バタフライアイランド
A4小説 #1
太平洋に、連なって浮かぶサンゴ礁の島がある。その島は上から見ると大海原を羽ばたく蝶のようで、一目見た者は幸せになれるらしい。
そう聞いた時、僕はふうんとしか思わなかった。だからふうんという顔をしていると、その話をしてきた同僚は「もう、幸せ逃げちゃいますよ?」と僕に告げた。彼女は僕のことを何も知らないから、何気ない言葉を返したのだろう。それがやけに刺さることなど、他人には分かり得ないことなのだ。
「うみのうえのちょうちょさん、へんだね」
ベッドの上で話を聞いたまま、君はニヤニヤと笑った。柔らかな肌に何枚もテープが貼られて、黒ずんできた傷痕が痛々しい。それなのに君は強ばる頬を何度もしわくちゃにした。そんなに面白い話だろうかと、看護師さんから渡された服をしまいながら「そうかな」と僕は返す。
「ちょうちょさん、みれたらなおるかな」
「え」
「びょうき」
「ああ…。そうだね」
「でも、ひとりでさみしくないのかな」
「ん?」
「だって、ひろいうみのうえでひとりぼっちなんでしょう」
病院から帰る車の中で僕は蝶々の島のことをふと考えてしまっていた。それを見ただけでいいなら、世の中の幸せはそんなに軽いものなのだろうかと思った。まるでティースプーンでひと匙を掬うような幸せじゃないかと、そう思った。でも、君からしたらそれは夢と希望に溢れた物語だったらしい。そして変な希望を抱かせてしまったと思った。果てには「ちょうちょがみたい」とか言い出すに決まっている。そうなったら母親だけじゃなく義理のお母さんにまで文句を言われるだろう。「無責任なこと言わないで」とか、「まやかしを吹き込まないでください」とか。本当は一番強くいなきゃならない自分の弱さを隠しながら、僕は毎晩病院へ通って話を聞かせた。それから尾ひれが付いて、蝶は鳥になり、ペガサスになり、やがて魔法少女になった。そのたびに君は「ひとりでさみしくないのかな」と心配をした。小さな優しさが僕を落ち着けた。話が大きくなるにつれて、君の笑顔は少なくなっていった。僕を見て微笑んでいたその目から、少しずつ生気が消えていくのが分かった。いつか来るその時を僕は悟った。そして一か月後、愛娘は死んだ。
その島は、遠い南の海の上にあった。一週間有給を取りたいと言うと、普段なら突っぱねる堅い上司も「まあ、色々、気分転換も大事だからな」と難なく判を押した。行き先は誰にも告げていない。今思うと、生まれてこの方日本からほとんど出たことがない。そんな自分が、メラネシアの島国にいる。
「あれは上から見るから良いんであって、近くに行ってもただの島だぜ?」
地元の漁師に聞くと、皆に呆れて返された。それはそうだろう。上から見なければ、ただ2つ並んだサンゴの島だ。それでも僕はそこに行ってみたかった。
「あれだよ」
相場の二倍を請求して僕を船に乗せた漁師は、白いサンゴが囲む緑の森を指差した。遠く奥深くまで見通せる青い海が足元に広がり、そこに確かに二対の島が浮かぶ。見たら幸せになれるというバタフライアイランドは、想像していたよりも小さかった。僕は前にして、小さな箱から君の欠片を握った。ふわっと宙に舞って、君は真っ青な海へと飛んでいった。白い雪のような、塩のような。何気ない話がそうさせている。けれど、君がひとりで寂しくないように。そして君に幸せが訪れるように。そう、思いを込めて。
「…Tenkyu, Gutbai.(ありがとう、さようなら)」
バタフライアイランド