【TL】ヒロイン棄権
元いじめられ虚無ヒロイン/カレシ感義弟/カレシ気取りストーカー美青年/執着系オレ様エリート/臆病系爽やか好男子/性的いじめ描写(性暴行)
1
彼女は男の腕の中にいた。後頭部を枕に沈め、男の首元を嗅ぐように縋りついていた。男のほうも、まるで断頭台の囚人みたいに、下に敷いた女へ委ねている。
空気は蒸れきって、2人の肌も多分に湿(しと)っていた。
「もっと激しくして………いい、よ………」
それは懇願だったのか許可だったのか。小さな膝頭にすらりとした細く長い脹脛が伸び、引き締まった足首が逆三角形を描くしっかりした男の背中で交差した。彼の肩甲骨には外側に向けて、薄らと弧線が浮いていた。二の腕にも似たような傷がある。
「姉ちゃん……!」
上に乗った男はくぐもった声を漏らした。シーツの波が揺蕩う。ベッドが軋んだ。男の頸(うなじ)の辺りで組まれた女の手は解かれて、筋肉のついた背中を抉っていた。そして甲高い悲鳴が上がる。
なんということか。この男女は姉弟かも知れなかった。
◇
清里(きよさと)透(とおる)は名前こそ男の子とよく間違えられたが、一目見れば、そう中性的な感じの人物ではなかった。色白で、華奢な体躯ではあるが病弱とはまた異質の儚さと、その瞳に宿る光によって凛とした芯の強さをうかがわせる人物だった。
彼女は聡明で、中学受験に臨んだ。ひとつに、母親が家柄の悪くない男と再婚したこともあるだろう。だが経済的に無理をした。いいや、経済的に貧しかったわけではない。ただ、受かった学園について周りが大富豪であっただけの話だった。世間一般的には庶民であった彼女は、龍善寺学院に於いて貧民であった。学費に窮したのではない。周りの生徒と比べると生活水準がそもそも違っていたのだ。
一口に言って、彼女は浮いていた。
彼女はその学園生活のみを切り取っては、惨めと思うことはなかったが、しかし学園生活は彼女にとって、非常に過酷なものだった。
透は豪邸にいた。海城(かいじょう)家は、母校の龍善寺学園のなかで最も裕福であると聞いたことがある。つまり校則みたいに、相手が金持ちであればあるほど、崇拝の対象というわけだ。そこの令嬢の麗乃(れの)というのは容姿端麗で、成績優秀でもあったから、さらに畏敬の念を抱かれていた。
彼女は今、車椅子に座していた。目の前に透がいることも分かっていない様子だった。肉体の均衡は取れるようであったが、内面的な、意識、精神が機能していないようだった。透は車椅子の前で屈み、麗乃の膝の上で綺麗に組まれた手を握った。
「また来ます、海城さん」
しかし反応はないのである。彼女の部屋を出ると、扉の傍に執事みたいなのが控えていた。家庭教師であった男だ。この大豪邸に見合う洗練された風采で、ホテルマンよりも異様な非現実さがある。透はこの美しい男の肉体を知っていた。だが過去の話だ。
この執事みたいなのは、彼女を外まで見送った。事務的な会話以外になかった。透は車に乗って、自宅へと帰る。
龍善寺学園の修学旅行は海外で、これまた莫大な費用がかかった。積立方式ではあったが、それでも一般的な中流家庭には厳しいものがある。弟の学費も必要だった。そもそも入学の時点で、修学旅行は諦めなければならなかったのだ。そういう措置が学園にもあった。
透はこのために助かった。龍善寺学園の生徒は帰り道、爆破テロに遭ったのだった。死傷者は多数いた。海城麗乃はその生き残りのうちの1人であった。しかし、一命は取り留め、肉体も回復した。だが頭部を強打したのが悪かった。彼女は8年半、意識を取り戻さずにいる。いいや、意識は取り戻している。目も開き、音に反応はある。だが虚ろであった。
海城麗乃は透にとって、ある種の恩人であった。同時に苛烈な飼主であった。彼女は同性愛に似た欲望を持ち、また異性愛的な羨望を抱いていた。
学内排他というにはあまりにも執着心のある、学内嗜虐というか、学内虐待とでもいうべきか、端的にいえば「いじめ」に遭っていた透にとって、彼女は絶対的な庇護者であった。誰もが彼女には逆らえず、畏れていた。孤高であった。彼女は恩着せがましい態度をとったわけではない。ただ透に関心を寄せたのだ。そして彼女が透を、自分の家庭教師の餌にし、愉悦に浸っている間、透は彼女の所有物であり、暗黙的に他の者が手出しすることを赦しはしなかった。
透が海城邸に仕える執事みたいなのと肉体の関係があったのはそういう経緯であった。海城麗乃も、自分の成熟した家庭教師に未成年の子供を抱かせていたのだから、そうとう嗜虐的で倒錯的な女なのであろう。それでいて自分から透に触れることはないのだ。彼女は自身の気質、性分、性癖について辟易していたのかも知れない。
自宅マンションに帰ると、玄関前に男が立っていた。背が高く、ダークカラーのスーツ姿で、どこか幽霊のような雰囲気があった。弟ではない。日当たりの悪い時間帯で、青みを帯びた建物の陰を帯び、雲ひとつないスクリーンのような青い空を背景にしてぬぼっと佇んでいる。非の打ち所のない美貌が不気味だ。
彼は透に気付いた。
「清里さん」
声の質感は甘かった。だが音吐(おんと)は空虚だった。
透は何も答えず、玄関扉を開けた。男を中に促す。男は手に持ったケーキの紙箱を差し出した。
「ソファーにいて」
彼女は紙箱を受け取ると、キッチンのテーブルに雑に置いた。男はリビングのソファーに腰を下ろした。
透は麦茶の入ったコップをひとつ客人に出し、ソファーに座ると服を脱ぎはじめた。ワッフル素材のカットソーの下からブラジャーを透かしたキャミソールが現れる。
「清里さん」
男は何か言いたげであった。しかし彼女には届かない。靴下を足から引き抜き、恥じらいもなくロングスカート、ペチコートを脱いでいく。ブラジャーと同じ紺色のショーツが露わになるが、まだ止まらない。自ら、裸体を晒すことを厭わない。
そして男のほうに足を向けて、ソファーに寝転んだ。
男の長い睫毛に覆われた目は、暗闇の猫みたいに爛々としていた。それでいて戸惑っている。
「家のことがあるから、早くしてください」
透は急かし、遠いどこかを凝らしていた。まったく羞恥心を感じさせず、彼女は男相手に粘膜を晒しているのだ。
「もう少し、触れ合ってから……」
「どうして」
「身体だけが、目当てじゃない」
男は怯えたように言った。
「嘘ばっかり」
その声に抑揚はない。
この男も、修学旅行に行かなかったために命拾いした人物の1人である。彼は透が行かないことを知ると、自らキャンセルしたのである。透の処女というのは、この男に奪われた。この、咲坂(さきさか)あずみに。
透が中学時代に遭ったいじめは、無視、盗難、器物損壊、誹謗中傷だけではなかった。肉体に関する辱めまでをも受けていた。暴力ならば、彼女もいくらか耐えられたのかも知れない。だがそうではなかった。主犯格が男であれば、ある程度、傍観に徹するしかないなりの女生徒たちの連帯、或いは牽制があったかも知れない。しかし主犯格は女であった。羽交締めにされ、周りの男子生徒を集め、スカートを捲られたり、胸を揉まれたりなどが多々あった。
咲坂あずみはハイエナで、ハゲタカだ。散々に弄ばれ、誰かに見つかるまで身動きもとれないよう縛られていた透を襲ったのだ。そして様子を見ていたのが海城麗乃だった。学園の女王は、哀れなシマウマの食われているところを眺め、そして狙いを定めたのだ。
透はそのとき、両手を縛られ、括り付けられ、下肢で踠(もが)くしかなかった。スカートは捲れ、下着も奪われたなかで、ハイエナの如きは弱っている獲物を見つけ出し、犯したのだ。そのとき、彼女はこの男を知らなかった。同じクラスになったことがあるわけでもなかったし、委員会が同じだったわけでもない。まったく彼女はこの男を知らず、しかしその男は犯しながら好意を伝えてきたのだ。
透は壊れてしまった。9年近く経っても治る気配はなかった。義弟と身体を重ね、突然やって来た男にも容易に脚を開いている。頓着もない。
あずみは透の中に入ると、彼女の腹を両脇から押さえて腰を振った。華奢な体躯でも不健康なほど痩せているわけではない。脂肪はついている。腕に挟まれ、彼女の腹の肉は少なからず撓(たわ)んだ。そしてその柔らかな肉感をあずみの腕も愉しんでいるようだった。それでいて、彼はつらそうな顔をする。しかし透の知ったことではない。体内に埋まっているものは固く、勢いがある。男の業を知らない透にとって、表情の機微より肉体の反射のほうが事実に近い。彼女もそのように罵られ、詰られ、嘲笑われた。
透は己をろくでもない淫婦なのだと認めるほかなかった。反抗は疲れてしまったのだ。疲労感が湧くまでもなく、諦めることを学んだ。そのほうが要領がよかった。守ろうとするものはないほうが楽なのだ。草臥れた安寧に浸かるのがいい。
やがてあずみが射精する。透は加えられる力に従っていた。まるで男側のマスターベーションであった。否、これは本物の女体を使った自慰であることは間違いなく、彼はわざわざ自慰をしに来たのである。本物の女体欲しさに、焼き菓子店に寄り、土産を買ってまで。
「終わったなら、早く帰って。おうちのこと、しなきゃ」
透は昏い双眸をして起き上がった。膣内に注がれた他人の体液にも頓着を示す様子がない。彼女は自身を汚く穢れきった女だと決めつけていた。こだわりが無くなってしまったのである。そしてやはりそのほうが、彼女は余分な気力体力を使わずに済んだ。
「今度の金曜日、空いてないか」
「空いてない」
彼女はスケジュールの確認もしなかった。金曜日の自分の予定を思い浮かべもしなかった。即答である。決まりきっていた。
あずみは長い睫毛を伏せる。大きな飴玉を包むような薄い目蓋に哀愁を秘めた妙な色気がある。
「何か、予定がある?」
「別にないけれど。早く帰って。さっきのケーキ食べていく?」
透はあずみが怠げにしている間、すでに身支度を整えていた。そしてソファーから起き上がり、直通しているキッチンへ行こうとしていた。
「清里さんと、デートがしたい」
「何?それ。そういうのは付き合っているカノジョとするものでしょう」
彼女は振り向きもしなかった。レースカーテンは輝き、その下から光が漏れているくらいだったというのに、それがゆえ室内は薄暗く、透の目に光は届かなかった。
「でも、たまには……そういうのも……」
「生憎、仕事が忙しくて」
「それなら、仕事が落ち着いてから……」
「ずっと忙しいの。毎日。365日、24時間。ごめんなさいね。それで、ケーキは食べていくの?」
透はそこで止まったきりである。服を着せられたマヌカンが喋っているみたいだった。声の抑揚のなさも不気味だ。
「いいや……2人で食べてくれ」
「薫ちゃんの分もあるの?ありがとう」
あずみは重げな身振りで帰っていった。自慰は手や道具でどうにかなるもののはずだ。だが彼はわざわざ土産を買い、その足でやってくる。スーツ姿であるから勤務中ではなかろうか。しかし詳細は知らないのだった。会話がキャッチボールなのであれば、透がすべて打ち落としてしまう。
彼女は簡単にシャワーを浴びて、男の垢液を流した。そして灌水に紛れて啜り泣く。これが咲坂あずみが来た時の常であった。しかしまたあの男が来たならば、いいや、あの男でもなくても、求められたなら応じてしまうのだろう。
風呂場が濡れていることについて、1つ下の弟は何も言わなかった。そして透のほうでも何事もなかったかのように振る舞う。
弟の薫は働きに出ていた。透も正社員として働いていたが、会社が倒産してしまった。そしてそのまま家族の勧めによってフリーターとして家にいる。そしてそのことに彼女は反抗もしなかった。娘の、或いは姉の変わりように家族は気付いていたに違いない。今は近くの手芸屋に勤めている。彼女には、何故再就職について苦言を呈されたのか分からずにいたが、手芸屋で働くのはそう悪いものではなかった。継父は母を連れて海外出張だが、透の働けなくなった分の家賃や光熱費は補填してくれていた。透は半ば専業主婦と化していたが、その生活も悪くはなかった。
薫が帰宅した。彼は生まれつき色素の薄い彼はオレンジに近い茶髪で、今風の、流行的で軟派な雰囲気と相俟って誤解されやすい外貌をしていた。背は高く、色が白く、血の繋がりも顔立ちの相似もなかったが、どこか2人並ぶと似通って見えるのはその仲睦まじさによるもののためか。なかなかの好男子なのがまた軽率な印象を与えてしまう。
彼等は姉弟でありながら、新婚夫婦のようなやり取りをした。飯か、風呂か、或いは……そして弟が選んだのは姉の肉体であった。
「元気なの?」
薫は玄関で姉を抱き寄せ、その背中を撫で回す。姉は姉で身体を擦り寄せられながら、義弟に甘える。
「姉ちゃんがちょっとえっちな目してたから」
昼過ぎにやって来た咲坂あずみというのは、気紛れに陰核を触ったのだ。中途半端に彼女の感覚を煽っていった。つまり、弟によって育まれた官能と同じものをその身に呼び起こそうとして、結局のところ失敗したのである。
「そう……?」
「姉ちゃん食べてから、風呂入って、飯でも、い?自分であっためられるから……」
「いいよ、それくらいわたしがやるよ。明日休みだし……」
「おっと?無事じゃ終わらないかんな」
寝室にいく間に、廊下には道標よろしく服が落ちていく。透がベッドに転がされた時、彼女はすでにキャミソールも脱ぎ去って、ランジェリー姿になっていた。弟の筋張った手が背に添えられながら押し倒される。
「昼シャンした?ボディクリームの匂いする」
「した」
甘たるい香りが2人の間に生温く漂っている。そして薫は姉の肌を嗅いだ。
「くすぐったいよ」
「いい匂いだから」
「薫ちゃんも、ちょっと香水の匂い残ってるね」
明るい茶髪を両腕で包む。弟は彼女の首筋を柔く食(は)む。だが痕がつくことはない。そこには色の白い、肌理(きめ)細かやかな皮膚がある。彼は片手で以って器用に姉の豊満な胸を支えるブラジャーのホックを外した。引き締められていた乳房が弾むようにして寛いだ。羽毛で擽られるような繊細な力加減で峻厳な感じのする指が水みたいな脂肪を揉む。
「ん……」
胸の先端が、突起状であることを強調してきていた。いずれそこに触れることを匂わせた愛撫で、透は腰に甘い痺れが向かっていくのを感じる。もどかしさに身を捩る。行き場なく体内を駆け巡るエネルギーは、弟の少し跳ね気味な硬い髪を梳くことで発散した。彼もまたこのことに心地良さを覚えているらしかった。
彼女の意識は掌と、そして胸に集中していた。その眼はぼんやりとしている。
弟とのセックスのたびに、彼女は昔のことを思い出していた。
羽交締めにされて胸を揉まれたときのことだ。リーダー格の女子集団に対してはクラスの男子たちも逆らえはしない。クラスの中心的な生徒にしろ、クラスの端で控えめにしている生徒にしろ、男子ならばその性別で以って辱めの手段にされた。そのことについても、また主犯格は女子であることについても芯から理解していた。ゆえに彼女は特別、男性に恐怖心が遺ったわけではない。一部を除いて……
海城麗乃に次いで、畏れられていた人物がいる。名前は忘れてしまったが、海城麗乃が女王ならばこちらは王様であろう。貧乏人としてクラスの端に追い遣られるのならまだよかったが、愚民として処刑に曝されていた彼女には縁の遠そうな話であった。だが公開処刑の場に王はやって来るものなのである。
多感な時期であった。愚民が"王様"に性的アピールをしていると見做された。そして"王様"は往々にしてその隣の座を狙われるものなのだった。一口に言って、リーダー格の女子生徒たちは、"王様"と透の接触を恐れたのであるが、通りがかりの公開処刑に残忍な"王様"は興味をお抱きになられたのだ。
この"王様"が出てきてしまったことに、クラスは動揺した。そしてざわついた空気と緩んだ拘束は、現状をやり過ごす彼女に逃走の選択肢を与えた。
『デッカいおっぱい触らせてくれんの?』
透は逃げた。拘束を解いて逃げた。しかし"王様"は彼女を熨(の)してしまった。華奢な身体の上に、性差のみならず大柄な男が腰を下ろし、睨(ね)め付けていたのである。辱めであった。思考停止させやり過ごしていたクラスの男子生徒からの接触よりも堪えてしまった。
前後関係について彼女は忘れてしまったが、"王様"について、芋蔓式に思い出すことがもうひとつあった。透は"王様"の生贄になる方向に変わったのである。
まだ未通の身であった彼女はその日から、「何人もの男を咥え込んだ最低の牝犬」ということになった。腕を縛られ、リーダー格の女子たちによって、"王様"に献上されたのだった。"王様"の目の前で、スカートが捲られ、下着を取り払われ、教科書でしか見たことのない、自身ですら認知したことのない箇所へ、掃除用具入れにあった埃はたきの柄を突き入れられたのである。
損傷を恐れたそこは防衛本能が働く。そしてそのことを嘲笑われる。"王様"は満悦だったが、自分でもやりたがった。リーダー格の女子たちの乱暴な動きとは違った。"王様"の扱い方は慣れているようでもあれば、実験しているようでも、何かを確かめているようでもあった。恐ろしく悍(おぞ)ましい状況に、忌まわしい本能が働き、そしてそれは肉体に無慈悲な命令をくだす。恐怖、緊迫感。それは死へのイメージだった。死のイメージは、子孫を遺すことを命じる。錯覚は錯覚を生んだ。内側から収縮を起こして、子種を搾り取ろうとするのだった。意図にも欲にも反することであった。この肉体の急激な移行、変化を彼女は理解できなかった。しかし外野は理解した。透はこの瞬間から、ヘンタイで、欲求不満で、いやらしい、男好きの、「エロい女」「ヤリマン」になったのである。
"王様"はすぐに帰っていってしまった。リーダー格の女子たちも、従者の如く彼についていった。咲坂あずみに犯されるのはこの直後であった。
修学旅行の悲劇で"王様"が落命しているのか否か、彼女には分からなかった。しかし死んでいたとして、喜びも悲しみも感じられそうになかった。ただそこには汚辱と、しかし向き合い切れず空虚となるしかない靄があるのみだ。
透は弟に抱かれながら、腹立ちさたしさまでをもそこに掘り出してしまった。いつでも味方でいてくれる弟に対してではない。自身を虐げに虐げ、虐げ抜いたリーダー格の女子たちにでもない。ハゲタカのような咲坂あずみにでも、裸の"王様"にでもない。彼女の怒りの矛先は、或る意外な人物に向いていた。
そうだったのだ。彼女は咲坂あずみにハゲタカ的戦略をとられた後、茫然としながら帰路についた。涙も出ない。身体の痛みに耐えながら、自身に起きた悍ましい出来事も受け入れることもできず、平静を装って帰るのである。手負いの被捕食者はなおいっそう、弱みを見せてはならなかった。
『清里』
馴れ馴れしく呼ぶのは、爽やかな快い男子だ。一見野球部を思わせる清純な風貌で、透が学内虐待に遭う前から親交のある人物だった。明るく優しい、しっかり者であった。以前の印象は。
『清里、大丈夫か?何かあったのか……?』
気拙げに彼が訊ねた。彼は透の身に降りかかる災難を知っている。しかし何も知らないふりをする。だが徹底しきれない甘さが、彼女を苛立たせた。
『何も……ないよ』
とはいえ、それが逆恨みだとは透もよく承知していた。ゆえに無視することも、逆恨みを剥き出しにして八つ当たりすることもしなかった。
『あんま無理すんなよ』
無邪気ではないくせに、彼は無邪気を装っている。善人を演じている。実際、彼は成績も良く、人当たりもよかった。教師からの印象も悪くない。忙しなく、責任の大きな教員にとって手の掛かる子ほど可愛いなどということがあるわけはない。透もその点では教師に好かれていてもおかしくはなかった。この偽善者が好かれる理由、条件を彼女も満たしている。しかしいくら彼女が優等生であろうと、家柄が、世間的に裕福なほうである中流家庭であろうと、この学園では貧乏人である。後ろ盾がない。
『無理してないよ。ありがとう』
この同級生は、自身の善人ぶりを披露するために、彼女の気持ちを強く抑圧するのである。何も考えず、何も語らず、気にせず、省みずに彼女は帰りたかったのである。すべてを打ち明けて、その面をばつの悪いものに染めてしまうのも構わなかった。しかし彼女はそうしない。
『じゃあね。早く帰らないと……』
この場を誰かに見られたならば彼にまで被害が及びかねない。そしてそうすることで、優等生の面の皮を剥いでも構わなかったけれど……だが彼女は優柔不断だったのだ。
【TL】ヒロイン棄権