本能寺暮夜~信長、末期の一膳。

そのときさやさやと湧き起こった風が、信長の寝汗で濡れた頬を、優しく吹きわたった。
 ―――野の匂いがする。
 この風は。川を渡る、野の風だ。目を閉じたまま、信長はうず高い鼻梁をひくつかせた。
ついで鼻をついたのは、むっ、と、する草いきれ。青い香の強い、生命力あふれる匂い。夏が近づく気配がする。川を望む夏の野の匂いだ。うつつに、信長はつぶやいた。
 「―――こは」
 津島の匂いだわ。信長はゆっくりとその、薄く削いだような鋭い瞳を開いた。間違いない。そこから望めるのは確かに、あの懐かしい、津島の港だ。なんとそこから、木曾川の巨大な船寄せに錨を下ろす巻わら船の群れをみることが出来た。
そうだ。ここも憶えのある場所なのだ。信長は辺りを見回した。
 この草むらに続く道を降りた辺りに、野生の枇杷(びわ)がたわわに実る林があるはずだった。淡い橙色に色づいた可憐な果実を信長は思い浮かべた。少年の折、この港のみえる丘に来る時、荒縄で腰に提げた袋に夏にはこの枇杷の実をいっぱいに詰め込んだものだ。そう言えば自分にはこんな風に、自分だけの場所がいくつもあった。
 信長は独り、表情を綻ばせた。そうか、これは夢だ。ようやく理解した。津島は自分の領土とは言え、若い頃以来、訪れなくなって久しい。そんな場所に自分がいるわけもなく、また、思い出す(いとま)もなかった。だからこれはただの夢なのだ。
 (痴けめ)
 信長は自分らしい理詰めの説得でおのれを納得させてみてから、苦笑した。無理に考えることもない。夢は夢なのだ。ただ楽しめばいい。誰も邪魔をしはしない。
 感慨に浸ると信長は、しばし無言でその場に立ち尽くした。
 思えばこの風景からひどく、遠くまできたものだ。
 真昼の陽射しに煌めく川面は、天王祭りの準備がさかんだ。津島の宵祭りは夏の一大イベントだった。七月の末、四百の提灯を灯した祭礼は夜通し開催される。今も変わるまい。十代の頃など、若党を引き連れて朝まで騒いだものだ。
(おのれも、もはや四十九か)
 父の年齢を越えて久しいと思ったが、なんと五十に達しようと言うのだ。人生五十年か。正直、これほど永らえようとは、まさか思っていなかった。
 ――――死のうは、一定、か。
 心の中で、信長はつぶやいた。それは、
 語り草にはなにをしょぞ
 と、続く。
 信長が若いころ、好きだった今様(いまよう)(現在で言うポップス)だ。古くは平安の昔から無数に生まれ、泡沫のように現れては消えていく戯れ歌のひとつだ。ちなみに現代には、いくつかの歌詞が残るきりで、節(メロディー)も歌い方も残されてはいない。
 死ぬことは、もう決まったこと。死するとき、あの世での語り草に何をしようか。
 そんな戯れ唄の通り、ずっと十代から。
 織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)と言う男は、そうやって世を生きてきた。いつでも全力だった。なりふりなど構ってはいられなかった。自分の来し方を思い返しながら、信長は大きく息をつく。ここから今の場所まで。長い道のりだ。無数のものを置いてきた。葬った命など数知れなかった。
 だが、別に後悔はしていない。
 棄ててしまったもの以上、手に入らなかったもの以上に巨大なものを彼は奪い取った。その自負があった。確かにいなくなってしまったもの、とりわけ自分が自ら命を奪ったもののことは思い出すが、それもおのれのうちにわだかまる野望の火の強さに比べれば、なにと言うこともなかった。
 だが、そうなってもなにより我慢できないのは、と、信長は唇をかみ締める。
 ここまで来ても、おのれの中の火が鎮まっていかないことだ。
 まだまだなのだ。なすべきことは人生五十年には収まりきらない。この木曾川を眺めながら、みた夢すら果たしきれてはいなかった。我ながら業深いこと、と、信長は自嘲気味におのれを振り返ることがある。だが、それは身についた(さが)で、自分自身にもどうにも出来そうにないことなのだ。そのためならいまだに何を犠牲としても、後悔はしない。
 近からず遠からず、必ず。そう人生五十年のうちにおのれが滅すると悟れば、そのことはなんでもないことなのだ。
感傷に浸ることなど、おろかだ。感傷に浸る暇など、今まだないのだ。あらぬ思い出にうつつをぬかしている暇などない。信長は感傷を振り切ろうとした。すると、
 「三郎様」
 女の声がした。強固な夢想を急に断ち切られ、信長は、はっ、として背後を振り返った。もしそこに、見知らぬ者がいたなら物も言わず殴りつけたかも知れない。油断は彼がもっともおのれに戒め、嫌ってきたことだ。しかし彼には、それが出来なかった。
 そこに立っていたのは辻が花染めの小袖を着た若い娘だったからだ。
 「お前は」
 信長は思わず、癇癖に青筋を立てた眉間を驚愕に強張らせた。言うまでもなくその娘は、ただの娘ではなかったからだ。
 「久しく」
 娘はしずしずと、頭を下げた。
 「お忘れで、ござりまするか。生駒の(るい)にござります」
 信長にしては珍しくやや、沈黙があった。ひと呼吸して、
 「知っておるだわ」
 動揺を押し隠したように強い声音で言うと、信長は顔をかすかに背けた。
 「今さらなぜ、名乗るか」
 短くきれぎれの信長の言葉が懐かしかったか類はうれしそうに微笑むと、
 「お殿さまは、お変わりありませぬね。その言い(よう)、ほんにかなしゅう(いとおしい)ございます」
 「で、あるか」
 それも、と言うように信長を指差すと、今度は、類は声を立てて笑った。
 「うつけめ。なぜ、笑う」
 「それもまた、よう申されましたゆえ。類に、なぜ、なぜ、なぜ、と」
 「阿呆」
 信長は苦笑まじりに大声を出し、類の身体を抱き寄せる。
 「よう来た」
 信長の胸板に頬をこすりつけてから、目に涙を浮かべて類は言った。
 「来たは、三郎様ではござりませぬか。あなたは今、尾張におりませぬもの」
 信長はおとがいを上げ、少し、考えた。
 「いかさま、類の申す通りだわ。そなたの前へ来たは、我か。うかと忘れておったわ」
 類を抱いたまま、信長は晴れ渡った空の果てを望んだ。
 「お前と津島の津が、いかい(とても)、ゆかしい(懐かしい)でや」
 「三郎様のお口から、かような言葉を聞くとは」
 娘のとき類はいつもこうして、ころころと笑った。そんなところも、実にあの頃のままだ。自分でも気づかないうちに信長は表情を緩めていた。

 類に手を引かれ、そのままに信長は港の見える丘を降りた。すると、これも懐かしい枇杷の実る林が見え、坂の麓に即席の庵が編まれているのがみえた。
 「お腹は減りましたか」
 無言で、信長は肯く。この当時、都の貴族たちを除けば昼食は摂らないのが習慣だが、信長は気にしない。そして、不思議と腹が減ってもいた。だから迷わず肯いてみせた。
 「変わらず、三郎様は健啖でございますね」
 ともに歩みながら潤んだ瞳で、類は何度も信長を振り返ってきた。日焼けして筋の締まった信長の手を握る類の手は、ほんのまだ娘の手だ。軽く絡められた類の指の、ほどよく冷たい感触がどこか心地よかった。
 中では二人の老いた小間使いが、中食(ちゅうじき)(昼食のこと)の膳を仕立てている。この老人たちにも見覚えがあった。すべて古い生駒家のものたちだ。この類と同様、もはや死んでこの世にはいない。
 簡素な板の間に、畳が一枚引かれ、座が調(ととのえ)えられていた。庭からは小さな川を挟んで、たわわに実る枇杷の林が見えた。ひなびた田舎家、といった風情だ。類に導かれるまま、信長は、そこに腰を落ち着ける。
 「今すぐにしつらえまする」
 「あわてるな。いくらも待つわ」
 ごく自然な呼吸でふわりと、類は信長の膝もとに座る。そうしてまるで吸い付くように、信長の胸に寄り添った。信長はおのれがもはや油断したことすら忘れていた。次の瞬間には、類の膝に手を添えて大きく息をついていた。
 「ほんにこのお膝元が、ゆかしゅうございました」
 (そんな女でや)
 生駒の家は、代々馬借を営む家柄で、もとは大和(奈良県)の出なのだと聞いた。信長が、出入りしていたのは本当に若い頃だ。
 「都のさまはいかがでござりまするか」
 と、類は訊ねてきた。信長は片頬を歪め鼻を鳴らすと、強い尾張訛りの地言葉で言った。
 「なにほどのこともにゃあで。人も街も味気にゃあもんばかりだでや」
 類は京をみずに死んだのだった。あれは、と、信長は思い返した。確か永禄九年の五月だ。信長自身もまだ、京都に軍勢を上らせてはいなかった。
 「奇妙(長男)は息災に」
 「ああ、せがれめにはとっくに家督を譲った。名乗りは信忠(のぶただ)としてな。まだ、あやういが、あやつも中々に豪の者だで」
 信忠は信長の長男で、類との間に生まれた初の男子だった。奇妙の幼名は、赤子の顔を見て信長が変な顔をしている、と笑ったためだ。
 「信濃の陣では、我が諌めるも聞かず、剣を抜いて武田のつわものどもの中に斬り込んだそうだわ。まったく困った奴輩(やつばら)よ」
 「若き頃の三郎様のよう」
 と、類は語りだしたのは稲生原(いのうはら)でのいくさのことだ。二十代の信長はこのいくさで、五尺七寸(約一七一センチ)の大太刀を振り回して似たことをした。
 「わしには事情があったでや。あの折はああせねば」
 織田家を守れなかった。だが、信忠は違う。あの息子は、若くして日本最大の版図を持つ織田の跡取りなのだ。
 「あやつめにはもう子がおってな。我らが、初孫だわ。それがあやつ、大将たるもの、雑人輩(ぞうにんばら)のごと、見苦しき斬り合いをするなと言っても聞かんのだ。ふいの流れ弾に当たればなんとなすでや」
 「いかさま、三郎様も人の親におなりですね」
 おかしそうに、類は笑った。
 「違うでや。大将たるもののありようを申しておるのだわ」
 「でも、そこが頼もしゅうて類はうれしゅうございます」
 「笑い事ではにゃあわ」
 しかし、だ。初めての嫡男が生きぬくことの難しい時代に、よく育ったものだ、と、信長ですら思う。実際、趣味の(つづみ)に狂って信長に叱られた信忠が、諸将に聞こえるほどに武勇を鳴らしたのが誇らしくもあるのだ。
 「右大臣公。お支度のほど、すみましてございます」
 と、うやうやしく下男が頭をさげ、膳部を持ってくる。
 そこにしつらえられたのは、たったの二品だった。
 「これは」
 信長は目を剥いた。
 「なんと、驚かされるわ。よう、しつられてくれた」
 信長が感動したのは、理由がある。
 それは津島時代によく口にしたもので仕立てられていたからだ。
 一品目は、(きじ)の塩焼きだった。
 放鷹(ほうよう)に出た信長は、しばしば雉や鶴を獲ってきた。
 これらを、よく汁物や焼き物に(りょう)ってもらったものだった。
 二品目は湯漬けだが、これも少し趣向を凝らしている。
吸地(すいじ)(スープ)に薄くとった出汁(だし)を張り、そこに香ばしく揚げた握り飯が漬かっている。飯には雉肉の細切れや菜がまぶしてあり、色濃い(ひしお)(味噌としょう油の中間)で塗り固めて、油で揚げられていた。
 信長はことのほか湯漬けを好んだようだが、それは戦陣食として食べなれていたせいだろう。いくさ場では水を少なめに炊いて乾かした飯を椀に入れ、湯で戻して食べる。だがこの湯漬けはこうしたものと、まったく異なっていた。
 「さても、心づくしの馳走だでや」
 瞳を輝かせ、いそいそと信長は箸をとった。
 「右大臣公にならせられました信長公にお出しするに、気恥ずかしい品ばかりにて」
 「謙遜を申すな。これが何より美味いわ。都ぶりの膳は味気にゃあていかんで」
 信長は京風の料理人を殺害しようとしたことがある。彼らが用意した料理が公家向けで、味が薄いためだった。
 「かようなものこそ、我が食したかったものでや」
 と、信長は喜んだ。そう言えば前夜も、京の公家衆に付き合って食事の膳を囲んだのだが、なんでもほどほどの京好みにうんざりしかけていたところだ。さすがに味の方は、信長が吟味した料理人に京風を工夫してもらっているが、やはり口にしなれた、味も脂も濃いこの料理の方がしっくり馴染んだ。
 酒も出た。信長は下戸だったが、ときに酒は口にした。酔いの、意識の濁った感覚が好きではないだけである。
 「三郎様は右大臣にまでおなりですか」
 と、瓶子の酒を注ぎながら、類が訊いた。
 「官位など、公家衆のでっちあげた幻だで。銭を積めばいくらも手に入る」
 欲しいものは別にある。朝廷の権力それ自体だ。
 信長はそのために、自分の息が掛かった誠仁親王を皇位につけるべく、明智光秀らを暗躍させていた。
 「右府などと。足がかりにすぎんでや。まだ、あの入道相国(にゅうどうしょうこく)(太政大臣、平清盛のこと)にも並んでおらぬ」
 かつて、平清盛は安徳天皇の外祖父として、宮廷を牛耳ろうと武士で初めて、太政大臣に任ぜられた。信長はその上を行きたいと望んでいるのだ。
 「類は心細うございます。あの、三郎様はどこまでお行きやるのか」
 類は言うと、物憂そうに目を伏せた。
 「いづくにも行くだわ。行けぬ場所など、今になくなろう。あの世の果て、おみゃあのおるところにもいずれ、手を届かせてやるだわ。まるでバテレンの言う、天主(でうす)のごとにのう」
 細い類の腰を引き寄せ、楽しげに信長は杯を重ね続けた。

 肉厚で皮身に脂がたっぷりと乗った雉肉の焼き物も、だし汁がほどよくつかった揚げ御握りも信長の腹に沁みた。それだけでも満ち足りた気分になったのだが、類が言うには、奥に床まで用意してあるという。
 まだうら若い、類の身体を信長は抱いた。
 類は今の信長の奥に控える、どの女性とも違っていた。まず匂いが違う。
 類の着物や髪は野花の匂いがして、皮膚の色うすい肌は穏やかなひなたの匂いがした。
 身体に香を焚き染める女にはない、生のままの女の匂いだ。
 中に押し入ったときの感覚は、ことに格別だった。そこは海に洗われた砂浜の土を掘り返して沸かしたような、じんわりとした体温で信長を包み込んでくる。動かすと、突きいるたび、そのうねりは強い弾力を伝えて、強靭な信長の身体すら波打たせた。
 「類」
 信長は類の身体をまさぐった。中の熱さに比して、その手や裸の尻は冷たい。
 「かようにうぬをかなしゅう(いとおしい)想うたは初めてだでや」
 「もう」
 初めてなどと。大きく息をついた類の目いっぱいに涙があふれ、そこに暖かい吐息の香が立つ。
 「まさか、類をお忘れだったのではありませぬか」
 いたずらっぽく微笑むと、類は細い身体をくねらせた。顔に似ず、意外に奔放なところがある。今の場合がちょうどそれだった。
 「忘れるものかや」
 だがもう、思い出せないと思ったほど。
 それは、はるか昔に感じた。
 懐かしい感覚。
 (かってもこやつにそう申したな)
 忘れるものか。
 お前を。もう二度と、決して。
 そう、類に言ったのは、彼女が亡くなる一年前のことだ。

 「小牧に移れ」
 唐突に信長が命じたのは、永禄八年のことだ。類が娘(徳姫)を懐妊したとのことで、小牧山の御殿に彼女を移そうと、信長は考えたのだ。
 しかし、信長の命に反して、類は生駒屋敷を離れようとしなかった。信長は首をかしげた。その意図を理解できずにいると、生駒から使者が来て、信長に面会したがった。
 現れたのは、類の兄の八右衛門だった。
 「妹は病が篤くなりもうして」
 徳姫を産んでから、類は産後の肥立ちが悪く、病を得ていたのだ。そして、それがどうにもよくならず、今、もはや御殿に上る体力も覚束ないのだと言う。信長は愕然とした。
 「なぜこれまで知らせぬでや」
 「お知らせは、しましてございます。妹が手ずから筆を執って、何度も病状を」
 しかし、手紙は届かなかった。信長が戦地を転々としていたせいもあったが、ふと考えてみると、それはこの小牧山城下で握りつぶされていたのかもしれなかった。心当たりがあった。美濃から迎えた正室の帰蝶(きちょう)が、信長と類との仲を疑っていた。
 帰蝶との間は完全な政略結婚である。類とは帰蝶の輿入れ以前からの仲だったのだが、長年その関係を帰蝶には隠していた。彼女の実父、斎藤道三の手前もあり、身分違いの娘を堂々と奥に迎え入れるのは、さすがの信長にも憚られた。
 もとをたどれば帰蝶は、信長の実母、土田御前(どたごぜん)の係累だ。同属嫌悪と言うのか、気位が高く神経質そうな形質を受け継いだ帰蝶を、信長はあまり好きになれなかった。
 帰蝶が自分の褥に、信長がそれとなく足を遠のかせている理由をここに結びつけて考えたなら、実家の国力を使い、どのような応報をしてくるとも限らなかった。
 だが信長の躊躇も、死に瀕した類のことを思うと一気に吹き飛んだ。
 「輿を出すでや」
 敢然と、信長は命じた。自分はようやく尾張を統一し、国主になれたのだ。これくらいの自儘が通らずして、他に何が出来るか。このときだけはいつもの冷徹な利害計算を忘れ、信長は我を通した。
 どうにか輿につかまり、類が病にやつれた姿を小牧山城に現わしたのはそれからほどなくのことだった。
 病み衰えたその姿を見て、家臣の手前、顔には出さなかったが、信長は心を痛めた。
 「約定するだわ。おみゃあを二度と忘れぬでや」
 類は弱々しく肯き、それでも嬉しそうに微笑んでみせた。
 正室を差し置き、そんな類を奥へ迎える。
 帰蝶との仲はこれで決定的となるだろう。だが、構わなかった。
 信長は類を目通りさせ、家臣の前ではっきりと宣言した。
 「これが嫡男、奇妙の母でや」
 世継を産むことを公言したことは、事実上の正室とすることを宣言したに近い。信長としては、今、類に対して出来る最大限の愛情表現をしたつもりだった。
 しかし、彼女が望んでいたのは本当は別のことだったかも知れない。周囲の反対を圧して類の身柄を正式に迎えたものの、信長にはずっと、その疑念が付きまとった。

 「三郎様。どうか、なされましたか」
 若く初々しいままの類がふと、信長の下で言った。歌をくちずさむような口調だった。少女に近い類はいたずらっぽく微笑むと弾むように腰をくねらせてみせる。そこに甘く抗いがたい痺れを感じ、信長は思わず唇を噛む。
 「いや、なんでもにゃあわ」
 反撃するように腰を強く打ちこんで、信長は片頬を歪める。
 「ああっ、また」
 悲鳴を上げるように言った類は身体を震わせた。
 「類は、類はもう」
 青白い血管の浮いた鎖骨から乳房にかけて健康的な汗の玉をびっしりと浮かばせた類は嗚咽を堪えて、信長にしがみつく。すでに何度も小刻みな絶頂の波が彼女を翻弄していた。類の身体はゆで上げた(えび)のように紅く色づいている。凶暴な信長の肩に噛みつき、そこに血が出るほど強く歯を立てる。

 生きている類を最期に見たとき、そこには静かな雨の記憶が付きまとった。信長と言う男に、何かが起こるとき、それは常に激しい雨の記憶が付きまとう。その日も確か外出が憚られるような豪雨の一日で、美濃の戦線から帰国した信長は、ここ数日、状態がいいという類に会うことが出来たのだった。
 病が直接、命の骨身を蝕むまでに至った類をみて、信長は直感的にその死が近いことを悟った。
 戦場を往来し、血なまぐさい命を浴びてふてぶてしく生き抜く自分に比べると、今の類はどうだ。
 きれぎれに言葉を返す類の細い手をとり、信長は思いを噛みしめた。
 野にたくましく息づく野蒜(のびる)のように、健全な反発力を持った類の身体はもはや永久に喪われてしまった。こけた頬には年齢不相応なくまが浮き、弱々しくわななく唇には、もはや果実のような張りはなくなった。
 近々の上洛を控え、長年夢見てきた美濃を獲ろうとする信長だったが、そんな類を前にするとおのれの野望を滔々と語ろうとする気力も失われてしまうほどだった。
 信長の危惧していた日はやがてやってきた。それも、冷たい梅雨の雨が斜めに降りしきる旧暦五月の半ばだった。陣中にいた信長は、部下の注進半ばにその報告を訊いた。残虐な命令の成果を首を傾けて少し不機嫌そうに訊くその表情のまま、信長は類の死になんの感慨も漏らしはしなかった。
 そのようなものは、もはや生きている何者にも聞かせるものではなかった。ただ口の中で小さくうめき、信長は物憂げに幔幕の向こうの曇り空を仰いだ。
 じっとりと重たい雲をよどませた空は、どこにも出口がないように信長にはみえた。

 強く跳ね返してくる類の若くたくましい生命力をむさぼった後、信長はあのさやさや降る五月の雨の気配を聞いたような気がした。
激しく精を放った男のものに懐紙を軽くあて、いとおしげに拭っている類をみていると、ふいに強い憐憫の情が波を打って胸にこみ上げてきた。
 あのとき。
 言うべきだった言葉は、それとは違うはずだった。類のその手に与えてやる何かは、信長が持っている別のもののはずだった。でもそれを形に出して取り出すことが今も出来そうにない自分が、どうにももどかしかった。
 「類よ」
 「あっ」
 汗で濡れた類の身体を信長は、無言で抱きしめた。
 「さぶろうさま」
 男の体液で濡れた懐紙の塊がその掌から落ち、類は小さく呻いた。
 ふいの強すぎる信長の抱擁に、類は驚いたようだった。
 でも、やがて、大丈夫だと言うように微笑んだ。類はここにおりまする。と、そう信長を安心させようとするように。
でも、違うのだ。
 類よ。
 そのあとの言葉が出なかった。死してなお、彼女に与えてやるべきだった言葉は違う。どの言葉も違う。信長は思った。
すまなかった、でも、愛していた、でもない。
 ただ、こうすることでしか表現できそうになかった。生きていた時のまま。慈愛の表情をみせて静かに微笑む類に、信長はこうして応えることしか出来なかった。いったい、どうやってこの思いを伝えることが出来るものかと言うように。

 類はその手をとり、信長は庵を出て別れの道を歩んでいる。夢の終わりを暗示するようにいつのまに浅茅が原のけもの道に、濃い霧がたちこめていた。
 二人は無言だった。名残の惜しさはわだかまっていたが、もう、すべきことはすべてすんでいるようにも思える。
 やがて道が絶え、その先が断崖のように抜け、乳白色の靄になる。
 「このまま、お帰りになされませ」
 「ああ」
 と、信長は、うめくように言った。まだ、言葉の続きを探して思いを巡らせていた。
 「まさかの、この上なき夢よ。かような晩におみゃあに会えるとは」
 信長はもう一度、類の身体を抱き、露で少し濡れたその髪を撫でた。
 「さらばだ」
 「もう、行かれまするか」
 信長は瞳を細め、表情を緩めた。
 「我もいつか、おみゃあのところに行くでや。そのときまでに、語り草によき土産話を期待せい」
 返事はなかった。はい、とも肯くことも、類はしなかった。ただ寂しそうに、微笑みはそこに影を落としていた。秋の日向の名残のように。すれ違ったときのまま。まだ、そこに置き去りにしてしまったときのまま。
 この女もまた、なにか言うべき言葉を呑みこんだのだと、信長は思った。
 それからひとり、信長は霧の道を歩んだ。大きくため息をつき、身に落ちた感慨と温かな感触の惜別を振り払おうとした。

 「上様」
 その声に薄く目を開けると、すでに夜が明けていた。戸障子の向こうに朝の気配がたゆたっている。
 「目をお覚ましくださりませ」
 「やかましいわ」
 穏やかな目覚めに、信長は今少し浸っていたかったと言うように、声を荒げた。
 「入れ」
 額に癇癖の性を示す血管が浮かんでいる。戸を開けたのが、寵愛の森乱法師(蘭丸)でなければ、刃物を持ち出したところだった。
 「この朝方に騒々しいわ」
 「申し訳ござりませぬ」
 と、蘭丸は襖を引き開け、そこに叩頭した。
 「ご無礼の段はご容赦。何分、大事出来にござりまするゆえ」
 「申せ」
 寝巻きの信長は立ちはだかり、蘭丸の言葉を待った。どうも、屋敷うちの空気が騒がしい。その緊迫した雰囲気を感じ取るまでもなく、この早朝に蘭丸が襷掛けをし、太刀を引き寄せているのが信長の目にも奇異に思えた。
 「朝から若党どもの諍いではあるみゃあな」
 「喧嘩などと瑣末な事態でなく。ご謀反でござりまする」
 声を上擦らせながら、蘭丸は訴えた。信長は切れ長の目を剥いた。
 「仔細申せ」
 「つ、つい今しがた、この四条西洞院本能寺、寄せ手に囲まれてござりまする」
 「なに」
 信長は眉をひそめ、辺りの気配に神経を研ぎ澄ませた。
 「この蘭丸みるに、軍勢、雲霞のごとく。もはや退き口は容易にあたわぬものと」
 信長は無言で寝間を飛び出すと、御台から外をうかがった。まさか自分としたことが。油断した。そう思ったときには、遅いと肝に銘じ続けてきたのに。
 信長は目を見張った。
 そこはすでにびっしりと、黒光りする甲冑に身を固めた軍勢に包囲されていた。
 「何者かっ」
 紫地に、はためく旗は、桔梗紋。
 「惟任(これとう)めか」
 うなるように叫ぶと、信長は背後を振り返った。
 「明智惟任日向守光秀様、ご謀反にござりまするっ」
 いくさ支度の小姓があわてて、信長に追いすがって叫ぶ。
 「上様ご下知をっ」
 「うろたえるなっ」
 「上様、これを。いくさ支度万端、すでにしつらえてござりまする」
 蘭丸は信長愛用の滋藤弓を用意させている。すでに弦の張られたそれを信長は奪い取るように取った。
 「女子供はあたう限り逃せ。組討ちなせるものは打ち物とって我と支えるでや」
 「委細、承知してござりまする」
 小姓たちは太刀を佩きつつ、右往左往に奔った。外に構える寄せ手が明智勢ならば、武器弾薬、ふんだんに打ち揃えているはずだった。その数は一万五千余、本能寺にいる七十余名でどう防いでよいか、見当もつかない。
 「ふん、あやつめがこれを言わずに残したかや」
 ふと思いつき、信長はつぶやいた。類は。まるで信長がそのときに言わずに残したのを見透かしたかのように、あの夢で、そのことを告げなかったのだろう。近く、信長が自分のもとに戻ってくることを察して。
 「う、上様いかがなされましたか」
 夢を知らぬ蘭丸はあっけにとられ、怪訝そうな顔をしている。
 「おかしゅうてな」
 それに気づいたかのように信長は、うそぶいてみせた。
 「いかさま、語り草にはほどよき死にざまだわ」
 「なっ、なにを申しますか。死にざまなどと」
 「はは」
 信長はおかしかった。ずっと、考えていた。
 もし、また類に会えたら、自分はなんと言うだろうか。そのときは、言葉に出来なかった感情になんと名づけて言い表せるだろうか。それを思うと、死ぬのも別に悪くなかった。
 「肚、決めい」
 信長は言った。恐らく蘭丸以外の誰かが、これを聞いて後世に記録した。
 「この上は、ぜひもなし」

本能寺暮夜~信長、末期の一膳。

あけましておめでとうございます☆ ということで、今回は信長が最期に口にするなら、というテーマから描かせて頂きました。言うまでもなくフィクションです。そして、本作に登場する生駒類さん。信長最愛の女性と言う説もあり(どうも最近の研究では帰蝶=濃姫さんは、信長と仲悪く本能寺のときも寄り添わず、安土城にいたそうですね)信長の嫡子のほとんどは彼女が産んだそうで。年上説が一般的ですがここでは、年下キャラを想定して描かせて頂きました。イメージと違った、と言う方はごめんなさい。
というわけで(まとまってないな)、今年もこんな感じで相変わらずぽろぽろ描かせて頂きます。橋本ちかげ作品をよろしくお願いします(._.)

本能寺暮夜~信長、末期の一膳。

新年おめでとうございます。2013年一作目は信長ごはん! ということで、本能寺前夜そのひととき、信長が愛した女性と食した最後の一膳をテーマに描きました。もしよろしければ、今年もよろしくお付き合いください☆

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更新日
登録日
2013-01-06

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