アス ~『ハル』から、リプライズ。
除夜の鐘が鳴ったとき、わたしは白い息を吐いて走っていた。人波を掻き分けて、目指していたのは、公衆トイレ。これから新しい一年が始まる、そんな瞬間だ。わたしは。と言うと行列が出来るトイレめがけて、全力疾走していた。
新しい年が始まるカウントダウン、なのに、トイレって。別に、わたしが行きたかったわけじゃない。ハルだ。わたしはハルを探していたのだ。知らないおじさんとかに変な眼で見られながら男子トイレの列を掻き分けてまで、わたしは、一緒に来たはずのハルの姿を求めてさまよっていた。
ハルは同い年のわたしの彼氏だ。この十二月に、わたしより先に十八歳になった。
本当の名前は平春行。わたしが源明日奈で、源氏と平氏。ちっちゃいときから、小、中、高まで同じのわたしの一番の幼馴染みだ。
ハルのことは、五歳のときからよく知っている。一見とっつきにくくて、賢そうには見えるけど、そのくせ不器用で、しかも間が悪い。普通決めなきゃ、って言うときにはいつもこうやって外してたりする。
ハルのばか。
さっきお蕎麦屋さんを出る前に、ちゃんとしとけば良かったのに、
「ああ、大丈夫だよ」
って、余裕だったから、わたしはちょっと心配だった。男子の癖に、ハルはわたしよりトイレが近いのだ。
「もうすぐ新年だね」
お参りをした後、携帯のディスプレイを見ながらわたしが言うと、ハルは何だか落ち着かなそうに足踏みをしている。どうしたの、って訊くと、
「いや、ずっと我慢してて。実はトイレ・・・・行きたくてさ」
「さっき行けばよかったのに」
わたしが言うと、ハルは言いにくそうに、
「あの店、混んでたじゃん。店混んでるとなんか悪い気がして」
小さい方が出来なかったんだ、って。全然、理解できない。せっかくのこの瞬間を、見逃すなんて。
年越しは、徹夜して成田山で迎えよう。そう言ったのは、ハルだった。そもそも成田は地元だし、混むし、わたしはハルの家でいい、そう言ったのに。
「大晦日は二人でいるんだろ。そう決めたじゃん。・・・・・だったら出来るだけ、二人でいれる時間が長い方がいいだろ」
「それはそうだけどさ」
「一日サボっても、二日サボってもおんなじだよ。要は集中力じゃん」
いつもは度胸ないのに、こういうときだけ思いきりがいいのだ。でも、わたしも、ぶつくさ言いながら、大賛成だった。どうせなら大晦日から元旦で思いっきり遊んで二日から集中して勉強した方が断然いい。
「これが終わったらまた公開模試まで別々だし、それまで、寂しいだろ」
春からは、離れ離れになることだし。
「そうだね」
わたしは、微笑んだ。離れ離れになる、そう言ったとき、ハルが本当に寂しそうな表情をしたのがすごく嬉しくって。
小さい時から、ハルとはよくけんかした。それは付き合うことになってからも、普通に何回も。ハルって、口は出ないけど絶対折れないたちで、わたしが何を言っても黙々とマイペースに自分の世界を生きることに専念出来たりして。
「だから本当は一人で生きた方がいいのかも知れない」
頭良さそうなふりして、そんなつまんない強がりを言うから。
「ハルはさ、明日奈がいなくなったら寂しくならない?」
わたしが訊ねると、
「どうかな」
って、また強がる。
「いなくなるって言ったって、死んじゃうわけじゃないだろ。今だって会えないときでもつながる方法はあるじゃんか」
メールとか、スカイプで、連絡とれるから別に会えなくていいって?
じゃあ、本当にいなくなっちゃおうかな。
順調にいけばわたしは春から、海洋環境学の専攻がある沖縄の大学に入学する。東京の大学に進学する予定のハルとは四月には、離れ離れだ。
もちろん、そんなことで今の進路を決めたわけじゃないけど。
沖縄の大学に進学するのを決めたとき、本当に反対してくれたのは、ハルだ。そして、一番、味方してくれたのも。少なくともわたしは、そう思っている。
「沖縄へ行って、ウミウシの研究がしたいなんて」
正気なのか。進路を決めたとき、お母さんには、大分言われた。
「女の子だってちゃんと働かなくちゃ。いくら好きな学科だからって、そんな勉強しても無意味じゃない。女の子もただ遊んでればいいって時代じゃないのよ」
分かってる。そんなこと、分かってるって。お父さんも苦笑いだった。
「アスにも困ったもんだな」
でも、わたしがそんな道を選んだのは、たぶん、お父さんの影響だ。
お父さんだって、趣味が高じて会社員をやっていられなくなった人で、そもそも大学出てからサラリーマンなんて三年しかしていない。わたしは、脱サラしてダイビングショップを経営するようなお父さんの娘なのだ。まだ、大学に行って好きな勉強をしたいって言うだけでも、まともな方だって。
お父さんのお陰でわたしは、小さい頃から何度も沖縄の海を訪れていた。まだ小学生低学年のとき、お父さんに連れられて潜った慶留間島のサンゴ礁でいっぱいのビーチで、色とりどりのウミウシの姿をみてわたしはその虜になってしまったのだから。
身体の芯の血の一滴まで、透き通っていくみたいなアクアブルーの沖縄の海で。
ゆらゆらと、たゆたっているウミウシ。
その姿には制限がなく、形や色も限りなく自由だ。
オレンジやコーラのグミみたいな美味しそうなのもいれば。
半透明に澄んだ身体に、スカイブルーやショッキングピンク、メローイエローのぴかぴかのラメや、ひらひらレースをまとっているものもいたり。
ウミウシって、厳密な定義を持たない生き物なんだって。貝殻を持たない貝類と言えばそれまでだけど、わたしたちが知っているホタテやアサリみたいな貝類とは全然違う。新種も発見され続けているし、その生態もまだまだ謎だ。
これで興味を惹かれないわけがない。
「馬鹿だな、明日奈はさ」
と、ハルはわたしに言った。
「普通にOLやってたって、スキューバなんて趣味で出来るのに。海洋研究所って言ったって早々欠員が出来るわけじゃないし、チュウギョの学って、一番食べられない学問なんだぞ」
「覚悟してるって」
希望の場所で働けるようになるまで、沖縄でがんばるつもりなのは、両親にも話して納得してもらっている。ぶつくさ言ってたけど、お父さんたちと話すきっかけを作ってくれたのは、やっぱりハルだったのだ。
ああ、もう新年になっちゃう。人でいっぱいの境内は物凄いどよめきだ。ひとり、そのテンションに乗りきれない中途半端な気持ちのまま、わたしはまごついていた。
「ああっ、どうしよ!」
何回も電話してるのに、どうしてか繋がらないし。ハルのばか。せっかく二人で来たのに、わたし、新年ひとりぼっちじゃんか。もう! 大きな声で不満を叫ぼうとしたら。
ぼん、とふっ飛ばされそうな勢いで肩を叩かれた。
「なにやってるんだよ、アス!」
顔を真っ赤にして、ハルが白い息を吐いていた。
「ハル! ばか、どこに行ってたの! ずっと探してたんだよ!」
「こっちだって、お前のことずっと探してたっての!」
「もうっ」
文句を言い返そうとしたわたしの目の前に出されたのは、プラスチックの透明なケースに包まれた、タイ風焼きそばの包みだった。
「え? どうして、これ―――」
「さっきお前食べたいって言ってたろ。カウントダウンでタイ料理の屋台の前空きそうだったから買ってきたんだよ」
「あっ」
憶えててくれたんだ。まさか。そんな、ちょっと食べたいってこぼしただけだったのに。
「ハルのばか。そんな、遠くまで戻らなくたってよかったのに」
「お前が未練がましく、ぶつぶつ言ってたから、気になってしょうがなかったっての。ほら」
ありがとう。ただの焼きそばなのに、受け取った瞬間、ちょっと涙が出そうになった。
携帯やスカイプで話せるから、別に会えなくてもいい?
そんなこと、全然ない。わたしは、ハルに会いたい。もっと、こうやって話していたい。何度でも直接、ハルのことを感じたい。ハル、ハル、っていつまでも呼んでいたい。新しく始まりそうな、この年もずっと。こうやって。
次の瞬間、大きなどよめきの波が、わたしたちを包んだ。
あ、もう、年が変わったんだ。
新しい年のスタートだ。
「ああっ、もう日付変わってるじゃん!」
ハルが悲鳴を上げていた。さっき年が変わる瞬間になったら、二人でなにか特別なことをしよう、なんてくだらないことを二人で話していたのだ。それが何も出来なかったり。
もう、本当に間が悪いな。
わたしは黙って、ハルに飛びつくと、女の子みたいな小さな唇に思いっきりキスをした。
わたしの全体重を受けてハルはちょっとよろめいたし、せっかく買ってきた焼きそばはこぼれそうになったけど、全然構わなかった。だって今年初めて、わたしはハルを感じることが出来たんだから。
ハルはびっくりして、息が止まりそうになっていた。
わたしは、と言うと、本気でキスしたら今度は笑いが止まらなくなってしまった。
わたしたちは今年も相変わらずなのだ。
ハル、愛してるよ。
帰ったら、もっとちゃんと言わなくちゃ。
アス ~『ハル』から、リプライズ。
これで20作目です。甘酸っぱい受験生のカップルをテーマに描き始めた二人ですが、いつもどおり女の子視点も必要だなと思って連動した続編にしてみました。文体も書いてる方も、こころなしかこっちのがテンション高めです。二編合わせて、ご愛読頂けたらとてもうれしいです。