良いTV番組と空間法則。及び寺田寅彦作品、地震を考える
先ずは、昨晩の東京12チャンネルでの「自動伴奏piano」、こういうものが地球人の間で使用される事は良い事だ。
小さな子供が指一本で鍵盤を叩けば、ショパンだろうと何だろうと自動演奏が盛り上げてくれる。
東京12チャンネルと神奈川TVは時々面白い番組を放送する。何処だったか?「男女七人夏物語」は当時人気があり何度か再放送をされている事を知った、その再放送を見た記憶がある。
韓国ドラマが人気があるというが、少し見たが何も面白いとは思わなくその後見た事は無い。各局の刑事ものなども、落ちなどが詰まらなく途中で削除する。
ところで、音楽とは文字が現わす様に「音を楽しむ」事で有り、老若男女が自らの好きな音楽を弾く事が出来ればそれほど楽しい事は無いだろう。
地球人はgenre・ジャンルに拘るようだが、音楽である以上区分けをする意味は無いと思われる。
民謡やクラッシックは歴史を遡るので音楽の根本の様に思われるのだろうが、個々の感じ方次第ではと。
クラッシクは楽譜が存在し、其れに沿い後は演奏者の感性と技巧により聴く者の評価が分かれるというだけで、精神性を除けば、他のgenreと変わらない。
ショパンにしてもBeethovenにしても、作曲をした段階では特段、此れというジャンルは考えなかっただろう。
バガテル『エリーゼのために』(独:Für Elise)は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1810年4月27日に作曲したピアノ曲。
「WoO 59」の番号が与えられているほか、通し番号をつけて『バガテル第25番』と称される場合もある。
日本の一般人にとって、名前と曲が一致するピアノ曲として名高い。
本曲がベートーヴェンの生前に出版されることはなかった。現存する楽譜には3種類があり、失われた自筆譜を含めて4つの段階が確認できる。
テレーゼ・マルファッティ
この曲を1867年に出版したルートヴィヒ・ノールによると、楽譜はもとテレーゼ・フォン・ドロスディック(旧姓マルファッティ、1851年没)の物だったが、ミュンヘンのバベッテ・ブレードルに贈られた。グライヒェンシュタイン男爵夫人(テレーゼの妹)は「エリーゼ」が誰であるか記憶していなかったという。
曲が有名になると、エリーゼが誰であるかについてさまざまな説が生まれた。
テレーゼ・マルファッティ説
音楽学者のマックス・ウンガーが1923年に述べた説で、「エリーゼのために」は、本来「テレーゼ(Therese)のために」と書かれていたのを、悪筆のために「エリーゼ(Elise)」に読み違えられたと彼は推定した。
本曲の原稿はかつてテレーゼ・マルファッティの書庫にあったものであり、テレーゼはかつてベートーヴェンが愛し、1810年には結婚を考えていた女性であった。この説はかつて定説のように扱われたことがあったが、ノールがベートーヴェンの自筆を読み慣れていたこと、「テレーゼに献呈したものではない」とノールが明言していることから、現在は否定されている。
バリー・クーパーはこれに対して「エリーゼ」とは当時のドイツ語の詩の中で恋人の女性を指す一般的な語であり、ベートーヴェンは「エリーゼ」という名前でテレーゼを指した、という説を述べている。
エリーザベト・レッケル説
ドイツの音楽学者クラウス・マルティン・コーピッツ(ドイツ語版)は、ベートーヴェンがソプラノ歌手エリーザベト・レッケル(ドイツ語版)のために作曲したという新説を発表した。この説は最初2009年6月22日の『デア・シュピーゲル』第26号に載り、翌年自著で発表された。
友人ヨーゼフ・アウグスト・レッケルの妹であり、どこまでベートーヴェンと親密な関係であったかは定かでないが、彼の交友関係の中で唯一「エリーゼ」の愛称を持つ人物とされている。
この女性はウィーンに滞在していた頃に1813年に作曲家ヨハン・ネポムク・フンメルと結婚した。
エリーゼ・バーレンスフェルト説
2014年、カナダの音楽学者リタ・ステブリン (Rita Steblin) が述べた説。エリーゼ・バーレンスフェルト (Elise Barensfeld) はドイツのソプラノ歌手で、ベートーヴェンの友人であったヨハン・ネポムク・メルツェルとともに各地で興業を行い、1813年までウィーンに住んでいた。テレーゼ・マルファッティとは近所であり、ステブリンによるとおそらくテレーゼはエリーゼにピアノを教えていた。
エリーゼ・シャハナー説
2013年、オーストリアの音楽学者ミヒャエル・ローレンツ (Michael Lorenz (musicologist)) が述べた説。彼はエリーザベト・レッケル説を根拠のないものとして否定し、献辞はテレーゼの没後その楽譜の所有者となったルドルフ・シャハナーによって後に書き加えられたとする。
シャハナーは楽譜を所有していたバベッテ・ブレードルの婚外子であり、シャハナーの妻と娘はともにエリーゼという名前だった。
という様な事は本来どうでも良い事であり、作曲者自身もどうでも良かったのでは無かったかと思われる。
音楽は楽しまれてこそ生きて来る。
そういう意味では、下記のようにArrangeが幾つもある事の方が、地球人受けをした曲と言えるだろう。
此の国では、ザピーナツの歌唱曲が有名になったが、其れだけしか聴いた事が無い。
「エリーゼのために」を原曲とした楽曲
「情熱の花」(1959年、カテリーナ・ヴァレンテ。日本ではザ・ピーナッツのカヴァーもヒット)
「キッスは目にして!」(1981年、ザ・ヴィーナス)
「メタルハート」(1985年、アクセプト)
「イヴの誘惑」(1991年、井上晴美)
「アソコに毛がはえた」(1995年、嘉門達夫。アルバム『娯楽の殿堂』収録)
「Blues For Elise」 (1997年、アクセプトのギタリスト、ウルフ・ホフマンのソロアルバム『クラシカル』に収録。
「Show me × Show me」(1998年、MISSION)
「幸せになろう」(2002年、宇多田ヒカル。アルバム『DEEP RIVER』収録)
「I Can」(2002年、Nas。アルバム『God's Son 』収録)
「SPEED OVER BEETHOVEN」(2002年、ROSE。アルバム『Dancemania SPEED9』他、音楽ゲーム『Dance Dance Revolution EXTREME』収録)
「仮契約のシンデレラ」(2012年、私立恵比寿中学)
「エリンギのために」(2017年、DJみそしるとMCごはん&ももなお姉さん、アルバム『天才おばかクラシック その1/VARIOUS』収録)
「人喰いオオカミとエリーゼ」(2021年、カノエラナ。アルバム『昼想夜夢』収録)
Cherry Bullet Hands Up
尾上雄二達は今晩も花街の夕餉を楽しんでいる。
奥座敷の長tableに並べられた女主人手作りの季節外れの料理の色彩と美味もさることながら、集まっている者達の顔ぶれも様々であるのが何とも言えない。
アトリエから画伯に大物写真家、文豪、更に芸者達が勢揃い。
今晩は食事の前のeventとし映写会が催された。
奥座敷から裏庭にかけて空間に大きなスクリーンが登場している。
立体スクリーンなので見ている者達もappleの新製品どころではない迫力を味わえるのが味噌とも言える。
高高度で飛行するのは何れもF16その他であり、国籍は此の国とUSAと思われる。どうやら合同訓練では無いようでスクランブル発進をしたようだ。
通常三機程度と思われるが・・その数両国合わせ十機ほど・・。
交信中のパイロットには緊張感が窺える。
何れも地球人類では最先端に近いファイティング・ファルコンの異名を持つF16だが、F-15と比べて性能面で劣るローコスト戦闘機で第四世代に属する。
どういう訳か・・航空ショーの様にF35Aが前方を飛行している。つい最近沖縄嘉手納に配備されたと思われるもの・・。
通信をしようとしたパイロットたちの目に映ったのは・・前方の味方機だと思った機が突然・・おかしな航空機に変わった。
仮想敵国の戦闘機のようにも見えない事はないが・・。
更に次の瞬間・・今度は新たな機体が見え出した・・其れが6回続いている・・。ロックオンしようも・・?味方機も其の中に見え隠れしている・・。
sixth-generation jet fighter・・クラウドシューティング可能・・仮称F-X・・F/A-XX・・。
パイロット達の・・驚いている表情が・・一瞬だけ見えた・・。
芸者達は良くは分からないが・・何かおかしな事が起きているような気がし・・。
「・・ねえ、雄二さん・・よく分からないわね・・?」
若井夕子が少しだけ・・。
「・・レボルブチェンジ典型ね・・」
「・・あら・・其れでは皆さんに分からないわよ・・夕子さん?」
と三田綾子が尾上雄二の目を見る・・。
「・・ああ、そうだね・・でも、何かおかしい事だけは分かるでしょ?」
夕子が付け加える。
「・・青い惑星上の空間を・・六等分し・・分かりやすいように回転させただけの事なの・・見る方では目の前の景色が次々に変わっていくので・・呆れているだけで・・どうしようも無いと思うわね?」
次の瞬間・・超音速で真正面から・・仮想敵国の戦闘機のようでもある・・。
「・・衝突する・・」
パイロットたちは銘々バラバラになり急旋回・・missileを・・機関砲を・・サイドワインダー方式のモノなら・・危うくすれ違っても・・後を追いかける筈・・いや、味方機に・・命中したら・・?
だが・・速度が・・違い過ぎる・・Su・・?
其処で画面が変わったように見える・・。
航空機のパイロットたちの驚愕の表情と・・通信が・・。
「・・空が落ちて来た・・」
「・・ああ、一緒に・落ちそうだ・・。」
「・・何か見えないか?・・」
奥座敷では・・。
「・・あら・・確かに大空が落ちて来る・・」
と一同・・。
「・・大丈夫・・空とO型母船は此処からでは同じ様にしか見えない・・」
と、夕子。
雄二が・・。
「・・次は・・成層圏を超え・・」
という間もなく・・全ての航空機を包み込んだ・・仮称~大空は・・空間を宇宙空間にマッチさせている・・。
「・・大気が無ければ・・航空機は墜落するのでは・・?」
と、写真家・・。
「・・いや大丈夫でしょう・・光速を遥かに超え・・空間毎・・ですから・・空間内では落ちる事はありませんよ・・」
と言う雄二の言葉で・・画面は消えた・・。
ああ・・pilot達には・・記憶は全く残らない・・空間という名のジェットコースターにでも乗った如き経験をした事も・・。
奥座敷の空間が消えるとすぐに・・。
「・・もういいだろう?私も其方へ・・?」
恰も大西洋と太平洋を合わせたかのような・・12時方向の夕空としか見えない・・光を透さないO型母船から光芒(こうぼう)が・・「彼」が到着した。
奥座敷も、何時もの賑やかさが戻っている。
奥座敷から窺える裏庭には・・すっかり薄闇から漆黒に変わっている中で灯篭の灯りで照らされた花々と池の水面・・おっと、魚が跳ね・・輪を描いたり・・歪んだり・・月華(げっか)までが水面に揺れている・・。
何事も無かった奥座敷の夕餉は・・今、最高潮の様を呈していた・・。
最後に文豪作品から・・。
津浪と人間
寺田寅彦
昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙なぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。
明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。
同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。
歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。
現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。
こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。
これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。
それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
しかしまた、罹災者りさいしゃの側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。
正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。
するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。
これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。
そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。
そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。
そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。
三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。
その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。
そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。
これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変でも地異でもなくなるであろう。
風雪というものを知らない国があったとする、年中気温が摂氏二十五度を下がる事がなかったとする。
それがおおよそ百年に一遍くらいちょっとした吹雪ふぶきがあったとすると、それはその国には非常な天災であって、この災害はおそらく我邦の津浪に劣らぬものとなるであろう。
何故かと云えば、風のない国の家屋は大抵少しの風にも吹き飛ばされるように出来ているであろうし、冬の用意のない国の人は、雪が降れば凍こごえるに相違ないからである。
それほど極端な場合を考えなくてもよい。いわゆる颱風たいふうなるものが三十年五十年、すなわち日本家屋の保存期限と同じ程度の年数をへだてて襲来するのだったら結果は同様であろう。
夜というものが二十四時間ごとに繰返されるからよいが、約五十年に一度、しかも不定期に突然に夜が廻り合せてくるのであったら、その時に如何なる事柄が起るであろうか。
おそらく名状の出来ない混乱が生じるであろう。そうしてやはり人命財産の著しい損失が起らないとは限らない。
さて、個人が頼りにならないとすれば、政府の法令によって永久的の対策を設けることは出来ないものかと考えてみる。
ところが、国は永続しても政府の役人は百年の後には必ず入れ代わっている。役人が代わる間には法令も時々は代わる恐れがある。
その法令が、無事な一万何千日間の生活に甚だ不便なものである場合は猶更なおさらそうである。
政党内閣などというものの世の中だと猶更そうである。
災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。しかし、はじめは人目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われる度にあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹藪の中に埋もれないとも限らない。
そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやかましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことは相手にしないであろう。
そうしてその碑石が八重葎やえむぐらに埋もれた頃に、時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。
昔の日本人は子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである。それは実際いくらか考えばえがする世の中であったからかもしれない。
それでこそ例えば津浪を戒める碑を建てておいても相当な利き目があったのであるが、これから先の日本ではそれがどうであるか甚だ心細いような気がする。 二千年来伝わった日本人の魂でさえも、打砕いて夷狄いてきの犬に喰わせようという人も少なくない世の中である。
一代前の云い置きなどを歯牙しがにかける人はありそうもない。
しかし困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。
紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。
科学の方則とは畢竟ひっきょう「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼払われたのである。
こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。
そうすれば災害はもはや災害でなく五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう。
科学が今日のように発達したのは過去の伝統の基礎の上に時代時代の経験を丹念に克明に築き上げた結果である。
それだからこそ、颱風が吹いても地震が揺ゆすってもびくとも動かぬ殿堂が出来たのである。
二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して他所よそから借り集めた風土に合わぬ材料で建てた仮小屋のような新しい哲学などはよくよく吟味しないと甚だ危ないものである。
それにもかかわらず、うかうかとそういうものに頼って脚下の安全なものを棄てようとする、それと同じ心理が、正しく地震や津浪の災害を招致する、というよりはむしろ、地震や津浪から災害を製造する原動力になるのである。
津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。
その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。
それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。
それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。
しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然方則であるように見える。
自然の方則は人間の力では枉まげられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界きょうがいにある。
それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。
そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄すて鉢ばちの哲学も可能である。
しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。
この点はたしかに人間と昆虫とでちがうようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることが出来れば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろうと思われる。
この水準を高めるには何よりも先ず、普通教育で、もっと立入った地震津浪の知識を授ける必要がある。
英独仏などの科学国の普通教育の教材にはそんなものはないと云う人があるかもしれないが、それは彼地には大地震大津浪が稀なためである。
熱帯の住民が裸体はだかで暮しているからと云って寒い国の人がその真似をする謂いわれはないのである。
それで日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくも毎年一回ずつ一時間や二時間くらい地震津浪に関する特別講演があっても決して不思議はないであろうと思われる。
地震津浪の災害を予防するのはやはり学校で教える「愛国」の精神の具体的な発現方法の中でも最も手近で最も有効なものの一つであろうと思われるのである。
(追記) 三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。
またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、その後新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋さびれてしまっているそうである。
それからもう一つ意外な話は、地震があってから津浪の到着するまでに通例数十分かかるという平凡な科学的事実を知っている人が彼地方に非常に稀だということである。
前の津浪に遭った人でも大抵そんなことは知らないそうである。
(昭和八年五月『鉄塔』)
「職業というものは要するに、人のためにするものだということに、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。すでに他人本位であるからには種類の選択分量の多少すべて他を目安にして働かなければならない。夏目漱石」
「運命は偶然よりも必然である。運命は性格の中にあるという言葉は決して等閑に生まれたものではない。芥川竜之介」
「一つの考えというものは正しいか正しくないかだけで評価できない。正しい考えであって、しかも一顧の価値さえないものあるし、間違っていても価値を認めないわけにはいかぬ考えというものがある。志賀直哉」
「by europe123 」
https://youtu.be/WOd05LXYI2g
良いTV番組と空間法則。及び寺田寅彦作品、地震を考える