朝食

 この日は気分がいい。
 カノンをかけながら、キーボードを打っている。
 昨日は四時ぐらいに寝たのに、なんと今日は六時に起きた。

 最初は八時ぐらいかと思ってて、何故ならば昨日含め、しばらく八時から九時には起きていたから珍しい日もあるもんだと感じる。
 朝早く起き、余裕があったので久しぶりにコンロを使った。朝食にコンロを使ったのはいつぶりだったか。いつもは汚かったり何だったりと、日ごろの持ち越されたストレスも相まって、なかなか触れようともしなかった。
 しかし今日は自然と進んでコンロに火をつけた。

 まあ、クロワッサンの所為と言えるだろう。
 いや、“~の所為”と言うとどこか被害者意識が垣間見える。
 ここは“おかげで”というところだろう。いつも無意識的に、それっぽいからと言う理由で言葉を使っているから、変な日本語が所々入り混じってしまう。
 しかし正しいものを使えばいいというものじゃないから中々難しい。自分のご機嫌取りというものは中々に難しい。
 その点で言えば、やはり『蜜柑猫』と『鷺沢歩』の区分け……いや別々に存在する意義はある。
 カジュアルな方向性の『蜜柑猫』
 ディープな方向性の『鷺沢歩』
 好き勝手、人を気にしないでやれる鷺沢歩は助けになるはずだ。いや分からない。一丁前の文豪が言うならまだしも、この一介のただの字書きが言うのは甚だしいのではないだろうか。
 まあいい、話が脱線した。

 そうだ朝食の話だった。
 今日は洒落た朝食を作った。
 クロワッサンなんていう、洒落たパンを食うのだ。
 いつしか見た、イタリア人の姿を思い描き、冷凍であるがブロッコリーを包んだオムレツに、ミニクロワッサンを二つ。そしてモカを一杯。
 クロワッサンというのは中々に美味しい食べ物である。
 サクサクとした軽い食感のそれは一つ二つ食べたところで、食べた気にはならない。してくれない。
 だから朝食の顔をしているのだろうか。ぶっちゃけ朝は食べても食べなくても、日中をダラダラ過ごす自分にとってはすぐ昼が来るので、食べないことが多い。
 そんな自分にとって朝食はありふれて、普遍的な……いやそこまで特別視はしていないが、しかし彩のある食事を意識することは滅多にないからこそ、たまにしか食べない朝食というものに何かしらの、ちょっとワンランク上の嗜好物のようなモノなのだろう。
 いやわからないけれども。

 マキネッタは一月はやい誕生日に買ったものだ。
 かなりピカピカなので、使ったらすぐに洗っている。これもイタリア人を見習って、使うのは指と水だけ。ぶっちゃけ面倒なだけなのだが――

 そして仕上げに熱湯をかけて水分を飛ばす。マキネッタ程この日常とはかけ離れたものは無いだろう。
 いや、ここ日本に限っての話だ。多くの忙しい人々に比べ僕は今正に暇を……いや暇というか時間に余裕があるという事にしておく。
 そんな自分だからこそ、こんな面倒な手間暇をかけられるのだ。普通の生活レベルに治ったらもうこんな時間は滅多にないだろうけれど、せめて朝食は食べずとも、朝にモカを一杯最初から最後まで、一つの工程として欠かず愉しめたらなと思う。

 今日はとてつもなく早く起きれたので、結構な余裕ができた。
正直これは想定外なので(ちなみにここまで、長くこの“日記(五分間執筆)”を書いたのも久しぶりだったので、驚いている)何をしようかと頭の中でふわふわとやるべきことを上げていた。
 しかし、大分考える力を喪った自分。頭の中で輪郭が映るほどの妄想もできなくなって、像としてでなく字としてでしか思考できなくなってしまい、しまいには健忘症も悪化し、鳥頭もいいところな自分。
 どれほどまでに低下しているのかと言えば、ガスコンロや水道の蛇口など、締めたかどうかも締めたあとになってまた確認するようなザマで、もし、脳内にフィルムがあったとしたら、そのコマはすっぽりと切り取られたように記憶が抜け落ちているのである。
 やったという“感覚”はあったりなかったりあやふやで確証たる『記憶』もないわけだから二、三度確認することでやっと安心感を得られるわけだ。

 おっとまた脱線した。

 早起きし過ぎて想定外だった話だ。
 朝食を食べた後は、食器を洗い、洗濯機を回し……まあこれしか家事をやってない訳だが、家族が翌日に持ち越した、モノを片付けているだけなので、なかなか納得できないものがある。
 色々とまあ、言いたいことはあるが、「~でも」と全てを否定するので何も言わなくなってしまった。僕はそちらの都合に合わせているのに、どうしてそっちはそっちに都合を押し通そうとするのかと、考え始めたら心がムカムカしてくる。
 ムカムカしてくるとストレスがたまる。
 ストレスを発散する術がないので、またムカムカする。
 ストレスチャージでどんどん悪循環に陥るので、考えないようにすることにした。

 まあそれも気休め程度にしかならないのだが……。

 また話が脱線した。
 家族のやり残しを片付ける。
 そう言えば、家の“仕事”というが、給料も発生しないから“仕事”とは呼べない。

 いや、どうなのだろうか。
 まあいいや。

 飲みっぱなしの缶がある。これは親の飲んだ後である。
 しかし、殊これに関しては特例なのかすぐ片付けようとしない。

 個人的な思想ではあるのだが、人にやって欲しいことは、まず自分が完璧にそれをできるようになってから言わないとダメだと考えているのだ。
 なぜならば、もし自分がそれを怠った場合、それを「やってくれ」と言い、やった人間の『信用』を失うからだ。
 極端な話「どうして、お前がやってないことを俺がやらなくちゃいけないのだ」なんていう、“尻拭いさせられている感”が生まれる為、どうしてもストレスを感じてしまうのだ。
 しかも、共有地であり同居人が居ると、やはり、自分と密接にテリトリーを共有しているので、その共有されるべき場所を自分勝手に使われるとやはりストレスを感じてしまうのだ。
 そもそも「共有地」なので、やることなすこと、全てが自分の行動と同等でなければならないと暗に相手に求めているのだ。
 その時点で、もうその人は――現に僕は誰かと一緒に住むことに向いていないんだと分かる。

 例えば、食べた後水に浸けずに放置したりだとか、
 イヤホンせずに、共有の部屋で音楽を流したりだとか、
 言われないと動かずただソファに寝転んでスマホを眺めていたりだとか。
 そう言う行為が、悪印象を付加し益々ストレスを感じる要因になる。
 相手の人間性が好きでも、これはまた別。好きだから諭さないのではなく、もう諦めたか諭さず。そう言う人間は自分と同レベル、同格に対象を見る。これは見下しているわけでなく『信頼』なのである。
 「君を信じてるよ」という気持ちがあり、だからその点、言うときは言う。ま中々に自分本位であるが、それが自分ができるから、自分が特殊だと思っていないからである。
 よく、世の母親が休日に家の事や育児をしないことを嘆くのを聞くが、では彼女らが彼ら夫の職場に何の説明も……いや最低限の説明は受けるだろう。最低限の説明を受け、それでも失敗するときは失敗するのだ。大抵はその時フォローが入る。では夫が休日の際、家の事で失敗した場合はどうだろうか。彼女らはフォローしているだろうか。

『こんなの誰でも、言われなくてもできる』
『言ったのに、できていないし、やっていない』
『言ったって無駄、覚えないもん』

 そう感じないだろうか。
 しかしだ。例にコンビニアルバイトを挙げる。

・コーヒーメイカーの掃除。
・ショーケースの掃除。
・フライヤーの洗浄。
・接客、レジ対応。
・ゴミ箱の清掃。
・灰皿の清掃。

 今、瞬間的に頭に過ったものを並べるだけでもこれほどある。
 中には簡単なものもあるし、物覚えの良い人間であるならば、すぐに覚えられる内容かもしれない。しかし“物覚えが良い人”もいれば反対に“物覚えが悪い人”もちゃんといるのだ。
 でも、それにストレスを感じる人間には、自分が特殊であることに中々気づけず。その『物覚えが悪い人』というような存在をあたかも、最初からいないように錯覚してしまうのだ。

まあ、だから何とか心に折り合いをつけたほうが健全ではあるものの、やはりストレスはたまっていくものである。

まあしゃあなし。

 なんて心で割り切れる人も早々いないはずである。
 僕のように、『考えないフリ』をしていてもやっぱり心は馬鹿正直に傷ついて、イラついている筈である。
 この現状に今でも答えを見いだせずにいる。

 話し合いが必要なのかもしれない。
 まあ無駄に終わるんだろうけれど……あ、ほら思ってしまった。やはり心は嘘を吐けない。
 そう言うもんだよ人生。我が生

朝食

朝食

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-06-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted