常識雑談を少々に、文豪の作品から面白そうなものを挙げてみる。

常識雑談を少々に、文豪の作品から面白そうなものを挙げてみる。


 早めに切り上げる。
 久し振りに京都と海外にも行ってみようかと思っているが、騒々しいParisや赤の広場で演奏が出来そうなMoscowも面白そうだ。
 来週からは国外サイト向けにも配給するので、アメーバの記事は減少予定。



 ・カードに付きTBSが政府の復習level報道なので、現場である地方公共団体の窓口との相違を通知。
 返納又は破棄を行った又は、予定を考えている国民の数は現在時点で一万を超えた。
 保険証廃止までには推定で、数十万件に上ると思われる。TBS報道で最も誤っている事は、「自主返納をした場合は、原則全ての個人情報が其のまま残る・・だが、実際には返納をする際に、書面でも取り交わす項目の中には、「返納と同時に全ての情報は削除される」が正解。
 鋏を入れても良いのだが、担当部署では「口座の紐づけ」について確認をする筈・・しなければ確認した方が良い。
 口座情報は他人が取得した場合に悪用される事が懸念される。
 原則、全ての情報は他人に開示されてもおかしくは無いシステムと言える。
 諸外国と此の国が異なるのは、地震大国である点で、台風も定期的に発生する。そういう深読みが出来ない政権では、万が一の場合には、それどころではなく個人情報は何であろうと開示されてしまうのは無論だ。



 次。
 先読みが出来無いのは政府に限らず、人類の常である。素朴に考えれば、物事は上下左右を繰り返すのが常識というもの。
 従い、現在進行中のものについては、其の反発が起きるが、自然界で代表的なものに地震が挙げられ、力が掛かれば動くという単純な仕組みなので、此れを止める術はない。
 マグマも同様であるが、比較をすれば発生の周期が長いので、火山噴火は滅多にない事になる。
 こういった自然環境を改善させる技術力も無いままで、何時まで経っても同じ事を繰り返す事になる。
 自然界では昨年の昆虫不在が今年の夏にも起きるのかという事が注目される。と言うのも、青い惑星には同じ動物であっても、昆虫のようなものは毎年一回しか姿を現わせないが、此れが生態環境の破壊に繋がる。
 原始的な食物連鎖等も其れに関係をしてくる。先般、彼方此方で見られた魚類の大漁なども、ひょっとしたらその表れであるのかも知れず、人類の食生活のバランスも変化していく可能性があり、冷凍保存で補えない事も無いが、次第に昔の生活が戻って来ない事に繋がっていく。
 人類だけに限れば、上がっているものは何時の日にか停止し始め下がり出し、逆に下がっているものは上がりだすのが常識と言える。
 株価や不動産価額も同じ道を辿るのは間違いは無いが、人類は予見が出来無いので、今が良ければ其れで良い事になる。
 因みに、不動産価値を現わす言葉の内簡単なもので三つ程挙げてみる。公示価は書店に並んでいる書籍で確認をする事も出来るが資産のある角度から見た価値の一種の目安。
 路線価とは、税に関するものであり、此れが上昇をすれば相続税など税額が高騰をするので、逆に価値というよりは生活上、税額が増えるので好ましくない面にも繋がる。
 では、実勢価格とは、正に不動産取引の際に売買される価額の事になるので、不動産屋さんの軒に並んでいる値段と同意。
 金融機関や信販会社が担保物件として契約者の不動産を査定する際には、以上の全てを参考にする。
 其れプラス、周囲の環境などもマイナス材料に加える事もあり、気にするかどうかは別とし、火葬場がすぐ近くにあり煙を嫌がるなどという者もいる。
 


 次。
 人類社会ではAIを使用したものが利用されているが、今のところ良い面だけでなく、犯罪等にも利用される面があり何処まで改善されるのかは、人類社会から犯罪が減る事があるのかどうかに関係してくる。
 スーパーコンピューターがどうであろうと、日常生活では、パソコンで変換が不便になっている事で、時代と共に語彙が減っている事に加え、前後の文脈から推測をして最も適した文字・言語を選択をするという技術に進歩が見られない。
 此の国で初めてWindowsが登場をしたのは、バブル崩壊の後の平成八年くらいだった。
 当時は、途中でおかしくなる事が毎日のように発生をし、その度に初期化をして下さいという文字~工場出荷状態に戻す意~を始終見ては恨めしく思ったものだ。
 此の年号も、海外と比較をすれば誠に不便で仕方が無い。西暦のような一貫したものに統一が必要だろうが・・皇族が・・という様な人的な配慮とは全く別の利便性や間違えを少なくするという意味では改善するに越したことは無い。
 此処でも、カードに関連する事項が指摘された。海外と此の国では気質が異なるという大事な事でもある。
 さて、時間も無くなったので文豪の作品から貼り付けをしお終い。



 科学者とあたま
 
 寺田寅彦



 私に親しいある老科学者がある日私に次のようなことを語って聞かせた。
「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的に少数である。
 この一見相反する二つの命題は実は一つのものの互いに対立し共存する二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は「あたま」という言葉の内容に関する定義の曖昧あいまい不鮮明から生まれることはもちろんである。
 論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密ちみつな頭脳を要する。紛糾した可能性の岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透す内察と直観の力を持たなければならない。すなわちこの意味ではたしかに科学者は「あたま」がよくなくてはならないのである。
 しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事さはんじの中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明せんめいに苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須ひっすなことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者いなかものであり朴念仁ぼくねんじんでなければならない。
 いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。
 頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。
 頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なくも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。
 それで、研学の徒はあまり頭のいい先生にうっかり助言を請うてはいけない。きっと前途に重畳する難関を一つ一つしらみつぶしに枚挙されてそうして自分のせっかく楽しみにしている企図の絶望を宣告されるからである。委細かまわず着手してみると存外指摘された難関は楽に始末がついて、指摘されなかった意外な難点に出会うこともある。
 頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」かのように考える恐れがある。まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。これでは自然科学は自然の科学でなくなる。一方でまた自分の思ったような結果が出たときに、それが実は思ったとは別の原因のために生じた偶然の結果でありはしないかという可能性を吟味するというだいじな仕事を忘れる恐れがある。
 頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉とびらを開いて見せるからである。
 頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。
 科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者うぐしゃの頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。
 頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸しがいの山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭がよい人は戦士にはなりにくい。
 頭のいい人には他人の仕事のあらが目につきやすい。その結果として自然に他人のする事が愚かに見え従って自分がだれよりも賢いというような錯覚に陥りやすい。そうなると自然の結果として自分の向上心にゆるみが出て、やがてその人の進歩が止まってしまう。頭の悪い人には他人の仕事がたいていみんな立派に見えると同時にまたえらい人の仕事でも自分にもできそうな気がするのでおのずから自分の向上心を刺激されるということもあるのである。
 頭のいい人で人の仕事のあらはわかるが自分の仕事のあらは見えないという程度の人がある。そういう人は人の仕事をくさしながらも自分で何かしら仕事をして、そうして学界にいくぶんの貢献をする。しかしもういっそう頭がよくて、自分の仕事のあらも見えるという人がある。そういう人になると、どこまで研究しても結末がつかない。それで結局研究の結果をまとめないで終わる。すなわち何もしなかったのと、実証的な見地からは同等になる。そういう人はなんでもわかっているが、ただ「人間は過誤の動物である」という事実だけを忘却しているのである。一方ではまた、大小方円の見さかいもつかないほどに頭が悪いおかげで大胆な実験をし大胆な理論を公にしその結果として百の間違いの内に一つ二つの真を見つけ出して学界に何がしかの貢献をしまた誤って大家の名を博する事さえある。しかし科学の世界ではすべての間違いは泡沫ほうまつのように消えて真なもののみが生き残る。それで何もしない人よりは何かした人のほうが科学に貢献するわけである。
 頭のいい学者はまた、何か思いついた仕事があった場合にでも、その仕事が結果の価値という点から見るとせっかく骨を折っても結局たいした重要なものになりそうもないという見込みをつけて着手しないで終わる場合が多い。しかし頭の悪い学者はそんな見込みが立たないために、人からはきわめてつまらないと思われる事でもなんでもがむしゃらに仕事に取りついてわき目もふらずに進行して行く。そうしているうちに、初めには予期しなかったような重大な結果にぶつかる機会も決して少なくはない。この場合にも頭のいい人は人間の頭の力を買いかぶって天然の無際限な奥行きを忘却するのである。科学的研究の結果の価値はそれが現われるまではたいていだれにもわからない。また、結果が出た時にはだれも認めなかった価値が十年百年の後に初めて認められることも珍しくはない。
 頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
 つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。
 この事実に対する認識の不足が、科学の正常なる進歩を阻害する場合がしばしばある。これは科学にたずさわるほどの人々の慎重な省察を要することと思われる。
 最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子こうしのいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子ろうしやソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。芭蕉ばしょうや広重ひろしげの世界にも手を出す手がかりをもっていない。そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。これもわかりきったことのようであってしばしば忘られがちなことであり、そうして忘れてならないことの一つであろうと思われる。
 この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑えみをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。
(昭和八年十月、鉄塔)


「わざわざ人の嫌がるようなことを云ったりしたりするんです。そうでもしなければ僕の存在を人に認めさせる事が出来ないんです。僕は無能です。仕方がないからせめて人に嫌われてでもみようと思うのです。夏目漱石~政府や報道機関にも同じ事が言えそうだ(笑)」 

「我々の生活に必要な思想は、三千年前に尽きたかもしれない。我々は唯古い薪に、新しい炎を加えるだけであろう。芥川竜之介」

「自己嫌悪がないということはその人が自己を熱愛することのない証拠である。自己に冷淡であるからだ。取らねばならぬ経過は泣いても笑っても取るのが本統だ。志賀直哉」




「by europe123 Goodby days」
https://youtu.be/GauOYmD_mxI

常識雑談を少々に、文豪の作品から面白そうなものを挙げてみる。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-07-03

Copyrighted
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