失恋の始め方

「姉ちゃん、また振られたの?」

 不倫中の「私」から血の繋がらない「弟」へと向けられる、親愛、羨望、侮蔑、嫉妬……そして「弟」から「姉」へと向けられるほんとうの気持ちとは。家族と他人の中間に居る二人のお話。

 土曜の午後にインターホンが鳴る。嫌味なほどに澄んだ電子音が数回「ピンポーン」と鳴り、私の耳、目、そして頭の順にゆり起こしていく。連日の残業で鉛のように重くなった体をやっとのことで立ち上げて、のそのそと玄関へ向かいながら思い起こしてみても、当然来客の予定なんて無い。そもそもこの部屋に誰かを招くことなど無いのだ。心当たりは、一人しか居ない。
「姉ちゃん、また振られたの?」
 開口一番失礼極まりない言葉を放つこの男は、私の父が再婚した女性の連れ子で、本人は高校生になった今もその事実を知らない。九つ離れた私を「本当の」姉と信じて疑わず、こうやって無遠慮に私のテリトリーへと入ってくる。実家よりも一人暮らしの姉の家に入り浸り、時には「姉ちゃんちに居る」というアリバイを詐称して友達と遊び歩いているのだ。しかし一方では、シンクに放置された食器を洗ったり季節限定のスイーツを買ってくるなど、さり気ない気の回し方も心得ている。そうなれば自ずと周りの人たちから可愛がられるわけだが、そんな弟を私はこれまで何度羨んだことだろう。
「大人の恋愛にはね、色々あんのよ」
「色んな人と付き合ったり別れたりしてるんだから、そりゃ()()あるよね」
「あんた、日に日に口が悪くなってない?」
「姉ちゃんはタバコの本数が増えてる。いい加減禁煙しなよ」
 寝起きの一服を味わう私に向かって心の底から鬱陶しいとでも言いたげな表情で煙を払うその手も、今ではもう立派な男性だ。たどたどしく「ねーねー」と呼ばれていた日々が嘘のように、弟はあっという間に私の身長を追い越した。身体の成長と同時に人として何か大事な部分も追い越されているような気持ちになって、私はゴツゴツした手の甲から目を逸らす。
 弟みたいな人間に生まれたかった。譲り受けた遺伝子が違うのだから仕方がないと諦めるのは、口で言うよりもずっと難しい。
 私は器用なタイプではない。一生懸命やっているつもりが、周りから見ればその必死さに顰蹙(ひんしゅく)を買い、ちょっとひと休みをすればサボりと責められる。いつもと違う服を着れば似合わないと言われ、いつも同じ服を着ていればダサいと言われる。私が生きる世界の中で、正解のストライクゾーンはあまりにも狭い。まるで正解を手にする権利がはじめから限られているみたいだ。

 世間から「不倫」と呼ばれる恋をして、もうすぐ二年になる。
 始まりは社内研修だった。
 彼は女子社員から人気がある方ではない。白髪が目立ち始めている頭、度の強そうな眼鏡と、その奥の神経質な眼差し……だがパッとしない外見とは裏腹に、的確な説明のおかげで私はどんどん新しい業務を覚えていった。同じ職場の先輩後輩としてのやり取りから、少しずつ仕事以外の話題で言葉を交わすようになり、指輪をしていない彼の口から「妻が……」という台詞がこぼれたとき、落胆と同時に、私は自分が恋をしていると知った。
 自分が妻のある人との恋愛に溺れるだなんて思っていなかった。しかし同時に、私にはこういう恋愛しか出来ないのだろうとも思っている。みっともなくて、どうしようもなくて、幸せになれない恋愛。
「どうせならもっとマシな人にしなよ」
「マシってどんなよ」
「お金貸してとか言わない人」
 大真面目な声に思わず吹き出すと、弟は怪訝そうに私の顔を覗きこんだ。この子は私の不倫に気づいていない。何度も彼と別れ話をして、でも別れられなくて安堵と疲弊を繰り返す度、この子の中で私は失恋したことになっている。私に何かあったと察するだけの勘の良さはあっても、真相にたどり着くほど深くは思考していない。無理も無いだろう。自分の出自すら知らないのだから。
「なんで笑うんだよ。俺なら絶対好きな人に金貸してとか言わない」
「別にお金のトラブルで別れたわけじゃないよ」
「えっ、じゃあもっとヤバイやつ? 暴力とか?」
「なんで別れる理由がいちいち物騒なのよ」
 いくら身体が大人になっても、中身は「恋の何たるか」を知らない十代の男の子に過ぎない。その無邪気さに救われることもあれば、傷をえぐられる激痛に身悶えることもある。ギリギリでそれに耐えていられるのは、この子が私の「弟」で、私がこの子の「姉」だからだ。

「俺、好きな人がいるんだ」
 弟が突然自分の恋愛の話をし始めたのは、もう何度目かわからない別れ話の末、ここ数回でいちばん本当の失恋に近づいたであろう、冬の終わりのことだった。冷たい風が吹く週末に、弟は私の好きなプリンを持ってやって来た。
「どんな人なの?」
 プリンを食べながら弟の恋バナを聞く。自分の恋愛がうまくいっていないときに、他人の恋の話を、まして恋の始まりの話をするほど、しんどいものはない。
「うーん……内緒」
「内緒ねえ……何でもいいけど、それならこんなとこに居ないで、その子と遊んで来たらいいじゃない」
 やんわりと拒絶を込めたつもりの言葉も、この子には通じていないようだった。パクパクと美味しそうにプリンを口に運びながら、弟は言った。
「いいんだよ、今はこれで」
「何よそれ」
「十八になったら告白する。だからいいんだ。今はこれで」
 ふとこちらを見やる弟と、しっかり目が合った。長いまつ毛に縁取られた瞳はこんなに美しかっただろうか。数ヶ月後、この瞳を独り占めする誰かが現れるらしい。私は羨ましいと思った。未来が輝かしいと信じて疑わない物言いも、美しい目をした男に選ばれる人も。
「お祝いしなくちゃね」
「何の?」
「あんたの誕生日。告白するんでしょ? 壮行会みたいなもんよ」
「じゃあ、姉ちゃんのお祝いもしようよ」
「何の?」
「ダメ男と別れた記念」
「ちょっと、勝手に別れさせないでよ」
 デコピンのひとつでも食らわせてやろうと出した手を、弟の手が掴んだ。抵抗を試みたがびくともしない。ああそうだ。もう力ではこの子に敵わないんだ。諦めにも似た気持ちで弟の顔に目をやると、きれいな瞳が遠慮がちにこちらを見つめていた。
 やけに優しい動作で、弟は私の手を放す。一瞬触れた肌の感触に気を取られていると、弟は言った。
「俺、早生まれだからさ。毎年『やっと誕生日だー』って、思うんだよね」
 残りのプリンを美味しそうに食べる横顔は、紛れもなく私の弟だ。その弟が弟以外の生き物になっていく予感がして、なぜだか堪らなく怖かった。

 違和感なら、いくらでもあった。
 最初は小学生のとき。宿題で自分の家族について作文を書くことになり、母さんと二人でアルバムを眺めながらあれこれネタを考えていたら気が付いたんだ。俺と姉ちゃんが一緒に写ってる写真が全然無いってことに。
 あの子は恥ずかしがりだから、と言う母さんの横顔にうっすら苛立ちの影が浮かんだのは、見間違いじゃないだろう。その影の正体は、毎日せっせとクリームを塗る頬に広がる、シミやそばかすとも違っていたはずだ。
 俺は姉ちゃんが好きだった。お菓子を分けてくれたり勉強を教えてくれたりする歳の離れた「お姉ちゃん」は、俺の自慢でもあった。なんとなく母さんはそれを良しとしていない感じがしたけど、そんなことはどうだっていい。歳が離れていても、俺にも母さんにも全然似ていなくても、姉ちゃんは姉ちゃんだ。
 高校を卒業してすぐ、姉ちゃんは一人暮らしを始めた。大学は家から通えない距離ではなかったものの、自分のことは自分で出来るようになりたいからと言って実家を出た。引っ越しの日、姉ちゃんも母さんもほっとした様子だったのを覚えている。
「大ちゃんの失恋はそこから始まったんだよねー」
 しなびたポテトを口に運びながらユカが言った。由香子という名前はダサくて嫌だからと、友人に自分をユカと呼ばせるばかりか、一人称までユカで統一している。姉ちゃんなら、自分を自分の名前で呼ぶようなことは絶対にしないし、俺もそんな女は好みじゃない。
「勝手に失恋させるな。そもそも失恋が始まるって何だよ。お前の日本語終わってんな」
「あは。マジだ。うける」
 夕方のファストフード店は、俺たちみたいに暇を持て余した若者であふれている。友達同士、恋人同士、その他名前のつかない関係の者同士……馬鹿でかい声で馬鹿みたいに騒いでいる間だけ、忘れていられることもある。
「あ、そーだ」
 指先の油を紙ナプキンで雑に拭き取ると、ユカは自分の財布から紙切れを一枚こちらに寄越した。
「コンビニの新作スイーツのクーポン。今日もお姉ちゃんち行くんでしょ? 使っていいよ。ユカ優しいから」
 きっちり角を合わせて折られた紙を広げると、そこには対象商品割引の文字が記されていた。
「遠慮なく貰っとく。お前今日はこの後どーすんの?」
「今日は『仕入れ』だよ」
「えっ、もう?」
「そーだよー。こないだ買ったパンツ、あっという間に売りさばいちゃった。ユカ、絶対ビジネスの才能あるもん」
 ユカは使用済みの下着を売って小金を稼いでいる。なんでも「女は強かであれ」という母親の教えを守っているのだそうだ。父親に性的ないたずらをされたと訴える娘にそんなアドバイスをする女はどうかしていると思うが、ユカはその強かさで自分の尊厳を守っているのだと思うと、俺に何か言う権利なんて無いとも思う。

 平日の夜にインターホンを押すと、怒っているような困っているような顔をして、姉ちゃんはドアを開ける。実際に小言を言われることもあるし、意外とあっさり部屋に入れてくれることもある。前者は恋愛が上手くいっているとき、後者はその逆だ。
「家には寄ってないの?」
 それだけ言って、姉ちゃんはドアノブを俺に託した。今日は失恋モードらしい。
「姉ちゃん、また振られたの?」
「うるさいわね。そういうあんたは家にも帰らず何してたのよ、この不良少年」
「ポテト食いながら友達とだべってた」
「その友達って女の子?」
「そうだけど」
「彼女じゃん」
「彼女じゃねーよ」
 このやりとりの間に俺は買ってきたスイーツを手渡し、姉ちゃんはそれを確認してコーヒーを淹れる。本当はまだ美味しさがわからない苦い液体を、姉ちゃんの隣で時間をかけて飲み干すのが、今の俺に出来る精いっぱいだ。
「今度は何で別れたの?」
「あんたに関係ないでしょ。色々よ、い・ろ・い・ろ」
 コーヒーカップに姉ちゃんの唇が触れる。それに触れたくて仕方がない俺と、その唇をあっけなく手放す男とで、一体何が違うというのだろう。
 ユカが言っていた通り、姉ちゃんと離れ離れになったという意味では、俺の失恋は姉ちゃんの一人暮らしから始まっているのかもしれない。だけど、姉ちゃんに対する「好き」の意味が本当に変わったのは、俺が初めて姉ちゃんの失恋に気づいたときだった。
「友達の家に泊まりに行く」
 両親に嘘をついて、俺は初めて一人で姉ちゃんの家に行った。中三の夏だった。

ユカ

 男は利用するもの。それがママの教え。だけど一人だけ、どうしても利用出来ない男が居る。それが大ちゃんだ。
 大ちゃんはあたしに何も求めない。他の男たちは、あたしが一日履いたパンツとか、パンツを脱いだその先とか、色んなことを求めてくる。求められるのは悪くない。こっちもそれなりに求めることが出来るから。これがジュヨーとキョーキューってやつでしょ?
「大ちゃんさあ、お姉ちゃんのこと好きなんじゃん」
 あたしがこう言ったとき、大ちゃんは真っすぐあたしの目を見て「そうだよ」って言った。その目があんまりきれいだったから、あたし羨ましくなっちゃった。大ちゃんに見つめられるなんて、幸せだろうなあ、って。だけど、自分のお姉ちゃんが好きだなんて、そんな永遠にキョーキューされないジュヨーを持ち続けて、大ちゃんはどうするつもりなんだろう。ジュヨーが大きくなりすぎると、カカクも高くなりすぎて、最後にはバランスが崩れちゃう。あたしは大ちゃんが壊れるのを見たくない。大ちゃんが心配なだけ……でも本当にそうかな。あたしのジュヨーが大きくなってるだけじゃないのかな。
「誕生日プレゼント、何がいい?」
 いらないって言われるのをわかってて、こんなことを聞いたりする。お財布の中はいつもぐちゃぐちゃなのに、大ちゃんに渡すクーポンだけはきれいに畳んでしまう。最近になって、ママの教えの本当の意味がわかったような気がするんだ。利用している限りは好きになったりしないし、好きにならない限りは傷つくこともない。失恋が始まることもないのだから。

「ほんとになんにもいらないの?」
「いらないよ。お前が稼いだ金なんだからお前の好きに使えって」
「ユカが大ちゃんのために使いたいって言ってるのにいー」
 三月に入って、大ちゃんはそわそわしている。誕生日が近いから。十八歳は、勝負の歳だから。
「ユカがプレゼントになってあげよっか?」
「はあ?」
「一日だけ、ユカのこと好きにしていいよっ」
「何言ってんの?」
「お得だと思うけどなあ。お金払わなくてもユカとえっちでき……」
「やめろよ」
 お姉ちゃんが好きだと言ったときと同じきれいな目が、あたしを責める。その目に見つめられて、息が出来ないくらい苦しいのに、あたしは嬉しいと思ってしまう。
「うまくいくと思ってるの?」
「なにが」
「告るんでしょ、お姉ちゃんに」
 大ちゃんは、何かを察したみたいにあたしから目を逸らすと、窓の外を見た。外は雪が降ってて、店の中は暖かい。油臭い窓ガラスには結露がびっしりついてる。思えば、このハンバーガーショップ以外の場所で大ちゃんに会うことは無かった。あたしと大ちゃんの間にあるのは、いつも冷えたポテトだけ。
「何が言いたいんだよ」
 大ちゃんは、もうこっちを見るつもりが無いみたいに、面倒くさそうに言った。あたしのジュヨーが満たされることはない。大ちゃんはあたし相手に何ひとつキョーキューするつもりが無かったんだ。そんなのは最初からわかってたけど、それでも黙ってはいられない。あたしは強かな女なんだから。
「普通に考えてさ、うまくいくわけないじゃん。だいたいさあ、お姉ちゃんは大ちゃんが何も知らないと思ってるわけだよね? そんなんでいきなり好きとか言われてもさあ、キモいだけじゃない?」
 自分史上いちばん性格悪い声が出る。強さと強がりの違いが、あたしにはまだよくわからない。
「これ、返す」
 隣のテーブルの客が二回入れ替わった頃、大ちゃんはあたしに向かって紙切れを放り投げた。きっちり角を合わせて折られたクーポン券。使用期限は今日までだった。
 あたしがそれを受け取ったかどうかも確かめないで、大ちゃんは席を立った。これから、いちばん好きな人に会いに行くんだろう。街の中に大ちゃんの背中が消えるのを待って、あたしは食べかけのポテトと一緒にクーポンをゴミ箱に捨てた。ママの教えを呟きながら。
「男は利用するもの。利用できない男は、こっちから捨てるだけ」

失恋の始め方

失恋の始め方

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-06-06

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  1. ユカ