初恋
初めて暗い土から芽をだしたとき、僕を覗き込むようにして前に立つ溌剌な少女と目が合って、風も露もないのに、なんだか体が震えたような気がした。
僕に人のような目はなかった。それでも確かに彼女の笑顔に目を奪われて、澄んだ声に無い耳を傾けて、僕に水をくれるその仕草に人とは違う静かな心がなんだか揺れる。
初めのうちは、そんな自らの心の揺れ動きの正体をよくわかっていなかった。これから出会う人々や動物全てに同じ感情を抱くものだと思っていたから。ただ生まれ出て暫く経ってみれば、それが彼女にたいしてだけふつふつと湧いてでる気持ちだということに気がつき始める。
そうだと気づいてしまえば、彼女がくれる冷たい水分を一身で受けたいがために、僕は必死になって葉を伸ばして、同時に感じる彼女からの特別な温もりをその身の内に大切に享受している。
そしてその彼女の健気な行為が、辺りの雑多な植物には与えられず、僕だけに行われていることをひっそりと意識してしまって、意地汚い多幸感を静かに得ていた。
水の入ったじょうろを足元に置いて、彼女は毎朝僕の前に座り込んでは、僕の葉を彼女の小さな手のひらで撫でて、独り言みたいに語りかけてくる。「はやく咲くといいね」なんて。
僕はそれに答える口も言葉もなにも持っていない。いくら身を捩ろうとも頷くことすら出来ない。
ただひっそりと心内で身を焼くようなもどかしさを燻らせている。
そんな気持ちは日が過ぎる度に段々と強くなっていって、この悶える心がそうであるみたいに、僕の体はうねって、捻れて、じれったくゆっくり伸びては、辺りに絡まって、次第に膨らんで、そして末端が潰れた人の肺みたいに萎んでいく。
夏の日差しはそんな僕の身体と、彼女の肌をしっとり焼いて、ふたり揃って過ぎていった陽の数だけ緩やかに成長していくけれど、僕がいくら蔦を伸ばして、葉を膨らませても、彼女の焼けた肌に僕から触れることは出来なかったし、彼女の凛とした声に頷くことも出来なかった。
もどかしい日々を過ごして、僕の浮わついた鬱屈がしっかりとした重さを持つ。それはにきびみたいに膿んだ蕾になって茎の先に現れる。
血と油が混じったみたいな卑しい赤白の蕾を、彼女は指先で突いて、悪戯っぽく「まだ咲かないかな?」なんて語りかけてくる。
その言葉からか、触れる指先の感触からくるのかわからないむず痒さが、蕾にまたいっそう重さを加えて、明くる朝に僕の気持ちを抱えた悍ましい蕾が、赤く充血して開いた。
彼女がいつもじょうろを持ってくるまでの朝と、まだ陽が明けきらない早朝との僅かな時間の中で、自制の効かない爛々と咲く自らの花について鬱々と考え込んでしまう。
それは僕の彼女に対する赤裸々な告白のようなものだったから。
彼女にその気持ちが伝わるかどうかは別として、自らの思いを孕んだ秘所が外界に向けて開かれている状況は、気恥ずかしい以外になかった。
ただ同時に、花を咲かせるといった彼女の望みを叶えられることで、その反応を恥を晒す中で楽しみにしている自分もいる。
どうせいくら考えたところで、花を隠すことも、言葉で伝えることも出来ないのに、悶々と彼女の笑顔と失望の顔を交互に思い描いては一喜一憂して、昇る陽に無い胸を高鳴らせる。
そうしてグルグルと考えを巡らせるうちに陽は完全に明けて、彼女は僕の前に現れた。
不思議と彼女はいつも持っている水の入ったじょうろを手にしていなかった。
代わりに彼女の腕にはすこし大きい紙を挟んだバインダーがあって、僕を一瞥するとおもむろに座り込んだ。
それからジッと僕の身体に咲く花をみて、その紙に赤い色鉛筆で彼女は黙って絵を描き始める。
僕は彼女がなにか言ってくれるものだと思っていた。この咲いた花について。
たとえそれが彼女を失望させるような醜いものだとしても、彼女はそれを僕に表現してくれるものだと思い込んでいた。美しいと思ってくれているなら尚更。
ただ彼女は黙って絵を描き続けた。あの溌剌な笑顔もなくて、僕に囁いてすらくれない。
黙々と描いて、描いて、描いて。
そして暫くすると描き終わったのか、彼女は立ち上がって、それから此方を一度もみることもなく何処かへ去っていった。
水も無く陽が翳っていく孤独のなかで、葉や花を萎ませながら、喜びも絶望もなく、ただ困惑がグルグルと渦巻いている。
どうして何も言ってくれなかったのだろう。水も言葉もなにも彼女はくれなかった。
そしてその絵を描いてから、彼女は僕の前に二度と現れなかった。
渇いた土の上で、枯れて落ちる自らの花や葉を眺めている。次第に意識は暈けてきているけれど、それでも彼女のことを想っている。
前の懊悩はない。ただ不思議と悲しくもない。未だに彼女の最後の行動と態度が、何を表しているのか僕にはわからないけれど、そこに至るまでの日々は素敵なものだったと思うから。
僕に言葉があれば良かったのにと何度も思う。ただやっぱり、どれだけ身を捩ろうとしても、すっかり重さのなくなった蔦ひとつ動かせない。
そうして暫く彼女の笑顔を思い描いて夏の風に吹かれていると、深い眠気がやってきて、僕はそれに身を任せた。
初恋