旧作後半四作再々々放送

旧作後半四作再々々放送


 Fría que 邦題  冷たい彼女


 休み明けの仕事も半日もすれば勘を取り戻す様になる。さて今日は昼食はどうしようかと取り敢えず店を出て、通りを歩きながら腹が何を要求しているのか視覚にも頼りながら、店を探している。田辺道雄はG通りにあるデパートに勤めている。昼休みは交代制で、混んでいるピークの時間帯を外せるからその点くらいが長所だと思っている。あまり時間が掛かる様なものは食べないが、立ち食い蕎麦や牛丼の様にカウンターで並んで食べるのも好きでは無い。
 コンビニで買って近くの公園のベンチで食べる事もある。一人が寂しく思う事もあるが、気楽でもある。公園までは片道十分は掛かるから、休みとしては正味四十分も無い。
 デパートの中で食事を済ませる者もいるが、女性などは気分転換も兼ねて近くのカフェなどに行く。何故か、複数でという光景は見た事が無い。営業中に表に出る時は警備員が透明な袋の中を確認して、商品の持ち出しが無いかなどをチェックするから面倒には違い無い。其れでも表に出るからには、一人の自由を味わいたいという気持ちが強いからだ。店内の食堂や休憩所は騒音の渦であるし、毎日同じ顔を見ながら食事をするのも詰まらない。
 だから、外出するメンバーはたいてい同じだが、お互い顔を会わせたくないから別の店に行く事が多い。



 公園に向かう途中小雨が降って来た。場所を替えて近くのカフェに入った。頭の中には特に変わった事など浮かばない。家に帰ってからの時間が暇だから、楽器を購入したのだが、同じ曲ばかり弾いていても詰まらないからと考えていた。少し離れたテーブルに腰を掛けている女性は同じ店の制服を着ているが、見た事は無い。偶に転勤という事があるから、其れとも中途入社なのか、でも、デパートに中途は先ずない。此の女性も人目を避けて来ているのだろうからなるべく無視をする様にと心掛けていたのだが。
 次の日も来ている。というよりも道雄が二日続けて来たからだろう、二日続けて天気が悪いからと、それなら別の店にすれば良かったのだが。
 済ましたような冷たそうなところは一人で来る女性には共通している。それは見慣れた光景ではあるのだが・・。
 逆に言えば自分の部署にはいないタイプとも言える。だからといって声をかけてみるなどと言うことは考えないし、失礼いや、迷惑だろうと思う。まだ、入りたての頃、気に入った女性がいて盛んに誘った事があったのだが、最終的には断られた。
 其れから、ほぼ毎日のように同じ店に行くようになった。女性は自分の事は知らないから気にする素振りも見せない。単に、時々見かけるくらいにしか思っていないのかも知れない。
 只、十五分くらいの休憩時間の差があることには気がついた。女性の方が早く来て早く帰る。




 二週間もする頃、その日は同じ売り場の店員が休みだったから早めに休憩に出た。売り場はワンフロアー全体を道雄が見ているが、叶明子、以前交際していた事がある女性が休み。
 早めに店に行けばあの女性も来ている筈だ。どうやら、I店が一部改装をするので、部分的に閉鎖されているからこちらの店に来ている店員が数十名いて、その中の一人が彼女らしいという話を聞いた。冷たいように見えるという事は見ようによっては近づきがたい美人とも言えるような気がする。勿論、店のメニューが気に入らないのでは用は足りないのだが、それは他店と比較しても劣らないと味覚が承知している。何時も同じ二種類のものを交互にオーダーしていたが、その日は彼女がオーダーしているものと同じものを頼んだ。店員が運んでいく時に見ていたから、何が好みかはだいたい分かっている。彼女も同じように三種類位のものを日によって変えてオーダーしている。
 此れでメニューが一つ増えた事になる。昼食だから酒も飲まないし摘みはいらないからだいたいが同じようなものを頼むことになるなどと思いながら、では、酒でもあれば、というか、彼女と一緒に酒でも飲みながら、と思い描いてみた。冷たい彼女と共に飲む酒の味はどうだろうなどと、思わず「満更でもないな」と呟く。それは今日の料理の味についてと、其の想像についての・・。
 食べ終わりスマフォを見たりしてから彼女は席を立ってレジに向かう。支払っている姿を見て、此れが一緒なら自分が払うんだと思ったりもする。フランスの女性は勝手に男性に奢られることを好まない場合が多い。この国では堂々と男性に払わせるのが常識のようになっているがと、詰まらないことを考えたのも、想像が勝手に歩き始めたようだ。ふと我に返り今日は早番だった事に気づき、女性に続いてレジで支払いを済ませると慌てて自動ドアの絨毯を踏み表に出た。結果的に彼女の後ろ姿が社員専用口に近づく手前で並んでいた。口をついて何かが出ようとした。振り返った顔と目があった。目は冷たさの中で唯一微笑んでいる。此れで声を掛けやすくなったと思うと同時に、「ああ、休憩お済みですか・・」と、彼女が、「何時も一緒ですね」とは、「見ていたんだ、いや、見ていてくれたんだ」と、何か突然灯りが付いたようにぽつんと胸が返事をした。
 



 其処からは、Smoothに?事が運んだ。その週の休日前には、夕食を一緒にという話をしていた。
 エレーベーターが開いて、二階婦人服売り場の向井静香が薄暗い照明に照らし出されたFloorを迷わずに窓際の席に歩いて来る。Tホテル17階のFloorは広いから、初めての客は視線を彼方此方揺らしながら目指す相手を探し、場の雰囲気に戸惑い気味に・・、で無いのは以前来た事でもあるのか、其れとも・・。
 道雄が静香を誘ったのはよくある一般的な女性に対する関心だけでは無かった。以前飲みに行っていた女性で最も最近は、叶明子だが彼女も似ている様なところと、何処か違うところがあった。其れは違う女性だから当たり前といえば其れきりだが、道雄が静香に関して何か特別なものを感じている点で、明子にも似た様なものを感じた。逆に二人を単純に比較すると、言ってみれば育ち或いは育った環境とでも言ったらよいか、其れは異なる。
 明子とは疎遠になった訳でも特別な関係になった訳でも無かった。そんな付き合いが無理の無い自然な気がしたし、その後も二人の間には痴情の縺れなどは毛頭、親しさを持って・・という間柄は築かれたままだ。そういう点では、静香と夕食をとって語り合う事は少しも不自然では無い。
 静香がエレベーターから真っ直ぐに、まるで絨毯に運動会の50メートル競走の白線でも書かれている様に迷わず・・、そして、今テーブル越しに対面して座っている。其れは、明子も全く同じだった。共通点と言える。偶然、そんな事もあるだろう、だが・・。
 仕事の話はさっと流す様に、謂わば前菜の様だった。静香は婦人服売り場の経験はI店からだからベテランと言える。職場が変わっても覚えが早いというか、物事を先に読むような事があるようだ。だから、客の好みのものや似合っているものを見つけたりして売り上げに貢献している様だった。 
 其れは、明子も似ている。では、違いは何か。仕事に限らず恋愛に関しても解釈が何か異なっている様な気がする。ちょっと見が冷たく見えるかそうで無いかの違いもある。
 静香は全面窓ガラスの壁の外を見ながら街の灯りを懐かしそうに見ている。道雄が、「最近、何時も同じ店に行くようになったのも、君に何か惹かれる様に、ああ、勿論店の味もいいんだが」と、「そう言って貰えると嬉しい様な、案外、集団の中で一人のような事があるから。美味しいわねあのお店」
 道雄は思い切って、「君って、何か人を寄せ付けないような、言い方は悪いけれど、冷たさというかそんなものが漂っている様に窺えるんだ。其れが、逆に魅力でもあるのかも知れないけれど。ちょっと言い過ぎたかな、気に障ったら御免」と、「うん、自分では分からないけれどI店の時も何時も一人だったから、仕事上は勿論人と協力してやり、成績は上げていた・・、ああ、ちょっと余計な事だわね」。
 道雄は静香の仕事ぶりが、何故か超高速コンピューター並みであるかのような気がしたから、単なる自慢では無いだろうと思ったが、どうしてそう思ったのかは自分でも分からなかった。外の灯りに見とれている様は単に街の美しさに気をひかれているのか、其れとも何か思い出しているのか、元付き合っていた彼氏の事でもなど邪推をしたが、どうもそんなレベルの事では無い様な気もした。
 二人は静かに話し合い、飲食を味わい、時には互いの事に触れたりして、楽しい時を過ごす事が出来た。
 帰り道、駅まではすぐだったが、並んで歩きながら改札の前で立ち止まり、笑顔を交わしてから、互いのホームに別れて行った。
 
 



 店で、明子に其の話をした。明子は黙って聞いていたが、「そう、彼女と話が弾んだんだ。私ともそうだし、貴方も、やはり・・」
 


 道雄は此の期末で職場を離れるつもりだ。静香にも明子にも其の話はしてある。


 期末が近付いて来る。二人との恋愛はどうするのだろうかと自分でも考えた。違った形での恋愛は成立するだろうから・・と思った。



 どちらとどうなるのかは、決められている。取り敢えずは三人は同時に転勤になる。



 道雄は静香と話をしている。「後釜は決まっているから、人に迷惑は掛からないし。ところで君も・・」
「ええ、大丈夫。明子さんは?大丈夫だわね・・」



 明子と静香、其れに道雄は期末に転勤になった。夜空が澄み切っていて、星が数多と煌めいている。よく見れば其々の星が少しずつ違う色だという事は分かるかも知れない。其れに、色だけでは無い・・。




 明子が先に店を出た。其れから、店から明子にそっくりな店員が出て来た、後釜は見分けがつかない。何処か暖かそうな雰囲気も何もかも瓜二つだ。明子は空間に消える様に・・上がって行く。透明なバリアーに包まれ姿は見えなくなった。声だけが、「途中まで一緒かな、其れとも・・恋愛?はまだ此れからも続くから・・静香さんも、もう準備は出来たようね」。




 続くように、静香と道雄も・・。「後釜は・・大丈夫?」
「勿論。それにしても。君が冷たく見えた筈だよね。あの星では、皆、そんな育ち方をしてきたからね。其処が明子さんとの環境の違い。昔は、此の星で魔女と言われていたくらいだからね・・」




 三人は同じ様に行き場所は同じ方向。途中でどうなるかは、その場の旅程や星間の状況によってまだ、未定・・愛情は何処でも同じ不変のモノ。尤も此の星とは少し表現が異なるが・・。 



 三人のDummyのそっくりさんを下に見ながら、透明に変わった物体が上がって行く。
 少し離れた道雄が二人に言った。「此の星の言葉では、愛している。恒久にね。もう転勤は無いから・・」
 静香が氷の様な微笑みを見せ頷いた。すると、気温は静香の星の常温に変わり、一瞬だけ、辺りはこの世のものとは思えぬ絶対零℃に変わった。




 宇宙には様々な星が煌めいている。誰かが故郷の空を思い出したら恐ろしい事になる事もある。夜は零下170度の美しさを見せる月が近付いて来た。




 涼しげな・・。
 

 事務所のデスクには、外出・直帰の表示・・。
 銀座駅の改札を抜け丁度滑り込んできた車両に乗る。此れから、相談の要望があった先を何軒か廻るつもりだった。
 其れでも、二軒目のお屋敷で受け答えや説明をしていたらなんやかやで二時間余り。
 中途半端な時間帯になってしまった。其の邸宅を出てから住宅街を抜けて歩いていくと、通り掛かった家の中から琴の音。
 こういう住宅街では、時々ピアノの演奏が聞こえてくる事がある。
 たいてい、クラッシクでショパンなどが多い。きっと、若い女性が弾いているのだろうなどと思う事はある。
 紺野和彦の娘も一時はピアノ教室に通っていた。偶に発表会などがあり、ビデオカメラを片手に、演奏会の模様を写した。   
 娘の登場になると、舞台裏から登場するところから一部始終を映しながら、なかなかうまく弾けているじゃないかなど思う事があった。
 其のpianoも演奏者がいなくなり、調律もしないようになった。
 和彦はclassicを真面に練習した事も無ければ、レコードで聴く事はあっても、自らが弾いてみようと思う事は無い。
 好みの、というか今となっては、音楽・文学・絵画くらいしか趣味としての関心は無くなった。
 一時、絵画はeurope に滞在時に彼方此方の気に行った画家の作品を見て廻る事があったが、束の間の楽しみだった。
 帰国してからは、年齢的にも今更働こうとは思わなくなっていた。
 連絡があっても、案件を選ぶ習慣がついてしまっている。弁護士に依頼された案件には、前向きなものというか、明るい話題など無い。
 ・・何もしないというわけにもいかず、弱者の相談などを受けるようになった。
 其れでも、時々仕事から離れて、違う事に携わりたいと思う事もある。
 


 琴の奏者がどのような者かなど考えながら通り過ぎようとした時、琴の音がやんだ。
 夏の始まりで日差しは増々強くなっていくような気がする。静寂の中に風鈴が涼しそうに・・ちりん・・。
 大きな屋敷の門から拡がっている庭園を覗き込むと縁側が見えた。
 昔はこういう縁側・長廊下などがあり、其処に座ると小さな池が見えるなどと言う家もあった事を思い出す。
 池は水苔がすっかり深緑色に染め、色とりどりの魚の姿が窺え、周囲には花々が・・。
 丁度、同じ様に世界に入り込んだような気がし、暫し佇み、庭園の芝が奥に拡がっていくのを見ていた。
 座敷の奥から縁側に出て来たのは、着物姿の女性で・・先程の琴を弾いていた主かもしれないと思う。
 軒には風鈴が吊り下げられているから、その音が聴こえたのかと思う。
 和彦は、今時・・まるで、時間が止まったような景色に安らぎを感じていた。
 無断で人様の屋敷内を覗くなど、趣味の良い事ではないからと、歩き出そうとしたが・・視線が流れ・・。
 細面の色の白い、其の女性は、縁側の下の踏み石に置いてあった下駄・・つっかける様に・・池の淵迄・・。
 和彦は、何とはなしに、声を掛けていた。
「結構なお庭で・・」
 突然の来訪者に気づいた様に此方を見て軽く会釈をする。
「宜しかったら・・此れを・・」
 意味はよく分からなかったが、池に近付くと、すぐに気が付いた。
 一匹の黒い鯉が仲間とはぐれたように、水面に浮いている。おそらく半身を此方側にさらしているさまは、何かを訴えているような気がした。
 釣り人の針に引っ掛かかり、何とか逃げおうせたらと暴れるいきの良い魚とは似ても似つかない・・魚は・・どうして欲しいのかと思うが・・生き物には寿命というものがある。
 子供頃、飼っていた沢蟹が次々に死んでいった事を思い出す。
 最後の二匹になった時に、何ともいたたまれなくなり、車で水槽に入った二匹を・・約二時間も掛け・・奥多摩の上流の狭い川に放したのだが・・生憎の前日の台風の影響で泥水と化した早い流れに・・二匹は押し流され見えなくなった。
 出来ることはやったのにと悔やんだ。其れからは二度と、子供を喜ばす為に生き物を漁るという事はやめた。




 女性にバケツはありますかと尋ねると、女性は・・急いで持って来・・和彦に渡す・・。
 和彦は、鯉の片腹に小さな穴が開いているのに気が付き、鯉を両の手でわしつかみにすると穴に指を添える。
 穴からは小さな虫のようなものが姿をあらわした。其れを取り除き、再び指の腹を穴の上に被せる。
 暫くし、元気が出たような魚は池の水を跳ね上げ、水底にみえなくなった。
 


 其れを見ていた女性は・・。
「え・・?」
 和彦は女性に微笑みながら。
「琴・・お上手ですね・・また弾いて貰えますか・・?」
 女性は笑みを返すと・・奥座敷に・・。


 
  
 
 
 和彦が屋敷を出・・歩き出すと・・琴の音が聞こえ始めた・・。
 



 歩き始め・・暫くし・・立ち止まり・・振り返る。
 もう・・かなり・・歩いている。
 



 
 
 見えなくなった・・屋敷からは・・何時までも琴の音が聞こえていた・・。
「・・人類を助くる事に較ぶれば・・魚の方がまだ容易い・・沢蟹は・・残念だったが・・」
 


 精一杯頑張っていた夏の陽も・・そろそろ・・と・・次に訪れようとしていた紫色の薄闇に後を任せると・・肩の荷を下ろしたようだ・・。
 俄かに・・一陣の風・・涼しさを散りばめ乍ら・・通り抜けていった・・。 


 




 Mutatók, órák, próféciák és... messziről a csillogó éjszakai égbolton... 邦題  手・時計・予言・そして・・煌めく夜空の遥か彼方から・・。



 何よりも面倒なのは空襲だ・・と誰かが言った記憶が・・。
 東京の数寄屋橋で緒方洋二は将来を約束した北野百合と待ち合わせをしていたのだが・・。
「少し早く来過ぎたかな・・?」
 東海道線で四時間も掛けやっと着いた。
 其の洋二を待っていたのは百合では無く・・空襲警報だった。
「・・此れでは・・まるで君の名は・・?」
 そう彼が独りごちた時・・既に・・辺りには誰の姿も見えなく・・空を黒々と覆っていたのは・・無数の大型爆撃機・・。 
 仕方がなく・・空襲警報が止み・・大分経ってから汽笛を鳴らしながら動き出した機関車に飛び乗り・・郷里に戻るしかなかったが・・百合と約束があったのに・・と。
「・・若し会えなくなった時には、私だと思って・・此れを・・」
 そう告げた彼女に渡されたのは・・古風な腕時計だった。
 彼女が言うには・・「父が、不思議な人に会った時に貰ったとか・・」との事だが、一体誰なのか?詳しい事を聞く暇などなかった。
 全力で走りだしている汽車は・・まるで、警報を振り払ったようだったが、こういうことはよくある事・・余りにも空襲の日が多く感じられたから・・。
 横浜を過ぎた頃、途中から乗って来た乗客達がようやく話をし始めた。大本営発表には嫌な事の裏返しが隠されている事が少なくない。
「東京で、又、空襲があったそうだ。もう殆ど建物などは見えないのに、敵さんもしつこいよな?あの高度では高射砲は届かないし・・迎え撃つ航空機も特攻に使われ一機もないっていうのに・・全く鬼畜米英・・鬼畜生め・・」
 機関車の吐き出す真っ黒い煙が、窓を開けていれば入り込んでくる・・と思い窓を閉めたのだが、此の国で一~二の長さを競う丹奈トンネルに入ったよう・・閉めてある筈の窓の隙間から焦げたような匂いと共に煙が入って来る・・。
 東京での空襲はB29から落とされる500キロ爆弾が雨あられと落ちてき、逃げ惑う人々が気が付いた時には・・何もかもが・・無くなっていた・・。
 東京大空襲の時には、二時間で十万人が亡くなった。其れが、次第に全国に拡がり彼方此方で空襲が行われた。
 洋二の郷里の静岡市でも当然空襲はあったのだが、爆弾ばかりではなく・・全く・・始末の悪い焼夷弾・・。
 そんな事を考えているうちに、ようやっと静岡駅に着いた。
「今日は空襲は無いだろう。流石の大型爆撃機も爆弾を積み込むには基地まで戻らなければならないから・・」
 



 そんな折にも、僅かな時間を利用し、消火訓練や町内の集まりなどが行われた。
 兵隊は御苦労さんだが、残った病人や児童以下に高齢者なども混じり主婦や女性の姿が見られた。片や少年や女子の中にも・・特攻に志願する者達の姿。
 消火訓練とは言っても消防車が来てくれるわけではない。横に一列に並んだ人々のバケツリレーにより運ばれた水を掛けるだけだから、火を消す事などまず無理・・其の間にも次々と犠牲者は増えていった・・。
 水といっても井戸水・飲み水は貴重で少ないから、雨水を溜めたものや川・池などの水が使われた。
 差別や矛盾だらけの大日本帝国憲法・憲兵隊・訓練や教育も厳しいが、国民の中には誰も文句を言うものなどはいない。
 兎に角国が負ければ何もかもがどん底に落ち殺される、皆、其れだけしか考えていなかった。
 

 この国の国民とは、昭和時代前半までは勤勉実直・質実剛健・生存競争の中で猛烈に生き抜いてき、技術開発にも優れ手先が器用と言われていた。
 其の後に今の様な時代が訪れようなど・・まさかまさか・・安む間もなしに働き・・国を盛り上げて来た・・結果・・政府が私物化され首相官邸で子供が戯れるなど有り得ない事・・議員であれば特権階級なのか?・・似非(えせ)平和がスローガンとして罷り通る醜い時代。
 自殺者など考えられなく、世界中の世代が劣悪となり果てた。人類の自衛隊は災害時に活躍する者であり、戦闘を行う為に雇われているのではない?軍隊であれば、知らずうちに消滅するが相当。
 巨大宇宙からの使者は伊達に観察をしているのでは無い。相似する惑星が皆消滅した事然り。
 戦争に至れば必ず人類に大量に死者が出る。そんな事も分からない議員・指導者。其んな指導者に利用された人類は愚かに尽きる。
 他国に操られ他国の事ばかりに拘る以前に自国が亡国となり下がった姿に気付かず、只管憐れな人類は、宇宙空間最古の惑星悲劇を繰り返すだろう。



 働き盛りの男達は徴兵で戦場に出ていたり、空襲で亡くなったりしたが、其れでも傷病などにより徴兵検査に合格しなかった洋二のような男性や女性の姿は見られた。
 灯火管制(空襲時にはあらゆる灯り~灯火を見られると、民間人を狙った無差別殺戮空襲の目標にされた。)家の裸電球(裸電球は蛍光灯と違い、高温になるから触れれば火傷(やけど)をし、カバーが無く直接紙や布に接触すれば火事になる。)の周囲のカバーに布を下げたりし、真っ暗にしなければならないという厳しい規則。
 自分達で身を守らなければ死が待っているだけだという考えは常識そのもの。
 食料も限られ、資源も無い中で実に辛抱強い国民であった。しかし、身を守れる事も正に運が良ければという条件が付く。
 だから、戦争を起こしてはいけないし、例えどんな事由であろうと、戦争を起こしたどちらの国にも必ず責任はあるという事。
 理由が伴わない侵略戦争などはあり得ない。侵略された方にも何らかの原因があるし、最も狡賢いのは其れを企てた国であり、人類は頭脳内迄知り得ない。
 USAなどのように、主義主張の違いを敵にし世界を仲間にしたいが為に、争いをけしかけるのは人類の性癖といえるが、他の惑星の如く必ず滅びる。
(戦うより、話し合いで何とか戦争を食い止める事の方が大変重要な事である。有利・不利などは関係が無いに等しいという事が分からなければ、国民に多くの死者が出る事に繋がり、指導者としては完全に失格と言えるだろう。
 そういう意味では、領土云々などより戦争を起こさないという信念が必要だと分かる者がいなくなっている。まだ現在でさえ、気取って「残虐」だとか「似非正義」「主義~ideologyが違う」からと、争いになるが、そういう意味では人類は進化ができなかった生命体と言って間違いはない。人類の兵器など対人類にしか通用しない。が、其れで全てが滅びた前例が存在する。)



 そんな中でも洋二は訓練で知り合った家が近所の美智子という若い女性がいて、時間はあまり無かったが、話をする事があった。
 洋二は東京に同じ学校を卒業した百合がいたから、そういう点で、美智子にも好感を感じたが、其れを何処かで押さえなければ人の道から外れてしまうとは思うが、 其処が男女の関係の難しいところでもある。
 しかし、訓練をしたりするうちに自然に親しくなるのも無理はないと言える。
 そういう点では、洋二も大いに悩んだ一人であるのかも知れないが、やはり、百合の顔が浮かんで来る。
 其処で、洋二は可能な限り美智子を頼りにしないようにと思う。そんな二人にも思わぬ結末が待っているとは・・。
 静岡市にも大空襲が迫っていた。
 殆ど全国の大都市を中心に空襲は行われた。というのも反撃や防御ができないからである・・というのは・・実は大きな間違いだった。
 要は無差別大量殺戮が公然と行われたのであり、此の国の人類は侵略戦争を起こしたから当然だと言われようとも、人類の感情としては、相手国を鬼畜米英とののしる事も仕方がないと・・此れについては後に何が真実なのかと気が付いた極一部の人類が存在したが、その信号が宇宙空間にまで届いている。
 



 東京のように、B29から500キロ爆弾をばら撒くように落とし、結局、蟻一匹残させんと野原になったのも辛いが、此方はまた違う状況だった。USAの使用した焼夷弾は俗に「粘りつく」と後に分析された。
 空襲警報が町中に鳴り響き、人々は物陰に隠れるどころではない。落とされたのは焼夷弾だった。ベトナム戦のナパーム弾とほぼ同じ。
(再びUSAバイデンが仕掛けた二国の争いで、マリウポリというところで、製鉄所が此れを食らい、最終的に、歴史を知らない兵士達が絶対に戦うと言っておきながら、投降せざるを得なかったのは、油が空からばら撒かれるのと同じ様なもので当然、猛火に変わるように作られており、生物や辺り一面を全て焼き尽くすのみにあらず、それによる約二千度という高熱に耐えられなかったから。こうなる事を私達は予言をしていたし、TV局にも警告をした。更に、白リン弾も使用される事を予言している。其の通りになるのは当然とも言える。其の時には、地獄が降って来るという見出しが付けられているが、其れでは此の国の人類にUSAが雨あられと落とした事をどう説明するのか?洋二達は地獄など思っている間も無かったのだから。国際法などは戦時には適用されず、勝利した方が此れをあてはめ、敗戦国を戦争犯罪人として処罰する事になるだけだ。要は、勝てば官軍・負ければ賊軍、という言葉が正に当て嵌まる。誰にも気が付かれないように・・と、USAによる子供騙しの二番煎じが起きたに過ぎない。勿論禁止兵器などは人類のみの戯言でしかない。兵器は全て禁止兵器に過ぎない。)


 話を戻そう。
 夜間の空襲も多いが、此の日は昼間だった。
 市内が猛火に包まれ逃げ場も無い。丁度、洋二は訓練中で、美智子と一緒だった。
 二人は否が応でも手を繋ぎ、逃げたのだが、何処にも逃げ場がない。二人が向かった方向に小学校のプールが見えた。
 しかも、運よくプールには水が一杯に入っていた。此れ、実は選択肢など無い。
 二人だけは運が良かったに過ぎない。が・・?



 
 プールの手前で、二人の手が離れてしまったような気がした。
 洋二は一緒にプールに飛び込んだものだ・・と思った。
 というのも、手を繋いだままでプールに飛び込む事は、通常時では無い非常時には人類は五感でしか感知できず、両手を開けておかなければ心理的に危険と判断するからだ。
 しかも、飛び込んだ勢いで水中深く潜らないと、油の火災であるから、水面でも燃えている。
 少しでも顔を出そうとすれば、油にまみれ、火だるまになる。そういう点で、洋二は運が良かった。
 というのも、息をしなければならない。息を止めているのにも限界がある。其処で水面上の一部に息をする為に顔を出し、再び潜る。
 此れを繰り返している間に、辺りを見回す余裕は無かった。通常、手を繋いだままでこれ等の動作をする事はまず不可能だ。
 増してや、手が一旦離れてしまったからには、更に余裕は無くなる。其れが・・美智子との別れだった・・。
 大分経ち空襲が終わり警報が鳴りやんだ時。
「・・みっちゃん?みっちゃん?何処?何処なんだよう・・?」
 幾ら泣き叫ぼうが、木霊(こだま)など帰って来ない。洋二はプールから出、美智子の姿を探し廻った。
 其れで何とかなると思った訳ではないが、結局は其れしか無かった事になる。
 其の後、美智子の姿を見る事は二度と無かった。
 洋二は、やっと、美智子の事をどう思っていたのかが分かったが、其れが何だというのだろうかとも?
 




 舞台は・・東京に戻る・・。 
 数寄屋橋は、既に、焼け野原から回復していた。
(終戦直後の社会の状況は、汽車の貨物車両に乗り食料の芋を買い出しに行く人達で、車両から零れ落ちそうだった。米などは勿論無かった。)
 数寄屋橋には彼女の姿は見られない。
 どうやって彼女に会おうか・・と、途方に暮れた。
 というのも、彼女の家があるところは知っていたが、残念ながら彼女の家どころか見渡す限り何処にも何も無かった。
 突然、思い出した。
「私に会えない時には・・此れを・・」
 そう言われ、貰った腕時計はガラスも割れ・・水が一旦は入った?が・・不思議な事に乾いている。
 壊れて止まっていた。其れを見た後周囲を見回したが彼女は現れない。
 百合の事と美智子の事が重なっているような気がする・・。
 水はあの時・・入ったんだ・・。
 という事は其れは・・美智子との最後の想い出とも言える・・。
 百合に貰った時計が壊れたのは・・あの時だが・・僕の身代わり・・?
「まさか・・百合も?いや・・きっと会える。あれだけいろいろな事があったが・・きっと・・」
 そうは言っても、どうすべきかなど分からない。
 其の時・・突然・・時計の針がくるくる回りだした。
 二人が約束していた様に、彼女がくれた腕時計は・・まるで生きているかのように・・回転をやめようとしない・・。
 回転している針の残像がしか見えぬが如く・・早過ぎる・・。
 時計は・・洋二の手から離れるように・・宙に浮かんでから・・消えて行った・・。
 ・・誰かが歩いてくる・・。
 誰かを探しているかのようだ。辺りを見回しながら・・次第に近付いてくる・・。
 



 視線が合った・・。
 今度は・・残像ではなく・・彼女の姿。
「よく・・会えた・・」
 二人ほぼ同時に目を見つめ・・涙・・。
「洋二・・元気なの?きっと会えるって・・そんな気がしていた・・」
 洋二は自らの腕を見。
「・・あれ?無くなった筈の時計・・」
「・・其れ、私があげた時計・・?」
「ああ・・しかし・・?」
 洋二は其の後は言わない事に。
 ・・入れ替わったのかな?と・・。
 美智子が・・百合に会わしてくれたと・・いうのもおかしな・・そんな事・・そう思う・・。
「・・誰の事考えているの・・?」
「勿論・・君の事だよ・・だが・・?」
「でも・・何?」
「・・人を殺したのかも・・」
「・・え?何て・・?」
「いや・・やはり、君の事・・ずっといつ会えるかと思っていた・・。いや、田舎で近所の女性が空襲に遭って亡くなったんだ。其れは忘れられない・・若しかし・・その女性が僕と君と逢わせてくれた?おかしいだろう?」
 暫く宙を見ていた百合が・・。
「あの人なんだ・・?」
 百合の視線を追い・・空を見上げる・・一瞬・・美智子の笑っている顔が浮かんでいる。
「・・気のせい?君にそっくり・・そんな事・・?」
 百合は・・視線を洋二の瞳に移すと・・微笑んだまま・・。
「いえ・・あの人ならそうなんじゃない?私は分かるような気がする」




 二人・・再び宙を見上げた・・何も見えない・・。
「・・どうやら・・君になったのかも・・」
 二人は手を繋ぐと近くのカフェ迄歩いたが・・。
「・・此の手・・君の手・・やはり同じ・・もう離す事は無い・・」
 百合はその言葉が聞こえたのか・・?
「・・そうね・・今度は離さないで・・?」
 洋二は驚いた・・。
「・・え?何て言ったの?」
「いえ?何も・・?」
 百合は、何もかも分かっているかのように笑って見せた・・。



 二人の立っている歩道の前の道を街宣車が走って行く。
「・・此の国の憲法九条はもう古い・・我が政権与党は国防費を増やし・・国民を守るために・・」
 突然のパンク音。
 ・・あの戦争を知らないお前達に何が?空襲・人体実験の原爆投下・唯一の地上戦地沖縄に未だに基地が・・少年や女性迄・・其れも終戦を知ってい乍ら・・特攻に飛び立って行った・・。
 車の前にあの連中には見えないだろう人達が大勢・・窺える。
 車はい寸たりとも動こうとしない・・。
「・・戦争を知らない者には分からない・・奇しくもUSA・進駐軍が今は後悔している平和憲法九条は変えてはならない。権限は国民にあるのだが・・また同じ事になる」
 安部氏銃殺は事件の二年一か月前に予期出来た・・再び何が・・?



 だが・・洋二と百合・・其れに美智子は・・もう何も言葉にならない。
「さて・・二人共・・僕と一緒に行かないか?」
「何処?」
「心配ない・・百五十億年彼方の平和な宇宙空間・・素晴らしい文明の母船が宙空に見えるだろう・・?」
 二人・・いや三人は、既に漆黒の垂れ幕に代わり、数多と星々が煌めいている夜空を見上げながら・・大きく頷いていた・・。
 次の予言とは・・夏のあとさき・・永井荷風つゆのあとさき・・此の国の不埒な輩達とUSAHead・・何れも罰するが相当と思料する・・。



 雨の日の演奏

 銀座にある楽器屋に立ち寄ってみた。此処では展示してある楽器を勝手に演奏しても、店員が話し掛けて来る事は無い。
 桧山洋二が少しばかり時間が空いた時など立ち寄る先は此処とデパートくらいしかない。
昼休みに近くにあるcafeに食事をするつもりで向かった。滅多にそういう事は無いのだが社の女性に会う。
 殆どの社員は社員食堂を利用する事が多い。洋二は昼休み位社の連中と顔を合わせず一人でのんびりと思う。
 其れで近くの其のcafeにはよく行くのだが、女性は秘書室の葉山涼子。
 秘書室は役員一人に其々秘書が付くから役員の人数分の秘書で構成されている。
 よくは知らないが秘書達は社員食堂を利用したり自前の弁当という事が多いようだが、彼女は偶に気晴らしにでもとカフェに来たのかも知れない。
 洋二の法務室は専務の管轄で、其の専務の秘書である涼子とは共に仕事をしているようなもの。
 秘書室の管轄である役員室にdeskがある専務には、時々大口の案件の決裁を頂きに行く事がある。
 そんな時にはしばしば彼女の顔も見ているのだが、直接話をする事は案外少ない。
 決裁を頂きに行く前には、秘書室の内線に電話をし専務が不在か在籍かを確認してから窺う。
 法務室は営業部など契約をとって来る部門とああでもないこうでもないとやり取りをする事は多い。
 其れに較べ秘書の涼子と仕事上の話をするなどは少ない。秘書室にdeskがある彼女は必要に応じ役員室に行く。
 彼女は洋二が専務と話をする際にお茶を出してくれるのだが、彼女の仕事としては専務のScheduleの調整や頼まれた用事をするなどいろいろありそうだ。
 cafeの二人は離れたテーブルで食事をとっていたのだが、食事を済ませてから洋二が彼女に声を掛ける。
 迷惑かとも思ったのだが、義理立てをしているのか以外に話が進みだす。
 彼女は専務や秘書室長以外との会話は殆ど無いだろうから、案外、孤独なのかも知れない。
 仕事上、営業部や人事などとの話題に事欠く事は無いのだが、秘書となると共通の話題は見つからない。
 其処で、仕事の話では無く趣味の話題に代えてみたのだが、趣味では思ったより共通点がありそうだ。
 絵画や小説・音楽の話題になった時、すぐ横の楽器店に寄ってみようかと話してみた。
 どうやら、涼子は子供の頃からピアノを習っていたせいで、今でもpianoを弾く事が多いようだ。
 入りやすい店なのは皆知っているから早速店内に。電子楽器などはsettingが必要だからすぐには弾けないが、ピアノはその点座れば即弾ける。
 彼女の腕前がどの程度なのかは知らないから、只、弾く姿を見る事にした。
 洋二も且つては実家にピアノがあったから、学生時代には弾いた事があるが自己流。
 中学の時に近くの教会でオルガンを教えて貰った時にはバイエルの後半くらいまではマスターしたが今は覚えていない。
 pianoは勝手にjazzを弾いたくらいで正式に学んだ事は無い。
 彼女はいきなりショパンの曲を弾き始めた。成程流石に正式に学習したのだなと思う。
 幻想即興曲はショパンの中でも華やかさでよく知られている。
 小学生でも即興曲が上手い子供もいるというが、其処はやはり慣れた手つきの彼女だけに難なく弾きこなす。
 目立つ旋律だからと店内の客も聞いていた様で、演奏が終わると感心をしていたような気がした。
 洋二も軽く拍手をし上手いねと褒める。ピアノを会得している者にとっては慣れた一コマなのかもしれない。
 彼女は洋二に目を遣ると、貴方は?という表情を見せたが、また何れという事にした。
 昼休みが終わり二人で社に戻りElevatorに。秘書室は十階だから洋二は途中の六階で降りる。
 elevatorの中で偶には・・などと声を掛けようかと思ったのだが、彼女の素性は知らないから既婚者であったら?と思う。
 




 どの仕事でも同じだが経験者が採用される事が多い。秘書ともなれば何処かの会社での経験がものを言うのだろう。
 人事課長に少し用件があった際何気なく彼女の話をしてみたが、やはり既婚者という事で胸を撫でおろす。
 洋二は離婚をしている。今後はどうしようかと考えあぐねているのだが、なかなか決心はつかないしそう簡単に相手が見つかるものと言えそうにない。
 其れから暫くした頃、洋二は定時で上がろうと思い部員にその旨を伝えた。
 まっすぐ帰っても此れといってやることも無いしなど思いながら銀座通りを歩き始める。
 道行く人達の地下鉄の改札に吸い込まれていく姿が目立つラッシュの時間帯だ。
 部員の川田久子が背後から歩いてき追い付いたようで、肩を並ばせながら一杯どうですかと。
 どうせ暇なのだからいいよと頷く。
 ふと目の前を歩いている涼子に気がついたが、家に真っ直ぐ帰るのだろうと思った。
 と、突然、彼女が振り返りざま足を止める。
「・・桧山さんおデートかしら?」
 久子がその言葉に笑顔で応え。
「いえ、桧山さんと軽く一杯と思いまして。良かったら葉山さんも如何ですか?」
 洋二は、久子がよく彼女の名を知っていた?という事と、彼女は御主人が待っているから?
 そう言い出す寸前。
「私もデートのお邪魔して宜しいでしょうか?」
 と言い出したには少し驚く。
 其れではきっとご主人が仕事か何かで遅くなり、時間潰しなのかとも思ったのだが、其れでも真っ直ぐ家に帰り家事や料理をと思う。
 それとは裏腹な言葉が。
「葉山さんも一緒に?」
 久子はよく誘ったものだと思うが、所帯持ちを知らないのだろうかなど。
 三人は並んで歩き出した。
 洋二は何処にしようかと考えたので二人に聞いてみたところ、日比谷のホテルなら眺めも良いしという事に決まった。
 帝国ホテルなら歩いて十五分もあれば裏口から中に入れる。
 大きなホテルであり老舗だから絨毯は足が踏みにくい程クッションが良い。
 Elevatorが17階で止まりドアが開く。お馴染みの全面窓ガラス一杯に皇居方面から霞が関などの夜景が拡がった。
 丁度、この時間帯にはピアノのソロ演奏も始まっている。
 窓際のテーブルを挟み三人が座りメニューを手に取る。
 適当にビールやカクテルに料理をオーダーする。テーブルに並んだグラスに涼子がビールを注いでくれた。
 年代が違うから涼子はグラスワイン、久子はカクテル、其のまま乾杯を。
 話は仕事の事から次第に個人的な事に変わっていく。久子は此処からそう遠くはない同じ大学の出身で後輩にあたる。
 其の話をし始めたら涼子が。
「あら?でしたら私と同じということでは?」
 其の通り三人は同じ大学の出身だった。涼子は一学年下のようだが久子はまだまだ若い。
 洋二は久子がどうして一杯など言ったのかと考えながらも、結婚してからそう長くもないから、何かご主人の都合でなど思う。
 久子が結婚はしたものの、なかなか意見が合わなかったり、仲が良い時とそうでない時があると言い出す。
「其れはそうだよ。長い結婚生活の間には色々な事があるから、まだ、此れからいろいろじゃないかな?」
 と語りながら自分の経験を思い出していた。少し考え出しそうになったので気分を代えようと思った時。
 斜(はす)に座っている涼子の顔が下を向いた様な気がした。
 辺りの夜景に程よくあっている薄暗い照明がソフトな空間を醸(かも)し出している。
 久子がスマフォを取り出してから見せた画面には二人男女が写った写真。
 其れを見た洋二が楽しそうじゃない?と言うと、久子は少ししかめ面(つら)をし、案外、結婚してから?など言い始める。
 気になったのは涼子が其の画面を遥かな彼方から眺めている様な笑顔を見せた時。
 少し憂いが窺えるような気がする。
 久子が洋二に目を遣り。
「桧山さんは、残念ながら、でしたね。葉山さんはお似合いの御夫婦のようで・・?」
 洋二は違和感を感じる。
 其の事に関しては、結局、久子がトイレに立った時に、涼子の口から。
「私、離婚しようと思っているんです。まだ他人には言っておりませんが、つい先頃の事。二人で話し合ったのですが・・?」
 洋二は黙して彼女の目を見ていた。
 其の理由は御主人の浮気が原因とかで、彼女のような美しい女性でもそんな事があるのだろうかなど思う。
 別の会社での事の様で状況は全く分からないが、目の前の彼女は真剣な表情のまま。
 久子が戻って来てからはその話は中断。久子に聞かせるような事では無いし、彼女にそんな事があって貰っては困ると思うだけ。
 洋二が話題を変え。
「此のホテルでは、宿泊者には2時間無料でスタインウェイのグランドピアノを使用できるミュージックルームがあり、価格は700万から1300万ほどのものだが、其れがこのホテルの売りになっているというんでね。主に新婚さん用のsweetroomのようだけれど、一般でも予約すれば弾けるんじゃないかな?」
 眼下に拡がっている景色を見ながらだが、雰囲気が元に戻った様には思えない。
 何か、洋二は自分の事を思い出し随分疲れたような気がした。
 その後の話題は学生時代の話から、久子の話や仕事の愚痴など様々だ。
 洋二はそれ等全部を受け止めなくてはと思ったのだが、仕事の事は自分に責任がある。
 反省として久子の苦情は此れからの業務に生かそうと思う。
 充分に飲み食いし景色も堪能してからインペリアルルームを後にする事にした。
 有楽町の駅で二人と別れる。




 其れから暫くした頃、洋二は昼休みに例のcafeに行った。
 すぐ後から来て自動ドア―のマットを踏んだのは涼子だった。
 洋二は何か嫌な気がした。自分が上手くいかなかった結婚生活が思い出されたから。
 しかし涼子の場合には浮気だという。今ではそんなに珍しい事では無くよく聞かれる言葉として不倫がある。
 洋二は何から切り出したら良いのかと考えたのだが、彼女はやはりあの話を。
 当然ながら真剣に悩み結論を出したのだろうに。同窓の女性が離婚の同窓では話にならないとも思う。
 彼女の幾つかの言葉からは胸の内が手に取れる程の失意が感じられる。
 同じ目に遭った者にしか分からない。食事もそこそこに先日も行った楽器屋に寄る事にした。
 前回彼女が弾いたのは幻想即興曲。そして、今回彼女が弾き始めたのは、同じショパンの「別れの曲」。
 華麗な曲が目立つショパンにしては、失恋でもした時の曲なのか?良い曲だが、如何にも寂しさが表現されている。
 其れで彼女の気持ちが一層良く分かるような気がした。
 昼休みが終わり二人で社に戻る。
 状況が同じだった先日は、こんな事になるとは思っても見なかった。



 洋二は考える。
「彼女は同窓の後輩でもある。そういう者は幾らもいるが、何とかし幸せにしてあげられる男性はいないだろうか?」
 それとなく同期の連中や知人にも聞いてみた。
「こういう女性で同窓なんだが、ああ、上品で端正な美人だよ?」
 其の話を彼方此方に持ち寄っては何人かに相談をした。
 同時進行で、彼女の気持ちは変わらないというから、法的な慰謝料の事は洋二が進める事にした。
 




 そんな或る日の事だった。良い話が友人から舞い込んだ。
「彼方此方あたってみたら、良さそうな縁談になりそうなんだがどうだろうか?」
 洋二は早速、其の友人と詳しい話をし始める。
「同窓ではないんだが、年齢や収入に地位もこれ以上の話はないというくらいでね。どうだろうか?」
 洋二も其の話に喜色を示し、同期の彼によく見つけて来てくれたと感謝の言葉を。
 




 これまでに、何回も彼女とは飲みに行ったり話をしたりしている。
 すっかり先輩とし、役目を果たせると確信を持った。
 彼女から相談を受けてから早一年近く経過しているが、縁ものだから仕方がないとも思う。
 彼女にはすべてを話し、彼女の気を引くようにと間に同期が入っている事も話をした。
 其の話は順調に動いている。
 日取りを決めようとの話しまで辿り着いた。
 


 もうじき其の日が来る。
 洋二は此れで八方円満と思った。
 洋二は、内心彼女の事につき、何か気になる事もあるような気がする。
 しかし、事は良い方向に向かっているのだ。
 詰まらない事を考えるのはやめようと思った。
 予定の日どりの何日か前だった。
 仕事で遅くなり帰宅時間がずいぶん遅くなった。
 おまけに土砂降りの雨の日だったから、家に着いた時にはびしょ濡れだった。
 電子鍵盤で音色をgrandpianoに設定するとあの曲を弾いてみた。
「別れの曲」のタイトルで有名な「練習曲作品10第3番ホ長調」はポーランドの作曲家、フレデリック・ショパン(1810-1849)が作曲したピアノ曲で、作品10の練習曲は12曲からなり、その第3曲にあたる。
曲集は1833年に発表され、ハンガリーの作曲家でピアニストのフランツ・リストに捧げられている。
タイトルの「別れの曲」は1935年に此の国でも公開された若き日のショパンを題材にしたドイツ映画でも有名だ。




 洋二は慣れない曲を弾き始めた。
 胸の内は、自分でもよく分かった。いや自分だからかも知れない。
 彼の曲は人により好みはあるだろうが、例えるのなら一つに。
 Chopin: Piano Sonata No.2 In B Flat Minor, Op.35 – 1. Grave – Doppio movimento (Live)
 24 Preludes, Op.28・24の前奏曲 作品28。
 バッハの平均律クラヴィーア(フーガは除く)同様、ショパンの前奏曲集もまた厳格なルールに則って全ての調性を1つずつたどる曲集である。
 それぞれの曲は短く1分に満たないものもあるが、バラエティ豊かで創造性に富み、多くの表現の魅力を持ち合わせている。
 聴き手はただあっけにとられる素晴らしさだ。前奏曲第14番変ホ短調や第24番ニ短調の身の毛もよだつようなドラマをショパンはいったいどこから思いついたのであろうか。
 そして第4番ホ短調では変化する半音階和音が連打される中で完璧なまでの旋律が奏でられるが、ショパンはいったいどうやってこのような旋律を生みだしたのだろう。
 短いながらも無垢でシンプルな第7番イ長調はどこから産み出したのか。
 何よりも、1人として同じように弾くピアニストがいないのがこの前奏曲集なのである。






 洋二は自分が上手く弾けない事を承知していた。其れでも弾いてみたかった。





 家の外は大雨になっている。
 雨が叩きつける様に感じられた時、ドアを叩く音がした。



 洋二は、鍵盤から手を離すと。
 ドアを開ける。
 こんな大雨の日に尋ねて来るものはいないだろうに。
 開いたドアの向こうには。




 涼子のびしょ濡れの姿。
「あ、君、どうしたの?この大雨の中を・・身体を壊してしまうよ。まあ、取り敢えず中に入って」
 




 
 涼子は・・一言・・。
「私・・あのホテルの、スタインウェイを弾いてみたいんです?」
 洋二は、其れがどういう意味なのかは分からないが、兎に角弾きたいのなら弾かせてあげたいとは思う。
「僕は、君のピアノの腕は素晴らしいと思っているが・・」
 其の後を続けようと思ったのだが、涼子はその先を聞くまでも無く・・。
 涼子は部屋の壁際に置いてあったピアノの鍵盤に手をのせると。
「・・Nocturne in E flat, Op. 9, No.2・・」




 涼子の滑らかな真白い指が、鍵盤の上で自在に踊っている・・。
 一層強くなる雨音、其れが気にならない程はっきりと流れていくmelody・・何かを話し掛けているようだった・・。
  
 

旧作後半四作再々々放送

旧作後半四作再々々放送

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-07-08

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