生きたい欲望と生きるための欲望
馬鹿者が
どうしたら良いのかと思い悩む日々を過ごす。
ふとネットを見て見ると、魑魅魍魎が憎悪を放つ最悪の場所に代わっているような気がして、吐き気がする。
気づけば大嫌いなものばかりが周辺にころがっている。
なにもかもが嫌いだ。
好きになれない。いけ好かない。
そんなものばかりが沸く今日。
きっと僕もその有象無象の群衆に居る一人なのだろう。
しかしこんな僕が言うのもなんだが、何かを恨んで生きていくのは苦しくないのだろうか。僕はその一つの事に固執して、復讐しようと生きるのは疲れてしまうので結局恨んでも、馬鹿馬鹿しくなって恨むのをやめて、いつしか空っぽになる。
にしても、
もっと気楽に生きたいものである。
人生はどこまでも辛いことの連続だ。
苦しみを和らげるために生きているに違いない。
幸福なんてものは一種の成功報酬でありおまけなのだと思う。
ふとこの前考えたことがあるのだ。
どうして、こんなに辛く苦しいのに生きていかなきゃならんのだと。
まあ、こんな浅く誰もが通るであろう哲学っぽい問いをかんがえたところで人生に兆しは見えないのだが。
そして、僕は“考えたことがある”という記憶だけ、肝心な中身は輪郭を消し去って忘れているのだから救われない。
しかし命題は変わらず前述したとおり『辛く苦しいのになぜ生きていくのか』だ。
それで思ったことだが。
まず人が生きるために欲という物が存在する。
いや、『生きようとする欲望』こそがそうたら占めるのかもしれない。
生きるための欲望として三大欲求がある。
しかしそれは生きるためであり、生きたいためではない。
生きたいというのは、『生をより豊かにしていきたい』という思考からくるものである。
その半面、三大欲求が持つのは生きるため。
人間の生存的な意義となるのだ。
まず腹が減るのはどうしてか。
エネルギーが必要だからである。
まず、それが補給されなければ生命は維持できない。無からエネルギーが湧き出ることはないので、やはりどこかから得なければならないのだ。
だから食欲という形で『食べる』という行為が行われるのだ。
まず基礎的な事だ。
食べなければ死んでしまう。
いや、空腹と言う状態はとてつもなく心細く、辛く苦しいのだ。故に、苦しまないために食べるというのが、なんともひねくれてはいるものの、全てこれだ。
どうしても辛く、永久には耐え難い苦しい状態にあるからこそ、欲望と言うのが存在する。
まずそれだ。
生きるためにそれがある。
だからそれへの欲望に色はない。着色する、謂わば甘い物が食べたいだとか、辛いものが食べたいだとか、食わず嫌いだとかのそれだ。
その欲望が『生きたい欲望』であり、決して『生きる欲望』ではないのだ。
まあまあ当たり前である。
しかし、一見関係なさそうなものにもそれが当てはまるのかもしれない。その『生きたい欲望』と言うのが、もしかしたらツイッターなどであらゆる事を言う連中の中では、食欲と同等の意義があるのかもしれない。復讐も恨みも僕はそれに『生きる欲望』としての兆しや意義を見出せずにいるだけなのかもしれない。
傍から見てしまえば滑稽に見えるそれも、しかし本人からしてみればかけがえないのない活動なのかもしれない。精神を保つための自衛であり、極めて心の弱い人間なのだろう。
などと金曜日の平日。
昼時では混むであろうファミレスの二人用の席で書いている自分はいい身分と言えた。
書店アルバイトは週四、コンビニアルバイトは週二で入っていたが、上司の一人に精神的に耐えられず、先月は、一ヶ月のほとんどを休み、コンビニアルバイトもやめたのだった。
休むと、それまでのプレッシャーからは解放されたが、それは一般的な社会人が常に持つものであり、それさえも耐えられない自分はなんとも情けないものである。
しかも、代わりにやってくるのは幸福でも安堵でもなく、お金がないという非情であった。
当たり前だ。
一ヶ月も休んだのだ。
当然、借金も返せない。
携帯料金も払えない。
悲惨な現実がそこにあった。
やはり休むんじゃなかった。いや、そんなことを言っている暇ではない。そもそも、あの時相談したとて、多分バックレていただろう。
そうだ、今度こそ確実に折れたという事だ。
無能である上に心が弱かっただけの人間が、ただ耐えきれずに辞めてしかるべき状況になってるというだけだ。
金がない。
常日頃頭を過る、のが一層走るようになったのがここ最近である。というか昨日の給料日はまさにそうだった。
保険料やらいろいろ引かれて、普通二万もらえるところが一万に減った。そして、それを知らずにてっきり二万は入るだろうと見込んでの滞納していた後払いサービスを振込、念のためと口座を確認したらこうだった。
まだもう一つの後払い決済と、消費者金融の借金、クレジットの返済、携帯料金とあるのに、返せたのはそれだけだった。今ファミレス居るのは、家に居場所がなくなったから。
どこか続きそうなところはないだろうか。求人誌を見ても、これまでの嫌な思い出がフラッシュバックして、捨てるの繰り返し。
そもそも皮膚病やら逆流性食道炎だとかがひどすぎる。
特に皮膚炎の所為で仕事の幅が狭い。その上、どこを探しても自分が続きそうなところは見受けられない。
せっかく、安くなるために引かれた保険料もそもそもの病院に行く費用がなければ損でしかない。
また馬鹿をする。
思い出したくない記憶が蘇る。
その所為で増えた借金だが、不思議と、借金という字のおかげか、その嫌な気持ちは過去への自傷でなく、輝かしい未来を蝕むだけで済むのだ。
未来が暗ければ暗いほど、過去は美化とは言わずとも、思い出したくない記憶は自然と封印される。その上、酒さえあれば今が楽しくて仕方なくなる。ああ日本が麻薬大国でなくて良かった。
かの文豪をなぞっているかのようだ。
貶めているのか、敬愛しているのか。
されどそれは誤った認識でしかないのだ。
僕は無学者であり、その上恥をばらまくただの阿呆である。
死んだ方がマシなのに、やっぱり死なない。
ただの阿呆なのだ。
馬鹿と阿呆は違う。
馬鹿は小手先で阿呆は根本的である。馬鹿はある時は役に立つが阿呆は致命的なのだ。
時代が違えば僕は死んでいた。
時代が今でもいつかは野垂れ死ぬだろう。
ああ悲惨。
ああ我が生。
ああ恨めしい。
生きたい欲望と生きるための欲望