TL【蒸れ夏】炎天下の冷えた部屋【完】
全3話。転生()美少年/母親ヒロイン?/クールいとこおじ美青年?/近親相姦(?)/不倫(?)/児童虐待描写あり/暴力・流血描写あり
1
クーラーの点いた部屋で、瑠夏はぼんやり佇んでいた。彼は己が身について理解していた。
見慣れない家は平屋で、田舎を思わせる。畳の匂いが生々しい。卓袱台の上に置かれたティーパックの沈んだボトルが、冷えた汗を噴き出している。
縁側に降り注ぐ強い陽射しの透けた障子を背景に、布団も敷かず男女が縺れ合っている。
瑠夏はその2人の顔を知っていた。雨堂(うどう)夏霞(かすみ)と、雨堂 祭夜(さや)だ。冷房の温度は外気温よりやや涼しい程度の設定だった。そのために彼女たちは汗だくとまではいかずとも、汗にまみれながら交合(まぐわ)っていた。
彼は部屋の隅でそれを見下ろしていた。体位を変え、速さを変え、飽くこともなく、幼気(いたいけ)なスキンシップから始まり、悠長な前戯をし、かれこれ2時間余りの時間が経っているがまだ終わらない。
2人は夫婦だった。この国の夫婦には情交が足らないと、瑠夏は昔に本で読んだ。つまりこの若い夫婦が特異なのである。彼等は毎日毎日、働くことも忘れて交尾する。それを毎日、ここで観ている。
夫のほうが、妻の身体を覆うように乗って、しなやかな四肢に抱き竦められる。そして激しく揺さぶった。外から聞こえてくる蝉の鬱陶しい叫びとクーラーの呻めきに淫声が混じり、互いの肉体を絶頂へ至らせたらしい。
冷ややかに、引き攣れて戦慄く男女の重なりを見下ろす。
瑠夏は己が身について理解していた。ここは地獄であることも。
瑠夏は水の中に沈むような耳鳴りを覚えた。視界もまた、澄んだ水の中を揺蕩うようだった。光が蜘蛛の巣を描き、水中だというのにそれは鮮明だった。目蓋の裏をスクリーンにして映っているが、開目した途端に消えた。
彼は存在していた。彼は肉体を持っていた。彼は抱き上げられていた。真上には、雨堂夏霞の慈愛に満ちた顔がある。彼女は母親だった。瑠夏は瑠夏ではなくなった。彼は生きていなかった。だが産まれてしまった。
雨堂夏霞は男児を分娩したのだ。父親は、雨堂祭夜に違いなかった。2人の息子の夏夜(かや)は、父母のどちらにも似ていなかったけれど……
夏夜はすくすくと育った。両親は老けなかった。父方のいとこおじといとこおばの鯉月(あかつき)舞夜(まや)と鯉月海夜(みや)というのは、意地が悪く、陰湿だった。母方の大叔父については、忌み嫌われていた。迂愚なほど人の好い叔父がいなければ死んでいたかも知れない。母方の大叔父は、夏夜を誘拐し、山へ埋めようと目論んだのだ。近付くのを極端に嫌がる父方のいとこおばのほうがまだいくら良心的であった。彼は両親を除くと、望まれた子ではなかったのだ。嫌われ、疎まれていた。虐げられてもいた。母方の大叔父は会うたびに陰で嫌味を口にして、抱き上げようとはしなかった。叔父は愛想笑いを浮かべはするが、目を合わせようとはしなかった。父方の祖母だけが、唯一優しかった。
夏夜は色の白い、玉質の、類稀なる美少年へ成長した。彼は成長した。時が経つにつれ、幼児は少年へと。しかし相変わらず、彼の周りの人々はまったく老ける様子がない。夏夜だけに時が流れているようだった。
夏夜はその日、父方のいとこおじに手を引かれて山へと連れていかれた。セーラーカラーの半袖シャツに半ズボン。頭には麦藁帽子を被り、肩から黄色の水筒を下げている。腕と膝に子供用の日焼け止めと虫除けスプレーを施してもらった。
いとこおじの鯉月はスコップを担ぎ、夏夜を引き摺っていく。
「鯉月おぢさん、ボクのこと殺す気なんでしょ」
ジリジリと蝉が鳴いている。木の落とす陰は濃く、地面をぼろぼろと覆う砂礫は輝き、その上を這い回る蟻は真っ黒く焦げている。だというのに、乱暴な父方のいとこおじは涼しげだった。
「ああ」
彩りのないステンドグラスめいた翅が運ばれていくのをトリコロールカラーの小さな靴が踏み締める。
「鯉月おぢさんはママが好きなんだ」
振り向きもせず、容赦のない歩幅で鯉月は先に行く。夏夜が転ぶことにも頓着しない。
「ボクを殺したら、ママとパパに恨まれちゃいますよ」
「お前の父親は俺かもな」
夏夜は歩みを止めた。
「嫌だな、鯉月おじさん」
「お前をお前の母親の腹に仕込んだ日のことはよく覚えている」
「そんなことを言うのは、児童虐待だと思います」
鯉月が振り返る。スコップを持った手が振りかぶられた。哀れ、雨堂夏夜。柔らかな頭が弾ける。太陽に炙られるような白昼での出来事だった。
夏夜は夜に目が覚めた。クーラーの軋りを聞きつつも、背中は汗で蒸れている。もう一度眠るつもりが、父方のいとこおじに対する悪辣な嘲笑で、意識が冴えてしまった。彼は真横で寝ている母親の胸を探る。
「ん……夏夜ちゃん、おっぱい?」
優しい母親はいつでもいい匂いがした。
「ママ、ママ……」
夏夜は母親の乳を吸った。哀れな男のことを思いながら飲む母乳は美味かった。優しく可憐な母親は、息子の邪悪な精神を知る由(よし)もない。
彼は母親の乳頭を、番いの女にするかのように扱った。
「夏夜ちゃん………ぁ、」
指で摘むと、母乳が流れ落ちてくる。
「ん……こっちは、ダメ」
口を付けていないほうの乳を隠されてしまう。夏夜は舌先で乳頭を転がし、母乳を吸った。かつて別の生として味わったもののはずだが、まったく覚えていなかった。そしてこの実母相手ではまた別の意味合いになる。栄養補給とは異質の、さらに大きな意味合いが。
夏夜はこの母親の乳頭を甚振った。噛み千切ろうとははしなかった。引き千切ろうともしなかった。ただ飲むため以外の動きがあった。薄手の布団の中で母親が身動ぐ。甘い匂いが膨らんだ。
「ん……っ」
「ママ」
夏夜は自身の肉体を好きなように扱った。かつての生では叶わなかった接触がそこにある。母親の唇を吸った。
「夏夜ちゃん。そこはパパのだから」
薄暗い悦びが湧くのである。両親の仲が良いことに。
「ん~……?夏霞ちゃん、起きちゃった?」
母親の奥には、父親が寝ていた。
「夏夜ちゃんがね。今、おっぱい飲ませたの」
「お外で寝かしつけてくるよ」
父親は目元を擦って、息子を抱き上げた。藺草臭い部屋を出た途端にむわりとした空気に包まれる。外では虫が静かに鳴き、砂利を踏む音が染み渡っていく。星の煌めいた空を、父親は仰いでいた。
「ママがいい」
父親のあやし方が、夏夜は嫌いだった。
「ママはもうお寝んねしてるからねぇ」
「ママ」
「だぁめ」
この両親が無条件に子を愛することを夏夜は理解していた。どのような子であろうと、捨てたりはしないのだろう。
「パパ、嫌い」
夏夜は父親を押し退けた。かつての生が途絶える直前に、この肉体の固さを知った。小さな手で懐かしく思った。
「そんなこと言ったらパパ、泣いちゃうよ」
あまり賢くはない、軽い調子の父親だった。子に甘いのも今だけなのではあるまいか。
「夏夜ちゃんはね、夏の夜空みたいに広くて大っきな子になるんだよ」
夏夜は頭の悪い呑気な父親を蔑んでいた。
「夏夜ちゃんがママのお腹の中にいるときね、ママと決めたんだ。あの時は夏じゃなかったけど……」
父親の話は聞くに値しなかった。容貌だけでなく体質も似ない。汗ばみやすい父親が汚らしかった。だが夏夜は逞しい腕を揺籠に安心しきって寝てしまった。
蝉のうるさいところだった。自然豊かな沢だった。蝉がうるさいのは周りがあまりにも静かだから。谺(こだま)が谺を呼ぶようだった。遠くのどこかで水に何かが落ちる音さえ聞こえてくる。暑さにも音があるが、涼しさにも音がある。
夏夜は気温も湿度も低い沢の傍で石を積んで遊んだ。冷房のような涼しさに水気が加わっているが、じとじとと不快な湿気ではない。
「パパ」
石が綺麗に積み上がったことを、この子供は優しい父親に見せたかった。単純な気性の、迂愚で記号的で、軽率な、その場凌ぎの優しい父親に。
「俺はパパじゃない」
沢を渡って向こう岸にいるのは、父親のいとこだった。叔父さんというものだと思っていたが、父親のいとこを「おじさん」とは言わないらしい。
「俺はお前のパパじゃない」
鯉月は兄妹揃って意地が悪かった。妹のほうに何かされたわけではないけれど、嫌われているのはよく分かった。女子高生くらいだったと思ったが、夏夜にとってあれくらいの女というものはみな優しかった。かわいい、かわいいと言ってちやほやしたものだった。
「パパじゃない」
夏夜は繰り返した。
「パパだと認めてくれるなら、悪い話じゃないがな」
鯉月はベージュのカーゴパンツの裾を膝まで捲り上げて、沢を渡って来ようとする。夏夜はそれを珍しいと思った。鯉月は毎日が葬式みたいに黒い服装ばかりしていたし、肌を見せようとしなかった。ベージュのカーゴパンツも、膝まで裾を捲り上げるのも、変な感じがした。
白い波が鯉月の膝に当たって、捲られたカーゴパンツの色を変えていく。
「パパなの?」
「母親に訊いてみろ」
「パパは?」
鯉月は答えなかった。そして積み上げられた石を足で蹴り崩した。夏夜はそれを見た。
「パパに見せたかった」
「その父親は、母親に見せたかったと言うさ」
「ねぇ」
夏夜は性格の悪い鯉月の服を握った。真っ白な顔を見上げる。周辺の水気を含んだ髪が艶やかさを増している。彼もこの子供を見下ろしていたが、視線が搗ち合うと、急に怯えた表情を見せた。
「ママのコト好きなの?」
大きな掌が後頭部に当たった。そして数歩押され、夏夜は小川の中で転んだ。だが起きることは許されない。むしろ子供は顔を水につけていなければならなかった。やがて、四肢は水流に委ねられて、動かなくなる。
夏夜は小学生にまで成長した。だが父母はそのまま、息子が生まれたときと変わらなかった。父親は相変わらず愚鈍で、母親は清らかであった。夫のいとこと人倫に反した関係を持ってはいるが。
彼は母親が昼に不倫をしてから、夜に父親と睦んでいることを知っていた。
若夫婦の寝ている隣の居間を覗く。父親は犬みたいな体勢で、裏返したヒキガエルみたいな体位の母親に乗っていた。下半身は結合していることだろう。ヒトではこれが正常位とされている。
「夏霞ちゃん……気持ちいい?」
鈍才な父親は肉付きばかりは野生的で、引き締まっていた。健康的に焼けた肌といい、視認しやすい筋骨の曲線といい、色事に於いては女を満足させられるらしい。不倫相手では出さないような嬌声が静かに聞こえる。
「気持ちいい……大好き」
煎餅布団が擦れていく。クーラーの音が溜息を吐いているみたいだった。隣の部屋で寝ている息子が、父母の交合を覗き見ているなど、彼女たちは考えもしていないようだった。
冷房の小さな光も届かぬ陰で、さらに濃く陰を帯びた夫婦が揺れ動く。
「ここ、好き?」
「全部好き」
ドレンホースからではないところから水音が聞こえた。
抜作の父親は、母親に塗りたくられた別のオスの匂いに気付けるのか否か。
「夏霞ちゃん、イきそう?きゅんきゅんになってる……」
「あ……ぁっんぅ、聞こえちゃ………」
だがもう息子はほとんどを聞いていた。
「じゃあ、キスで塞いじゃうね」
暗さで見えなかった。だが静かな物音たちが想像を掻き立てる。肌と肌のぶつかる音は控えめに、しかし速まっていく粘着質な水音と息遣いによって母親と父親は強い官能を覚えていることが息子には十分伝わった。肝心なところは案外、視覚ではないのかも知れない。
「ん……、ちゅ………んふぅ……んっんっんっ、ぁんんっ」
かたた……と布団近くの卓袱台が小さく揺れた。
「ん、ぁっ」
母親と父親の絶頂はやや母親のほうが速いようだったが、これは競争ではない。夫婦の情事について、ほぼ同時といって差し支えなかった。夏夜には扇風機が当たっていたし、情交が終われば襖を開けて冷気を送るつもりだったのだろう。温気(うんき)は心地良かった。だがこの子供は妙な蒸し暑さを覚えた。大きな意志が、小さな肉体の中に芽生えていた。自身の力で母親をあのようにしたいと。
そして次の朝には、父母は健やかな顔をして、安らかに眠っていたかのような顔をして夏夜の前に現れる。いいや、本当に安らかに眠ったのだろう。健やかな顔をしていられるのにも深い理由があるのだろう。
朝ごはんのために両親と卓を囲む。きゅうりとツナ缶、タマネギをマヨネーズで和えたものをトーストに挟んで食べる。ゆでたまごも付いていた。夏夜はオレンジジュースで、父親は牛乳、母親は麦茶が常だった。教育テレビを観ながら、穏やかな時間だった。
「夏夜ちゃん、どうしたの、ぼーっとして」
隣の母親は子供の背を摩った。そして覗き込む。
「タマネギ、ちょっと辛かったかな?抜いちゃおうか?」
「お~、じゃあパパがタマネギ、ぜんぶ食べちゃうぞ」
父親がにかりと笑って菜箸を手にした。
「ううん、違うの」
母親が不安げな顔をして、小さな額に柔らかく手を添えた。
「お熱?寝てるとき寒かった?」
「違うよ、ママ。なんでもないの」
父親と目が合った。息子がまさか、自身の妻に対して野心を燃やしているなどとは、つゆほども思っていないのだろう。そういう呑気な顔だった。
「そう?気持ち悪かったり、どこか痛かったりしたらすぐに言ってね。ママとパパは、夏夜ちゃんが一番なんだから」
それが大人の、特に親の言う嘘で建前であることをこの子供は知っていた。だがそれでいいのだ。その嘘が平然と吐けてこそ親だ。この子供は、敢えてわざわざ比較して、親の本性を暴こう、試そうなどはしなかった。
「うん。へーき。朝ごはん、美味しいなって思ってたの」
母親が愛しそうに息子の肩を抱き締める。
「きゅうり好き?よかった」
母親は料理上手だった。だがさすがに夏場に朝から焼いたり煮たりは厄介だったのだろう。それを後ろめたく思っているのは知っていた。ゆでたまごを作るのだって面倒だろう。
「今日、舞夜(まや)くん来るから……」
少しだけ父親の調子が変わった。夏夜は敏くそれに気付いた。
「うん。覚えてるよ。お昼ごはん、どうしようかなって、思ってて……」
「何か頼もうよ。ピザとかさ。お弁当でも。オレ買ってくるよ」
「そうね。せっかく来てもらったのに手料理っていうのも」
夏夜という子供は、大人から見るとぼんやりとした鷹揚(おうよう)な性分の子らしかった。今もまた父親の話をぼんやり聞いていた。意地の悪いいとこおじがやって来るらしい。母親が目当てなのだろう。まったく、夏夜というのは嫌な子供である。
「夏夜ちゃんに会いたいんだって」
それはおそらく方便だ。
「そう……よかったね、夏夜ちゃん」
「うん!」
この子供は陰湿な大人の悪癖について、父母に言いつけたりしなかった。偏(ひとえ)に両親を困らせたくなかったからだろうか?いいや、そのような殊勝な心掛けはこの狡猾な子供にはない。この子供は楽しんでいた。鯉月の捻り曲がったやりくちを。何も知らない両親のめでたさを。耐え忍ぶ可憐な己を。
母親の微かな渋った表情にも夏夜は知らないふりをした。
「おぢさんに会うの、楽しみ!」
朝飯を済ませると、夏夜は父親に連れられてラジオ体操に向かった。
「ママ、ちょっと元気なかった」
手を繋がれながら、夏夜は父親の様子を窺った。
「夏バテしちゃったかな?」
父親は振り返らなかった。このように傍にいて、幼い息子を不安にさせる所作は保護者として相応しくなかった。俯いたような父親の半歩後ろからの姿を見上げた。
「ボク、いっぱいママのお手伝いするね」
すると父親は歩みを止めるのだ。振り向いて、夏夜を抱き上げる。父親は清涼感を残すシャンプーの柑橘類の匂いがした。
「夏夜ちゃんは賢い、いい子だなぁ。ママに似たんだな。よかった、ママに似て」
「どうして?パパには、似てないの?」
「パパはママが大好きだからね。大好きな夏夜が、大好きなママに似てくれたら、パパも嬉しいんだ」
夏夜はあざとく首を捻る。
「よく分かんないや」
「いつか、分かるよ」
父親は、世間の当然を当然として受け入れる単純な人物だ。息子も当然に、他者を愛し、子を遺すと思い込んでいる。否、疑っていない。いやいや、それがまだ何も分からぬ子供に対するには正しい接し方なのかも知れない。それを質(ただ)すのは自我と自論を持ってからで良いのかも知れぬ。
「ママもパパに似てほしいって言う?」
「うん……言うよ。言うと思うな」
朝早いラジオ体操は、朝食を摂ってからだと時間的に余裕はなかった。寸前で到着する。人懐こい父親だ。近所付き合いは悪くないらしかった。愛想よく周りに挨拶し、夏夜を並ばせた。
田舎の公民館の駐車場だった。育成会の係の大人はいたが、基本的には子供たちだけだった。それが普通のようであったし、雨堂家はいくらか過保護な感じさえあった。夏夜も両親が過保護であることには気付いていた。だが悪い気はしなかった。
ラジオの音は歪んで聞こえた。不協和音のように思えた。ほんの3分間ほどの体操を終え、カードにスタンプを貰い、父親と家へ帰る。
「お昼ごはん、何、食べたい?」
「さっきごはん食べたばっかだから分かんない」
父親の息子のほうを見なかった。ただ温かく厚みのある手を引いていく。余裕の持てない者は親になるべきではない。この嫌な子供の評価基準からいって、この父親は親として不適当だった。
「ママは何食べたいかな。クーラーの効いた部屋だから、あったかいものがいいかな」
「スイカがいい」
「スイカはごはんじゃないよ」
父親は微苦笑して、行きと同じように息子を抱き上げる。その笑い方がこの男らしくなかった。けれど夏夜は気付かないふりをした。
「パパは?」
「パパはね、ひやむぎ。でもそう言うとママが作ることになっちゃうからね。ひやむぎ、冷たいケドね、作るときはお湯沸かすから熱いんだ」
「パパは作らないの?」
妻側に家事を丸投げする夫というのはありがちな話だ。だがあの母親は尽くすのが好きなのだ。無能な夫に。いいや、優しいだけの無能な夫に家事を任せて、事が複雑化することを避けているのかも知れない。
「パパはママにお料理できないと思われてるから。パパが作って驚かせちゃおうか」
夏夜はどこか引き攣ったような父親の愛想笑いを冷ややかに見つめていた。この子供は聡いが、あまり表情について豊かではなかった。消去法でいえば、確かに母親似というほかない。
徒歩でラジオ体操ほどの長さもないところに自宅がある。夏の朝だが、田園風景が少しばかり白ずんで見えた。昨日の分が夜間に放熱しきれなかったようではあるものの、まだ暑がるほどの気温ではなかった。
「帰ったらちゃんとお水飲んで」
普段は母親が父親に言っていることを、父親は自身の言葉とばかりに口にした。夏夜は頷いた。
「パパはお野菜に水をあげてくるからね」
そうして庭で別れる。玄関に入ると母親が出迎えた。目線を合わせるために式台で屈む。エプロンの奥で撓(たわ)む襟元から胸が見えた。夏夜はそれが恐ろしかった。
「おかえりなさい。さ、お手々洗いましょう」
「ママ、お辞儀するとおっぱい見えちゃうよ」
「えっ」
母親は洗面所までついてきた。そして夏夜は何事もないふうに告げた。鏡越しに捉えた母親は狼狽えていた。
「ああ、ごめんね。ありがとう、夏夜ちゃん。自分で麦茶、飲める?」
「うん」
着替えに行ったのだろう。テーブルに麦茶のボトルと、息子愛用のプラスチックのコップを置いて、母親は引っ込んでしまった。
この子供は可愛げがないほど聞き分けがよかった。母親の言うとおりに石鹸で手を洗い、父親の言いつけどおりに水分を摂った。鯉月のいとこおじは夏夜は悍(おぞ)ましがるけれども、あのいとこおじが純真無垢とは大人たちの希望でしかない、非道で邪悪な一般世間の子供たちと上手くやっていけるとは到底思えない。
玄関が開く。引戸はガラガラとうるさいものだった。しかし家族の出入りがよく分かる。夏夜は父親を出迎えた。
「ちゃんとお水飲んだ?」
父親は採れたての野菜を抱いていた。ナスときゅうりとトマト、ゴーヤがシャツの裾に包まれて、割れた腹を晒していた。夜になると、この小麦色の筋肉質な身体で母親を困らせるのだ。母親が淫らに甘えて鳴き叫ぶ根元に、この鍛えられた身体がある。それに反して、性格の捩り曲がったいとこおじは、腹は割れていたけれども、父親のようなはっきりとした起伏は窺えなかった。色も白かった。背丈はあるが、どうしても痩身な印象を与えてしまうのは頭身のバランスのせいか、骨格のためか肉付きのためか。いずれにしろ、それは淡白に思えた。母親と夜中に、息子の眠る部屋の近く、クーラーの下で、汗ばみながら交合うだけの気概がないように見えた。そうするにはあまりにも行儀がいい。そうするには品が良すぎた。性格は悪いけれど。
「飲んだよ、パパ」
夏夜は甘えた声を出して、望まれた可愛い息子をやった。
2
母親の柔らかな肌に抱かれて風呂に入っていた。後ろから抱えられ、ココナッツの香りがする入浴剤の溶けた乳白色の湯を、負けじと白いなめらかな手が寄せて打ち掛ける。
「ちゃんと温まらないとね」
豊満な乳房が背中に当たっていた。
「ママ」
夏夜(かや)は振り返った。洗ったばかりの髪をタオルで巻き上げ、白い水面の反射した母親の顔は、いつにも増して美しく見えた。夫のいとこに吸われていた唇を夏夜も吸った。吸われていたのだ!
「夏夜ちゃん。ダメだからね、ママが相手でも、勝手にそういうコトしちゃ……」
「はい、ママ。ごめんなさい」
聞き分けのいい、素直な息子だった。育て易かろう。やんちゃもしないのだ。けれど、保護者としての建前でしかなかった。父親と同い年のいとこおじにキスされていたときは、とても合意があったとは思えなかった。
「夏夜ちゃんも、誰かに勝手にされそうになったら、ちゃんとダメって言わなきゃだめだからね」
「うん、ママ」
だが、いとこおじはやめなかったではないか。母親を力尽くで抱き締めて、無理矢理に唇を吸っていた。
この不気味な息子は、まるで知らぬふりをした。けれど確かに、母親は父親でない、つまり彼女の夫ではない男に腕を引き寄せられ、キスをして、交尾していたのだ。
母親を見詰めていると、鼻の下がむず痒くなった。両目と鼻の間がつんと沁みた。乳白色の漣(さざなみ)に沈むまろかなふたつの浮島に赤いものが散る。
一瞬の沈黙と、焦燥の目に捉われる。
「夏夜ちゃん……?」
湯が狭い函(はこ)の中で大きく揺れた。母親の裸体が乳白色の緩やかな水面から現れる。子供の鼻血は止まらない。瞬く間に風呂の中は薄紅色へと化していく。いちご牛乳よりも濃いように見えた。鼻を摘まれても、それは流れ落ちていく。
こういったことは初めてだった。
夏夜は抱き上げられて浴室から出された。ひんやりと皮膚を剥いでいくようなはっきりした空気に包まれる。
「誰か来て!お願い!誰か!」
母親は丸裸のまま狂乱していた。バスタオルの上に子供を寝かせている。鼻血を垂れ流しながら夏夜は裸体のまま水だの氷だのを用意する女の後姿を眺める。水に濡れたタオルが首と額に触れた。だが母親はそこにはいない。
父親が来たのだと思った。夏夜は頬に触れた硬い手の主を見上げた。
「上を向くな」
嫌な子供だった。駆けつけてくるしかなかった意地の悪いいとこおじをみとめ、陰湿に嗤ってやる。子供が嫌いで仕方がないといった無愛想に変化はない。間引きをするみたいな所作で大きな手が細い首を横に回す。
「パパは……」
「パパはいない」
あまりに容赦のない冷淡な口ぶりは、もとからそんなものはいなかったとばかりだった。
「ごめんなさい、鯉月さん。夏夜ちゃんの鼻血が止まらなくて……パパは……」
裸よりもさらに具体的なところを見せ合っている仲であろうに、母親は小さく屈み込んで、夫のいとこに背を向けていた。
「俺がやっておくから、あんたはタオルでも巻いてきてくれ」
「あ……パパは………」
子供を嫌悪する手がティッシュで血を拭っている。
「さっき出掛けた。コンビニに」
夏夜は母親の戸惑いの横顔を見ていた。気付くと鼻血は止まっている。だが次の展開を考えれば、ふたたび出そうなものだった。
「ごめんなさい。夏夜を頼みます……」
母親はすまなそうにして、そそくさと浴室に戻っていく。
「パパになればよかったのに」
父親のいとこおじは喋らなかった。ぺったりと座って団扇で風を送るのみである。
やがて身体についた息子の鼻血を洗い流してきた母親が、タオルを一枚巻いて風呂から出てきた。父親のいとこおじは黙って腰を上げると、あの母親と同極の磁力でも持っているみたいに去ってしまった。
「ママ……」
「夏夜ちゃんもちょっと身体流そうか」
そうして生温いシャワーを浴びる。鼻血を洗い流す。湯船は空になっていた。
父親はどうしたのだろう?父親はこの嫌な子供が服を着替え終えたときに帰ってきた。いとこが来ているために、アイスだの酒だのを買ってきたらしかった。
「夏夜ちゃん、鼻血出しちゃって……」
両親がひそひそと出入り口で話していた。居間の隅で黙って団扇を振っているいとこおじを夏夜は振り返った。一番生温いところだった。あの男は冷房が嫌いなのだ。
「大丈夫かな」
「オレもそういう子供だったから。オレに似たんだね」
父親は母親ほど不安に思っていなかった。それが一番丁度良いバランスなのかも知れなかった。だが楽天的過ぎはしないだろうか。夏夜は、ほぼ赤の他人みたいな親戚のおじさんから目を離し、気の利かない父親に目を遣った。そして父親と目が合うのだ。
「ごめんな、夏夜ちゃん。傍に居てやれなくて。不安だったろ」
「んーん!ママとおぢさんがいてくれたからね、平気だったよ」
本当に嫌な子供だった。だがこの両親は子供を、特に自身たちの息子について、純真無垢で、現代の聖人君子と決めてかかっていたし思い込んでいた。信じるも疑うもなく、それが当然のようだった。それを見透かした。母親の顔に過(よぎ)った焦り、父親の呆気にとられた顔。その責任を果たそうとはしない。何故ならば何をしても無辜(むこ)として扱われる子供だからだ。
「そうなんだ。あ……舞夜(まや)くん、迷惑かけちゃってごめんな」
夏夜は嘲った。父親の日に焼けた顔はいつでも健康的だった。だが血の気が失せていた。
「別に……」
哀れな父親と哀れな親類の作る肌のぴりつくような静けさを無いものにして、所在なく高校野球の特集を観ている母親に抱き付いた。
「ママ、ごめんなさい。鼻血出しちゃって、ごめんなさい」
ボディクリームの甘い匂いが夏のさらさらしたジェルタイプに変わっている。桃に似た爽やかな花の香りがする。
「いいのよ、夏夜ちゃん。夏夜ちゃんの謝るコトじゃないのよ。ママのほうこそごめんね、長湯させちゃったね」
柔らかな肉感と穏やかな匂いを求めれば、それが当然に返ってくる。
隣で寝ているはずの父親がいなかった。もう片方の隣には暗闇に混ざりたい願望のある黒装束の親戚がこちらに背を向けて寝ている。夏夜は静かに起きた。物音を殺して這い、居間を覗く。父親は母親といた。家族団欒の中心にある卓袱台に手をつく母親に後ろから抱きついている。カエルの交尾に似ていた。猫の交尾に。
「あ………ぁっ、んっ」
母親は口元を押さえていた。クーラーの電源のグリーンの光と、タコ足配線のオレンジの光、モデムの青い光。それらが協力して、薄らと影絵を作るのだ。
「いつもより、感じてる?」
父親の息を潜めた声が、冷風に乗せられてよく聞こえた。
「ん……っ、だって、怖い………」
「聞こえないよ。お酒、飲んでたし………」
いいや、いいや、ここで心配するべきは大人の鯉月おじさんではなかろう。夫婦が交合など当然のことなのだ。だが子供はどうだろう。子供に人の性の、それも父母の交わりについて知れたとき、どう説明するつもりなのだろう。ある種の虐待ではなかろうか。この父親について、夏夜は反発を抱いた。そして肉体を熱くさせた。
父親は腰を打ちつけた。母親の甘い吐息が沁み渡っていく。
「あ………っんっ」
肌がぶつかり合う。母親はまだ女で牝だ。身体は熱い。だがそれだけだ。夏夜はまだ牡ではなかった。その兆しはあれどはっきりした反応でいえばしがない無辜の児童でしかなかった。感覚に肉体を馳せ、ませた罪深い薄穢れた子供になるには聡明だった。
「ぁ……も、イく………祭夜(さや)ちゃん、イっちゃう……」
視界が塞がれる。クーラーの電源の光に、或いはタコ足配線のライトに網膜を灼かれたものかと思った。
「子供の見るものじゃない」
後ろから伸びてきた手はそのまま容赦なく、子供を布団に叩きつけた。
「パパとママが赤ちゃんを作るところを見るのは、ボクの義務なんだよ、おぢさん。息子(ボク)がどういうふうに生まれたのか、見せるのが義務なんです、おぢさん。ボクが生まれていない世界線を見せるのが。負け犬のおぢさん」
闇夜に紛れるしかない惨めないとこおじは夏夜にガーゼケットの掛布団を投げ、上から枕を押しやった。そして襖を開け放った。窒息させられかけながら、この子畜生はけたけた笑った。きゃっきゃっとはしゃぐように笑った。敷布団のシーツを蹴って大笑いした。
夏夜は中学生になった。両親も親戚連中も相変わらず老けなかった。夏夜だけに時間が流れている。彼の背丈は小柄なほうだったけれど、その頃になると母親より少し高くなっていた。父親の目線に近付く。法的に被保護者であるけれど、肉体的にいえば、いつまでも被庇護者というわけにはいかなかった。
低学歴で無能、低収入の父親のようにはなりたくなかった。夏夜は勉強に励んだ。そして麦茶でも飲もうと階下に降りたとき、彼は母親が抱擁されているのを見た。相手は父親ではない。父親が頼み込んで息子の家庭教師にしたいとこ、つまり夏夜にとってのいとこおじだった。
「あれは俺の子なんだろう?進学したいなら、俺が出すのが筋だ」
夏夜は隠れもせず、そこに佇立(ちょりつ)していた。そして桜色の唇で弧を描いていた。
「わたしと祭夜ちゃんとの子に決まってるでしょう……?」
夏夜は、母親が近しい不倫相手に喰われる様を黙って眺めていた。用のある冷蔵庫を塞いでしまっていた。小さく唸る大型家電に手をついて、片脚を上げられながら突かれている。低能で夜の営みくらいにしか取り柄のない男に、何故あの不倫相手が負けたのか夏夜には分からなかった。
「あれは俺の子だ」
「違う……!」
母親は口元を押さえて嬌声を漏らす。立っていられなくなったらしい。冷蔵庫の前にあるテーブルに上体を乗せた。そのまま片脚だけで身体を支える体位は変わらなかった。
「違う、違う!祭夜ちゃんとの子……!」
泣き叫ぶように喘ぐ姿を夏夜は爛々とした目付きで凝らしていた。淡紅の唇からは真珠めいた歯を覗かせて。母親が女であることの喜びだ。それは母胎回帰の喜びだ。求めるのは安らぎだったであろうか?死を伴わない己の消去であっただろうか?いいや、劣情だった。神秘とは常に悍ましく、その悍ましさの深奥にあるのは欲情だ。
「あんたの旦那も分かってるぞ。薄々な」
母親はそのとき、一際甲高い淫声を上げた。息子に聞かせるつもりだったのかも知れない。
「う、うそ………」
「旦那だけじゃない、本人もな」
テーブルが軋んだ。そういう動きには適していないだろう。不安な音がする。母親は仰向けに倒されて、正面から抱き合う。
理に適っていると思った。無愛想だが優秀な胤で子を作り、育てるのは愛想の良い、子供好きな男。豪勢で贅沢、絢爛な暮らしはできないが、食うには困らない。文化的にも豊かであったし、何かに貧した覚えはなかった。父親の近所付き合いの賜物といってよかった。ただ大学進学の大きな壁が横たわるのである。しかし奨学金という手があり、また夏夜はその点に於いて心配するところのない優等生であった。だが今になって、本当の、ここでいえば生物学的父親というものが名乗り出してきたかたちなのだろう。
夏夜は邪悪な笑みを浮かべた。人倫に悖(もと)る身内の行いは彼にとっての一種のエンターテイメントであった。
「そうやって、騙す気なんでしょう……?」
「早く旦那と別れて、解放してやれ」
オスがメスの腹を掴んで腰を叩きつける。
「あ、あ、あ……!」
「息子とあんたは俺が養う」
けれどメスというのは得てして気が強い。そうでなければ悍ましい神秘というものが成り立たないからであろう。女の顔をして、不倫相手の頬を白い手が張るのである。
「それならもっと早く出てきなさいよ、卑怯者」
夏夜は足の裏から込み上げてくる灼熱のかぎろいを悟った。
「手がかからなくなってから出てきて、どういうつもりなの?この腑抜け!」
どの父親も、結局はどうしようもないのだ。
「分かった、祭夜ちゃんには全部話す。でもあんたとは結婚しない」
母親も女だった。低収入の無能な夫でも稼ぎ手である。息子の学費についてどう考えているのだろう。否、母親の子であることは間違いないのだ。小金持ちの大叔父を頼る気なのだろう。
「俺の子にせよ、祭夜の子にせよ、こんなことが知れたら離婚になるだろう。そうしたら生活はどうする?」
答えはなかった。答えられなかったのだろう。威勢だけだ。しかし哀れにも思うのだ。その関係の始まりは強姦だったのだから。そして夫との営みのなかでいざ宿った子を産んでみれば、それは夫のではない胤だった。
「ボク、大学行かないよ。高校卒業したら働く。だから黙ってていいよ、ママ」
夏夜は当然のように、その場に割って入った。
「ああ……」
母親の嘆き!母親を父親から奪うろくでなしの驚き!
「ママは父さんが好きなんだし、父さんもママが好き。ボクもママと父さんが好きなんだから、ここで別れるのは裏切りだと思うな。ここで別れたら、父さんはママのコト、最初から好きじゃなかったんだよ」
父親の陰茎と母親の膣がなければ、夫婦は分かり合えないのだろうか。男の勃起したペニスと、よく濡れた女の膣がなければ、幸せな家庭は始まらないのだろうか。
「夫婦はそうもいかない」
「まずはママから出ていけよ、ハゲタカ野郎!」
夏夜は父を嘲笑ってやった。子捨て男を嗤って。低学歴で低収入、肉体と愛嬌にしか取り柄のない無能な男に負けた寄生虫。そして今まさに母親を苦境に立たせようとしている。夏夜は母親の庇護者になる面に迫っていた。
「どうしてもと言うのなら父さんにはボクから話してあげます!雑草は名前を知ったときから雑草じゃなくなるんですよ。それと同じです。あの人はボクの名前を考えてくれたワケです。あの人の中で有象無象のガキ畜生じゃなくなったんです、ボクは。父なんですよ。ボクのね」
ハゲタカ野郎は母親から出て行った。そして身形を整えると夏夜を睨んだ。
「所詮お前には理解できない感情だ」
夏夜は居間を見上げて、天井にぶら下がっている父親と視線を交わしていた。これが愛情である。だらしのない父親だ。低能の足掻きといったところだろう。
問題はこれをどう母親に説明するかだった。哀れな女だった。立派な陰茎に悪しき胤が詰まっているばかりに。何の事情も知ろうとせず、それを背負う器もないくせに人の親になろうとした。思慮の浅い哀れな男である。矮小な。だが猜疑と良心に満ちた後半の人生というものに同情もした。だがいくら想像を巡らせても理解のできない事柄である。愛した女の血を引いていることだけは本当であるのに。
夏夜は父親の死を己の出生にあると決めつけた。他に、単純な能無しろくでなし甲斐性無しの男が首吊りに至る理由が見つからないのである。
可愛げのない息子であった。孝行心のない息子だった。働きに出た母親に知らせないで、まず警察に連絡をした。情が先走って遺骸を下ろす選択もとらなかった。妻を抱いた腕、妻を吸った口をただ見上げて竪立(じゅりつ)する。胤を遺せた気になって、遺せていなかったなら、名付け、結局は他人だった者に己の生き様を記すだけ記し、己の価値観に染めるだけ染め、手前がつらくなればさようならというわけだった。母親はそうではなかった。血を分けてしまった夫ではない胤を育てねばならない柵(しがらみ)に囚われている。
案の定、母親は泣き崩れるのだった。そして灰のように無味無臭になるのだった。母親は女だ。だが親になろうと人の情を忘れられないのだ。あれもこれも大切にしようとする。
「父さんはボクもママも愛してなかっただけですよ。裏切られたんです、ボク等は。夢を見せられていたんです。愛されているという夢を」
愚鈍な父親は、人を愛する能もなかった。
父親は家族葬で見送った。。雨堂家と父親の実家の緋森(ひなもり)家のみの参加で執り行われた。近所の人々にも、訊ねられたら答えたが、敢えて通知することはしなかった。
いい世の中になったものだ。田舎でも自殺が大した噂のたねにならなくなったのは。風邪、生活習慣病、スマホ依存症、それらとなんら変わりのない現代の流行病として扱われる。大したことのない悲劇である。個人主義の許される風潮になりつつある昨今ならば尚更に。
夏夜は高校生になった。母親は相変わらず若く、可憐だった。夫を失っても、その瑞々しさは変わらなかった。けれど母親は女だった。母親が自ら女を選んだのか?いいや、夏夜にとって女だった。肉体の変化が現れるのだ。彼はその点に関しての発育が遅かった。感性ばかりが育ち、その点に於いての発露は遅かった。
父親の自殺の遠因となったあのハゲタカ野郎、托卵という点では閑古鳥の如き男はどうしているのか。夏夜は知らなかった。ただぱたりと姿を見せなくなった。頻繁に家に入り浸るような付き合いがあったくせ、いざ葬儀となったときに呼ばれなかった。それはひとつのメッセージになったのではあるまいか。それはひとつの暗黙的な非難になったのでは。
夏夜は独りになってしまった母親を哀れんだ。彼の肉体には母親を寂しくつらい現実から遠ざける術(すべ)が眠っていた。
母親が向けてくる包丁を奪い取って、あやすのだ。父親のような小麦色に焼けて隆々とした筋肉は、夏夜には備わらなかった。母親の狂言心中ももう慣れたものだった。子を遺して一人死ねない母親の業を彼は理解した。彼女にとって、子はいくつになっても左右上下前後の分からぬ子供であったのだろう。それも理解した。あらゆることを理解し、肯定し、賛同した。母親は女のまま母親になった。救いようのない、救われようもない女なのだ。同時に自身の手を汚す気概もなかった意気地無しの父親を唾棄し、死してなお侮蔑した。
夏夜は不安定な母親を裸に剥いた。母親が満足する筋肉質な肉体がそこにはない。
「ああ……いやだ、夏夜ちゃん……」
だが母親は他に縋る場所を知らなかった。息子と交合うことしか、憩うことができないのだ。
「ママ、女の人は地獄の川を渡るとき、初めての人に背負われていくんだって」
夏夜は昔に戻ったときのように女の甘い肌を吸った。高校生の実の息子がいる母親としてはあまりにも若い肉体だった。
「ああ、嫌よ、夏夜ちゃん」
幼い頃に散々吸った胸を揉み、散々栄養を摂った小さな突起を捏ねる。
「ぁ……ああ……っ」
「ボクがママを背負って逝ってあげる。他の男の人、ぜんぶ押し退けて」
「夏夜ちゃんは、地獄に来ちゃダメ……ぁっ」
「極楽浄土なんかないんだよ、ママ。人間はみんな生まれたときから地獄に逝くのが決まってるんだからね」
小さな部分を刺激するだけで、母親は身体を引き攣らせた。甘い匂いが蒸れて膨らむ。
「ここが一番の地獄よ、夏夜ちゃん……」
「ママ……だとしたら寂しくないね」
夫とそのいとこに好き放題吸われ、しゃぶりつくされた唇を夏夜も同じように吸った。冷たい舌を掘り起こして、絡め合う。
「ぅ……うぅ………」
細い指が逃げ惑う。だが追いかけてつかまえた。棒切れのように細く固く、尖った爪は刺さると痛い。薄い皮の下の骨がごつごつしている。合わせた口元はぬるついているのだからバランスのいいことだ。
母親の口腔を掻き回していると、ふと顔を逸らされた。
「ママ?」
長くは伸びない銀糸は、普段は煩わしいくせ肝心なときに頼りない蜘蛛の糸に似ている。
「赦されないわ、こんなこと。夏夜ちゃん………穢らわしいことよ」
「ボクはママのナカに還るだけ。あの世から一番遠いところだと思わない?ママ……ママ………」
彼は母親の扱い方をよく心得ていた。彼女の業を擽る声を出せば、たちどころに逆らえない、ただ息子に尽くす牝と化す。保護欲はたいへん厄介な愛欲に似ていた。
「ママ……」
「夏夜ちゃん」
彼は自身が通ってきた雌道を弄った。
「悪いママに、なりたくない……」
「大丈夫だよ、ママ。ボクを産んだときからね、ママは地獄に堕ちる切符を手に入れてるんだから。悪いママになるのが、楽なの」
地獄などないのである。所詮は金稼ぎのために開発した税金のかからないろくでもない空想テーマパークだ。死んで終わるのだ。首を吊った父親も、首を吊るのが趣味ではない。その先を求めた。無を。終わりを。そこに価値があった。しかし夏夜はこのくだらない夢想に希望も見たのだ。希望を見れば、存在を信じてしまう俗念を、彼もまた持ち合わせていた。肉体を腐らせ、或いは灰にした先に、そこに本当の家族の団欒があるのかも知れなかった。ただ柵(しがらみ)を遺して、胤も血も勃起したペニスもよく濡れた膣も必要のない……
3 【完】
―だとしたら何で繋がるというのだ?
ほんの少しの眠りが、随分長かったように感じることがある。すべて錯覚だと思い込んだところで納得しきれないことも多々。
眩しい太陽の光を浴びながら瑠夏は考えていた。天気予報はとりあえずのところ40℃を切っていたが、体感温度としてはオーバーしているのであろう。直接日光を浴びている。気分は焼き鳥屋だった。或いは石焼き芋だった。だが彼は蒼褪めて寒かった。熱を感じてはいるけれど、身体の芯は冷え切っていた。
一度途切れた夢はもう見れないものだ。だがすぐに忘れられる。否、あれは夢ではなかった。妄想だった。何の意味もない空想だ。二度目の生を持つなどまさに地獄。輪廻転生とかいう戯けた軽率な惨劇の夢想を、人はよくもまぁ剽軽に使ったものである。
第一、主役が欠けている。父役が。大切な大切な黒幕が。安穏に暮らしていた男女を突き落とす悪役が。
瑠夏は首から生き血を垂れ流しながら、また別のことを考えた。
数日前に姉の墓参りに行ったのだ。盆でも命日でもなかった。何もない日に行ったのだ。ただ行きたくて行ったのだ。家族とは行かなかった。一人で行くのだ。
姉の夏水(なつみ)の入った墓の前に若い男が立っていた。名は三伏(みぶせ)太陽(たいよう)。線の細い毛質の茶髪の男で、爽やかな水色の上着が印象的だった。温厚なおぼっちゃんといった出立ちである。なかなかの好男子だ。彼は瑠夏の姿を見つけると、深く頭を下げた。彼もまた、命日や盆を避ける。この墓園は、花束はセロファンさえ剥いてあれば置いていっても構わなかったが、菓子類は持ち帰るルールがあった。彼はビニール袋を持っていた。中には団子か何かの箱が入っているようだった。
『もう来なくていいですよ。来ないでください』
瑠夏は言葉に反して、朗らかな顔をして言った。
この男は姉の元恋人だ。この者の弟に姉は手籠めにされた。
『呪われるんじゃないですか?後ろめたさが呪いを呼ぶんです。嫌ならさっさと忘れることですね。悪怯れるから呪われるんですよ』
愛しているのならすべてを赦すべきだ。それが愛というもののはずだ。しかしこの男は、手前の弟の不始末によって"穢れた"恋人を赦しはしなかった。
『結婚するのでしょう。おめでとうございます』
花束を抱きながら瑠夏は微笑した。姉の好きな小さなひまわりがいくつか入って煌めいて見えた。
セミの声が谺(こだま)している。じりじりとした嘆きは、焼かれ炙られる痛みなのか、地の熱くなる音なのか。
瑠夏は男の旋毛を見つめていた。
『子供は作らないことですね。女なんか信用しちゃダメです。自分の子か、疑いを持ってしまう傷を負ってしまったのなら』
男の白のボトムスを握る手が震えているのは、怒りか後悔か。
『あなたの子かも知れないと思って捨てきれなかったみたいですよ。希望なんか見たら、そうと信じたくなるのは人のろくでもないところですね』
姉の希望は実にくだらなかった。絶望しきれないというのも残酷なものである。相手の素姓を伏せて説明するものだから、両親は反対し、憤激していた。だがその怒りも当然だと思った。
『愛ってなんでしょうね』
いいや、姉は誰の胤にしろ生まれた命として慈しむ気ではなかったか。恐ろしい不気味な子を産むと言うから殺してやった。死なせてやった。哀れな子を減らしてやった……違う。あの日を振り返るほどに混乱するのだった。突き飛ばしたのは姉だったような気もする。覚えていないのだ。突き飛ばされたような気もするのだ。そして柔らかく包まれたような気もするのだ。だがいずれにしろ死んだのは姉だ。直前の記憶はある。責め詰(なじ)り、拒絶したのは本当である。あの腹にいる気持ちの悪い鼓動する肉塊を否定したのは。幸せに型はないが不幸には型がある。そしてその型に当て嵌まる悍ましい命を否定すべきものとしているのは。
『ああなったのは姉の選んだ分岐点の結果に過ぎません。恋人のあなたは嫌がった。けれど姉はそれもまた拒んだ』
この男は、瑠夏がこの日に来ることを知っていたし、瑠夏もまたこの男が来ることを知っていた。その日は姉の誕生日だった。もうすぐ結婚するという男が、その年にも悠長にぶらぶら、所在なく、暇潰しにここに来ている。何の感慨もなく。そういうことにした。
『だから責めるべき相手はあなたじゃないんです。分かっていますから。さようならです。もう他人だ。二度と来るな』
申し訳なかった。
すれ違いざまに聞こえた。相手に届ける気のない小さな囁きだった。瑠夏は息苦しくなってしまった。腕に抱いたセロファンが軋る。
肉体さえなければ。けれど肉体のない姿でどう繋がるというのだろう。魂だけで惹かれ合えるなどと高尚なことを説きはじめる気は毛頭なかった。
不可解だ。
―理解しようとするな。理解しようとするたびにお前は人を傷付ける。所詮お前には理解できない感情だ。
ある惨めで哀れな負け犬が吠えていた。元から解する能力がなかったのだ。
しかしろくでもない人生である。終わり方が評価されるのだ。終わり方で人生の全てを語られる傾向にあるのだ。この風潮に反発する気はあれど、瑠夏自身もその認識に染まりかけていた。
だとしたら、最期に思うのが負け犬の遠吠えについてなどとは屈辱だった。あの男は瑠夏にとっての端役である。理解の範疇にあるつまらない男なのだ。
彼は孔の空いた首を震えながら擡(もた)げた。理解不能な未確認生命体2人が血塗れになって転がっている。彼の視界は真緑に塗り潰され、モザイクがかかっていた。けれどまったく利かないわけではなかった。
「か……す、み………かす、み………」
入水したような耳鳴りの中で小さな焼石が小気味良い音をたてる。けれどまったく利かないわけではない。
男のほうは生きている。運だけでやってこられた哀れな男だ。
いくら暑くても、傷口を焼き留めるには至らない。脚を抉ってやったが、せめて傷を負わせることはできただろうか?おかしくなって嗤いたくなった。だが嗤えなかった。喉奥から血が溢れ返ってくる。
肉体を失えば、地獄では繋がれるのであろうか?
いいや、地獄などという救済措置は人畜生に用意されていないのである。そう信じてきたではないか。
すぐ傍で、激しい咳嗽が聞こえた。女の声だった。地獄で逢いたかった人は、生きているのかも知れなかった。生きてしまうかも知れなかった。まだ惨めな肉体に囚われ、本能の業に縛られ、平穏と誤解した退屈に老いていくのかも知れなかった。
瑠夏は悲鳴を上げた。そして慟哭した。だが首のほとんどを抉り出した彼に声はなかった。クーラーのような息吹が漏れ出るのみだった。
死を自覚する。後悔はないのである。だが何か物足りない。
彼は残ったわずかな意識で、後悔することにした。一晩かけるような長たらしい手紙を書いたことを後悔することにした。人生を語り尽くせる気になるような、己を掘り起こす作業などするべきではない。結局はそのつもりでしかないのだ。忘れないから呪われる。泣き叫び、恨み辛みを撒き散らしたくなれたらよかった。けれどそうはならなかった。
甦ってしまう。家族で水族館に行ったときのことが。イルカが跳んだ時に見えた麗らかな光景と父母の小さな歓声が。使えなくなった視覚と聴覚に張り付いて。
【完】
TL【蒸れ夏】炎天下の冷えた部屋【完】