【原稿用紙仕様 黒猫かぞえ】
大昔に、大学時代の課題で提出した小説です。
古いです、CATのノリとは違うんですが、のせておきます。
CAT File のちゃる捜査官とは違う人の体験談です。
たぶん原稿用紙仕様で保存してたのかわからないのですが、なおすのが大変なのでそのまま載せておきます。
読み返してないので内容は忘れてます。
目次
黒猫の歌
黒猫かぞえ
猫脚
【黒猫の歌】
あたしの生まれは 南の国で
白っ茶けた石畳に
仔猫のあたしの爪が すれたっけ
遠い昔さ
真っ青なお天道様と 潮の香り
昔の街 幼い街
あたしは黒猫 身軽なの
あんたに附いて何処にでも行くわ
ちょっと太ってきたけど
ねえ、あんた、あたしはまだ、
綺麗でしょ
あんたは坊やで、遠い目で
引っかき傷のあたしに
お昼の魚の尻尾 くれたっけ
遠い昔ね 白い街
ギター弾きのあんたと
残ったハーブの薫り
気に入ってたわ
あたしは黒猫 身軽なの
あんたに附いて 何処にでも行くわ
いろんな旅してきたけど
ねえ、あんた、あたしはまだ、
綺麗でしょ
【小説 黒猫かぞえ】
黒猫かぞえ、ですか。たいした話じゃあ、ありませんけどね。僕の住んで居る町は、そりゃあ都会な所為か、野良びとも野良猫も多いんですが。だから、こんなことも別段珍しくもないのやも知れませんがね。
ああ、お姉さん、
アイス珈琲お願いします。
貴方は何にします。
じゃあ、アイス珈琲を二つ。
此のかたは煙草吸うから、
灰皿もくださいね。
本当にねぇ、
煙いったらあらしないんだけど。
おや、笑ってる。
僕が子供だと云いたいんですか。
構いませんよ、そんなら貴方は年寄りだ、
煙草吸いは早く老けるんですよ。
おや、云い過ぎましたか、御免なさい。
でも此れでお相子でしょう、
貴方、僕を笑うのがお好きな様ですから。
ほら、また笑う。
二十歳過ぎのひとを捕まえて、
あおいはないでしょう。
ああ、そうだ、猫ね。朔太郎に猫町て云う話があったでしょう、僕は内容は忘れてしまったけれど。猫町。うん、猫が沢山居るんですよ、僕の住んでいる界隈は。それで勿論、顔馴染みの猫も居るわけで。貴方も居るでしょう、見掛けたら、つい、にゃんと声をかけてみたり、名前を呼んでみたりするのが。
いませんか。
そりゃあ残念、楽しいですよ、猫は。僕も一度飼ってみたいんですがね、どうでしょうね、元来が不精ですから、半野良を増やすだけでしょうかね。
そう、それで、僕が大学に通うんで、毎日通る小路があるんですが、其処に何時も、大きな黒い猫が居ましてね。半野良らしいんですが、毛艶が良くて、太っていて、堂々としたものです。愛想が良くてね、僕が通り掛かると、みぎゃあごとやたらに大きな声で鳴いて、擦り寄って来るんですよ。その癖、僕が触ろうとすると喰い付こうとするんだから難儀な奴なんですが。
あぁ、どうも。
来るのが案外早いですね。
僕はこういう風に、アイス珈琲が
ワイングラスの様なのに入ってるのは、
素敵だと思いますねぇ。
うん、そうですね、
あんまり来るのが早いと、
ちゃんと煎れて与れたのか
心配には為りますね。
しかし、やっとアイス珈琲が飲める季節になったんですね。今年は五月まで寒かったじゃあ、ありませんか。それでね、そう、五月の寒い雨の日だったんです。大学の帰りでしてね、夕刻で、薄暗い上に寒くて、そうするとなんとなく沈んだ気持ちになるでしょう。
ああ、傘が無かった所為もありますよ、
貴方の家に忘れたぎりですからね。
早く返して下さいね。
いや、取りには行きませんよ。
それとも、お茶でも出してくれますか。
そうですか、じゃあ、行きましょうかね。
そう、そうしてね、例の小路をこう、惨としてとぼとぼと歩いていたんですがね、そうすると、其処のごみ溜めから、黒い尻尾が覗いているわけです。尻から上はごみの中でしてね、必死で漁っているらしいんですよね。
可愛らしいでしょう、一寸思い浮かべてみて下さいよ。僕はぢっと、立ち停まって観ていたんですが、夢中だったのでしょうね、気が附かない様でして。ごみ溜めから覗いた黒い後ろ脚が、前脚で漁る度に踏ん張るのが解るんです。尻尾がこう、誘惑的に僕の方にありましてね。
ほうら、微笑まざるを得ないでしょう。
そうして、貴方ならどうしますか。
やはりそうしますか。
悪戯心には勝てませんね、そう、僕もそうしたんです。尻尾を指でぱしっと叩いたわけです。
猫は本当にびっくりしたんでしょうね、ごみの中に一度落ッこちて、必死でもがいて抜け脱すと、一ッ跳びに地面に立つと、そこからどうしていいか解らなかったんでしょう、真ん丸な目でこちらを見た侭、動けないんです。その侭、じっとあの構えた姿勢の侭、僕を見ている訳ですよ、真ん丸に為った黒目で。
いや、貴方、笑いますけれど、僕は随分と可哀相な事をしたと思ったんです。よく見れば未だ若い痩せた黒猫でしてね、混乱した様子が吹き出す程可愛いんですが、申し訳無い事をしたと思いましてね。
ええ、あのふてぶてしい黒猫じゃあ、
なかったんですよ。
この話は不思議でも何でもないでしょう、
ええ、判ってます。
でもね、此れが黒猫かぞえの一なんです。
詰まらないですか。
まあ、じゃあ、端折りますから、
気長に聞いて下さいよ。
煙草ですか。
どうぞ、僕は燻され慣れてますから。
おや、貴方、
あのお気に入りの煙草じゃあ、
ないんですね。
ああ、輸入物は置いてある店が
少ないんですってね。
へえ、其の店にしか無いんですか。
僕もあの薫りだけは好きなんですが。
なんて云いましたっけ、あの煙草。
ああ、そう、そういう名前でしたね。
詩的ですけどね、皮肉ですね。
それでね、まぁ、猫の話に戻りますとね、次は二なんです。何がって、貴方、決まっているじゃないですか、黒猫ですよ。まぁそんな顔をしないで下さいよ。
僕はこの間、ちっとばかし隣町まで買い物に出掛けたんです。ええ、また要らない物ばかり買い込んで帰って来た訳ですが、近いもので、散歩がてらに日の落ちた道をぶらぶらと、歩いて帰った訳です。比較的暖かかったですね、あの宵は。それで、その道には公園があるんですが、一寸見ると、そこに一匹の黒猫が佇んで居るんです。これも若猫に見えましたけど、あのごみ溜めの猫はなんだか哀れめいていましたけど、こちらはそんな事はありませんでしたね。しかし、やはり野良ですね、僕がその侭、歩み寄るとこう、姿勢を低くして逃げようとするんです。僕はとっさに、思い付いて鞄を漁りました。チョコレェトを持って居るのを思い出したんです。立ち止まってチョコレェトを捜す僕を、この猫は興味津々で眺めていましたよ。それで、僕はしゃがみ込んで、喰うかしらんと思いながら、チョコレェトを小さく噛み割って、投げて与えたんです。そいつは暫く嗅いでから、ちゃんと喰うじゃあ、ありませんか。
そうですよ、
猫がチョコレェトを喰うんです。
猫が喰える様に、
小さく噛み割ってやらないといけないんですがね、
しかし意外な事ですよね。
それで僕も、肝の座った奴だと感心して、もうひと欠片、投げてやったんです。そうしたら、今度は僕がびっくりする番でしたねえ、がさっと音がして、其処の生け垣から、そっくり同じ黒猫が、ひょっと出て来るじゃあ、ありませんか。そいつは、やはりしゃがみ込んでチョコレェトを食んでいる相方の横を早足で抜けて、僕の後ろに周り込みました。こいつは相方と違って、やたらに臆病な印象がありますね、こいつにもチョコレェトを投げてやったんですが、一度飛びのいて、喰うと、もっと隅に逃げちまって、僕が投げてやるのだけは待っているんですがね。それで僕は、両方に幾つか投げてから立ち上がったんですが、最初の奴はちっと身構えただけでしたが、後の奴はさぁッと逃げちまいました。
それだけですよ、
ええ、その日は其れだけ。
いいじゃないですか、
不思議じゃあなくっても。
ええ、猫は好きです。可愛いですからね。
また、何故笑うんですか。
別に大人が猫好きで
猫にチョコレェトをやったって、
ちっとも奇態じゃあないでしょう。
話し方ですか。そうですね、
やたらに印象深い猫達でしたからね。
じゃあ、本当にちゃんと端折りますけど、
一と二の次は何だと思いますか。
三でしょう。でも、違うんです、
かぞえ方が。
何のって、勿論、
黒猫かぞえのですよ。
そう、要点だけ云うとね、僕もじゃあ、次は三匹見掛けるのかしらんと思っていたんですが、或る朝、不機嫌に大学へ向かっていたら、子猫連れの黒猫が居たんです。子猫全て黒で三匹、親猫を入れて四。一寸子猫が小さくて、季節の割には遅いなあとは思いましたけどね、僕はかまわず目尻を下げて、にゃあにゃあと鳴き交わして去ったわけです。
どうです、短いでしょう、端折りましたよ、子猫の可愛さにも云い及ばずに。
そうですね、
アイス珈琲は時間をおくと氷が溶けて、
なんですね。
もう一杯ですか。僕はなんだか、
暖かいブレンドが飲みたいですね。
すみません、お姉さん。
はい、ブレンドとアイス珈琲。
貴方、よく吸いますねぇ、煙草。
退屈させましたか。
ああ、僕の熱の入れ方。
聞き所が違いますよ。
でもね、これからは、一寸不思議ですよ。
僕がおとつい、何時もの様にふらふらと喫茶店から帰ってあの小路を歩いていた時の事です。夕刻でね、どうせ私は怠け者、明日の墓場を何で知ろってなもんですよ、やけに辺りが赤くて。あの太った黒猫の小路ですよ、地面がぼやぼやしていまして。そうしたらね、シャンソンが聞こえるんです。誰かあちらから来る人が歌っているんですよね。僕は仏語が解らないでしょう、それでね、いやあ素敵だなあと、顔を挙げたんです。そうしたら、例の黒猫しか居ないんですよ。それが、道の真ん真ん中を歩いて来るんです。赤い道の真ん真ん中を、しゃがれた大声で、シャンソンを唄いながらあの太った黒猫がね、歩いて来るんです。
びっくりしませんか。
ああ、
やっと興味を持ってくれたみたいですね。
うん、僕もびっくりしたんです。
びっくりして、あんぐり口を開けて、
突っ立って居たんです。
あれはね、多分、毛皮のマリィだったんですがね、有名過ぎて僕もだから解ったんですが、やたらにしっくりきていましたねえ。それでね、そいつが、呆けている僕の足元に来て、僕を半ば細めた目で見上げて、こう云うんですよ。
「あんた、黒猫かぞえをしただろう」って。
猫が喋るんですよ、しゃがれた、低い、中年の女の人のような声で。
ああ、やっとお代わりが来たみたい。
ありがとうお姉さん、
ブレンドはこっちです。
どうも。
どう、ここまで退屈を我慢した甲斐が
ありましたか。
それでって、勿論、其の侭帰る訳はないでしょう。僕は訳が解らなくなって、素っ頓狂な声で、黒猫かぞえだって、て聞き返したんです。
「そうさ、一と二の次は四。ちゃんと数えただろう、あたしの子供達を。ああ、あんた、もしかして知らないのね。」
僕は変わらず混乱しているでしょう、だから、なんでか、子供達だって、なんて阿呆なことを口走るんです。猫は人語を発するべきではないだろうとか、何故二の次が四なのだとか、そういう気の利いたことが云えたら良かったんですがね。
そうしたら太った黒猫は、可笑しそうに、
「そうさ、あたしは黒猫の女王様だもの。そこいらの黒猫はみんなあたしの子さ、あたしが産もうと産むまいとさ。」
って云うんです。
此れはどういう意味なんでしょうかね、
貴方、解りますか。
僕は未だに解からないんです。
それから、ですか。それから、猫は、
「ついといで。あんた、何も知らないんだろ。」 っていって、また何かしらくちずさみながら踵を返して歩き始めたんです。おおかた、白い薔薇って曲ですね、僕はシャンソンは、あんまり判らないけれど。
僕は勿論、附いて行きましたよ。しかし、これがまた長い道程でしたよ。僕の家から、幾つか駅を行くと、お洒落な街があるでしょう。其処まで、どうやら、歩かされたみたいなんですよね。ただ、本当に其処いらだったのかは判らないんです、僕は太った黒猫が身軽にひょいひょい歩いて、時折振り返ってはごろごろと笑うのを、戸惑いながら附いて行っただけですからね。見たような路地と、時折見掛ける通行人から、推して測っただけなんです。しかし、どうも洋服屋ばかりの裏路地の、素敵な外観のビルヂィングの前に猫が立ち停まった時には、僕は其処があの街だと確信していたわけです。僕よりも少し若い、そして洒落っ子の連中が、立ち停まって僕を見ていましたよ。僕が、やっと着いたのかい、と猫に話かけるのが可笑しかったんでしょう。猫はね、それに応えて連中が見ているのも気にせずに云うんです。
「疲れたかい、これでも近道をしたんだけどね。附いておいで、此処は運のいい奴しか入れないんだから。ちっとくらい疲れても、感謝してもらわなきゃ。
あっちで突っ立ってる若い連中にゃ、
とっても入れない素敵なところさ。」
そうして、そこの大きな階段を降り始めたんです。僕は秘密倶楽部かしらん、なんて考えながら、階段を附いて降りていったんですが、何もそういった門番も居ないでしょう。その侭、地下骨董品屋街みたいなところに居ましたよ。奇妙な店ばかりでしてね、鉱石やら、曰くの有りそうな小品やら、そんな店ばかりです。
おや、どうしましたか。奇妙な顔をして。
目が真ん丸だ。
ああ、その地下街ですか。
なんて云いましたっけ。
そうだ、果て町地下商店街でしたか。
果町なんて、名前じゃあないのにね、
あのビィルヂィングが在る街は。
僕は一寸奇妙で好きですね。
どうしたんですか、本当に。
難しい顔をして。
それから、ですか。黒猫はね、物珍しそうな僕を、
「早くおいで。後でゆっくり見せてあげるから。」
って促すと、隅の、良い薫りがする珈琲屋へ連れて行ったんです。看板には、蜜色珈琲店とありましてね、僕が促されて扉を押し開けると、ちりんちりんと鐘が鳴りました。
「いらっしゃい。」
て、これがまた、渋いマスタァが云いましてね。名前の通り、店内は蜜色でしたよ、照明の薄暗さったら。それでね、なんて云うんだろう、ジャズみたいな音楽が、
流れていましたよ。
「ああ、お前だったの、
随分若い子を連れて来たんだね。」
マスタァは黒猫に云いました。なんていうか、優しい声でね。猫はごろごろと目を細めてカウンタァに飛び乗ると、マスタァに頭を一寸こすりつけて、多分またシャンソンなんですが、僕の知らない歌を一節だけ唄って、
「ねえ、この子になんか出してあげてよ。
まだ若いからさ、あんまり苦くないやつをさ。」
ってね、云うんです。
僕は思いましたよ、マスタァとこの黒猫はわけありだなって。そりゃあ猫と人ですもの、夫婦じゃあないでしょうけど。僕が云っているのは、世に云う簡単な恋愛じゃあ、ないですよ。あの猫が人に変身するとは、思えませんからね。
貴方、なんだか奇妙な感心をしますね。
なんだか、意見したそうだ。
頷いたり、へえと云ってみたり。
知っているんですね、あの店を。
知らないですか。
そうですか。
マスタァはね、それで、
「今晩君が店で唄ってくれたら、だしてあげよう。」
って悪戯ぽく笑ってね。
猫は大きな体をしなやかに動かして、
「いやだねえ、客なんかいやしないじゃないか。」
って、僕に使うのとは全然違う声色で云うじゃないですか。
だから流石に、マスタァが
「僕の為に唄えばいいじゃないか」
って云う辺りには、僕は恥ずかしくて、この侭、帰ろうかと考え始めましたよ。
だからね、猫が笑って、
「仕方ないね、じゃあ、代わりにうんといいのを出してあげるんだよ。」
って云って、カウンタァから飛び降りると、僕に
「こっちへおいで」
って云った時にはほっとしましたね。
笑いますけどね、貴方、
僕がうぶだとか、
そういう事じゃあないでしょう。
貴方だってきっと困りますよ。
僕が話すから
陳腐な台詞にはなりますけどね、
あの店じゃ、あんな恥ずかしい台詞が、
なんていうか、生きているんです。
わかりますか。
うん、そうなんです。
そう、それでね、店の奥の壁に、大きなタピストリィが懸けてあるでしょう。僕も実は、猫とマスタァに気が向きながらも、目のやり場にも困るし、なんだか目を惹くから、ちらちら見ていたんですが、猫がその前に立つものですから、僕もそっちへいったんです。
だいぶ薄汚れていたんですけどね、不思議な毛織り物でした。柄は、なんていうのか、うん、どうとも表現の仕様が無いですね。具体が抽象かも解らない。ただ、確かに何かなんですけど・・・御免なさい、どうとも云えないや。
其の時も、僕は何を感じているのか解らずに、ただ立ち尽くしていたんですよ。そうしたら、黒猫が云いました。
「どうだい、これがなんだか解るかい。」
勿論解るわけはないから、いいえと答えて、僕はまた印象を掴もうと自分に沈んだんですがね、やがて耐え切れなくて、訊いたんです、此れは何かって。
「これはね、レプリカだけどね。
やっぱり、それでも素敵ね。
これは歴史さ。歴史って毛織物。」
僕はよく解らなくて、例によって鸚鵡がえしですよ。
「そう、歴史さ。本物は神様の私室にあるのよ。
これは本当に最近の一部分を再現しただけだけれど、
あんたもこの中に混じっているのよ。」
そんな突拍子も無い話。
信じるわけがないと思うでしょう。
いや、
そんなに身を乗り出さないで下さいよ。
煙が掛かるじゃあないですか。
ああ、ブレンドが冷めちゃった。
なんだか酸っぱくなる気がするんですよね、冷めると。
マスタァの煎れた珈琲は素敵でしたよ。
なんだか、不思議にね、
遠い森の霧の薫りがしました。
そう、歴史の毛織物。信じるわけは無いと思うでしょう。しかし、僕は信じて仕舞いました。不思議なこと続きで、しかもあんなタピストリィですもの。
「あんたもこの中の小さな毛の一本なのよ。解るだろう。
そして、どうやらあんたは黒猫の毛なの。
だって、黒猫かぞえが出来たんだからね。」
僕はその侭立ち尽くして、僕の毛は何処に在るんだろうって、探して居たんです。
気が附いたらね、猫はソファに優雅に身を横たえて、マスタァが小さな杯に薄紅色の花が浮かんだミルクを持って来たのに、「ありがとう。」ってね。
「何時も通りヴァニラを混ぜておいたよ。」
そうして、僕に椅子を引いてくれて、明るい目尻に皺を刻みながら、君はストレェトでも平気だよねって。僕がはい、と云いながら座り、黒猫が自分のよっかかっている金色のクッションの具合を直している間に、彼は僕の分の珈琲を取って来てくれましたよ。
「はい、どうぞ。これは寒い国の霧。
君は初めてだから、良い豆だけど、幽かな物を選んで見たよ。
彼女の話を邪魔しちゃあ、いけないしね。」
そういって猫に微笑み掛ける顔は、僕が見た大人の男の、一番優しい顔でしたよ。
猫は一寸照れ臭そうに前足を伸ばすと、爪を眺める振りをしていましたっけ。なんだか、その様子が意外で、僕は初めてこの猫が可愛いと思いましたよ。
「どこまで話したっけ。
ああ、そうよ、あんたはだから、あんなタピストリィの中の一本の毛なわけよ。」
猫はそう云って、僕の方をみながら、ヴァニラの入ったミルクを嘗めるんで、僕も珈琲を手に取りました。白地に、藍でお城の絵の入った茶碗でしたね、表面に、蜜色のランプの明かりがゆらゆらしていました。すっかり夢見心地で、一口啜ると、何か非常に懐かしいんです。冷たい、湿った薫りがして、針葉樹のぎざぎざの端が刺さる様な、遠くで眺める誰かを感じるような。猫が僕をぢっと見ながら、
「一寸、強かったんじゃあないかい。」
ってマスタァに云っていましたよ。だけど、僕は何か古い記憶をたどるように、それに浸っていました。そうして、僕は、その感覚もまた、あのタピストリィに織り込まれて在るのに気が附いたんです。
それで僕が何かを云おうと口を開きかけたんですが、黒猫はさえぎりましたね。
「云わない方がいいよ。勿体ないから。
云うと空気にかえっちまうよ。」
そうして、また少しミルクを磁器の杯から嘗めると、云いましたね。
「先刻から云っているけれど、あんた、黒猫かぞえをしたろう。それで、あたしに会った。まぁ、前から顔見知りだったけどさ。あんたには目を付けていたからね。」
猫はまた少し、ミルクを嘗めて、浮いていた小さな花を喰いました。砂糖漬けではなかったと思うんですが。
「全部が全部じゃあないけれど、あたしの毛も、
あの毛織物の中には混じっているのよ。
黒猫かぞえはね、黒猫の毛で運命が編まれた子が、
その黒猫に会う方法なのよ。
まぁ、偶然なのだけど、
偶然が編まれているのが運命だものね。それでね。」
黒猫は座り直して、僕を眺めて云いましたよ。
「だから、あんたの願い事を、叶えてあげるわよ。」
それでね、
また僕は事態が飲み込め無くて、
真ん丸な目をしていましたよ、
丁度、今の貴方みたいに。
そうして、珈琲を一口啜った訳です、
今の貴方みたいに。
そうしたら、また在り得ない記憶がひんやりとやって来るでしょう、猫は僕が沈み込まない内に、少し大きな声で云いましたよ。
「あんたはあたしの毛だから、あたしがちょいとその毛に身をよじらせれば、すこぅし運命を弄れる訳さ。ただし、余程強い願いじゃあなきゃ、駄目よ、あたしも気が附かないからさ。
こら、あんた、笑わないでよ。」
そうなんです、なんだか聞こえるなあと思ったら、向こうの隅でマスタァが可笑しそうに笑っているんですよ、黒猫が振り返ると、例の毛皮のマリィを一寸唄ってね。僕に、可笑しそうに、こう聞くんですよ。
「こんな我が儘な彼女が、わざわざ君の願い事を
叶えてあげようなんて親切を、やらかす理由が解るかい。」って。
猫は慣れっこな様子でしたね、多分少し臍曲がりな性格で、そういうからかいの方が、甘い言葉より好きなんでしょうね。
「いやだねえ、馬鹿にすることはないじゃあないか。あたしには虱はいませんよ。」
って、なんだか嬉しそうに返していましたっけ。
「そうさ、あんたの願いを叶えてあげるのはね、
だって、あたしの毛なんだもの、あんたが何か強く願うと、その、痒いのよね、その毛があったところが。
それで、痒くされる前になんとかしてあげようと思ってさ。」
可愛いでしょう。
僕は、マスタァが彼女に惚れ込んでいる理由がなんとなくわかりましたよ。僕がマスタァと二人して吹き出したら、彼女は、一寸むくれてね。
「そんなに笑うこたぁないじゃないのさ。」
ってね、ミルクを嘗め始めましたね。
でもね、其の時に、僕は思いだしたんですよ、僕も、いつも貴方に笑われてばかりだなぁって。黒猫は気が附いたみたいですね、それに。
「大丈夫よ、あたしは別にあの人にからかわれるのは好きなんだからさ。でもあんたは悔しいみたいねぇ。だから此処に連れて来たんだけどさ。」って。
まあ、そこまで歯痒く思って居た訳ではないんですけれど。見返してみれたらよいな、とはね、思っていましたからね。うん、そうなんです。
おや、どうしたんですか。先刻から顔色が次々変わるひとですね。やはり、何時もの煙草じゃあないと、落ち着きませんか。そうだ、お土産がね、有るんですよ。何処にやったかな。まあ、そんな話を猫から聞いた後にね、色んなお店を案内して貰いましたよ、彼女に。夢屋さんや、プルキンエ写真館やら、奇妙な店ばかりなんですね。僕は感嘆しっ放しでしたよ、貴方がいつも馬鹿にするみたいに、口を開けっ放しで、ね。
ああ、有った。
はい、貴方のお気に入りの煙草、メランコリア。
なかなか買いに行けないって云っていたでしょう。
果町商店街の、キャンサア煙草店、でしたっけ。
其処にしか置いていないんですってね。
いやあ、素直にもっと早く、果て町商店街を知っているって云ってくれたら、
貴方もお馴染みの煙草で僕を燻せたんですがね。
また笑うんですか。ああ、がっかりだなあ。
参ったって云われてもねえ。
どうしたって貴方は僕を笑いたいみたいですねえ。
でもね、これで、一寸は僕を見直してくれましたか。
僕だって、煙草は吸わなくても、
あの地下街くらいには、行けるんですよ。
ありがとう、そう云って貰えると嬉しいですよ。
いいえ、要りませんよ、僕はだから、吸わないんです。
薫りは好きですけどね、メランコリア。
ああ、お姉さん、伝票をくださいな。
じゃあ、話とお土産の代わりに、貴方、払ってくださいよ。
いや、冗談ですよ。ええ、いいんですか。
そんな事を云うと払わせますよ。
いいえ駄目です、払います。
やっぱり貴方は笑うんですねえ。
一本吸うまで待ってもいいですけれど、可愛いは、止めてくださいよ。
全くねえ、いくら貴方が大人の女性でも、
僕だって二十歳を過ぎた大人なんですからね。
面白かったですか、黒猫かぞえ。
そうですか、よかった。
ああ、ひと箱じゃ、足らなかったですか、煙草。
だって、加減が解からないのだもの。ええ、これから、ですか。
気侭なかたですね、良いですよ、それじゃあ、一緒に買いに行きますよ、あの地下街通りに。
うん、あの店は夜は、ジャズバァですよね。
本当ですか。じゃあ、是非あの猫のシャンソンを聴きましょうね。
うん、だってね、僕、果て町まで歩きながら、ずっと貴方に聴かせなきゃって、おもってたんですからね。
おや、どうかしましたか、爪。
また、なんで、笑うんですか。参っちゃうなあ。
【猫脚】
[黒猫の歌]
黒猫作詞、蜜色珈琲店マスタァの作曲の合作。シャンソンではなく、ジャズ風味な辺りが特徴。
[猫町]
萩原朔太郎の掌篇、初出は文化雑誌『セルパン』1927年7月号。温泉町に逗留中の「私」の不思議な迷子体験を描く。
[アイス珈琲]
深煎りの豆を中挽きにし、87℃程度のやや高温で濃い目に抽出。熱い侭、しっかり凍った氷の入ったグラスに注いで、攪拌して馴染ませれば、香り高いアイス珈琲を楽しめます。ポイントは、氷で急速に冷却させるところ。
[どうせ私は怠けもの…]
北原白秋の詩の一節。全文は次の通り。
「赤い夕日に」
あかい夕日につまされて、
酔うて珈琲店を出は出たが、
どうせわたしはなまけもの、
明日の墓場をなんで知ろ。
[惨として…]
室生犀星の詩の一節。全文は、次の通り。
「街にて」
引き摺られ
息窒まりつつ
きんきんと叫びを立て
そうらうとしてわれ歩む
しめやかに雨ふる街を眺め昂ぶり
凍みたる手を暖めんとして
そうらうとしてわれ歩む
わが天鵞絨の服は泥をもて汚され
わが靴はかなしげに鳴り
れいらくの汚なき姿をうつす
雨そそぐ都の街の上を
髪むしりつつ
惨として我あゆむ
[毛皮のマリィ]
La Marie Visnの事、作曲は、M.Heyral。ヒットは1956年。イブ・モンタン、美輪明宏が歌った、パリの女乞食マリィの歌。散々男を瞞した揚げ句に最後は零落れて、毛皮のコォトを着て街を徘徊し、其れに附いた虱も捕れない惨状を、むしろ滑稽に歌う。また、此れをタイトルに、寺山修二が美輪の為に、妖艶な男娼についての戯曲を書いている。
[白い薔薇]
1909年、A.bruantの作で、コラ・ヴォケールが歌った。黒猫は昔の友人を偲んでこの歌を歌う事が多い。
[蜜色珈琲店]
果て町商店街内に二つあるカフェの内の一つ。夜間はジャズバァとして営業。居着いている黒猫が不定期にシャンソンを歌っている。彼女がミルク杯に使用しているのは、
ジノリ社、1927年、《ナウティカ》、Gio Pontiデザイン。
[メランコリア]
輸入煙草、特徴としては、紫の巻紙、特殊な香り、釣り鐘草の図柄の箱。銘柄名は、憂欝質、Melancolyの事。煙草は若者の鬱を促進する、との説に由来した命名だが、憂欝はまた、内向性、知的人物、知的想像性を示す。ローマ神話では、サトゥルヌス(土星)、農耕の神の娘で、大地、(土)の陰欝な属性を持つとされる。
[猫脚]
脚注から転じた駄洒落。フランスのルイ十五世様式などによくみられる、家具のカブリオーレCabrioleの和訳。蛇足なのだが、猫に脚が必要な位に必要だろう、という開き直りもうかがえる。
【原稿用紙仕様 黒猫かぞえ】
黒猫の歌には、実際にメロディが付いてました。
サビしか覚えてませんが、曲をつけてくれた人のことはよくおぼえてます。