ここにTELして


 長かった真夏の果て、わたしたちは間違った。その日のもえちゃんちの夕食のメニューは、給食と丸かぶりの、クリームシチューとパン。わたしたちは五時のチャイムを過ぎ、お腹を空かせていた。ねこだけがごはんを食べてた。夏の風のことを考えて、目をつむると、心地よいような感じがして、それからもう二度と、もえちゃんは、この世界に目を覚まさない。
 そもそももえちゃんの家は、いかにも、刑事ドラマに出てくる犯人の家っぽく、なにが起きたって不思議ではなかった、とわたしは思う。昼間なのに青色に翳ってしずみこんでいた。お兄ちゃんが急に家を出ていったからさみしい、ともえちゃんは電話越しにほんとうにさみしそうに言い、わたしはそれを聞いた。聞いたからには、わたしは、二、三度外観を眺めたことがあるだけの水色のアパートへ、夏休みなのに、自転車を走らせていかなければならなかった。もえちゃんはそういう魔法を持っていて、魔法にかかって、妙なステップででも踊って踊って踊りまくることをわたしは、好んでいたように思う。むずかしいことはわからない。彼女がとてもすきだった。彼女のためにかかとから擦り切れてゆく靴が、わたしのどうしようもない誇り、それとロマンス。彼女がとてもすきでした。
 もえちゃんは四時過ぎなのにもう夕食を終えたらしい。二人分の食器がシンクのそばでかがやき、その思い出の残りかすがもえちゃんをひたすらさみしくさせ、体育座りの姿勢でまるくなるあの天使を生み出した。わたしは自分の髪をまとめていたリボンをほどいて、もえちゃんの長い髪をふたつにむすんであげてから、やわらかな髪にふれる喜びを巧妙に隠しながら、さみしくないよと言ってみた。口先にふれたとたん意味を失う、ばかっぽい慰めだった。お兄ちゃんがいなくても、さみしくはないよ。だいたいあなたの兄は、髪の毛も伸びっぱなしで髭もだし愛想もわるくて、リボン結びもろくにできなくて、ときどき泣きそうな顔で帰ってくるばっかりだったじゃない。それを嫌そうに教えてくれたのはあなただったし。今いなくっても、これからも、なんにも変わらないことだよ。もえちゃんは髪の毛をしきりにさわりながら、そうかなあ、おにいちゃん、とつぶやいた。それから、お兄ちゃんからの言いつけがある、と、もえちゃんはノートの切れ端みたいなメモを取り出した。すごく字が汚い。視界の端で、新品にちかい包丁がきりりと光っている。
・五時になったら、ミー子にごはんをあげること。毎日だよ。
・体操服は一週間に一度は持って帰って洗濯すること。
・学校の花壇に水やりすること。もえは環境委員だからね。
・縄跳び大会に向けて練習を怠らないこと。
・過激な少女漫画は読まない。貸し借りにも気をつける。
・片付けはこまめにすること。燃えるゴミの日は月曜日、木曜日。
 なんか、やな感じだーと、わたしは言った。些細な仕草にまで口出しするメモ書きは何条も続いていて、もえちゃんはこれをこなしていかないといけないのか、と考えるとくらくらする。もえちゃんは、大きな袋にそのへんに転がるゴミを詰め込みながら、ティッシュとか、靴下、それを聞いている。「もえちゃんのことぜんぶ知ってますよーみたいな。もえちゃんが、それだけみたいなさあ。うちらって、それよりもっと、じゃん。なんていうか、もっと、色々、考えたり、寄り道したり、全部がぜんぶ他人に予測できるわけないじゃん。もえちゃんのお兄ちゃんはもえちゃんのこと全然わかってないよ。かわいそうだ」
 たしかに、ともえちゃんは言った。「たしかに、もえが環境委員だったのだって去年までの話だし」「縄跳び大会だって、中学になったらないしね。少女漫画だって、わたしがとっくに貸したり、してるのに」「髪色の違うイケメンに、取り合いされるやつね。あれ、おもしろかったよ」でもねえ、と、もえちゃんは言って、立ち上がった。鈍いかがやきのシンクにもえちゃんの顔はすこしもうつらず、なにを考えているかわからなくなる。きりりとひかる包丁の、先っぽを喉元にあてがって、死にたがるわけでもないのにもえちゃんは、そうした。死にたがるわけでもないのにもえちゃんは、すこしでもすべったらなにもかも終わる体勢で、ゆらゆらしてみせた。すでに死んでいる幽霊のしぐさみたいだと思った。そしたら包丁なんかいまさらあってもなくても関係ない気がした、ずっと死んでしまっていたという意味で。「でも、わかってないっていわないで。お兄ちゃんはたしかに、わかったふりのばかかもしれないけど、でも、もえ以外がそれをいわないで。もえ以外がお兄ちゃんの悪口言ったら、ゆるさないよ」
 もえちゃんはそれから、自分のしたことに怯えるみたいに包丁を見て、でもやわらかい喉をおびやかすことをやめなかった。ときどき、つばを飲み込んだ喉が怯えるように、ふるえた。わたしは、ごめん、と言った。もえちゃんのジャージの、ほつれた裾を眺めていたと思う。「もう、漫画、借りないから。いいから。借りてるやつももう、返すから」窓からもえちゃんを照らすための光がさして、それなのに、病人みたいな顔色で、沈黙はつづく。やがて、五時になる。
「あ、ミー子にごはん」
 もえちゃんは手首をがっちり固定したまま、ぽやんとしゃべる。チャイムを聞きながら、門限が、と思ったけれど、そんなの通用しない別世界に来たような、家なんて帰ったとしてももうないような、このままもえちゃんに刃物突きつけられつつ一生居てしまいたいような気もした。してよ、ともえちゃんが言うのでわたしはそうっと刃物を携えた籠城犯の隣に立ち、深めのお皿を手に取る。ごはんをさらさらとお皿にながすと、みゃーとか言ってミー子が食べる。「あのねえ、ゴミの日も明日だから、まとめないといけない」そのへんに散らばったゴミを、集めては、袋へ。シチューの箱やわりばしも、袋へ。
「もえ、ちゃんとやるよ。お兄ちゃんにきっとまた会いたいから、だめでもばかでも会いたいから、もえがちゃんとしてなきゃいけないんだよ。そうしないともう、会えないかもしれないんだよ。一生だよ」
 もえちゃんはとうとう泣いてしまって、つるつると滑らかな頬を涙がいくつも伝っていった。ああこれが最後のゴミだって手にとったのは、お兄ちゃんの書き置きだった。ばかばかしい項目を読み飛ばして、最後の一行を指でなぞってみる。
・さみしくなったらいつでも、連絡してください。兄はいます。×××-××××-××××
 もえちゃん。もえちゃん、わたしたちはいま、すごくばかだな。包丁をぎゅっと握りしめてアニメみたいにほろほろ泣いているもえちゃんのそばで、ミー子がのんきに食べ終わったお皿をぺろぺろやっている。五時を過ぎてもまだ、あたりは明るい。べつに約束守らなくなって、いつでも会えるよ。それに、こんなに明るかった。ばかだな。わたしが電話機を手に取るのと、もえちゃんが手を滑らせるのは、ほとんど同時だったと思う。はい、兄です、と能天気な、受話器の向こうから、もえちゃんにはもう届かない声だ。
 
 というのが夏休み中の話で、わたしは夏休みの間、もえちゃんの机に花が置かれているというたぐいの悪夢を何度も、何度も見ては、迷い込んだ。わたしはわたしのロマンスを失って、逃げ込まなければいけなかった。一日中漫画を読んで、ひとつも本当のことがない、漫画の世界で、わたしはもえちゃんを忘れた。もえちゃんがもういないとして、だとしたら、もえちゃんがもえちゃんを辞めてしまったら、じゃあ誰が、ナイフのように、もえちゃんをやるのだろう? もう毎日にはなにかひとつが足りない。おはよって後ろからいう声が、たりてないと感じて、学校はもえちゃんに会うための場所だったのだとわかる。昇降口を上がって、靴を入れようとした下駄箱に、なにか置いてあるのを見つける。覗きこむと、数冊の本と、暗がりに、パステルカラーが発光して、まるい文字が浮かんでいる。『漫画、返すっていったやつ、返すよ』もえちゃん、もえちゃん今日は月曜日だから、生きて、ゴミ出すために早起きしたんだなあ、生きていて、って思って、うれしかった。
 

ここにTELして

ここにTELして

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-07-09

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