったのだが、後になって考えると、相手を試していたとしか思えない。そしてその行いは自分に跳ね返ってきた。
「え?本当に?」
森本の言葉にはありありと「困るんだけど」という気持ちがにじみ出ていて、涼子の身を案ずる気配はなかった。
咄嗟に撤回もできず、彼女は一週間の時間稼ぎをしてからようやく「大丈夫だった」と告げた。森本は「心配しちゃったよ」と言ってくれはしたが、もはや素直には信じられなかった。
そんな出来事のせいで、何だかもやもやしたまま年を越したが、新年早々また新たな波乱が起きた。
「親父がとうとう、あと三年で社長は引退だって宣言したよ」
仕事始めの前夜に訪れた寿司屋で、森本はそう話を切り出した。
「僕も夏のボーナスをめどに退職して、親父からの引継ぎ開始だ。それで、だけど、君の考えはどう?」
「どうって?」
「いや、僕はうちの仕事を始めたら忙しくなるだろうし、そのうち結婚もするだろうし、色々あるから」
何だか涼子が当事者なのかそうでないのか、微妙な表現をする。
「ちょうど来週から一週間出張なんで、その間に考えて、君の意見を聞かせてくれないか」
わかったわ、と返事したものの、内心穏やかでなかった。下駄預けやがった、というのが率直な感想だ。
森本が「結婚しよう」と口にしないのは、涼子に主導権を委ねて、後に起こることは全て彼女の判断に帰すると言いたいかのようだ。尊重を装って、うまく責任回避されている。
もちろん、ここで自分が積極的に動けば、このままゴールインできるのはほぼ間違いない。しかし本当にこれでいいのか?
乳癌疑惑のことなどとっくに忘れた様子の森本を見ていると、長い結婚生活のうちに、涼子の身に何か起きたとき、いやそれでなくても単に風邪で寝込んだだけでも疎んじられそうな気がする。そうでなくてもこの、逃げの姿勢はいただけない。
とはいえ、龍村との結婚話が頓挫したのも、向こうの煮え切らなさにしびれを切らせたのがきっかけだった。何事も男主導で進むなんて幻想だ、日頃この事実を肝に銘じて生きていたはずなのに、いざとなるとつい相手が動くのを期待してしまう。自分が全く進歩していないという現実に、涼子はすっかり苛立った。
そんな気持ちのまま翌日の仕事始めを迎え、夜には職場の新年会に出た。全部で十名足らず、馴染みの居酒屋だ。五十代の上司がインフルエンザで欠席のため、若手もリラックスして、のっけから打ち解けた雰囲気だった。
一番はしゃいでいた若手男子は、普段から受けない冗談ばかり言うので、涼子はどうも好きになれなかった。
彼はその夜もまた、同席する契約社員の女性の容姿をネタにした、下らない冗談を言った。いや、冗談だと思ったのは彼だけで、他の人間は皆、凍りつくような一言だった。
普段そういう発言があれば、涼子は先輩の特権で、無理やり別の話題を始めてねじ伏せる。ところがその夜は、気がつくと目の前のグラスをつかみ、「鏡でてめえの面見てから言いやがれ!」と叫んで彼に中身をぶっかけていた。さらに、そばにあったビール瓶を手にして立ち上がると、大きく振りかぶった。
「だりゃあ!」
掛け声だけは勢いがよかったが、バランスを崩し、ビールは後ろの席に座っていた客に降り注いだ。
「うわわわわ」
「あっ!向井さん、やばいっす!向井さん!」
あれ?なんで私が騒ぎを起こしてる?
目の前では見知らぬ男がビールに濡れたままこちらを見上げていて、同僚たちが右往左往している。その時になって初めて自分が酔っている事に気づいたが、もう何もかもどうでもいい気分だった。
結局、新年会はその場でお開きになって、同僚が収拾をつけてくれた。翌日、参加者全員にきちんと謝り、店にも菓子折を持参した。一番の被害者はビールをかけられた男だったが、冗談のターゲットになった女性が機転をきかせ、彼から名刺をもらっておいてくれた。
「私ね、涼子さんが自分のためにあんな風に怒ってくれたのがとても嬉しかったんです」
給湯室で名刺を渡しながら、彼女はそう言った。
「でもただの切れちゃった酔っ払いだからね。三十過ぎてさあ」
「ああいう涼子さんも素敵だと思いますよ。だって普段は隙がなさすぎですもん」
私が男ならあんたとつきあうよ。涼子はそう思いながら、名刺を受け取った。水野(みずの)茂和(しげかず)。住所は近所だが、聞いたこともない会社の営業部主任。たしか四十ぐらいに見えたけど、あんまり気難しい相手じゃありませんように。
「ああ、はいはい、ビールのね」
電話して用件を告げると、相手はすぐに思い出したようだった。
「色々とご迷惑をおかけしました。クリーニング代もお受け取りにならかったと聞いたんですが、それでは私の気がすみませんので、あらためてお詫びに伺いたいんですが」
「いや、それはもう別に気にしなくて結構ですよ」
でも商品券ぐらい渡して、自分的にすっきりしたいんだけど。そう思っていたら、相手はこう切り出した。
「それはそれとして、なんですが、一度食事でもどうですか?」
怪しい雲行き。しかしまあ、自分が段取りして、ご馳走して、はいさようならでもいいか。涼子はあえてその申し出を受け入れた。
こういう事はさっさと片付けたい。そう思って涼子は、電話をした翌日にこの男、水野と会った。さすがに例の居酒屋ではなく別の店にしたが、基本的に同じテイストだ。早目に店に着いて待っていると、男は時間ちょうどに現れた。
「いやどうも、お忙しいのにありがとうございます」
「こちらこそ、先日は本当に失礼をいたしました」
まずは大人のご挨拶。念には念をいれて謝罪をし、それから接待モードで食事を始めた。向こうは焼酎のお湯割りを頼んでいるが、こちらは軽く梅酒のソーダ割りにしておく。
「近くにお勤めでいらっしゃるんですね」
「はあ、全員あわせて十二人の会社なんですよ。このご時世に必死で生き延びてるっていう具合で」
その頃になって、あらためて水野の顔をよく見たが、まず目につくのは後退した額だった。しかし肌の色艶を見ていると、実際には自分と大差ない年頃かもしれなかった。
「うちもかなり厳しいんですよ。もう年明け早々社長から無謀な営業目標出されちゃって」
ここは営業職どうし、慰め合いモードでいくか。涼子は二杯目にすだち焼酎のお湯割りを頼んだが、飲み過ぎないよう注意しながら、冷静に話の展開を考えた。水野はやはり営業職のせいか、こちらから次々と話題を提案しなくても会話は進んだ。ではこのまま、日頃の愚痴なんかちょっと喋って発散して帰っていただこうではないか。しかしいつの間にか、話題はお互いのプライベートな事に移っていった。
「私なんか趣味がないですし、休みは基本的に寝てます。買い物もあんまりしなくなっちゃって」
「そりゃすっきりしてていいですね」
「この年になると、なくてはならないものと、あると嬉しいものの区別がついてきたように思えるんですよね」
「僕はそれについては一家言ありますよ。ほら、これこれ」
そういって水野は頭を撫で回す。
「僕にとって髪の毛はまさに、あると嬉しいものなんです。昔はなくてはならないもの、だったんですけど、父親を見てたらもうこれは運命だという気がしまして、三十で今の髪型にして、そろそろ三年になります」
ということは自分と二つしか違わない?
「とても似合ってますよ」
「しかし名前が茂和でしょ?親父の悲しい願いが如実に表れてまして。何だかね」
「まあ私も、熱いのに涼子って言われますから」
そんな具合に時間は和やかに流れ、店を出ようとする段になって、涼子は伝票がないのに気づいた。テーブルの下にでも?と覗き込んでいると、水野は「今日は僕が言い出したんだから、僕のおごりです」と言った。どうやら涼子が手洗いに立った隙に支払いを済ませたらしい。
「でもそれじゃ私の気がすみませんし」
「その話はもういいでしょう。僕はあの時あなたのことを、面白い人だと思ったんです。で、今日ゆっくり話してみて、やっぱり自分の直感は正しかったと思いました」
なんでこういう展開になるんだか、そう思いながらも、涼子は悪い気はしなかった。そしてそのまま、次に会う約束をしてしまった。
あれから水野と会ったのはたったの一回、一昨日の夜だが、いきなり「結婚前提でつきあいたい」と切り出された。まあ考えときます、とはぐらかしておいたが、嫌とは言いたくない自分がいる。
正直なところ、森本よりもずっと気が合うし、変なプライドがないところも気に入った。ただし客観的な条件に差がありすぎる。かたや三年後には社長。かたや零細企業で、年収は涼子を下回るのではないだろうか。そしてあの頭だ。対する森本は下手をするとまだ二十代に見えるほど若々しい。もし水野に乗り換えたとしたら、友人たちは何と言うだろう。
結婚は経済活動よ。
わかってます。何よりも自分が一番そう思っているのだ。今気持ちが揺れているのは、単に結論を出したくないだけで、後になってまた森本に未練がましくなるのかもしれない。しかしもう時間がない。今夜涼子は森本に会って、彼の出張中に自分が考えたことを告げなければならなかった。のらりくらりとかわす、という方法もあるにはあるが、それは己が許さない。
なんだか今日の涼子さんは上の空だったな。
清呼は何もなくなった事務所のマンションで一人、床に座って龍村さんたちがゴミ置き場から戻ってくるのを待っていた。もうすっかり外は暗くて、エアコンも切ったので寒いぐらいだ。
涼子さん、いつもだったらフルーチェさんのダイエット話にもノリノリのはずなのに、ちょっと話しては何か別のことを考えている感じ。そういえば先週、合格祝いをくれた時も、少しそんな雰囲気だった。
そうなのだ、必死の努力の結果、清呼はとうとう大学に合格した。三つ選んだ志望校、結果は二勝一敗で、第一志望の学校に合格した。でも相当無理していたんだろうか、クリスマスの少し前に合格通知を受け取って、その翌日からすごい熱で三日ほど寝込んでしまった。
そして先週の土曜、涼子さんがケーキバイキングに誘ってくれて、そこで合格祝をもらったのだった。三月生まれだからって、誕生石のアクアマリンをあしらったペンダント。嬉しすぎてその場で身につけたけれど、あの時も何だかおしゃべりに勢いがなかった。
「プリンセス、お待たせ!」
マンションのドアの開く音がして、佐野さんの声が聞こえたので、清呼は急いで立ち上がった。でもなかなか入ってこないので玄関へ行くと、佐野さんはもう出て行こうとしていた。
「姫君たちが待ってるから、フルーチェと先に行くよ。また後でね」
今日はこれから、デボラさんの家に集まることになっている。貴生くんがいて、事務所の片付けを手伝えなかったから、デボラさんは鍋と焼肉の二本立てでみんなにご馳走してくれるのだ。
「そうなんだ?じゃあまた後でね」
そう言って二人を見送りながら、清呼はやっぱり佐野さんってかっこいいと思った。だってさりげなく気をきかせて、龍村さんと清呼が二人っきりになる時間を作ってくれたんだもの。
「さてと、まあこんなもんかな」
二人でリビングに入ると、龍村さんは中を見回してそう言った。部屋の隅にまとめてある掃除道具は龍村さんが明日持って帰るし、デボラさんに渡すものは紙袋にまとめてある。
ここに来るのはこれが本当に最後だな。清呼は小さく溜息をついて、髪を束ねていたゴムを外した。それをポケットに入れると、手に触れるものがあった。朝、出かける時にキーホルダーから外しおいた、ここの合鍵だ。
「龍村さん、これ、返すね」
差し出すと、龍村さんは手を伸ばして受け取った。それから「そうだ、これ持っといて」と、別の鍵を清呼に渡した。
「どこの鍵?」
「どこって、俺んちだよ。引越し先」
「持ってていいの?」
「うん、片付いたらまた、普通に遊びに来てよ」
「わかった」
でも、普通に遊びに行くって、どういう事だろう。もらった鍵を失くさないようにキーホルダーにつけながら、清呼は少し考えた。おしゃべりしたり、お茶飲んだり、テレビ見たり、今までここでしていた、いろんな事?
そんな風に思い出していたら名残惜しくなって、清呼はもういちど自分の部屋をのぞくと、明かりをつけてみた。ベッドもパソコンデスクもなくて、すっからかん。記憶にあるよりもずっと広い感じがする。
さよなら、私の部屋。
心の中でそう呟くと、清呼は明かりを消そうとした。その時、後ろからふわっと、龍村さんが両腕を回してきた。途端に胸がドキドキして、清呼はこらえきれずに後ろを向いた。すると龍村さんは顔を寄せてきて、二人はそのままキスをした。
ああ、この暖かい気持ち。掌をそっと龍村さんの腕にのせると、清呼はそのまま背中でもたれかかり、それを合図にしたみたいに、龍村さんは舌をすべり込ませてきた。どうしたんだろう、今日はいつもと違う。そう考えたのも一瞬のことで、後はもう身体の中から湧き上がってくる不思議な感じに、痺れたように動けなくなった。
龍村さんに聞こえるんじゃないかな?それくらい激しい鼓動が、頭の中に響いている。でもそれは仕方ない、嬉しいんだもの。やっぱり私はこんなキスを待ち続けていた。探していた別の世界への通り道がここにはある。一人じゃ怖いけれど、連れて行ってもらえるなら絶対に引き返したりしない。清呼は自分の舌を少しだけ龍村さんの舌に絡めた。すると龍村さんは右手をパーカーの裾に入れてきた。
どうしよう。これまでずっと、どこでもさわってくれちゃって、と思っていたのに、いざそうなったら頭の中が真っ白だ。その手は止まらずにお腹を撫で上げて、それと同時に清呼は、何かが生き物みたいに背筋を駆け上がっていくのを感じた。声をあげたい。でも唇は塞がれたまま。そして龍村さんの手は清呼の胸のかたちを確かめるようにゆっくりと撫でた。
指先が動くたび、身体の芯に甘い花火が上がる。清呼はもう頭がどうにかなりそうで、とうとう顔を反らすと、大きく息を吸った。その瞬間、ジーンズのポケットに入れていたケータイが鳴りだした。
なんでこんな時に鳴るんだろう。残念なのに、心のどこかでほっとしていた。この後一体どうなるのか、正直とても怖かったからだ。
龍村さんは手をとめて、清呼のお腹にそっとあてている。肩で息をしながらケータイを取り出すと、葵ちゃんからだった。
「清呼何してんの?みんな遅いから待ちきれないよ。もうお鍋の火、つけちゃうからね」
「ご、ごめん、すぐ・・・行くから。先に食べちゃってて」
やっとの思いでそれだけ言うと、清呼はケータイをまたポケットにしまう。龍村さんは首筋に軽くキスすると、手を離してくれた。
「ちょっとごめんね」
清呼は走ってトイレに隠れると、大急ぎで服を直した。それから洗面所で鏡をのぞいたら、頬が真っ赤で、これじゃ外を歩けない。困っているのに龍村さんは「もう行こうか」なんて言っている。仕方なくうつむいたまま出て行くと、龍村さんは片手にデボラさんに渡す紙袋を提げて、もう片方の手には清呼のコートとバッグを持ってくれていた。
何故だか黙ったまま、二人で外に出ると玄関に鍵をかけた。これで本当にこの部屋とお別れだ。静かに廊下を歩いてエレベーターに乗ると、龍村さんはふっと笑った。
「どうしたの?」
「後ろがくしゃくしゃ」
そう言って指で後ろ頭の髪を梳いてくれる。しまった、鏡で前しか見ていなかった。清呼は慌てて髪全体に手櫛を入れて、他に変なところないだろうかと回ってみる。
龍村さんはちょうど一回転したところで清呼の肩をつかまえると、また軽くキスをした。そして少しだけ笑って「君のこと好きだよ」と言った。
いま私のこと「君」って呼んだ。これまで「お前」だったのに、どうしたの?でもそう聞く前に、ただ「私も」と答える時間しかなくて、そうしてエレベーターは一階に着いた。
「例のことは、考えてくれたかな」
行きつけの創作料理の店で、森本がいつものカウンター席を避けてテーブル席を選んだのは、店長に話を聞かれないためだろう。
涼子は出張から戻った彼と二人で軽く食事をしたが、食べている間は当たり障りのない会話でもたせた。互いに冷静でいようとする気持ちが強く、酒もあまり進まなかった。そしてひと段落ついたところで、この話題が持ち出された。
「ゆっくり考えたわ」
涼子はそういって、あらためて森本を見た。今日は休みなのでボタンダウンのシャツにカシミヤのセーター、下はジーンズ。腕にはスイス製の何とかいう立派な時計が光り、壁のハンガーにかけたジャケットはデザイナーズもの。
「あなたはいい人だし、これまでとてもよくしてもらったと思ってるわ。でもあなたという人とはやっていけるとしても、やっぱり社長さんと結婚するのは難しいっていうのが、正直な気持ちなの」
森本のプライドを傷つけないように言葉は選んだつもりだが、何をどう話したところで答えに変わりはない。彼は涼子の言葉に一瞬目を伏せ、それからはじっと表情を変えずにいた。
「私は仕事をとってしまえば、これといって趣味も特技もない女よ。人の好き嫌いは激しいし、建前でものを言うのは苦手。あなたの奥様としてあちこち付き合いをしたり、お母様みたいにお仕事を手伝うのは、ちょっと無理だと思うのよね」
相手が逃げを打ったのだから、涼子も逃げに徹することにした。とにかく自分は社長夫人の器ではない、理由をその一点に集中させたが、果たして森本は涼子の戦略に気づいたかどうか。
「なるほどね」
森本はそれだけ言うと、グラスに残っていた冷酒を飲み干した。
本当に彼と添い遂げるつもりなら、今の仕事を辞めて、手助けをすることも厭わないが、結局のところ涼子は、森本にそこまでの魅力を見出せなかった。社長夫人云々は後付けの言い訳に過ぎない。
「私はもうずいぶん長いこと、あなたの時間を無駄にしてしまったみたいで申し訳ないわ。だからもう、今日を最後に会うのはやめたいと思うんだけれど」
「君がそう言うなら異存はないよ」
そして二人はその後少しして店を出た。森本はタクシーを拾うと言ってくれたが、涼子はそれを断って別れを告げると、地下鉄の駅まで十分ほどを一人で歩いた。
これから水野とどういう展開になるのかは判らないが、少なくとも自分を騙すことだけは避けられた。涼子は絶対に社長夫人ってイメージよ、そう言ってくれる友人はけっこういたが、自分は人の期待を満足させるために生きているわけではない。涼子にとって森本は、いれば嬉しい存在であって、なくてはならない人ではなかった。
ふと、昼間会った清呼のことが心に浮かんだ。まだほんの少女である彼女にとって、龍村はなくてはならない相手だ。その気持ちはそばにいるだけで痛いほど伝わってくるし、そんな風に人を好きでいられる若さと純粋さが羨ましくて、懐かしかった。
人は一体いつから、相手そのものではなく、そこについてくるものに目を奪われるようになるのだろう。今日の私の決断は、それに対する挑戦か、それともただの悪あがきか。答えはまだ出ないが、何故か不安は少しもなかった。
二十三 シェヘラザード
どうも今夜は眠れそうにもない。
龍村はそう思いながら、そろそろと首を廻らせ、自分の肩に鼻先をつけるようにして眠っている清呼を見た。明かりはかなり落としてあるので、その表情がはっきりと見えるわけではないが、すっかり消耗しきった様子で、睫毛に涙の痕が光っていた。
ちょうど一年前の今日も自分は眠れない夜を過ごした。病院のロビーに座って、車にはねられた清呼の身を案じながら、己の馬鹿さ加減を悔やんでいたのだ。あれから一年の時間が過ぎて、今はこんな事になってしまっている。初めて会った雨の夜には想像もしなかったかたちで。
半月ほど前、佐野から、急用ができて無理なんだ、清呼とでも行ってくれない?と渡されたのは、普段まったく縁のない、クラシックのコンサートチケットだった。
北欧のオーケストラの来日公演で、座席はそういい場所ではなかったが、それでも少し気後れがした。清呼は二つ返事でOKしたものの、「寝ちゃうかもよ」と、龍村と同じ心配を口にした。
とりあえず寝るのは仕方ないとして、いびきをかいたら起こすことにしよう、互いにそう約束したが、行ってみればそんなものは杞憂に終わって、素晴しい演奏を楽しむことができた。
終演後、まだそんなに遅い時間ではなかったので、会場に近いイタリア料理の店でピザを食べた。そして食後にふと思いついて、近々訪れる清呼の誕生日について話をした。
本来ならば当日食事にでも誘っておいて、何か気の利いたプレゼントでもすべきだったが、どうも自分は肝心なところで外してしまうのが心配で、本人の希望を聞くことにしたのだ。
遠慮して「そんなのいいよ」とか言うかと思ったが、清呼は何かはっとしたような顔つきになって、ずいぶんと考えてから口を開いた。
「忙しいと思うけど、時間をとってほしい。それで、一緒にどこかへ出かけて、泊まってほしい」
「は」
一瞬、頭の中が白くなった。
「あの、念を押すようだけど、それはつまり同じ部屋に泊まるって事だよな?」
清呼は目を伏せたまま、黙ってうなずく。
「意味わかってる?」
またうなずく。
確かに龍村は、清呼が大学に合格したのをきっかけに、距離をおくことをやめた。事務所を引き払う前の日には思い切って大胆な行動に出たし、それはつまり「今後はこの路線でいきます」という決意表明のようなものだった。
以来、会うたびに少しずつそんな事を積み重ねてきたのに、いきなり向こうから一気に間合いを詰められるとは思ってもみなかった。
「あのさ」
どう言えばいいのだろう。何故だか彼女が妙に生き急いでいるようで、それが怖くなった。
子供から大人になったのも瞬く間だったけれど、何もかもあっという間に経験して、そして自分の前から消えてしまうのではないか?わけもなくそんな不安が胸をよぎった。
「まだやっと十八だろ?そんなに慌てる必要もないと思うんだけど」
不安を何とか言葉に変換してみたが、清呼はそれを聞くとうつむいてしまった。ふと見ると、涙がこぼれている。しまった、またやった。どうして俺はこうなんだろう。清呼に逃げは通用しないと覚悟していたはずなのに。
「ごめんなさい。いま私が言った事、全部忘れて」
清呼は小さい声でそれだけ言うと、たたんでテーブルに載せていたペーパーナプキンを手にとり、涙をおさえた。
「ごめん、言い方が悪かった」
龍村は慌てて手を伸ばすと、彼女の頬に触れた。
「ちょっと驚いただけなんだよ。大丈夫、ちゃんと時間はとる。だからどこに行きたいか言ってくれないか?海か山か、車でいくか電車でいくか、何でも言ってみてよ。そうしたら泊まる場所の予約とか、全部しておくから」
「どっちかっていうと、海」
清呼はまだうつむいたまま、かろうじてそう返事した。それから小声で付け加える。
「まだスーパーのバイト代入ってないから、あんまり高くないところでお願い」
「誕生日だもの、そん心配はしないで」
そうして何とか繋ぎ止め、レンタカーで出かけて、海の見えるホテルに一泊することに決まった。
清呼が大学の寮に入れるのは四月になってからで、今もまだデボラの家に居候中。十八歳の誕生日だけれど、学校の友達と卒業旅行に出かけると伝えたらしいが、子供たちは騙せても、デボラはちょっと欺けないだろうと龍村は観念していた。
幸いにして本日はまずまずの晴天。仕事の都合で昼過ぎに出発して、途中で何箇所か寄り道しながら車を走らせ、以前取材で訪れて気に入っていた、港町にあるビストロで夕食をとった。
そこまでは普通に観光気分で清呼もはしゃいでいたのだが、それからホテルにチェックインした途端、一気に口数が減ってしまった。
これはドタキャンも十分にあり得るな。そう自分に言い聞かせながら、龍村が先にシャワーを使って出てくると、清呼は窓辺の椅子に縮こまり、カーテンの隙間から暗い海に点々と輝く船の明かりを見つめていた。それから黙ってバスルームに消えると、随分と長いこと水音をさせていた。ややあって静かになると、こんどはドライヤーの音がまた延々と続き、それからようやく、清呼はバスローブ姿で部屋に戻ってきた。
さてどうやって彼女を自分のそばに呼び寄せようか。
ベッドに横になっていた龍村は、読んでいた文庫本をサイドテーブルに置き、身体を起こす。清呼はその気配にこちらを向いたが、ややあってそのまま近づいてくると、龍村の隣に座った。そして張りつめた表情で彼を見上げると、初めて自分からキスしてきた。
清呼の寝顔を見ながら、龍村は長い溜息をついた。暖房をきかせた部屋の空気には、うっすらと血の匂いが混じっている。彼女がこうまでして自分と結ばれたいと願ってくれたのは心底嬉しいが、本当に気疲れしてしまった。そう思った彼の脳裏に、一つの旋律が流れた。
「シェヘラザード」のバイオリン。
それはこの間のコンサートで演奏された曲目の一つだった。北欧のオーケストラだからだろうか、演目はシベリウスの「フィンランディア」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第三番」、そしてリムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」だった。
「何この、シェヘラザードってのは」
コンサート会場へ入った時に渡されたチラシを見ながら、清呼は不思議そうに尋ねた。開演までしばらく時間があったし、周囲にはまだ客の姿もまばらだったので、そのとき龍村は「千夜一夜物語」のあらすじを話した。
彼がこの物語を知っているのは、高校の同級生だった辺見のおかげだった。この同級生は一風変わったインテリおたくで、学校の図書館にある和洋の小説の中から、官能的なものを探し出してきてはリストを作成して友人たちに紹介していた。そのリストは彼のいう所の「エロ度」が高いほど星が増えるもので、「辺見シュラン」と呼ばれていた。
そしてバートン版の「千夜一夜物語」は「辺見シュラン」で堂々の三ツ星を獲得していた。
辺見は中間テストを一度犠牲にしてまで全篇を精読し、各エピソードに星なしから星三つまでのランクをつけていた。龍村もその恩恵に浴して、暇な時に図書室で導入部といくつかのエピソードを読んでいた。
妻の不貞に傷つき、以来国中の処女を次々と召し出しては一夜の伽を命じ、夜が明ければその命を奪ってしまう、残忍な王様。大臣の娘であるシェヘラザードは彼の心を慰め、他の娘たちをその手から守るために後宮へと上がった。彼女は王様にその身を捧げた後、妹の助けを得て、世にも珍しい物語を語り始める。話が山場へさしかかったところで夜明けが訪れ、シェヘラザードは「続きはまた明日の夜にお聞かせしましょう」と告げる。どうしても続きが知りたい王様はこれまでの決まりを破り、シェヘラザードを殺さずに、次の夜もまた自分の元へと召し出す。そして次の夜も、また次の夜も、シェヘラザードの物語は途切れることなく続いた。
「彼女が全ての物語を終えた時、王様はついに彼女を殺すのをやめて、お妃にしたんだ」
自分はあの王様のような真似はできそうもない。日毎の処女とは相当にうまい話に聞こえるが、生まれついての皇帝様か何かでない限り、実際にはそう楽しくないに違いない。
「私がこうしたいって言ったんだから、怒ったりしてないよ」
身体を離した後で、清呼はまだ涙の残る瞳でそう囁いた。そんな風に言われたら、こっちが泣きたくなってしまう。龍村はただ彼女の頭を撫でるしかできなかった。
夜が明けても自分は彼女の命を奪ったりしない。けれど彼女はこれからも寄り添って眠ってくれるだろうか。あんな事もう一生やめとく、なんて言い出さないだろうか。
いつの間にか眠ってしまっていた。
部屋はとても静かで、低く唸っているエアコンの音と、龍村さんの寝息しか聞こえない。さっきまで龍村さんが頭を撫でてくれていたと思ったのに、眠っていた上に、肩まで毛布がかけられている。
視線を上げると、自分と向き合っている龍村さんの寝顔が目に入る。薄闇の中でじっと見つめていると、左の頬に長い引っかき傷があるのに気がついた。夕食の時にはそんな傷なかったのに、どうしたんだろう。
とにかく治してあげようと思って、手を伸ばそうと身体を少し動かすと、足の間に鈍い痛みが走った。途端に、自分の身に起こったことがはっきりと思い出された。受け止めきれないほどの歓びと苦痛。もう消してしまえない記憶が、身体の奥に刻みつけられている。
「ごめん、ちょっとの間だけ我慢して」
最初はとても優しくて、清呼の身体を信じられないほど熱く溶かしてくれたのに、こう言ってからの龍村さんはふだんと違っていた。そして清呼は自分から言い出したくせに、途中から辛くてたまらなくなった。
「もう止そうか」と何度か聞かれて、その度に首を横に振ったけれど、身体は時々それとは反対のことをした。この傷は多分そうやってつけたのだ。ああもう最低。
あの日、コンサートの帰りに寄ったレストランで、龍村さんは誕生日のプレゼントは何がいいかときいた。すぐに思いついたのは指輪だった。前に買ってもらったのは一年前の交通事故で駄目にしてしまったし。でもあれは自分が女の子のふりをするのに必要だっただけで、今はいらないものだった。
では今、一番ほしいものは?それは龍村さんと一緒に過ごす時間だ。
事務所を解散してからの龍村さんは、相変わらず忙しかった。まだまだ片付ける用事はあるし、終わったばかりの連載をまとめて本にする話もあったし、その他に抱えている仕事もある。
そして清呼はというと、高校はもうほとんど行く必要がなかったので、大学生になる前に少しお金を貯めておこうと、近くのスーパーの催事コーナーで毎日アルバイトをしていた。そしてその合間に二人で時々食事をしたり、映画を見たり、それから龍村さんの新しいマンションに遊びに行ったりした。
一月に事務所を閉めた時から、龍村さんの清呼に対する態度ははっきりと変わって、二人きりになったりすると、このまま裸にされてしまうんじゃ?と思うような事もされた。清呼は実のところそれがとても嬉しくて、どうぞご遠慮なく!と密かに思っていた。
何故ならそれまでずっと、何だか龍村さんが控えめなのは、そんなに本気じゃないからだろうと感じていたので、これならもう悩むこともないと安心したのだ。だとしたら、自分たちに足りないのは時間だとしか思えなかった。
「忙しいと思うけど、時間をとってほしい。それで、一緒にどこかへ出かけて、泊まってほしい」
思い切ってそう言った。なのに龍村さんはすぐにOKしてくれなくて、清呼はその時になってようやく、またとんでもないことを言ってしまったと気づいた。
女が自分から誘っちゃ、値打ちが下がるわよ。
涼子さんがそうアドバイスしてくれていたのに、思いっきり誘った。しかも「そんなに慌てる必要もないと思うんだけど」って断られてるし。もう恥ずかしくて情けなくて、一気に涙が溢れてしまった。
結局、龍村さんは清呼のお願いを受け入れてくれたけれど、何だか泣き落としみたいな形で、しかも車借りてこんないい部屋まで泊まって。涼子さんは「女は男に金を使わせてこそ価値が増す」って言うけれど、それはまだ、あんまり知らない人どうしの話じゃないだろうか。それに欲しかったのは時間であって、お金は自分で払うつもりだったのだ。
とにかく、自分がつけたひっかき傷を治さなくては。清呼は思い切ってまた少し身体を動かし、右手を龍村さんの方へ伸ばした。ところが龍村さんは少し顔をしかめた。いけない、目が覚めてしまう。清呼はすぐに手をひっこめて、しばらくじっとしていようと思った。
そうして寝顔を見つめているうちに、龍村さんが話してくれた、シェヘラザードのことを思い出した。
私がもしシェヘラザードなら、もう殺されてるな。
まず、王様にひっかき傷なんかつけてるし、そうじゃなくても、王様を放り出して先に眠りこけていたのだ。
でもシェヘラザードはきっと、王様のことなんか何とも思ってなくて、他の女の子を守りたかっただけだろう。でなければ、男の人に初めて抱かれた後で、あんなに冷静に物語なんて始められないと思う。しかもちゃんと山場でやめて、続きはまた明日、なんて引っ張ってるし。
そう、私ならあんな残酷な王様のところへ行けと命令されただけで、「やだ。だったら自分で死ぬ」って、本当に死ぬと思う。でももし、それを断ったら他の女の子の番だというなら、やっぱり自分が行くだろう。そして何をされてもすごく冷静でいて、その後でとびっきり盛り上がる話の一つもしてしまうかもしれない。
でも私はお調子者だからな。気がついたら夜が明ける前にオチまで全部話してしまって、「うん、面白かった。ご苦労さん」とか言われて、殺されるかも。もしうまく次の日まで引っ張れたとしても、三日ぐらいでネタがなくなってやっぱり殺されるか。
それを思うとシェヘラザードはすごい根性だ。千一夜って三百六十五で割ったら二年と半年より長い。私が龍村さんに会って二年ぐらいで、その間にはもう色んなことがあったっていうのに、千一夜って何と長い時間だろう。それでは王様だって彼女を好きにならないはずがないし、シェヘラザードはきっと、そうやって優しい人に生まれ変わった王様を好きになったのだ。
清呼はそしてまた、龍村さんの寝顔を見た。もし明日の朝、龍村さんが清呼に向かって、「もう用は済んだから殺すよ」と言ったとしても、それは別に構わない。それでも後悔しないほど、自分は今夜、色々なことを知った。
一年前の今日、子供のままで死んでしまわなくて本当によかった。あの時はあれで十分に生きたと思ったし、満足もしていたけれど、今思うとそれは少し違う。けど、また来年の誕生日になったら、私は今日のこの気持ちもまた違うと思うんだろうか。でも今この瞬間に思うことに決して嘘はない。嘘ではないけれど、後になってそれを違うと思う、その事を、人は成長したっていうんだろうか。
「これなかなかいいだろ?」
龍村さんはそう言って、頬の引っかき傷を指差してから、車のエンジンをかけた。助手席から見上げた横顔に、それは赤くはっきりと浮かび上がっている。夜の間に治してあげようと思っていたのに、ついついまた眠ってしまって、朝になっても何て切り出していいか判らず、結局ためらっているだけだった。そして清呼はようやく、今からでも遅くはないと思って手をのばした。
「おっと、触んなよ」
龍村さんがそう言いながらハンドルを切ると、太陽の光が車の中をさっと斜めに走って、頬の上を一瞬明るくした。
「薬か何かつけない?」
「いいよ。これは大事なものだから、できる限り長引かせておくんだ。デボラに写真とってもらおうかな」
やめてよ。そう思いながら清呼はシートにもたれかかった。今日の天気は昨日よりもいいぐらい、道はすいていて、車は気持ちいいスピードで走ってゆく。来るときは色々な話をしたのに、今日は何だかどんな話をしていいかわからず、清呼は黙ってFMの音楽を聴きながら外の景色を見ていた。道は時々海沿いに出たり、山の間に入ったり、ゆるいカーブがずっと続いて、信号はほとんどないので、滅多に止まらない。
もうこれは帰り道なんだな、そう思うと過ぎてゆく時間がとても切ない。静かなのに何故か気まずい空気はなくて、どちらかというと黙っている方が、いい感じ。龍村さんも同じように思っているのか、何も言わずに気楽な様子でハンドルを握っている。そして車はまた海岸に出ると、眩暈がするほど澄み切った空と海の間をどこまでも走っていった。
二十四 「かわいそう」に認定します
「よう、女子大生」
声をかけられて顔を上げると、大鳥さんと澄香さんが入ってきたところだった。大鳥さんは玲奈ちゃんを抱っこしてる。
「来てくれたんだ。じゃあまずは名前を書いてね」
清呼は今、デボラさんの写真展の留守番をしている。場所は小さなギャラリー、美術書専門店の二階だ。期間はちょうど一週間で、今日は三日目の土曜日。清呼は学校が休みなので、保育所の用事があるデボラさんの代わりで、ここにいるのだった。
案内状をもらった人が来たり、書店のお客さんがふらりと見に来たりして、写真展はけっこう盛況だった。芳名録に名前を書こうと、大鳥さんが玲奈ちゃんをおろしたので、こんどは清呼が抱っこした。
「うわ、重たくなったね。パパが写真見てる間、清呼と遊ぶ?」
そう聞いてみたけど、玲奈ちゃんは「パパ」って言うと大鳥さんの方に手を伸ばした。
「いつもあんまり遊んでもらえないから、たまに一緒だとパパから離れないの」
澄香さんは笑ってそう言った。
「そうなんだ?」
清呼は少しがっかりして、学校で芽衣に言われたことを思い出してしまった。やっぱりあれは本当かもしれない。
「一人でお留守番だと、ご飯食べてる時間ないでしょ?」
色々と考えそうになったけど、澄香さんの声で、はっとする。
「おにぎり作ってきたの、今のうちに食べない?その間は私が受付しておくから」
澄香さんはそう言って、ランチバッグを渡してくれた。清呼はお礼をいうと、ギャラリーの奥にある小さな給湯室で、立ったままおにぎりを食べた。水筒に暖かいお茶まで入ってるところが優しいし、好きなたらこを盛大に入れてくれてるところも嬉しい。
この写真展は、デボラさんが休んでいた仕事を一年ぶりに始めました、という挨拶も兼ねている。テーマは「あなたの傷痕、見せてください」。
被写体になっている人はみんな、身体のどこかに傷痕があって、それがはっきりと見えるようなポーズをとっている。例えば病気でお腹を手術した痕だったり、ブランコから落ちて肘を切った痕だったり、中学時代の根性焼きの痕だったり。そして清呼と龍村さんもその一人。写真のそばには、その人のイニシャルと年齢、傷痕が出来た理由、それについてのコメントを書いた小さなカードが貼ってあった。
清呼が写真を撮ってもらったのは二年ほど前。龍村さんやデボラさんの事務所でアルバイトを始めた頃で、会ってすぐに、デボラさんからモデルを頼まれたのだ。
「こんどの写真展だけど、龍村くんと二人での写真も出していいかしら」
そうデボラさんにきかれて、清呼は一瞬迷った。
自分だけの写真は全然問題ないけど、龍村さんと一緒の写真は特別だ。清呼は椅子に座っていて、龍村さんはその後ろに立ち、火傷痕のある左手で、清呼の目元の傷痕が見えるように髪をかき上げている。
あの時はまだ互いによく知らなかったし、清呼はほんの子供だったけれど、頭に触れられた時に、まるで壊れ物を扱うように気をつけている感じがしたのをはっきり憶えている。いま思えばもうあの時から、自分は龍村さんのことを好きだったのかもしれない。
結局、清呼はこの写真の展示をOKした。だって撮ったのはデボラさんで、自分が見つけた世界を清呼たちに分けてくれたのだから。
「ごちそうさま。すごくおいしかった」
お昼ごはんにすっかり満足して戻ると、澄香さんが一人で受付に座っていた。
「あれ?大鳥さんたちは?」
「玲奈がちょっとうるさくしたんで、先に出ちゃったの。ごめんね」
澄香さんは小声でそう言った。清呼のいない間に、新しいお客さんが三人来ている。
「気にしないで。大鳥さんにもありがとうって言っておいて」
「わかったわ。でも、デボラさんて赤ちゃん生んでまだ一年なのに、すごいわね。私なんか玲奈の相手だけで一日終わっちゃうのに」
「なのに玲奈ちゃんはパパ大好きなんだ?」
「そうなのよ、失礼するわよね。ママなんかいて当然と思ってるのよ」
澄香さんはわざとしかめっ面してみせて、じゃあまた遊びに来てね、と手を振って出て行った。
清呼は受付に座ると、芳名録をぱらぱらとめくってみた。龍村さんは初日に来ているし、涼子さんは昨日の夜、どうやら噂の新しい彼氏と来たみたいで、水野茂明って名前が隣に書いてある。フルーチェさんは今朝わりと早い時間に来た。
実はフルーチェさんはこの前、清呼の住んでいる学生寮までやって来た。隣の部屋にいる亜希のパソコンの具合が悪くて、彼氏が修理しに来たけど、全然役立たずで大喧嘩。それでも直さないと不便でしょうがないっていうので、清呼が相談したらすぐに来てくれたのだ。
学生寮では男の人は部屋まで入れないから、一階の談話室でみてもらったけれど、フルーチェさんにかかるとすぐに問題解決。それを見ていた他の子たちも、ネットの設定を直してほしいとか次々と言い出して、行列状態だった。後でお礼に食事をおごろうとしたら、「まだダイエット中だからいらないっす」と断られた。
で、その時に、そろそろ北海道動物園ツアーを実行しない?ときいてみたのだ。ちょっと微妙な感じもするけれど約束は約束だ。でもフルーチェさんは「あれはもう取り消しっす」としか言わなかった。
ところがその後、寮のみんなが「フルーチェさんってすごいね」と言うもんだから、清呼はちょっと閃いた。みんなで「フルーチェさんと行く北海道の旅」ってのを企画したらどうだろう。
そして佐野さんは、残念ながらパス。ゴールデンウィークが明けてすぐに、ヨーロッパへ旅に出てしまったのだ。
「おみやげは何がいい?」
出発前に会った時、佐野さんはそうきいた。そう言われても清呼には何も思い浮かばかったけれど、一つだけお願いしたい事があった。
「時々でいいから、絵葉書送ってくれる?」
龍村さんの事務所にいた頃は、みんなの友達がたまに外国からカードや絵葉書を送ってきていて、清呼はすごく憧れていたのだ。佐野さんは笑顔でOKしてくれて、先週本当にフランスからエッフェル塔の絵葉書が届いた。
その後も、お客さんは途切れずにやって来た。お花やお菓子を預かったり、伝言をきいたり、名刺を受け取ったり、デボラさんは「座ってるだけでいいから」と言っていたけれど、けっこう忙しい。
ようやく少し落ち着いたら、「清呼」と呼ぶ声が聞こえた。見ると、ピリカが入り口から顔だけ出している。
「あ、ピリカ、入っておいでよ」
「何か忙しそうじゃない?」
「平気平気」
ピリカは大学で一番仲のいい友達だった。クラスで最初に自己紹介した時に、まず鉄輪清呼という名前でざわっと来て、三橋ピリカという名前で更にざわっと来たのがきっかけだった。
「ピリカってさあ、アイヌ語で美しいって意味なんだってよ。お父さんが北海道に転勤してた時に生まれたから、舞い上がってつけちゃったの。うち元々は福井なのに。しかも全然美しくないのに。おまけにずっと転校ばっかりしてて、行く先々でピリカラ味とかって、からかわれちゃってさ」
そう文句を言うけれど、清呼から見るとピリカは名前の通りに美しい女の子だった。ちょっと小柄で、黒くて大きな瞳と、背中まで伸ばしたまっすぐな髪が人形みたい。大人しそうに見えて言うことはしっかり言うし、真面目だけど冗談は面白いし、もし男の子になっていたら絶対に付き合いたいタイプだった。
「写真家さんが知り合いってすごくない?私、ギャラリーなんて初めて入ったよ」
「まあ、高校の時にバイトしてた関係で」
「清呼の写真もあるんでしょ?モデルじゃん、すごいじゃん」
「本当は案内したいんだけど、受付しなきゃならないから、一人で見てもらっていいかな?」
「ああ全然気にしないで」と言って手を振ると、ピリカはそのまま写真を見始めた。その後またお客さんが来たり、下の書店の人が何日までやってるかを確認に来たりして、色々してるうちにピリカは戻ってきた。
「お菓子食べる?」と、籠に入れてあるお客さん用のキャンディとチョコレートを出すと、ピリカはチョコレートを一つだけつまんだ。
「はあ、ちょっとびっくりしちゃった」
「びっくり?」
「うん。だって傷痕のある人ばっかなんだもの。でもずっと見てたら、何だか少しずつわかってきたよ。それもこれも全部含めてその人なんだ」
そしてピリカは真っ黒な瞳でじっと清呼を見た。
「ねえ清呼、こないだ芽衣が言ったこと、気にしちゃ駄目だよ」
それは先週の出来事だった。クラスの女子何人かで学食でお昼を食べて、そのままおしゃべりしていたら、ネットに出てたホクロ占いの話になった。じゃあ私は二重人格?なんて互いに笑ってたら、芽衣がいきなりこう言ったのだ。
「清呼ってかわいそうだよね。顔にそんなに大きな傷があったら結婚できないし、その前に就職できないよ」
とっさに何を言われているのか判らなくて、清呼はぼんやりしてしまった。
「まあ結婚は紹介でどうにかなるかもしれないけど、就職は難しいよね。保育士は子供に怖がられちゃうし、接客業とかも無理だよ。今のうちに手術できれいにした方がいいんじゃない?」
芽衣はクラスで一番頭のいい女の子だった。何故そんな事がわかるかといえば、入学早々、自分でこう言ったからだ。
「私がこの学校に入ったのはアクシデントなのよ。本命はR学院だったのにインフルエンザで受験できなかったの。お母さんが浪人は駄目って言うからここに入ったけど、三年からR学院に編入するつもり。そしてカウンセラーになるの。だからみんなとは二年かぎりのつきあいね」
確かに、芽衣は物知りで、みんなで下らない話をしていても「それ知ってる!つまりね」って説明できてしまうし、先生に「皆さんの意見は?」とたずねられれば、物怖じせずに発言できてしまう。清呼みたいに全力を出し切って、やっとこの大学に入った人間とは格が違う感じだった。
「ホントそうかもね?」
芽衣に傷痕のことを言われて、清呼はとりあえずそう答えてアハハと笑った。
それはもうずっと以前、中学の頃によく使った手だった。なんかわかんないけど妙な雰囲気だから、馬鹿な冗談言うか、笑ってごまかせ。龍村さんたちにもこの手を使ってたら、ガツンと叱られたので封印していたのに、咄嗟にまた出てしまった。
「そんな事ないでしょ」
そう言ったのはピリカだった。
「傷痕一つでそんなの決まるわけないよ」
なんだかすごくきつい言い方で、みんな一瞬にしてしん、としてしまった。そこで何人かの子が、午後の授業に行かなきゃと立ち上がって、その場はおしまいになった。でも、芽衣の言葉がこたえてきたのは、それからだった。
言われた瞬間は意味がわからなかったのに、後で何度も繰り返してみたら、だんだんわかってきた。そういえば葵ちゃんたちと知り合って間もない頃、よく顔の傷痕に触れては「痛くないの?」ってきかれた。本当は怖いのに、優しいから言わなかっただけかもしれない。
それに、アルバイトでスーパーの催事売り場にいた時には、びっくりしたような顔でお客さんにじっと見られたことが何度かあったけれど、あれももしかして、気持ち悪いとか思われていたのかもしれない。
そんな事を色々と考えると、清呼は何だかとても悲しくなった。自分にとってこの傷痕は健介おじさんとの思い出だし、絶対に失いたくないものだ。でも、誰かがそのせいで嫌な気持ちになっているとしたら、どうしたらいいだろう。せめて人目につかない場所ならよかったのに、それは堂々と左の眉尻からこめかみのあたりに残っているのだ。
「あんなの、別に気にしてないよ」
清呼はそう言って笑ったけれど、実は違う。その証拠に、大学の友達でこの写真展に招待したのはピリカだけだった。何だか他の子を呼んでも怖がられそうな気がして、決心がつかなかった。
ピリカはそれから少し話題を変えた。
「ねえ、清呼の写真に十六歳ってあったけど、十六にしてはずいぶん子供っぽいっていうか、まるで男の子だね」
「笑っちゃうよね」
「あれはあれで可愛いけどね。一緒に写ってた男の人は誰?もしかして彼氏?」
「ん、ちがうよ。バイト先の、写真家さんと同じ事務所の人」
清呼はまだ、ピリカに龍村さんについて話したことはなかった。そのうち話すつもりではいたけれど、本当のことを全部話すとややこしいし、どういう風に省略するかが難しかった。
「でもなんだかいい感じよ。清呼のこと守ってくれてるみたい」
そりゃもうその通り。清呼は思わずうなずいてしまって、あわててつけ加えた。
「やっぱりそれは、写真家さんの腕前かな?」
ギャラリーを六時で閉めて、大急ぎでやってきたデボラさんに預かり物とかを渡してから、清呼は龍村さんと待ち合わせて、近くの洋食屋さんで食事をした。
「今日は賑わってた?」
龍村さんはメンチカツ定食を食べていて、清呼は海老クリームコロッケ定食。ふだんの朝夕は学生寮の食堂で食べているけれど、やっぱりこういうのは出てこない。
「大鳥さんたちが来てくれたよ。あと、フルーチェさんとピリカも」
「ああ、千葉の子ね」
龍村さんにはピリカのこと、色々としゃべったので、彼女が千葉から通ってて、お姉さんが看護師で、子供のころ転校ばっかりしてて、高校野球のファンだって事も知っていた。
そして清呼はふと、あのことをきいてみようと思った。
「ねえ、私こないだ、かわいそうって言われたんだよ」
「何で?」
そこで、芽衣に言われたことを話し、自分が他の人を嫌な気持ちにさせているんじゃないかという不安についても話した。龍村さんは少し考えて、「清呼も自分のことをかわいそうだと思ったわけ?」と訊ねた。
「全然。今までそんな事思ってもみなかった。中学のときはさ、男子でも女子でもないっていう方が大きくて、傷のことなんか問題外だったし。それが今回初めて認定されちゃった感じ」
「で、謹んでお受けしますって言ったのかよ」
「それは言ってないけど」
「じゃあ辞退すれば。接客業って、ちゃんと中華料理屋でウエイトレスしてたんだろ?それにこれまで、清呼のことを怖がった子供なんていたか?」
「みんな気を遣ってただけかも。だって、言われてみると確かに、私の顔を見てびっくりしてるような人がいるんだもの。本当のこと言うと、このごろあんまり外を歩きたくない。もう人に嫌な思いさせたくないから、顔を隠していたい」
駄目だ、元気なくなってきた。
写真展はもう、傷痕オンパレードだからどんなに人が来ても平気だったし、ふだんのバイトなんかも大丈夫なのに、地下鉄に乗ったり、道を歩いたりしていると、どんどんうつむいてしまうのだった。
「隠す必要なんてどこにもない。俺が初めて清呼に会った時、確かにその傷痕は目についた。でも怖くもなければ嫌でもない。むかし怪我をしたんだな、そう思っただけだよ。人に言われたからって、消す必要なんてないさ」
強い口調でそう言われて気がついた。今までどれだけ、龍村さんはこの傷痕にキスしてくれただろう。龍村さんにとっても、この傷痕は清呼の一部なのだ。もし清呼を分解してもう一度組み立てたなら、この傷痕がなければ完成しない。
「まったく女の子ってのは、妙なことであれこれ騒ぐよな。俺の悩みなんかもっと深刻だよ。毎晩同じ夢を繰り返し見るんだから」
「どんな夢?」
「清呼が黒い下着姿でベッドに横になって、上目遣いに手招きしてんだよ。わたしもう待てないわって感じで」
「一瞬でも心配して損した」
「気が変わったりしてない?」
「してない」
今日はこのまま寮に帰るって言ってるのに。実のところ、清呼は誕生日の後、一度しか龍村さんの部屋に泊まっていない。よければ毎週おいでよ、と言われるのは嬉しいけれど、まだ身体が辛いというか、億劫な気持ちが抜けない。
それは何だか海で泳ぐことに似ていた。自分は浅瀬で戯れて、時々大きな波でヒヤッとするぐらいのつもりだったのに、龍村さんはずっと深いところまで連れていこうとした。そんなところは怖いし、初めての時はもう溺れてしまうかと思った。
でも結局、海というのはそういうもので、ちゃんとわかっていなかった清呼は波打ち際に引き返して思案中。けれど海に入った経験は、もうなかった事にできない。思い出すだけで、身体のどこかにまだ残っていた温かい水がいつの間にか溢れてきて、困ったような、切ないような気持ちになるのだった。
「来週はたぶん行くよ」
「たぶん、じゃ困るんですけど?」
「い、き、ま、す」と言いながら、つい笑ってしまった。でも龍村さんが清呼の質問を冗談ではぐらかすのはよくないしるし。何故ならきっと、本当の事を言ったら泣き出すかもしれないと思われているからだ。
去年の夏、一度病院に行ってみればと言われて、つい心の底にしまってることをぶちまけて泣いてしまった。何故だか自分は龍村さんといると我慢がきかない。思うことをそのまま言ったり、わがままを通したり、泣いたり、やりたい放題だ。
あれ以来龍村さんは、子供の頃のように清呼の問題点を鋭く指摘しなくなった。もっと自分が強ければ、本当のことを教えてもらえるだろうに。
翌日の日曜は和菓子屋さんで一日アルバイト。ここは寮の近くの商店街にあって、清呼は店先でバイト募集の貼紙を見て、そのまま応募したのだった。歩いて行けるのが何より便利だったけれど、余ったお菓子をもらえるのも魅力だった。
その日もまた、よもぎ大福と豆大福を二つずつもらって帰り、寮で夕食の時に友達と分けて食べた。その後ケータイを持って、ひとりで屋上に行った。同じ部屋の志穂にはちょっと聞かれたくなかったのだ。
寮母さんはいつも、洗濯物は夕方になったら取り込みなさいよ、と言うけれど、みんな夜でも平気で干しっぱなしだ。もちろん、清呼のTシャツやなんかも端の方で夜風にはためいていた。その洗濯物をくぐりぬけて、寮母さんが作っているハーブのプランターのそば、踏み台用に置いてある木箱に腰を下ろすと、清呼は電話をかけた。
「涼子さん?今ちょっとお話していい?」
「どうぞ。いま食事すませたところだから、時間はあるわよ」
そして清呼は、龍村さんにしたのと同じ話をした。
「なるほどね」
涼子さんはそれだけ言うと、ちょっと黙った。心地よい夜風が清呼の髪を軽く撫でてゆく。何だかいい匂いがするのはプランターのローズマリーらしかった。
「まあ確かにさ、女ってのは顔の器量でランク付けされやすい存在ではあるよね。男に、だけでなく、女同士でも私の方が美人だとか色々言うわけだし。でも顔に傷があるから就職できないっていうのは嘘よ」
「そうなんだ?」
「私も今の職場で何度か採用面接に同席した事あるけどさ、顔がどうこうなんて意味のないものよ。でもね、何ていうか一般的な思い込みってのがあって、例えば、顔に傷があると、そのせいで消極的な性格になったりするって奴ね。でもそれは、美人だから気位が高い、なんてのと同じ種類の根拠のない思い込みよ。でも能力が低い人間が採用担当なんかになると、こういう迷信にすがりついて、いい人材を見逃しちゃったりするのよね。
あと何ていうのかな、健康な状態じゃないものに恐怖を覚える人ってのは、どうしたって存在するのよね。病気とか怪我とか、そういうものに近づくと、自分にも影響があるように錯覚してる人。この手の人はまあ何にでも流されやすいし、ろくすっぽ自分で物を考えてないくせに人の事だけはあれこれ言うからたちが悪いわね」
涼子さんはすごく言葉を選んでる感じで、いつもよりもゆっくり喋った。
「だから正直なこと言うと、あんたの傷痕を見てとやかく言う人はこれからもいると思うよ。もうそれは仕方ない」
「やっぱり嫌な気持ちになるんだ?」
「嫌な気持ちというか、何かがひっかかるんだろうね。こういう言い方すると悲しいかもしれないけど、要するに普通じゃないからなのよ」
「うん」
「でもね、そういう人はもう、小蝿みたいなもんだから放っておくしかないわね。うるさければ払いのけて」
「小蝿?」
「そうよ。だってね、あんたは色々とそんな連中に気を遣ってるみたいだけど、相手があんたの傷痕に反応してるのなんてほんの一瞬よ。十分も経ったらもう、自分が何言ったかさえ憶えてないんだから。そんな連中を相手に自分が悪いだとか、言われたことを色々気に病むのなんて時間の無駄よ」
「じゃあどうしたらいいの?」
「放っておきな。そして自分のすべきことをする。ただ、もしあんたが傷痕を消してしまいたくて、そのために手術を受けるっていうなら、私はそれも一つの答えだと思うし、反対しないわ。ただし、それをやれば確かに小蝿たちは大人しくなるだろうけど、世の中から消えるわけじゃない。ねえ、人を怖がらせたり嫌な気持ちにさせるものは、決して身体の表面にはないのよ。それは人の心の中にあるんだから」
「うん」
清呼は星の少ない夜空を見上げた。
「あと、男はね、傷のことを気にするような小さい奴は最初からハネといて正解だから。別に今はまだ他に目移りもしないだろうけどさ」
「まあね」
「何、今のはノロケ?嫌ねえ全く」
「そうだ、涼子さん、写真展に新しい彼氏と来たでしょ」
「だからどうしたのよ」
「どんな人か教えて」
「忍耐強い。それだけ」
清呼は思わず笑ってしまった。
「さて、ご質問は以上かしら?もう切るわよ」
「あ、ごめんなさい。でも何となく納得した」
「いい?外歩くときはちゃんと顔上げて、胸を張るのよ。気合入れて行け」
「うん。ありがとう、おやすみなさい」
そう言って電話を切ると、清呼はプランターからあふれるように茂ったローズマリーの枝に触れ、指先にうつったきりりとした香りを吸い込んだ。まだ完全にすっきりしたわけではないけれど、気持ちがずいぶん軽くなったよう。涼子さんの言葉はすごく厳しく響くのに、心に入ってきた後はなんだかとても暖かい。
その夜、清呼は久しぶりにあれこれ考えずに眠りについた。そしてどれくらい経った頃だろう、何か妙な雰囲気を感じてはっと目を覚ました。誰かが苦しそうに呻いている。
「志穂?どうしたの?」
清呼は慌てて枕元のスタンドをつけた。部屋に柔らかな光が広がり、反対側のベッドにいるルームメイトの志穂を照らし出した。彼女は清呼の問いかけにも無言で、頭まで布団をかぶったまま低い呻き声を上げている。清呼はすぐにベッドを降りてそばへ行った。
「気分が悪いの?」声をかけて布団の隙間から顔を覗き込むと、彼女はようやく気づいたようだった。
「あ、起こしちゃった?ごめん」
「そんなのいいよ。苦しいの?」
「大丈夫、ただの生理痛」と言って志穂は顔を出したけれど、額には脂汗がにじんでいた。
「ただの、って、すごい苦しそうだよ?」
自分もたまにお腹が痛くなるけれど、ここまで苦しんだことはない。
「いいの、いつもの事だから。薬のめばおさまるんだけど、切らしちゃって」
「買ってこようか?ていうか、寮母室の救急箱にあるんじゃない?」
「こんな事で起こしちゃ悪いもの。生理痛で死んだ人なんかいないんだから我慢する。ごめん、もう寝ちゃってて」
ふだんはバレー部で練習ばっかりしている元気な志穂は、まるで別人みたいに顔を歪めている。清呼は布団の上からその背中を撫でた。全身が痛みで石のように硬い。机に置いた目覚まし時計は四時少し前、朝まで待つのは辛すぎる。清呼はそして立ち上がると、枕元に干していたバスタオルを手にして戻った。
もうこれ以上放ってはおけない。鼻血を出して寝込んだら、こんどは自分が志穂を驚かせる番かもしれないけれど、その時はその時だ。清呼はいつ鼻血が出ても大丈夫なようにバスタオルを抱えたまま、ベッドの上に片膝をついて志穂の背中に顔を伏せた。
志穂の中には何だか硬い結び目みたいなものがあって、それをほどけば多分痛いのも楽になるに違いない。でもこれ、どこからほどくんだか判らない。とにかく少しずつやっていけば何とかなるかも。
随分時間が経ったような、そうでないような。少し苦しい感じがして、清呼は息継ぎをするように顔を上げた。見ると、志穂は丸くなったまま寝息をたてている。清呼は起き上がって、自分がバスタオルをちゃんと握っているかどうか確認した。布団なんか汚してしまったら大変だ。ところがバスタオルは乾いたままで、鼻血が流れる気配もない。ただ全身が重くて、たまらなくだるいだけだった。
「ちょっと清呼、起きなよ」
激しく揺さぶられて、清呼は目を覚ました。
「駄目じゃん、床で寝たりして、ていうか、私が起こしちゃったせいだよね、本当にごめんね」
何だかよく判らないけれど、起き上がると、志穂が心配そうな顔で覗き込んでいた。
「もう八時まわってるよ。清呼は朝イチ語学でしょ?私も必修だし急がないと。今日は自転車だから乗せてってあげる。すぐに着替えて」
本当はだるいし眠いし、ベッドに逆戻りしたいけれど、清呼は仕方なく着替えて、志穂の自転車に二人乗りして大学へ行った。授業は一号館の三階。ところが入り口で志穂と別れて、二階の踊り場まで上がったところで、どうにも苦しくなって座り込んでしまった。
次に気がつくと、そこは保健センターのベッドだった。時間はもう夕方の六時半で、看護師さんが「そろそろ閉めるけれど、自分で帰れる?」と起こしに来たのだ。
「私どうしてました?」
「階段で眠りこんで起きないって、運ばれてきたのよ。男の子が背負ってくれて。週末に夜更かししすぎて月曜に調子悪くなる人って多いのよ。休みの日も朝型キープしてね」
「気をつけます」と返事して清呼は起き上がった。これから寮に帰って、また朝まで寝たらたぶん復活できるだろう。何より嬉しいのは、鼻血が一滴も出なかったことだった。
そういえばこの力を本気で使ったのは、龍村さんの風邪を治して以来だ。あとは信生くんが頭打った時にちょっと撫でてあげただけ。もしかして、今まで鼻血を出していたのは子供だったからで、大人になった今では、お鈴婆さんみたいに、鼻血なしでやれるんじゃないだろうか。だとしたら何とすごい。大人になるって素晴しいことだ。
そしてベッドから出て、髪が乱れていないかと壁の鏡をのぞくと、そこには目元に大きな傷痕のある女の子がいた。
健介おじさん、私がおじさんのことを治しきれなかったのは、まだ子供だったからじゃないかな。今ならもっと頑張って、家に戻ってまた塾を開けるぐらいしっかり治してあげられるかもしれない。ごめんね。
「大丈夫?フラフラしない?」
看護師さんはすっかり帰る準備をして戻って来た。
「はい」と言って向き直ると、看護師さんは「あなた、いつもそうなの?」と変な顔をした。
「え?」何だろう、傷痕のこと?
「いつもその、ブラジャーしないのかしら?」
言われて初めて気づいたけど、朝、半分寝たままで身支度したせいで、ノーブラにいきなりTシャツとジーンズという離れ業だった。
「いえ、ぼんやりしてただけです!失礼します!」
清呼はバッグを胸に抱えると慌てて外に出て、そのままの体勢で寮まで帰った。
二十五 寝言でも許せない
「特濃ミルク、ラベンダー、夕張メロン、あずき、塩バター、ヨーグルト、それからジンギスカン」
「ジンギスカン?」
「そう、ジンギスカン」
清呼は真顔でそう言うと、テーブルに積み上げた様々なフレーバーのキャラメルの箱を、恭しく龍村の方へ押してよこした。その横には塩ラーメンと、バタークッキー、真空パックのイカ飯、そしてイクラの瓶詰めと、カニせんべい、ホタテご飯の素が置かれている。
あれこれと物議を醸したフルーチェとの北海道旅行だが、清呼は学生寮のメンバーを募って総勢十三名の団体旅行に仕立て上げ、三泊四日で決行してしまった。そして今日はおみやげを渡しに龍村のマンションへ現れたのだった。
「確かに、仕事の合間にやたらと甘いものが食べたくなるとは言ったけど、こんなにキャラメル買うかよ。しかも他にまだこれだけ」
「でも本当に色々あるんだから」
そう言いながら、スマホの写真を見せる。
「はい、これがまず、空港で全員集合したところ」
地道なダイエットの結果、いまや小太りと呼ぶのも少しはばかられるほどスリムになったフルーチェが、嬉しそうに女子大生に囲まれている。一行にはその他にも女子大生ではない人物が混じっていた。
「この男は?」
「亜希の彼氏。こないだ大喧嘩したって言うから別れたと思ってたら、すんごいラブラブだった」
「女子のグループ旅行にまでついて来るのか」
「平気みたい。はい、これが有名な時計台ね。まずは札幌あたりを見学しちゃってさ」
「添乗員なんかもいたわけ?」
「ううん、自分たちだけ。でも人数まとまったからさ、マイクロバス一台と運転手さんが専属でついててくれた。あとはフルーチェさんが大体の予定組んでくれたから、時々みんなのリクエストなんか入れちゃって、運転手さんとも相談して」
「へーえ、清呼が仕切ってたのか。それで全員ご機嫌だったわけ?」
「うん。かなり盛り上がって、最後に解散する時に、次は温泉ツアー企画してって言われちゃった」
確かに、どの写真もみんな楽しそうだ。
「保育士よりツアコンの方が向いてるんじゃない?」
そう言ったのは、あながち冗談ではなかった。
去年一年かけた、保育所がテーマの仕事で実感したのは、全く気楽な職場ではないという事だった。何よりこたえたのは、親にないがしろにされている子供の現実だ。ろくに食事も与えられず、風呂にも入れてもらえず、汚れたまま何日も替えていない服で過ごしているし、暴力をうけている子供もいるのだ。
最初に清呼が保育士になりたいと言った時には、お似合いだと後押ししたのだが、今はそれを少し後悔していた。彼女がそんな過酷な状態におかれた子供を目の当たりにして、どれだけ悲しみ苦しむか容易に想像がつく。ならばいっそ旅行業界で、非日常の楽しさを提供していた方がずっと気楽だろうと思うのだ。
清呼はそんな龍村の気持ちなど知りもせず、あれこれ喋りながら写真を切り替えてゆく。地平線まで広がる花畑だったり、偶然空に現れた虹だったり、大盛りラーメンだったり、動物園のアザラシだったり、布団の上ではしゃぐ友達だったり。
「でも何だかさあ、私ずっと寂しかったんだよ」
「団体ツアーなのに?」
「だって何見ても、何食べても、一番に龍村さんに感想を言いたいのに、そばにいないんだもの。今まで何となく、寂しいのは一人でいる時だと思ってたんだけど、違うね。大勢でいると、ある意味一人の時よりきついよ。特に亜希と彼氏を見てたりしたら、あーあ、なんで龍村さん来てくれなかったんだろうって」
確かに自分も誘われたが、元々がフルーチェと清呼で計画した話なので、半ば意地で断った。それに女子大生の前で、清呼の交際相手だとカミングアウトする度胸もない。しかし約束の交通費一万円は、ちゃっかり取られていた。
「そりゃすいませんね」
「確かにお友達やフルーチェさんもいたし、それはそれで本当に楽しかったんだよ。でもやっぱり違うんだな」
「フルーチェなんかと一緒にされたら困るんだけど」
そこで急に清呼は黙ってしまった。写真もちょうど空港の待合室で疲れて居眠りしている友達、最後の一枚だった。
「あのさあ、ちょっと報告しなきゃならない事があるんだけど」
「何かフルーチェに関わりでもあんの?」
「ないけど、ある」と清呼は低く言い、背後にあるベッドにもたれかかった。家で仕事をする時間が長いので、一室を完全に仕事用のスペースにあてたために、居間兼寝室となるこちらの部屋は、ベッドと床置きのテーブルに、テレビ類と棚を置いただけで十分に狭く、テーブルにつけば必然的にベッドが背もたれになるのだった。
「ちょっと今、学校で妙な噂をたてられちゃって」
「噂?」
「元々は五月の出来事がきっかけなんだけど、私いちど、学校の階段で眠りこんで保健センターに運ばれちゃったんだよ」
「階段でいきなり?」
「超寝不足だったんだよ。ところがその時、運悪くノーブラで」
「は?」
「朝起きた時にまだ寝ぼけてたから、ノーブラで学校行っちゃったの」
「ありえんだろう」
「他の子はどうか知らないけど、私はたまにあるんだよ。で、まあその日は保健センターで一日寝てたんだけど、しばらくしたら変な噂が流れちゃって。私が学校の階段なんかで寝ちゃったのは、彼氏と一晩中・・・なんていうかな」
やりまくってた。子供の頃ならそんな剛速球を投げていた清呼だが、さすがに言いよどんでいる。
「はいはい、わかるけど」
「で、何よりその証拠にノーブラだったって」
思わず龍村は爆笑してしまった。
「なんで笑うの」
清呼はことのほか真剣な顔つきをしている。
「いや、そういう風に話をまとめ上げる思考回路っての?なんかすごいなと思って」
「でもさあ、最近その噂がバージョンアップして、その彼氏はフルーチェさんって話になってるんだよ」
さすがにどう返事していいか判らず、龍村は清呼の顔を見た。すでに半泣きだ。
「その噂、誰が流してるんだよ」
「わかんない。私も最近ようやく知って、ピリカに確かめたら、もう五月の終わりには噂があったけど、あんまりだからずっと黙ってたって。今更あの噂は違いますって、説明して回るわけにもいかないし、何よりフルーチェさんに申し訳ないというか」
「あいつの事はほっとけ。それで、そんなつまらん噂を俺に話すのは何故なんだ」
「だって、噂ってどこからどう伝わるかわかんないもの。先に報告しといたほうがいいと思って」
そう言って清呼は抱えた膝の上に顎をのせた。
「今が夏休みでなければ、明日の朝一緒に学校の前まで行って、じゃあな清呼、昨日のお前は最高だったよ、なんて言ってやるけど」
「駄目だよ,そんなことしちゃ」
しませんけど。というか、実際は自分にそんな大胆さはない。ふだん外を歩く時だって、手もつながないのに。
「まあ、夏休みが終わった頃にはみんな忘れてるよ」
「そうかな」
そう言って清呼はしばらく何か考えている風だったけれど、ふう、と息を吐くと立ち上がった。
「じゃあちょっと私、デボラさんちに行ってくる。晩ごはん塩ラーメン食べるよね?もやし買って帰るよ。イクラ丼も食べるからごはん炊いておいてね」
「はいよ。あんまり引きとめられないようにね」
「わかってるって」
清呼はそして、まだ北海道みやげのごっそり入っているバッグを、背負うようにして出て行った。
部屋の中は急にしんとして、それまでは聞こえなかった、外を行き交う車や、遠ざかる救急車のサイレンが浮かび上がってきた。またデボラの家で、北海道旅行の写真を見せて、お土産を並べて、賑やかにやるのだ。
時間はまだ三時。彼女がここへ戻ってくるまで少し仕事でもするか、そうは思うのだが、やる気が起きない。
今日は清呼が来る、そう思うと朝から何となく落ち着かないし、出て行ったら出て行ったで、何をしているのかが気になる。今もああして、暑い中をデボラの家へと歩いてゆく途中で、誰かに声をかけられたりはしないか、そんな事ばかり考えてしまうのだ。
勝手なもんだな。
積み上げられたキャラメルを、一つ一つ手に取りながら考える。まだ清呼が住み込みのアルバイトで、男でも女でもない子供で、互いに馬鹿な話ばかりしていた頃、自分は琴美と付き合っていた。よく彼女のマンションに泊まったし、それを隠しもしなかった。いつの間にか自分を好きになっていた清呼は、どんな気持ちで一人留守番していたのだろう。
一方自分はといえば、一緒に住んでいた頃は勿論だが、デボラのところに居候していた間も、清呼の行動圏は把握していたし、自分の知らない場所で何をしているかについて、そんなに気にしていなかった。ところが彼女が大学に入り、行き来に小一時間もかかる学生寮に引っ越して、会えるのも週に一、二度となった途端に、いま誰と何をして過ごしているのか、やたらと気にかかるようになってきた。
清呼が通っている大学は元々女子大で、共学になったのは五年ほど前だった。そのため女子が七割で、男子も大人しそうなのが多いとはいうものの、やはり同世代で集まっていれば、恋愛話の一つや二つはあって当然だ。そう冷静に考える一方で、他の男と口もきいてほしくないと思う自分がいる。我ながらどうかしていると思えるほどの感情だった。
これまで付き合った相手に対しても、それなりに嫉妬はしたし、他の男と馴れ馴れしくしたという理由で、たまに苛立ちもした。しかし今感じているこの、痛いような不安を伴う焦燥感は何なのだろう。十も離れた年の差のせいか、一度見失いかけた時の恐怖が残っているのか、ただの自信のなさなのか、彼女の身体への執着なのか。答えはその全てであるような気がしたし、どれとも違うようにも思えた。
その夜清呼が戻ってきたのは七時過ぎで、それから二人でもやしをごっそり入れた塩ラーメンと、イクラ丼を作って食べた。そしてバタークッキーを食べながら、動画サイトをいくつか見て、シャワーを浴びて、狭いベッドで抱き合った。
今はもう清呼に初めての頃の硬さもなく、自分からこうしたいと意思表示をするようになり、二人の間は親密さを増すばかりだったし、龍村にとっては、彼女にもう苦痛を与えていないというのが、何より嬉しかった。
翌朝、龍村は目覚ましをセットした時間よりも、少し早く目を覚ました。今日はこれから出かけて人に会わなくてはならない、そんな緊張感が頭のどこかにあるせいだろうか。外は明るく、カーテンを通して朝の光が部屋を水色に染めていた。
ベッドから落ちても大丈夫なように、いつも自分が外側に寝て、清呼は壁際だ。彼女はまだこちらに背を向けて眠っている。ちょっと起こしてやろうか、そんな気になって、肩に手をふれた。すると彼女は身体を丸くして、甘えた声を出した。
「タケル、きょう学校休みかもよ」
その瞬間、龍村は反射的に手を引いた。
何言ってんの、俺だってば。
その一言が出てこない。
何故だ。ただの寝言。
なのにどうして自分は金縛りにあったように動けないのか。せめて声だけでも出したいのに。
タケル。顔も知らない、清呼の幼馴染。兄弟みたいな?もっと別な?
そんな夢なんて、幼かった頃のものに違いない。冷静な自分が分析する一方で、夢であろう何であろうと、ここで今、別の男の事など考えてほしくないという、狂おしいような気持ちが湧き上がる。
いま再び触れたら、次に彼女が口にする言葉は何だろう。それが怖い一方で、そんな夢、破ってしまえと思う。相反する気持ちの間で身動きがとれずにいると、いきなりアラームが鳴り響いた。
龍村は弾かれたように手を伸ばし、枕元の目覚ましを止めた。そばでは清呼がようやく起きたらしく、小さく伸びをすると、寝返りをうってこちらを向いた。眠そうな目だが、視線が合うとにこりと笑う。その笑顔を見た途端、龍村は彼女の腕をつかみ、荒々しく引き寄せて身体を重ねた。
シャワーを浴びて出てくると、清呼は布団を被ったまま頬をシーツにぴたりとつけて、どこか不安そうな目でこちらを見ていた。
「ごめんよ」
ついそんな言葉が出てしまう。
「嫌なときは嫌って言ってくれればいいから」
黒のコットンパンツを穿き、上は裸のままでベッドに腰を下ろす。手を伸ばして乱れた髪を少し直してやると、清呼は小さく呟いた。
「私のこと怒ってる?」
「なんで?」
「きのう変な噂の話したから」
「あれは全然気にしてないよ。乱暴にしたんでそんな風に思った?」
「それは別に」
まだ彼女の髪を指で梳きながら、龍村はどう言い訳したものかと考えていた。他の男のこと、寝言で呼んだからだよ。馬鹿げた話だが、それが真相。
「今日は出かけるんでしょ?朝ごはんは?」
「途中で食べるよ。清呼はゆっくりしてけば?夏休みだもんな」
そして龍村は立ち上がってアンダーシャツを着ると、クローゼットを開き、アイロンのあたっているシャツを探して袖を通した。そして洗面所で鏡を覗き、またベッドのそばに戻る。
「今朝、夢かなんか見てた?」
「夢?」
暑いのに布団にくるまったまま、清呼は起き上がってこちらを見ている。
「見たような見てないような。どうして?」
「何となく」
結局、寝言の話も、身勝手な振る舞いの言い訳もせず、龍村は清呼をおいて部屋を後にした。地下鉄の駅までの道を、夏の日差しに照らされて早足で歩きながら、苦い気持ちを噛み締める。
あんな真似しなければよかった。驚いてほとんど怖がっていたのに、自分を抑えられなかった。素直に言えばよかったじゃないか、寝言でタケルって呼んでたぞ。それだけの事なのに。
そして今再びベッドでまどろんでいるかもしれない、清呼のことを想った。そう、こんな風にずっと部屋に閉じ込めておけるなら、どれだけ安心していられるか。けれどそれも無駄なことかもしれない。いくら身体を押さえつけても、彼女は記憶の底からタケルの事を、砂金のように掬い上げてくるだろう。どうしてそれを旅行の話みたいに、思い出として分かち合えないのか。
夕方、帰宅してみると、部屋は掃除されたようで、布団カバーとシーツは取り替えられていた。テーブルの上にはルーズリーフに書いた手紙が残されている。
お疲れさま。昨日言うのを忘れていたけれど、もらっていた交通費を返します。旅行の間じゅうずっと考えていましたが、やっぱり龍村さんが一緒に来てないのに、これを使うのは変だから。それでですが、このお金で、二人でどこかへ行きませんか?しばらく遠くに行っていないし、海で泳いだり、山でお弁当食べたりしたいのです。龍村さんはどこがいいですか?また教えてください。
手紙の下には銀行の封筒があって、中に一万円札が入っていた。
自分が行きたい場所は、清呼の心の中だ。そこで、過去の記憶の一つ一つに鍵をかけて回りたい。ふだんあまり語らない幼かった日のことや、家族や友達のこと、そして理不尽な力で彼女を縛っている神様のこと。いたずらに彼女を悲しませる、追憶を生み出す全ての思い出を封印するのだ。そうすれば彼女は、自分のことだけを見てくれるのではないだろうか。
二十六 恐ろしい幸せ
夏休みなんてあっという間だったな。清呼はそう思いながら、手帳を閉じて膝にのせたバッグにしまうと、窓の外を眺めた。
今日は美術史の課外授業で、美術館でやっている彫刻の展覧会を先生が解説してくれて、みんなで見た。大学の授業が正式に始まるのは来週だから、これで現地解散。清呼は電車で帰る途中だった。
大学生になって初めての夏休み。まず最初に念願の北海道旅行にいって、あとは和菓子屋さんとデータ入力のバイトをほぼ毎日掛け持ち。葵ちゃんたちとはプールにバーベキュー、そして花火大会にも行った。それからピリカの地元に遊びに行って、家に泊めてもらった。涼子さんとは何度か食事をして、初めてネイルサロンに連れていってもらった。
龍村さんは相変わらず忙しくしていたけれど、週末はほとんど空けてくれたし、都合がつけば平日も会ってくれた。ただしお盆は別で、これは清呼からもお願いして、ちゃんと帰省してもらった。そして先週、北海道旅行の交通費としてもらっていた一万円を使って、二人でバスに乗って山に出かけた。もう九月に入っていたので、山は一足先に秋の気配で、赤とんぼがたくさん飛んでいたっけ。
次はどこに行こうかな。電車に乗っていると、ついつい旅行のことなんか考えてしまう。秋はやっぱり紅葉?それとも夏のバイトでけっこうお金が貯まったから、思い切って遠くに行く?
「清呼」
いきなり誰かに名前を呼ばれて、清呼は我に返った。
「清呼ってば」
声がするのは自分の真上からだった。見上げてみると、前に立っているのは同い年ぐらいの男の子。誰だろう?今日の授業で一緒だった?清呼はその顔を見ながら少し考えて、それから大声で叫んだ。
「タケル!タケル!」
次の瞬間、清呼はもう飛び上がってタケルの首にかじりついていた。
「なんでここにいるの?」
「なんでって言われても。とりあえず降りようか」
ちょうど電車が次の駅に着いたので、タケルは首に抱きついたままの清呼と、清呼が膝から落としたバッグと、周りの人の視線を引きずって降りた。
「俺さあ、こっちの大学に入ったんだよ」
ホームに立って、清呼の腕をほどきながら、タケルはそう言って笑った。何て懐かしい笑顔。中学のときよりも二回りぐらい大きくなった感じで、龍村さんよりもまだ背が高い。
「東京に行けば、もしかしたら清呼に会えるかも、なんて期待してたけど、本当になるとはな」
「よく私のこと判ったね」
「そりゃ判るさ。女の子だから違うのかな、とも一瞬思ったけど、これだけは見間違えないからな」
言いながらタケルは、人差指で清呼の目元にある傷痕にふれた。嬉しい。やっぱりこの傷は私の一部だ。
「清呼はこの後何か用事がある?」
「ないよ」
「俺も次のバイトまでは時間がある。せっかくだからその辺で話でもしようよ」
清呼はもちろん大きく頷いた。全然知らない駅に降りてしまったけれど、近くにはお茶を飲む店ぐらいあるに違いない。改札を抜けて駅前を歩く間も、二人はずっと話を続けた。といっても質問しているのはほとんど清呼だった。
「ねえねえ、タケルは大学で何勉強してるの?」
「一応、法学部」
「すごいね。司法試験受けるの?」
「そりゃ無理だろ」
「ああ、練習が忙しいもんね。もちろんサッカー部でしょ?」
タケルはちょっと黙って、それから寂しそうな顔で笑った。
「俺さあ、もうサッカーやってないんだ」
「なんで?」
「膝の靱帯切ったんだ。高三になる前の春休みだよ、ちょうどあれ、お前の誕生日だったからよく憶えてる。練習試合中に相手チームの奴と激突して」
「私の誕生日?高三になる前?」
「そう。で、入院して手術。治れば普通の運動はできるけど、選手レベルはちょっと無理って言われてさ、もうサッカーはきっぱり諦めることにして、早めに引退した」
清呼はもうその辺りから、頭の中が混乱してきた。高三になる前の春休み、私の誕生日。それは私の十七の誕生日で、家出して車にはねられた日。
「でもおかげで受験勉強に集中できて、ストレートで合格したし、何より今、こうやって清呼にまた会えたし、あれでよかったんだな」
「そ、その靱帯切ったのって、何時ぐらいだった?」
「時間?たしか午後で、三時とか四時ぐらいかな?」
やっぱりそうかも。あの時、私が車にはねられた瞬間に、タケルは膝の靱帯を切った?何故?もしかして、私の身に起きたことをタケルが引き受けてくれたんじゃないの?タケルがいなければ、私はあのまま死んでいたんじゃないの?鉄輪パパから、大切な人たちに悪いことが起きるかもしれないと言われて、こんなに遠くにいるのに、それでも大怪我したなんて。今また一緒にいたら、何かもっと悪いことが起きるんじゃないの?
そう考えると、清呼は胃のあたりが引き絞られたように苦しくなって、思わずその場にしゃがみこんでしまった。
「どうしたんだよ、いきなり」
タケルが不思議そうに覗き込む。
「ん、怪我の話きいたら、変な感じになってきた」
やっとの思いでそれだけ言うと、清呼は何とか気持ちをしっかりさせようと、大きく息をした。何より悲しい事に、タケルが怪我や病気をしても、清呼には治すことができない。
忘れもしない中学一年の秋、昼休みにボールを蹴っていたタケルは、グランドの破れた金網に腕を引っ掛けて怪我をした。清呼はちょうどそばで見ていたから、駆け寄ってすぐに治してあげようとした。すると一瞬目の前が真っ白になったのだ。それは何というか、自分で自分の背中が見えないのと同じ感じで、どうする事もできなかった。その時清呼ははっきりと、タケルと自分がとても近くにいて、それはある意味で物凄く恐ろしいことだと思い知ったのだ。
「相変わらず怖がりだな。もう治ってるっての」と笑うと、タケルは清呼の目の前で、スニーカーをはいた足を振ってみせて、彼女の丸めた背中を膝で軽く蹴った。
「ほら、立てよ。そこのドーナツ屋に入ろう。お前夏バテしてんじゃないの?」
タケルに抱えられるようにして店に入って、清呼は窓際の席に力なく座った。どうしよう。嬉しいのと同じくらい、怖い。
「はい、ご希望のアイスレモンティーとはちみつドーナツ。おごるよ」
タケルはトレーを持って戻ってくると、清呼の前に腰を下ろし、あらためてじっとその顔を見た。
「やっぱ変わってない。女の子だけど清呼だ」
言われて清呼もタケルを見た。濃い眉は相変わらずだけど、手入れしてるのか随分すっきりしてて、黒い瞳は生き生きと輝いている。サッカーはやめても何かスポーツをしているのか、肌は日によく焼けていて、あの糸切り歯の白さを引き立てていた。中学の頃に比べると、顎のあたりの輪郭がずいぶん大人っぽくて、首も太くてがっちりしてる。
「お前一体いつから女の子なの?」
「高三の夏ぐらいかな?」
清呼はつい、あいまいな返事をした。
「それまでずっと子供だったんだ。すげーな」
「なんですげーの?」
「だってそんなに大きな子供なんていないもの。一緒にいたら面白かっただろうな」
「意味わかんないよ」
そう言われてもタケルは平気な顔で、チョコレートドーナツを頬張っている。清呼もはちみつドーナツを齧ったけれど、いつも大好きなそれは、甘いことは判るのに、何故だかおいしいという感じがしなくて、物体、というのがぴったりの舌触りだった。
「ねえ、うちの家族とかみんな元気にしてる?病気したり怪我したりしてない?鉄輪パパとママは?」
何より気になるのはその事だった。あの日、タケルが靱帯を切るような大怪我をしたなら、清呼の家族にはもっと大変なことが起きたかもしれない。
「ああ、お盆に初めて帰ったけどさ、みんな元気だったよ。お前んちの前とおったら、父さんが相変わらず庭の手入れしてた」
「そうなんだ?母さんは?」
「井筒屋で買い物してるの見かけたよ。そうそう、兄さん夫婦が赤ちゃん連れて帰ってきてた。男の子だってよ。やっぱりお前に似てた」
「じゃあ私、おばさん?」
「そう。清呼おばさん」
「すごーい!」
二人は顔を見合わせて笑った。
「やっと復活してきたな。お前さっきまで紙みたいに真っ白な顔してたから、どうなるかと思ったよ。まあ清呼ひとりぐらいなら、軽く担いでいけるけど」
タケルはそう言うと、こんどは黒ごまドーナツを齧った。
「そいでさ、鉄輪さんちもみんな元気だよ。なんか神社には春先から修行中の神主が来ててさ、まだ大学出たてなんで、ヤング神主とかって呼ばれてんの」
「何だか面白そう。タケルんちは?」
「うちも変わんないな。父さんは来月またフルマラソンに挑戦するって準備中だし、母さんは婦人会で、道の駅に漬物売り出す計画で盛り上がってる。それより清呼は今、どこの学校行ってんの?」
とっさに清呼は、合格したけど入学しなかった大学の名前を答えていた。
「へえ?幼児教育?なんかこう、しみじみ大人になった感じがするよな」
「なんで?」
「だって俺の中じゃ、清呼っていつも小さいガキのイメージなんだもの。朝迎えに行くと必ず、まだ行きたくないってゴネるし」
「そんな事憶えてるんだ?」
「当然だろ。玄関までランドセル引っ張って出てきて、タケル、今日もしかしたら休みかもよ、って。んなわけねーだろ」
清呼はつい溜息をついてしまった。自分で憶えてないだけで、相当すごかったんだな、やっぱり。
「でも俺さ、清呼には感謝してるんだよ」
「感謝?」
「だってほら、俺って一人っ子だろ。普通なら自分だけでのんびりしてるところを、清呼がいたおかげで、何だか勝手に張り切っちゃって。あれこれ頑張ってたら、いつの間にかそれが普通になって、勉強もサッカーの練習も、そんなに辛いと思わなくなってたんだな」
「それは単にタケルの出来がいいからじゃない?」
「いや、俺って本当はすごい怠け者だもの。でもさ、もう予習すんの止めようかな、なんて思うと、ちらっと清呼のことが頭に浮かんで、これやっとけば教えてやれるな、とかって、あとひと踏ん張りできたんだ。なぜかそれが、お前が村からいなくなっても続いてさ、慣性の法則っての?変だよな全く。サッカーなんかしてても、やっぱりお前がどっかで見てるような気がして、頑張っちゃうんだよ。あの試合の時もそうだったな」
「靱帯切ったとき?」
「そう。あの日、家で朝飯食ってた時に、日めくりカレンダー見て、ああ、今日は清呼の誕生日か、って思ったんだよ。それが頭に残ってたのかな、試合の最中にふっと、お前が見に来てるような気がしてさ。それが何だかいつになく、すごくリアルな感じで、思わずスタンドの方を見た途端に激突。まあ単なる集中力切れって奴か」
「ごめんね」
それはタケルの集中力のせいじゃなくて、清呼が引き起こした災いなのだ。そのせいでタケルはもうサッカーの選手になれない。どんなに残念だったかと思うと、涙が出てきた。
「なんでお前が謝るんだよ。俺が勝手に思い出してただけなのに」
「でもタケルが私のこといつも気にかかったのは、あまりにも馬鹿で、面倒見ないと仕方なかったからでしょ」
「そういうわけじゃないんだな。説明すんの難しいなあ。まあ、要するにいいとこ見せたかったんだよ」
タケルは困ったようにそう言うと、テーブルのホルダーからペーパーナプキンを一枚とって差し出した。
「ほら、涙ふけよ。相変わらず泣き虫だな」
「タケル、サッカーできなくて辛くない?」
「正直いうと最初は落ち込んだね。でもさ、プロ級だったら高校の時点で行くところ行ってるはずだし。そうじゃないってことは、最終的にはいつか辞めてたのかな、って。それに、軽くフットサルで遊ぶぐらいは全然問題ないしな」
タケルはさばさばした調子でそう言った。
「俺さ、大学卒業したら、中学の先生になりたいんだ。それで、サッカー部の顧問になる」
「すごいじゃん。タケルなら絶対できるよ」
「でも採用試験ってけっこう厳しいらしいしな。それに、教職の単位とるの大変だし」
「大丈夫だって。タケルが先生なら、私も毎日朝一番に登校してたよ」
「嘘つけ」
それから清呼は何だかとても楽しくなって、中学で一緒だったみんなが、その後どうしているかをきいた。真奈美からも色々と話は聞いていたけれど、タケルからの話はまた違った感じで、まるで自分も同じ高校に進んだみたいな気がした。
「いけね。もう行かなきゃ」
もう一杯注文したアイスレモンティーもすっかり飲み干してしまった頃、タケルは腕時計を見てそう言った。
「今晩、友達のピンチヒッターで警備員のバイトなんだよ」
そしてスマホを取り出して「番号とメルアド教えろよ」と言った。
「あ、ごめんね、今ちょっと人のを借りてるから駄目なの。ここにタケルの書いて」
清呼は咄嗟にそう嘘をついて、手帖の白いページを開いて差し出した。タケルは、面倒くさいな、とか言いながら書いてくれたけれど、清呼はとても後ろめたい気持ちになった。自分の中に、タケルともう会ってはいけない、という恐怖と、もっとずっと喋っていたい、という気持ちが交じり合って決着がつかない。
「ていうかもう、次の約束をしよう。あさっての木曜日、午後六時。場所はここ。うちの学校の近所だ」
タケルはいきなりそう言うと、清呼の手帖に地図を描き始めた。
「俺、引越し屋でバイトしてるから、悪いけど土日は忙しいんだよな。清呼それでOK?」
「うん、その日はあいてる」清呼はそう返事してから、あっ、言ってしまった、と思った。でもあと一度ぐらいいいじゃない。せっかくまた会えたのに。ずっととても会いたかったのに。
それから清呼が、空いている時間のほとんどを、タケルに会うために使うようになるまでは、あっという間だった。
授業が終わるとすぐに待ち合わせ。夕方まで和菓子屋さんのバイトのある日は、その後で。タケルが引越し屋さんでバイトの週末も、解散場所を聞いておいて、その近くで待ち合わせ。たとえそれがたったの一時間でも、とにかく会える限りは毎日のように出かけていった。
食事時なら二人で安い定食屋なんかに入ってごはんを食べたし、お茶だけ飲むときもあったし、散歩するだけのときもあった。そしてその間中ずっと、色々なことを話した。
子供の頃の思い出、友達や村の人たちの近況、離れていた間に起きた事、東京に来てびっくりしたこと、昨日の出来事、これからしたい事。遠慮のない冗談を取り混ぜて、笑いあいながら話していると、あんなに泣いて別れたのが嘘みたいだった。
そして別れ際に必ず、次の約束をした。でも時にはどうしても都合のつかないことがある。清呼はそんな時、バイトを休んだり、他の子に代わってもらったり、できる限り自分の予定を合わせた。
「無理してんじゃないの?別に来週でもいいよ」そうタケルが言っても、清呼は「大丈夫、気にしないで」としか言わなかった。そして手を振って別れた途端に、心の中は不安と恐怖で凍りつくのだった。
どうしてまた会う約束をしてしまったんだろう。
タケルとはもう会ってはいけない。そう思っているから、違う大学に通っていることにしているし、住んでいる場所も嘘だし、ケータイの番号もメルアドも教えていない。そしていつも会う前には「これでさよならしよう」と言うつもりなのに、「次はどうする?」と言われた途端に、必死で予定をあわせている自分がいる。
問題はそれだけじゃなかった。タケルと会う時間をとるために、龍村さんに嘘をついている。学園祭の準備で忙しい。そう言って、会う約束を何度か断った。一緒に食事に行っても話に集中できなくて、「具合でも悪いの?」ときかれた事もある。
清呼は自分で自分が判らなかった。真奈美の時は普通に龍村さんに紹介したのに、タケルのことは言えない。幼馴染の兄弟みたいな子、前にそう話はしてあるから、偶然ばったり会っちゃって、と言っても大丈夫なはずなのに。
もちろん理由はあった。それはタケルが男の子だという事。
夏休み前、学校でフルーチェさんとの間に変な噂をたてられた、そう話したら、龍村さんは何だか怒ったみたいだった。口では気にしてないって言ったけど、とても荒っぽいことをした。何が辛かったって、その時龍村さんから伝わってきたのが、怒りじゃなくて悲しみだったことだ。そして何故だか、タケルのことを話したら、龍村さんはまた悲しい思いをするだろうという予感がある。
タケルとは別にそんな関係じゃないし。はっきりそう言えればいい。けれど清呼にはそれができなかった。
別れて五分もしないうちに、タケルの声や笑顔で頭の中がいっぱいになる。夜遅く寮に帰って、シャワーを浴びてからベッドに横になると、空っぽの腕の中に、再会した瞬間に抱きついたタケルの、太い首や暖かい胸の感触が甦ってくる。こんな事考えるなんて変だ。そう思って寝返りを打つと、タケルの汗の匂いをかいだような気がして、いつまでも動悸がして眠れなかった。
「清呼、このごろ痩せたんじゃない?」
学食で一緒にオムライスを食べていたら、ピリカがいきなりそう言った。
「そうかな?」清呼にそんな自覚はないけれど、もしかしたら、タケルとの待ち合わせの都合で、よく食事をとばしてしまうせいかもしれない。
「痩せたよ。ていうか、最近すごく綺麗になったと思うんだけど、ちょっと凄みがあるっていうか」
「凄み?」
「変な言い方でごめんね。何ていうか思いつめてるような感じがして」
ピリカはそう言って、ごまかすようにアハハと笑ってみせた。そうすると大きな瞳が糸みたいに細くなって可愛い。
思いつめてる、か。実は同じような事を葵ちゃんにも言われてしまった。この前の土曜、タケルが朝から引越し屋さんで頑張ってる間、葵ちゃんと会ったのだ。ショッピングセンターで洋服なんか見て回って、フードコートでアイスクリームを食べながら一休みしていたら、葵ちゃんはこう言った。
「清呼、何かずっと考えてることある?」
「なんで?」と聞いたら、「だって今日会ってから一度も、葵のことまっすぐ見なかったよ。今もそう、どこか遠いとこ、ううん、きっと自分の心の中を見てる」と真剣に言った。
本当に葵ちゃんにはかなわないなあ。清呼はそう思いながら、「今ちょっと学校の友達のことで悩んでるの」とごまかしたけれど、信じてくれたかどうか。そして今またピリカにも言われた。
ピリカや葵ちゃんがわかるのだったら、龍村さんはとっくに何か気づいているに違いない。でもそれは当然だ。
タケルに再会してからもう一月近くになるけれど、清呼はその間、一度も龍村さんに抱かれていない。何故だかそんな気分になれない。学園祭の準備で忙しい、と嘘をつくのにも疲れて、そう話したら、まあそんな時もあるよね、と答えてくれた。でもそれは言葉だけ。龍村さんの目は悲しそうでもあり、何か考えているようでもあり。そして清呼の指先をしばらく握っていたけれど、「冷たい手だな」と言って溜息をついた。
「ほら、また何か考えてる」
呆れたようなピリカの声で、清呼は我に返った。
「誰か好きな人でもできたんじゃないの?」
ピリカは冗談のつもりらしかったけれど、清呼は何も言えなくて、気がついたら食べかけのオムライスの上に、涙が次々と落ちていた。
「ごめん、私ひどい事言った?」
そう言ってピリカは慌ててバッグの中をかき回し、ティッシュを取り出してくれた。清呼は「気にしないで、私少し変みたいだから」と言って、何とか笑ってみせようとしたけれど、うまくいかなかったし、オムライスを食べ続けることもできなかった。
そして時計を見ると、もうタケルとの待ち合わせの時間が迫っているのだった。これまでなら、食事がすんでもピリカとおしゃべりして過ごした水曜の午後。清呼は慌てて立ち上がり、食べ残しのオムライスがのったトレーを手に持った。
「ごめん、ちょっと用事があるから行くね」
そう言うと、ピリカは「じゃ、また明日ね」とだけ言うと、寂しそうに笑って手を振った。
約束の時間に少し遅れて、待ち合わせ場所の喫茶店に行くと、タケルはもう座って文庫本を読んでいた。
「遅れてごめん」
そう言って腰を下ろすと、ウェイターさんに「ミルクティーください」と頼む。タケルはコーヒーを飲んでいて、文庫本を閉じるとショルダーバッグに入れた。
この店はタケルの学校の近所で、お客もほとんどが学生だった。値段は安いし、長くいても何も言われない。メニューは随分前から変わってないみたいで、写真なんか相当色あせているけれど、サンドイッチやワッフルなんかもおいしかった。もう何度も来たので、特にお腹がすいていない時はミルクティーに決めていた。
それから二人でまた、色々な話をした。今日はタケルが夕方からイベント会場設営のバイトがあるので、そんなにゆっくりしていられない。タケルは途中で、なんだかお腹がすいたといってオムライスを注文した。
「変なの。私もお昼、オムライスだったんだよ」
清呼がそう言って笑うと、タケルはごくごく真面目な顔をして「だって俺たち、通じ合ってるもんな」と言った。
この店のオムライスは大きくて、清呼が昼に学食で食べた奴の倍ちかくあった。これが元女子大と、普通の大学の違いかな?そんな事を思いながら、すごい勢いでオムライスを食べていくタケルを見ていたら、ふと清呼の方を見て「食う?」と聞いてきた。
「じっと見てんだもん。ほら」
タケルはスプーンにひとさじすくって、差し出した。清呼がちょっと戸惑ってから身を乗り出しすと、タケルは小鳥の雛に餌でもやるような感じで、スプーンの中身を口の中に移してくれた。
舌の上に、ケチャップの甘酸っぱい味が広がる。そうなんだ、タケルってこういう事が人前でも平気でできるんだ。しかも自分が食べるような山盛りじゃなくて、清呼の口におさまるぐらいの量にちゃんと加減してくれている。
「お前いつも俺が何か食べてると、一口ちょうだいって言ったもんな」
残りのオムライスをどんどん平らげながら、タケルはそう言った。
「そんな事言ってたっけ?」
「言ったよ。同じアイスクリームなのに一口食わせろとか、欲張りだよな。畑のキュウリでもトマトでも。野いちごだって、自分には手の届かないところの方がおいしいかもしれないって言うし。こんにゃく以外は何でもだ。まだ駄目なの?こんにゃく」
「それは言わないで」
するとタケルは、にやにや笑った。
「こんど学園祭なんだけどさ」
オムライスを食べ終わると、タケルは軽く伸びをした。
「土日だし、せっかくだからバイト休もうと思うんだ。一日遊びに来ない?」
「行く。タケルのサークルって、模擬店とか出すの?」
「いや、正規のサークルじゃないから、やってない。おまけに最近さぼりまくってて、メンバーに会うたびに、たまには来いよって言われてさ」
タケルは「史跡同好会」というのに入っていて、このサークルの主な活動は名前の通り、あちこち史跡を見て回ることらしかった。
「最初は東京の史跡って面白そうだと思って入ったんだけど、バイトが忙しくてそれどころじゃないし。まあとにかく、うちは学生の数だけは多いし、学園祭も規模が大きいから面白いらしいよ」
「じゃ、楽しみにしとくね」
「それで、なんだけど」
ウエイターさんに空のお皿を渡してから、タケルは急に真剣な顔つきになった。
「率直に言うけど、清呼、俺の彼女になってくれないかな」
ついに来た、清呼はそう思った。再会してからずっと、同級生たちの誰と誰がくっついて、別れて、そんな話は山ほどしたのに、自分たちのことだけは絶対に言わなかった。それが却って、お互いの言いたいことをくっきりと浮き彫りにしていたから、いつかきっとこうなるだろうと予感していたのだ。
「あれかな、やっぱり彼氏とか、いるのかな」
何も言えない清呼を見て、タケルはちょっと気まずそうに笑った。
「当然かもな。俺、電車でお前の事見つけた時からずっと、覚悟はしてたんだ。きっと彼氏いるだろうって。でも少し話するぐらい、いいよなって」
「タケル」
もうそれ以上気を遣わせたくなくて、清呼は口を開いた。
「私は今すぐに返事できない。ごめんね。でも次に会う時は必ず、ちゃんと答えを出す」
「次ってもう、学園祭だけど」
「じゃあその日に、朝十時に、またここに来る」
「絶対に来る?ケータイの番号も、結局まだ教えてくれてないし」
タケルがこんなに不安そうな顔をしたのは初めてだ。
「手を出して」
清呼は急いで首にかけていたペンダントを外すと、タケルの大きな掌に入れた。
「これは私の大切なもの。絶対になくしたくないから、次に会う時までちゃんと持っていて」
涼子さんからもらった入学祝い、こんな風に使うなんて思ってもみなかった。タケルは判った、とだけ言うと、それをシャツの胸ポケットに入れた。
二十七 ずっと準備中
「この場合の対処法には以下の三種類が挙げられる」
龍村の目はいつまでたっても、その一行から前に進もうとしなかった。
仕事の資料なのに、一向に頭に入らない。手にしていたコピーの束を机に放り出すと、龍村は立ち上がって窓を開けた。十月ももう下旬。ひんやりとした夜気が、煮詰まった頭を気持ちよく冷ましてくれる。
対処法が必要なのは自分だ。
清呼の様子が変になってから、もう一ヶ月近くになる。最初は本当に、学園祭の準備や何かで忙しいのかと思っていた。しかし、これまでいくら忙しくても、食事の量が落ちることはなかったし、口数が減ったりもしなかったのが、会っていても心ここにあらずで、会話も途切れがち、近頃は目に見えて痩せてきた。おまけに身体の関係を拒否され続けている。
何かあった?
そう聞けばいとも簡単に謎がとけるかもしれない。例えばまた学校で下らない噂をたてられたとか。だがそんなに簡単な事ではないのはよく判っていた。理由は、清呼の手だ。あのいつも暖かい彼女の指先が、様子がおかしくなってからはずっと、氷のように冷たい。
これまでにそんな事があったのはたった一度だけ。自分に暴言を吐かれて、出て行ってしまった日の朝、一瞬だけ触れた指先もひんやりと生気のない冷たさだった。あの時と同じぐらい大変なことが起きている。いや、それがずっと続いているのだから、事はもっと深刻かもしれない。
まさか妊娠なんかしてないよな。
十分注意はしているつもりだが、その可能性は否定できない。しかしそれならいっそ、自分としてはふんぎりがつく。問題は彼女自身がそれを全く望んでいないという事だが、時間をかければ説得できるかもしれない。
馬鹿げてる、そんな考え。
龍村は静かに窓を閉めた。あの指先の冷たさ。それは多分、自分たちの絆が深まる兆しではなくて、遠ざかる予感なのだ。
彼女はまた、自分から離れようとしているに違いなかった。ただその優しさが災いして、言い出せずにいるだけなのだ。そして自分はそれをいいことに、何も気づかないふりをして、会えば必ず泊まりにこないかと誘いかける。断られれば平気な風を装うが、内心では強引に連れ帰りたい程に欲望が高まった。
誰かいるのだ。
学校の友達か何なのか判らないが、彼女の心を捉えて離さない誰かがいる。この前はついに、大鳥の店まで行って探りを入れてしまったが、それでもわからない。
いつも自分を見てくれていると思っていた瞳が、誰かを想って濡れた光を放っている。それを目にしただけで、見えない炎で炙られているように苛立つ。いっそ彼女の気を引くために大怪我でもしたい程だ。
そこへケータイが小さく鳴った。メールの着信だ。清呼かと思って開くと、デボラからの仕事の紹介だった。打ち合わせがしたいというので、OKの返事を打ち。放り出した資料を再び手にとった。
翌日の午後、通称「葉山家第二応接室」、ミモザ紅茶館へ出かけると、デボラではなく葵が座ってココアを飲んでいた。
「お前何してんだよ。デボラの代理か」
「お母さんちょっと遅くなるって。信生がさ、膝すりむいて帰ってきたんだよ」
「そりゃ大変だな。楓は来てないのか。貴生は保育所?」
「楓はお留守番。貴生はこれから葵が迎えに行く」
「お前が?どうやって連れて帰るわけ?」
「あれだよ」
そう指差す方を振り向くと、レジの傍にたたんだベビーカーが置いてある。
「今、お給料先払いでここにいるんだ」
「なるほどね」
葵に会うのも久しぶりだ。この年頃の子供は見るたびに大きくなっているような気がするが、実際もう五年生、最近は大人顔負けの口ばかりきく。
「ねえ、佐野さん旅行から帰ってきたの知ってる?」
「ああ、知ってるよ」
ジャケットを脱ぎ、せっかくの紅茶館なのでコーヒーではなく、アールグレイを注文する。
「こないだ、近くまで来たからって、お土産のチョコレートもらったよ」
「あいつ本当に女子供にはマメだな。俺なんか、戻りましたってメールだけだぞ」
「どうせ龍村さんそんなに喜ばないじゃん。チョコは清呼の分も預かってるからさ、こんど楓と寮まで渡しに行くんだ。佐野さん来るのがあと三日早ければ、私たちすぐに清呼と会ってたのになあ」
「最近会ったの?」
「うん。お買い物して、アイス食べて、おしゃべりした」
「元気にしてた?」
「元気は元気だけど、ずっと準備中。ていうか、都合によりしばらくお休みします、って感じ」
葵は一息ついて、ココアを飲み干した。
「あのさ、清呼が女の子になる前、交通事故に遭ったよね。あの前の日に公園で会った時と、同じ感じがしたよ。身体はここにいるのに、心が遠くにいるみたい」
龍村は思わず葵の顔をまじまじと見た。
「あんなにぼんやりしてたら、赤信号でも平気で渡っちゃいそうで怖いよ。そうなったら龍村さんの責任だからね」
「俺?」
「だって龍村さんは清呼のお兄さんみたいなもんでしょ?今日、信生が転んで膝すりむいたのは葵の責任もあるんだよ。ちゃんとよそ見しないで歩くように、いつも注意させとかなきゃいけなかったのに」
「デボラにそう言われたわけ?」
「言われないよ。きょうだいなら当然のことだもん。だから龍村さんも、清呼は弟で、今は妹だから、気をつけてあげなきゃ。うちのお母さんだって清呼のことはとても気にかけてるけど、葵たちだけでもう手一杯なんだよ」
「そうだな。でもなんでそんなにぼんやりしてるんだと思う?」
清呼は葵には何か打ち明けているだろうか、こうして子供にすら手がかりを求めようとしている自分が滑稽に思える。
「学校の友達のことで悩んでるって言ったけど、たぶん嘘だよ。葵が子供だから本当の事は内緒。大人の話だよきっと」
大人の話、か。途方に暮れて、左手の甲にある傷痕をこすっていると、デボラのよく通る声が聞こえた。
「やだ、葵まだいたの?」
振り向くと、彼女が慌てた様子でこちらへ歩いてくる。葵はしまった、という顔で立ち上がった。
「早く行かないと延長保育になっちゃうじゃない。何のためにココア飲ませてあげたと思ってるの」
「ごめん、俺が引きとめて話をしてたんだ」
思わず援護射撃してしまう。葵は言い訳もせずに「じゃあ、清呼にちゃんと注意してね」と念を押すと、ベビーカーを引きずって出ていった。その後姿に「気をつけてね」と声をかけ、デボラは疲れた様子で腰を下ろした。
「よく手伝ってるじゃないか、葵の奴」
「そうよ、全くもって感謝してるわ。なのに口を開けば小言ばっかり。私って勝手な母親よね」
「葵だってちゃんと判ってるよ」
「だといいけどね。中学ぐらいになったら一気に反抗されるんじゃないかって、たまに心配になるのよ」
デボラはそれだけ言うと、キャラメルミルクティーを注文して、首を軽く回した。
「時々、仕事再開したのが早すぎたかもって、後悔しそうになるわ。今の事務所はあんまりわがままも言えないし。頼みの綱の清呼も最近は忙しいみたいで」
「そうらしいね」
「らしいね、って、一番よく知ってるくせに」
少し共犯者めいた表情を浮かべ、デボラは笑った。清呼との事はさすがに彼女にはばれていて、表向きは協力的だと感じるものの、本当のところどう思われているのか、会えばいつも採点待ちのような居心地の悪さがつきまとう。
「いや本当に、学園祭がどうのこうのって、最近は会ってもくれないし」
「まあ、あの年頃は友達が大事だしね。私もけっこう気を遣ったなあ」
友達付き合いで忙しいならまだいいが。龍村は皮肉な気持ちで、ティーカップに添えられたデボラの、少し荒れた指先を見ていた。
「さて、お互い愚痴ってないで、仕事の話しましょ。また子供ネタでウンザリかもしれないけど、龍村くんってこの方面が向いてるんじゃない?」
「そうかな、来る仕事受けてるだけだけどね」
何故だか、一年かけて雑誌に連載した保育所関連の記事が好評で、その後も子供がらみの仕事ばかり依頼がくる。自分はその方面の専門教育を受けたわけではないし、地道に資料を読み、取材をするしかなく、やたらと時間をとられるが、一人になっても何とかやっていけるのは幸運だった。
事務所を解散するきっかけになった、赤井が残した請求書と契約不履行の違約金は、結局会社名義で清算し、実際は龍村が自腹で埋めた。デボラと佐野も一部負担するとは申し出てくれたものの、もし鉄輪氏が言った通りに清呼を通じて神様が過去の清算を求めているなら、自分が全て引き受けたいと思ったのだ。もちろん即金で全て都合することはできず、足りない分を兄と、さらに祖母にまで借金をしているのだった。勿論少しずつ返してはいるが、まだ完済するにはしばらくかかりそうで、いつまでたっても余裕がない。
「そうそう、涼子ちゃん、結婚本決まりだって?」
おおかたの話を終えて一息ついた頃、デボラはいきなりそんな事を言った。
「誰にきいた?」
「佐野くん。この前お土産持ってきてくれた時に言ってたわよ」
「涼子のやつ、なんで佐野にはそうやって色々話すんだろうな」
交際順調までは知っていたが、結婚が決まったとはきいてない。本人から報告がなかった事で、何故だか素直に喜べなかった。
「でも入籍だけにして、式もパーティーもしないんですって」
「いいじゃない。こっちも手間がはぶけて」
「子供たちはパーティーをけっこう楽しみにしてたのよ。清呼もね」
「涼子の花嫁姿なんか見たら夢でうなされるって」
「やあね。人の奥さんになるんだから、そんなにひどい事言うもんじゃないわよ」
確かに、これまで涼子ときつい冗談ばかりやりとりしていたのも、お互い独り者という気安さがあったからだ。これからはさすがに、それも遠慮しなくてはならない。何だか寂しいもんだなと思った。
「ね、龍村くんは清呼のこと、真剣に考えてる?」
今度は矛先がこちらに向いてきた。
「さあ、向こうはまだ学生だし」
「あなた自身がどうかってきいてるのよ」
そう問いかけるデボラはいつになく厳しい表情をしている。
「俺自身は、できればこのまま、うまく続けば、真剣に考えたい、かな」
ここで適当なことは言うまい、そう思うと、言葉が途切れ途切れにしか出てこない。デボラはじっと耳を傾けていたが、ふっと笑みを浮かべた。
「だったら安心した。まさか遊びとは思ってないけど、彼女の家族がそばにいないって事で気楽に考えてたら、何だか嫌だなって」
「すいませんね、いいかげんな感じで」
「余計な口出ししてごめんね。でももし葵や楓だったらって思うとね。大切に育てた娘だもん。適当なところでさよならしよう、なんて思いながらつきあって欲しくないのよ」
「ご意見ごもっともです」
そう言って頭を下げながら、龍村は、さよならされそうなのは自分だ、と苦い思いを噛み締めていた。
「危ない!」
志穂が叫んだのと、清呼が悲鳴を上げたのはほぼ同時だった。
「火傷したんじゃない?」
洗濯室でブラウスにアイロンをかけようとして、ついうっかり指にのせてしまった。痛みの走った場所を見ると、赤くなっている。
「ずっとよそ見してるんだもん、注意しようと思ってたのよ」
志穂は呆れ顔で、乾燥機から出したシーツをたたんでいる。
「今朝はお湯のみにお茶を溢れさせたし、手ぶらで学校に行こうとするし、集中力なさすぎじゃない?」
清呼は全くその通り、と思いながら、もう一度アイロンを手にした。
志穂とは学科が違うから知られていないけれど、学校でも違う教室に座っていたり、先生にあてられても全然気づかなかったり、かなり悲惨な状態なのだ。
ピリカは本当に心配していて、しばらく実家に帰ったら?と言ってくれたし、芽衣は何故だか意味ありげに「私、清呼がなんでこんなにぼんやりしてるか知ってるけど」と含み笑いをしてみせた。しかしどれも現実じゃないみたいで、口が勝手に「ふうん」なんて返事するだけだった。
もうタケルの大学の学園祭は明日に迫っていて、自分はそれまでに答えを出さなければならない。なのにどれだけ考えても、出口がない。学校にいても、寮に帰ってきても、頭の中はずっとそんな調子だった。
「ほら、皺になってるじゃない。かしなよ」
志穂はそう言いながら清呼の手からアイロンをとって、ブラウスにあて直してから、きれいにたたんだ。
「もう今日は晩ごはん食べてさっさと寝たら?私これから飲み会だし、今日は友達んとこ泊まるからね」
清呼は小さくうなずき、シーツとバスタオルを抱えた志穂の後について部屋に戻った。そしてベッドに腰掛けると、楽しそうに着替えを始めた志穂の姿を目で追った。
「ねえ、清呼も一緒に飲み会に来る?うちらは全然オッケーだけど。嫌な事があるなら、楽しく過ごして忘れるのが一番だよ」
「ありがとう。でもいいや」
清呼はそう答えて、ベッドに横になった。志穂はカットソーにカーディガン、下はジーンズという格好に着替えていた。バレー部のきつい練習で足が痣だらけなので、スカートははかないらしい。それから鏡を覗き込んで、真剣に化粧を始めた。
清呼は少し気分転換でもしようと、枕元の棚に手を伸ばした。そこには、佐野さんがヨーロッパ旅行の間にずっと送ってくれた絵葉書が置いてある。
全部で十一枚。フランスのパリに始まって、フィンランドのヘルシンキまで。映画みたいな風景の写真もあれば、まるで生き物みたいな建物の写真もある。もう佐野さんは帰ってきたのに、こうして絵葉書を見ていると、まだ旅行中みたいな感じがしてくる。
佐野さんに会いたい。
こんな相談、涼子さんにしたら何もかもばれてしまいそうで、絶対に言えない。でも佐野さんなら静かにじっと話を聞いて、余計な質問はせずに、何かヒントになることを教えてくれるかもしれない。そして最後に、心配しなくても大丈夫だよって励ましてくれるかも。ああ、でもこれは受験勉強なんかじゃない。人の気持ちは何点とれば合格、なんてことはないのだ。
どうして子供の時はみんなで仲良くできるのに、大人になったら誰か一人って選ばなければならなくて、誰かが悲しまなければならないんだろう。それだけじゃない、憎しみだって生まれてしまう。
隣の部屋の亜希は、旅行のときはあんなに彼氏といい感じだったのに、こないだ浮気されたって大喧嘩して、ぶたれて泣きながら帰ってきた。大人の世界は辛いことも半端じゃない。
「じゃ、私、でかけるね」
すっかりメイク完了した志穂はそう言うと、まだ寝転んでいる清呼のそばに屈み込んだ。
「元気ないなあ。おみやげにいい男紹介してあげるよ」
清呼は少し笑ったけれど、何だか却って悲しくなった。
志穂が出て行くと、彼女の使ったコロンの、シャボンの香りだけが残った。もうすぐ晩ご飯の時間だけど、どうだっていい。外はすっかり暗くて、少し風があるみたいだった。
清呼は絵葉書をまとめて棚に戻すと、そばにおいてあったオーディオプレーヤーを手にとってイヤホンをつけた。何か聞いて、気持ちを落ち着けたら、答えがでるだろうか。
「僕は最高に頭が混乱した時は、あれを大音響で聞くとすっきりするんだけどな」
ふと佐野さんの言葉が甦った。いつだっけ、ストラビンスキーの「春の祭典」の話をしていた時だ。清呼はこの曲はなんだか苦手で、ずっと聴いてなかったけれど、最高に頭が混乱しているんだから、やってみる価値はあるかもしれない、と思った。
そして曲を選ぶと再生する。あの妙なファゴットの音色が聞こえてきて、清呼はボリュームを一気に上げると、そのまま頭から布団をかぶった。
翌日、いつもの喫茶店へ約束の十時ちょうどに入っていくと、タケルはもう来ていて、清呼に気づいた途端にぱっと明るい顔になった。
「おはよう」と声をかけて前に座る。タケルはモーニングのセットを食べていて、テーブルにはこの前預けたペンダントが置いてあった。
「朝ごはん食ってきた?」
「まあね」
本当は何も食べてないけど、清呼はそう答えて、カフェオレを注文した。
「ゆで卵半分食う?」
「いらない。ありがとう」
「これ先に返しておくよ」
タケルはペンダントを手にとって差し出した。清呼はそれを受け取ってまた首にかける。タケルはそれからずっと清呼の言葉を待っているようで、黙ってトーストとサラダを食べ、ゆで卵も全部食べてしまった。そして清呼がカフェオレに砂糖を二杯入れて飲み始めると、ようやく口を開いた。
「あの、答えだしてくれたかな」
また不安そうな顔してる。清呼は小さくうなずくと「でも、先にちょっと、学園祭見にいっていい?」と言った。
外はとてもいい天気。まだ少し空気はひんやりしているけど、どんどん暖かくなりそうな気配だった。
「どんなとこで勉強してるか見たいんだ」
清呼がそう言うと、タケルはにこりと笑い、並んで歩き始めた。
「手、つないでいいかな」
返事する代わりに手を差し出す。軽く触れたたけなのに、タケルは力強く握り締めてきて、もう離さないと言っているみたいだった。こうしていたら、ずっと二人で大きくなってきたみたい。いつも並んで歩いてきたみたい。
昨日、「春の祭典」を大音響で聞きながら、清呼は心の中のごちゃごちゃを全部ぶちまけていた。整理整頓なんかとうてい無理な感じの、色んな気持ちが音楽に混じりあって、ぶつかって、砕けて、また混じりあった。
好き、好き、一緒にいたい、嘘つき、卑怯者、弱虫、勝手、好き、臆病、怖い、寂しい、好き、悲しい、わがまま、ずるい、心配、好き、傲慢、悪い、泣きたい、苦しい、死にたい、好き。
やがて全ては一つになって、唐突な曲の終わりと同時にしんと静まり返った。
その静けさと闇の中で、清呼はようやく答えをだした。自分にはこうするしかない。そして後悔は絶対にしない。
今、その答えを胸にしっかりと抱えたまま、清呼はタケルと手をつないで大学の門をくぐった。模擬店の呼び込みや、イベントのチラシを配る学生たちと、よそから遊びに来た女の子や家族連れ、近所の子供たちでとても賑やか。清呼の通う大学に比べると、ずっと広くて、人も多い。
「何でも欲しいものあれば言えよ。味は保証しないけど」
タケルはそう言って、模擬店がよく見えるようにゆっくりと歩いた。たこ焼き、りんご飴、とうもろこし、チョコバナナに焼きそば。輪投げや風船つりなんかのゲームもあって、女の子がはしゃぎながら遊んでる。
「あの、法学館って書いてあるのが、タケルの勉強している場所?」
「専門はね。でも今は一般教養の方が多いから、大体はこっちの教室だな。すごい人数が入れて、先生なんか見えないぐらい広いんだよ」
「そうなんだ」
「あっちが図書館で、その向こうが学食と生協。学食は全部で四つある」
「すごいね。うちなんか学食一つと喫茶部だけなのに」
そんな話をしながら歩いていると、たまに「よっ」なんて手を挙げて、タケルの友達が通りがかる。
「何、黒谷、彼女いたの?聞いてねえよ」
「あれ、黒谷くん、誰その子!紹介してよ」
タケルはそのたびに、へへっと笑って「またな」なんて答えている。清呼もただ黙ってそばで笑っていたけれど、つないだ手はずっと離さずにいた。
一通り色んなものを見てまわって、少し疲れたので、清呼はどこかで座って一休みしたいと言った。タケルは「わかった」と言って、人ごみの中をどんどん歩いたけれど、ふと、かき氷の模擬店の前で止まった。
「どれがいい?」
清呼がレモンを選ぶと、タケルは「じゃあ俺はソーダにしよう」と言って、二人分のお金を払った。そしてかき氷を食べながらしばらく歩いてゆくと、急に人のいない静かな場所に出た。
「こっちは先生の研究室だけだから、学園祭も関係ないんだ」
タケルはそう言うと、建物をとりまくように作ってある花壇の縁に腰を下ろし、清呼も並んで座った。
「天気がいいから暑いぐらいだね」
清呼はそう言いながら、黄色いレモンのかき氷を食べた。タケルは黙ってソーダのかき氷を食べていたけれど、半分ぐらいすすんだところで「食べる?」と聞いた。清呼は頷くと、タケルの差し出したカップから、何杯かすくって口に運んだ。そして自分のカップを差し出すと、タケルも同じようにそこから食べる。
「これさ、黄色と水色で、緑色になるのかな」
タケルはそう言って、舌を出して見せた。
「あ、本当に緑だ。じゃあ私も?」
清呼は何だか可笑しくなって、自分も舌を出してみる。タケルは笑って「ほとんど黄色で、真ん中だけ緑色」と教えてくれた。そして氷を全部食べ終わって、甘い色水まで飲んでしまうと、途端に何だか秋の涼しさが胸の中に浸み込んできたような気がして、清呼は軽く身震いした。
「なんだ、寒くなった?」
タケルは少し心配そうな笑顔で覗き込み、空のカップを二つ重ねると、自分の側に置いた。清呼は「大丈夫」と答えて、濡れた指先をハンカチで拭くと、大きく息を吸い込んだ。
「タケル、答えを言うね」
「うん」
「私やっぱり、タケルの彼女にはなれない」
そう言った途端、強い風が吹いてきて清呼の髪をかき乱し、一瞬何もかも見えなくなった。
二十八 長い午後
「理由、きかせてもらっていいかな」
清呼が乱れた髪を直して見上げると、タケルは少し悲しそうな顔でそうたずねた。
「理由は一つだけ。私には神様との約束があるから」
そして清呼は、自分が村を出る前に、鉄輪パパから言われたことを全てタケルに話した。
自分を通じて村の人が受けた恵みの全てを、自分を通じて神様が取り返しにくる。それを避けるために、清呼は一人村を離れて、二度と戻ることはない。
最初のうちはとても寂しくて、自分をしっかりさせるために、パパの話を何度も思い出して我慢した。でも少しずつこっちの生活に慣れて、楽しいことも増えてきたら、そんな話もいつの間にか忘れかけていた。
でもそのうち、周りの人に色々な困りごとが起きて、ある人に、もしかして清呼が原因じゃないかと言われて、それでようやく何が起きているのか気がついた。あとは自分が全部引き受けて死ぬつもりだったのに、それにも失敗して車にはねられた。
「それが私の十七の誕生日の午後。タケルが膝の靱帯を切ったのは、たぶん私が車にはねられたその瞬間。私の命を救ってくれたのはタケルだよ」
うつむいたままでそれだけ話すと、清呼は手にしていたハンカチを握り締めた。スカートからのぞいた自分の膝に、ジーンズをはいたタケルの膝の温もりが伝わってくる。
「他の人なら多分信じないだろうけど、タケルにはよく判るよね?私たちの神様はいつも本気だし、適当なことはしない」
「でも」
タケルはかすれた声で反論した。
「清呼はもう大人になってるじゃないか。だとしたら全ては終わっていて、俺たちまた一緒にいても大丈夫じゃないか」
「全てがいつ終わるのか、そんな事誰にも判らない。私と神様の約束は、もう村に戻らないって事だけじゃなくて、私はもう死んだって事でもある。鉄輪パパは私のお墓も作るって言ったよ。タケル、神様との約束は絶対に破れない。もし私がタケルの彼女になったら、ううん、私はタケルとだったら結婚したい。でもそうしたら、タケルはどうなる?一人っ子だし、おじさんおばさんを残してずっとよそに住むなんて無理だよ」
「そんなの何とかなるよ」
「それだけじゃないよ。何より怖いのは、また同じような事が起きたらどうしようって。離れていてもあんなに酷い事になったのに、一緒にいたらもっと大変な事になるかもしれない。私が病気したり、怪我したり、その度にタケルが身代わりになったりしたら大変だよ」
「俺は全然平気だけど」
「私は辛くてそんなの耐えられないよ。タケルの膝のことだって、おじさんおばさんに、何て謝っていいかわからない。タケルはいま、自分ひとりで生きてるように感じるかもしれないけど、そうじゃない。おじさんおばさんは絶対にタケルと一緒。タケルは村の子だけど、私はもう永遠にそこにはいない。タケルと私はつながってるけど、二人で一緒の未来はないんだよ」
何てひどいんだろう。
清呼は自分の言葉を聞きながら背筋が寒くなった。大好きなタケルに、こんなことを言うなんて。見上げるとタケルは、うなだれて何か考えてるみたいだった。
「清呼」
タケルはゆっくりとこちらを向いた。
「俺さ、大学の合格通知を受け取ってすぐに、神社に行ったんだよ」
「神社に?」
「そう。実は清呼が東京に行ってから、初詣とか節分とか、神社に行くには行ってたけどろくにお祈りもしてなくて、その理由ってのが、神様のバカヤローって思ってたからなんだ。だってそうだろ?俺たちあんなに仲よかったのに、結局お前が東京に行くのも止めてくれなかった。でもさ、合格通知もらって、俺本当にこれから東京で暮らすんだ、なら清呼に会えるかもしれないって、思い切り真剣に、もう一度会わせて下さいってお願いしたよ」
「何てこと」
「で、本当に清呼に会えただろう?俺、あの時初めて、神様って本当にいるんだと思ったよ。でもなあ、今ようやく気づいたけど、会わせてほしいとは願っても、彼女にして下さいって願わなかったな。そうしてれば何とかなったのかな」
「彼女にはね、なろうと思えばなれるよ。でも結局最後にはお別れする。長く一緒にいればいるほど、私は辛い」
「それに清呼、彼氏いるんだろ?」
「その人とタケルのこととは関係ないよ。タケル、私たちが会うのは今日が最後」
清呼がそう言った途端、タケルは痛いほど強く手を握ってきた。
「でも今、このままお別れするのは嫌。私はもっとタケルのこと、よく知って、憶えておきたい。だから」
急に動悸がしてきて胸がつまる。
「だからタケルに抱いてほしい。それでさよなら」
タケルは一瞬びくっとして、怯えたような顔で清呼の目を見つめた。
「でも俺たち、まだキスもしてないのに?」
「今すればいいじゃない」
するとタケルの瞳に笑いが浮かんで来て、「お前本当に変わらないな」と言うと、清呼の肩を抱いてそっとキスをした。ソーダとレモンのシロップの味がほんのりと漂って、消えた。
「うち来る?」
そうきかれて、清呼は黙ってうなずいた。タケルは立ち上がると、清呼の手を引っ張って立たせて、空いた方の手にかき氷のカップを重ねて持つと歩き出した。
タケルの住むアパートは、大学からバスで十五分ほどのところにあった。
大通りから少し入った住宅地の中で、周りには同じようなワンルームマンションやアパートがごちゃごちゃと建っている。日はまだ高くて、布団を干している人もいれば、軒下で鉢植えの土を替えている人もいる。同じ年頃のカップルとすれ違ったり、ベビーカーを押しているお母さんに道を譲ったりしながら、二人はぽつりぽつりと言葉を交わして歩いた。
「高校の先輩でさ、ちょうどこの春に就職で帰ってきた人がいたんで、そのまま家財道具一切を格安で譲ってもらって後に入ったんだ。大家さんもいい人だしな」
「学校はバスで行ってるの?」
「自転車だよ。雨でも自転車。お前に会う時だけバス。でもこれからはまたずっと自転車か」
そう言ってしまってから、タケルは気まずそうな顔になった。そしてコンビニの前で立ち止まると、「ちょっと待ってて」と、駆け込んでいった。
何買ってるか知ってるよ。清呼はそう思いながら、自分の影をけった。悲しいような、ほっとしたような、とても虚しいような。
「お待たせ」
タケルは緑茶と水のペットボトルの入った袋を提げて出てくると、今日何度目か、清呼の手をとった。もうすっかり自然に思えるこの動作も、今日これでおしまい。これっきり。
アパートの前に着くと、タケルは郵便受けをのぞき、宅配ピザのチラシを取り出した。
「なんかこういうの、食べたい?」
清呼が首を振ると、タケルはそれを隅っこにおいてあるゴミ箱に入れて、階段を上がった。二階の一番奥がタケルの部屋だった。
「実はしばらく掃除してなくて」
「平気だよ。私の部屋が中学の頃、タケルのとこよりすごかったの憶えてるでしょ」
「ああ、お前あれ、直ったのかよ」
「人んちに居候してるとさすがにね。東京に来て、よかったことの一つ」
タケルは笑うだけで返事はせずに、鍵を開けて中へ清呼を招き入れた。手前にキッチンがあって、奥の部屋にベッドや床置きのテーブル、本棚やパソコンなんかがある。中は言うほど散らかってなくて、タケルがカーテンを開いて窓を開けると、部屋は一気に明るくなった。
清呼は遠慮せずに入っていくと、タケルと並んで窓から外を覗いた。洗濯物を干してあるベランダの向こうは、四階建てのワンルームマンションだったけれど、手前に駐車場があるおかげで、少し広々とした感じがする。
そしてタケルはいそいそとテーブルの上を片付け、床に落ちている紙くずとか、コンビニの袋や雑誌を拾い集めた。そしてキッチンからコップを二つとってくると、買ったばかりの緑茶を注いだ。それから冷蔵庫を覗くと、「プリンと杏仁豆腐だったらどっちがいい?牛乳もあるけど」と聞いた。清呼は窓を離れてテーブルのそばに座り、「お茶だけでいいよ」と返事した。
「俺、腹減ってるから、ちょっとカップラーメン食べていいかな」
そう言いながら、もうお湯をわかしてる音がする。清呼はお茶を飲みながら、本棚や、ハンガーに干してあるシャツや、放り出された鞄なんかを見まわして、タケルの住んでいるこの部屋の感じをちゃんと憶えておこうと思った。
本棚には法学部っぽい教科書もあれば、東京生活ガイド、みたいな本もある。何だかやらしそうな雑誌も隅の方に突っ込んであった。
「お前なんだかあんまり食べなくなっちゃったな」
絶対まだ三分たってないのに、タケルはもうラーメンの蓋を開けて食べ始めている。そして途中でまた、「食べる?」と尋ねた。
「いいよ」と返事したけれど、タケルの食べっぷりはやっぱり憶えておきたいな、と思って、清呼はじっと見つめ続けた。そう、いつもタケルが食べているものが欲しくなったのはきっと、何でもすごくおいしそうに食べるからだ。
「さよならするって言っておいて、ここに来てるって、すごく欲張りだよね」
清呼がそう言うと、もうほとんどラーメンを食べ終わっていたタケルは、戸惑ったような顔をして、それからこう答えた。
「お前は小さい頃から人一倍食べるし、人一倍眠るし、当然かもな。でも俺はそういうところがいいと思うよ」
そしてタケルはいきなり立ち上がるとラーメンのカップをキッチンに捨てに行って、それからすぐに歯磨きを始めていた。気合入りすぎ。でも清呼も、シャワー浴びさせてもらった方がいいんじゃないかと、そわそわしてきた。
「タ、タケル?」
バスタオルを貸りようと思って呼んでみたら、タケルはもうさっぱりした感じで戻ってきて、大股に清呼の側を通り過ぎると窓とカーテンを閉めた。そしてベッドに腰を下ろすと、清呼を抱き上げるようにして自分の隣に座らせて、軽くキスをした。その時になって、清呼は一つ言わなければならないことを思い出した。
「実は私、今日が初めてってわけじゃないんだよ」
タケルはお互いの鼻先が触れ合うぐらいまで身体を引いて、それから「実は俺も」と答えて、またキスしてきた。
それはとても遠慮がちな、礼儀正しいキスだった。まだスペアミントの香りが強く残るその唇を、清呼は「私はこんなのも好きだけどね」という気持ちでゆっくりと舐めた。すると途端にタケルはスイッチが入ったみたいに押し倒してきて、それから猛然と服を脱ぎ始めた。
じゃあ私も脱いでしまおうかな?そう思って身体を起こし、コットンセーターを脱いで、ブラウスのボタンを三つ外したところで、タケルはそれに気づいて「駄目、俺が脱がせる」と怒ったように言った。
開きかけたブラウスの胸元を気にしながら、清呼はタケルをじっと見つめた。知っているようで知らない身体。よく日に焼けていて、夏に友達と海へ泳ぎに行った話をしてくれたのを思い出す。ジーンズを脱ぐために前かがみになると、引越し屋さんで鍛えた脇腹の筋肉が滑らかに、まるでそれ自体が美しい生き物みたいに動いた。
タケルとは何か?一言で記せ。そんな問題を出されたら、きっと私は「勢い」って書くだろう。清呼はぼんやりとそう思いながら、タケルの汗に濡れた肌を背中で感じていた。
枕に頬を何度も押し付けられて、その度に思いがけない吐息を漏らしながら、これで何度目だろうかと考える。
もし今日が初めてだったら、きっとすぐに泣きだして、もうやめてと言っていたに違いない。タケルはそれくらい激しかった。でも自分たちの間の乱暴さは、親密さの裏返し。これくらい平気だろ?言わなくても伝わる二人だから、タケルは遠慮なんかしない。それが嫌なら、一言告げるだけでいい、タケルはきっと誰よりも優しくしてくれるから。けれど今の清呼にそんな事は必要なかった。
どんなにカレーライスが好きでも、朝昼晩ずっと続いたら、ついには「またカレー?」って気分になる時が来る。清呼はタケルに「また清呼?」って気分を味わってもらうまで、何も言わずに身を任せていようと思った。勿論たった一日でそんな事無理かもしれない。でも、少しだけでもそんな感じがしたらいいのに、そう祈りながら、清呼はタケルの息遣いに耳を傾けていた。
タケルの腕はとても力強くて、清呼をどんな風にでも扱ってしまう。うつ伏せにしたり、仰向けにしたり、折りたたんだり、伸ばしたり、座らせたり、寝かせたり。そして時々深い溜息をついて、死んだようにじっとしていたかと思うと、いきなり噛み付いてきたり、清呼の身体のあちこちを眺めたりする。
なんでそんな場所じっと見るかな?なんてところで止まったかと思うと、こんどは水着の形についた日焼けのあとを、ゆっくりと舌でたどってゆく。
くすぐったいんだか、気持ちいいんだか、苦しいんだか、わからなくなった清呼がつい声を上げてしまうと、タケルは長い指を少し開いた唇の間に差し入れてくる。清呼はその指を舐めたり、咥えたり、吸ったりして、自分がどんな感じかを訴える。すると今度はタケルがもう限界って感じで、獣みたいに唸り声を上げて清呼の中に飛び込んでくる。
このまま死んでしまえれば、一番幸せかもしれない。
清呼はタケルの重さを身体の芯で感じながらそう思った。
後に何が起きても、もう私はこの世にいない。だったらどんなに楽だろう。
「寒くない?」
タケルはそう言って、床に落ちていた布団を引き上げてかけてくれた。そしてベッドから出ようとしたので、清呼は思わずしがみついてしまった。
「まだ行っちゃやだ」
「台所に行くだけだよ。それにここ、俺の部屋だし」
タケルは笑いを含んだ声でそう言うと、脱ぎ散らかした服の中からトランクスを拾って穿き、立ち上がってキッチンへ姿を消した。部屋はもう薄暗くて、何もかもが輪郭を失い始めている。冷蔵庫のドアを閉める音がして、タケルはさっき買った緑茶のペットボトルを片手に戻ってきた。そして枕元のスタンドをつけると、二人の周りはオレンジの光で満たされた。
「飲む?」
ペットボトルに直接口をつけてごくごくと緑茶を飲んだ後で、タケルはそうたずねた。清呼はふと思いついて「口移しで飲ませて」とせがんだ。
「できるかな?」
タケルは悪戯っぽく笑うと、清呼を引っ張って起こす。最初は失敗して、冷たい!と悲鳴を上げたりしたけれど、タケルはすぐに上手になって、清呼がもういいと言うまで、何度もお茶を飲ませてくれた。それはただのお茶じゃなくて、タケルの温もりが伝わっていて、タケルの味がした。
それから二人は首まで布団をかぶると、またベッドに横になった。清呼の頭はタケルの左腕を枕にしていて、タケルの右腕は清呼の身体のあちこちを優しく撫でていたけれど、もうさすがにそれ以上の元気は残ってないみたいだった。
「なあ、俺たちが結婚してからのこと、考えてみようか」
タケルがふいにそう言ったので、清呼は驚いて、飛び起きそうになった。
「大丈夫、わかってるよ」
タケルは黒い瞳で見つめながら、こわばった清呼の首筋に触れた。
「でも考えるだけ、想像するだけならいいだろ?」
「そうだね」
清呼はほっと息をついて、またタケルの腕の中に身体を沈める。
「教職の採用試験決めて、大学出て、社会人になったら俺はすぐに清呼と結婚するよ」
「じゃあ私も留年しないように頑張るね」
「で、まずは家を建てようと思うんだ」
「大きく出たね」
「でも笑うぐらい小さい家だったりして」
「大丈夫。タケルならきっとできるよ」
タケルはやると言ったら何でもやってのける。
そう思ったら、将来タケルに本当に家を建ててもらう女の子のことを考えて、清呼は叫びたいほど悲しくなった。それは自分ではない他の誰かなのだ。でも今、自分を抱いているタケルの暖かさは本当。それをちゃんと見つめようと思って、清呼は悲しみを振り払った。
「そいでさ、最初の二、三年は二人だけで暮らそうか」
「いいね」
「でも俺、多分やりまくるだろうからな。あっという間に子供できちゃったりして」
「全然かまわないよ」
「子供は三人がいいと思うんだ。男、女、それとチビ清呼だ」
「それはいいね」
想像するだけなら、自分みたいな子供だって、きっと幸せになれるに違いない。
「タケル、一番上は女の子がいいと思うよ。育てやすいらしいから」
「そっか、じゃあ、女、男、チビ清呼の順だな。名前はどうするかな」
「女の子はナデシコ。男の子はチビタケル、最後にチビ清呼。でもチビ清呼はたぶん、すごい馬鹿だよ」
それを聞いてタケルはギャッハッハと笑った。
「心配すんなって、チビタケルがちゃんと面倒みるから」
「だよね。じゃあタケル、あれに挑戦しようよ、計画出産」
「はあ?」
「まあナデシコは何月生まれでもいいけど、チビタケルは四月生まれにする。で、その後速攻でチビ清呼を三月に産む」
「なるほど、俺たちと一緒にするか、そりゃ完璧だな。チビタケルもすごい喜ぶな。でもお前それで平気なわけ?チビタケル産んで、ほとんどブランクないけど。」
「あーもう全然平気。まかせといて」
清呼が強がってみせると、タケルはぎゅっと抱き寄せてくれた。
「じゃあそのメンバーで、ずっと一緒にいような」
「うん。ずっとずっと一緒に、嫌になるぐらい、ずっと一緒にいようね」
気がつくと二人とも眠っていたみたいで、清呼はそっと起き上がると、枕元に置いてある時計を見た。もう夕方を過ぎて、夜という時間だ。タケルはそばで静かな寝息をたてている。
清呼はそのまま滑るようにベッドから降りると、タケルがあちこちに投げ散らかした自分の服を拾い集めて身につけた。ブラウスの一番下のボタンがどこかに飛んで、おまけにかなりしわくちゃになっていたけれど、それは気にしない。それから足音をさせないように洗面所を借りて、鏡をのぞきながら乱れた髪を直した。そしてまたベッドのそばに戻ると、いま一度、タケルの寝顔を見つめた。
何故だか涙が少しも出てこない。
これでお別れだよ?自分にそう言い聞かせてみても、信じられないほどに冷静で、澄み切った気持ちが胸の中を満たしていた。
タケル、本当にありがとう。そしてごめんね。どうかずっと元気でいて、私のこと、時々思い出してくれたら嬉しいよ。私たちは生まれる前からずっと一緒で、それはきっと兄弟よりも強い絆。だからタケルは私で、私はタケル。この世でこれ以上結ばれることができないのは、もうとっくの昔にきつくきつく結ばれているから。
タケルがこの先、誰と出会って、誰と結婚しても、私は二人の幸せを心の底から祈るよ。だからタケルは自分の夢の通りに中学の先生になって、お父さんやお母さん、村の人たちとずっと幸せに暮らしてほしい。それを守るために私はここに残って、自分の力で生きられるように頑張るよ。
そして清呼は静かに玄関を出て、後ろ手にドアを閉めた。階段を下りて外に出ると、昼間タケルと並んで歩いてきた道が、とてもよそよそしく街灯に照らされていた。空を見上げると、昼間とはうって変わって鈍い色の雲が一面に広がっていて、しぶきのように細かい雨が音もなく降り始めていた。
急がないと濡れてしまう。
そう思うのに、身体は全然その通りに動かない。雨はやがてはっきりとわかるほどになり、あっという間に本降りになって清呼の全身を包んだ。
雨が私を涙にしようとしているみたい。だったらどうか、私を押し流して、海に溶け込ませてほしい。もう自分なんて判らないぐらいに、海と一つにしてほしい。
二十九 どこも悪くない
龍村さん
何だか困ったことになっちゃったよ。
今日のお昼、楓と一緒に、清呼の寮まで佐野さんのおみやげのチョコレートを持っていきました。
メールしてたから、清呼は玄関のところで待っていてくれたけど、何故だか声が出ないの。だから清呼は自分の言う事を全部メモに書いて、葵たちと話しました。
声が出ないのは先週からなんだって。雨に濡れたから、風邪ひいたと思ってたけど、全然治らないから耳鼻科に行ったんだって。でも実際にはどこも悪くないみたい。
お医者さんは、清呼の心が原因じゃないかって、そう言ったらしいです。でも清呼はそんなの何もないし、って本気にしてません。
声が出ないから、学校でも色々大変みたいだし、アルバイトもずっとお休みなんだって。
龍村さんには言ったの?ってきいたら、心配するから秘密、だって。
葵ははっきり言って、こういう事はお兄さんにちゃんと報告すべきだと思うので、メールしています。お母さんにも言ってしまいました。
これって、約束破りって言うのかな。でも本当に心配です。
だって清呼、相変わらずどこか別の場所にいるみたいな感じなんだもの。それに、たとえばもし、夜道で誘拐されそうになっても、声が出ないと助けを呼ぶことができないでしょう?
だから龍村さん、清呼に会って、もう一度ちゃんとお医者さんに診てもらうように言ってください。葵が言いつけたって、ばらしてもいいです。清呼が怒っても、今のままじゃ絶対だめだからです。おねがいします。
龍村は学生寮の玄関を入ると、「御用の方は押してください」という貼紙のあるインターホンを押した。
「はい、お待ち下さい」という短い返事を確かめてから、周囲の様子を眺めた。
靴が三足ほど脱ぎ散らかしてあり、正面の掲示板には「懇親会のお知らせ」だの、「傘たて整理当番」だのが貼られている。その下には作りつけの下駄箱があり、隅には観音竹の鉢植え、その横に何故か竹刀が立ててあった。
そうしていると、こちらを見ながら、女の子たちが通り過ぎてゆく。ややあって奥から、「お待たせしましたあ」という声とともに、血色のよい初老の女性が出てきた。
「すいません、面会希望なんですけど」と告げると、女性は来客用のスリッパを出し、下駄箱の上に置いてある「面会記録」と書かれたノートを開いて、名前を書くよう指示した。
龍村は今日はじめての面会希望者。同じページの一番上に、葵と楓の名前があった。ノートの内容を確認すると、女性はすぐ目の前にある「談話室」と札のかかった部屋に龍村を案内し、「今呼びますからね」と言って出ていった。
しばらくすると廊下のスピーカーから「一〇三号室の鉄輪さん、お客様がお見えです、談話室までお越しください」という声が流れた。
六畳ほどの広さの談話室にはクッションの悪い応接セットが一組置かれ、壁にはくすんだ色をした油彩の静物画がかけてあった。油絵の反対側の壁には木製の古い書棚があり、中にはこれまた古びた「世界美術全集」がずらりと並んでいた。
この部屋のドアは開けっ放しが規則らしく、明らかに通りすがりを装って、女の子が次々と覗いてゆく。居心地の悪さも限界に近づいた頃、ようやく清呼が顔を覗かせた。
一体誰が訪ねてきたのかと、不安そうな表情をしていたが、中にいるのが龍村だと判ると、ほっとした顔つきになって、向かい側に腰を下ろした。洗濯でもしていたのか、カットソーの袖を肘まで捲り上げていて、その手にはメモ帳とボールペンが握られている。
「急に来て驚かせた?何してたの」
『みんなでギョーザ作ってた』
手馴れた様子で清呼はメモに言葉を綴った。
「なるほど。だからか」
そう言って頬についた白い粉を指先で払ってやると、清呼は慌てて手の甲で同じ場所を拭い、笑った。
「で、どうして俺が来たかについては、判るよな」
言われて清呼は少し目を伏せる。
「しばらくメールばっかりで全然気づかずにいたけど、一体どうしたの?」
『葵ちゃん?』と清呼はメモに書く。
「誰でもいいだろ。ちゃんと病院行ったのか?もうかれこれ何日?」
『病院では異常なし。一週間ぐらい。たぶんじき治る』
「異常なしなら尚更変じゃないか。大きな病院でもう一度診てもらったら?第一、声が出なけりゃ不便だろう」
『なれてきた』
「慣れてどうするよ」
言われて清呼は困った顔になり、首をかしげた。
「本当にもう、下手したらずっとごまかされてるところだ。近頃全然来てくれないし、そっけないメッセージばっかりで、挙句にこれ。何かあったわけ?」
わざとらしくそう言ってみせると、清呼はまた何か書こうとして、しかしその手を止めて、迷っている。その様子は、前に会った時とはまた少し違う感じで、あんなに激しく伝わってきた、思いつめたような様子が消えて、どこか虚ろですらある。それでもやはり、頬のあたりは痩せたままで、輪郭に現れた鋭さが、心の底のとがったものを仄めかしているようだった。
「別に怒ってるわけじゃないんだよ。ただ心配なだけだから」
できるだけ穏やかにそう言って、メモ帳に添えている清呼の指先を手に取る。期待に反してそこはまだしんと冷えたままで、事態は何も好転していない事を物語っていた。そうする間にも、また女の子がちらほらとドアのあたりを行き来して、龍村は黙ってその手を引っ込めた。
『きっとすぐ治るよ』
そう書いて、清呼は笑顔を作ってみせた。
「一緒に病院に行かないか?喉みてもらうぐらい、別に怖いことないだろ?」
清呼は即座に首を振った。
「もう一月以上、心ここにあらずって感じで、悲しそうに何か考えてばかりだ。こっちが心配してるのに、当の本人は平気、大丈夫。いい加減にしてくれないか」
馬鹿。声が出なくて一番辛いのは清呼なのに、気がつくと泣き言ばかり連ねて、しかもお前の事心配だから、と話をすりかえてみせる。清呼は悲しそうな顔つきで『また書いて送る』、とメモに書いた。
「じゃなくて、今ここで答えてくれればいいから。いくらでも待つよ」
そう言われて清呼は何か書きかけたが、すぐにボールペンでその字を真っ黒に塗りつぶし、『できない』とだけ書いて、その下に『もう帰って』と続けた。
「わかった」
自分でも嫌になるほどぶっきらぼうにそう言うと、龍村は立ち上がった。そして一緒に立った清呼の肘を軽く掴むと、廊下からは見えない隅に連れて行き、壁に押し付けるようにして唇を重ねた。
彼女は抵抗こそしなかったが、身体の中にどうしても曲げられない芯のような硬さを残したままで、離れた途端に目を伏せてしまった。
そのよそよそしさが辛くて、龍村はもう彼女を見ずに部屋を出ると、そのまま玄関で靴を履き、「気が向いたら連絡して」とだけ声をかけて、寮を後にした。
本当に勿体ない。
まだ熱気さめやらぬコンサートホールのロビーで、それぞれに笑いさざめく人々に流されながら、涼子はしみじみそう感じていた。
これが三年ぶりというドイツのオーケストラの来日公演、自分ですら名前だけは知っているカリスマ指揮者と、有名コンクール最年少受賞のキャリアを誇るピアニスト。
協賛企業と取引があるという伝手で職場にチケットが回って来たのはいいが、公演二日前、一枚、金曜夜、という条件のせいで、「私、金曜は予定ありますから」「ペアなら行きたいけど」「そんなに急に言われても」という見栄の張り合いが勃発し、あまりの鬱陶しさに「じゃあ私が貰うわね」と、半ば強引に奪い取ってきたのだった。
とはいえ、ふだんクラシックなどほとんど聞かない耳には、このオーケストラの演奏のどこがどう凄いのかよく判らなかった。そしてただ美しい響きに身を任せていると、いつの間にかぼんやりして、モーツァルトはほとんど全て眠っていたようだ。
私なんかより、この場にふさわしい人がいたはずなのに、勿体ない。
とは言え、音楽療法って奴だろうか、一週間の疲れが嘘のように消え、どこか寄り道して帰りたいほどの元気がある。水野は残業と言っていたけれど、今はどうしているだろう。バッグからケータイを取り出そうとすると、後ろから軽く肩をたたかれた。
「珍しいね、こんな場所で会うとは」
振り向くとそこには佐野がいた。相変わらず爽やかな笑顔。
「あら、こんばんは。お一人?」
「僕はコンサートは一人でしか来ないよ。涼子ちゃんも一人なの?」
「ええ、職場にチケットが回ってきたのを貰ったの。よかったらお茶でも飲まない?」
佐野がいつもコンサート帰りに寄るというその店は、ホールからしばらく歩いた場所にあった。路地裏で、通りすがりには決して見つけられないような地味な外観だったが、中は案外広くて、晩秋の寒さを忘れさせてくれる暖かさに満ちていた。同じような客が他にもいて、時間の割にかなりの席が埋まっている。
「今夜の演奏はすごくよかったね。僕はちょっと感動したよ」
コーヒーを飲みながら、佐野はまだ興奮さめやらぬ様子だった。
「じゃあ私は相当ラッキーなわけね。十年ぶりぐらいにクラシックのコンサートに来たんだから。佐野くんはいつも来てるんでしょ?」
「そうしょっちゅうでもないけどね。でも、今日は特別楽しみにしてたんだ。もうこれを聞けたら思い残すことはないぐらい。それで涼子ちゃんに会えたんだし、最高だね」
佐野の口からこういう台詞が出ても、素直に受け止めてしまえるから不思議なものだ。
「ねえ、涼子ちゃんはいつ、向井さんから水野さんになるの?」
「まだ来年よ。節分がすんでから」
「節分?それはまたどうして?」
「うちの馬鹿母が、勝手に占いの先生に見てもらったとかでさ、節分前だと離婚の可能性あり、だって」
案の定、佐野は心底おかしそうに笑った。
「で、涼子ちゃん、素直に言うこときいたの」
「まさか。もう大喧嘩よ。こっちはすっかり段取りつけて、マンション借りてるのに、ふざけんなっつうの。あと一歩で殺してたね。でもまあ、そんなことで刑務所入るのも馬鹿げてるし、入籍だけずらすってことで、譲歩しました」
「そうか、随分大人になったね。でもパーティーしないって、葵ちゃんたちが残念がってたよ」
「いいのよ別に。写真だけデボラさんに撮ってもらうから、その時にドレス姿見てもらって、女の幸せを冷静に考えてもらうわ」
「なるほど。じゃあ清呼も誘ってあげないと」
「言わなくても押しかけてくるわよ。でもあの子今、声が出ないらしいのよね」
「声?」
「どうもそれが心因性らしいって、龍村くんが心配しちゃってさ、この前電話で探り入れられちゃったわ」
「心当たりあるの?」
「全然。でもね、清呼って見た目は気楽そうだけど、案外色々考えてるから」
「それは僕にも判るよ」
佐野の顔にさっきまで浮かんでいた穏やかな微笑が消える。
「まあでも、あの年頃は色々あるし。本当に具合が悪いのなら、長引かないうちにちゃんとした治療を受けるべきだと思うけどね。龍村くんは頼りないけど、大鳥さんやデボラさんがいるから大丈夫でしょうよ。冷たいようだけど、外野はお呼びがあるまで待機しておくわ」
「そうだね。必要ならいい病院紹介するからって、龍村くんに言っておいて」
佐野はそれから、急に話題を変えた。
「涼子ちゃんはさ、月と星、どっちが好き?」
「何それ?心理テストか何か?」
「それは秘密。考えずに、即決して」
「じゃあ、星。小さいけど自分で光ってるし」
「そうか、涼子ちゃんらしいね」
そう言った佐野の目には、再びあの、人を魅了する微笑が宿っていた。
「鉄輪さん?」
呼ばれて清呼は手を上げる。すると先生は、「ああ」と納得したみたいな顔をして、出席簿をつけた。
声が出なくなってかれこれ半月以上。そのうち治るつもりでいたのに全然元通りにならないし、先生にはふざけてるのかと思われたりして、学部事務所に診断書を提出する羽目になった。
お医者さんは「どこも悪いところはないし、精神的なものが原因だと思うよ」と言った。「最近何か、大きなストレスとかなかった?」そう質問されたけど、ストレスって、涼子さんがよく言ってる「死ぬほど苛立つ」とか、「最高にむかつく」って奴だろう。でも清呼にはそんな心当たりはなかったから、首を振るしかなかった。
最初は周りの人もみんなすごく心配したけれど、そのうち何となく、清呼は声が出ない、というのが定着してきて、メモで筆談したり、身振りで伝えたりするのも慣れてきた。でもそれはよく知っている人との間だけで、外ではかなり不便。和菓子屋さんでのバイトは治るまでお休みしてて、と言われて、今は収入ゼロ。他のバイトを探そうにも応募すらできない。
そして買い物や何かでも、まず声が出ないというその事を伝えるのが一苦労。スーパーなんかはいいけれど、カフェで注文したり、洋服を買ったり、そんな事が難しい。この前、同い年ぐらいのカップルに道を聞かれて困っていたら、耳も聞こえないんだと思われて、「顔にも傷があるし、事故にでもあったのかしら。かわいそうね」って、面と向かって言われた。
でもそんな事を言われても全然平気というか、身の回りの全てのことが、どこか遠くの出来事のような感じで、清呼は何故か淡々とした気持ちだった。ただ、辛いのは、龍村さんがとても心配してることだった。どうやら葵ちゃんがばらしてしまったようで、龍村さんはいきなり寮まで会いに来て、病院に行くように強く勧めた。
「一体どうしたの」
龍村さんが聞くのはただそれだけで、清呼にだって答えの判らない謎だった。
結局何もうまく説明できなくて、しかも病院にも行きたくないってことで、却って怒らせただけだった。
あれから何度か連絡はしたけれど、声のことにはわざと触れずじまい。寮の裏庭に住んでる猫が子猫を産んだとか、冬の温泉旅行にいいアイデアないかな、とか、能天気なことばっかり書いて送った。
龍村さんからは、受け取ったというしるしに「また写真送って」とか、そんな短い返事ばっかり来ていたけれど、昨日とうとう「ちょっと話をしたいので、都合のいい時間おしえて」というメッセージが来た。
「ちょっと話をしたいので、都合のいい時間おしえて」
そう送ると、清呼は、木曜の夕方を指定してきた。いつもは和菓子屋のバイトをしている時間帯だが、事実上解雇で暇なのだろう。小遣いに困ったりしていないのか、そんなことも思いながら待つ。仕事の予定も全て調整して、ただ彼女のためにつくった時間だ。
メモでの筆談は手間がかかるので、パソコンのキーボードを使ってもらおうと、外ではなく、マンションに呼び出した。もちろん外でもパソコンを使えないわけでなないが、バッテリーの問題もあるし。
それが一つの口実であることは自覚している。要するに、ここへ来させてしまえば、あとは何とかなるのではないか、そう思っているのだ。実のところ、話をしたいというより、自分はもう限界近くまで彼女に飢えているというのが、正直なところだった。
言葉よりも、声が聞きたい。
暖かな吐息のこもった声を、耳元で聞かせてほしい。
時間つぶしにパソコンに入ったソリティアを繰り返しながら、龍村は清呼が来るのをじっと待った。そうして約束の四時を少し回ったところで、チャイムを押してから、合鍵を使ってドアを開け、清呼が入ってきた。
「どう、元気にしてんの?」
さりげなく尋ねると、清呼はにこりと笑って頷いた。そしていつもの指定席、ベッドとテーブルの隙間に腰を下ろし、手にしていたエコバッグから紙袋に入った鯛焼きを二つ取り出すと、テーブルに置く。食べる?という身振りに「ありがと」とだけ言って立ち上がり、龍村はキッチンでほうじ茶を淹れた。
黙って鯛焼きを食べながら、龍村は清呼の様子を見ていた。彼女は声が出ないという点を除けば、至って快調という感じで、この前寮で会った時よりも少しだけ、心を取り戻したかのように見えた。
「メモだと面倒だからさ、パソコン使ってくれる?」
そう言ってノートパソコンを移動させると、清呼は洗面所で手を洗ってから、また座ってキーボードに指をのせた。
『話って何?』
「またかとうんざりだろうけど、声のこと。知り合いに話を聞いたらさ、たとえ悪いところはなくても、そうやって放っておいたら、どんどん声が出にくくなるって。せっかくいい声してんだから、悪くなったら勿体ないだろ」
『いい声?どうだかね。いつも、私のことうるさいって言ってたのに』
「それは子供の頃だろ。今は静かすぎて嫌なんだ。こうしていても、俺の声とキーボードの音しか聞こえない」
『でも病院に行っても、どこも悪くないって言われるよ』
「耳鼻科じゃなくてね、心が原因だったら、そこから治すところがあるから」
『精神病院?』
「まあそれに近いところ。そんな深刻に考える必要ないよ。清呼、何かずっと、心配事があるんじゃないのか?別にそれを俺に話せというわけじゃなくて、お医者さんに相談してそっちを解決したら、声が出るようになるかもしれない。何よりも、今のままじゃ不便だろ?」
聞きかじりとネット仕込みのにわか知識で、そんな話をしてみる。
『そりゃ不便だけど、悩みなんかないのに、どうやって相談するの』
「自分でも気づいてない悩みかも知れないだろ」
『そんなはずないよ。自分で気づかなかったら、悩みじゃないもの。何にもないものをどうやって悩むの?』
もし本当に自覚がないなら、その方がずっと厄介だ。龍村はそれをどう伝えたものか、考え込んだ。
『気にしなければ、そのうち治る』
もう何度も書いた、そのフレーズを、またしても清呼は打ち込んだ。
「そのうちって一体いつなんだ?じゃあきくけど、これもそのうちって、ずっと先延ばし?」
とうとう龍村は我慢できなくなって、清呼を抱きすくめた。なのに彼女は身を硬くして、逃れようとする。
「何が嫌なわけ?別れたいなら、正直にそう言ってくれた方が楽なんだけど」
清呼は怯えたような顔で首を振り、キーボードに『そうじゃない』と打った。そして立ち上がったのを龍村は慌てて引きとめ、腕をつかんでベッドに座らせた。
「そうじゃない?だったらいいだろ?そうすれば声が出せるんじゃないか?聞かせてほしいんだ」
もう自分でも何を言っているのかわけが判らなくなって、龍村はそのまま清呼を押し倒すと、セーターの下に手を入れた。
暖かい肌の内側に、激しい拒絶の意志を秘めて身体が反る。それでも構わず、張りのある胸の感触を確かめながら、自分の重みで彼女を動けなくしてしまう。
その瞬間、どこかで乾いた音が弾けた。
しばらくしてから、それは平手打ちにされた自分の頬の音だったことに気づいた。
続いて湧き上がってくる熱い痛みを感じながら、龍村はのろのろと身体を起こし、自由を取り戻した清呼は素早くベッドを降りた。そして心配そうな表情で龍村の顔を覗き込むと、その両目には見る間に涙が溢れてきた。
たまらない気持ちで顔を背けようとすると、打たれた頬に清呼の指先が触れた。途端に痛みは消え、柔らかな甘い感覚が広がる。清呼はそして、龍村に向かって床に膝をつき、ジーンズのボタンに指を伸ばして外そうとした。
「何するんだよ」
驚いて腕をはらいのけると、彼女は慌てた様子でバッグからメモを取り出し、乱れた字で『くちでする』と書いた。
「馬鹿!いらないよ」
思わずメモを奪い取って床に投げつける。それでも彼女はまたそれを拾い、震える手で『どうするかいって』と書き、じっと見上げた。
まだ涙を浮かべているその瞳を見ていると、何か自分の中で崩れてゆくものがあって、龍村はその頭に手をのせると、ゆっくりとうつむき、低い声で囁きかけた。
こんなに惨めな快感を味わったことは今までにない。
明かりもつけず、ただじっとベッドに仰向けになったまま、龍村はひたすら後悔していた。自分の卑屈な欲望を満たした後で、清呼は黄昏の影のように去っていった。耳に残っているのは、洗面所で苦しそうに繰り返していた、咳の音だけ。
あんな事、させるつもりじゃなかった。
今更のようにそう思ったが、全てはもう遅い。これまでずっと、自分は父親のようにひどい男になりたくないと思っていたのに、もう十分に最低な振る舞いをしてしまった。
深い溜息をつき、ようやく身体を起こすと、部屋の明かりをつける。眩しさに顔をしかめながら、水でも飲もうと立ち上がると、床に手帳が落ちているのが目に入った。赤いギンガムチェックの表紙、清呼のスケジュール帳だ。どうやらさっきメモを取り出した時に落としたらしい。
少なくともこれで、手帳を返すからと、あと一度は会う口実ができた。
自嘲ぎみにそう思いながら、床に腰を下ろし、手にとってみる。一ヶ月が見開きになっているその手帳に大した厚みはない。ケータイを覗くほどの抵抗はないが、それでもやはり、中を覗くのには後ろめたさがつきまとう。しかしやがてどす黒い不安が湧き上がってきて、先月、学園祭で忙しいと言っていた頃の予定を確かめた。
自分と会っていた日には、平仮名の「た」に丸をつけたマークがある。誕生日にはケーキのシールが貼ってあって、そういえば食事をして、プレゼントに野生動物の写真集を貰ったのを思い出す。
そして、自分のマークが減るのと前後して、ほとんど毎日、星印がついていた。三時、五時、七時、四時。約束の場所と時間は日によって違う。その星印を追っていくと、ある土曜で突然終わる。それはちょうど、清呼の声が出なくなった頃だった。
どっと冷や汗が出てきて、龍村はページを戻ると最初に星印がついた日付を確かめ、それから何か手がかりはないかと、他のページを全て調べた。何もない、そう思って最後に開いたページに、清呼のものではない字が書かれていた。
黒谷猛
名前の下にあるのはケータイの番号とメールアドレス、その綴りから、名前の読みがタケルだということがわかる。くっきりと力強い字で、その下には待ち合わせ場所の地図が描かれていた。
清呼はタケルに再会したのだ。自分に最もふさわしい相手に。
幼い頃からずっと守ってくれた、兄弟のように懐かしい相手に。
だとしたら声が出ないのも納得がいく。何らかの理由で、しばらくタケルと会えないという事、それは彼女にとって、身体の一部を失うほどの苦しみなのだ。そして自分がずっと拒まれているその理由もまた明らかだ。
龍村はゆっくりと手帳を閉じ、それをテーブルに置いた
清呼はまだとても若いのだから、自分に飽きて、他の相手に気持ちを向ける日だって来るだろう。最初からその覚悟はしていたのに、いざそれが現実となり、しかもその相手がタケルだったと知った途端に、痺れるほど冷たい絶望が全身に広がってゆく。
もう自分の役目は終わっていたのだ。彼女がまだ構ってくれるのは、ただ憐れみの気持ちから。腹をすかせた捨て犬が後をついてくるのを、振り切れずにいるだけなのだ。
別れよう。
これ以上惨めになる前に別れる。これ以上彼女を傷つける前に別れる。それしか道は残されていない。けれど自分にそんな潔い事ができるだろうか、この卑劣な男に。
いざ会って顔を見てしまったら、未練がましく、気を引くために何でもやってのけるのではないだろうか。その上で彼女を悪者にして、償いを求めてしまうかもしれない。
そんな見下げ果てた男になりたくない。でもそこから逃れる方法がわからない。一体どうすればいいだろう。
その瞬間、ケータイが鳴り響いた。
もしかして清呼?そんな馬鹿げたことを考えながらディスプレイを見ると、佐野からだった。
「もしもし」
本当は出ずに済ませたいぐらいだが、佐野なら却って気が紛れるようにも思う。しかしケータイから聞こえてきたのは、知らない女性の声だった。
「龍村久さんですか?」
耳にしただけで、歪みのない骨格や、整った顔立ちが目に浮かぶような、響きのよい声。龍村は思わず背筋を伸ばして座りなおした。
「はい、そうですけど」
「私、佐野一彦の姉です。突然申し訳ありません、実は、弟が亡くなりましたもので、お電話させていただきました」
三十 星と約束
ベッドに腰を下ろして、清呼は途方に暮れていた。寮に戻ってきた時からずっとカレーの匂いがしてくるけれど、食欲が全然ない。志穂は飲み会で知り合った男の子とうまく行ってるらしくて、今夜は遅くなるとメールが来ていた。
突然、誰かがドアをノックした。「どうぞ」と返事すると、亜希が顔を覗かせた。
「晩ごはん食べないの?もう食堂ラストだよ」
「ごめん、食べてきたって言うの忘れてた」
慌てて立ち上がると、亜希は「OK,寮母さんに伝えとく」とウインクしてドアを閉めた。
ふう。心の中は窓の外と同じくらい真っ暗。
自分がさっき龍村さんにした事、それは、つきあってればいつかこんな事だってするだろう、という予感が現実になったもので、決して嫌な事ではなかった。
タケルに再び出会ってからずっと、自分の身体はどうしてもいうことをきかないし、別れた今もそれは続いている。そんなわがまま、龍村さんにはいい迷惑だろう。だからさっきはあんな事になってしまったのだ。怖くて思わず叩いてしまった、いつも自分はこんな感じだ。初めての時は引っ掻いて、今度は平手打ち。なんて乱暴な。
でも、せめてもの償いに、そう思ってした事は、却って龍村さんを怒らせたみたいだった。もう何も言ってもらえなくて、目も合わせずにさよならした。
何で私がする事って、いつも的はずれなんだろう。
清呼はそのままベッドに仰向けに倒れると、昨夜届いた芽衣からのメッセージを思い出していた。
あなたの声のことについて、私の意見をきいてくれる?
お医者さんに心が原因って言われたらしいけど、それは多分あなたの心の中に、誰にも言いたくない秘密があるからなんだよ。言ったら大変なことになるから、声を出すのをやめてしまったわけ。要するに自分を守っているのね。これは心理学では基本的な知識です。
何が秘密なのか?自分でも気がつかないから治せないのよ。でも案外、第三者からはよく見えているもの。私には男の人の事だってわかります。
清呼って真面目そうに見えて、何人もの人とつきあってるよね?最初は北海道旅行の人でしょ?あと、R学院の男の子とも楽しそうに歩いてるところ見たよ。そして、こないだ寮に来た人。今もしかして二股?それじゃかなり大変だよね。
でも安心して。カウンセラーの義務は患者の秘密を守ること。絶対に他の人には言わないから、私に相談してみない?力になれると思うよ。
これを読んだ時には、身体が震えて止まらなかった。どうして芽衣はこんな事言うんだろう。寮に住んでるわけでもないのに、龍村さんが来たことまで知っている。親切そうなふりして、自分のことを面白がっているようにしか思えなかった。
そして今日、二限目の授業が終わると、芽衣はすっと近づいてきて「ケータイ見てくれた?」と笑顔できいた。
清呼はバッグに入れたメモを探したけれど、どうしてもボールペンしか見つからず、あわてていると、後ろから誰かに肩をたたかれた。
「これ使えよ」
そう言ってノートを貸してくれたのは、野田くんという男の子だった。清呼は軽く頭を下げると、そのノートにペンを走らせた。野田くんが出て行ってしまうと、教室には芽衣と清呼の二人きりだ。
『読んだけど、相談はしない』
「心配することないって。何か気になることがあるの?」
『ない。あなたが思ってることは正しくない。だから相談しない』
そう書くと、芽衣の瞳に苛立ちのようなものが光った。
「それは清呼が勝手にそう思ってるだけでしょ?昨日も書いたけど、私はもっと冷静な気持ちで見てるし、だから余計に何が問題かわかるのよ」
『あなたはごかいしてる。私のことはほっといて』
「ほっといて?人が親切で言ってるのにわからないの?」
『親切とはちがう』
そう書いた途端に芽衣は、ばん、と大きな音をたてて机を叩いた。
「何よ、じゃあ言わせてもらうけど、あなたどうしていつもそうやって、人の気を引くようなことばっかりするわけ?」
『気をひく?』
「先生にあてられたらとんでもない事ばっかり言うし、ノーブラで来て階段で寝てみたり、張り切って旅行の計画したり。こんどは元気がないふりを始めたかと思ったら、声が出ない?はっきり言うけど、私、あなたみたいな人は大嫌い。いつも変わったことをして、男の子の気を引こうとしてるでしょ?見ててイタいの。目障りなの。消えてもらいたいぐらい!」
それだけ言うと、芽衣は勢いよく教室のドアを閉めて出ていった。
清呼はぼんやりと立ち尽くしていたけれど、しばらくしてから、開いているもう一つのドアから廊下に出た。階段のところでは野田くんが、ケータイを見ながら待っていた。
そうだ、ノートを返さなくては。慌てていて気づかなかったけど、自分もノートを使えばすむことだったのに。殴り書きみたいにした芽衣への言葉は見られたくないので、破っていい?という身振りをすると、「どうぞ」という答えが返ってきた。
声が出なくなってすぐの頃、メモやボールペンをすぐに取り出せずによく大慌てした。そんな時いつも、必要なものをすっと差し出してくれたのが野田くんだ。そういえば、階段で眠りこんでいた自分を背負って、保健センターまで運んでくれたのも彼だったときいた。あのお礼もちゃんと言ってない。清呼はそう気がつくと、壁を下敷きにして、破ったページの裏に「ありがとう、野田くんはいつも親切」と書いた。
「別にそんな事ないよ」
野田くんは照れたように笑うと、清呼が返したノートを受け取ってリュックに突っ込んだ。
「僕さ、子供の頃、カンモクショウだったんだ」
それは何?清呼が首をかしげてみせると、彼は清呼のペンを手にとり、さっきのノートの切れ端に「緘黙症」と書いた。
「きっとそのうち授業で習うよ。家ではちゃんと喋れるのに、学校に行くと一言も出てこないんだ」
そうなんだ、という気持ちをこめて清呼はうなずいた。
「だから何となく、鉄輪さんの気持ちがわかるような気がして。僕は自分で勝手にしゃべらなかったんだけどね。いい加減にしゃべりたいと思うのに、声を出すと今度は、野田がしゃべった!って大騒ぎになるようで、それがまた嫌で」
そう言いながら野田くんが階段を降りはじめたので、清呼も並んで歩いた。
「で、結局、小学校の同級生が一人もいない、私立の中学に進学してさ、それからようやく喋るようになったんだ。でもいまだに人前で話すの苦手で」
清呼は慌てて首を振った。野田くんは勉強がよくできて、語学なんかでも先生にあてられれば必ず正解。皆からも一目おかれているのだ。
階段を下りて校舎の外に出ると、向いのベンチに座って待っていたピリカが、心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「清呼、芽衣に何か言われたの?」
大丈夫、そんな笑顔で首を振る。野田くんも一緒にお昼どうかな?そう思って振り向くと、彼は「じゃあね」と手を振って、もう歩き出したところだった。
いつも変わったことをして、男の子の気を引こうとしてるでしょ?
そんなつもりはないのに。
清呼が一番嫌な、普通の女の子らしくできないという欠点。周回遅れのランナーはいつまでたっても追いつけず、男でも女でもない、変な部分を引きずったままだ。
思わず溜息が漏れて、それがまた嫌で、清呼は枕元に置いている佐野さんからの絵葉書を手に取った。佐野さんみたいな人になりたい。話しても、手紙を書いても、相手を素敵な気持ちにさせる、そんな人だったらいいのに。そう思いながら、マルセイユの海の、深い青をじっと見つめる。その時、ケータイが鳴った。
声が出なくなってからというもの、周りの人はみんな電話での連絡をやめた。では一体誰?そう思ってディスプレイを見ると、龍村さんだった。
何か言うことがあるんだな。
少しだけ怖いような気持ちを抑えて、清呼は通話に出た。
「もしもし?俺だ。さっきは・・・さっきは本当にごめん。でもこの事についてはまたあらためて、ちゃんと謝らせてほしい。今電話してるのは別のこと、急用だ。聞こえてる?イエスならケータイを叩いてみて」
清呼はすぐに爪でケータイをこつん、と叩き、急に早くなった胸の動悸に苦しさを感じ始めていた。
「じゃあ、イエスは一度、ノーは二度でいこう。さっき、清呼が帰った後で、佐野の姉さんから電話をもらった。佐野が亡くなったよ。自殺らしい。聞こえる?」
こつん。ケータイを叩く。イエスは一度、ノーは二度、でも、何故、はどうすればいいの?
「亡くなったのは一昨日の夜らしいけど、詳しいことはまだわからない。告別式はあさっての土曜、札幌でやる。俺は事務所の代表として参列するけど、一緒には連れて行けない。また日をあらためて、友達や仕事仲間でお別れの会をするから、その時に。それで、皆にはもう連絡は一通りすんでるけど、葵たちには自殺って事は内緒だ。わかるよな。何か聞かれても絶対に言っちゃ駄目だぞ」
こつん。ケータイを叩きながら、清呼は眼を閉じて頷いた。
「よし。とりあえず用件はそれだけだ。俺は明日の午後札幌に行って、土曜の便ですぐ戻るよ。帰ったらまた連絡する」
こつん、とケータイを叩く。でもやっぱり一緒に行きたい。行って、本当なのかどうか確かめたい。
「明日はちゃんと学校に行けよ。サボって泣いてても佐野は絶対に喜ばないからな」
こつん。私は泣いたりしない。だって信じられない。
「じゃあ、切るから。おやすみ」
清呼が返事を叩くのを待たずに電話は切れた。
まだ龍村さんと事務所に住んでいた頃、清呼は佐野さんがやって来るのがとても楽しみだった。俳優さんみたいにきれいな顔をしていて、親切で優しくて、雑誌から抜け出してきたみたいにおしゃれで、頭がよくて、いつも勉強を教えてくれる。
だから別れるときには必ず「ねえ佐野さん、次はいつ来る?」と聞いた。すると佐野さんは笑って「必要な時には呼んでくれたらすぐ来るよ」と答える。そして傍では龍村さんが、またやってるわ、と呆れた顔をするのだ。
清呼はたまらない気持ちになって部屋を出ると、廊下の突き当たりにある階段を駆け上がり、屋上へのドアを開けた。外は真冬みたいに寒かったけれど、裸足でそのまま踏み出す。闇に白く浮かぶ洗濯物の間を抜けて、ぐるりとめぐらされた柵に、ぶつかるようにもたれて空を見ると、上ってきたばかりのオリオン座が眼に入った。
清呼が生まれた村では、いつも降るような星空だったけれど、東京の空はがっかりするほど星が少ない。それでもオリオン座は東の空に、見慣れた形を描いていた。その真ん中の、三つ並んだ星を見つめていると、清呼は大声で叫びたくなった。
佐野さん、今が必要な時、お願いだからすぐここに帰ってきて!
メール受け取りました。貴女の声の事については、私も龍村くんから聞いてました。でも、私がどうこう言う問題でもないしね。もちろん心配はしているし、相談したい事があればいつでも連絡してほしいと思ってます。
それで、佐野くんの事ですが、確かに私はついこの間、コンサートの帰りに偶然会って、一緒にお茶を飲みました。でもその時は本当に普通だった。私が鈍感なだけかもしれないけれど、いつもの彼でした。コンサートはどうやら、年に一度あるかないかのとびっきりの演奏だったみたいで、すごく幸せそうだったのが今でも心に残っています。
貴女が知りたい事について、答えられるのは佐野くん本人しかいません。でも、私の聞いている範囲で話をしますね。
まず、亡くなったのは火曜の夜です。彼は眠れないと嘘をついて病院で薬をもらっていたらしくて、それを一度に飲んだという事でした。でも彼は人に迷惑をかけるのが何よりも嫌いだから、翌日の午前中にお姉さんがマンションへ来てくれるよう、約束をしていたそうです。お姉さんは都内でお医者さんをしているって、前に聞いたことがあります。
理由は、何故なんでしょう。
彼を知る誰もが皆、同じことを思っているでしょうけど、答えは永遠に見つかりません。
あんなに素敵で優しくて、才能に溢れていて、周囲を幸せにしてくれる人が、何故自分で命を絶たなければならなかったのか?何がそんなに彼を苦しめていたのか?いいえ、苦しんでいたかどうかも判らない。ただ単に、全てにさよならしたかった、それだけの事かもしれないから。
もしかしたら彼は、以前からこうするつもりだったのかもしれません。今年は専門学校の仕事は休んでいたし、旅行に出ていたから、やりかけの仕事もない。あの旅行だって、長く会っていない友達に、お別れを言うためだったかもしれません。
佐野くんに最後に会った時のことを今も、何度も思い出します。彼は私に、月と星のどちらが好きかと聞きました。私の答えは星。小さくても自分で光っているからです。そうしたら彼は、涼子ちゃんらしいね、と言ってくれました。
それから三日ほどして、彼から小さな包みが届きました。お友達の作家さんが作った、星型の石がたくさんちりばめてあるネックレス。驚いて電話をしたら、結婚祝いだと言ってくれて、私は、ちょっとフライング気味じゃない?と笑ったのを憶えています。それが最後の会話です。
幸せになってね、そう言ってくれました。私はその言葉は自分だけに向けて言われたものだとは思っていません。彼を知る全ての人に、佐野くんは心からそう願っていたと信じています。
今はとても悲しくて寂しいけれど、彼が与えてくれたものを忘れないで。私たちにできるのはそれだけです。辛いときにはいつでも連絡して下さい。
涼子
天候不良のため遅延。
ずっとそう言われていた北海道からの便は、三時間遅れでようやく出発した。龍村さんは、帰ったら連絡すると言っていたけれど、清呼は何だかとても不安で、勝手に空港まで迎えにきてしまった。
ただでさえ予定の一時間前に着いてしまったのに、三時間遅れで待ち時間は合計四時間。文庫本は持ってきていたけれど、開いたところで全然頭に入ってこない。結局ロビーを歩いたり、行き交う人を眺めたり、ベンチに座ってぼんやりと考え事ばかりして過ごした。
佐野さんのお葬式は、今日のお昼前に行われるという話だった。悲しそうな顔をしていると、また志穂が心配するから、昨日はデボラさんの家に泊めてもらった。葵ちゃんたちには、佐野さんは心臓の病気で急に亡くなったことになっていて、できる事なら清呼もそれを信じたかった。
さっき自動販売機で買ったカフェオレを飲み終えて、顔を上げると、大画面のテレビで七時のニュースが始まったところだった。という事は、飛行機が着くまであと三十分。三十分って、何かしようと思うとあっという間なのに、待たされると長い。清呼はバッグからオーディオプレーヤーを取り出した。この中には佐野さんが入れてくれた音楽が沢山詰まっている。もう絶対に消せないものばかり。
ドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏曲は、それぞれ三十分ぐらいだから、まとめて聴くとだいたい一時間。あと一時間どうしようかな、っていう時には、けっこういいよ。
そんな佐野さんの声が耳の底に甦ってきて、清呼は曲名を探した。先に出てきたのはラヴェルで、こっちを聴くことにしてヘッドホンをつける。
弦楽の滑らかで優しい音色が静かに胸の中を満たしてゆく。何故だかこの曲を聴くと、清呼は村の田んぼ一面に実った黄金色の稲穂が、波のように風に揺れているところを思い出してしまう。
フランスの音楽なのに変だよね?笑いながらそう言ったら、佐野さんは大真面目な顔で、全然変じゃないよ、音楽は自由に聴いていいんだもの、そう言ってくれたっけ。これからはきっと、佐野さんのことも必ず思い出す。
泣き出したくなるくらい、切ない音楽に浸りながら、清呼はじっと時が流れるのを待った。龍村さんがお葬式のために北海道に行ってしまって、一日ですぐに戻ってくるというのに、何故こんなに不安なんだろう。ふだんでも二、三日会わないなんてことはよくあるし、ここしばらく、ちゃんと一緒にいた時間だってとても短いというのに、いてもたってもいられないような感じがする。
清呼はそんな自分の気持ちを勝手だと思った。
タケルと再会してから、龍村さんに会う時間をどんどん減らして、秘密を作って、なのに今こうして、一分でも早く帰ってきてほしいと思っている。自分は龍村さんにしがみついて、ようやく立っているからだ。
本当はちゃんと謝らなくてはいけないのだ。許してもらえないのを覚悟しなくてはいけない。なのに自分はずっと口をつぐんでいる。芽衣が言ったことの一部は当たっているかもしれなかった。
どうしよう、佐野さん、どうしたらいい?
龍村さんに会える時間が近づくにつれて、会えない不安と同じくらい、会ったらどうしようという不安が膨れ上がる。いつの間にか身体が震えてきて、それを押さえようと両腕を身体に回したところで曲が終わり、顔を上げると、案内板の表示が「到着」に変わっているのが見えた。
到着ゲートから次々と、北海道のお土産らしい荷物を持った人たちが出てくるのが見える。最初の人の波が途切れてしばらくした頃、ようやく懐かしい姿が眼に入って、その瞬間に清呼は駆け寄っていた。
「わ、なんだ?来てたの?」
龍村さんはとても驚いた様子で清呼を見た。北海道は寒いからコートを着ていったみたいだけど、ここは暖かいから腕にかけていて、それに喪服の入ったバッグを提げて、ショルダーバッグも持っているから、かなりの荷物だ。清呼がコートを持とうとすると、「いいよ、大丈夫だから」と言って歩き出した。
ききたいことは山ほどあったけれど、歩きながらメモは書けないし。清呼はじれったい気持ちで龍村さんを見上げた。疲れてるようで顔色がよくない。また胃が痛かったりするのかな?そう思っていると、龍村さんはこちらを見た。
目が合って、少し歩いて、そして立ち止まると、龍村さんはいきなり荷物を全部床に落として、清呼を強く抱きしめた。
どうしたの一体?
いつも外では手もつながないのに。苦しい程に強く抱きしめられたまま、清呼は不思議な思いでいっぱいだった。
「ずっと一緒にいてとか、そんな無理は言わないよ」
龍村さんは、清呼に頬を寄せたまま、震える声でそう言った。
「でもお願いだから、絶対に、俺よりも先に死んだりしないと約束して」
その瞬間、清呼は自分の頬が濡れていることに気がついた。これは龍村さんの涙だ。
龍村さんは今まで清呼に怒ったり、謝ったり、説教したり、ずいぶんと感情的に話をしたことはあった。でもこんな風に泣いたことは、ない。それだけで清呼は足から力が抜けてしまいそうだった。
返事をしなくては。バッグからメモを出そうと思ったけれど、こんなに強く抱きしめられていては身動きができない。
神様、私に声を返してください。
清呼は心の底からそう願った。身体の奥で冷え切った石のように固まっている、自分の声を取り戻さなくては。それはとても苦しくて、自分で自分を傷つけるような痛みが立ちふさがったけれど、怯んでいる場合ではない。お腹の底に力を集めて、掌に爪が食い込むほどこぶしを握り締めて、清呼はようやく口を開いた。
「やって・・・みる」
それはまるで、別な誰かの声みたいだった。
そう、清呼はこれまでずっと、なんだかんだ言っても、本当にこの世が嫌なら死んでしまえばいいと思っていた。大人になる前に本気で死のうとして、それは失敗に終わったし、口にだして「死にたい」なんて言うのは自分に禁止していたけれど、心の底では死ぬことを、最後の逃げ道だと思い続けていた。
でもこの言葉を口にしてしまった以上、二度とそこへ引き返すことはできない。自分は龍村さんのために、何が何でも生きられるだけ生きてみる。今、そう約束したのだ。
龍村さんはその言葉を聞いた途端、慌てて身体を引くと、涙に濡れた顔で清呼をじっと見た。
まだ、まだ言うことはある。清呼は続けて声を出そうとしたけれど、長い間凍りついていた喉は、そう簡単には言うことをきかず、思い切り咳込んでしまった。
「ちょっと待って」
龍村さんはそれだけ言うと、ショルダーバッグから飲みかけの水が入ったペットボトルを取り出した。それを少し飲ませてもらって、また何度か咳をしてから、清呼は言葉を続けた。
「このまま、一緒に連れて帰って。お願い」
「最後の最後まで、嫌になるほど男前だったよ」
龍村さんはベッドで天井を見上げたままそう言った。清呼はその胸に頬をつけて、龍村さんの心臓の音と、身体から響いてくる言葉の両方に耳を澄ましていた。
「よく、今にも目を覚ましそうって言うじゃないか。本当にそんな感じなんだ。眼を開いて、あれ?どうしてみんな集まってるの?なんて笑ってくれそうでね」
思い出してまた悲しくなったのか、龍村さんは声をつまらせ、清呼の頭に手をのせた。
「東京から来てた人間はそう多くなかったけど、それでも大勢の人がお別れに来ていたよ。お母さんは早くに亡くなったらしくて、家族はお父さんとお姉さんの二人だけだ。お父さんは医者で、まだ札幌の病院で働いてる。お姉さん、俺に連絡をくれた人だよ、お姉さんも医者でさ、都内の小さいクリニックで働いてるらしい。ひと目見ればすぐに佐野の姉さんだってわかるぐらい似てるんだ。つまりすごい美人。いや、美人なんて月並みすぎるな。極端だけど、女神って感じ」
そこで言葉を切って、龍村さんは清呼の髪をゆっくりと何度か撫でた。
「少しだけ挨拶したけど、形見をね、もらってほしいと言われて。彼女がまた東京に戻って、落ち着いたら会う約束をした。だからその時、一緒に会いにいこう」
「うん」
まだ長く話すと声がかすれてくるので、清呼はそれだけ返事をした。
「そうだ、札幌で珍しい奴に会ったよ」
龍村さんはふいに手を止めた。
「誰?」
「赤井。こっちは全然気がつかなくて、出棺がすんでから、よう、って普通に声をかけられた。ずっと連絡つかなかったし、本当に久しぶりだから驚いてさ、なんか色々言うことあるのに、向こうが平然としてるからこっちも毒気を抜かれて、ああ、どうしてんの?なんて言ってしまったよ。あいつ顔が広いから、どこかで聞きつけたんだろうなあ。でもやっぱりそこが佐野の人徳って奴かな。あんな男でもちゃんと最後に会いに来るんだから。それでさ、少し立ち話したよ。同じような仕事はしてるらしいけど、詳しくは言わなかったな。どこに住んでるかもわからずじまいで、金の話も一切なし。それでさ、あいつ、清呼ちゃんどうしてんの?噂じゃ女の子になっちゃったって、もしかして手術成功?だってよ」
龍村さんが苦笑いしてるのがわかる。清呼も思わず笑ってしまった。
「手術ってわけじゃないけど、まあ色々ってごまかしておいたよ。そしたら、あいつ急にマジな顔になって、よかったよな、あの子いつもあんたの事を目で追ってたもんな、って」
そこで龍村さんは言葉を切って、心臓はその間に五回打った。
「なんであいつに判って、俺には判らなかったんだろう。俺ってなんでこんなに鈍感なんだと思う?」
そう言って清呼の頭をそっと自分の胸からおろし、顔が向き合うように身体をずらした。
「鈍感じゃなくて、赤井さんがすごいの。趣味は人間関係だし」
「そんな事言ってた?」
「・・・お酒飲みにいった時にきいた」
龍村さんはちょっと記憶をさぐるような顔をして、それから仕方ないな、という表情になって、清呼の指先を手にとると、何かを確かめるように唇で触れた。
「腹へってない?」
「大丈夫」
「こないださ、薬局の隣に新しくパン屋ができたんだ。日曜でも朝からやってて、天然酵母がどうこうって、おいしいんだ。明日起きたら買ってきてやるよ。だから・・・」
最後の方はなんだかよく聞こえなくて、見ると龍村さんはもう眠っていた。とても疲れていたに違いない。
自分を押さえていた腕をそっと下ろすと、清呼は二人のお腹のあたりにかかっていた布団を肩の上まで引き上げ、自分も寄り添って目を閉じた。今夜は私がベッドの外側、龍村さんが落っこちたりしないように、気をつけてあげるのだ。
三十一 眼を閉じて想像して
またいつもの静かな、でも前より寂しい生活が戻ってきた。季節は秋から冬へと流れていて、今年もあと一月しか残っていない。
声がまた出るようになって、清呼の周りのみんな、特にピリカや志穂は自分のことみたいに喜んで、安心してくれたけれど、芽衣からは「私に指摘されたからって、演技やめなくてもいいわよ」と冷たく言われた。しょうがない。自分を嫌いな人がいるなら、できるだけ神経を逆撫でせずに、やり過ごすしかないと覚悟を決めた。
龍村さんは、佐野さんのお葬式やなんかで遅れた仕事を取り戻したり、出張の取材があったりで忙しかった。あれから何度か一緒に過ごしたけれど、清呼にはまだ肝心な事が言えなくて、胸の底に重いものを抱えたままだった。
みんなの気持ちが少し落ち着いてからの方がいいという理由で、佐野さんのお別れ会は一月に開くことに決まっていた。その時に、デボラさんが撮った佐野さんの写真と、友達が書いた思い出をまとめた本を配ることになっていて、清呼は準備を手伝っていた。
自分も友達の一人として何か書かなくてはならないのに、いざ机に向かうと色々なことが思い出されてきて、気がつくと涙ばかりが流れていたりする。そんな事の繰り返しだった。
そして今日は、佐野さんのお姉さんに会うために、龍村さんと一緒に出かけて来た。
「あれじゃない?くすのきクリニックって」
ビルの前に小さな看板が出ているのを指差すと、龍村さんは手にしていた名刺と見比べて、「そうらしいな」と頷いた。平日は、午前の診察が終わった後なら時間がとれるって事で、こっちから行くことにしたのだ。クリニックはまだ新しいビルの五階にあって、他のフロアは歯医者さんとかマッサージとか、会社員の人が仕事の途中や帰りに来れる、便利なところって感じだった。
エレベータを降りて、曇りガラスのドアを開けてクリニックに入ると、優しそうな感じの女の人がまだ受付に座っていた。
「すいません、佐野先生と二時半にお会いする約束をしている、龍村と申しますが」
「はい、うかがっております。こちらへどうぞ」
女の人はすぐに立ち上がると、二人を「カウンセリングルーム」とドアに書かれた部屋に案内してくれた。レザーのソファはとても座り心地がよく、観葉植物なんかが部屋の角にあって、とても病院とは思えない寛げる感じだった。
「失礼します」
ドアをノックして、受付の女の人がコーヒーを三人分持って入ってきた。そして出て行くのと入れ違いに、佐野さんのお姉さんが現れた。
その姿を見た途端、清呼は呆気にとられて、一瞬立ち上がるのを忘れるぐらいだった。
極端な言い方だけど、女神。龍村さんがそう言ったのも納得がいくほど綺麗。ただ美しいってだけじゃなくて、いるだけで部屋が明るくなってしまうような、輝きみたいなものがある。
顔立ちは佐野さんによく似ていて、優しげな目元と通った鼻筋は同じといってもいい程。でも口元はやっぱり女らしい穏やかさがあって、頬から顎にかけての柔らかい輪郭がそれを引き立てている。背の高さは清呼とそんなに変わらない感じだったけれど、手足が長いのか、それとも動きが美しいのか、とてもすらりとした印象がある。
そしてお医者さんだけど白衣は着ていなくて、紺のテーラードジャケットに、ヒナゲシを思わせる青くて淡い花柄のフレアスカート、襟元には真珠をあしらったネックレスをつけていた。
「お忙しいのにわざわざお越しいただいて申し訳ありません。先日は遠いところ、本当にありがとうございました」
お姉さんはそう言って、龍村さんに頭を下げた。龍村さんは「いえとんでもない」とあたふたしていて、初めて会うわけでもないのに、お姉さんの美しさに圧倒されているのがよく判った。
「そちらが、清呼さんね」
お姉さんに名前を呼ばれて、清呼は我に返ると「初めまして」と頭を下げた。
「どうぞ、おかけになって下さい」
勧められて二人はまた腰を下ろし、お姉さんはあらためて「このたびは弟のことで色々とお騒がせしました」と言った。
「年も近いですし、二人とも実家を離れておりますもので、何かと頼りにしていました。お互いに忙しいので、そう頻繁に会っていたわけではありませんが、あの子のことはよく判っているつもりでした。ですから、あんな形で・・・」
そこまで言うと、少し黙って、お姉さんはまた続けた。
「お恥ずかしい話ですが、私は医者で、それも心を扱う仕事をしているのに、弟が何を考えているかに気づくことができませんでした」
「あまり、ご自分を責めないでください」
龍村さんのその言葉に、お姉さんは悲しそうに笑った。
「皆にそう言われます。多分、自分で思っているよりもずっと、同じことを繰り返して嘆いているんでしょうね。人に対してそういう言葉はかけたことがあるのに、いざ自分の事になると、そんな経験は何の意味もないのだと、心底思い知りました。
こんな風にしていても、弟が喜ばないというのはよく判っているんです。子供の頃、私が何か嫌な事があって泣いていたりすると、どうにかして笑わせようと、色々なことをしてくれたのを今も思い出します。
私を医者にしてくれたのは、弟なんですよ。うちは父が医者で、子供の頃から弟も医者になるだろうと、言わなくてもそんな雰囲気でした。けれど中学の頃に、真剣な顔で相談されたんです。どうしても実験動物を殺したくないから、医者の勉強はしたくない、でもお父さんをがっかりさせるのも嫌だって。だから私が、大丈夫、代わりにやるからって、引き受けたんです。でも大人になって、特に私が大学病院に勤めていた頃は、大変な思いさせてごめんねって、いつも気遣ってくれました」
そしてお姉さんは、手にしていたハンカチでそっと涙を押さえた。
「すみません、私の話ばかりしてしまって」
でも清呼は、そして龍村さんもきっと、ずっと話を聞いていたい気分だった。
「弟が残していた手紙があって、そこに、親しくしていただいた人に贈りたいものが書かれていました。だから、龍村さんと清呼さんにはこれを」
お姉さんは自分の脇に置いていた紙バッグから、小さな箱を二つ取り出した。龍村さんに手渡された箱からは、深いワインレッドの万年筆が出てきた。
「いいのかな、こんな上等なもの」
「もちろんです。ただ、弟はちょっと癖のある字を書きましたから、もしかしたら使いにくいかもしれませんけれど」
「それは大丈夫です。ありがとうございます」
龍村さんはそういって、佐野さんが残してくれたものを受け取った。そして清呼に渡されたのは、万年筆よりも少し長い箱だった。開けてみると、外側に綺麗な模様を描いた、小さな望遠鏡みたいなものが入っていた。
「何だろう」
思わずそうつぶやくと、お姉さんが「万華鏡なのよ」と教えてくれた。
「ここから覗いて、光の来るほうに向けて、ゆっくりと回してみて」
言われたとおりにすると、突然目の前に真っ青に輝く世界が広がった。それはこの世にある青という青の全てを集めて、切り刻んで、混ぜ合わせたみたいに複雑な色と形をしていて、指先で少し角度を変えるだけで、もうさっきとは全然ちがう新しい青の世界を作り上げるのだった。
「きれい・・・夢の中みたい」
「夏に旅行をした時に、イタリアで買ったらしくて。気に入ってもらえると嬉しいけれど」
お姉さんの優しい声を聞きながら、清呼は万華鏡を回し続けた。
これはもしかして、佐野さんの心の中?深い深い、青だけで作り上げられた完璧な世界。いつだったか、自分の心はヨコシマと言って、笑われたことを思い出す。そうだ、あのとき佐野さん、なんて言ったっけ。女の子にもてちゃって困るんじゃない、なんて話をしてたなあ。
とんでもない。それどころか本気で好きな人には全然振り向いてもらえなかったりね
本気で好きな人。
清呼は万華鏡を静かにおろすと、目の前にいる美しい人を見た。ずっと、佐野さんにつりあうような人は、そう簡単に見つからないと思っていたけれど、この人だけは違う。でもこの人はお姉さんだよ?そう思ったら涙が溢れた。自分の勝手な思い込みかもしれないのに、何故だか佐野さんが本当に好きだったのは、お姉さんじゃないかという気がして。
「あまり泣かないでくださいね」
お姉さんはそう言って、自分も涙をおさえた。清呼は何とか泣き止むと、「ありがとうございます、大切にします」とだけ言った。
がたん。電車は急に大きく揺れて、止まった。
うつらうつらしていた清呼は、振り向いて窓の外を見たけれど、そこは駅じゃない。隣に座っていた龍村さんも寝てたみたいで、「事故かな」と呟いた。
佐野さんのお姉さんと別れてから、二人は電車に乗り、最近涼子さんが発見したという、イタリア料理の店に向かっていた。かなり地味な場所にできたばかりで、知名度は低いけど、生パスタが最高で、しかもお値段控えめって事で、超お勧めなのだった。
龍村さんの予想は当たっていて、しばらくすると「お急ぎのところまことに申し訳ありませんが、人身事故のため、しばらく停車いたします」というアナウンスが流れた。電車は満員というほどではないけれど、それでもかなりの混み具合。アナウンスが流れた途端に、あちこちから溜息や舌打ちなんかが聞こえてきて、清呼は悲しくなった。
東京に出てくるまでほとんど電車に乗ったことがなくて、「人身事故」が何なのか知らずにいたけれど、人が電車に轢かれるという事、それが「人身事故」の正体だ。なのにまるで故障の一種みたいに扱われているのが、最初の頃はとても怖かった。
暗い気持ちで座りなおす、とその時、目の前にあるものに気づいて、清呼は叫びそうになった。つり革につかまって前に立っているおじさん、その手にはスーパーのポリバッグがかけられていて、中にはにんじんやレンコンに混じって、板こんにゃくが三つも入っている。
「龍村さん、ちょっとヤバイかも」慌てて小声で助けを求める。
「何?トイレ?」
「違う違う」そう言って眼で合図すると、龍村さんも判ったみたいで、長い溜息をついた。そうしている内にも、息を吸っても吸っても空気が入ってこない感じがしてくる。これが続くと最後には気を失うことだってあるのだ。こんにゃくは目の前約三十センチ、席を立って移動すれば正面からぶつかってしまう。そんなの無理。
「とにかく眼を閉じろ、で、別なこと考えて」
「無理。何か気の紛れる話して」
とりあえず両手で顔を覆い、清呼は必死でそう頼んだ。
「いきなりそんな事思いつくかよ」
「何でもいい。キャバクラ行った話でも」
「行ってません」
「じゃあ窓から降りる」
清呼は本気だった。
「それで線路沿いに歩いて次の駅まで行く」
清呼は顔を覆っていた両手を離すと、身をよじって窓の開け方を調べようとした。
「駄目だって!」龍村さんは慌てて清呼を押さえつけた。
「判った。判ったからもう一度眼を閉じろ。それでちょっと想像してみるんだ。清呼は今、俺になって、車を運転してる」
「車?」
ちょっと不思議に思いながらも、清呼はまた両手で顔を覆った。こんにゃくを提げているおじさんは、そんなのお構いなし、といった感じで文庫本をずっと読んでいる。
「俺はしばらく前に空港に着いて、レンタカーを借りて走ってる。辺りの風景はずっと山また山、そして時々開けた場所に農地と集落がある。どうやらさっき通ったのが、ここらでは一番賑わってるところらしくて、あそこで何か食べた方がよかったかなと、少し後悔しながら走ると、やがて道は少し広い川に沿って上ってゆく。そして川にかけられた橋をこえると、そこが俺の目指している村だ。
周囲を山に囲まれて、目につくのは田んぼと畑ばっかり。誰かが焚き火をしてるのか、畦道の脇にある古ぼけた小屋の向こうから、白い煙が一本、晴れた空に立ち上っている。しばらく走ると家が何軒かあって、道端にはお地蔵さんの祠なんかもある。その向こうに神社の鳥居が見えてきて、俺はようやく目的地に到着だ」
「待って、龍村さん、その神社ってもしかして」
清呼は胸が苦しいのを我慢してきいた。この動悸はこんにゃくのせいなのか、龍村さんの話のせいなのか。
「質問は最後にまとめて受け付けるから、今は黙って聞くんだ。それで、俺は鳥居の前で車を停める。そこにはちょっとした空き地があって、横井石材と書いた軽トラックが止まっている。多分これが、よそから来た車の駐車場だろうとあたりをつけて、俺もその隣に駐車する。
神社は山を背にして建っていて、鳥居の向こうは森の中の一本道だ。でも落葉している木が多いせいか、案外明るくて、道も綺麗に掃除してある。空気は澄み切っていて、森の匂いがとても気持ちいい。参道をずっと歩いていくと、山からの湧き水を受けている水場があって、俺はそこにおいてある柄杓を借りて手を洗い、口をすすぐ。
さて、身を清めたら本殿はすぐそこだ。小さくて古いけれど桧皮葺の屋根がとても美しい建物で、柱やなんかにはとても太い木を使ってある。境内もすっきりと掃き清めてあって、俺はとてもすがすがしい気持ちで参拝する。でも何を祈ったかは秘密だ。
それから、本殿の脇にある「社務所」って看板のかかった建物の引き戸を開けて、声をかけてみる。するとすぐに六十ぐらいの優しそうなおばさんがでてきて、また中に入ると、今度は同じぐらいの年の、袴姿の男の人を呼んでくる。この人がこの神社の神主さんだ。実を言うと俺は、前もってこの人に連絡をしていて、一晩泊めてもらう約束をしていたんだ。
二人は俺にお茶を出して、長旅で疲れただろう、なんて話をしてくれる。少し休憩してから、おれは神主さんの案内で、あらためて神社を見て回って、その裏にある森も散歩する。見た目よりもずっと奥が深そうで、暗いけれど怖いという感じはない、きれいな小川も流れていて、とても落ち着く場所だ。
でも今の季節は日暮れが早い。あっという間に辺りが暗くなってしまったので、俺たちはまた家に入って、色々な話をして過ごす。今、東京から修行のために来ているという、若い神主さんと、灯籠の修理に来ていた石屋さんも混じって、かなり賑やかだ。そして夕食も一緒にご馳走になる。
そこの家にいた子供が大好きだったメニューで、ハンバーグカレー。好物のカレーライスとハンバーグが一度に食べられるからってのがその理由らしいけれど、ずいぶん欲張りな子供だと思う。でもそれも納得するぐらいにおいしいんだ。
他にも奥さんが自分で作った漬物とか、村でとれた野菜の煮物とか、そんなものを沢山出してくれて、これまた近所の地酒ってやつを振舞われたりして、俺はすっかりいい気分に酔っ払ってしまう。
酔い覚ましに柿なんか食べさせてもらって、それから俺は風呂に入る。タイル張りの昔なつかしい感じのお風呂で、寒いんだけど、窓を開けると星空がものすごく近い。その後、そこの子供が使っていた部屋に泊めてもらう。
子供は今はもう住んでいないのに、部屋にはまだ勉強机が置いてある。たぶんもっと昔から誰かが使っていたのを譲り受けたみたいで、とても年季が入った木の机だ。机の上には動物や植物の図鑑が立ててあって、神主さんが撮った写真のアルバムや、小中学校の卒業アルバムもある。
俺はそのアルバムを開いて、この部屋に住んでいた子供を捜してみる。その子は人一倍小柄で、かなり目立つ。でも俺がその子をすぐに見つけられるのは、小柄だからというより、とても可愛いからだ。
生きているのが心底嬉しいって顔で笑ってる。そしてその子の傍にはいつも、大きくなったらさぞ男前だろうな、って感じの、賢そうな男の子がいる。二人はとても幸せそうで、その写真を見ている俺も、何だかとても幸せな気持ちになる。
そうするうちに俺は眠ってしまって、気がつくと外で小鳥がうるさいほどに鳴いていて、朝が来たことに気がつく。朝ごはんは全部村でとれたもの。ごはんと卵焼きと、油揚げと葱の味噌汁に、野菜の煮物と梅干。何だかもう長いことそういう朝ごはんを食べていなかった俺は、あまりにも美味しいのでちょっと感動してしまう。
そして俺は、少し散歩してみる。神社の前の道を村の中心に向かって歩いていくと、やがて民家が増えてくる。郵便局があって、雑貨屋とか診療所なんかも並んでいる。その向こうに小学校があって、低学年の子供が六、七人、体育の授業でグランドを走っているのが見える。神社の子もここに通っていたんだな、俺はそんな事を思いながら、もうしばらく散歩を続けて、昼になる前に神社を後にする。神主さんと奥さんは野菜とか色んなものを持たせてくれようとするけれど、帰りも飛行機なのであまり荷物はもてないし、有難いけれど全部断ってしまう。
それから俺はまた車に乗って、空港に向かう。村と国道の境目になっている川まで来たところでふと思い立って、車を止めて河原に下りてみる。夏には水遊びをするのにちょうどいい感じの場所だ。
その河原で俺は石を探す。東京で俺を待ってくれている女の子に、何かこの村のものを持って帰りたいからだ。でもただの石じゃなくて、何というか、彼女にぴったりの石があるような気がして、ずいぶん長い時間をかけて、俺は丸くて平べったくて、とても滑らかな石を一つ選ぶ。色は緑がかった灰色。
俺の手には少し小さいけれど、彼女の手にはたぶんぴったりだろう。そう思って俺はその石を上着のポケットにしまうと、また車を出すんだ」
龍村さんはそれだけ話すと、しばらく黙った。
「それが、こないだくれた石なんだね?出張のお土産って言ってた」
清呼の顔を覆った掌の下では、涙があふれそうになっていた。
「そう。取材ってのは嘘」
「でもどうして急に行こうと思ったの?」
「そうだな、何ていうか、清呼のことをちゃんと大事にするにはどうすればいいか、俺なりに考えた結果かな。ストーカーじみてるから、内緒にしようと思ってたんだけど。前にちょっとデボラから言われたんだよ、清呼の家族がそばにいないからって、いい加減な気持ちで付き合うなって。だからもう一度鉄輪さんに会って、近況報告しようってね」
「もう一度って、前に会ったことあるの?」
清呼は思わず手を離して龍村さんの顔を見上げた。
「・・・うん。まだ清呼が大人になる前、大鳥さんから話があって、鉄輪さんが東京に来た時に会ったんだ」
「そうなんだ、全然知らなかった」
そう呟いた瞬間、電車が大きく揺れて、清呼の目の前にあったこんにゃく入りポリバッグが顔にぶつかりそうになった。
「うわあああ!」思わず叫び声を上げて、清呼は反射的にシートの上に立ち上がった、そして勢いよく網棚に頭をぶつけてまた座り込んでしまった。
「たいへん長らくお待たせいたしました、ただいまより運行を再開いたします」
アナウンスが流れる中で、龍村さんが「大丈夫?」と半分呆れながら頭をさすってくれた。
「龍村さん、村で私のお墓は見た?」
さすがは涼子さん、って感じに期待通りだったレストランからの帰り道、もう閉店した店ばっかりで、静かになった商店街のアーケードを歩きながら、清呼はそう訊ねた。タケルにも同じ質問はしたけれど、何となくはぐらかされたままで、わからずじまいだったのだ。
「見たよ」
龍村さんは短くそう答えた。何だかお腹のあたりがひんやりするような感じがあって、清呼はうつむいた。
「本殿の裏にある森のずっと奥にあった。誰かに教えてもらわなければ絶対にわからないような場所」
「鉄輪パパが案内してくれたんだ?」
「そう。藪を掻き分けるようにして進んでいくと、突然ぽっかり開けた場所があって、そこにお墓が幾つもね。でもここらで普通に見かける奴じゃなくて、一抱えもあるような石が二つ三つ積んであるだけなんだ。名前も何もない」
「だってみんな清呼だもの」
「年季の入ったやつはすっかり苔が生えてて、半分ぐらい土に埋まったりしてたな。で、新しいのは何となく石が小さめ。清呼のは一番小さくて、とてもさっぱりした感じだったな」
「でもお墓はお墓だね」
判ってはいたのに、本当にあると聞いたら、何だかとても寂しい感じがした。
「それにしても本当に遠いところだな、あそこは」
龍村さんの声の調子が少し変わった。
「あんまり長い時間一人で運転してたから、俺は随分と色々なことを考えたよ」
「たとえば?」
「そりゃまあ、清呼の事と、あと、佐野の事をたくさん思い出したな。それが辛くなると、問題の答えを探した。前に俺たち、同じ穴のムジナだって話をしたのを憶えてる?」
「うん」
それはつまり、龍村さんはお父さんみたいに浮気するのが怖いから結婚したくなくて、清呼は自分みたいだったら可哀相だから、子供を産むのは嫌だってことだった。お互いに相手の問題の答えを考えるという事で保留になっていたけれど、龍村さんは答えを出したんだろうか。
「約束と違ってるけど、俺はついつい、自分の問題ばっかり考えてしまった。それでさ、何だか、親父ってそこまで最低でもないんじゃないかって気がしたんだ。
確かに、結婚してるのに他の相手と子供作るってのはルール違反だ。その時点でうちの家族はばらばらになった。でもおかげで、神戸の震災で死なずにすんだのかもしれないんだ。それになんだかんだ言っても、親父は俺と兄貴が高校を卒業するまではずっと、養育費を負担してくれていた。そして新しい家庭ではちゃんとやってるみたいだしね。
あれから親父とは一緒に生活しなかったし、それは母親にとってはものすごく大変なことだったと思うけれど、おかげで俺は親父と大喧嘩もせずにすんだよ。似てるからたぶん、一緒にいたら半端じゃなくぶつかったと思うんだ。
そして、さっさと離婚したおかげで、うちの母親は今、再婚相手とかなり楽しく暮らしてる。こんどの年末年始は、旦那が定年退職する記念に、ハワイ旅行するらしいよ。もしあのまま無理に親父との結婚生活を続けてたら、今頃もっと悲惨だったに違いない。
それに、あの、弟の悟。俺はけっこうあいつの事が好きだよ。俺は次男だから、子供の頃はいつも弟がほしかったんだ。実際にできたと思ったら、とんでもない展開で、一緒に育つこともなかったけど、まあ最近ようやく行き来もするようになったし、それもまた悪くないと思ってる。
だからさ、親父に似てることを、あんまり怖がる必要はないかもしれないと思ったんだ。
人生のある時点で、親父は確かに最低なことをした。でもその後で、それなりに挽回してきたり、状況が変わったり、色んなことがあって、結局のところ、親父が最低かどうかってのは死ぬまで決められない。もしかしたらこの先、地球の危機を救うようなことをするかもしれないしな。ま、それは冗談だけど。
そして俺は俺で、親父とは関係なしに、十分最低な事をやってのける男だ。だから何というか、親父に似るのを漠然と怖がるよりも、自分が最低な事をしないように、もっと毎日のことに注意した方がいいのかなと、そう思ったんだ」
龍村さんは一気にそこまで言うと、照れたみたいに笑って付け加えた。
「以上、ムジナ一号、龍村久の報告を終わります」
「なんだか置き去りにされちゃったよ。ムジナ二号、鉄輪清呼はどうすればいいの?」
清呼は本気で焦った。自分の気持ちはあの夏の、泣いてしまった午後から少しも変わってないような気がするのに。
「置き去りってわけじゃない。俺はまだ清呼の問題も考え続けるよ。たださ、俺の方は解決した感じだから、清呼も自分の答えを探せばいいんじゃない?時間は沢山あるんだから」
「そっか・・・それでいいのか」
清呼は自分に言い聞かせるみたいに呟いた。でも、自分はまだ秘密を抱えたままだ。それだけでもう、龍村さんの優しさが苦しみに変わってしまう。
「でさ、年末年始なんだけど」
龍村さんはまた口を開いた。
「さっきも言ったとおり、母親は旦那とハワイ旅行で留守なんだ。婆さんは一人で残るんだって。それでさ、清呼も俺と一緒に帰省するのはどうかな?別にうちに泊まらなくても、大阪市内のホテルに泊まれば十分行き来できるし、ついでに奈良公園のあたりとか、京都にも遊びに行けるから」
予想もしていなかった提案で、清呼は何と返事していいか判らなかった。嬉しい。確かに嬉しいんだけど、秘密はどうすればいいのか。
「・・・ちょっと急すぎて、何だか驚いちゃった。少しだけ考えていい?」
「ああ、それは勿論」
龍村さんはどうも清呼が速攻でOKすると思っていたみたいで、ちょっとがっかりした感じだった。でもそんなに深刻に考えてないようで、「あれだろ、奈良はともかく、大阪って怖いところだと思ってるからだろ。でも試着室に入ったら誘拐されてそれっきり、とかいう事件は、年に一度か二度だから」なんて言っていた。
三十二 白薔薇のブーケ
「あの女もヤキが回ったな」
二杯目のビールを飲みながら、龍村は呟いた。
「幸せボケで危機察知能力が低下してる。だからこういう目に遭うんだよな」
「騙されてサプライズパーティー、いいじゃない」
隣に座っていた勤め人時代の先輩、マダム美雪がハスキーな声で笑った。雛壇ではウェディングドレス姿の涼子がむき出しの肩をいからせ、鬼の形相で座っていて、その横で人のよさそうな新郎が、おどおどと小さくなっていた。何となく「公開処刑」という言葉が浮かんでくる。
写真撮影だけで披露宴もパーティーもしないから。そう宣言していた涼子だったが、その写真をデボラに頼んだのが運のつきだった。密かに友人連中に裏から手を回され、撮影終了と同時にこのパーティー会場に連行されたのだった。
集まっているのは彼女の友人知人ばかりで、お目当ては一世一代の晴れ姿と、奇特な新郎を一目拝みたいといったところか。なので誰のスピーチも舐めきっていて、「旧暦のハロウィーンパーティーに参加させていただきまして」だの、「重ね重ね」や「度々」を連呼するものだったりした。
とはいえ、やはり今日の涼子は美しい。気の強そうな眉だとか、睨まれたらつい一歩ひいてしまう鋭い目元だとか、頑固そうな顎のラインだとか、そういった、彼女の内側を主張している全ての要素が、己を肯定して輝いている。
ぼんやりとその姿を眺めていると、いきなりフラッシュを浴びせられた。見ると葵がカメラを構えて立っている。
「なんだお前、デボラの助手か」
「ううん。自分で撮ってるの。どうせ葵たちの出番は最後の花束贈呈だけだもんね」
今日は思い切りめかしこんでいて、レモンイエローのひらひらとしたワンピース姿、頭にはピンクの花をあしらったカチューシャをつけている。
「ほら、これがさっきスタジオで撮影したの」
こちらに向けられた液晶画面を見ると、涼子と新郎の立ち姿だ。嫣然と微笑む彼女は、その後にどんな事態が待ち受けているか気づいていない。
「この写真をパソコンに入れとくと、ウイルスに感染しないぞ」
そう言うと、マダム美雪がゲラゲラと笑った。
「葵ちゃん、龍村くんって本当に意地悪だよね、」
「こういうのへそ曲がりっていうんだよ。見て、葵たちも真似させてもらっちゃった」
お次の写真は、ヴェールと白い薔薇のブーケを拝借している葵だ。何故だか女の子という生き物は、こういう格好をさせると本当に様になるというか、まだ五年生だというのに自信たっぷりで、それがまた絵になる。続く楓も少し得意げに笑みを浮かべてつんと顎をそらし、三年生で一人前に淑女ぶっていた。
「二人とも、涼子よりよっぽどいけてるよ」
もしかしてこの後には清呼が?そう思うと妙にそわそわしたが、淡いブルーのパーティードレスを着た彼女は、葵たちに寄り添って、いつもの笑顔を向けているだけだった。
結婚願望とか、ないのかな。
ふいに、あの激しい言葉と泣き顔が甦ってくる。子供を産む気がなければやっぱり結婚にも無関心か。
「ちょっと、龍村くん、ご指名よ」
マダム美雪に肩をたたかれて我に返ると、雛壇の涼子がマイクを片手にこちらを睨んでいた。
「指名って?」
「カラオケはみんな新婦からの指名なの」
そういえばさっきフルーチェが「こんにちは赤ちゃん」を歌っていたけれど、あれもそうか?
「龍村久さん、お早く前へお願いします。曲目は「恋の奴隷」で」
業務連絡、といった感じで涼子のドスのきいた声が響き、あちこちから湧き上がった拍手に後へは引けなくなった。仕方ない、龍村はグラスに残ったビールを一気に飲み干すと立ち上がった。
最後のフレーズを「貴女好みの男になりたい」に替えてひとしきり歌い、頭に血が上った状態で席に戻ると、いつの間にか清呼が隣にきていた。
「なーんか変態っぽくってよかったよ」
「そういう誉め方しないでくれる?」
戻る途中でもらってきたグラスのジャスミンティーを飲み、一息つく。次のカラオケはデボラの番で、新郎と「昭和枯れすすき」をデュエットしている。傍らであっけにとられた表情の葵が、写真を撮るのも忘れて立ちつくしていた。
「昔の歌謡曲ってなんかディープだよね」
清呼も、伝統芸能を見学するような様子で二人を見ている。
「私も次あたり何かくるかしら」
マダム美雪は半分期待しているようで、何杯めかのワインを一口飲んだ。
「ここからじゃ判りにくいけど、あの女相当酔ってるから本当に危険だよ。美雪さんには尻文字でおめでとうって書け、とか言うんじゃないかな」
それに反応したのは清呼の方で「えっ、そんなの練習しないと無理だし」と、立ち上がって試そうとした。
「やめとけよ、例えばの話だって」
「私はできるわよ。最近ベリーダンス習ってるんだもんね」
言うが早いかマダム美雪も立ち上がって、タイトスカートも構わずに「お」の字を書き始め、龍村はようやく、彼女もかなり酔っていることに気づいた。
パーティーはとっくにお開きになったというのに、清呼は新婦控え室へ挨拶に行ったきり戻ってこない。涼子と顔を合わせるのは何だか気恥ずかしいが、一人で先に帰るわけにもいかず、龍村は肚をきめてパーティー会場の奥にある個室のドアをノックした。
中ではデボラの子供たちと清呼がブーケを分け合っていて、マダム美雪がそれを横目に差し入れのチョコレートを食べていた。
龍村に気づくと清呼は「待たせてごめん。あと少しだから」と謝った。涼子がいなかったことに気が抜けて、「じゃあ、あと五分ね」と告げてドアを閉めたところへ、当の本人が戻ってきて鉢合わせしてしまった。
「あら」こちらを見上げる涼子は、もうドレスを脱いでセーターにジーンズというラフな格好だ。しかし髪はきれいにセットしたままで、メイクも然り。何だか判らないものでそこらじゅう光らせて、開いた胸元には小さな星をあしらったペンダントを輝かせていた。
「楽しんでいただけたかしら、本日の見せ物は」
頬が紅潮して見えるのはメイクのせいだけだろうか。
「予想外に面白かったよ。出席させていただいて本当に光栄です」
「よく言うわ。みんなでよってたかって」
一世一代の晴れ姿、とは思わずに、末代までの恥を晒したという風情なのに、却って気持ちをそそられた。
「まあこれでまた、世の中に不幸な男が一人増えたわけだ」
涼子はちらりと視線を上げ、「それはあなたの事?」と訊ねた。
「そうかもね」
龍村は少し素直な気分で答える
「俺が優柔不断だった事に感謝してる?」
こんどは涼子が「そうかもね」と答える番だ。それから「近ごろは随分マシになったみたいだけど」と付け加え、俯いて龍村の腕にそっと触れた。
「今まで色々とありがとう。でもまあ、これからもよろしくね」
思いがけずしおらしい様子に、龍村がどぎまぎしているうちに、涼子は身を翻してドアの向こうに消えてしまった。
二人だけの遠慮のない会話も、今が最後だったかもしれない。終わってみて初めて気づくことが、この世には何と多いのだろう。とっくの昔に切れたと思いながら、細く、そして強くつなぎ続けていた絆が今ようやく切れて、もっと緩やかで淡いものに変わる。
初めての相手でもなく、激情の大恋愛でもなく、二人の関係は静かに始まって、何年かの時間の後でまた静かに終わった。その間に彼女からたくさんの事を教えてもらったと思うのだけれど、今となってはそれが自前の考えなのか、そうでないのか、分かちがたいほどに心に根を下ろしている。
軽く溜息をついて壁にもたれると、控え室のドアが開いて、コートにマフラー、ブーケを手にした清呼が現れた。
「涼子さんに、さっさと出てけって怒られた」
そう言いながらも嬉しそうに笑っていて、ブーケを顔に寄せ、白薔薇の香りを楽しんでいる。
「丸ごと貰ったんじゃなかったの」
「だって三人で分けたかったんだもん。美雪さんたら、その方がいいよ、涼子の呪いがかかってるから、だって」
「本当だな。危ないからドライフラワーとかにすんなよ」
ふざけた事を言いながら外に出る。パーティーは午後早くに始まったので、街にはまだ黄昏の光が少しだけ残っていた。
「さてこれからどうしよう、何か食べたい?」
「うーん、ずっと食べてたような気もするし、でも満腹って感じでもないし」
「じゃあせっかくだから、Tホテルのコーヒーラウンジに行こうか」
「え?あんな豪華なとこ?」
「こないだ雑誌見て、あそこのカツサンド食べてみたいって言ってたろ?今日はそれにふさわしい格好してるからな。少なくともラーメン屋って感じではないだろ」
すごくいい匂い。
一体もう何度目か判らないぐらい、涼子さんからもらったブーケに顔を近づけて、白薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込む。どんなに素敵な香水よりも、清呼は生きた花の香りが好きだ。
龍村さんが寮まで送ってくれるというのを断って、だんだんと冷え込んできた夜道をひとり、一日の余韻を噛み締めながら歩く。今日はとても楽しかった。生まれて初めて、お友達の結婚パーティーなんてものに参加させてもらったのだ。もう本当に大人って感じ。
デボラさんがこの計画を教えてくれてから、ずっと落ち着かない気分で、今着ているパーティードレスなんか、ピリカに付き合ってもらって半日もかけて探した。おかげで最後にTホテルのコーヒーラウンジなんておまけ付き。背筋を伸ばして思いきり上品な気分で食べると、カツサンドもフルコースと同じくらい優雅で豪華な感じだった。
志穂はこのブーケを見たら何と言うだろう。少しわくわくしながら、寮の玄関に入って靴を脱ぐ。どうも今夜の食事はかやくごはんだったみたいで、牛蒡や人参の懐かしいような香りが漂っている。そこへちょうど寮母さんが通りがかった。
「あら鉄輪さん、お客さんがお見えよ。男の人」
「私に?」
「ええ、お父さまの知り合いの方らしくて、もう二時間ほど前に来られたんだけど、外出中ならずっと待ちますって。河野さんが貴女に連絡したんだけど、つながらなくってね」
清呼は慌ててケータイを取り出した。パーティーのために電源を切ってそれっきり忘れていた。志穂からの着信が五回ほど入っている。
「今も談話室でお待ちよ」
「はい」そう返事してはみたものの、こんな急に訪ねてくる人って誰なんだろう。マフラーをとってコートを脱ぎ、そっと談話室へ入る。そこには龍村さんよりは年下な感じの男の人が座って文庫本を読んでいて、清呼の気配に気づくと大急ぎで立ち上がった。
「鉄輪清呼さん、ですか?」
ひょろりと痩せて、電柱みたいな感じの人だ。ちゃんとスーツを着ているけれど、何よりもインパクトがあるのはその髪型で、清呼は生まれて初めて、生の七三を目撃した、と思った。眼鏡をかけていて、色白だけど髭は濃くて、口の周りがうっすら青く見える。
それにしても一体この人誰なんだろう。そう思いながら清呼がゆっくり頷くと、男の人は名刺を差し出した。
「私は日野富士夫と申します。今年の春よりつい先日まで、鉄輪明義先生の下で神職として勉強をしておりました」
「ヤング・・・」神主、と言ってしまいそうになって、清呼は慌てて口をつぐんだ。タケルが教えてくれた事は絶対に秘密だ。でもヤング神主、日野さんは全然気づいてないみたいだった。
「私はすでに都内の実家の方へ戻っておりますが、鉄輪先生から清呼さんに連絡をとってほしいというご依頼をいただきまして、こうしてご無礼を承知で伺った次第です」
「はあ・・・ちょっと、座りましょうか」
そう言って腰を下ろしながら、清呼は何が起こったのかを考えていた。確かに鉄輪パパは自分と直接連絡をとることは出来ない。だから用のある時はいつも、大鳥さんがその仲立ちをしてくれている。なのに今日はどうしてこの人が来たんだろう。
「早速ですが、用件に入らせていただきたく存じます」
日野さんは随分と分厚い眼鏡を指先で持ち上げて、テーブルに載せていたファイルから紙を何枚か取り出した。
「清呼さんは高木イツ子さんをご存知ですね」
「さあ・・・」
「井筒商店のおかみさんです」
「あ、高木のおばさん」
「その、高木イツ子さんですが、現在都内の病院に入院しておられます」
「え?入院?」
「はい、半年ほど前から難しい病気を発症されて、県立病院ではどうにもならず、このままでは寝たきりという事で困っておられたのですが、都内に最先端の治療を試している大学病院があることを知って、息子さんが手をつくして入院がかないました」
「その事と、私と、どうつながるんですか?」
何となく予感はある。でもそんなはずはない、と否定する気持ちの方が強かった。
「清呼さんは、昔、お鈴婆さんという方が神社にお見えになった事を憶えておられますか?」
「はい、もちろん」
「その方は人の病気や怪我を治す、不思議な力を持っていたそうですね。それで、高木さんの息子さんは、今もどこかにそんな人がいて、お母さんを助けてくれはしないかと、そう鉄輪先生にご相談なさいました」
日野さんの話にはとても気合が入っていて、顔の上半分がピンク、下半分がブルーになってきた。
「そこで先生が提案なさったのが、清呼さん、貴女のことです。鉄輪先生によりますと、貴女もまた同じ力を持っておられるそうですね」
まさか。これはお鈴婆さんと私だけの秘密のはずなのに。パパはずっと知らないふりをしていただけ?ずばりと指摘されて、嘘をつくわけにもいかず、清呼は「まあ、少しはそんな事ができます。でも、何でもかんでも治せるわけじゃないです」と答えた。
「いや、それはいいのです」
清呼の不安な気持ちを察したのか、日野さんは急いでなだめにかかった。
「病気そのものは、手術で治すことが可能だと思われています。ただ、とても難しい手術で時間もかかる。高木さんはそう高齢ではありませんが、半年もの闘病生活でとても弱っておられます。息子さんはもとより、主治医の先生も、手術に耐えられるだけの体力があるかどうかを心配しておられますが。そこで、清呼さんに力を貸していただきたいのです」
「それって、つまり、高木のおばさんを手術が平気なぐらい、元気にしてあげるって事ですか」
「できるならば」
「やります」
清呼は即答していた。誰かが私を必要としているなら、やらなくてはならない。
「手術はいつなんですか?」
「先生に無理をお願いしての話なので、もう日にちが迫っていますが、クリスマスの次の日です」
「じゃあ、私は前の日に病院へ行きます」
あまりにも清呼が早く決めたので、日野さんは逆に驚いたみたいだった。
「いいんですか?あの、クリスマスは、龍村さんという方とお約束とかは・・・」
そっか、龍村さんは村でこの人に会っているんだ。それは何だか不思議な感じだった。
「私は神社の子だからいいんです。ただ、少し準備したい事があるので、時間とかはまた後で連絡していいですか?」
「勿論です。ありがとうございます。本当にありがとうございます」
日野さんはこんなにすんなり話が進むとは思ってなかったようで、あたふたした感じで一生懸命お礼を言うと、手にしていた紙を差し出した。
「こちらが病院の地図と私の連絡先です。あと、謝礼の方ですが」
「それはいりません」
たしかに、ちょっとしたお礼がもらえたりするのかもしれないけれど、自分には何の意味もない。大事なのは、必要とされて、自分の力を人のために使うこと。
「ですが、それでは先方が納得されませんよ」
「じゃあ日野さんが代わりにもらっておいて下さい」
それだけ言うと、清呼は立ち上がった。さっきから寮の子が何人も、中を覗きながら通り過ぎていった。これでまた変な噂が出て、芽衣から嫌味を言われるかもしれないな。でもそんな事は平気だ。これはそれよりずっと大切なことだから。
「一晩でもう会いたくなった?」
龍村さんは笑ってそう言うと、コーヒーを飲んだ。
「ごめんね。昨日のうちに言えればよかったんだけど」
「いいよ。毎日だって別に」
そうは言うけど、龍村さんは今も仕事の合間だ。こっちはもう冬休みだからいいけれど、無理やり時間をつくって、打ち合わせ先に近い喫茶店で会ってもらった。全く突然にこんな重大な話。でも言わないことには何も前に進まない。順番はあれこれ考えたけれど、やっぱりこれが最初、そう思って清呼は膝に置いたマフラーを握り締めた。
「あの、私ずっと、謝らなくてはならない事があって」
そう切り出しただけで、喉が見えない手で絞められるような感じがして、清呼はレモンティーに口をつけた。龍村さんはさっきとはうって変わった、何か考えるような顔でこちらを見ている。
「それはもう今からだいぶ前の事なんだけど」
「ちょっと待って」龍村さんはいきなり話を遮った。
「だいぶ前って、十日以上前の話?」
どういう意味だろう、そう思いながらも、清呼はうなずいた。身体が少しだけ震えている。
「じゃあもう言わなくていいから」
「なんで?」
「俺、十日以上前に起きたことは全部時効にすると決めたんだ」
龍村さんはすごく真剣な顔つきでそう言うと、またコーヒーを飲んだ。
「そんなの聞いたことないけど」
何だか今の方がドキドキしてきて、清呼は手が震えてカップを持つことができなかった。
「佐野の葬式で赤井に会った時に決めた。もうなんか、前のことをあれこれ言うのが馬鹿らしくて」
「そうなんだ?」
「で?今日の用件はそれだけ?」
「ううん、まだ大事な話がある」
私は決して許されたわけではなくて、これからもずっと秘密を背負って行かなくてはならない。龍村さんはただ、自分はそれに関わらないと宣言しただけなのだ。清呼は頭の中が真っ白になりそうだったけれど、なんとか話を続けた。
「昨日の夜寮に帰ったら、神社に修行に来てた、日野さんて人が待ってた」
「ああ、そうなの?あの人けっこうインパクトあるだろ」そう言って、龍村さんは思い出したように笑った。
「鉄輪パパからのお使いで来たんだって。それで私は一つ、頼みごとをされたよ」
「何?」
どう話せばいいだろう。昨日の夜、色々と考えたはずなのに、さっきの話で全部吹っ飛んでしまった。
「嘘だと思うかもしれないけど、とにかく聞いてね。龍村さんには秘密にしてたけど、私は人の病気とか怪我を、少しだけ治す力があるんだよ。それはもうずっと子供の頃に、ある人から教えてもらった。鉄輪パパにもそれは秘密のはずだったんだけど、実は知っていたらしくて、日野さんはその事で来たの」
龍村さんはじっと清呼の話を聞いていた。少なくとも冗談だとは思ってないみたいだ。
「高木のおばさん、て憶えてる?私がよく話してた村の人。あの人が病気で入院してるんだって。難しい病気で、県立病院では無理だから、今、都内の大学病院に来ていて、もうすぐ手術するんだって。でも身体が弱ってて心配だから、私の力で少し元気にしてあげてって。だから私はOKした」
「その力、俺に使ってくれたことがあるだろ?」
龍村さんはいきなりそう言った。
「ないよ」
「そんな事はない。前に一度、風邪で死にかけてんのに、翌日は名古屋で取材って事があっただろ?あの時たった一晩で、俺は嘘みたいに治ってしまって、代わりに清呼は鼻血を出して寝込んだ」
「あれは関係ないよ」
そう、あれは私が勝手にやったこと。鼻血を気づかれたのはうっかりしてたからだ。でも龍村さんは、清呼の言葉なんか信じてない感じだった。
「その力を使うと、あんな風に鼻血を出して寝込んでしまうんだろ?楽なことじゃないよ。自分が助けてもらっておいて矛盾してるけど、高木のおばさんなんて、いつもロクな事を言わない意地悪ババアじゃないか。ちゃんと病院で手術できるんだったら、そんな人のためにわざわざ苦しい思いする必要あるのか?俺ははっきり言って、清呼の身体の方が心配だよ。俺の時は貧血みたいになって、冬じゅう青い顔してたじゃないか」
「だから龍村さんのことは関係ないって!それに今はもう大人だから、鼻血も出ない。ただたくさん眠らないと駄目なだけ」
あれ。あんまり龍村さんが真剣なので、思わず変なことを口走ってしまった。龍村さんも少し驚いたような顔で黙りこんだ。
「と、とにかく、力を使うとすごく疲れて、たくさん眠らないと駄目なの。それで、私は高木のおばさんのために、できるだけの事をしようと思うんだけど、そうすると病院から帰る途中で眠ってしまうかもしれない。うまく寮に帰れても、二日ぐらい眠ったままかもしれない。それじゃ皆がすごく心配するから、龍村さんのところに泊めてもらえないかな」
一気にそう言ったけど、龍村さんはまだ黙っている。
「そりゃ本当は、日野さんにお願いすべき事だけど、なんかちょっと・・・」
「いやいやいや、それは大丈夫!」
龍村さんはいきなりフリーズ状態から復活した。
「絶対に俺が面倒見るから。どういう段取りで行けばいい?」
「できたら病院まで来て、タクシーで連れて帰ってほしい。あとはベッドに放り込んでくれたらそれでOK。酔っ払いと変わらないよ」
「それでいいの?パジャマに着替えさせたりは」
「いらない!」正直そこまで考えてなかったので、清呼は思わず叫んでしまった。周りの人が何事かと、一瞬こちらを見る。
「とにかくベッドに寝かせて布団かけておいて。それ以外のことは絶対しちゃ駄目」
眠ってる間に着替えさせられるなんて、ありえない。なのに龍村さんは「お腹にこんにゃくのせてみたり、変な場所にマジックで落書きしたり、絶対しませんから」とか言っている。清呼はもうほとんど後悔していた。いっそ病院で行き倒れになって、そのまま入院した方がいいかも。
「ほら、そんな顔しないで。ちょっとは信用してくれてもいいだろ。何なら誓約書にサインするから」
さすがにそこまで言われると、少し気分もましになって、「じゃあお願いします」と頭を下げた。そして清呼はもう一つ、最後の用件を切り出した。
「それで、私は十分に眠ったら目を覚ますから。そしたら、年末は一緒に奈良の実家へ連れて行ってくれる?」
龍村さんは一瞬、ぽかんとした顔をしていた。
「もしかして今からじゃもう遅い?」
そう、誘われてから随分日が空いてしまったから、龍村さんはもうすっかり別の予定を立てているかもしれない。
「いや、全然、少しも遅くない」慌ててそう言って、龍村さんはようやく笑顔になった。
「返事がないから、嫌なのかと思ってた。婆さんも喜ぶよ」
「でもさあ私、お婆ちゃんに男の子だと思われてるんだよね。どう説明しようか」
前に手紙を書いたときには男子高校生が、会ってみれば女子大生ってすごく変だ。
「まあ、あれだ、婆さんには何かの勘違いじゃない?って言い張っとこう」
「そんなの悪いよ」
「いいんだよ。うちの婆さんは押しが弱いから、何か言われると、そやったかもしれへんなあ、ってすぐ納得するんだから」
それを聞いて清呼は思わず吹き出してしまった。
「そやったかもしれへんなあ?」
「ちょっと違うな。そやったかもしれへんなあ、だよ」
「一緒じゃん。そやったかもしれへんなあ、でしょ?」
「だから違うっつうの」
何度も何度も繰り返して笑いながら、何故だか清呼の目には涙が浮かんできた。
三十三 もう一人の清呼
病院にはクリスマスなんて関係ないのかと思っていたら、待合室に大きなツリーが飾られて、ちゃんと雰囲気を出している。清呼は夕方の五時ごろからそこで待っていたけれど、龍村さんはなかなか仕事が終わらず、八時前にようやく来てくれた。
「ごめん。土壇場であれこれ変更が出て」
どうも昨日から徹夜で仕事してた感じで、目の下に隈がある。清呼は申し訳ない気持ちで一杯だった。
「こっちこそごめんね。すぐやっちゃうから」
そう言って立ち上がると、龍村さんはまじまじと清呼を見た。
「何でそんなに着膨れてんの?」
「だって中にパジャマ着てるんだもの」
この前、眠ってる間に着替えさせようか?と言われたのが心配で、パジャマの上にセーターとジーンズ、さらにコートを着ているので、はっきり言って動きにくいし、暑い。でもこれなら、脱げばそのまま寝られるから安心だ。
「俺はそこまで信用されてないわけ?」
「自分で変なこと言うからだよ」
そんな話をしながら、二人は高木のおばさんの病室に向かった。三階の二人部屋、入口側のベッド。病院にはおばさんの息子さんが、遠くから親戚が来るけれど遅くなるかもしれない、と伝えておいてくれたので、ナースステーションでもすんなり通してくれた。
「三〇三号室、ここだ。急いで済ませるからね」
龍村さんを廊下に残して、清呼は病室をのぞいた。奥の人はベッドの周りのカーテンを閉めている。清呼は手前のベッドにいる、高木のおばさんの枕元に近づいた。
おばさんは目を閉じていたけれど、眠っている息遣いではなかった。その顔は清呼の記憶よりもずいぶん年をとっていて、病気のせいか痩せて、疲れきっているように見えた。髪も前は白髪まじりといった感じだったのが、今はほとんど真っ白だ。
清呼は小声で呼びかけた。
「おばさん、久しぶり。起きてたら目をあけて」
するとおばさんは、眉間に皺をよせて、うるさいねえ、とでも言いたそうな顔をしてからゆっくりと目を開いた。
「私が誰だかわかる?」
顔を寄せて覗き込むと、おばさんはしばらく呆気にとられたような顔をして、それから「清呼、かい?」と言った。
「憶えててくれたんだ?」
何だかすっかり嬉しくなって、清呼はつい大声になってしまった。
「あんたまだ生きてたのかい」
おばさんはまた眉をしかめてそう言うと、何かを探すみたいに手を動かした。
「どしたの?」
「ベッドを起こしたいんだよ。気が利かない子だねえ」
清呼は慌てて、リクライニングのスイッチに手を伸ばした。
「こんな高さでいいかな?」
「ああ、もう仕方ないね」
まだ完璧じゃないけど、といった感じでおばさんは溜息をつくと、もう一度清呼をしげしげと見た。
「あんた女の子になったのかい」
「そうだよ。びっくりした?」
「驚きゃしないけど、呆れるねえ。その顔の傷痕で女の子ってのは」
何故だかおばさんにそんな事を言われても全然平気だ。おばさんはまた溜息をついた。
「あんた、タケルって憶えてるかい?いつも一緒に遊んでた」
「もちろん」
「あの子はこっちの学校に進んだらしいけど、今じゃそりゃもう男前でさ、あんたには勿体ないぐらいだけど、もしかしたらお似合いだったかもしれないね」
清呼は急に胸がつまって、何と答えていいか判らなかった。だっておばさんはいつも、清呼がタケルといると「どうせそのうち別々になるんだから」なんて事ばっかり言ってたのに。
「それにしても、なんでまた今頃現れるんだろうね。こっちはちょうど、昔のことをあれこれ思い出してたってところへ」
「鉄輪パパが、ちょっとお見舞いに行ってこいってさ。ねえ、どんなこと思い出してたの?聞かせてもらっていい?」
「今じゃ誰も聞きたがらないよ。もう一人の清呼の話なんてね」
その瞬間、清呼は誰かに頭を強く揺さぶられたような気がした。
「おばさん、もう一人って、私の前に生まれた人のこと?」
「そうさ。私よりも四つ年上でね、私はあの人のこと、清兄さんって呼んでたんだ」
「その話、もっと聞きたいんだけど、話してもらっていい?苦しかったりしない?」
おばさんはまた溜息をついて、清呼をにらんだ。
「あんた相変わらず、何でも知りたがるねえ。まあどうせ私の寿命もそろそろだし、教えといてあげるよ」
そしておばさんは手を伸ばして、枕元に置いてあったプラスチックのコップから一口お茶を飲むと、話を始めた。
あの人は清呼だったけど、村じゃ男って扱いになっていた。兄さんの両親は村の人間だけど、早くに都会に出て商売をしていた。それが空襲で焼け出されて、戻ってきてたんだよ。そのうち兄さんが生まれたんだけど、こんな子はよそじゃ育てられないって、兄さんだけ神社に預けて、自分たちはまた都会に行ってしまった。兄さんの養い親は今の鉄輪さんの、爺さんにあたる人だったね。
兄さんは、そこいらの村にもちょっといないほどの器量よしだったね。あんたとは違って勉強もよくできて、特に絵が上手なのさ。県のコンクールで賞状をもらったりするのは毎度のことだったよ。
あんた賞状なんかもらったことないだろう?いつも遊ぶか食べてるか泣いてるか。全く、同じ清呼でもなんでこんなに違うのかって、私はあんたを見るたびに情けなく思ったもんだよ。
兄さんは誰にでも優しくて、私にはとりわけよくしてくれたよ。
春に蓮華が咲けば、花輪にして頭にのせてくれるし、夏は川へ泳ぎに連れていってくれる。秋になれば柴栗をたくさん拾ってきて、焼いて殻までとって食べさせてくれるんだ。そして冬になれば、初雪の上を踏んで、朝一番に会いに来てくれたもんだよ。
イッちゃん、って私のことを呼んでくれてね、今でも夜中にふっと兄さんの声がしたような気がして、目が覚めることがあるよ。
兄さんは動物を世話するのがとても上手だった。私らが小さい頃はまだ村のあちこちで牛だの馬だのを飼ってたもんだけど、ちょっと具合が悪くても、兄さんが一晩ついててやるだけで、次の朝にはすっかり元気になっててねえ。下手な獣医よりもよっぽど役に立つってんで、よく近所の村からもお呼びがかかってたよ。
もちろんあんたみたいに、子供のほしい家にも出かけていったもんさ。そこで出されたご馳走やお菓子なんかを、私や小さい子に持って帰ってくれるんだから、本当に優しかったねえ。
そして中学を出たら、兄さんはやっぱり村を離れたよ。何せ動物の世話がうまいからって、町の博労が九州の牧場に働き口を世話したんだけど、私にしてみりゃ本当に寂しくてねえ。兄さんが村を出る前の日にこっそり会いに行って、これからもずっと便りをくれるように頼んだもんだよ。
今は携帯なんて便利なものがあるけど、私らが若い頃は手紙をやり取りするしかしょうがなかった。だから文通がけっこう流行っていてね、気の利いた子なら、文通相手の一人や二人はいたもんだ。それで私も、兄さんとこっそり文通してたわけさ。
もちろん、本当は兄さんは村の人間と手紙のやりとりなんかしちゃいけない。でも優しい人だったからね、私の頼みを断りきれなかったのさ。女の子の名前を使って、いつも手紙をくれたよ。私もそれが嬉しくて、何通も何通も手紙を出した。
楽しいこと悲しいこと、学校であったことや、村で起きたこと、何でも書いてね。兄さんは兄さんで、毎日何してるかだの、馬や牛がどんなに可愛いかだの、そんな事を書いてくれたね。
そして九州に行って一年ほどした頃には、兄さんはもう大人になって、すっかり男らしくなったという事だった。写真もたまに送ってくれたけれど、そりゃもう格好良くて、その辺の女の子にちょっかい出されてるんじゃないかってやきもきしたもんだ。
そう、手紙のやりとりを続けるうちに、私はすっかり兄さんに熱を上げてたんだよ。別れたころはまだほんの小学生だったけど、中学に上がればそれなりに恋心も出るってもんさ。だから、じき中学を卒業するって頃に、私はある決心をしたんだよ。合格していた高校には進まずに、こっそり家出して、兄さんのところで一緒に働こうって。
はじめは兄さんも、そんな馬鹿なことするなって言ってたんだけど、私が本気だって判ってからは、親身に考えてくれてね、働く場所や住む所も世話してくれるって話になっていたよ。けど、いざとなったら今度は私が怖気づいて、一人じゃどうしても行けないから、迎えに来てくれって、そう頼んだんだ。
兄さんは嫌がりもせず、じゃあ荷物まとめて待っていろって、手紙をくれたよ。ちょうど中学の卒業式の前の日さ。夜中にうちの裏まで迎えに来て、窓ガラスに石を投げて合図するという約束で、私は内心ひやひやしながらも、兄さんを信じて待っていた。
でも結局、兄さんは私を迎えには来なかったんだ。
気がついたら朝になっていて、私は泣きはらした顔で卒業式に出たけれど、みんなは卒業を悲しんでいるとしか思っていなかったのさ。でも私が眠らずにじっと待っていたその頃、兄さんはもう亡くなっていたんだよ。何でも牧場の馬小屋が火事になって、取り残された馬を助けに飛び込んで戻らなかったって話さ。
村の皆は、兄さんらしいねえって泣いたよ。でも私は泣くに泣けなかった。だって兄さんは私が殺したようなもんだから。あの時、私が迎えに来いと言っていなければ、兄さんは死なずにすんだんだよ。あんたにはわかるだろ?一度村を出た清呼は、二度と戻ってはならない。兄さんはその約束を破ろうとして、神様に罰を受けたのさ。
そして私は何食わぬ顔で町の高校に上がって、卒業してからは親戚の会社で経理を手伝って、見合で婿養子をもらって結婚したよ。結局のところ、私は井筒商店の跡取り娘だったからね。
うちの旦那は真面目が取柄なだけのつまんない男だったけれど、商売はうまくいってたし、田んぼもあるから暮らしには困らなかった。息子と娘もちゃんと育ってくれて、孫まで授かったっていうのに、私は何故だかずっと、穏やかな気持ちになった事はなかった。
何ていうんだろうね、どんなに頑張ってみても、物事なんて結局は駄目になってしまう、そんな考えが頭から離れないんだよ。はしゃいでる人間を見れば水をさしたくなるし、いい事ばっかり考えようとしてる人間を見れば、悪い結果もあるってことを思い知らせたくなる。とにかく、兄さんが死んだって聞いた時から、何もかもが無駄なことに思えて仕方ないんだよ。
去年下の娘がようやく嫁いで、まあこれからは旦那とあちこち温泉めぐりでもして過ごそうかと思ってた矢先にこんな病気になってしまって、つくづく味気ない人生だったと、そう思うんだよ。でも仕方ないね。人を一人死なせておいて楽しく生きようなんて、虫が良すぎる話だよ。
おばさんはぽつりぽつりと、休みながらもそれだけの話をしてくれた。清呼はもう途中から涙と鼻水が止まらなくなって、おばさんの枕元にあるティッシュを勝手に使いまくっていた。
「周りからは、何一つ苦労もないのに文句ばっかり、イツ子さんはひねくれ者だって言われてきたけどねえ、今になって思い返してみれば、悲しかったのかもしれないね。ずっと、悲しかったのかもしれない」
おばさんは最後にそう呟くと、ゆっくりとした手つきでお茶を飲んだ。清呼はまた一枚ティッシュをとって鼻をかむと、おばさんの痩せた冷たい手にそっと掌を重ねた。
「おばさんちの暮らしが良かったのは、兄さんが守っててくれたからだよ。だからさ、手術もちゃんと成功するし、すぐに元気になってまた村に帰れるよ。そしたら本当にあちこち温泉めぐりして、九州の牧場にも行くといいよ。きっと兄さんのこと知ってる人がいて、話を聞かせてくれるから」
「そんなに元気になるだろうかね」
「なるよ。そのために私は来たんだから」
おばさんは清呼の顔をじっと見た。
「あんたはこっちで、どう過ごしてるんだい?」
「普通に大学生。卒業したら保育士になる」
「そんなに長生きするつもりなのかい?」
「するよ。史上初、長生きする清呼になっちゃうよ。だからおばさんも長生きしようね。今日はいっぱい話をしてくれて疲れたでしょ?ごめんね。もう休んでね。そしたら多分、夢で兄さんに会えたりするからさ、ちょっとぐらいやらしいことしても、誰にもばれないよ」
「あんた相変わらず本当に馬鹿だね」
そう言いながらも、おばさんは少し笑っていた。清呼はベッドを元に戻すと、おばさんの布団をかけ直して、その胸元にそっと顔を伏せた。
今は神様のところにいるもう一人の清呼、私に力を貸してください。
この人の疲れ切った心と身体に、もう一度生きる元気を与えてください。
少し前から降り始めた雨は霧のように街を覆っている。数日来の乾いた寒さは少し和らいでいたが、日が暮れると一気に冷え込む気がする。傘を持っていない龍村は、夕闇の中を速足で歩いた。「レイン」の看板には明かりがついていたが、まだ準備中の札がかかっている。
「こんばんは」
ドアを押すと、カウンターの中では大鳥がグラスを磨いていた。
「いらっしゃい」笑顔で挨拶が返ってくる。
「近くで打ち合わせしてたから、寄ったんだ。ちょっと早いけど、いいかな」そう訊ねると、大鳥は「もちろん。その前に、今年も宜しく、ですか」と笑った。
「あ、こちらこそ、今年もよろしくお願いします」
年が明けてもう十日ばかりたつが、まだ人の言葉の端々に新しい年を寿ぐ気持ちを感じる。龍村は脱いだコートを壁のフックに掛けると腰をおろし、身体を温めようと梅酒のお湯割りを注文した。
「これ、帰省のお土産です。定番すぎるけど」
隣の椅子に置いたバッグから、奈良漬の包みを取り出して大鳥に渡した。
「ありがとうございます。うちの嫁が好きなんですよ。清呼まで連れてもらって、本当にお世話になりました」
「いやまあ、清呼はテンション上がりまくりだったけど、婆さんも喜んでたし、会わせてよかったよ」
クリスマスの夜、高木のおばさんの病室へ向かった清呼は、急いで済ませるという言葉とは裏腹に、一時間近く出てこなかった。何とも不安な気持ちのまま、龍村は廊下で所在なく待っていたが、ようやく出てきた彼女は泣き腫らした目をしていた。驚いて一体どうしたのかと訊ねたが、答える元気もない。
足元がふらついていたので、龍村は彼女を抱えるようにしてロビーへ下り、玄関で客待ちしていたタクシーに乗った。もうすっかり眠っているかと思っていたのに、タクシーのドアが閉まる音に目を少し開き、「私、今夜ここに来てよかった」と言った。
マンションに着くころには、清呼は熟睡していた。コートにセーター、ジーンズを脱がせると、その下は本当にパジャマ姿で、大人しく彼女の言いつけを守り、ベッドに寝かせて布団をかけた。自分は床で眠り、翌日は近所へちょっと買い物に出かけたのを除けば、部屋で仕事をしながら、ずっと彼女を見守った。そうしていると、どうしても気持ちはあの日、彼女の十七歳の誕生日に戻っていった。
車にはねられて意識が戻らず、ただひたすら眠り続ける。そんな清呼を前に、後悔と自責の念に苛まれ続けたあの日。
お願いだから目を覚まして、自分に謝罪させてほしい。それだけを願っていたはずなのに、彼女が大人になって、想いが通じ合い、結ばれた途端に、自分は嫉妬深く身勝手な男になった。一体何が自分をそうさせたのだろう。人は悲しみや苦しみを少しずつ忘れることができる、その力を使って、喜びや感謝まで忘れてしまうのだろうか。
もうこれ以上最低な男になりたくないと、救いを求めるような気持ちで、自分は清呼の生まれた村を訪ねた。そこで彼女を育んだ人や森、空気や水や食べ物、そして思い出に触れた時、彼女には彼女の世界があり、その心にも身体にも、自分は何一つ干渉できないという事をようやく理解できた気がした。
アルバムの中にいた、幼い日の幸せそうな清呼とタケル。逆らいようのない流れの中で、二人はようやく再び手をとりあった。それは清呼が自分のところに身を寄せてきた時のような、行き詰った上での事ではなく、互いの強い意志の力に違いない。
それなのに、彼女が自分のところに戻ってくれた理由は謎のままだ。謝ろうとしていたのは、実はいつかタケルと旅立つ約束をしている、そんな宣言かもしれない。けれどそれでも構わない気がするのだ。
そんな考えにふけりながら見守っていると、清呼は時に寝返りをうったり、赤ん坊のようにうすく目を開いていることもあった。事故の後とは違い、たまに目を覚まして半分眠ったような足取りでトイレにも行ったし、キャップをとったスポーツドリンクのボトルを渡してやると、こぼさずに飲んでまた眠った。そんな様子を見ていると、熊の冬眠はこんな感じだろうかと思えた。
結局、清呼はまる三日を眠って過ごし、四日目の朝にすっきりと目を覚ました。そして日付を確かめると、「龍村さんと初めて会ってから、今日で千と一日だよ」と言った。
「何でそんなこと憶えてんの?」龍村は清呼にそう訊ねた。
「前に、佐野さんがコンサートのチケットをくれたの憶えてる?あの時龍村さんはシェヘラザードの話をしてくれたよね。それで私、帰ってから、千と一日ってどれぐらいか数えてみたんだよ。そして手帳につけておいたの。その時私たち一体どうなってるだろうかって」
「で、どうなってる?」
「まあ、いい感じじゃない?」
「じゃあ、次の千と一日はいつか、またつけておいて、教えて」
カウンターに頬杖をつき、今は期末の試験勉強とレポートに追われている清呼の事を考える。
あの時、記念に何かほしい物ある?と訊ねると、「試験が終わったら言うね」と答えたけれど、今度は一体何が待っているのだろう。それが何であろうと、逃げることはできない。彼女との千日は自分にとって、そんな事の繰り返しだったような気がする。
もしかすると、あと百日ともたずに、何かの拍子で駄目になる二人かもしれない。それでもまあ、一日の終わりにまた明日へと想いをつなぐ、シェヘラザードの甘い囁きを胸に、未来へ期待するのも悪くはないだろう。
「女の子って、なんで記念日とか好きなんだろうね」
龍村がそう呟くと、大鳥はしばらく考えてこう答えた。
「幸せになる方法を、男よりよく知ってるからじゃないですか」
「なるほど」
ふと視線を向けた先の壁には、古びた額がかかっている。たしか隷書というのだったか、横線に特徴のある落ち着いた書体で、漢詩らしきものが書かれていた。
「大鳥さん、あれ、前からあったっけ」
「ええ、店と一緒に先代から引き継いだんです。店の名前がレインだからって、開店祝いにもらったそうですよ」
「へえ、なんか今日初めて目に入った気がする」
その詩はこのように始まっていた。
好雨知時節 当春乃発生
随風潜入夜 潤物細無声
四月、雨の夜にはじまる(二)