縁切寺・長谷寺・性感染症・梅毒

縁切寺・長谷寺・性感染症・梅毒


 (本日も全く時間が無いので貼り付け。virusがじわじわ・・はしか・・梅毒・エイズ・・その他人類しか感染しない性感染症が・・増えて来た警告・・。)



 縁切寺


 縁切寺(えんきりでら)とは、江戸時代において、夫との離縁を達成するために妻が駆け込んだ寺のことである。寺は夫に内済離縁(示談)を薦め、調停がうまく行かない場合は妻は寺入りとなり足掛け3年(実質満2年)経つと寺法にて離婚が成立する。江戸幕府公認の縁切寺には鎌倉の東慶寺、群馬(旧、上野国新田郷)の満徳寺がある。駆込寺・駆け込み寺(かけこみでら)・駆入寺・駈入寺(かけいりでら)とも呼ばれる。

概説

満徳寺の駆け込み門
夫側からの離縁状交付を要した江戸時代の離婚制度において、縁切寺は妻側からの離婚請求を受け付けて妻を保護し、離婚調停を行う特権を公的に認められていた。調停にあたっては、夫をはじめとする当事者を強制的に召喚し、事情聴取を行った。

縁切寺では女性用の駆込場所という性質上、女性の幸福を第一に考えて、まず妻方の縁者を呼んで復縁するよう諭させ、どうしてもそれを承知しない場合に離縁を成立させる方向で調停を行なった。この調停特権は幕府によって担保されており、当事者が召喚や調停に応じない場合は、寺社奉行などにより応じることを強制された。この縁切寺の調停管轄は日本全国に及び、どこの領民であっても調停権限に服するものとされていた。

一般には、縁切寺で妻が離婚を勝ち取るには、尼として数年間寺入り(在寺)する義務があったかのように理解されているが、寺に入るのは調停が不調となった場合の最終手段であり、実際には縁切寺の調停活動により離婚が成立し、寺に入ることなく親元に戻るケースが大部分を占めていた(調停期間中は東慶寺の場合、門前の宿場に泊まる)。寺に入っても、寺の務めはするが尼僧になるわけではない。形ばかり、髪を少し切るだけであり、寺の仕事(出身階層や負担金などで仕事は異なる)を足掛3年(満2年)務めた後に晴れて自由になることができる。

駆け込もうとする妻を連れ戻そうと夫が追いかけてくるということもたびたびあった様子で、その様子を描いた図画、川柳も存在する。しかし、満徳寺の場合では寺の敷地内である門から内側に妻の体が一部分でも入れば、夫であっても連れ戻してはならないことになっており、また体の一部でなく、履いていた草履を投げて敷地内に入った、もしくは投げた簪が門に刺さった場合なども、夫は妻を連れて帰ってはならなかった。

当時の町役人の職務手引書には「縁切寺から寺法書が送達された場合は開封しないで、速やかに夫に離縁状を書かせ、召喚状とともに返送すること」と記されていた。これは寺法による離婚手続きに入れば早かれ遅かれ強制的に離婚させられ、寺法による離婚手続きの段階が進めば進むほど、夫・妻の双方にとってより面倒な事になるからである。もしも、寺法書の封を切らずに離縁状と共に寺に差し出せば、それは寺の処置を異議なく申し受けたとして扱われ、夫にはそれ以上の面倒は無く、妻も義務が軽く済む。しかし、夫がどうしても離婚に承諾しなければ書面の封を切り、夫に寺法による離婚を申し渡し、妻は一定期間の寺入りになる。夫も各地に呼び出されたり強情を張って手間をかけさせたと叱られたりするのである。夫が最後まで徹底的に抵抗しても奉行や代官によって離婚が強制的に成立する。

東慶寺と満徳寺の縁切寺2寺のうち、駆込の件数は人口の多い江戸から距離が近い東慶寺の方が多く[1]、1866年(慶応2年)東慶寺では月に4件弱の駆込が行われている(大部分は寺の調停で内諾離婚になり寺入りせずに済んだ、寺入りする妻は年に数件である)[2]。昭和の東慶寺住職井上禅定は東慶寺だけで江戸末期の150年間で2000人を越える妻が駆込んだであろうとしている[3]。

縁切寺と千姫
幕府公認の縁切寺は東慶寺と満徳寺の2つだが、この2つが幕府公認になったことは千姫に由来する。満徳寺は千姫が入寺し(実際には腰元が身代わりで入寺)離婚後本多家に再婚した事に由来し、東慶寺は豊臣秀頼の娘(後の東慶寺住持の天秀尼)を千姫が養女として命を助け、この養女が千姫の後ろ盾もあり義理の曽祖父になる徳川家康に頼み込んで東慶寺の縁切寺としての特権を守ったとされる。この2つの寺の特権は千姫-家康に認められたものであり、後年の江戸幕府もこれを認めざるを得なかった[4][5]。

江戸時代以前の縁切寺
鎌倉時代後期から室町時代・戦国時代にかけての縁切寺は、東慶寺(現在の神奈川県鎌倉市山ノ内(北鎌倉))と満徳寺だけというわけではなかった。世俗から切り離された存在(アジール)として、寺院は庇護を求める人々を保護してきた。寺に駆込んだ妻を寺院が保護すれば夫は容易には妻を取り戻せない。ことに男子禁制の尼寺ならばなおさらであり、夫の手の届かないところに数年いれば、当時の観念としてもはや夫婦ではないと認められた。しかし、豊臣から徳川の時代になると寺院の治外法権的な特権は廃止され、一般の寺に駆込んでも夫に引き渡される事も起きるようになり、幕府公認の縁切寺は東慶寺と満徳寺に限定されていくのである[6][7]。

江戸時代の縁切寺以外の駆け込み
幕府公認の縁切寺が東慶寺と満徳寺に限定されたことは、離縁を望む妻側の救済手段がそれだけに限定されたことを意味しない。幕府権力を最終的なよりどころとしなくても、武家・神職・山伏などの社会的権威のある人々の屋敷への縁切り駆け込みが多数あり、ほとんどは速やかに離婚を成立させることができた。縁切り寺はあくまでも最終手段であった[8]。

当時庶民とりわけ農民の家族においては、妻も労働力のゆえにその地位は低くなく、離婚も再婚も容易であり[9]、また夫の恣意による不実の専断離婚は認められず、訴訟によって妻は復縁・離婚を請求することもできたのであり、「夫のみが一方的に三行半を突きつけて追い出し離婚を強制することができ、妻は縁切り寺に駆け込む以外の救済手段を持たなかった」というのは、後世の誤解であると論じられている[10]。江戸期の離婚率の高さは、夫専権離婚ではなく、妻による「飛び出し離婚」が多かったためと考えられている[11]。

例えば、上野国小幡藩では、妻と離婚したいが告げられず(いわゆる、かかあ天下のため)、藩の陣屋や町役人の所に縁切り駆け込みし、離婚を訴える事例が2例確認できる[12]。また熊本藩にも夫の縁切り駆け込みをにおわす文書が確認されている(前同 p.195)。

また、同じく上野国(群馬県)の例だが、交代寄合の旗本で、新田氏の子孫である岩松氏の屋敷にも、駆け込みがあったことが確認されている。ただしあくまで非公式な手続きであり、正式に離婚斡旋を始めたのは、明治期に入った当主の新田俊純男爵からである。岩松家は歴史が古く格式が高いため権威があり、しかし120石と少禄であったので屋敷は当然それほど立派ではなく、つまり庶民が駆け込み易かったとも推測される。さらに岩松家は護符を売るなどの呪術的な商いでも知られていたため、信仰心的な権威もあった。さらに、屋敷はいわゆる縁切寺の満徳寺の近隣に存在していた。

芸術作品における扱い
グレープが1975年に発売したアルバム『コミュニケーション』に、鎌倉の東慶寺を題材にした「縁切寺」が収録されている。(作詞・作曲・編曲:さだまさし) 1976年にバンバンがこの楽曲をカバーする。
縁切寺を題材とした歌を演歌歌手の若山かずさが2006年にリリースしている(タイトル:縁切寺/作詞:池田充男/作曲:叶弦大/編曲:南郷達也)。
縁切寺の東慶寺を題材にした2015年の映画『駆込み女と駆出し男』がある。
縁切りに係る仏的霊験的意味における縁切寺

真浄寺 稲荷大権現 縁切り稲荷
この意味におけるお寺としては、茨城県牛久市にある真浄寺などがある。縁切りに係るご霊験を目的とする寺社は、神社に多い。縁切りに係る仏的霊験的祈願を目的とするお寺は少ない。

 



 長谷寺


 長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派の総本山の寺院。山号は豊山(ぶさん)。院号は神楽院(かぐらいん)[1]。本尊は十一面観音(十一面観世音菩薩)。開山は道明とされる。西国三十三所第8番札所。寺紋は輪違い紋。

本尊真言:おん まかきゃろにきゃ そわか

ご詠歌:いくたびも参る心ははつせ寺 山もちかいも深き谷川

概要
大和国と伊勢国を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬から5月上旬は150種類以上、7,000株といわれる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する「二本(ふたもと)の杉」は現在も境内に残っている。

歴史
創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武天皇の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺が建てられている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が聖武天皇の勅命により東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀ったというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。承和14年(847年)12月21日に定額寺に列せられ、天安2年(858年)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺と共に朝廷(太政官)の統制下に置かれた。それを裏付けるように10世紀以後の長谷寺再建に際しては諸国に対しては国宛を、諸寺に対しては落慶供養参加を命じるなど、国家的事業として位置づけられている。

長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。

創建当時の長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺[注 1] であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。

天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により真言宗豊山派が成立していった。

この後、本堂は焼失したが、徳川家光の寄進によって慶安3年(1650年)再建された。

寛文7年(1667年)には徳川家綱の寄進で本坊が建立されたが、1911年(明治44年)に表門を残して全て焼失した。しかし、1924年(大正13年)に再建されている。

近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。

十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多くあり、240か寺ほど存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。

門前町初瀬の参道脇には、西国三十三所の観音霊場をつくるよう閻魔大王から託宣されたと伝わる僧侶の徳道が天平7年(735年)創立したといわれる番外札所法起院(徳道上人廟)があり、初瀬川を渡るとかつて長谷寺の鎮守社であった與喜天満神社がある。

本堂

本堂(礼堂)を望む

本堂(正堂)を西北から見る

本堂平面図

本尊十一面観音像
国宝。本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造になっている。本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536年)までに計7回焼失している。7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天文7年(1538年)に再興(現存・8代目)。本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588年)に新しい堂が竣工した。ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後さらに建て替えられたものである。

現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645年)から工事に取り掛かり、5年後の慶安3年(1650年)に落慶したものである。同年6月に記された棟札によると、大工中井大和守を中心とする大工集団による施工であった。天正再興時の本堂は、元和4年(1618年)には雨漏りが生じていたことが記録されているが、わずか数十年後に修理ではなく全面再建とした理由は明らかでなく、背景に何らかの社会的意図があったとの指摘もある[2]。高さ10メートル以上ある本尊・十一面観音像は、前述のとおり、天文7年に完成しており、慶安3年の新本堂建設工事は本尊を原位置から移動せずに行われた。そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊を安置)がある複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目をしている。

本堂は傾斜地に南を正面として建つ。平面構成・屋根構成とも複雑だが、おおまかには本尊を安置する正堂(奥)、参詣者の為の空間である礼堂(手前)、これら両者をつなぐ相の間の3部分からなる。全体の平面規模は間口25.9メートル、奥行27.1メートル。正堂は一重裳階付き。構造的には間口7間、奥行4間、入母屋造平入りの身舎の前面と両側面に1間幅の裳階をめぐらせた形になり、全体としては9間×5間となる(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する。以下の文中においても同様)。礼堂部分は入母屋造妻入り、間口9間、奥行4間で、このうち奥の間口9間、奥行1間分を相の間とする。礼堂の棟と正堂の棟はT字形に直交し、礼堂正面側には入母屋屋根の妻を大きく見せる。礼堂の屋根は側面では正堂の裳階の屋根と一体化している。礼堂の左右側面にはそれぞれ千鳥破風を付し、屋根構成をさらに複雑にしている。礼堂の前半部分は床下に柱を組み、崖面に迫り出した懸造とし、前方に舞台を張り出す。屋根は全て本瓦葺き。組物は正堂身舎が出組(一手先)、正堂裳階と礼堂は三斗とする。

礼堂は床は板敷き、天井は化粧屋根裏(天井板を張らず、構成材をそのまま見せる)とし、奥2間分は中央部分を高めた切妻屋根形の化粧屋根裏とする。相の間は一段低い石敷きで、化粧屋根裏とする。正堂の平面構成は複雑だが、おおむね手前の奥行1間分を外陣、その奥を内陣とする。外陣は板敷きで、天井は中央を化粧屋根裏、左右を格天井とする。その奥は中央の間口5間、奥行4間を内陣とし、その東西の各間口2間分は、東を宰堂室、西を集会所等とする。内陣は石敷き、格天井とし、その中央の二間四方を本尊を安置する内々陣とする。内々陣部分には切妻屋根が架かり、独立した構造となっている[3]。

本堂は近世前半の大規模本堂の代表作として、2004年(平成16年)12月、国宝に指定された。棟札2枚、平瓦1枚(慶安元年銘)、造営文書・図面等3件が国宝の附(つけたり)指定となっている。

本尊は木造十一面観音立像である。長谷寺の本尊像については、神亀年間(724年 - 729年)、近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼び、恐怖した村人の懇願を受けて開祖徳道が祟りの根源である神木を観音菩薩像に作り替え、これを近くの初瀬山に祀ったという長谷寺開山の伝承がある。伝承の真偽はともかく、当初像は「神木」等、何らかのいわれのある木材を用いて刻まれたものと思われる。現在の本尊像は天文7年(1538年)の再興。仏像彫刻衰退期の室町時代の作品だが、10メートルを超える巨像を破綻なくまとめている。国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものである。本像は通常の十一面観音像と異なり、右手には数珠とともに、地蔵菩薩の持つような錫杖を持ち、方形の磐石の上に立つ姿である(左手には通常の十一面観音像と同じく水瓶を持つ)。伝承によれば、これは地蔵菩薩と同じく、自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他の宗派(真言宗他派も含む)には見られない独特の形式である。この種の錫杖を持った十一面観音を「長谷寺式十一面観音(長谷型観音)」と呼称する。

境内

登廊(中登廊と下登廊)
初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る[4]。本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。本堂が国宝に、仁王門、登廊5棟(下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊)、三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。現存の本堂は8代目で、慶安3年(1650年)の竣工。登廊は長暦3年(1039年)に春日社の社司・中臣信清が我が子の病気平癒の御礼で寄進したとされるが、現存するものは近世以降の再建である。現存する蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊は本堂と同じ時期の建立。仁王門、下登廊、繋屋、中登廊の4棟は1882年(明治15年)の火災焼失後の再建で、仁王門は1885年(明治18年)、下登廊、繋屋、中登廊は1889年(明治22年)の建立である[5]。これら明治再建の建物も、境内の歴史的景観を構成するものとして重要文化財に指定されている。

本堂 - 慶安3年(1650年)に徳川家光により再建。解説は既出。
愛染堂
三社権現(瀧蔵三社)
能満院 - 子院。
三百余社(重要文化財) - 慶安3年(1650年)建立。
繋廊(重要文化財) - 慶安3年(1650年)建立。
鐘楼(重要文化財) - 慶安3年(1650年)建立。梵鐘は「尾上の鐘」と呼ばれる。
馬頭夫人社
上登廊(重要文化財) - 慶安3年(1650年)建立。
蔵王堂(重要文化財) - 慶安3年(1650年)建立。
中登廊(重要文化財) - 1889年(明治22年)建立。
繋屋(重要文化財) - 1889年(明治22年)建立。
三部権現社
下登廊(重要文化財) - 1889年(明治22年)建立。
金蓮院 - 子院。
慈眼院 - 子院。
梅心院 - 子院。
月輪院 - 子院。
宗宝蔵 - 宝物殿。長谷寺六坊の一つであった清浄院の跡地に建つ。
道明上人御廟塔
昭和寮
歓喜院 - 子院。
茶室「加藻庵」
仁王門(重要文化財) - 1885年(明治18年)建立。長谷寺の総門。入母屋造、本瓦葺の三間一戸の楼門。平安時代、一条天皇の頃に創建された。その後、度重なる火災により焼失し現在の門は1885年(明治18年)に再建されたものである。勅額「長谷寺」の文字は後陽成天皇の宸筆である[6]。
大黒堂
開山堂
弘法大師御影堂
供御所
白山権現社
本長谷寺 - 長谷寺創建の地に建っている。
一切経蔵
三重塔跡 - 礎石が残る。1876年(明治9年)に落雷で焼失した。
五重塔 - 三重塔があった北側に1954年(昭和29年)建立された。戦後、日本で初めて建てられた五重塔である。
納骨堂
奥の院
陀羅尼堂
興教大師祖師堂
専誉僧正廟塔
豊臣秀長供養塔
本願院 - 子院。
六角堂(写経殿)
香港居士林
白心寮
本坊
中雀門(重要文化財) - 明和3年(1766年)建立。表門。
大玄関(重要文化財) - 1923年(大正12年)再建。設計は岸熊吉。
庫裏(重要文化財) - 1923年(大正12年)再建。設計は岸熊吉。
小書院(重要文化財) - 1923年(大正12年)再建。設計は阪谷良之進。
奥書院(重要文化財) - 1920年(大正9年)再建。設計は阪谷良之進。
大講堂(重要文化財) - 1919年(大正8年)再建。設計は天沼俊一。
唐門(重要文化財) - 1924年(大正13年)再建。設計は岸熊吉
回廊(重要文化財) - 1924年(大正13年)再建。設計は岸熊吉。
護摩堂(重要文化財)1923年(大正12年)再建。設計は岸熊吉。
土蔵(重要文化財) - 19世紀中頃建立。
普門院 - 子院。
不動堂
法起院 - 子院。西国三十三所観音霊場番外札所。
徳道上人御廟塔



 
 性感染症


 性感染症(せいかんせんしょう、性行為感染症、性病、英: sexually transmitted infections: STI, sexually transmitted diseases: STD, venereal diseases: VD)とは、膣性交、肛門性交、口腔性交を含む性行為によって感染する感染症である[1]。ほとんどの性感染症は感染初期に症状を示さない[2]。そのため他の人へ感染させやすい[3][4]。

症状と徴候として膣やペニスの分泌物、性器やその周辺に生じる潰瘍、下腹部痛などが含まれる。妊娠や出産に伴う感染では新生児の予後不良となりうる。また、不妊の原因となることもある[2]。

性感染症の原因となる細菌、ウイルス、寄生虫は30種以上にのぼる[2]。細菌性にはクラミジア感染症、淋病、梅毒などがある。ウイルス性には性器ヘルペス、HIV/AIDS、尖圭コンジローマなどがある。寄生虫にはトリコモナス症などがある。性感染症は通常は性交によって伝播するが、汚染した血液や臓器との接触、授乳、出産など性交以外の接触によって伝播することもある[2]。

診断検査は先進国では利用しやすいが、発展途上国においてはその限りでない[2]。

性交を避けることは感染を回避する最も信頼のおける方法でもある[5]。予防接種によってある種の性感染症のリスクを低減する事も可能であり、B型肝炎、一部の型のHPVがこれにあたる[5]。コンドームの使用、不特定多数の相手と性交をしないといったセーフセックスの実施も感染のリスクを低下させる[2][5]。男性の割礼はある種の性感染症の予防に効果的である[2]。ほとんどの性感染症は寛解可能あるいは完治可能である[2]。

一般的な性感染症の中では梅毒、淋病、クラミジア感染症、トリコモナス症が完治可能だが、ヘルペス、B型肝炎、HIV/AIDS、HPVは寛解可能である一方完治はできない[2]。淋菌などの一部の病原体はある種の抗生物質に耐性を獲得しつつある[6]。

2008年には5億人の人々が梅毒、淋病、クラミジア、トリコモナスのいずれかに感染したと推定された[2]。さらに少なくとも5.3億人が性器ヘルペスに、2.9億人の女性がヒトパピローマウイルスに感染している[2]。HIVを除いても性感染症は2013年の一年間で14万2千人の死を引き起こした[7]。

アメリカ合衆国では2010年に1900万人が新たに性感染症に感染している[8]。歴史的な記述は少なくとも紀元前1550年頃のエーベルス・パピルスや旧約聖書までさかのぼる[9]。性感染症にはしばしば恥や汚名を伴う[2]。英語では症状を示さない感染者を含む、sexually transmitted infection の語が、sexually transmitted disease や venereal disease よりも好まれて用いられる[10]。

名称
世界保健機構 (WHO) は1999年から sexually transmitted infection の単語の使用を推奨している[10]。これは sexually transmitted disease より広い意味を持つ[11]。Infection(感染)は寄生生物の侵入を意味するが、感染が必ずしも悪影響を与えるとは限らない。Disease(疾病、疾患)においては infection が機能の異常や障害につながる。そしていずれにおいても徴候や症状を示さないことがある[12]。

日本においては1948年に公布された性病予防法にある、梅毒、淋病、軟性下疳、鼠径リンパ肉芽腫症の4疾患のことを「性病」と呼んでいたが、その後、性交およびその類似の性行為によって感染する病気を広く捉えて「STD(sexually transmitted disease)」、「性行為感染症」と呼ぶようになった。近年では「性感染症」の用語が使われることが多い[13]。

徴候と症状
すべての性感染症が症状を示す訳ではなく、また症状を示すとしても感染直後にそれが現れるとは限らない。症例によっては感染症が無症状で保有される事があり、このような場合は他の人を感染させる可能性が高くなる。感染症の種類によって性感染症は不妊や慢性痛、さらには死を引き起こしうる[14]。

性感染症に思春期以前の子どもが感染していた場合は性的虐待の可能性を示すことがある[15]。

なお、性感染症というが、あくまで「性行為で感染することが多い」というだけであり、性行為以外でも感染することはある。他人の唾液や咳、くしゃみのしぶきなどが偶然、口や目に入ったりしても感染する可能性はある[16]。

病原体
細菌
梅毒 - Treponema pallidum(英語版)[17]。次第に全身症状。
クラミジア感染症 - クラミジア・トラコマチス: Chlamydia trachomatis[17]。以下、主に性器の痒みや分泌物。
淋病 - 淋菌: Neisseria gonorrhoeae[17]
マイコプラズマ・ジェニタリウム - Mycoplasma genitalium[18][19][20]
マイコプラズマ・ホミニス - Mycoplasma hominis[21][22][23][24][25]
ウレアプラズマ感染症[26][27]
軟性下疳 - Haemophilus ducreyi(英語版)[17]。日本では少ない、性器の痛みや出血。
鼠径リンパ肉芽腫 - Klebsiella granulomatis(英語版)[28]。痛みのない潰瘍。かつては「第四性病」と呼ばれた。
真菌
カンジダ症[17]。性器の痒みや分泌物。
ウイルス

顕微鏡写真(英語版)はヘルペス・ウイルスの細胞変性効果を示す。 (ground glass nuclear inclusions, multi-nucleation). パップテスト。パパニコロウ染色。
ウイルス性肝炎(B型肝炎ウイルス)- 唾液、性器分泌液から感染し、肝機能に異常を示す。
(A型肝炎とE型肝炎は糞口感染によって伝播、C型肝炎は稀に性交感染[29]、D型肝炎(B型肝炎との共感染のみ)の感染経路ははっきりしないが、性交感染を含む可能性がある[30][31][32]。)
後天性免疫不全症候群(AIDS)(ヒト免疫不全ウイルス)- 性器分泌液、精液、乳、血液から感染。進行すると免疫不全に陥る。
単純ヘルペス(単純ヘルペスウイルス、HSV-1、HSV-2)- 皮膚や粘膜から、疱疹の有無によらず感染しうる。主に性器の水膨れと潰瘍、女性ではそれによる痛み。
ヒトパピローマウイルス(HPV)感染症 - 皮膚や粘膜との接触から。高リスク型を除くHPVの一部は、イボの尖圭コンジローマの病原体である。子宮頸癌のほとんどが高リスク型HPVの感染によるものであり、さらに一部の肛門癌、陰茎癌、外陰癌の原因でもある。
伝染性軟属腫(伝染性軟属腫ウイルス)- 肌に直接触れるなどの濃厚接触による。水イボ。
寄生虫
ケジラミ症(ケジラミ) 痒みと吸血跡。
疥癬(ヒゼンダニ) 痒みと線状の跡。
原虫
トリコモナス症(膣トリコモナス)[17]。性器の痛みと分泌物。
検査
感染した細菌によって、血液検査、尿検査、ぬぐい取って染色、または培養して観察など各種の方法がとられる。同じ細菌に対しても、方法によって検出精度に差があり不適切な場合がある。

検査機関には病院のほか、肝炎に関しては日本では無料で各自治体が行っている場合がある。エイズ、梅毒、淋病、クラミジアに関しても保健所が無料で行っている場合がある[33]。こうした無料の検査は月に1~2度である。ほか、郵送での検査キットが販売されている。

強制検診
日本では、1948年に性病予防法が施行されると、路上の売春婦などを摘発して保健所に同行させ、強制的に性感染症の検診を受けさせる「狩込み」が行われた時期がある。この狩込みについては、1950年10月30日に法制意見局から違憲の疑いがあるとして警告が出されて中止に追い込まれている[34]。

診断
梅毒やHIVでは特徴的な口腔の病変が生じ診断の機会となりうるが、淋菌やクラミジアでは症状がなかったり、特徴のない炎症が生じるため見逃されやすい[35]。梅毒の感染が発覚した場合、HIVの検査も推奨される[36]。

イボでは尖圭コンジローマや伝染性軟属腫。

鑑別診断
排尿痛、尿道の痛みや分泌液は、性感染症以外でも起こりうるため鑑別が必要である[37]。

淋菌性尿道炎[37]。
クラミジア性尿道炎 - クラミジアが分離できる[37]。
非クラミジア性非淋菌性尿道炎 - 主にマイコプラズマ、ウレアプラズマ、トリコモナスなどであり、他の多くの細菌では確実な証拠は不足している[38]。
男性の尿道炎の70%は非淋菌性であり、そのうち30-50%がクラミジアを検出するが、そのクラミジア性尿道炎と非クラミジア性非淋菌性尿道炎との症状の差はみられないため、症状による鑑別は困難であり検査により容易となる[39]。初診時にグラム染色で淋菌の診断が得られれば、クラミジアの検査も行う[37]。淋菌感染者の20-30%がクラミジアの感染を合併しており、クラミジアの検査も必須とされる[40]。グラム染色で淋菌が検出できなければ、核酸増殖法(SDA法)を行う[37]。

淋病では、3-7日で発症し強い排尿痛と膿を伴い、クラミジアでは1-3週間で発症し軽い排尿痛で粘液性の分泌物を伴う[37]。非クラミジア性非淋菌性尿道炎では1-5週間である[39]。

予防

カリフォルニア州サンフランシスコにある性病検査のためのサンフランシスコ・シティ・クリニック。
詳細は「セーファーセックス」を参照
カウンセリングと行動科学的アプローチ
淋菌の保菌者の場合、非罹患者との性行為により一回あたり約3割の確率で相手への感染が生じるとされている[41]。

一切の性行為(肛門性交や口腔性交などを含む)を避けることは性感染症を回避する最も信頼のおける方法となる[5]。また、性感染症を防ぐ上では「特定の相手とのみ性行為を行う」「コンドームを使用する」などのセーファーセックスの実行が重要である。これは望まない妊娠を防ぐ上でも重要となる[2][5][42]。

コンドーム
コンドームの使用は効率的に性感染症を予防する事ができる[2][5]。

ワクチン
HPV感染症の一部とB型肝炎はワクチンの接種により予防可能である。さらにHIVとヘルペスウイルスについてもワクチンの開発が進められている[2][5]。

その他
男性の割礼はHIVをはじめとした性感染症に予防効果がある事が知られている。また、抗ウイルス薬であるテノホビルのゲルもHIVの感染予防等に効果があるとされる[2]。

治療
クラミジア感染症や淋病の診断を受けた人のパートナーの治療選択肢には、初回検査なしで医薬品を提供することも慣行である[43]。パートナーの検査や治療を放置すると簡単に再感染する[44]。

以下、日本の2016年のガイドラインより説明する。

オーラルセックスの増加により咽喉の淋菌やクラミジアの感染も増えており、咽喉にも有効な治療が第一選択となる[37]。淋菌の薬剤耐性は著しく、薬剤感受性試験も行う[37]。咽喉では淋菌、クラミジアともに2週間以上開けてから治療判定の検査を行う[45]。

淋菌の薬剤耐性は著しく、ペニシリン系は90%、テトラサイクリン系、ニューキロノン系では70-80%、第三世代のセファロスポリン系でも30-50%が耐性を持ち、セイフィキシムでも無効例が報告されるようになり、セフトリアキソンやスペクチノマイシンの注射剤のみが保険適用の上で推奨でき、2016年時点で100%に近い有効性があり、治療後の検査は必須ではない[46]。アジスロマイシンの2グラムは、90%以上の有効率であるが、1グラムでは40%が治療に失敗しており、地域的に耐性を持つ菌も増えており、第一選択肢ではない[40]。例えば、福岡では2010年の1.8%の割合であったアジストロマイシンに耐性を持つ淋菌は2013年には22.6%だと報告されている[47]。咽喉の淋菌では推奨されるのはセフトリアキソンを1グラムの注射剤のみである[45]。セフトリアキソンの耐性菌も日本では世界に先駆けて報告されている[41]。

クラミジアではマクロライド系のアジスロマイシンやニューキノロン系やテトラサイクリン系が用いられる[48]。 咽喉のクラミジアでは性器への感染に準じる[45]。非クラミジア性非淋菌性でも同様である[49]。マイコプラズマ・ジェニタリウムは、薬剤耐性があり、テトラサイクリン系よりも、アジスロマイシンやクラリスロマイシンやなどマクロライド系が強い殺菌効果を持つが、それでも2000年前後にはほぼ100%であった有効率は低下してきており、2012年のオーストラリアの報告ではアジスロマイシン1グラムでは69%であり、日本ではそこまで失敗が頻発していないため1グラムか2グラムを第一選択とする[50]。ウレアプラズマでは、アジスロマイシン1グラム、あるいはレボフロキサシン500mgを7日間、あるいはシタフロキサシン200mgを1日2回7日間で100%であったため、これらのマクロライド系やニューキノロン系が推奨される[50]。

トリコモナスではメトロニダゾールによる治療が一般的である[51]。

梅毒ではペニシリンが第一選択である[36]。

疫学
日本
国立感染症研究所の調査では、2008年のデータでは性感染症の罹患率は年々減少、もしくは横ばいとなっていた[52]が、2010年以降は梅毒では増加傾向にあり[53]、特に2014年以降急増している[54]。後天性免疫不全症候群(AIDS)は2010年以降増加[55]にあったが、新規報告件数の約80%を占める日本国籍男性は、2013年(1,401件)をピークとし2017年(1,150件)まで4年連続で緩やかな減少が認められ、代わりに外国国籍報告例数は2013年には約150件、 2017年は196件に達し再増加が認められる[56][57]。

紛らわしい症状
フォアダイス、および真珠様陰茎小丘疹は、発生部位や様態からいかにも尖圭コンジローマなどの性感染症のようにみえるが、性感染症ではない。他人に感染させることはなく、治療の必要もない。


 
 梅毒


 梅毒(ばいどく、Syphilis。黴毒、瘡毒(そうどく)とも)は、スピロヘータの一種である梅毒トレポネーマ(Treponema pallidum)によって発生する感染症[1]。性感染症(性病)の一種[1][2]。in vitroでの培養は不可能であり、病原性の機構はほとんど解明されていない。1998年には全ゲノムのDNA配列が決定[1]、公開されている。

梅毒の徴候や症状は進行に応じた4段階でそれぞれ大きく異なる。第2期以降の性器や全身の皮膚の特徴的な薔薇模様で知られる。自然完治と誤解するような潜伏期を3度挟みながら、病状が徐々に悪化していき、最終的に死に至ることもある。症状が出ていない期間も感染力を持ち、体内は悪化の一途を辿っており、治療法は医師から完治診断を受けるまでペニシリン系のアモキシシリン投与を受けるのみである[3][4]。

1999年に全世界で推定1200万人が新規感染したと考えられており、その90%以上は発展途上国での感染であった。また、感染者の約80%は男性である[5]。1940年代のペニシリンの普及以降、特効薬が開発されたことで第3期・第4期の発症および死亡は劇的に減少した。しかし、2000年以降、コンドーム不使用に起因する感染が多くの国々で増加しつつある。日本でも2011年頃から増加傾向にあり、2010年には約600件だった報告数が2022年には10,000件を超えた[6]。

予防に有効なワクチンは存在せず、ペニシリン系の抗菌薬の投与により治癒自体はするが免疫は獲得できず、梅毒トレポネーマに再感染した場合は再び罹患する[1][7]。感染すると他の性病にもかかりやすくなるため、ヒト免疫不全ウイルスと併発するケースが度々ある[8][9][10][11]。

病原体
細菌学

梅毒トレポネーマに侵された病理組織(銀染色)
詳細は「梅毒トレポネーマ」を参照
梅毒トレポネーマ(Treponema pallidum)の特徴は螺旋状形態、グラム陰性であり、活発に運動する[12][13]。自然界における唯一の宿主はヒトである[14]。宿主がいなければ数日も生きられない。これはそのゲノムサイズが小さく(1.14 MDa)、主要栄養素の合成に必要な代謝経路の遺伝子が欠落しているためである。このため、倍加時間は遅く、30時間以上掛かる[12]。

梅毒トレポネーマの近縁種もまた、3つの病気の原因となる。それぞれ、イチゴ腫(フランベジア)は亜種 pertenue、ピンタは亜種 carateum、ベジェルは亜種 endemicumが原因である[15]。これら近縁種は、梅毒トレポネーマとは異なり、神経疾患を引き起こさない[16]。

感染経路
主に性行為、オーラルセックス、キスにより、生殖器、口、肛門から感染、皮膚や粘膜から侵入し[2][17]、進行によって血液内に進む。

米国における新規症例の感染経路は、男性同士の性行為が半数以上を占める。これ以外にも母子感染、輸血血液を介した感染もある[18]。母子感染の場合、子供は先天梅毒となる。血液製剤については、多くの国々で検査が行われるため、感染経路となるリスクは小さい。この病原体は体外に排出されると急速に死ぬことから、物を介した感染は難しく[19]、日常生活における、食器や衣類の共有、トイレの便座、入浴からの感染は不可能である[20]。

日本でも、2012年には男性同士の性交渉が原因と推測される感染例が最も多く報告されていた。しかし、2012~2016年にかけて、男女間の性交渉による感染が急激に増加した。この傾向は先進国においては報告されておらず、世界的には特殊である。男性は25~29歳、女性は20~24歳の感染者が多い。若い女性に感染が広がるのと同時に、「先天性梅毒」の赤ちゃんの出生も増加した[21]。

症状
症状は4段階で観察され[15]、先天性での発症も起こる。その多様な症例から、ウイリアム・オスラーから偽装の達人 ("the great imitator") と呼ばれた。例えば皮膚症状以外の症状として、「頭痛、脳腫瘍(の疑い)」「認知症」「飛蚊症・霧視」「ラムゼイ・ハント症候群(の疑い)」「難聴」「大動脈瘤破裂」「左側腹部痛」「胃潰瘍(の疑い)」「急性肝炎」「ネフローゼ」「悪性リンパ腫(の疑い)」などが報告されている[22][23]。

第1期と第2期が感染しやすく、感染後約1週間から13週間で発症する。現代においては先進国では、抗生物質の発達により、第3期、第4期に進行することはほとんどなく、死亡する例は稀である。第1期梅毒の最初の数週間は抗体発生前で、検査において陽性を示さない。また、第1期と第2期の症状が全く出ないこともあるので、注意が必要である。


腸管梅毒 Toreponema pallidum(IHC)
第1期
感染後3週間 - 3か月の状態。トレポネーマが侵入した部位(陰部、口唇部、口腔内)に塊(無痛性の硬結で膿を出すようになり、これを硬性下疳と言う)を生じる。塊はすぐ消えるが、稀に潰瘍となる。また、股の付け根の部分(鼠径部)のリンパ節が腫れ、これを横痃(おうげん)という。6週間を超えるとワッセルマン反応等の梅毒検査で陽性反応が出るようになる。
第2期
感染後3か月 - 3年の状態。全身のリンパ節が腫れる他に、発熱、倦怠感、関節痛などの症状がでる場合がある。
バラ疹と呼ばれる特徴的な全身性発疹が現れることがある。赤い目立つ発疹が手足の裏から全身に広がり、顔面にも現れる。特に手掌、足底に小さい紅斑が多発し、皮がめくれた場合は特徴的である。治療しなくても1か月で消失するが、抗生物質で治療しない限りトレポネーマは体内に残っている。

腸管梅毒(肛門部) Traponema pallidum(IHC)
潜伏期
前期潜伏期:第2期の症状が消えるとともに始まる。潜伏期が始まってからの2年から3年間は、第2期の症状を再発する場合がある。
後期潜伏期:不顕性感染の期間で数年から数十年経過する場合もあるが、この期間は感染力を持たない。
第3期
感染後3 - 10年の状態。皮膚や筋肉、骨などにゴムのような腫瘍(ゴム腫)が発生する。(医療の発達した現代では、このような症例をみることは稀である)
第4期
感染後10年以降の状態。多くの臓器に腫瘍が発生したり、脳、脊髄、神経を侵されて麻痺性痴呆、脊髄瘻を起こしたりして(脳(脊髄)梅毒、脳梅)、死亡する。現在は稀である。
日本の江戸時代に相当する遺跡からは、梅毒に罹患していた第3期以降の所見を持つ人骨が出土している。

ペニスの感染部位に現れた梅毒の一次下疳
ペニスの感染部位に現れた梅毒の一次下疳


第二期の典型例
第二期の典型例


第二期の症状により全身に現れた紅色丘疹、結節
第二期の症状により全身に現れた紅色丘疹、結節


第三期の患者の像(人類博物館収蔵)
第三期の患者の像(人類博物館収蔵)

初期梅毒の感染性
Schober PC(英国)らは、梅毒の感染性という論文で、初期の梅毒患者のパートナーを精査した[24]。ホモセクシュアルでは49%、ヘテロセクシュアルでは58%が感染していたという結論である。このYear Book の編集者は全員に感染しないのは、露出の程度が異なるからだろうとコメントした。
先天梅毒
母子感染由来の場合は先天梅毒と言われる[25][2]。

先天梅毒は、妊娠中胎盤を通じ、または出産時に産道を介して感染する症例である。感染した幼児の2⁄3は症状が現れない状態で産まれてくる。

早期先天梅毒の発生は生下時から生後3か月で、一般的に、肝臓、脾臓の増大、発疹、発熱、神経梅毒、肺炎といった症状が現れる。治療がなされない場合、鞍鼻変形、ヒグメナキス徴候、剣状脛、クラットン関節といわれる後期先天性梅毒の症状が現れる[1]。

予防
性感染症である梅毒は、性交や性交類似行為をしない(NO SEX)、不特定多数(その中に感染者が含まれている確率がゼロではないため)との性行為の自粛、またコンドームの着用により、病原菌の人体間の移動を阻止することで、感染を防ぐことが可能である(参考:セーファーセックス)。無論100%回避できるわけではなく、またキスによる感染、オーラルセックスでの感染は防ぐことができない。

検査
STS (Serologic test for syphilis)(ウシ脂質抗原を使う、ガラス板法、RPR、カード法、緒方法、定量法がある)と梅毒トレポネーマ抗原を使うもの(TPHA法、FTA-ABS法)の2種ある。
注意すべきことは、STSは治療後陰性化するが、TPHAは陰性化しない。感染直後はIgMを使うFTA-ABSが陽性になる。
STS陽性でも、生物学的偽陽性(他の疾患で陽性になる)があり、TPHA陽性でも治療が必要ない場合もあり、主治医によく判定を求めること。High responderもある。十分治療した場合、普通その後の治療は必要ない。
男性の場合は泌尿器科・性病科、皮膚科、女性の場合は産婦人科、皮膚科、性病科を受診。
患者に伝染させたと思われる人も、梅毒の検査とエイズの検査を受けるべきである。保健所であれば無料、かつ匿名で検査が行える。
治療
日本国外ではペニシリンGの筋肉内注射(筋注)単回投与が基本であるが、日本国内ではペニシリンGが副作用の懸念から使用中止されたため、原則使用できず、他のペニシリン系の抗菌薬を複数回投与して治療を行われてきた。2021年9月27日、神経梅毒以外の梅毒を適応症とした、ファイザーの持続性ペニシリン製剤、ベンジルペニシリンベンザチン水和物(商品名ステルイズ水性懸濁筋注60万単位シリンジ、同水性懸濁筋注240万単位シリンジ)が薬事承認[26]、11月27日に薬価収載され、2022年1月26日より販売が開始された[27]。

キノロン系抗菌薬は用いられない。投与期間は第1期で2 - 4週間、第2期では4 - 8週間、第3期以降は8 - 12週間[28][29]。ただし、ペニシリン系抗菌薬に対してアレルギーがあるなどといった理由で使用不能の場合などは、梅毒トレポネーマに対して静菌的に作用する抗菌薬ながら、テトラサイクリン系のミノサイクリンや、マクロライド系のアセチルスピラマイシンなどを使用する[30]。

ペニシリン耐性は無いとされているが、マクロライド耐性が報告されている[18][31]。胎児(母体)に対し、エリスロマイシンを使用した場合には、新生児は出産後改めて治療する必要がある。なお、感染してから1年以内の梅毒を治療した場合、治療初期に38度台の高熱が出ることがある(ヤーリッシュ・ヘルクスハイマー反応)。菌が一気に死滅するための反応熱であり、初回治療の場合は、病院でしばらく観察する必要がある。かつて、クロラムフェニコールが使用されたが、副作用が強いため現在では使用されない。

かつての療法
現在では使用されない治療法として、ヨードチンキ、水銀製剤、蒼鉛製剤などが存在した[32]。例えば16世紀のヨーロッパでは水銀蒸気の吸入や水銀軟膏の塗抹などによる水銀療法が用いられた。これにより多くの水銀中毒が出たため、水銀療法肯定派(mercurialist)と否定派の間での論争が行われた。

梅毒の水銀療法は清や日本でも行われ、日本では杉田玄白やシーボルトらが記載している。水銀療法によって水銀中毒となった者には土茯苓を服用させ、解毒を試みた[33][34]。

ヒ素剤であるサルバルサン[35]は1910年に発見され、副作用も強かったが「魔法の弾丸」ともてはやされて1940年代まで使われていた。

変わったものでは、高熱に弱い梅毒トレポネーマの性質を利用して、梅毒患者を意図的にマラリアに感染させて高熱を出させ、体内の梅毒トレポネーマの死滅を確認した後にキニーネを投与してマラリア原虫を死滅させるという荒っぽい療法も行われていた。この治療法はサルバルサンの効かない第4期患者にも有効であったため最後の手段として用いられ、発見者のユリウス・ワーグナー=ヤウレックは1927年のノーベル生理学・医学賞を受賞している。ただし、この療法も危険度が高いため、抗生物質が普及した現在では行われていない。

疫学

世界各国で梅毒によって失われた障害調整生命年数(2004年、10万人あたり)[36]。
no data
<35
35-70
70-105
105-140
140-175
175-210
210-245
245-280
280-315
315-350
350-500
>500
1948年以降は大きく減少していたが、1967年、1972年、1999年、2008年に小流行を起こした[7][37]。2010年までは500例から800例で(人口10万当たり発生率は0.4 - 0.6程度)推移していたが[38]、2012年以降は増加に転じ、2013年には1,226例[5]、2014年には1275例[39] が報告され、人口10万当たり発生率は 0.96 と上昇している。なお、様々な診療科で鑑別診断が行われず、梅毒患者が見逃されていることを指摘する医師もいる[22]。また、感染者の約8割は男性で、男性の人口10万当たり発生率は1.6である[5]。

欧州疾病予防管理センターが2019年7月にまとめた報告によると、欧州連合加盟国を中心に、31カ国における梅毒の報告数は、2017年時点で33,000人を超え、10年前との比較で7割増えた。アメリカ合衆国では、2001年頃に減少傾向が増加傾向に転じた[40]。2022年も増加傾向は止まっておらず、過去最悪ペースでの増加が報告された[41][42]。

日本
梅毒報告数の推移[6]
年度 男 女
2010年 497 124
2011年 650 177
2012年 692 183
2013年 993 235
2014年 1284 377
2015年 1930 760
2016年 3189 1386
2017年 3931 1895
2018年 4591 2416
2019年 4387 2255
2020年 3902 1965
2021年 5261 2717
2022年 7085 3658
日本における感染者は、2010年頃より増加している[7]。2015年は2014年を上回り、2017年には11月19日までの速報値で5,053人の感染者が国立感染症研究所により報告された。5,000人を超えるのは1973年以来44年ぶりであった[43][21]。2018年の患者報告数は6923人(暫定値)で、現行の集計方法が採用された1999年以降では最多となった[40]。結局、2018年の患者数は7007人となり、2019~2020年は減少したものの、2021年は7875人で過去最多を更新し、2022年には9月4日時点で昨年同時期の1.7倍となる8155人に達し[44]、診断例の激減で一時言われた「幽霊病」から通常の性病になってしまっている[45]。

増加の要因として、交流サイト(SNS)やマッチングアプリなどで不特定多数の人と出会って性行為をすることが感染拡大の一つの要因になっている可能性があるとの見方がある[46]。例えば、医師の鈴木陽介は、マッチングアプリの利用率が高い都道府県ほど、人口あたり梅毒の新規報告の割合が多い傾向があると報告した[47][48]。アプリの利用率が高い都道府県ほど、人口あたり梅毒の新規報告の割合が多い傾向が見られた[47]。鈴木によると、都道府県ごとのアプリ利用率と人口あたり梅毒報告数との間の相関係数は概ね0.7であり、正の相関が見られた。

1978年から1999年に東京都多摩地区で行われた健康な人を対象とした抗原検査結果によれば、45,614例中1,017例 (2.23%) が脂質抗原検査陽性で、このうちTPHA法、FTA-ABS法によるトレポネーマ抗体の検査陽性は、639例(1.40%)。陽性率はおおむね1から2%の間で推移し、梅毒の潜在的な感染例は減少していない。また、陽性例中の493例(約77%)は60歳以上であった[49]。

歴史
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出典検索?: "梅毒" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年9月)
ヨーロッパ
ヨーロッパにおける歴史については「梅毒の歴史」を参照

梅毒に罹患した患者に関する現存最古のメディカルイラストレーション(ウィーン、1498年)
梅毒が歴史上に突発的に現れたのは15世紀末であり、そのため本病の由来については諸説ある。

旧世界(ヨーロッパ、アジア、アフリカなど)に15世紀以前から存在していたとする説。古い法令に梅毒に関するものがあるなどとするが、本病による病変を示す人骨などの具体的資料は確認されず、支持者はほとんどいない。
旧世界に古くから症状が非常に軽い状態で存在したとする説。現在でも熱帯地方を中心に、皮膚に白斑が生じる程度の「ピンタ」、潰瘍を生じる「ヨーズ」など軽症のものがあるが、これらは梅毒トレポネーマにより起こることから、旧石器時代にピンタかヨーズが発生し、15世紀末にヨーロッパでトレポネーマに変異が起きて梅毒が生じたとする。
新世界からコロンブス交換でヨーロッパへ持ち込まれ、以後、世界に蔓延したとする説[50]。コロンブスの帰国から梅毒の初発までの期間が短いという難点があるが、アメリカ大陸でも古い原住民の骨に梅毒の症状が見られ、また日本でもコロンブス以前の人骨には梅毒による病変が全く見られないなど、最も有力な説とされている。
旧ソビエト連邦の学者により唱えられた説では、梅毒はアメリカ大陸起源ではあるが、ベーリング海峡を渡ってシベリア経由でヨーロッパに入ったとするものもある。ベーリング海峡を通して両地域の住民の交流があったためである。
1494年からのイタリア戦争で、フランス軍の傭兵にスペイン人がおり、そこからフランス軍がイタリアに進駐すると、ナポリで梅毒が流行し、フランス人は「ナポリ病」、イタリア人は「フランス病」と呼びあった。ルネサンス時代は戦乱に明け暮れていた時代でもあり、売春が隆盛をきわめていた[51]。

中国
1500年頃に流行した。『本草綱目』には「楊梅瘡」および「楊梅毒瘡」の名で現れ、「弘治・正徳の間に広まった」「近年、好淫の人は多くこの病気にかかる」「古くはこの病気はなかったが、嶺表(広東)から四方に広まった」などの記述が見られる[52]。

琉球王国
日本で流行する前に琉球王国、特にその花柳界で大流行した。琉球花柳界においては、梅毒患者のことを“ふるっちゅ”(古くからいる人)と呼び、古血(ふるじ)は梅毒を意味する言葉となった。

日本
日本では1512年に初めて文献記録上に登場している[53]。当時は大航海時代であり、コロンブスによるヨーロッパへの伝播から、わずか20年でほぼ地球を一周したことになる。

戦国時代から江戸時代初期の著名人では、加藤清正、結城秀康、前田利長、浅野幸長などが梅毒で死亡したとみられている。本病が性感染症であることは古くから経験的に知られ、徳川家康は遊女に接することを自ら戒めていた。江戸の一般庶民への梅毒感染率は実に50%であったとも推測される[54]。

抗生物質のない時代には確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害を抱えたまま苦しむ者も多かったが、ペニシリンなどの抗生物質が発見され、現在では早期に治療すれば全快する。

昔は鼻部の軟骨炎のために鞍鼻(あんび)や鼻の欠損になることがあり、夜鷹などには「鼻欠け」が多かったので、「鷹の名にお花お千代はきついこと」などと川柳に詠われた。“お花お千代”は“お鼻落ちよ”にかかっている。

同様の症状を呈するハンセン病と同一視されていた時期があり、ハンセン病を患ったダミアン神父は、梅毒と誤認されて姦通の嫌疑を受けた。

日本語の「梅毒」という呼称については、この病気によって生じる瘡が楊梅(ヤマモモ)の果実に似ていたため「楊梅瘡」と呼ばれていて、これが時代とともに変化したとする説がある。一方で江戸時代以降の文書を紐解くと、「楊梅瘡」から「梅毒」となった痕跡は全くない。1724年発行「黴瘡秘録」の中で「黴瘡」と「梅瘡」が併用され、1838年発行「驅梅要方」の中で「黴毒」と「梅毒」が併用された。バイキンを表す「黴(バイ)」の中国の簡体字「霉」の代用字が「梅」であり、「梅雨」が「黴雨・霉雨」由来であることと同じである。

日本が開国した幕末期、長崎の稲佐の地に丸山町と寄合町の遊女が出張して、ロシア人の船員達の相手を務めることになった。この際、ロシア帝国の海将ニコライ・ビリリョフは遊女の梅毒検査を行うことを要求した。長崎奉行岡部長常は長崎海軍伝習所の松本良順に対応を諮問し、良順はこれを受けるべきと回答した。これにより、万延元年(1860年)、日本初の梅毒検査が長崎で実施された。

近年になって感染者が増加傾向になり、2022年11月1日発表の速報値によると報告された梅毒の感染者数が史上初めて1万人を超えた[46]。

タスキギー実験
詳細は「タスキギー梅毒実験」を参照
タスキギー梅毒実験は、1932年から1972年にかけて、アメリカ合衆国アラバマ州タスキギーで黒人梅毒患者を対象に行われた人体実験である。600人の被験者が参加しており、うち梅毒に感染していた約400人は、治療されないまま経過観察と死後の解剖の対象となった。この実験は、1941年にペニシリンの有効性が確認されて以降も継続された[55][56]。被験者の多くは教育水準の低い貧しい小作人であり[57]、温かい昼食や移動費、埋葬費用などの見返りにより集められていた。

1972年に実験の存在が発覚すると、人権を無視した人体実験であるとして、連邦議会に調査委員会が設置された[58]。この時設置された「タスキーギ梅毒研究特別委員会」は、1973年の最終報告書において、この実験は「反倫理的で正当化できない行為」であるとしている[59]。

その後、1997年5月16日、当時の大統領であるビル・クリントンより、「非人間的で残酷極まりない間違った行動」であったと正式に謝罪がなされた[60]。

関連法規
感染症法における取り扱い
五類感染症全数把握疾患
保健所に届け出が必要である
梅毒に罹患した歴史上の人物
近代医学による確定診断をしていない人物を含んでいる[61]。

生月鯨太左衛門
大川周明
フランツ・シューベルト
ロベルト・シューマン
フリードリヒ・ニーチェ
ベドルジハ・スメタナ
エドゥアール・マネ
フーゴ・ヴォルフ(これには反対意見がある)
フレデリック・ディーリアス
アル・カポネ
モーリス・ガムラン
ランドルフ・チャーチル
ギ・ド・モーパッサン
ローレンス・オリファント
美幾:日本で最初の献体者(篤志解剖)
シャルル・ボードレール
「Category:梅毒に罹患した人物」も参照
関連作品
ヴォルテール『カンディード』
楽天主義のパングロス博士が梅毒に罹って片目片耳を失い、「個々の不幸が多ければ多いほど、すべては善」という。
芥川龍之介『南京の基督』
梅毒を発症した娼婦が主人公で、「他人に感染させれば自分は治る」という迷信が主人公の行動に影響を与える。
黒澤明『静かなる決闘』
菊田一夫の戯曲『堕胎医』が原作。主人公の医師が、大戦中に野戦病院での執刀中の怪我にて梅毒に感染するところから物語が始まる。

縁切寺・長谷寺・性感染症・梅毒

縁切寺・長谷寺・性感染症・梅毒

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-06-07

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