箇条書き語彙の貧しさその他。文豪の作品から坂口安吾の文学のふるさと。
昨日も申し上げたが、路線価が上がり続ければ、三年に一度評価替えになる固定資産税も幾らかでも上がる可能性が高く、来年と次は其処から三年後になる。
例えば地方都市で時価が高いと言われている静岡市葵区の繁華街から徒歩10分程の住宅街の固定資産税は、年三回に分けるが総合計は凡そ30万となっている。
月にすれば二万五千円ほどなので、年金に余裕があれば問題にする事も無い。
では、現地でのマンションはどうかと言えば、購入した者が利殖目当てで賃貸をしているが家賃は25万程になる。
バブルを経験した者にとっては、逆に不動産価額が下がってしまう方が大きな問題になる。
前回のバブル崩壊時には一億円で購入した戸建てが、五年程の経過で6千万まで下がった。
都内だが都心では無く最寄駅からもバスで30分の高級住宅団地だった。
景気が良くなる事は難しく、世界経済共々バブルではない奇妙な暴落に繋がるのは、株価と同じ。
要は、物事は上がれば下がり下がれば上がるを繰り返す事に通ずることは普遍と言える。
株もそう考える者にとっては、今のうちに短期で売り買いをする事が賢明であるのかも知れない。
次。
現在の二国の争いと、大東亜戦は似た面がある。此れは今の世代には理解が出来ない事である。
共通している事は、両方ともUSAが事の発端になったという事。一見では、侵攻した側の一方的な争いと思うのも無理は無い。
ところが、戦争というものには仕掛ける方にも必ず理由がある。此れは、相当深読みが出来る経験や年齢で無ければ辿り着けない見解と言える。
USAという国、若しくはアングロサクソンに共通の意思決定や感情が存在する。スーパーでCanada産やAustralia産のステーキが固くて不味くて頂けないのとは関係は無いが・・。
白人至上主義が先ずは其の一面である。
更に、違う観点から見ると、自分達は常に世界のリーダーでなければならず、宇宙・科学・兵力・高感度・・なのだが、此れが思わぬ落とし穴をつくってしまう事に繋がる。
更に見逃せない事は、「他の思想~共産主義」が青い惑星に存在してはならず、困るから潰そうとする点。
ところが、世界は宗教も異なる様に思想も異なるのが人類の特徴と謂える。イスラエルが再び戦争を始めたが、歴史上エルサレムを巡って二つの宗教が共に発祥地であると看做しているから、争いの歴史が続く。
其れは兎も角、USAが一体何をしたのか?
自由主義一色に塗りつぶす事を欲するのと同時に、Chinaは黄色人種であり且つ共産主義である上に、此れから経済や工業等の世界で覇者になる・・と考えれば面白くなくなる。
同じ災いの相が浮かんでいるLastname「B」の中でも、ブリンケンはChinaに出向生き、やや、二国の対立が和らごうとする気配も見えない事は無かった。
直後、「B」バイデンの発言「習氏は独裁者」の一言で、元の木阿弥に戻った。財界の大物たちは此れとは異なる観点からChinaを見ている。
バイデンのような「紛れもない白人至上主義者」は近頃演説の最後で、突然、女王陛下・・は紛れもなくUKのエリザベスの事である。
UKはアングロサクソン一族の心の故郷である。とは言っても歴史上は独立戦争で戦ったが、現在は同じ五兄弟である事には変わり無い。
USA財務長官である女性は、兼ねてからUSAの構造不況が十年以上続くとの発言をした事がある。
今度は、Chinaと交渉をしようとし始めている。
今回の二国の争いが・・よもやUSAが立ち回った挙句の現象だとは思うまい。USAとUSSRは第二次世界大戦前から世界の大国であったが、同時に宿敵という思いも持っていた。
朝鮮戦争やベトナム戦争でも二国が後ろ盾になるか、若しくは実際に兵を戦わせた。
結果、国連軍~事実上国際連合=USA~は朝鮮半島の38度線で決別せざるを得なかった。
ベトナム戦ではUSAが敗北をした~映画ランボー~イラク戦では核兵器を所有するという主張の元にパトリオットを使用したが、結果その様な事実は皆無だった。
この様に、争いや差別を好む人種と言える。
東西冷戦は長く続き、キューバ危機ではあわや核戦争にまで発展する間際だった。
戻るが、戦後Germanyは東西に分裂をした。欧州は未だにロシア文字に似通った文字が見られる東欧諸国。
USAはUSSRが分裂をした後も、大国を孤立させる手に出ていた。其れが、宇宙開発でも衛星の打ち上げ・有人衛星・宇宙ステーション・核兵器等で悉く後れをとったUSAにとっては極めて面白くないどころの話では無かった。
欧州ではコソボでも後ろ盾をしたが、何れにしても大国を孤立させる事が兼ねてからの願いだった。
この辺りは、世代の差だけでなく、USAに在住した事があるものなどは、案外気が付かないで現在に至っている。
次第に包囲網が築かれNATOに吸収されていく中で・・この二国の争いが起きた。此の国も本来は大東亜戦の勃発した原因が分かっていれば、その気持ちも理解できたのだが、頭の悪さで奴隷と化してしまった。
実は、大東亜戦も二国の戦いも、確かに侵略戦争ではあるし、此の国は北は満州から東南アジアに南はミッドウェイまで大東亜共栄圏を拡げた。
ところが、単純に軍国主義という面だけが、此の国を戦争に駆り立てたのではなく、大国と同様に此の国へのUSAの差別は凄まじいものがあった。
その一つがUSA本土に於ける黄色人種への差別であり、また、此の国の世界への進出に危惧だけでなく、競争意識も感じ、ヘイトを徹底した。
世界でも有数な技術力を持った軍事国の此の国とNazisGermanyは、資源も食料も無いまま世界を相手に戦う事になったが、まあ、Nazisはまた違う意味でユダヤに対する差別を徹底した面は拙かった。現Germanyは前回の女性の首相の独立志向から一転し再び此の国と韓国と共にUSAの隷属国になっている。
ざっと述べた程度で、二つの争いに共通点を見い出す事は・・今の世代には難しいだろうが・・事実は翻らない。
次。
関連する事も出て来るが、東側の大国・China・NKを何時までもヘイトしていれば・・人類の未来は何時まで経っても開けない。
宇宙の文明の様に、国境どころではなく、あらゆる生命や生命体と同化できるまでは望まないが、青い惑星はヘイトだらけ。
ChinaとUSAだけでなく、NKと全世界の様に二つの仕切りを外せないのもおかしな話と言える。
思想・主義・主張が異なるのは当然とも言え、此の国で且つて朝鮮人差別が酷かったのだが、未だに同じ事を繰り返しているのも・・脳が無さすぎる。
簡単な事であるが、要は互いの良いところを認めてあげ、尊敬してあげる事が出来れば、逆に双方に徳が。
人類には我々と異なり、子育てという経験がついて廻るだろう。言い方は非常に拙いのだが、子供とか親族・隣人を理解できるのかどうかで・・今の世代は自殺者の増加世界を作り上げてしまった。
此の国でも、且つてはその様な事が無かったのだから・・気が狂っている・・先人は?
其れは、時代背景も異なるし社会・教育等も異なるのだから到底理解はできないだろうが、以前は無かった事が大きな問題になっている。
少子化や学力低下・政権のお粗末・技術力低レベル・経済や政治・・司法行政立法が二年後にどん底に落ちるのは陽を見るよりも明らか。
此の国だけを取りあげてみれば、NKならロケット打ち上げを非難するのではなく、技術力を・・まあ、機密だから簡単には無理だろうが・・宇宙開発や衛星技術等にしても、此の国が劣っている事は山ほどある。
国境を取り外し・・互いに共調する事だけを考え抜いていけば・・逆に勝ち負けなど言っているから、凄いペースで退化していっているのは人類位のもの。
大国やChinaにしても、時間を掛けて教えて貰える事が出来れば、何もUSAだけに限った事では無い。
第三世界と馬鹿にするが・・此の国だって第四世界に過ぎない・・人類が対立という拘りを捨て・・逆に文明の進歩に関しては拘りを持って行けば次第に周囲も変わっていく。
結果、嘘のように台湾問題も解決をして行く。此の国は大和民族だけと言っているのは、右翼の阿呆なコマーシャルに過ぎず全くの嘘であり、China・朝鮮・Mongol・琉球・アイヌ・・その他いろいろな人種の混血に過ぎないという事実が存在する。
歴史上、常に争いを続けてきた人類も・・いい加減にこのあたりで・・世界中が交易を図って行ければ・・人類も満更捨てたものでは無い・・と評価が変わる。
必ず言える事は・・世界経済は発展をして行く・・欧州やNATOの一部に・・USAが最も悪いのは、国内で分裂をしている割には、バイデンもトランプも糞のようなものに過ぎない。
USAでも、一部の冷静な者達は先を読もうとしているのが分かるが・・足枷が酷すぎる。
Franceだって、マクロンが悪いのではなく、其れは確かに警察官が子供を撃ったのは間違いだが・・どうして何時までも暴動など起こしているのかは・・その為に法律というものがあるのだから、犯罪者は刑に服すしかない。
Chinaとの交易を面白なく思うUSAやアングロサクソン一族に・・諜報員が絡み煽っているのも・・Franceはマスクなど強制したら絶対に従わないし、テロやストライキも長い。
そんな事を言えば、此の国の入管の事件も同じでは?
時間も無いし、記事もそう何時までも載せるのはやめようかと思っているので、今週位・・本日は、此の国のマスコミ関係のlevelの低さを申し上げて終わる。
未だに岸田君事件の報道管制がとられているが・・嘘八百が?
昔と比べると、本当にTV局や新聞社などのlevelが低くなりすぎている。
ああ、その前に、此の国の政党のいい加減さだが、与党の二党は今更どうしようもないレベルで・・遂に衆院選の推薦がどうのこうの・・。
維新と国民の野党の様で与党のような訳の分からない・・全く此の国は出鱈目な政治に過ぎる。
国民もこんなふうに考えてみたら。
よくアンケートで・・「他に良い政党が無いので」という事はおかしい。
其の政党が良くないのであれば、別の政党に投票するしか無いのでは?
此の国の今の世代は・・自民しか知らない・・創価学会だから・・野党は怖いから・・権力が無いから・・。
そうではない。
投票時に投票率を掲示する事が無いのが東京都で、静岡などは教室である会場の黒板に必ず・・何時現在の投票率が30%の様に記している。
実は、人類の選挙制度は悪いところだらけで・・って、人類しか無い事だが・・・、其れは、うちの親戚が出るのでなら、まあ、仕方が無いが・・。
投票率は非常に大事な事であり、バランス感覚も重要になって来る。其の投票率を見て、低い時には与党の圧勝で終わるから、野党に入れるなど。
与党か野党か分からないのはやめた方が良く、公約も宛にはならないが、大事な分かれ目は、軍備増強・憲法九条改正を主張する政党は先ず、斬り捨てた方が良く、必ず国民が後で後悔する事に繋がる。
其の他にも重視をする点は幾らもあるが、大体、公職選挙法は必ず改正しなくてはならない。
国民が立候補でき、看板も街宣車もやめ、投票所に行かなくても投票が可能で無ければ・・此れからの高齢社会では身体障碍者や施設から出られない・・入院している・・などを改善しなければ・・此れは超党派の問題で、NHKなど暇なんだから・・公約はそう言ったものを使えば良い。
衆院選と同時に行う「最高裁判事の罷免」等は、国民が広報を見る事など先ず無いのだから、良い悪い判事の決断が出来無いのに・・戦後相変わらず続けているというのは異常だ。
判事は人類で判断が間違う事はざらにある・・NHKの受信機を持っていたら受信料を支払う義務がある・・などは全く公序良俗に反するザル判決であり・・そういう判事が未だいるのであれば・・罷免。
NHK党などというおかしな政党から犯罪者が出たのも、如何に人類の考える事が論理的で無いのかの現われ。
国民はこんな考え方をしても面白い。
今までの政党で問題が多過ぎるのだから・・思い切って政党を代える・・其れも完全な野党が良いだろう・・此の判断が出来無ければ国は良くならないに決まっている。
最後に、マスコミの評価。
大体、昔と異なる、政権にべったりのマスコミは本来の役目をはたしていない事になる。
NHKは極端過ぎ、現代では政権与党べったりに過ぎないが・・番組も表を見る限りどうして以前のような番組編成が出来ないのか?
政権べったりはほぼ全局だが、フジTVのプライム何とかの番組表を見る限り自民の議員ばかり出るようなテーマが多く、そうで無ければ、殆ど二国のテーマだが、其れは視聴者受けを狙っている、TV朝日・日本TV・BS日本・BS朝日・BSTBSも同じ。
ニュースがあるのだから、報道番組が媚を売るのであれば無駄に通じやめるべし・・牛の反芻のようなもの。
BSTBSは国内のテーマが少なく二国だと張り切るが、二国の問題はたかがTV局がああだこうだ云ったところで・・全く現実味がない。
ただ、此の国のテーマをやる時には面白いものがある。
他局に至っては見る影もない程で、何時までも「屁が出る・ライムジン」だが、国家転覆罪なのだから、本来は即処刑が妥当。
此の国にも、其処まで出なくても、騒乱罪などは有るが、軽い罪で、転覆は何処の国でも極刑に値するものである。
大体、ワの字も既にシールが剥がされているし、今の世代の言語の貧しい事・・・やはり漫画やanimationの延長線上に過ぎず・・「・・反転攻勢」・・て、「失地回復」・・「・・影武者」ってこの国の言葉で戦国時代に遡るが、海外には訳は可能でもそっくり同じ言葉は無く、「影武者」「替え玉」「偽物」「身代わり」というものは、English「body double」もともとは、映画やテレビドラマの出演者がなんらかの理由で特定のシーンを演じられない時に、その出演者に成り代わって演じる人を指す言葉に由来している。
大体、偽物と言いたいのだろうが、其れでは誰も連絡が取れない事になる。「・・の乱」は「応仁の乱」のつもりなのか・・何も乱では無く「桜田門外の変」「赤穂浪士の討ち入り」以外も幾らでもその手の言葉はある。
まあ、あまり、レベルの低さを取りあげても意味は無いが。
其れに、すでに過去の出来事を何時までも・・壊れたレコードの様に繰り返す脳の無さ。
NHKで、地雷原で進めないを取りあげていたが、実は地雷は何処の国にもあるものだが、あの、塹壕が三本には理由がある。
未だかつて米軍でも思いつかないものを使用可能・・。
さて、時間が無くなった。
文学のふるさと
坂口安吾
シャルル・ペロオの童話に「赤頭巾あかずきん」という名高い話があります。既に御存じとは思いますが、荒筋を申上げますと、赤い頭巾をかぶっているので赤頭巾と呼ばれていた可愛かわいい少女が、いつものように森のお婆ばあさんを訪ねて行くと、狼おおかみがお婆さんに化けていて、赤頭巾をムシャムシャ食べてしまった、という話であります。まったく、ただ、それだけの話であります。
童話というものには大概教訓、モラル、というものが有るものですが、この童話には、それが全く欠けております。それで、その意味から、アモラルであるということで、仏蘭西フランスでは甚だ有名な童話であり、そういう引例の場合に、屡々しばしば引合いに出されるので知られております。
童話のみではありません。小説全体として見ても、いったい、モラルのない小説というのがあるでしょうか。小説家の立場としても、なにか、モラル、そういうものの意図がなくて、小説を書きつづける――そういうことが有り得ようとは、ちょっと、想像ができません。
ところが、ここに、凡およそモラルというものが有って始めて成立つような童話の中に、全然モラルのない作品が存在する。しかも三百年もひきつづいてその生命を持ち、多くの子供や多くの大人の心の中に生きている――これは厳たる事実であります。
シャルル・ペロオといえば「サンドリヨン」とか「青髯あおひげ」とか「眠りの森の少女」というような名高い童話を残していますが、私はまったくそれらの代表作と同様に、「赤頭巾」を愛読しました。
否いな、むしろ、「サンドリヨン」とか「青髯」を童話の世界で愛したとすれば、私はなにか大人の寒々とした心で「赤頭巾」のむごたらしい美しさを感じ、それに打たれたようでした。
愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐かれんな少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。
私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然しかし、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。
その余白の中にくりひろげられ、私の目に沁しみる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。
もう一つ、違った例を引きましょう。
これは「狂言」のひとつですが、大名が太郎冠者たろうかじゃを供につれて寺詣もうでを致します。突然大名が寺の屋根の鬼瓦おにがわらを見て泣きだしてしまうので、太郎冠者がその次第を訊たずねますと、あの鬼瓦はいかにも自分の女房に良く似ているので、見れば見るほど悲しい、と言って、ただ、泣くのです。
まったく、ただ、これだけの話なのです。四六版の本で五、六行しかなくて、「狂言」の中でも最も短いものの一つでしょう。
これは童話ではありません。いったい狂言というものは真面目まじめな劇の中間にはさむ息ぬきの茶番のようなもので、観衆をワッと笑わせ気分を新らたにさせればそれでいいような役割のものではありますが、この狂言を見てワッと笑ってすませるか、どうか。尤もっとも、こんな尻切しりきれトンボのような狂言を実際舞台でやれるかどうかは知りませんが、決して無邪気に笑うことはできないでしょう。
この狂言にもモラル――或あるいはモラルに相応する笑いの意味の設定がありません。お寺詣でに来て鬼瓦を見て女房を思いだして泣きだす、という、なるほど確かに滑稽こっけいで、一応笑わざるを得ませんが、同時に、いきなり、突き放されずにもいられません。
私は笑いながら、どうしても可笑おかしくなるじゃないか、いったい、どうすればいいのだ……という気持になり、鬼瓦を見て泣くというこの事実が、突き放されたあとの心の全すべてのものを攫さらいとって、平凡だの当然だのというものを超躍した驚くべき厳しさで襲いかかってくることに、いわば観念の眼を閉じるような気持になるのでした。逃げるにも、逃げようがありません。それは、私達がそれに気付いたときには、どうしても組みしかれずにいられない性質のものであります。宿命などというものよりも、もっと重たい感じのする、のっぴきならぬものであります。これも亦また、やっぱり我々の「ふるさと」でしょうか。
そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖がけがあって、そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。
晩年の芥川龍之介あくたがわりゅうのすけの話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家――この人は自身が本当の水呑みずのみ百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐かんだかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。
さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。
この手記ともつかぬ原稿は芥川の死後に発見されたものです。
ここに、芥川が突き放されたものは、やっぱり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えているという意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持って来ても構わぬでしょう。とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。
つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。
もし、作家というものが、芥川の場合のように突き放される生活を知らなければ、「赤頭巾」だの、さっきの狂言のようなものを創つくりだすことはないでしょう。
モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものだと思うものです。
もう一つ、もうすこし分り易やすい例として『伊勢物語』の一つの話を引きましょう。
昔、ある男が女に懸想けそうして頻しきりに口説いてみるのですが、女がうんと言いません。ようやく三年目に、それでは一緒になってもいいと女が言うようになったので、男は飛びたつばかりに喜び、さっそく、駈落かけおちすることになって二人は都を逃げだしたのです。芥の渡しという所をすぎて野原へかかった頃には夜も更ふけ、そのうえ雷が鳴り雨が降りだしました。男は女の手をひいて野原を一散に駈けだしたのですが、稲妻にてらされた草の葉の露をみて、女は手をひかれて走りながら、あれはなに? と尋ねました。然し、男はあせっていて、返事をするひまもありません。ようやく一軒の荒れ果てた家を見つけたので、飛びこんで、女を押入の中へ入れ、鬼が来たら一刺しにしてくれようと槍やりをもって押入れの前にがんばっていたのですが、それにも拘かかわらず鬼が来て、押入の中の女を食べてしまったのです。生憎あいにくそのとき、荒々しい雷が鳴りひびいたので、女の悲鳴もきこえなかったのでした。夜が明けて、男は始めて女がすでに鬼に殺されてしまったことに気付いたのです。そこで、ぬばたまのなにかと人の問いしとき露と答えてけなましものを――つまり、草の葉の露を見てあれはなにと女がきいたとき、露だと答えて、一緒に消えてしまえばよかった――という歌をよんで、泣いたという話です。
この物語には男が断腸の歌をよんで泣いたという感情の附加があって、読者は突き放された思いをせずに済むのですが、然し、これも、モラルを超えたところにある話のひとつでありましょう。
この物語では、三年も口説いてやっと思いがかなったところでまんまと鬼にさらわれてしまうという対照の巧妙さや、暗夜の曠野こうやを手をひいて走りながら、草の葉の露をみて女があれは何ときくけれども男は一途いちずに走ろうとして返事すらできない――この美しい情景を持ってきて、男の悲嘆と結び合せる綾あやとし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げています。
つまり、女を思う男の情熱が激しければ激しいほど、女が鬼に食わるというむごたらしさが生きるのだし、男と女の駈落のさまが美しくせまるものであればあるほど、同様に、むごたらしさが生きるのであります。女が毒婦であったり、男の情熱がいい加減なものであれば、このむごたらしさは有り得ません。又、草の葉の露をさしてあれは何と女がきくけれども男は返事のひますらもないという一挿話がなければ、この物語の値打の大半は消えるものと思われます。
つまり、ただモラルがない、ただ突き放す、ということだけで簡単にこの凄然せいぜんたる静かな美しさが生れるものではないでしょう。ただモラルがない、突き放すというだけならば、我々は鬼や悪玉をのさばらせて、いくつの物語でも簡単に書くことができます。そういうものではありません。
この三つの物語が私達に伝えてくれる宝石の冷めたさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕はらんでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。
この三つの物語には、どうにも、救いようがなく、慰めようがありません。鬼瓦を見て泣いている大名に、あなたの奥さんばかりじゃないのだからと言って慰めても石を空中に浮かそうとしているように空むなしい努力にすぎないでしょうし、又、皆さんの奥さんが美人であるにしても、そのためにこの狂言が理解できないという性質のものでもありません。
それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身うつしみは、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一ゆいいつの救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。
アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……
だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。
「女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われます。夏目漱石」
「あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである。最も賢い処世術は、社会的因習を軽蔑しながら、しかも社会的因習と矛盾せぬ生活をすることである。最も賢い生活は、一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである。芥川竜之介」
「素人か玄人かは、その仕事に対する作者の打込み方の相違だ。志賀直哉」
「by europe123 」
https://youtu.be/sJ0LmVuvYXw
箇条書き語彙の貧しさその他。文豪の作品から坂口安吾の文学のふるさと。