字融落下 ―Sweet Home Catacombs―
父は定年退職後、我が家の地下蔵を改築し始めた。
――それが一年と三ヶ月前のことである。
当時の私は、父の奇行とも呼べる改築の行く末が気にはなるものの、それが最終的に何になるのか改まって訊ねることはしなかった。というのも、ことさら仲が良い訳でもない父と娘のありきたりな家庭である。家族の会話というのも疎遠であったからだ。
なにより、丁度その時期に私は社宅へ移る予定が重なっていた。
あまりにも長い通勤時間に辟易した私は一大決心。膝下スカートと共に過ごした三年間に別れを告げて、密かに憧れていた一人暮らしに浮き足立っていたのだ。はっきり言ってしまえば、父の行動は意識の外だった。
今思えば、父は私が居なくなるからこそ今回行動に踏み切ったのかもしれない。果たしてあの埃っぽい地下蔵をどうするつもりなのかはわからないが、父一人、自由にやりたいことがあるならそれに越したことはないだろう。
私が物心つくより前に、既に母は他界していた。男手一つ、仕事一辺倒で口下手な父には新たな伴侶は望み薄。一人の余生を送る上で趣味が必要だった。
そう、趣味。
定年退職した男がその後の時間を『第二の人生』と呼び、謳歌する正にそれだ。例に漏れず父もその第二の人生とやらを踏み出したのだと思い、やや他人事ながらも喜ばしい事だと思っていた……それが一年と三ヶ月前のことである。
「……まさかホームシアターになるなんてねぇ」と、私。
久しぶりに帰って来てみれば、元地下蔵は立派な箱になっていた。四方に備え付けられた棚は記録媒体が瀟洒に並び、間取りを分けた後ろ側には父の秘蔵の酒が寝かせてある。
「いいだろう? お父さん頑張ってみたんだ」父ははにかむように鼻を掻いて、少年のように笑った。
「何か観ていい?」
「ああ」
私は起毛の柔らかなソファから立ち上がると、スリッパでパタパタと棚の方を眺める。
てっきり名作映画が並んでいるのかと思ったら、どうやら違うらしい。
DVDのカバーは簡素なもので統一されており、それぞれ父の直筆でタイトルが書かれている。
『母:2117.12.24』
「これって――」私は父に問いかけた。
父は二つのグラスに褐色の液体を注ぐと、片方を私に手渡して、交換するようにディスクを受け取る。
「母さんの映像だな。19年前のクリスマスだ」
「全部そうなの?」
棚から他のものを抜き取ってタイトルを眺める。油性ペンで書かれたそれは日付はそれぞれ異なっていた。母:2117.04.28……母:2117.06.08……
「余命宣告をされてから、母さんが言ったんだ。『娘に私の事を忘れないような、何かを残したい』って。
俺は、ほら、口下手だから、カメラを買えば、映像を残せば、写真よりいいって思ったんだ」
そう言ってディスクを取り出すと、私に「観るか?」と問う。
私は頷いた。
映写機から投影される映像に、私と父はソファに並んで座り込み、何も言わずに眺めた。
映し出されるのは編集のされていない母の生前の姿。白い病室で慣れない笑みを浮かべて、たどたどしく語りかける。あなたの母です……
「ここはな――」父がスクリーンから目を離す事なく言う。「母さんだけじゃない。家族の記録で埋め尽くしたいんだ。この時代に仏壇なんて堅苦しいだろう?」
「そう、だね」私は頷く。
確かに、仏壇は以前からあった。
私は母というものがわからないまま、いつのまにか手を合わせることはなくなっていたのだ。
「だから、ここは思い出でいっぱいにしたい。俺もな、ここを改築した時の映像を残したんだ。そしてお前の小学校の運動会の映像だってある。初めて歯が抜けたときのも」
「えー恥ずかしい」私は笑みをグラスに隠して、酒を舐める。「でも、いいね。それ」
ここに眠るのは遺灰じゃない。
とても暖かな地下共同墓地だ。
字融落下 ―Sweet Home Catacombs―
私が書き遺して、私が読み解く。
――溶け出した行間。空想の中に落ちてゆく――。
そして私に伝える。きっと、もうすぐ。