岸田君息子に市民団体が告発状及びNHK報道の嘘その他に文豪作品貼り付け

岸田君息子に市民団体が告発状及びNHK報道の嘘その他に文豪作品貼り付け


(一時間半程の時間内でピックアップした記事と文豪作品を・・。)



 人類は無知文盲なだけ・・。
 何処の報道機関(新聞社・TV局)もだんまりをせざるを得なかった此の国のお粗末な体質に象徴される「報道管制」の危険性。
 先ずは岸田君の御曹司に関する時事通信記事から。

 

 岸田首相長男への告発状提出 公邸忘年会巡り、建造物侵入容疑―市民団体

「岸田文雄首相の長男で首相秘書官を事実上更迭された翔太郎氏が公邸内の公的スペースに無断で立ち入ったとして、市民団体が15日、同氏に対する建造物侵入容疑の告発状を東京地検特捜部に提出した。
岸田首相「公邸忘年会」で釈明 野党、写真流出を問題視

 週刊文春が5月、翔太郎氏が親族と公的スペースで記念撮影したなどと報じ、同氏は今月1日付で首相秘書官を辞職していた。
 告発状では、翔太郎氏が昨年12月30日に公邸で開かれた親族らとの忘年会で、管理者である岸田首相の許可なく公務用の階段などに立ち入り、親族らと記念撮影したり、飲食したりしたとしている。」

 更に。波紋広げる首相の“親バカ人事”【点描・永田町】

「岸田文雄首相が政権発足2年目となる10月4日、長男の翔太郎氏(31)を政務担当の首相秘書官に抜てきしたことが、政界に複雑な波紋を広げた。歴代首相を見ても、政務担当秘書官に身内を起用したケースは少なくない。ただ、国民的批判が渦巻いた故安倍晋三元首相の「国葬」実施を〝強行〟し、それとも絡む世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題での拙劣な対応などで内閣支持率が急落、政権危機もささやかれる中での人事発令となったことが、問題視されたからだ。

【点描・永田町】前回は⇒「9・27国葬」後も深まる政権危機

 前日の3日に参院選後初の本格論戦の舞台となる臨時国会が召集され、同日の首相所信表明演説を受けて5日から各党の代表質問が行われた。それだけに「首相にとって、4日はまさに政権運営の重大な節目の日」(側近)だったことは間違いない。このため、政権内部からも「なぜこんなタイミングで長男を首相官邸入りさせたのか」(自民党幹部)、「あまりに政治センスがない。ただの『親バカ人事』に見える」(閣僚経験者)との疑問や不安、不満の声が相次いだ。もちろん野党側も、ここぞとばかりに「時代錯誤」(立憲民主党)、「政治の私物化」(共産党)などと一斉に〝口撃〟した。

 論戦初日となった5日の衆院本会議での代表質問では、野党第1党の立民の2番手として登壇した西村智奈美代表代行が、質問の最後に「公私混同との批判を招きかねない」などと皮肉たっぷりに起用の理由を詰問。自席で苦笑しながら聞いていた首相は、こちらも答弁の最後に「個別の人事への説明は控えるが、政権1年の節目に適材適所の観点から総合的に判断した」とメモを見ながらの素っ気ない説明で受け流した。ただ、議場内ではこのやりとりに対し、野党の激しいやじだけでなく、失笑する与党議員も目立った。

「チーム岸田」の機能不全、露呈も
衆院本会議で立憲民主党の西村智奈美代表代行(手前)の代表質問を聞く岸田文雄首相(中央)=2022年10月5日、国会内【時事通信社】」

「翔太郎氏は慶応大卒業後、大手商社勤務を経て、2年前から岸田事務所の公設秘書を務めていた。政権発足から1年間、政務秘書官を務めていた山本高義氏を事務所に戻す入れ替え人事だが、山本氏は「他の秘書官にとって、『首相の分身』としての信頼感はなかった」(岸田派幹部)とされる。これに対し、翔太郎氏は「有能で、首相と起居を共にしてきただけに、首相の本音をすべて把握している」(同)との指摘が多い。首相は7日の参院代表質問の答弁で「秘書官の相互連携を強め、インターネットへの情報発信などを迅速化するためだ」と説明した。
 そもそも首相自身も政界有数の名門・岸田家の3代目で、30歳になる年に日本長期信用銀行を辞め、衆院議員だった父・文武氏(故人)の秘書になった。当然、翔太郎氏も早くから4代目の後継者を目指し、父とほぼ同年齢で秘書として政治修行を始めたわけだが、わずか2年で極めて重責となる政務担当の首相秘書官に就いた点は、父とは全く異なる。首相秘書官は現在8人で、翔太郎氏は政務担当の嶋田隆氏(元経済産業事務次官)の補佐として、エリート官僚ぞろいの事務担当秘書官に〝上司〟として接することになる。」 

 
 此処でこんな例を挙げてみる。
 或るコンビニ店のトイレはタクシー運転手をはじめいろいろな人達が利用する。タクシー運転手だけをとれば、公衆便所を覚えておく事も仕事の内。
 此のトイレなのだが、男性の利用が圧倒的に多い。
 男女用にそれぞれ一つのトイレが設けてあるのだが、男性客が我慢できずに女子用トイレを使用するような状況が窺える。
 女子トイレのドアにはこんな張り紙も見られる。
「・・此のトイレは女子専用です・・違反した場合は【建造物侵入罪】に問われます・・」
 使用中に入れば問題になるのは当然だが使用して無くとも、女性が利用できない事を想定して・・或いは実際にそういう事があったのかも知れない。

 上記の記事に戻るが、おそらくは検察では結果的に見逃さざるを得ないだろうと思う・・・其れが此の国に限らず悪質な体質を身に付けた人類の嵯峨とも言えそうだ。
 勿論・・取り上げれば立派なものだとも言えるが・・。


 【速報】 時事通信の6月の世論調査によると、岸田内閣の支持率は前月比3.1ポイント減の35.1%だった。


 興味は無いがUSAで大騒ぎをしているトランプの件についても似たようなもので、spy法とやらおかしなものに抵触をしたとされている。
 だが、バイデンも同じ様に先般同じ事をやっているし、おまけに息子の薬中毒まで取り上げられた。岸田君はバイデンの洗礼を受けたのでは?(笑)
 という事はUSAでは今までも歴代の大統領が・・となる。
 ‪一説には大統領選を目前にした一種の「赤狩り」という意見も出ているようだが・・そう言えばトランプのネクタイは趣味の良くない赤・・?
 トランプは大統領就任時に「Chinaへの核ボタン」を押しそうになり、軍上層部からChinaに「・・今だ攻撃の予定は無いが・・攻撃する時には宣戦布告をするから・・待っていてね・・」
 という国中挙げてのお粗末さlevelと言える・・。
 だが、その後就任したバイデンは・・あからさまにChinaに攻撃姿勢をとっており・・次々に制裁措置を発表している・・大国に対してもご存知の如く其の連続で・・挙句の果てが「USA経済は構造不況から脱出不可」であり、金利を上げようと止めようと向こう十年以上はinflation・物価高で悶え苦しむ事になるだろう。
 要は世界中がanachronism~時代錯誤~である事に通じる。
 尤も・・人類のlevelから言えば相応とも言えるが・・。

 というのも、NHKがわざわざニュースで報道した事に宇宙空間では呆れかえり苦笑している・・という現実・・。
 其れが・・次の。

「・・日米の研究で土星で燐が発見された・・指折り数えれば・・水金地火木にあたります・・・燐は生命体の誕生には必須のモノで・・ひょっとしたら・・宇宙に生命体が存在するのかも知れません・・ガハハハ・・」
 其れは結構な・・お日柄で・・梅雨に入り・・公共放送も・・しけってしまったのかカビが生えて来たのでしょう・・(笑)
 宇宙「人」は人類の仲間という意味?地球人は正しいが・・?
 燐は昔は「火の玉」の正体と言われた。土葬であった時代・・燃えて・・。
 燐でなく・・NASAとPentagon?
 自衛隊へは既に懲罰が下っている。其れも二回目になる・・。
 そもそも・・今の世代中・・特に若者の犯罪が続けて起きている。正常な時代ではなく・・「異常の時代」と言えそうだ・・。
 ・・で、岸田君の御曹司も・・そんじょそこらの若者に過ぎなかった・・という事になるし・・奥さんの「・・公費で私利私欲ならぬ単独飛行・・」。
 「翼よ・・あれが・・阿呆どもの灯だ・・リンドバーグならまだしも・・」
 岸田君・・あんたの代わりに航空運賃支払ってやろうか?


 次。
「超音速の技術・・マッハ7・・」
 何だそれ?
「音速(おんそく、英: speed of sound)とは、音が物質(媒質)中を伝わる速さ。つまり1気圧で0 のとき音速は毎秒331.5メートル、温度が1 上がるごとに音速は0.61 m/s高速化。
 音速は、特に物質の相変化による影響を大きく受け、同じ物質では、固体が最大(つまり固体中の音速が最も速く)、次いで液体、気体の順(つまり気体中の音速が最も遅い)。
 またその物質の状態(温度、密度、圧力)によっても変化し、温度は気体では正の影響を、固体では負の影響を。
 気相中を音が伝わる場合、概ね分子量が小さい物質ほど速い傾向。例えば、媒質が空気(平均分子量29)の時よりヘリウム(分子量4)の時の方が音速は約3倍大きく、吸入してしゃべるとかん高い声になる現象(ドナルドダック効果)。
(ただし、100%のヘリウムを吸入すると、窒息して危険なので、必ず空気と同等の酸素含有ヘリウム混合ガスを使用する)。
 なお媒質中を伝わる振動の成分は、気体と液体では縦波(疎密波)だけであり進行方向と波が同じ方向。
 いっぽう固体中では横波(ねじれ波)が遅れる。【地震波と同様】であり、録音した自分の声が違って聞こえる、骨伝導による聴覚への影響の一因も。
 近年では記録のインフレと安全面への配慮から、同様の研究は減少。
 空気中の音速
 近似式(一次のテイラー展開:331.5 + 0.6x )、に対し厳密な式は(20.055 (x + 273.15 )1/2 )。
 なお、331.5に替え331.3をあてる場合もある。
 日常生活上での音速というのは空気中の音速であり、近似的に温度のみの一次式で表わすことが可能で、1気圧の乾燥空気では次の式が常用される。
 331.5 + 0.61 t (※) (m/s) (※ t は摂氏温度)」 
 多くの分野で音速について言う時、常温として15℃を採用することが一般的であり、その場合 340.5(m/s)。
 それで一般に、音速を15℃で秒速340mとなる。
 空気中の音速を直感的にとらえやすい現象とし、雷の発光から爆轟が届くまでの時間差や、山間部で山彦が発生し音が反響して聞こえるものも。
 マッハ、標準大気中の音速の「km/h」表示
 音速の倍数がマッハ数。速度単位の「マッハ」は気圧や気温に影響され、超音速機のスペックを表す場合などで、標準大気中の音速 1,225 km/h は便宜上。
 マッハ7を便宜上単純計算すれば・・8575km/h

 気体中では、音速は比熱比、平均分子量、温度に依存。圧力はほとんど影響せず。ここで κ を気体の比熱比、R を気体定数、T を気体温度、M を気体の平均分子量とする音速 c。
 c = \sqrt{\frac{\kappa RT}{M}}
 音速測定によって気体定数を求めることも。
 もしくは、気圧 p [N/m2] と密度 ρ [kg/m3] を用い
 c = \sqrt{\frac{\kappa p} {\rho}}
 湿り空気は省略。
 
 では・・光速との比較をする。
 1光年とは地球人が考えたに過ぎなく、或る球体から青い惑星迄光が届くのに1年かかると理解しているようだ。
 1光年が9兆4600億キロメートル?
 地球人のロケットで 17000年かかるとすれば、青い惑星と太陽系恒星との距離は約1億5000万キロメートルが人類科学での換算だが、単位が小さすぎるので勝手に光年としている訳。
 最も近い恒星4.3光年。北極星430光年、天の川銀河系中心3万光年、アンドロメダ星雲254万光年・・が人類的な換算間隔となるが・・?
 新型のO型母船であれば、地球時間に換算すると仮定し、約12時間となるが、此れも容易に可変な観念と言える。
 150憶(光~天文学上とし)年でも地球人の感覚からすると「すごく遠い」が、宇宙全体の生命からすれば「極めて近い」長さだが・・実際は正しくない。
 其れで無ければ、広大且つ複雑な宇宙空間を移動するのは無理。
 時間が無くなったので少しだけ・・。
 宇宙空間に存在する生命体若しくは生命の中でも・・地球人はlevelという言語を使用すれば、最も低レベルに過ぎなく、UFO(NASAでは現在は現象としているようだが。そもそもFlyは有り得ない。宇宙空間をどうやってFly可能なのか?移動の方がまし。)という名称は地球人が考え出した言語だが、目撃情報が多数あるという事も全くおかしい。
 おそらくは、他の現象の見間違い及び想像力の為せる業・わざが全てだろう。
 地球人の乗りものであればあり得るが、そうで無ければ五感では感じられず、災いの種になるのが落ち(笑)。
 大きさが小さ過ぎ、Stealthどころの野暮な形状ではどうやって様々な圧力や人類には謎の空間の特性を通過・移動できるのか?


 まあ、其れは兎も角。
 昨日の記事中不足を補うと、人類でも良く知っている事で、自動車のナンバーは陸自(陸運局?)軽や原付の様に地方自治体で、一定の様式で、所有者の名前や住所等が判明するので、一晩明けたら空気が抜けていたとか、破壊されていた等の危険性があるという意味で、人類のようにすぐに興奮するという感情の動物なら、自衛隊銃殺事件の様に何をされるか分かりませんよ、というあくまでも警告の意。



 其れではやっと、一作のみ文豪作品から貼り付けて終わり・・。


 志賀直哉氏の作品
菊池寛



 自分は現代の作家の中で、一番志賀氏を尊敬している。尊敬しているばかりでなく、氏の作品が、一番好きである。自分の信念の通りに言えば、志賀氏は現在の日本の文壇では、最も傑出した作家の一人だと思っている。
 自分は、「白樺」の創刊時代から志賀氏の作品を愛していた。それから六、七年になる。その間に自分はかつて愛読していた他の多くの作家(日本と外国とを合せて)に、幻滅を感じたり愛想を尽かしたりした。が、志賀氏の作品に対する自分の心持だけは変っていない。これからも変るまいと思う。
 自分が志賀氏に対する尊敬や、好愛は殆ど絶対的なもので従って自分はこの文章においても志賀氏の作品を批評する積つもりはないのである。志賀氏の作品に就いて自分の感じている事を、述べて見たいだけである。

 志賀氏は、その小説の手法においても、その人生の見方においても、根柢においてリアリストである。この事は、充分確信を以て言ってもいいと思う。が、氏のリアリズムは、文壇における自然派系統の老少幾多の作家の持っているリアリズムとは、似ても似つかぬように自分に思われる。先ず手法の点から言って見よう。リアリズムを標榜ひょうぼうする多くの作家が、描かんとする人生の凡すべての些末事を、ゴテゴテと何らの撰択もなく並べ立てるに比して、志賀氏の表現には厳粛な手堅い撰択が行われている。志賀氏は惜しみ過ぎると思われるくらい、その筆を惜しむ。一措も忽ゆるがせにしないような表現の厳粛さがある。氏は描かんとする事象の中、真に描かねばならぬ事しか描いていない。或事象の急所をグイグイと書くだけである。本当に描かねばならぬ事しか描いていないという事は、氏の表現を飽くまでも、力強いものにしている。氏の表現に現われている力強さは簡素の力である。厳粛な表現の撰択からくる正確の力強さである。こうした氏の表現は、氏の作品の随所に見られるが、試みに「好人物の夫婦」の書出しの数行を抜いて見よう。
「深い秋の静かな晩だつた。沼の上を雁が啼ないて通る。細君は食卓の上の洋燈を端の方に引き寄せて其その下で針仕事をして居る。良人は其傍に長々と仰向けに寝ころんでぼんやりと天井を眺めて居た。二人は長い間黙つて居た。」
 何という冴えた表現であろうと、自分はこの数行を読む度に感嘆する。普通の作家なれば、数十行乃至数百行を費しても、こうした情景は浮ばないだろう。いわゆるリアリズムの作家にこうした洗練された立派な表現があるだろうか。志賀氏のリアリズムが、氏独特のものであるという事は、こうした点からでも言い得ると思う。氏は、この数行において、多くを描いていない。しかも、この数行において、淋しい湖畔における夫婦者の静寂な生活が、如何いかにも溌剌として描き出されている。何という簡潔な力強い表現であろう。こうした立派な表現は、氏の作品を探せば何処にでもあるが、もう一つ「城の崎にて」から例を引いて見よう。
「自分は別にいもりを狙はなかつた。ねらつても迚とても当らない程、ねらつて投げる事の下手な自分はそれが当る事などは全く考へなかつた。石はコツといつてから流れに落ちた。石の音と共に同時にいもりは四寸程横へ飛んだやうに見えた。いもりは尻尾を反そらして高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思つて居た。最初石が当つたとは思はなかつた。いもりの反らした尾が自然に静かに下りて来た。するとひぢを張つたやうに、傾斜にたへて前へついてゐた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめつてしまつた。尾は全く石へついた。もう動かない。いもりは死んで了しまつた。自分は飛んだ事をしたと思つた。虫を殺す事をよくする自分であるが、その気が全くないのに殺して了つたのは自分に妙ないやな気をさした。」
 殺されたいもりと、いもりを殺した心持とが、完璧と言っても偽ではない程本当に表現されている。客観と主観とが、少しも混乱しないで、両方とも、何処までも本当に表現されている。何の文句一つも抜いてはならない。また如何なる文句を加えても蛇足になるような完全した表現である。この表現を見ても分る事だが、志賀氏の物の観照は、如何にも正確で、澄み切っていると思う。この澄み切った観照は志賀氏が真のリアリストである一つの有力な証拠だが、氏はこの観照を如何なる悲しみの時にも、欣よろこびの時にも、必死の場合にも、眩くらまされはしないようである。これは誰かが言ったように記憶するが、「和解」の中、和解の場面で、
「『えゝ』と自分は首肯うなづいた。それを見ると母は急に起上つて来て自分の手を堅く握りしめて、泣きながら『ありがたう。順吉、ありがたう』と云つて自分の胸の所で幾度か頭を下げた。自分は仕方がなかつたから其頭の上でお辞儀をすると丁度頭を上げた母の束髪へ口をぶつけた。」と描いてある所など、氏が如何なる場合にも、そのリアリストとしての観照を曇らせない事を充分に語っている。
 志賀氏の観照は飽くまでもリアリスチックであり、その手法も根柢においてリアリズムである事は、前述した通りだが、それならば全然リアリズムの作家であろうか。自分は決してそうは思わない。普通のリアリストと烈しく相違している点は、氏が人生に対する態度であり、氏が人間に対する態度である。普通のリアリストの人生に対する態度人間に対する態度が冷静で過酷で、無関心であるに反して、ヒューマニスチックな温味を持っている。氏の作品が常に自分に、清純な快さを与えるのは、実にこの温味のためである。氏の表現も観照も飽くまでリアリスチックである。がその二つを総括している氏の奥底の心は、飽くまでヒューマニスチックである。氏の作品の表面には人道主義などというものは、おくびにも出ていない。が、本当に氏の作品を味読みどくする者にとって、氏の作品の奥深く鼓動する人道主義的な温味を感ぜずにはいられないだろう。世の中には、作品の表面には、人道主義の合言葉や旗印が山の如く積まれてありながら、少しく奥を探ると、醜いエゴイズムが蠢動しゅんどうしているような作品も決して少くはない。が、志賀氏は、その創作の上において決して愛を説かないが氏は愛を説かずしてただ黙々と愛を描いている。自分は志賀氏の作品を読んだ時程、人間の愛すべきことを知ったことはない。
 氏の作品がリアリスチックでありながら、しかも普通のリアリズムと違っている点を説くのには氏の短篇なる「老人」を考えて見るといい。
 これは、もう七十に近い老人が、老後の淋しさを紛まぎらすために芸者を受け出して妾に置く。芸者は、若い者に受け出されるよりも老先の短い七十の老人に受け出される方が、自由になる期が早いといったような心持で、老人の妾になる。最初の三年の契約が切れても老人はその妾と離れられない。女も情夫があったが、この老人と約束通りに別れる事が残酷のように思われて、一年延ばす事を承諾する。一年が経つ。そのうちに女は情夫の子を産む。今度は女の方から一年の延期を言い出す。そして又一年経つ裡うちに女は情夫の第二の子を産む。そして今度は老人の方から延期を申出す。そしてその一年の終に老人は病死して妾に少からぬ遺産を残す。そして作品は次のような文句で終る。
「四月の後、嘗かつて老人の坐つた座蒲団には公然と子供等の父なる若者が坐るやうになつた。其背後の半間の間には羽織袴でキチンと坐つた老人の四つ切りの写真が額に入つて立つて居る……」
 この題材は、もし自然派系の作家が扱ったならば、どんなに皮肉に描き出しただろう。老人がどんなにいたましく嘲笑されただろう。が、志賀氏はかかる皮肉な題材を描きながら、老人に対しても妾に対しても充分な愛撫を与えている。「老人」を読んだ人は老人にも同情し、妾をも尤もっともだと思い、その中の何人にも人間らしい親しみを感ぜずにはいられないだろう。情夫の子を、老人の子として、老人の遺産で養って行こうとする妾にも、我等は何らの不快も感じない。もし、自然派系の作家が扱ったならば、この題材はむしろ読者に必ずある不快な人生の一角を示したであろう。が、志賀氏の「老人」の世界は、何処までも人間的な世界である。そして、我々は老後の淋しさにも、妾の心持にも限りなく引付けられるのである。氏の作品の根柢に横たわるヒューマニスチックな温味は「和解」にも「清兵衛と瓢箪」にも「出来事」にも「大津順吉」などにもある。他の心理を描いた作品にも充分見出されると思う。

 氏の作品が、普通のリアリズムの作品と違って一種の温かみを有している事は、前に述べたが、氏の作品の背景はただそれだけであろうか。自分は、それだけとは思わない。氏の作品の頼もしさ力強さは、氏の作品を裏付けている志賀直哉氏の道徳ではないかと思う。
 自分は耽美主義の作品、或は心理小説、単なるリアリズムの作品にある種の物足らなさを感ずるのは、その作品に道徳性の欠乏しているためではないかと思う。ある通俗小説を書く人が「通俗小説には道徳が無ければならない」と言ったという事を耳にしたが、凡すべての小説はある種の道徳を要求しているのではないか。志賀氏の作品の力強さは志賀氏の作品の底に流れている氏の道徳のためではないかと思う。
 氏の懐いている道徳は「人間性ヒューマニティの道徳」だと自分は解している。が、その内で氏の作品の中で、最も目に着くものは正義に対する愛(Love of justice)ではないかと思う。義ただしさである。人間的な「義しさ」である。「大津順吉」や「和解」の場合にはそれが最も著いちじるしいと思う。「和解」は或る意味において「義しさ」を愛する事と、子としての愛との恐るべき争闘とその融合である。が、「和解」を除いた他の作品の場合にも、人間的な義しさを愛する心が、随所に現われているように思われる。
 が、前に言った人道主義的な温味があるというのも、今言った「義しさ」に対する愛があるという事ももっと端的に言えば、志賀氏の作品の背後には、志賀氏の人格があると言った方が一番よく判るかも知れない。そして作品に在る温味も力強さも、この人格の所産であると言った方が一番よく判るかも知れないと思う。
 志賀氏の作品は、大体において、二つに別わかつ事が出来る。それは氏が特種な心理や感覚を扱った「剃刀」「児を盗む話」「范の犯罪」「正義派」などと、氏自身の実生活により多く交渉を持つらしい「母の死と新しい母」「憶ひ出した事」「好人物の夫婦」「和解」などとの二種である。志賀氏の人格的背景は後者において濃厚である。が前者も、その芸術的価値においては決して、後者に劣らないと思う。氏は、その手法と観照において、今の文壇の如何なるリアリストよりも、もっとリアリスチックであり、その本当の心において、今の文壇の如何なる人道主義者よりも、もっと人道主義的であるように思われる。これは少くとも自分の信念である。

 志賀氏は、実にうまい短篇を書くと思う。仏蘭西のメリメあたりの短篇、露国のチェホフや独逸のリルケやウィードなどに劣らない程の短篇を描くと思う。これは決して自分の過賞かしょうではない。自分は鴎外博士の訳した外国の短篇集の『十人十話』などを読んでも、志賀氏のものより拙いものは沢山あるように思う。日本の文壇は外国の物だと無条件でいい物としているが、そんな馬鹿な話はないと思う。志賀氏の短篇などは、充分世界的なレヴェルまで行っていると思う。志賀氏の作品から受くるくらいの感銘は、そう横文字の作家からでも容易には得られないように自分は思う。短篇の中でも「老人」は原稿紙なら七八枚のものらしいが、実にいい。説明ばかりだが実にいい(説明はダメ飽くまで描写で行かねばならぬなどと言う人は一度是非読む必要がある)。「出来事」もいい。何でもない事を描いているのだがいい。「清兵衛と瓢箪」もいいと思う。
 志賀氏の作品の中では「赤西蠣太」とか「正義派」などが少し落ちはしないかと思う。
 色々まだ言いたい事があるが、ここで止めておこう。ともかく、自分の同時代の人として志賀氏がいるという事は、如何にも頼もしくかつ欣よろこばしい事だと自分は思う。
 最後にちょっと言っておくが、自分はこの文章を、志賀氏の作品に対する敬愛の意を表するためにのみ書いたのである。



「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず。夏目漱石」

「懐疑主義者もひとつの信念の上に、疑うことを疑はぬという信念の上に立つ者である。芥川竜之介」

「素人か玄人かは、その仕事に対する作者の打込み方の相違だ。志賀直哉」



「by europe123 piano・borarennto・E,piano」
https://youtu.be/N6mykOAclrI

岸田君息子に市民団体が告発状及びNHK報道の嘘その他に文豪作品貼り付け

岸田君息子に市民団体が告発状及びNHK報道の嘘その他に文豪作品貼り付け

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-06-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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