「獣一人」

 お堀の向かうにあなたが居る
 此処は天守の残るお城の風景
 ぐるりはり巡るお堀の水は青くて
 哀しい 空の生きうつしの色で
 鳥が泳ぐ
 鳥が泳ぐ
 水を引いて泳ぐ姿は
 打掛裳裾をさらさらと引く女性のやうで
 美しい 凛々しい 女性のやうで
 鳥がぽつぽつ群れているのは
 井戸端でお話をするのであろう
 鳥がとぷんと潜るのは
 ひめがみさまにご用を聞くのだろう
 そうだ このお堀にはひめがみさまがおいでなさる
 もの寂しさを込めた
 深き青藍のお堀の底に
 うつくしきひめがみさまのお眠りなさる
 清らかな肌は龍の玉
 胸に燃える落椿一輪
 花びら一欠片とても失はず
 心の簪でしっかと魂ごと貫いて
 黒曜石の瞬く瞳と
 白蛇の鱗の輝く白眼
 水晶の気に満ちるひめがみの御身体
 燃えても灰一つ零さぬ気高き御心
 その御心が何ゆえ燃ゆるか炎となってはためくか
 私には分ると思うのです
 だってお堀の向かうに
 寂しい一本の松の木の影に
 桜の紅い葉を指で抱いて
 あなたが あの人が立って居る
 さうしてあの人は遠くの山を見る
 山に帰る
 泳がない鳥を見る
 私はもう苦しくて
 いっそお堀に身を投げようかと思ったものの
 お城にはひめがみさま
 貴女がおいでなさります
 人間ごときが貴女のお住居を騒がせてはいけない
 うつくしいお方の花の眠りは
 貴女さまの想いびとだけが覚ましてよいのだから
 私はやっぱり黙って
 もう一度お堀の向かうを望みました
 あなたのその背中
 どうか其処に私の顔を 胸を 腕を沈めさせてください
 あなたの鼓動を私に教えてください
 指先に少しだけ力を込めさしてください
 震える手を許してください
 許してくれたら
 許してくれたら
 笑って ください
 優しく
 優しく
 創りモノなんかじゃいや
 私の心を宙吊りにして
 私の頬を燃やすあの笑顔がいい
 笑って
 さうして
 二人黙ってお堀に沿うて歩きませう

 お城のお堀のひめがみさま
 どうか一人の獣を哀れとお思いくださいませ

「獣一人」

「獣一人」

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-06-29

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