本日は小説では無いが、芥川竜之介の大地震感想と次も懐かしい人達が次々に登場する手記。何人知っているか
(USA基地近くでは、水道や井戸の水を飲まない方が良い。ペットボトルの水だけを飲食に使用すればbetterだ。
其処でボトルが重い事が聊か面倒になる。此の重さを無くす方法を考えれば便利と言える。
本来は幾つかの方法があるが、相応の技術が無ければ難しいのかも知れない。 重さを無くす若しくは軽減する事は他にも応用出来るのだが・・。
では、その作品を貼り付けて終わる。)
大正十二年九月一日の大震に際して
芥川龍之介
一 大震雑記
一
大正十二年八月、僕は一游亭いちいうていと鎌倉へ行ゆき、平野屋ひらのや別荘の客となつた。僕等の座敷の軒先のきさきはずつと藤棚ふぢだなになつてゐる。その又藤棚の葉の間あひだにはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架こうかの窓から裏庭を見ると、八重やへの山吹やまぶきも花をつけてゐる。
山吹を指さすや日向ひなたの撞木杖しゆもくづゑ 一游亭
(註に曰いはく、一游亭は撞木杖をついてゐる。)
その上又珍らしいことは小町園こまちゑんの庭の池に菖蒲しやうぶも蓮はすと咲き競きそつてゐる。
葉を枯れて蓮はちすと咲ける花あやめ 一游亭
藤、山吹、菖蒲しやうぶと数へてくると、どうもこれは唯事ただごとではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来じらい人の顔さへ見れば、「天変地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰も真まに受けない。久米正雄くめまさをの如きはにやにやしながら、「菊池寛きくちくわんが弱気になつてね」などと大いに僕を嘲弄てうろうしたものである。
僕等の東京に帰つたのは八月二十五日である。大だい地震はそれから八日やうか目に起つた。
「あの時は義理にも反対したかつたけれど、実際君の予言は中あたつたね。」
久米も今は僕の予言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白状しても好よい。――実は僕も僕の予言を余り信用しなかつたのだよ。
二
「浜町河岸はまちやうがしの舟の中に居をります。桜川三孝さくらがはさんかう。」
これは吉原よしはらの焼け跡にあつた無数の貼はり紙の一つである。「舟の中に居をります」と云ふのは真面目まじめに書いた文句もんくかも知れない。しかし哀れにも風流である。僕はこの一行いちぎやうの中に秋風しうふうの舟を家と頼んだ幇間ほうかんの姿を髣髴はうふつした。江戸作者の写した吉原よしはらは永久に還かへつては来ないであらう。が、兎とに角かく今日こんにちと雖いへども、かう云ふ貼り紙に洒脱しやだつの気を示した幇間ほうかんのゐたことは確かである。
三
大だい地震のやつと静まつた後のち、屋外をくぐわいに避難した人人は急に人懐しさを感じ出したらしい。向う三軒両隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草や梨なしをすすめ合つたり、互に子供の守もりをしたりする景色は、渡辺町わたなべちやう、田端たばた、神明町しんめいちやう、――殆ほとんど至る処に見受けられたものである。殊に田端たばたのポプラア倶楽部クラブの芝生しばふに難を避けてゐた人人などは、背景にポプラアの戦そよいでゐるせゐか、ピクニツクに集まつたのかと思ふ位、如何いかにも楽しさうに打ち解とけてゐた。
これは夙つとにクライストが「地震」の中に描ゑがいた現象である。いや、クライスト[#「クライスト」は底本では「クイラスト」]はその上に地震後の興奮が静まるが早いか、もう一度平生の恩怨おんゑんが徐おもむろに目ざめて来る恐しささへ描ゑがいた。するとポプラア倶楽部クラブの芝生しばふに難を避けてゐた人人もいつ何時なんどき隣の肺病患者を駆逐くちくしようと試みたり、或は又向うの奥さんの私行を吹聴ふいちやうして歩かうとするかも知れない。それは僕でも心得てゐる。しかし大勢おほぜいの人人の中にいつにない親しさの湧わいてゐるのは兎とに角かく美しい景色だつた。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる。
四
僕も今度は御多分ごたぶんに洩もれず、焼死した死骸しがいを沢山たくさん見た。その沢山の死骸のうち最も記憶に残つてゐるのは、浅草あさくさ仲店なかみせの収容所にあつた病人らしい死骸である。この死骸も炎ほのほに焼かれた顔は目鼻もわからぬほどまつ黒だつた。が、湯帷子ゆかたを着た体や痩やせ細つた手足などには少しも焼け爛ただれた痕あとはなかつた。しかし僕の忘れられぬのは何もさう云ふ為ばかりではない。焼死した死骸は誰も云ふやうに大抵たいてい手足を縮ちぢめてゐる。けれどもこの死骸はどう云ふ訣わけか、焼け残つたメリンスの布団ふとんの上にちやんと足を伸のばしてゐた。手も亦また覚悟を極きめたやうに湯帷子ゆかたの胸の上に組み合はせてあつた。これは苦しみ悶もだえた死骸ではない。静かに宿命を迎へた死骸である。もし顔さへ焦こげずにゐたら、きつと蒼あをざめた脣くちびるには微笑に似たものが浮んでゐたであらう。
僕はこの死骸をもの哀あはれに感じた。しかし妻にその話をしたら、「それはきつと地震の前に死んでゐた人の焼けたのでせう」と云つた。成程なるほどさう云はれて見れば、案外あんぐわいそんなものだつたかも知れない。唯僕は妻の為に小説じみた僕の気もちの破壊されたことを憎むばかりである。
五
僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛きくちくわんはこの資格に乏しい。
戒厳令かいげんれいの布しかれた後のち、僕は巻煙草を啣くはへたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤もつとも雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訣わけではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉まゆを挙げながら、「※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそだよ、君」と一喝いつかつした。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)だらう」と云ふ外ほかはなかつた。しかし次手ついでにもう一度、何なんでも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)か」と忽ち自説(?)を撤回てつくわい[#ルビの「てつくわい」は底本では「てつくわ」]した。
再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装よそほはねばならぬものである。けれども野蛮やばんなる菊池寛は信じもしなければ信じる真似まねもしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄はうきしたと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団じけいだんの一員たる僕は菊池の為に惜をしまざるを得ない。
尤もつとも善良なる市民になることは、――兎とに角かく苦心を要するものである。
六
僕は丸の内の焼け跡を通つた。此処ここを通るのは二度目である。この前来た時には馬場先ばばさきの濠ほりに何人も泳いでゐる人があつた。けふは――僕は見覚えのある濠ほりの向うを眺めた。堀の向うには薬研やげんなりに石垣の崩くづれた処がある。崩れた土は丹にのやうに赤い。崩れぬ土手どては青芝の上に不相変あひかはらず松をうねらせてゐる。其処そこにけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は酔興すゐきやうに泳いでゐる訣わけではあるまい。しかし行人かうじんたる僕の目にはこの前も丁度ちやうど西洋人の描ゑがいた水浴の油画か何かのやうに見えた、今日けふもそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層いつそう平和に見えた位である。
僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。歌は「懐なつかしのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間あひだにいつか僕を捉とらへてゐた否定の精神を打ち破つたのである。
芸術は生活の過剰くわじようださうである。成程なるほどさうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又巧たくみにその過剰を大いなる花束はなたばに仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。
僕は丸まるの内うちの焼け跡を通つた。けれども僕の目に触れたのは猛火も亦また焼き難い何ものかだつた。
二 大震日録
八月二十五日。
一游亭いちいうていと鎌倉より帰る。久米くめ、田中たなか、菅すが、成瀬なるせ、武川むかはなど停車場へ見送りに来きたる。一時ごろ新橋しんばし着。直ちに一游亭とタクシイを駆かり、聖路加せいろか病院に入院中の遠藤古原草ゑんどうこげんさうを見舞ふ。古原草は病殆ほとんど癒いえ、油画具など弄もてあそび居たり。風間直得かざまなほえと落ち合ふ。聖路加病院は病室の設備、看護婦の服装等とう、清楚せいそ甚だ愛すべきものあり。一時間の後のち、再びタクシイを駆りて一游亭を送り、三時ごろやつと田端たばたへ帰る。
八月二十九日
暑気甚はなはだし。再び鎌倉に遊ばんかなどとも思ふ。薄暮はくぼより悪寒をかん。検温器を用ふれば八度六分の熱あり。下島しもじま先生の来診らいしんを乞ふ。流行性感冒のよし。母、伯母をば、妻、児等こら、皆多少風邪ふうじやの気味あり。
八月三十一日。
病聊いささか快こころよきを覚ゆ。床上「澀江抽斎しぶえちうさい」を読む。嘗て小説「芋粥いもがゆ」を艸さうせし時、「殆ほとんど全く」なる語を用ひ、久米に笑はれたる記憶あり。今「抽斎」を読めば、鴎外おうぐわい先生も亦また「殆ど全く」の語を用ふ。一笑を禁ずる能あたはず。
九月一日。
午ひるごろ茶の間まにパンと牛乳を喫きつし了をはり、将まさに茶を飲まんとすれば、忽ち大震の来きたるあり。母と共に屋外をくぐわいに出いづ。妻は二階に眠れる多加志たかしを救ひに去り、伯母をばは又梯子段はしごだんのもとに立ちつつ、妻と多加志とを呼んでやまず、既すでにして妻と伯母と多加志を抱いだいて屋外に出づれば、更さらに又父と比呂志ひろしとのあらざるを知る。婢ひしづを、再び屋内をくないに入り、倉皇さうくわう比呂志を抱いだいて出づ。父亦また庭を回めぐつて出づ。この間かん家大いに動き、歩行甚だ自由ならず。屋瓦をくぐわの乱墜らんつゐするもの十余。大震漸く静まれば、風あり、面おもてを吹いて過ぐ。土臭殆ほとんど噎むせばんと欲す。父と屋をくの内外を見れば、被害は屋瓦の墜おちたると石燈籠いしどうろうの倒れたるのみ。
円月堂ゑんげつだう、見舞ひに来きたる。泰然自若じじやくたる如き顔をしてゐれども、多少は驚いたのに違ひなし。病を力つとめて円月堂と近鄰きんりんに住する諸君を見舞ふ。途上、神明町しんめいちやうの狭斜けふしやを過ぐれば、人家の倒壊せるもの数軒を数ふ。また月見橋つきみばしのほとりに立ち、遙はるかに東京の天を望めば、天、泥土でいどの色を帯び、焔煙えんえんの四方に飛騰ひとうする見る。帰宅後、電燈の点じ難く、食糧の乏しきを告げんことを惧れ、蝋燭らふそく米穀べいこく蔬菜そさい罐詰くわんづめの類を買ひ集めしむ。
夜よるまた円月堂の月見橋のほとりに至れば、東京の火災愈いよいよ猛に、一望大いなる熔鉱炉ようくわうろを見るが如し。田端たばた、日暮里につぽり、渡辺町等わたなべちやうとうの人人、路上に椅子いすを据ゑ畳を敷き、屋外をくぐわいに眠らとするもの少からず。帰宅後、大震の再び至らざるべきを説き、家人を皆屋内に眠らしむ。電燈、瓦斯ガス共に用をなさず、時に二階の戸を開けば、天色てんしよく常に燃ゆるが如く紅くれなゐなり。
この日、下島しもじま先生の夫人、単身たんしん大震中の薬局に入り、薬剤の棚の倒れんとするを支ささふ。為めに出火の患うれひなきを得たり。胆勇たんゆう、僕などの及ぶところにあらず。夫人は澀江抽斎しぶえちうさいの夫人いほ女の生れ変りか何かなるべし。
九月二日。
東京の天、未いまだ煙に蔽おほはれ、灰燼くわいじんの時に庭前に墜おつるを見る。円月堂ゑんげつだうに請ひ、牛込うしごめ、芝等しばとうの親戚を見舞はしむ。東京全滅の報あり。又横浜並びに湘南しやうなん地方全滅の報あり。鎌倉に止とどまれる知友を思ひ、心頻しきりに安からず。薄暮はくぼ円月堂の帰り報ずるを聞けば、牛込は無事、芝、焦土せうどと化せりと云ふ。姉あねの家、弟の家、共に全焼し去れるならん。彼等の生死だに明らかならざるを憂ふ。
この日、避難民の田端たばたを経へて飛鳥山あすかやまに向むかふもの、陸続りくぞくとして絶えず。田端も亦また延焼せんことを惧おそれ、妻は児等こらの衣いをバスケツトに収め、僕は漱石そうせき先生の書一軸を風呂敷ふろしきに包む。家具家財の荷づくりをなすも、運び難からんことを察すればなり。人慾素もとより窮きはまりなしとは云へ、存外ぞんぐわい又あきらめることも容易なるが如し。夜よに入りて発熱三十九度。時に○○○○○○○○あり。僕は頭重うして立つ能あたはず。円月堂、僕の代りに徹宵てつせう警戒の任に当る。脇差わきざしを横たへ、木刀ぼくたうを提ひつさげたる状、彼自身宛然ゑんぜんたる○○○○なり。
三 大震に際せる感想
地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、さうは註文に応じ難ければ、思ひつきたること二三を記しるしてやむべし。幸ひに孟浪まんらんを咎とがむること勿なかれ。
この大震を天譴てんけんと思へとは渋沢しぶさは子爵の云ふところなり。誰か自みづから省れば脚に疵きずなきものあらんや。脚に疵あるは天譴てんけんを蒙かうむる所以ゆゑん、或は天譴を蒙れりと思ひ得る所以ゆゑんなるべし、されど我は妻子さいしを殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又所謂いはゆる天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若しかざるべし。否いな、天の蒼生さうせいに、――当世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず。
自然は人間に冷淡なり。大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分わかたず。猛火は仁人じんじんと溌皮はつぴとを分たず。自然の眼には人間も蚤のみも選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は真実なり。のみならず人間の中うちなる自然も、人間の中なる人間に愛憐あいれんを有するものにあらず。大震と猛火とは東京市民に日比谷ひびや公園の池に遊べる鶴と家鴨あひるとを食くらはしめたり。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獣の如く人肉を食くらひしやも知るべからず。
日比谷ひびや公園の池に遊べる鶴と家鴨あひるとを食くらはしめし境遇の惨さんは恐るべし。されど鶴と家鴨とを――否、人肉を食くらひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間の中うちなる自然も又人間の中なる人間に愛憐を垂たるることなければなり。鶴と家鴨とを食くらへるが故に、東京市民を獣心なりと云ふは、――惹ひいては一切人間を禽獣きんじうと選ぶことなしと云ふは、畢竟ひつきやう意気地いくぢなきセンテイメンタリズムのみ。
自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑けいべつすべからず。人間たる尊厳を抛棄はうきすべからず。人肉を食くらはずんば生き難しとせよ。汝なんぢとともに人肉を食くらはん。人肉を食くらうて腹鼓然こぜんたらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇ちうちよすることなかれ。その後のちに尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。
誰か自みづから省れば脚に疵きずなきものあらんや。僕の如きは両脚りやうきやくの疵、殆ほとんど両脚を中断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴てんけんなりと思ふ能あたはず。況いはんや天譴てんけんの不公平なるにも呪詛じゆその声を挙ぐる能はず。唯姉弟していの家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已やみ難き遺憾ゐかんを感ずるのみ。我等は皆歎なげくべし、歎きたりと雖いへども絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。
同胞よ。面皮めんぴを厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずること勿なかれ。僕のこの言げんを倣なす所以ゆゑんは、渋沢しぶさは子爵の一言いちげんより、滔滔たうたうと何なんでもしやべり得る僕の才力を示さんが為なり。されどかならずしもその為のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷どれいとなること勿なかれ。
四 東京人
東京に生まれ、東京に育ち、東京に住んでゐる僕は未いまだ嘗かつて愛郷心なるものに同情を感じた覚えはない。又同情を感じないことを得意としてゐたのも確かである。
元来愛郷心なるものは、県人会の世話にもならず、旧藩主の厄介やくかいにもならない限り、云はば無用の長物である。東京を愛するのもこの例に洩もれない。兎角とかく東京東京と難有ありがたさうに騒ぎまはるのはまだ東京の珍らしい田舎者ゐなかものに限つたことである。――さう僕は確信してゐた。
すると大だい地震のあつた翌日、大彦だいひこの野口のぐち君に遇あつた時である。僕は一本のサイダアを中に、野口君といろいろ話をした。一本のサイダアを中になどと云ふと、或は気楽さうに聞えるかも知れない。しかし東京の大火の煙は田端たばたの空さへ濁にごらせてゐる。野口君もけふは元禄袖げんろくそでの紗しやの羽織などは着用してゐない。何なんだか火事頭巾づきんの如きものに雲龍うんりゆうの刺さしつ子こと云ふ出立いでたちである。僕はその時話の次手ついでにもう続続ぞくぞく罹災民りさいみんは東京を去つてゐると云ふ話をした。
「そりやあなた、お国者くにものはみんな帰つてしまふでせう。――」
野口君は言下ごんかにかう云つた。
「その代りに江戸えどつ児こだけは残りますよ。」
僕はこの言葉を聞いた時に、ちよいと或心強さを感じた。それは君の服装の為か、空を濁らせた煙の為か、或は又僕自身も大地震に悸おびえてゐた為か、その辺の消息せうそくははつきりしない。しかし兎とに角かくその瞬間、僕も何か愛郷心に似た、勇ましい気のしたのは事実である。やはり僕の心の底には幾分か僕の軽蔑してゐた江戸つ児の感情が残つてゐるらしい。
五 廃都東京
加藤武雄かとうたけを様。東京を弔とむらふの文を作れと云ふ仰あふせは正に拝承しました。又おひきうけしたことも事実であります。しかしいざ書かうとなると、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)忙そうばうの際でもあり、どうも気乗りがしませんから、この手紙で御免ごめんを蒙かうむりたいと思ひます。
応仁おうにんの乱か何かに遇あつた人の歌に、「汝なも知るや都は野べの夕雲雀ゆふひばり揚あがるを見ても落つる涙は」と云ふのがあります。丸まるの内うちの焼け跡を歩いた時にはざつとああ云ふ気がしました。水木京太みづききやうた氏などは銀座ぎんざを通ると、ぽろぽろ涙が出たさうであります。(尤も全然センテイメンタルな気もちなしにと云ふ断ことわり書があるのですが)けれども僕は「落つる涙は」と云ふ気がしたきり、実際は涙を落さずにすみました。その外ほか不謹慎の言葉かも知れませんが、ちよいともの珍しかつたことも事実であります。
「落つる涙は」と云ふ気のしたのは、勿論こんなにならぬ前の東京を思ひ出した為であります。しかし大いに東京を惜しんだと云ふ訣わけぢやありません。僕はこんなにならぬ前の東京に余り愛惜あいじやくを持たずにゐました。と云つても僕を江戸趣味の徒とと速断そくだんしてはいけません、僕は知りもせぬ江戸の昔に依依恋恋いいれんれんとする為には余りに散文的に出来てゐるのですから。僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の歩いた東京なのです。銀座に柳の植うわつてゐた、汁粉屋しるこやの代りにカフエの殖ふえない、もつと一体に落ち着いてゐた、――あなたもきつと知つてゐるでせう、云はば麦稈帽むぎわらばうはかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京なのです。その東京はもう消え失うせたのですから、同じ東京とは云ふものの、何処どこか折り合へない感じを与へられてゐました。それが今焦土せうどに変つたのです。僕はこの急劇な変化の前に俗悪な東京を思ひ出しました。が、俗悪な東京を惜しむ気もちは、――いや、丸の内の焼け跡を歩いた時には惜しむ気もちにならなかつたにしろ、今は惜しんでゐるのかも知れません。どうもその辺へんはぼんやりしてゐます。僕はもう俗悪な東京にいつか追憶の美しさをつけ加へてゐるやうな気がしますから。つまり一番確かなのは「落つる涙は」と云ふ気のしたことです。僕の東京を弔とむらふ気もちもこの一語を出ないことになるのでせう。「落つる涙は」、――これだけではいけないでせうか?
何なんだかとりとめもない事ばかり書きましたが、どうか悪あしからず御赦おゆるし下さい。僕はこの手紙を書いて了しまふと、僕の家に充満した焼け出されの親戚しんせき故旧こきうと玄米の夕飯ゆふめしを食ふのです。それから堤燈ちやうちんに蝋燭らふそくをともして、夜警やけいの詰所つめしよへ出かけるのです。以上。
六 震災の文芸に与ふる影響
大だい地震の災害は戦争や何かのやうに、必然に人間のうみ出したものではない。ただ大地だいちの動いた結果、火事が起つたり、人が死んだりしたのにすぎない。それだけに震災の我我作家に与へる影響はさほど根深くはないであらう。すくなくとも、作家の人生観を一変することなどはないであらう。もし、何か影響があるとすれば、かういふことはいはれるかも知れぬ。
災害の大きかつただけにこんどの大地震は、我我作家の心にも大きな動揺を与へた。我我ははげしい愛や、憎しみや、憐あはれみや、不安を経験した。在来、我我のとりあつかつた人間の心理は、どちらかといへばデリケエトなものである。それへ今度はもつと線の太い感情の曲線をゑがいたものが新あらたに加はるやうになるかも知れない。勿論もちろんその感情の波を起伏きふくさせる段取りには大地震や火事を使ふのである。事実はどうなるかわからぬが、さういふ可能性はありさうである。
また大地震後の東京は、よし復興するにせよ、さしあたり殺風景さつぷうけいをきはめるだらう。そのために我我は在来のやうに、外界に興味を求めがたい。すると我我自身の内部に、何か楽みを求めるだらう。すくなくとも、さういふ傾向の人は更さらにそれを強めるであらう。つまり、乱世に出合つた支那の詩人などの隠棲いんせいの風流を楽しんだと似たことが起りさうに思ふのである。これも事実として予言は出来ぬが、可能性はずゐぶんありさうに思ふ。
前の傾向は多数へ訴うつたへる小説をうむことになりさうだし、後のちの傾向は少数に訴へる小説をうむことになる筈である。即ち両者の傾向は相反してゐるけれども、どちらも起らぬと断言しがたい。
七 古書の焼失を惜しむ
今度の地震で古美術品と古書との滅びたのは非常に残念に思ふ。表慶館へいけいくわんに陳列されてゐた陶器類は殆ほとんど破損したといふことであるが、その他にも損害は多いにちがひない。然し古美術品のことは暫らく措おき古書のことを考へると黒川家くろかはけの蔵書も焼け、安田家やすだけの蔵書も焼け大学の図書館としよかんの蔵書も焼けたのは取り返しのつかない損害だらう。商売人でも村幸むらかうとか浅倉屋あさくらやとか吉吉よしきちだとかいふのが焼けたからその方の罹害りがいも多いにちがひない。個人の蔵書は兎とも角かくも大学図書館の蔵書の焼かれたことは何んといつても大学の手落ちである。図書館の位置が火災の原因になりやすい医科大学の薬品のあるところと接近してゐるのも宜敷よろしくない。休日などには図書館に小使位しか居ないのも宜よろしくない、(その為めに今度のやうな火災にもどういふ本が貴重かがわからず、従って貴重な本を出すことも出来なかつたらしい。)書庫そのものの構造のゾンザイなのも宜敷よろしくない。それよりももつと突き詰めたことをいへば、大学が古書を高閣かうかくに束つかねるばかりで古書の覆刻ふくこくを盛んにしなかつたのも宜敷よろしくない。徒いたづらに材料を他に示すことを惜んで竟つひにその材料を烏有ういうに帰せしめた学者の罪は鼓つづみを鳴らして攻むべきである。大野洒竹おほのしやちくの一生の苦心に成つた洒竹しやちく文庫の焼け失うせた丈だけでも残念で堪らぬ。「八九間雨柳はつくけんやなぎ」といふ士朗しらうの編んだ俳書などは勝峯晉風かつみねしんぷう氏の文庫と天下に二冊しかなかつたやうに記憶してゐるが、それも今は一冊になつてしまつた訣わけだ。
(大正十二年九月)
あの頃の自分の事
芥川龍之介
以下は小説と呼ぶ種類のものではないかも知れない。さうかと云つて、何と呼ぶべきかは自分も亦不案内である。自分は唯、四五年前の自分とその周囲とを、出来る丈こだはらずに、ありのまま書いて見た。従つて自分、或は自分たちの生活やその心もちに興味のない読者には、面白くあるまいと云ふ懸念けねんもある。が、この懸念はそれを押しつめて行けば、結局どの小説も同じ事だから、そこに意を安んじて、発表する事にした。序ついでながらありのままと云つても、事実の配列は必しもありのままではない。唯事実そのものだけが、大抵ありのままだと云ふ事をつけ加へて置く。
一
十一月の或晴れた朝である。久しぶりに窮屈な制服を着て、学校へ行つたら、正門前でやはり制服を着た成瀬に遇あつた。こつちで「やあ」と云ふと、向うでも「やあ」と云つた。一しよに角帽を並べて、法文科の古い煉瓦造れんぐわづくりの中へはいつたら、玄関の掲示場の前に、又和服の松岡がゐた。我々はもう一度「やあ」と云つた。
立ちながら三人で、近々出さうとしてゐる同人雑誌『新思潮』の話をした。それから松岡がこの間、珍しく学校へ出て来て、西洋哲学史か何かの教室へはいつたが、何時いつまで待つても、先生は勿論学生も来る容子ようすがない。妙だと思つて、外へ出て小使に尋きいて見たら、休日だつたと云ふ話をした。彼は電車へ乗る心算つもりで、十銭持つて歩きながら、途中で気が変つて、煙草屋へはいると、平然として「往復を一つ」と云つた人間だからこんな事は家常茶飯である。その中うちに、傴僂せむしのやうな小使が朝の時間を知らせる鐘を振つて、大急ぎで玄関を通りすぎた。
朝の時間はもう故人になつたロオレンス先生のマクベスの講義である。松岡と分れて、成瀬と二階の教室へ行くと、もう大ぜい学生が集つて、ノオトを読み合せたり、むだ話をしたりしてゐた。我々も隅の方の机に就いて、新思潮へ書かうとしてゐる我々の小説の話をした。我々の頭の上の壁には、禁煙と云ふ札が貼つてあつた。が、我々は話しながら、ポケツトから敷島を出して吸ひ始めた。勿論我々の外の学生も、平気で煙草をふかしてゐた。すると急にロオレンス先生が、鞄をかかへて、はいつて来た。自分は敷島を一本完全に吸つてしまつて、殻も窓からすてた後だつたから、更に恐れる所なく、ノオトを開いた。しかし成瀬はまだ煙草を啣くはへてゐたから、すぐにそれを下へ捨てると、慌あわてて靴で踏み消した。幸さいはひ、ロオレンス先生は我々の机の間から立昇る、縷々るるとした一条の煙に気がつかなかつた。だから出席簿をつけてしまふと、早速毎時いつもの通り講義にとりかかつた。
講義のつまらない事は、当時定評があつた。が、その朝は殊につまらなかつた。始からのべつ幕なしに、梗概かうがいばかり聴かされる。それも一々 Act 1, Scene 2 と云ふ調子で、一くさりづつやるのだから、その退屈さは人間以上だつた。自分は以前はかう云ふ時に、よく何の因果で大学へなんぞはいつたんだらうと思ひ思ひした。が、今ではそんな事も考へない程、この非凡な講義を聴く可く余儀なくされた運命に、すつかり黙従し切つてゐた。だからその時間も、機械的にペンを動かして、帝劇の筋書の英訳のやうなものを根気よく筆記した。が、その中に教室に通つてゐるステイイムの加減で、だんだん眠くなつて来た。そこで勿論、眠る事にした。
うとうとして、ノオトに一頁ばかりブランクが出来た時分、ロオレンス先生が、何だか異様な声を出したので、眼がさめた。始めはちよいと居睡りが見つかつて、叱られたかと思つたが、見ると先生は、マクベスの本をふり廻しながら、得意になつて、門番の声色こわいろを使つてゐる。自分もあの門番の類だなと思つたら、急に可笑をかしくなつて、すつかり眠気がさめてしまつた。隣では成瀬がノオトをとりながら、時々自分の方を見て、くすくす独りで笑つてゐた。それから又、二三頁ノオトをよごしたらやつと時間の鐘が鳴つた。さうして自分たちは、ロオレンス先生の後から、ぞろぞろ教室の外の廊下へ溢れ出した。
廊下へ出て、黄いろい葉を垂らした庭の樹木を見下してゐると、豊田実君が来て、「ちよいとノオトを見せてくれ給へ」と云つた。それからノオトを開けて見せると、豊田君の見たがつてゐる所は、丁度自分の居眠りをした所だつたので、流石さすがに少し恐縮した。豊田君は「ぢやようござんす」と云つて、悠然と向うへ行つてしまつた。悠然と云ふのは、決して好い加減な形容ぢやない。実際君は何時でも、悠然と歩いてゐた。豊田君は今どこで何をしてゐるか、判然とした事は承知しないが、ロオレンス先生に好意を持ち、若しくはロオレンス先生が好意を持つた学生の中で、我々――と云つて悪るければ、少くとも自分が、常に或程度の親しみを感じてゐた、たつた一人の人間である。自分はこれを書いてゐる今でも、君の悠然とした歩き方を思ひ出すと、もう一度君と大学の廊下に立つて、平凡な時候の挨拶でも交換したいやうな気がしないでもない。
その中に又、鐘が鳴つて、我々は二人とも下の教室へ行く事になつた。今度は藤岡勝二博士の言語学の講義である。外の連中は皆先へ行つて、ちやんと前の方へ席をとつて置くが、なまけ者の我々は、何時でも後からはいつて行つて、一番隅の机を占領した。その朝もやはりかう云ふ伝でんで、愈いよいよ鐘が鳴る間際まぎはまで、見晴しの好い二階の廊下に※(「彳+詆のつくり」、第3水準1-84-31)徊ていくわいしてゐたのである。藤岡博士の言語学の講義は、その朗々たる音吐とグロテスクな諧謔かいぎやくとを聞くだけでも、存在の権利のあるものだつた。尤もつとも自分の如く、生来言語学的な頭脳に乏しい人間にとつては、それだけで存在の権利があつたと云ひ直しても別に差支へはない。だから今日も、ノオトをとつたりやめたりしながら、半分はさう云ふ興味で、マツクス・ミユラアがどうとかしたとか云ふ講義を面白がつて聴いてゐた。すると自分の前の席に、髪の毛の長い学生が坐つてゐて、その人の髪の毛が、時々自分のノオトの上を、掃くやうにさらさら通りすぎた。自分は相手が名前も知らない人の事だから、どう云ふ了見で、あんな長髪を蓄へてゐるのだか、つい今日に至るまで問ひ質ただす機会を失つてしまつたが、兎に角それが彼自身の美的要求には合してゐても、他人の実際的要求と矛盾し得る事を発見したのは、正にこの言語学の講義を聞いてゐた時間である。しかし幸さいはひ、その講義を聴かうと云ふ、自分の実際的要求がそれ程痛切でなかつたから、髪の毛が邪魔になつた所だけは、ノオトをとらずに捨てて置いた。その中には邪魔にならない所でも、ノオトの代りに画を描く事にした。処が向うに坐つてゐる、何とか云ふ恐しくハイカラな学生の横顔を、半分がた描いた処で運悪く鐘が鳴つた。講義の終を知らせると同時に、午ひるになつた事を知らせる鐘である。
我々は一しよに大学前の一白舎いつぱくしやの二階へ行つて、曹達水ソオダすゐに二十銭の弁当を食つた。食ひながらいろんな事を弁じ合つた。自分と成瀬との間には、可也かなり懸隔かけへだてのない友情が通つてゐた。その上その頃は思想の上でも、一致する点が少くなかつた。殊に二人とも、偶然同時に「ジアン・クリストフ」を読み出して、同時にそれに感服してゐた。だからかう云ふ時になると、毎日のやうに顔を合せてゐる癖に、やはり話がはずみ勝ちだつた。すると二人のゐる所へ、給仕の谷がやつて来て、相場の話をし始めた。それも「まかり間違つたら、これになる覚悟でなくつちや駄目ですね」と、手を後へまはして見せたのだから盛である。成瀬は「莫迦ばかだな」と云つて、取合はなかつたが、当時「財布」と云ふ小説を考へてゐた自分は、さまざまな意味で面白かつたから、食事をしまふまで谷の相手になつた。さうして妙な相場の熟語を、十ばかり一度に教へられた。
午後は講義がなかつたから、一白舎を出ると二人で、近所の宮裏に下宿してゐる久米の所へ遊びに行つた。久米は我々以上のなまけ者だから、大抵は教室へも出ずに、下宿で小説や芝居を書いてゐたのである。行つて見ると、やはり机の側に置炬燵おきごたつを据ゑて、「カラマゾフ兄弟」か何か読んでゐた。あたれと云ふから、我々もその置炬燵へはいつたら、掛蒲団の脂臭あぶらくさい匂にほひが、火臭い匂と一しよに鼻を打つた。久米は今、彼の幼年時代に自殺した阿父おとうさんの事を、短篇にして書いてゐると云つた。小説はこれが処女作同様だから、見当がつかなくて困るとも云つた。が、相不変あひかはらず元気の好ささうな顔をして、余り困つてゐるらしい容子ようすもなかつた。その後で「君はどうした」と訊くから、「やつと『鼻』を半分ばかり書いた」と答へた。成瀬も今年の夏、日本アルプスへ行つた時の話を書きかけてゐると云ふ事だつた。それから三人で、久米の拵へた珈琲コオヒイを飲みながら、創作上の話を長い間した。久米は文壇的閲歴の上から云つて、ずつと我々より先輩だつた。と同時に又表現上の手腕から云つても、やはり我々に比べると、一日の長がある事は事実だつた。特に自分はこの点で、久米が三幕物や一幕物を容易にしかも短い時間で、書き上げる技倆に驚嘆してゐた。だから我々の中で久米だけは、彼自身の占めてゐる、或は占めんとする、文壇的地位に相当な自信を持つてゐた。さうしてその自信が又一方では、絶えず眼高手低の歎を抱いてゐる我々に、我々自身の自信を呼び起す力としても働いてゐた。実際自分の如きは、もし久米と友人でなかつたら、即すなはち彼の煽動せんどうによつて、人工的にインスピレエシヨンを製造する機会がなかつたなら、生涯一介の読書子たるに満足して、小説なぞは書かなかつたかも知れない。さう云ふ次第だから創作上の話になると――と云ふより文壇に関係した話になると、勢いきほひ何時も我々の中では、久米が牛耳ぎうじを執る形があつた。その日も彼が音頭とりで、大分議論を上下したが、何かの関係で田山花袋氏が度々問題に上つたやうに記憶する。
今になつて公平に考へれば、自然主義運動があれ丈だけ大きな波動を文壇に与へたのも、全く一つは田山氏の人格の力が然らしめたのに相違ない。その限りに於て田山氏は、氏の「妻」や「田舎教師」が如何いかに退屈であるにしても、乃至ないし又氏の平面描写論が如何に幼稚であるにしても、確に我々後輩の敬意――とまで行かなければ、少くとも興味位は惹ひくに足る人物だつた。が、遺憾ながら当時の我々は、まだこの情熱に富んだ氏の人格を、評価するだけの雅量に乏しかつた。だから我々は氏の小説を一貫して、月光と性慾とを除いては、何ものも発見する事は出来なかつた。と同時に氏の感想や評論も、その怪しげな ※(グレーブアクセント付きA小文字) la Huysmans の入信生活を聞かされる度に、先まづ Durtal と田山花袋氏との滑稽な対照を思ひ出させて、徒いたづらに我々の冷笑を買ふばかりだつた。では我々は氏を目して、全然ハムバツグとしてゐたかと云ふと必しも亦さうぢやない。成程小説家としての氏や思想家としての氏は、更に本質的なものだとは思はなかつたが、それらに先立つて我々は、紀行文家としての田山氏を認めてゐた。Sentimental landscape-painter――これが当時の自分が、田山氏へ冠らせてゐた渾名あだなだつた。実際氏は、小説や評論を書く合ひ間に、根気よく紀行文を書いてゐた。いや少し誇張して云へば、小説の多くも紀行文で、その中に Venus Libentina の信者たる男女なんによを点出したものに過ぎなかつた。さうしてその紀行文を書いてゐる時の氏は、自由で、快活で、正直で、如何にも青い艸くさを得た驢馬ろばのやうに、純真無垢な所があつた。従つてそれだけの領域では、田山氏はユニイクだと云はうが何だらうが差支へない。が、氏を自然主義の小説家たり、且かつ思想家たる文壇の泰斗たいとと考へる事は、今よりも更に出来憎かつた。遠慮のない所を云ふと、自然主義運動に於ける氏の功績の如きも、「何しろ時代が時代だつたからね」なぞと軽蔑けいべつしてゐたものである。
大体こんなやうな気焔をあげてから、又成瀬と二人で、久米の下宿を出た。出た時分には、短い冬の日脚が、もう往来へ長い影を落してゐた。我々は我々のよく知つてゐる、しかも常になつかしい興奮を感じながら、本郷三丁目の角まで歩いて行つて、それから別々の電車へ乗つた。
二
三四日たつた、これも好い天気の日の事である。自分は午前の講義に出席してから、成瀬と二人で久米の下宿へ行つて、そこで一しよに昼飯を食つた。久米は京都の菊池が、今朝送つてよこしたと云ふ戯曲の原稿を見せた。それは「坂田藤十郎の恋」と云ふ、徳川時代の名高い役者を主人公にした一幕物だつた。読めと云ふから読んで見ると、テエマが面白いのにも関らず、無暗に友染縮緬いうぜんちりめんのやうな台辞せりふが多くつて、どうも永井荷風氏や谷崎潤一郎氏の糟粕さうはくを嘗なめてゐるやうな観があつた。だから自分は言下ごんかに悪作だとけなしつけた。成瀬も読んで見て、やはり同感は出来ないと云つた。久米も我々の批評を聞いて、「僕も感服出来ないんだ。一体に少し高等学校情調がありすぎるよ」と、同意を表した。それから久米が我々一同を代表して、菊池の所へその意味の批評を、手紙で書いてやる事にした。そこへ幸ひ松岡も遊びに来た。松岡は我々三人が英文科に籍を置いてゐるのにも関らず、独り哲学科へはいつてゐた。が、勿論我々と同じやうに、創作もする心算つもりだつた。彼は我々の中で、一番久米と親しかつた。一しきりは二人で、同じ家に下宿してゐた事もあつた。それは砲兵工廠の裏にある、職工服を造る家だつた。実生活上のロマンテイケルだつた久米は、今にあの青い職工服を着て、アトリエのやうな書斎へ西洋机を据ゑて、その書斎を久米正雄工房と名づけたいなどと云ふ、途方もない夢をよく見てゐた。自分は彼等をその下宿に訪問すると、毎時いつもかう云ふ久米の夢を思ひ出したものだつた。が、松岡はその時分から、余り職工服とは縁のない思想なり心もちなりを持つてゐるらしかつた。まだ感傷癖こそ脱しなかつたが、彼の中には宗教の匂のするものが、もうふんだんに磅※(「石+薄」、第3水準1-89-18)ばうはくしてゐた。彼はその東洋とも西洋ともつかないイエルサレムの建設をもくろみながらキエルケガアドを愛読したり、怪しげな水彩画を描いて見たりした。当時彼の描いた水彩画の一つにさかさまにした方が遙はるかに画らしくなるもののあつたのは、今でもよく覚えてゐる。その後松岡は久米が宮裏へ移ると共に、本郷五丁目へ下宿を移した。さうして今でもそこにゐて、釈迦伝しやかでんから材料を取つた三幕物の戯曲を書いてゐた。
我々四人は、又久米の手製の珈琲コオヒイを啜りながら、煙草の煙の濛々もうもうとたなびく中で、盛にいろんな問題をしやべり合つた。その頃は丁度武者小路実篤氏が、将まさにパルナスの頂上へ立たうとしてゐる頃だつた。従つて我々の間でも、屡しばしば氏の作品やその主張が話題に上つた。我々は大抵、武者小路氏が文壇の天窓を開け放つて、爽さわやかな空気を入れた事を愉快に感じてゐるものだつた。恐らくこの愉快は、氏の踵くびすに接して来た我々の時代、或は我々以後の時代の青年のみが、特に痛感した心もちだらう。だから我々以前と我々以後とでは、文壇及それ以外の鑑賞家の氏に対する評価の大小に、径庭けいていがあつたのは已むを得ない。それは丁度我々以前と我々以後とで、田山花袋氏に対する評価が、相違するのと同じ事である。(唯、その相違の程度が、武者小路氏と田山氏とで、どちらが真に近いかは疑問である。念の為に断つて置くが、自分が同じ事だと云ふのは、程度まで含んでゐる心算つもりぢやない。)が、当時の我々も、武者小路氏に文壇のメシヤを見はしなかつた。作家としての氏を見る眼と、思想家としての氏を見る眼と――この二つの間には、又自らな相違があつた。作家としての武者小路氏は、作品の完成を期する上に、余りに性急な憾うらみがあつた。形式と内容との不即不離な関係は、屡しばしば氏自身が「雑感」の中で書いてゐるのにも関らず、忍耐よりも興奮に依頼した氏は、屡実際の創作の上では、この微妙な関係を等閑に附して顧みなかつた。だから氏が従来冷眼に見てゐた形式は、「その妹」以後一作毎に、徐々として氏に謀叛を始めた。さうして氏の脚本からは、次第にその秀抜な戯曲的要素が失はれて、(全くとは云はない。一部の批評家が戯曲でないやうに云ふ「或青年の夢」でさへ、一齣一齣いつせついつせつの上で云へばやはり戯曲的に力強い表現を得た個所がある。)氏自身のみを語る役割が、己自身を語る性格の代りに続々としてそこへはいつて来た。しかもそこに語られた思想なり感情なりは、必然性に乏しい戯曲的な表現を借りてゐるだけ、それだけ一層氏の「雑感」に書かれたものより稀薄だつた。「或家庭」の昔から氏の作品に親しんでゐた我々は、その頃の――「その妹」の以後のかう云ふ氏の傾向には、慊あきたらない所が多かつた。が、それと同時に、又氏の「雑感」の多くの中には、我々の中に燃えてゐた理想主義の火を吹いて、一時に光焔を放たしめるだけの大風のやうな雄々しい力が潜んでゐる事も事実だつた。往々にして一部の批評家は、氏の「雑感」を支持すべき論理の欠陥を指摘する。が、論理を待つて確められたもののみが、真理である事を認めるには、余りに我々は人間的な素質を多量に持ちすぎてゐる。いや、何よりもその人間的な素質の前に真面目であれと云ふ、それこそ氏の闡明せんめいした、大いなる真理の一つだつた。久しく自然主義の淤泥おでいにまみれて、本来の面目を失してゐた人道ユウマニテエが、あのエマヲのクリストの如く「日昃かたぶきて暮に及んだ」文壇に再ふたたび姿を現した時、如何に我々は氏と共に、「われらが心熱もえし」事を感じたらう。現に自分の如く世間からは、氏と全然反対の傾向にある作家の一人に数へられてゐる人間でさへ、今日も猶なほ氏の「雑感」を読み返すと、常に昔の澎湃はうはいとした興奮が、一種のなつかしさと共に還つて来る。我々は――少くとも自分は氏によつて、「驢馬の子に乗り爾なんぢに来る」人道ユウマニテエを迎へる為に、「その衣を途みちに布しき或は樹の枝を伐りて途に布く」先例を示して貰つたのである。
散々話をした後で、我々は皆一しよに、久米の下宿を出た。それから本郷三丁目で成瀬と松岡とに別れた。久米と自分とは電車で銀座へ行つて、カツフエ・ライオンで少し早い晩飯をすませてから、ちよいと歌舞伎座の立見へはいつた。はいると新狂言の二番目もので、筋は勿論外題げだいさへ、更に不案内なものだつた。舞台には悪く納つた茶室があつて、造花の白梅が所々に、貝殻細工のやうな花を綴つてゐた。さうしてその茶室の縁側で、今の中車ちゆうしやの侍が、歌右衛門の娘を口説いてゐた。東京の下町に育ちながら、更に江戸趣味なるものに興味のない自分は、芝居に対しても同様に、滅多にドラマテイツク・イリユウジヨンは起す事が出来ない程、冷淡に出来上つた人間だつた。(或は冷淡にならされた人間かも知れない。芝居を見る事は二歳位の頃から、よく家のものと一しよに見た。)だから芝居より役者の芸が、役者の芸よりも土間桟敷の見物が、余程自分には面白かつた。その時も自分の隣にゐた、どこかの御店者おたなものらしい、鳥打帽をかぶつた男が、甘栗を食ひながら、熱心に舞台を見てゐる方が、天下の名優よりも興味があつた。この男は熱心に舞台を見てゐると云つたが、同時に又甘栗もやはり熱心に食つてゐた。それが懐へ手を入れたかと思ふと、甘栗を一つつまみ出して、割るが早いか口へ入れる、口へ入れたと思ふと、又懐へ手を入れて、つまみ出すが早いか割つて食ふ。しかもその間中、眼は終始一貫して、寸分も舞台を離れない。自分はこの視覚と味覚との敏捷びんせふな使ひ分けに感心して、暫くはその男の横顔ばかり眺めてゐたが、とうとうしまひに彼自身はどちらを真剣にやつてゐる心算つもりだか、尋きいて見たいやうな気がして来た。するとその時、自分の側で、久米がいきなり「橘屋あ」と、無鉄砲に大きな声を出した。自分はびつくりして、思はず眼を舞台の方へやつた。見ると成程、女をたらすより外には何等の能もなささうな羽左衛門の若侍が、従容しようようとして庭伝ひに歩いて来る所だつた。が、隣の御店者おたなものは、久米の「橘屋」も耳にはいらないやうに、依然として甘栗を食ひながら、食ひつくやうな眼で舞台を眺めてゐる。自分も今度はその滑稽さが、笑ふには余りに真剣すぎるやうな気がして来た。さうして又そこに小説めいた心もちも感じられた。しかし舞台の上の芝居は、折角その「橘屋」が御出でになつても、池田輝方氏の画以上に俗悪だつた。自分はとうとう一幕が待ち切れなくつて、舞台が廻つたのを潮に、久米をひつぱつて外へ出た。
星月夜の往来へ出てから「あんな声を出して、莫迦ばかだな」と云つたが、久米は「何、あれだつて中々好い声だよ」と自慢して容易にその愚を認めなかつた。今でもあの時の事を考へると、彼はカツフエ・ライオンで飲んだウイスキイに祟たたられてゐたものとしか思はれない。
三
「一体大学の純文学科などと云ふものは、頗すこぶる怪しげな代物しろものだよ。ああやつて、国漢英仏独の文学科があるけれども、あれは皆何をやつてゐるんだと思ふ? 実は何をやつてゐるか、僕にもはつきりとはわからないんだ。成程研究してゐるものは、各国の文学に違ひなからう。さうしてその文学なるものは、まあ芸術の一部門とか何とか云へるにや違ひない。しかしその文学を研究する学問だね、あれは一体学問だらうか。(或は独立した学問だらうかと云つても好いが。)もし学問とすれば、――むづかしく云へば Wissenschaft として成立するのに必要な条件を具へるとすればだね。さうすれば美学と同じものになつちまふぢやないか。いや、美学ばかりぢやない。文学史なんぞは、始から史学と同じものだらうと思ふんだ。そりや成程今純文学科でやつてゐる講義にや、美学や史学と縁のないものだつて、沢山ある。が、その沢山あるものは、義理にも学問だとは思はれないぢやないか。あれはまあよく云へば先生の感想を述べたもので、悪く云へば出たらめだからね。だから僕は大学の純文学科なんぞは、廃止しちまつた方がほんたうだと思ふんだ。文学概論や何かは美学と一しよにする。文学史は史学へ片づけてしまふ。さうしてあとに残つた講義は、要するに出たらめだから、大学外へ駆逐しちまふんだ。出たらめだからと云つて悪るければ、余りに高尚で、大学のやうな学問の研究を目的にする所には、不釣合だと云つても好い。これは確に目下の急務だよ。さもないと同じ出たらめでも、新聞や雑誌へ出た評論より、大学でやる講義の方が、上等のやうな誤解を天下に与へ易いからね。それも実は新聞や雑誌へ出る方は、世間を相手にしてゐるんだが、大学でやる方は学生だけを相手にしてゐるんだから、それだけ馬脚が露あらはれずにすんでゐるんだらう。その安全なる出たらめが、一層箔をつけてゐるのは、どう考へたつて不公平だ。実際僕なんぞは無責任に、図書館の本を読まう位な了見で、大学にはいつてゐるんだから好いが、真面目に研究心でも起したら、一体どうすれば文学の研究になるんだか、途方にくれちまふのに違ひない。それや市河三喜さんのやうに言語学的に英文学を研究するんなら、立派に徹底してゐると思ふんだ。けれどもさうすると、シエクスピイアだらうが、ミルトンだらうが、詩でも芝居でもなくなつて、唯の英語の行列だからね。それぢや僕はやる気もないし、やつたつて到底ものにはなりさうもないだらう。勿論出たらめで満足してゐりや好いが、それなら御苦労にも大学へはいらずともの事だ。又美学なり史学なりの立ち場から、研究しようと云ふんなら、外の科へ籍を置いた方がどの位気が利いてゐるかわからない。かう考へて来ると、純文学科のレエゾン・デエトルは、まあ精々便宜的位な所だね。が、いくら便宜でも、有害の方が多くつちや、勿論ないのに劣つてゐると云ふもんだ。劣つてゐる以上は、廃止した方が正当だよ。――何、あれは中学の教師を養成する為に必要だ? 僕は皮肉を云つてゐるんぢやない。これでも大真面目な議論なんだ。中学の教師を養成するんなら、ちやんと高等師範と云ふものがある。高等師範を廃止しろなんと云ふのは、それこそ冠履顛倒くわんりてんたうだ。その理窟で行つても廃止さるべきものは大学の純文学科の方で、高等師範は一日も早くあれを合併してしまふが好い。」
その頃の或日、古本屋ばかり並んでゐる神田通りを歩きながら、自分は成瀬をつかまへて、こんな議論をふつかけた事がある。
四
十一月もそろそろ末にならうとしてゐる或晩、成瀬と二人で帝劇のフイル・ハアモニイ会を聞きに行つた。行つたら、向うで我々と同じく制服を着た久米に遇つた。その頃自分は、我々の中で一番音楽通だつた。と云ふのは自分が一番音楽通だつた程、それ程我々は音楽に縁が遠い人間だつたのである。が、その自分も無暗に音楽会を聞いて歩いただけで、鑑賞は元より、了解する事も頗すこぶる怪しかつた。先まづ一番よくわかるものは、リストに止めをさしてゐた。何時か帝国ホテルで、あのペツツオルド夫人と云ふお婆さんが、リストの der heilige Antonius schreitend auf den Wellen(だと思ふ。ちがつたら御免なさい。)を弾いた時も、そのピアノの音の一つ一つは、寸刻も流動して止らない、しかも不思議に鮮あざやかな画面を、ありありと眼の前へ浮ばせてくれた。その画面の中には、どこを見ても、際限なく波が動いてゐた。それからその波の上には、一足毎に波紋を作る人間の足が動いてゐた。最後にその波と足との上に、煌々くわうくわうたる光があつて、それが風の中の太陽のやうに、眩まばゆく空中で動いてゐた。この明い幻を息もつかずに眺めてゐた自分は、演奏が終つて拍手の声が起つた時に、音楽の波動が消えてしまつた、空虚な周囲の寂しさがしみじみ情なく感じられた。が、こんな事は前にも云つた通り、リストが精々行きどまりで、ベエトオフエンなどと云ふ代物は、好いと思へば好いやうだし、悪いと思へば悪いやうだし、更に見当がつかなかつた。だからフイル・ハアモニイ会を聞くと云つても、一向芸術家らしくない、怪しげな耳をそば立てて、楽器の森から吹いて来るオオケストラの風の音を、漫然と聞いてゐたのである。
当夜は閑院宮殿下も御臨場になつたので、帝劇のボックスや我々のゐるオオケストラ・ストオルには、模様を着た奥さんや御嬢さんが大分方々に並んでゐた。現に自分の隣なぞにも、白粉おしろいをつけた骨と皮ばかりの老夫人が、金の指環をはめて金の時計の鎖を下げて、金の帯留の金物をして、その上にもまだ慊あきたらず、歯にも一面に金を入れて、(これは欠伸あくびをした時に見えたのである。)端然として控へてゐた。が、前に歌舞伎座の立見をした時とは異なつて、今夜は見物の紳士淑女より、シオパンやシユウベルトの方が面白かつたから、それ以上自分はこの白粉と金とに埋つてゐる老夫人に、注意を払はなかつた。尤もつとも彼女自身は、自分に輪をかけた、デイスイリユウジヨンそれ自身のやうな豪傑だつたと見えて、舞台の上で指揮杖バトンを振つてゐる山田耕作氏には目もくれず、頻しきりに周囲ばかりを見廻してゐた。
その中に山田夫人の独唱か何かで、途中の休憩時間になると、我々は三人揃つて、二階の喫煙室へ出かけて行つた。するとそこの入口に、黒い背広の下へ赤いチヨツキを着た、背の低い人が佇んで、袴羽織の連れと一しよに金口の煙草を吸つてゐた。久米はその人の姿を見ると、我々の耳へ口をつけるやうにして、「谷崎潤一郎だぜ」と教へてくれた。自分と成瀬とはその人の前を通りながら、この有名な耽美主義の作家の顔を、偸ぬすむやうにそつと見た。それは動物的な口と、精神的な眼とが、互に我がを張り合つてゐるやうな、特色のある顔だつた。我々は喫煙室の長椅子に腰を下して、一箱の敷島を吸ひ合ひながら、谷崎潤一郎論を少しやつた。当時谷崎氏は、在来氏が開拓して来た、妖気靉靆えうきあいたいたる耽美主義の畠に、「お艶殺し」の如き、「神童」の如き、或は又「お才と巳之助」の如き、文字通り底気味の悪いFleurs du Mal を育ててゐた。が、その斑猫はんめうのやうな色をした、美しい悪の花は、氏の傾倒してゐるポオやボオドレエルと、同じ荘厳な腐敗の香を放ちながら、或一点では彼等のそれと、全く趣おもむきが違つてゐた。彼等の病的な耽美主義は、その背景に恐る可き冷酷な心を控へてゐる。彼等はこのごろた石のやうな心を抱いた因果に、嫌でも道徳を捨てなければならなかつた。嫌でも神を捨てなければならなかつた。さうして又嫌でも恋愛を捨てなければならなかつた。が、彼等はデカダンスの古沼に身を沈めながら、それでも猶なほこの仕末に了へない心と――une vieille gabare sans m※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)ts sur une mer monstrueuse et sans bords の心と睨み合つてゐなければならなかつた。だから彼等の耽美主義は、この心に劫おびやかされた彼等の魂のどん底から、やむを得ずとび立つた蛾の一群ひとむれだつた。従つて彼等の作品には、常に Ah ! Seigneur, donnezmoi la force et le courage/ De contempler mon coeur et mon corps sans d※(アキュートアクセント付きE小文字)go※(サーカムフレックスアクセント付きU小文字)t ! と云ふせつぱつまつた嘆声が、瘴気しやうきの如く纏綿てんめんしてゐた。我々が彼等の耽美主義から、厳粛な感激を浴びせられるのは、実にこの「地獄のドン・ジユアン」のやうな冷酷な心の苦しみを見せつけられるからである。しかし谷崎氏の耽美主義には、この動きのとれない息苦しさの代りに、余りに享楽的な余裕があり過ぎた。氏は罪悪の夜光虫が明滅する海の上を、まるでエル・ドラドでも探して行くやうな意気込みで、悠々と船を進めて行つた。その点が氏は我々に、氏の寧むしろ軽蔑するゴオテイエを髣髴はうふつさせる所以ゆゑんだつた。ゴオテイエの病的傾向は、ボオドレエルのそれとひとしく世紀末の色彩は帯びてゐても、云はば活力に満ちた病的傾向だつた。更に洒落しやれて形容すれば、宝石の重みを苦にしてゐる、肥満したサルタンの病的傾向だつた。だから彼には谷崎氏と共に、ポオやボオドレエルに共通する切迫した感じが欠けてゐた。が、その代りに感覚的な美を叙述する事にかけては、滾々こんこんとして百里の波を飜ひるがへす河のやうな、驚く可き雄弁を備へてゐた。(最近広津和郎氏が谷崎氏を評して、余り健康なのを憾うらみとすると云つたのは、この活力に満ちた病的傾向を指摘したものだらうと思ふ。が、如何に活力に溢れてゐても、脂肪過多症の患者が存在し得る限り、やはり氏のそれは病的傾向に相違ない。)さうして此の耽美主義に慊あきたらなかつた我々も、流石さすがにその非凡な力を認めない訳に行かなかつたのは、この滔々たうたうたる氏の雄弁である。氏はありとあらゆる日本語や漢語を浚さらひ出して、ありとあらゆる感覚的な美を(或は醜を)、「刺青」以後の氏の作品に螺鈿らでんの如く鏤ちりばめて行つた。しかもその氏の Les Emaux et Cam※(アキュートアクセント付きE小文字)es は、朗々たるリズムの糸で始から終まで、見事にずつと貫かれてゐた。自分は今日でも猶、氏の作品を読む機会があると、一字一句の意味よりも、寧むしろその流れて尽きない文章のリズムから、半ば生理的な快感を感じる事が度々ある。ここに至るとその頃も、氏はやはり今の如く、比類ない語ことばの織物師だつた。たとひ氏は暗澹たる文壇の空に、「恐怖の星」はともさなかつたにしても、氏の培つちかつた斑猫色はんめういろの花の下には、時ならない日本の魔女のサバトが開かれたのである。――
やがて又演奏の始まりを知らせる相図のベルと共に、我々は谷崎潤一郎論を切り上げて、下の我々の席へ帰つた。帰る途中で久米が、「一体君は音楽がわかるのかい」と云ふから、「隣の金と骨と皮と白粉とよりはわかりさうだ」と答へた。それから又その老夫人の隣へ腰を下して、シヨルツ氏のピアノを聞いた。確たしか、シオパンのノクテユルヌとか何とか云ふものだつたと思ふ。シモンズと云ふ男は、子供の時にシオパンの葬式の行進曲を聞いて、ちやんとわかつたと広告して居るが、自分はシヨルツ氏の器用に動く指を眺めながら、年齢の差を勘定に入れないでも、この点ではシモンズに到底及ばないと観念した。そのあとは何があつたか、もう今は覚えてゐない。が、会が終つて外へ出たら、車寄のまはりに馬車や自働車が、通りぬけられない程沢山並んでゐた。さうしてその中の一つの自働車には、あの金と白粉との老夫人が毛皮に顔を埋めながら、乗らうとしてゐる所だつた。我々は外套の襟を立てて、その間をやつと風の寒い往来へ出た。ふと見ると、我々の前には、警視庁の殺風景な建物が、黒く空を衝ついて聳えてゐた。自分は歩きながら、何だかそこに警視庁のある事が不安になつた。で、思はず「妙だな」と云つたら、成瀬が「何が?」と聞き咎とがめた。自分はいやとか何とか云つて、好い加減に返事を胡麻化した。その時はもう我々の左右を、馬車や自働車が盛んに通りすぎてゐた。
五
フイル・ハアモニイ会へ行つたあくる日、午前の大塚博士の講義(題目はリツケルトの哲学だつた。これが自分が聞いた中では最も啓発される所の多かつた講義である)をすませた後で、又成瀬と凩こがらしの吹く中を、わざわざ一白舎へ二十銭の弁当を食ひに行つたら、彼が突然自分に、「君は昨夜僕等の後にゐた女の人を知つてゐるかい。」と尋ねた。「知らない。知つてゐるのは隣の金と皮と骨と白粉とだけだ。」「金と皮と――何だい、それは。」「何でも好い。兎に角、後にゐた女の人ぢやない事は確だ。さうして君は又その女の人に惚れでもしたのかい。」「惚れる所か、僕も知らなかつたんだ。」「何だ、つまらない。そんな人間なら、ゐたつてゐなくたつて、同じ事ぢやないか。」「所がね。家に帰つたらムツタアが後の女の人を見たかと云ふんだ。つまりその人が僕の細君の候補者だつたんださうだね。」「ぢや見合ひか。」「見合ひ程まだ進歩したものぢやないんだらう。」「だつて見たかつて云へば、見合ひぢやないか。君のムツタアも亦、迂遠うゑんだな。見せる心算つもりなら、前へ坐らせりや好いのに。後にゐるものが見える位なら、こんな二十銭の弁当なんぞ食つてゐやしない。」成瀬は親孝行な男だから、自分がかう云ふと、ちよいと妙な顔をした。が、すぐに又、「しかし向うの女の人を本位にして云へば、僕等が前にゐた事になるんだからな。」「成程、あすこぢや両方で向ひ合つてゐようと思つたら、どつちか一方が舞台へ上らなくつちやならない訳だ。――訳だが、それで君は何つて返事をしたんだい。」「見なかつたつて云つたあね。実際見なかつたんだから仕方がないぢやないか。」「さう今になつて、僕に欝憤を洩したつて駄目だよ。だが惜しい事をしたな。一体あれは音楽会だつたから、いけないんだ。芝居なら僕が頼まれなくつたつて、帝劇中の見物をのこらず物色をしてやるんだのに。」――成瀬と自分とはこんな話をしながら、大笑ひに笑ひ合つた。
その日は午後には、独逸語の時間があつた。が、当時我々はアイアムビツクに出席するとか何とか云つて、成瀬が出れば自分が休み、自分が出れば成瀬が休んでゐた。さうして一つ教科書に代る代る二人で仮名をつけて、試験前には一しよにその教科書を読んで間に合せてゐた。丁度その午後の独逸語は成瀬が出席する番に当つてゐたから、自分は食事をしまふと、成瀬に教科書を引き渡して、独りで一白舎の外へ出た。
出ると外は凩こがらしが、砂煙を往来の空に捲まき上げてゐた。黄いろい並木の銀杏いてふの落葉も、その中でくるくる舞ひながら、大学前の古本屋の店の奥まで吹かれて行つた。自分はふと松岡を訪ねて見ようと云ふ気になつた。松岡は自分と(恐らくは大抵な人と)違つて大風の吹く日が一番落着いて好いと称してゐた。だからその日などは殊に落着いてゐるだらうと思つて、何度も帽子を飛ばせさうにしながら、やつと本郷五丁目の彼の下宿まで辿りつくと、下宿のお婆さんが入口で、「松岡さんはまだ御休みになつていらつしやいますが」と、気の毒さうな顔をして云つた。「まだ寝てゐる? 恐ろしく寝坊だな。」「いえ、昨夜徹夜なすつて、ついさつきまで起きていらしつたんですがね、今し方寝るからつて、床へおはいりになつたんでございますよ。」「ぢやまだ眼がさめてゐるかも知れない。兎に角ちよいと上つて見ませう。寝てゐればすぐに下りて来ます。」自分は松岡のゐる二階へ、足音を偸ぬすみながら、そつと上つた。上つてとつつきの襖ふすまをあけると、二三枚戸を立てた、うす暗い部屋のまん中に、松岡の床がとつてあつた。枕元には怪しげな一閑張いつかんばりの机があつて、その上には原稿用紙が乱雑に重なり合つてゐた。と思ふと机の下には、古新聞を敷いた上に、夥おびただしい南京豆の皮が、杉形すぎなりに高く盛り上つてゐた。自分はすぐに松岡が書くと云つてゐる、三幕物の戯曲の事を思ひ出した。「やつてゐるな」――ふだんならかう云つて、自分はその机の前へ坐りながら、出来ただけの原稿を読ませて貰ふ所だつた。が、生憎あいにくその声に応ずべき松岡は、髭ののびた顔を括くくり枕まくらの上にのせて、死んだやうに寝入つてゐた。勿論自分は折角徹夜の疲を癒してゐる彼を、起さうなどと云ふ考へはなかつた。しかし又この儘帰つてしまふのも、何となく残り惜しかつた。そこで自分は彼の枕元に坐りながら、机の上の原稿を、暫しばらくあつちこつち読んで見た。その間も凩はこの二階を揺ぶつてしつきりなく通りすぎた。が、松岡は依然として、静な寝息ばかり洩してゐた。自分はやがて、かうしてゐても仕方がないと思つたから、物足りない腰をやつと上げて、静に枕元を離れようとした。その時ふと松岡の顔を見ると、彼は眠りながら睫毛まつげの間へ、涙を一ぱいためてゐた。いや、さう云へば頬の上にも、涙の流れた痕あとが残つてゐた。自分はこの思ひもよらない松岡の顔に気がつくと、さつきの「やつてゐるな」と云ふ元気の好い心もちは、一時にどこかへ消えてしまつた。さうしてその代りに、自分も夜通し苦しんで、原稿でもせつせと書いたやうな、やり切れない心細さが、俄にはかに胸へこみ上げて来た。「莫迦ばかな奴だな。寝ながら泣く程苦しい仕事なんぞをするなよ。体でも毀こはしたら、どうするんだ。」――自分はその心細さの中で、かう松岡を叱りたかつた。が、叱りたいその裏では、やつぱり「よくそれ程苦しんだな」と、内証で褒めてやりたかつた。さう思つたら、自分まで、何時いつの間にか涙ぐんでゐた。
それから又足音を偸ぬすんで、梯子段はしごだんを下りて来ると、下宿の御婆さんが心配さうに、「御休みなすつていらつしやいますか」と尋きいた。自分は「よく寝てゐます」とぶつきらぼうな返事をして、泣顔を見られるのが嫌だつたから、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々そうそう凩の往来へ出た。往来は相不変あひかはらず、砂煙が空へ舞ひ上つてゐた。さうしてその空で、凄すさまじく何か唸るものがあつた。気になつたから上を見ると、唯、小さな太陽が、白く天心に動いてゐた。自分はアスフアルトの往来に立つた儘、どつちへ行かうかなと考へた。
(大正七年十二月)
「自己を捨てて神に走るものは神の奴隷である。夏目漱石」
「天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心地のよい名声」を与えられることである。芥川竜之介」
「更にそこから生まれるもののなき博学はくだらない。知識のコレクションに過ぎない。志賀直哉」
「by europe123 」
https://youtu.be/K2baVzlE3to
本日は小説では無いが、芥川竜之介の大地震感想と次も懐かしい人達が次々に登場する手記。何人知っているか