あ・ぶ・な・い刑事〈デカ〉
Death is nothing, but to live defeated and inglorious is to die daily.
死ぬことは何でもない。しかし征服されて、名誉を失ったまま生き長らえるのは、毎日死ぬようなものだ。
Napoleon Bonaparte(15 August 1769 – 5 May 1821)
時刻は深夜零時ちょっと過ぎ。
こじんまりとした敷地と雰囲気の海辺のキャフェ・バー『マイアミ』のカウンター・テーブルには、つい数時間前に所謂「闇バイト」を斡旋するSNS上のアカウントを通じて知り合い、さる資産家の所有する屋敷内に於いて強盗紛いの行為に及ぼうとした大學生三人組を思い切りしばき上げた上で逮捕に及んだ刑事〈デカ〉二人組…黒曜とソテツ…が、ジュークボックスから流れる渡辺貞夫の『サダオのための小さなワルツ』に耳を傾け乍ら仕事終わりのホットウヰスキーを静かに嗜む姿があった。
どんな凶悪犯だろうと、何しでかすか分からねぇ莫迦が一番おっかねぇってぇが、今度の件は全く以て其の通りだったぜ。
お陰でだいぶ草臥れちまったよ、待ちに待った給料日だってぇのによ。
内ポケットから取り出した紺青色の眼鏡拭きで、琥珀色の照明の下、漆黒色のフレームが良く映えるディアドロップ型の眼鏡のレンズを拭き取り乍ら、黒曜が軽くボヤくと、ソテツはホットウヰスキーが半分程残っているグラス片手にニヤリと笑みを浮かべつゝ、随分と張り切っていた癖に、ボヤく割には、と敢えて茶々を入れた上で、とはいえ、莫迦程恐ろしいと言う点に関しちゃ同感だな、怪我しなかったのが不思議な位だ、と呟き、グラスに口を付けて軽く喉を潤した。
良く言ったモンだぜ、明日をも知れねぇ生命〈いのち〉たぁよ。
他の連中みたく、定年迄くたばらねぇ様に振る舞える日が来る事を夢見て来たが、残念乍らそんな日が来るこたぁ無さそうだ、俺もお前もお互いに。
あゝ、こうもヤバい奴等が跳梁跋扈しやがるんじゃ余計にな。
二週間前、特殊詐欺グループの「受け子」役の二十歳そこそこの女性を逮捕する際、そんなにスリルを味合わいたきゃ、味合わせてやるよ、お望み通り、と『スミス・アンド・ウェッソン:M586』の銃口を態と弾丸がシリンダーに入った状態で女性の額に容赦無く突き付けたが為に、直属の上司である岩水耕一氏からそこそこの御叱りを受けた事があったのを思い出し乍ら、黒曜はそんな風な事を述べたのち、グラスに残っていたホットウヰスキーを飲み干し、紫煙を口に咥えると、其れを横眼で見据えていたソテツが、さてと、そろそろ切り上げるか、と擦った燐寸の火で紫煙に火を点け乍ら黒曜に告げた。
おや、もう門限かい、シンデレラ・ボーイ。
椅子に腰掛け、片岡義男の著作『エルヴィスから始まった』を読んでいた『マイアミ』のマスターが言った。
此れでもお互い、帰る場所位はあるんでね。
自身の分は勿論の事、ソテツの分の支払い迄テーブルに置き乍ら、黒曜が言った。
帰る場所と言うより、帰りを待っている人ってトコロだろ。
そうとも言う。
で、上手くいってんのかい?。
ご想像にお任せすらぁ。
けっ、上手く逃げやがる。
又来いよ。
カランコロン、と言うドアベルの音色を響かせ乍ら二人が外に出ると、如何にも今が十二月即ち師走だと言わんばかりに、空気はすっかり澄んでおり、月光が真っ暗な海を何時も以上に冷たく照らしていた。
ざぶん、ざぶん、と波と波とがぶつかり合う鈍鈍しい音と重なり合う様に、彼等が普段から好んで履いている伊太利亜製の革靴の靴音がコツコツと彼等以外には人っ子一人居ない夜道に響き渡る中、来年の事を云うと鬼が笑うってぇが、来年でお互い四十代の仲間入りだな、と黒曜が紫煙を口に咥えた状態で言った。
刑事〈デカ〉になろうと決心した頃、スーツが似合うヤロウになりたかった。
ところがどっこい、今じゃ喪服が似合うオトコになっちまったってんだからザマァねぇ話だぜ、我乍ら。
ソテツはそう言い乍ら夜の闇の中に紫色の煙をゆっくりと吐いた。
オトナになったと言うべきか、はたまた単に
そんなお年頃になっただけと言うべきか。
どちらにせよ、碌なヤツには育たなかった事だけは確かだな、お互いに。
ま、だからこんなアブナイ橋を渡ってばかりの仕事を続けていられるんだろうがね。
そりゃ同感。
空に浮かぶ衛星の様に煌々と輝く街路灯を頼りに街へと戻って来ると、時刻も時刻とあってか、二十四時間営業のコンビニエンスストアとスーパーマーケット以外は、精々飲み屋だのスナックだのバーだのクラブだのと言った所謂水商売のお店が営業している位で、当然出歩く人間も少なく、だいぶ閑散としていた。
其の中を駅に向かって歩いていると、明らかに殺気立った目つきと雰囲気の人間たち四人が黒曜とソテツの眼の前に現れた。
こんな時間にデートのお誘いか?。
センスないんじゃねぇか、お宅ら。
すっかり味の薄れた紫煙を、紺色のスーツの内ポケットから取り出したルイヴィトンのシリンダー型携帯灰皿を使って揉み消したばかりのソテツが頭目らしき人物の眼をジッと見据えてそう述べると、見るからに染めたばかりらしい茶髪が特徴的な頭目らしき人物は眠気覚ましに効果的な刺激の強いガムを噛み乍ら、花でも持ってくりゃ良かったんだが、生憎と此の時間、花屋も開いてなかったモンでよ、と言った。
で、実際の御用件はデートなんて洒落たモンじゃあなさそうだな、其の出立ちからして。
四人が四人とも手に持っている折り畳み式の警棒を見つめ乍ら黒曜が言った。
お宅らの言うポリ公相手に暴力振るうと、九分九厘後が祟るが、其れでも良いんなら相手するぜ?。
ま、そんな事百も二百も承知だろうがよ。
ソテツがそう言い終わるか終わらないかのタイミングで痺れを切らした金髪の男が警棒を振り回し乍ら飛び込んで来た。
が、カッとなって勢いよく飛び込んで来る人間は総じて視野が狭くなるモノ、ソテツが攻撃を避け乍ら見つけた放置自転車のシールが貼られた小型電動自転車を投げ付けられ、其れを避け切れず自滅、もう一人は其の煽りを喰らって警棒を離してしまった所を黒曜に容赦無く顔面を蹴り上げられ、すっかりノビてしまった。
そうこうしているうちに、道行く誰かが此の騒ぎを通報したらしく、付近を警邏していた警官二人が乗ったパトカーがサイレンを鳴らし乍らやって来る音が聴こえて来た為、焦りを覚えた頭目らしき人物が、残った一人に対して、ヤバい、逃げるぞ、と逃げの姿勢を見せた。
併し喧嘩慣れどころか犯罪者相手に暴力を振るう事にかけては、良くも惡しくもピカイチの人間達を相手にしてそう易々と逃げ果せる筈も無く、いきなりガッと首根っこを掴まれたかと思った途端、容赦無くアスファルトに身体を叩きつけられ、気が付けば後頭部にソテツから『コルト・ローマン:MK-Ⅲ』の銃口をしっかりと突き付けられて、両手にはガッチリと手錠が掛けられていた。
モロに衝撃を喰らい、チカチカとする視線の先には自身と同じく手錠を掛けられている三人目の仲間の姿があったが、彼は彼で黒曜に顔面を張り手で容赦無く殴打されており、両頬がすっかり腫れ上がっていると言う何とも間抜けな姿を、騒ぎを聞きつけていつの間にか集まったらしい衆人達相手に曝け出していた。
良い趣味してんなぁ、アンタの相棒。
婿入り前のオトコのツラぁ、あゝ迄ぶん殴るなんてよ。
ソテツの手によって文字通り強制的に立ち上がらせられるなり、身体中に痛みを感じ乍ら頭目らしき人物が言った。
するとソテツは頭目らしき人物の羽織っているパーカーのポケットから抜き取ったらしい錠剤型の違法薬物がぎっしり詰まった未開封の小瓶をちらつかせ乍ら、そんなしおらしい台詞が言えるなら、役者にでもなれば良るんだな、別荘暮らしが終わった後にでも、と告げ、いやあ、大ごとでしたなぁ、と言い乍ら半ば呆れ顔で近寄って来た五十代前後の警官に対して、ひと言、なあに、「良くある」コトですから、と笑顔で返事をしてから、突き飛ばしでもする様に乱暴な手付きで頭目らしき人物を引き渡した。
其の後の取調べで判明したのだが、黒曜とソテツを襲撃した四人組は黒曜とソテツが逮捕した大學生三人組と普段から親しくしていた間柄らしく、所謂アンダーグラウンドな世界に生きる者達の情報網を通じて黒曜とソテツの事を割り出し、襲撃に及んだとの事であった。
又、ソテツに自転車を投げ付けられ、攻撃し損ねた人物に至ってはいざと言う時の為の武器として、海外では女性用携帯拳銃としても知られる『グロッグ26:Gen4』を所持した上で襲撃に臨んだらしく、其れを聴いたソテツが、熱めの珈琲を啜り乍ら、おゝ怖、と言ったとか言わなかったとか。
電車が残っている時間帯に片がついて良かったぜ。
スマートフォンの電子決済で改札を通り、ホームに設置された喫煙ルームのベンチにぐったりと腰掛けるなり、カチッと言う金属音を響かせ乍ら喫煙ルームの直ぐ側の自販機で販売されている新発売の微糖の缶珈琲の蓋を開けた黒曜が其の缶珈琲をソテツに右手手渡し乍らそう述べると、ソテツは左手で缶珈琲をそっと受け取り乍ら、大都会のシステムに乾杯だな、と苦笑気味に言った。
所で此の件、褒めていただけるかね。
自身の分の缶珈琲を啜ったのち、缶から発せられる熱を両手で感じ乍ら黒曜が言った。
五分五分だろうな。
そうか、五分五分か。
其の内謹慎処分を喰らうかもな、目障りだって。
手厳しいからなぁ、我々の上司は。
だから我々の上司を務められるんだろうけどな。
微笑い乍らソテツが言った。
軈てアナウンスが流れて、八両編成の電車がやって来たので、黒曜は玄色の、ソテツは漆黒色のコートを師走の風に靡かせ乍ら電車に乗り込んだ。
そして二駅先の駅で降りたのち、お互いが明日非番である事を再確認してから、其々の家路を急いだ。
其の道中、黒曜は家人に遅い時間に帰宅する事を詫びる意味も込めて、自身の住んでいる十五階建てのマンションの近所のコンビニエンスストアに立ち寄った。
日野皓正の『ジェントリー』が流れる黒曜と従業員の他は誰も居ない深夜のコンビニエンスストアで、右手に大きな紺色のカゴを持って真っ先に黒曜が足を運んだコーナーはスイーツのコーナーで、苺のショートケーキ、ハーゲンダッツ二箱、シュークリーム、ヨーグルト、プリンと言ったスイーツを何ら躊躇なくカゴに入れていった。
支払いを済ませ外に出ると、いつの間にか雪が舞い始めており、LEDの灯りが眩しいエレベーターホールへと辿り着くなり、両手に持っていたレジ袋を冷たい床の上に置いて、両肩に積もった真っ白な雪をパタパタと払い乍ら右手の人差し指で無機質なエレベーターのボタンをそっと押した。
靴音を響かせぬ様、ゆっくりとした足取りで部屋の扉の前へとやって来て、静かに部屋の扉を開けると、うつらうつらしかけていた様子のモクレンが茅色の毛布を身に纏った状態で現れ、欠伸を噛み殺し乍らひと言、おかえり、と黒曜に言った。
そして暗過ぎず明る過ぎずな光量の電球の下に照らされた黒曜の顔を、宝石の様に光り輝く寝惚け眼でじっと見据えるなり、まるで出来の悪い子供に呆れ顔で接する母親の様なドライな口調で、又何か「しでかした」らしいな、其のツラから察するに、と述べ、黒曜の両手に握り締められたレジ袋を受け取った。
「しでかした」かは別にして、褒めて貰っても良い事はして来た積りだぜ、此れでも。
電球の光を頼りに右手で掴んだ煉瓦色の靴べらを使って靴を脱ぎ乍ら黒曜がレジ袋の中身を確認するモクレンにそう告げると、モクレンは視線をレジ袋の中のスイーツ達に向けたまゝ、随分と一丁前のクチを利くんだな、だったら偶には金一封か賞状の一枚位、貰って帰って来い、と言って、何時迄突っ立っているんだ、と言わんばかりにリビングへと向かった。
あいあい。
黒曜はそんな風な軽い返事をし、着替えを済ませてから、リビングへとやって来た。
そして亜麻色のアンティーク調の椅子に腰掛けた状態で寛ぐモクレンに、御飲み物は、と質問すると、お前が呑みたいモノを、とモクレンは文庫本から何からぎっしりと詰まった桑色の黒曜の書斎の本棚から引っ張り出して来た江崎聡子の『エドワード・ホッパー作品集』の頁をパラパラと捲り乍ら黒曜の質問に答えたので、じゃあ、ウヰスキー・ソーダをば、と言って、どんなに忙しくとも毎日の掃除を欠かさないキッチンに立ち、自身のスマートフォンから流れる鈴木宏昌の『ジェントル・ウェーブ』をバック・グランド・ミュージックに添え、紫煙を口に咥えた状態で二人分のウヰスキー・ソーダを作り始めた。
今のうちに聴いておきたいんだが、明日の朝食は何を御所望で?。
近所の家具屋で購入をした真新しい紺色のテーブルクロスの敷かれた円卓に空鼠〈そらねずみ〉色のランチョンマットを敷き乍ら、黒曜が言った。
トマトスープ。
クロワッサン。
枝豆のツナマヨサラダ。
ソーセージエッグ。
ホットミルク。
デザートは?。
野菜室に葡萄と蜜柑があったろ、貰い物の。
其れをお前が買って来たヨーグルトに混ぜたのを。
分かった。
暖房の風が互いの頬を撫でる中、黒曜がウヰスキー・ソーダの注がれたウヰスキー・グラスをゆっくりと置くと、グラスの中で泡がシュワシュワと弾けた。
其れから黒曜は今は亡き父方の叔父の遺族から譲り受けた黄褐色の阿蘭陀製の戸棚の扉をガチャリと開けると、其の中から昨年末に仏蘭西旅行に出掛けた際、フリーマーケットで文字通り叩き売られていた何の絵柄も刻まれていない純白のケーキ皿とフォークを其々一つずつ取り出して、其の上にモクレンが食す為の苺のショートケーキを添えた。
其の様子をじっと見据え乍らモクレンは、黒曜が警察官を志す迄は、「人生の武者修行」と称し、英吉利〈イギリス〉は倫敦〈ロンドン〉のとあるホテルの中にあるレストランでボーイの仕事をこなしていた事を、自身が黒曜と交際する事を決めるひとつ前のデートの際、倫敦に居た頃、毎晩の様に嗜んでいたと言うカクテル「トムコリンズ」の注がれたグラス片手に黒曜が淡々とした口調で語ってくれたのを想い出していた。
因みに黒曜が自身の過去に就て誰か他人に語ると言った様な真似は、モクレン以外にはした事が無かった。
じゃあ、そろそろ乾杯するかね。
モクレンの眼の前にショートケーキの添えられたケーキ皿とフォークを添え終え黒曜が席に着くなり、グラス片手に言った。
では乾杯。
乾杯。
モクレンがケーキを食す間、黒曜はただただ黙りこくってグラス片手に呑んでいた。
黒曜はプライベートな空間に仕事を持ち出さない主義で、今日一日何があった、と言った類いの話ですら、モクレンの方から質問をされない限り、一切語ろうとはしなかった。
故に食事の際の話題は概ねダンサーであるモクレンの口から語られるあれやこれやであったり、今度は何処へ旅行をしようか、と言った類いの話が主であった。
ご馳走様。
矢張りケーキは何時食べても旨いな。
黒曜が所謂「あーん」をするカタチでモクレンの口の中に入れたケーキを、最後のひと口になったウヰスキー・ソーダで流し込んだばかりのモクレンから述べられた自身への御礼の言葉を耳にした黒曜は、右手に握ったまだ何も書き記されていない絵日記帳の一頁の様に、至極まっさらな色彩の紙ナプキンでモクレンの唇の端に付着をした生クリームの残骸を優しくソフトに拭き取り乍ら、どういたしまして、と言った。
腹が膨れた後は運動だな。
おい、付き合え。
モクレンが言った。
選曲は?。
水垢一つ付着していないシンクに空っぽになったばかりのアレヤコレヤを運び乍ら、黒曜がそう質問すると、腰掛けていた椅子から立ち上がったモクレンは、飛行機での長旅を終えた旅行者よろしく、大きく背伸びをしてみせ乍ら、オールディーズが良いな、今日みたいな気分は、と答えた。
あいよ。
黒曜は洗い物をさっさと済ませたのち、村上龍監督作品『限りなく透明に近いブルー』の
サウンド・トラックの収録楽曲の中から、小椋佳によるサム・クックの『ワンダフル・ワールド』のカバーを選曲すると、モクレンの普段から鍛えているお陰で、華奢だががっしりとした身体を自身の方に抱き寄せると、ひと言、相変わらず良い香りだな、と言って額に口付けを落とした。
歴史のことなんてよく知らない
生物学なんかよく知らない
科学の本なんかよく知らない
専攻した仏蘭西語のことなんかよく知らない
でも、君を愛していることは知っているさ
君も僕を愛してくれるなら
どんなに素敵な世界になるだろう
なあ、愚かな質問かもしれんが、何で刑事になんかなろうと思ったんだ?。
流麗なステップを踏み乍らモクレンが黒曜に言った。
お前がダンサーの道を志したのと同じ様な理由だ。
そう言って黒曜は優しい手付きで何時も自身が洗髪しているモクレンの髪を静かに撫でてみせた。
何処迄行っても、お前はお前、私は私、か。
妙な理屈だとは思いつゝも、モクレンは黒曜からの返答の内容を納得する事にすると、お前の莫迦に付き合ってやる、其れもとことんな、と言わんばかりにがっしりと黒曜の手を握り締めた。〈終〉
あ・ぶ・な・い刑事〈デカ〉