「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と呼ばれた高度成長時代の終焉と少子化の
「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と呼ばれた高度成長時代の終焉と少子化の始まりは何れも79年、及び63年金曜ケネディー暗殺の謎と迫り来る人類の終焉
(本日も時間が無いので貼り付けに。『ウィキペディア(Wikipedia)』)
高度経済成長期時代
高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)または、高度成長(こうどせいちょう)、高成長(こうせいちょう)とは、飛躍的に経済規模が継続して拡大することである。日本においては、実質経済成長率が年平均で10%前後を記録した1955年頃から1973年頃までを高度経済成長期と呼び[1]、戦後の焼け野原の何もない場所から熾烈な勢いの電撃的制覇により基盤を築いた点で、孫策の江東平定に隠喩されることがある。
日本の実質GDP成長率の推移
日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年(昭和29年)12月(日本民主党の第1次鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次田中角栄内閣)までの約19年間である[注釈 1]。この間には「神武景気」や「数量景気」、「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造ブーム」と呼ばれる好景気が立て続けに発生した。
1968年には国内の郵便番号制度とユーロクリアができて、それから手形交換制度のオンライン化が急速に進んだ。また、第一次世界大戦における勝利以降、日本がイギリスやアメリカなどと並んで「五大国」の一国に数えられていた昭和前期の日中戦争の前後から、第二次世界大戦後期において連合国軍による日本本土への空襲が激しくなり工業生産に影響が出てくる1944年前後までの期間も、軍需に支えられた統制経済下にあるとはいえ経済成長率自体は高度成長期に匹敵する。
経緯
日本の石炭・金属関連産業は、1960年代に年率25%の成長率を示した。写真は千葉県の君津製鐵所。
1964年10月に運行開始した東海道新幹線・0系電車
1958年に竣工した東京タワー
大阪万博(1970年)
敗戦からの復興(1946~1956年)
第二次世界大戦において、イギリス・アメリカ・中国・オランダの連合国に敗北し、朝鮮半島や台湾などの領地を喪失した上に、敗北と占領下による経済活動の荒廃や混乱を経た上でも、日本は敗北から急速に復興した。
1940年代後半に発生した食糧危機の影響により経済状況が一時悪化するが、1950年の朝鮮戦争特需により、占領下を脱して1年半の1953年後半ごろには戦前の最高水準を上回った。1956年10月には戦後11年で経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言。
高度経済成長黎明期(1957~1960年)
1957年から1973年の16年間は、年平均10%以上の経済成長を達成した。エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。戦後解体された財閥が、株式を持ち合いながら銀行を事実上の核とする形態で再生し、旧財閥系企業が立ち直ったのもこのころだと言われる。
この経済成長の要因は、高い教育水準を背景に金の卵と呼ばれた良質で安い労働力、第二次世界大戦前より軍需生産のために官民一体となり発達した技術力、余剰農業労働力や炭鉱離職者の活用、高い貯蓄率(投資の源泉)、輸出に有利な円安相場(固定相場制1ドル=360円)、消費意欲の拡大、安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画、政府の設備投資促進策による工業用地などの造成が挙げられる。
また、戦後首相の座についた吉田茂が行った、『憲法9条の下で本格的な再軍備を慎重に避けながら、日米安全保障条約に日本の安全を委ねることで、自国の経済成長を優先させる方針』についても、上記の要因の一つとして考えられる。
[注釈 2][2]
所得倍増計画で東京オリンピックへ(1961~1964年)
1960年、池田勇人内閣は、翌1961年4月からの10年間で国民総生産(GNP)を2倍以上に引き上げ、西欧諸国並みの生活水準と完全雇用の実現を目標とする「所得倍増計画」を発表した[3]。
所得倍増計画は1964年秋に開催される東京オリンピックへの特需を迎えた。
名神高速道路(1963年7月開業)や東海道新幹線(1964年10月開業)といった大都市間の高速交通網、首都高速道路や阪神高速道路も整備され、都内では東京都交通局の地下鉄1号線(現・都営地下鉄浅草線)、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄〈東京メトロ〉)の日比谷線といった地下鉄新線の整備が進められた。
第二次大戦終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と言われた。この驚異的な経済成長への憧憬や敬意から、日本を手本とする国が現れ始める(マレーシアにおけるルックイースト政策など)。
現在では、「戦後#第二次世界大戦後」の代名詞として1960年代の映像資料が使われる事が多い。
この時代、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種類の家電製品は「三種の神器」と呼ばれ、急速に家庭に普及していった。これら便利な家庭製品の普及は生活時間の配分にも大きな影響を与え、女性の社会進出を促すことになった。この当時の風潮としては「大きいことは良いことだ」が流行語となり、「巨人・大鵬・卵焼き」に象徴される。「東洋の奇跡」と言う言葉が使われ始めた頃は日本人独特の「勤勉」「個より集団を重んじる(=和の文化)」等が要因として挙げられた時期もあった。
昭和40年証券不況(1965年)
詳細は「証券不況」を参照
順調な経済成長は同時に証券市場の成長も促し、投資信託の残高は1961年に4年前の約10倍となる1兆円を突破した。この勢いは、当時、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というフレーズが流行るほどだった。
しかし、1964年頃から経済は急速に縮小し事態は一変した。1964年にサンウェーブと日本特殊鋼(現大同特殊鋼)が倒産、1965年には山陽特殊製鋼倒産事件が発生した[注釈 3]。さらに大手証券会社各社が軒並み赤字に陥った。一方個人消費は旺盛であり、主に個人消費者を対象とする製造業や流通業、サービス業はこの不況の影響をほとんど受けなかった。
こうした事態を受け、不況拡大を防ぐために政府は、1965年5月に山一證券への日銀特融、7月には戦後初である赤字国債の発行を決めた。結果、当時の政財界の関係者が危惧していた昭和恐慌の再来を未然に防ぎ、高度経済成長を持続していくこととなる。
いざなぎ景気で大阪万博へ(1966~1970年)
1965年10月からいざなぎ景気が始まり、1966年から再び年10%以上の成長期となった。
1967年10月には所得倍増計画を達成。
1968年には日本の国民総生産(GNP)が、同じく敗戦国の西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となった。
終戦25周年記念として大阪万国博覧会が大阪府吹田市で1970年3月から半年間開催されることになり、いざなぎ景気は大阪万博への特需を迎えた。
大阪万博特需として、大阪中央環状線開通(1968年3月)、東名高速道路開通(1969年5月)、大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro)の新線整備等が行われた。
日本が債権国となった1960年代後半には、外国人の日本株投資が活発化した。このころ株式投資基準が配当利回りから、株価を1株あたり純利益で割った値(PER)へ移行していった。外資に乗っ取られないよう金融機関をはじめ国内企業間で積極的に株式持ち合いをした結果、1973年度末の法人持株比率は66.9%にも達した[4]。
石油危機と高度経済成長の終わり(1971~1973)
1971年8月のニクソン・ショック(ドル・ショック)による実質的な円の切り上げ、変動相場制移行は国際収支の過度な黒字を修正して経済の安定に寄与した。
1972年は3月に山陽新幹線岡山開業、5月に沖縄復帰を実現した。
1973年10月の第四次中東戦争をきっかけに原油価格が上昇し、日本はオイルショック(第1次オイルショック)に陥った。政府はインフレを抑制するために公定歩合を9%にまで引き上げた。
安定成長期(1974~1991)
1974年1月に第二次世界大戦後初めて実質マイナス成長を経験し高度経済成長時代は終焉を迎えた。この頃から財政政策による景気回復が主張されるようになった。
その後は安定成長期(1973年12月よりバブル経済崩壊の1991年4月まで)[注釈 4]へと移行する。安定成長期には、それまでの鉄鋼・造船などの重厚長大産業から半導体やコンピュータなどの軽薄短小産業への転換が進んだ[5]。
また、第二次ベビーブームが終わり第2次オイルショックが発生した1979年以後の日本は少子化の道を歩むこととなった[6]。
1985年のプラザ合意を起点とする円高不況、そして1980年代後半から1990年代初頭のバブル景気となった。
失われた30年(1992年以降)
バブル景気の崩壊を経て、平成期の日本は失われた10年(20年・30年)とも呼ばれる低成長期に入ることとなる。
環境問題
経済成長の陰で急速な工業化に伴い環境破壊が起こり「水俣病」や「イタイイタイ病」、「四日市ぜんそく」「第二水俣病」といった四大公害病の発生、大量生産の裏返しとしてのゴミ問題などの公害の問題が高度経済成長期後半になると深刻化した。[7]
また、都市への人口集中による過密問題の発生と地方からの人口流出による過疎問題が発生した。高度経済成長時代も後半はその政策の見直しを迫られ、1967年の佐藤栄作内閣による公害対策基本法の制定や1971年の環境庁の発足、1972年の田中角栄による『日本列島改造論』の提唱につながることになる。
高度成長期には、近代的なインフラが集中的に建設されたため、2020年代以降、一斉に寿命を迎えて利用に支障を来すなど社会問題化することが予見されている[8]。このため政府は、2013年より「インフラ長寿命化基本計画」を立案して対策に乗り出している[9]。
ケネディ大統領暗殺事件(ケネディだいとうりょうあんさつじけん、英: Assassination of John F. Kennedy)は、1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中の現職の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがダラス市内をパレード中に銃撃され、死亡した暗殺事件である。
概要
1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中のジョン・F・ケネディがダラス市内をパレード中に銃撃され死亡した。約1時間後に逮捕され犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは2日後にダラス警察署でジャック・ルビーに銃撃されて[1]死亡し、法廷に立つことはなかった。
また、翌年に出されたウォーレン委員会の公式調査報告は事件をオズワルドの単独犯行として大統領は後方から撃たれたと結論づけた。しかしこの調査報告に対して数々の疑惑と反証になるライフル銃の軌道や周囲の状況証拠や証言が出るなど長年にわたって真相についての議論が続き、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な銃撃による現職大統領の死、犯人がすぐに殺害される意外な展開、その後に暗殺の動機も背後関係もわからず多くの謎を残したまま捜査が終了したことから数々の陰謀説が出て、事件から半世紀が過ぎてもなお論議の的となっている。
事件概要
事件はこの日に遊説のためテキサス州ダラス市に到着したケネディ大統領夫妻がテキサス州のコナリー知事夫妻の案内で、空港からリムジンに同乗して市内をパレードしていた最中に突然3発の銃弾が撃ち込まれたことで起こった。
テキサス遊説の背景
ケネディ大統領が1963年11月下旬のこの時期にテキサス州を遊説することにしたのは、以下の3つの理由からであった。
翌1964年11月の大統領選挙に向けて民主党選挙戦資金の寄付を求めるため。
その大統領選挙での再選へ向けての選挙活動の開始。南部諸州は以前は「民主党の金城湯池」と言われる牙城であったが、前年とこの年の夏にアフリカ系住民に対する人種差別について強硬な姿勢を取ったケネディに対する反感が渦巻き、翌年の大統領選挙で共和党から立候補が確実視されていた超保守派のゴールドウォーター[注釈 1] に南部諸州の全てで敗北するとの予想が秋頃から民主党にはあった。そこで南部の中で唯一民主党が勝利する可能性があるのがテキサス州であった。選挙人数も南部で最大の州であり、ジョンソン副大統領の地元でもあり、最初のテコ入れをテキサス州にして、最低でもテキサスだけは確保するつもりであった[注釈 2]。
前回1960年の大統領選挙では、ジョンソンの地元であるのにケネディ-ジョンソン組がテキサス州では辛うじて勝っただけで(ダラスでは共和党に敗北した)、しかもテキサス州の民主党内では、保守的なコナリー知事と、ケネディと親しいヤーボロー上院議員が対立しており、このテキサスの民主党有力メンバーとの関係を修復させる狙いもあった。
行程は11月21日(木)にホワイトハウスを発ち、大統領専用機でテキサス州サンアントニオ[2]からヒューストンを経て、深夜にフォートワースに到着し、翌11月22日金曜日の朝にフォートワースからダラス、最後はオースティンへ行き、そしてオースティン西方のジョンソン牧場でジョンソン副大統領夫妻と週末を過ごす予定であった。
バブルトップルーフ不使用
ダラス到着後「ダラス・トレードセンター」で昼食会と大統領のスピーチが予定されていたために、1961年式のリンカーン・コンチネンタルをオープントップに改造したリムジンでの市内パレードは、ダラス・ラブフィールド空港からダラス市内を通って、ディーリー・プラザを含むダウンタウンを通過してダラス・トレードセンターに向かう計画であった。
佐々淳行氏は、「ダラス市内でのパレード計画が出された際に、ダラス市警とシークレットサービスから透明の防弾ルーフの使用依頼がケネディ陣営に出されたが、ケネディ陣営からは「そのつもりはない」として拒否されている[3]。この際に防弾ルーフの使用を許可していたら、この後の運命は大きく変わることとなった。」旨の記述を行ったが、これは誤りである。彼はウォーレン委員会報告書を全く読んでいないと思われる。
ウォーレン委員会報告書の2ページ目に、「この当時のバブルトップとは、雨を防ぐためだけのプラスチック製シールド」と記載がある[4]。11月22日の午前中、ダラスは雨の心配もなく晴れ渡ったので、雨を防ぐバブルトップの必要がなかった。
ダラス到着
ダラス・ラブフィールド空港に到着した大統領夫妻(1963年11月22日11時40分)
1963年11月22日金曜日の朝にフォートワースでの朝食会に出席して[注釈 3]、終了後大統領専用機でケネディ大統領夫妻はダラスに向かった。現地時間11時40分にダラス・ラブフィールド空港に到着した。
11時50分にケネディ大統領夫妻とコナリー知事夫妻はラブフィールド空港から、フェアチャイルドC123輸送機によりワシントンD.C.から運ばれた1961年式のリンカーン・コンチネンタルをオープントップに改造したパレード専用の世界に1台しかない大統領専用リムジンに乗車して空港を出発した。
リンカーン・コンチネンタルには最後列右側にケネディ、左側に妻のジャクリーン・ケネディ、その前列の右側にテキサス州知事ジョン・コナリー、左側にその妻アイダネル(通称ネリー)・コナリー、その前の運転席(左側)にホワイトハウスシークレット・サービスのビル・グリアー、その助手席(右側)に同じシークレット・サービスのロイ・ケラーマンが乗車した[注釈 4]。
市内パレード
暗殺事件現場のディーリー・プラザ。パレードの方向は黒の矢印、黄色い四角が犯人がいたとされる教科書倉庫ビル、黄色いバツ印2か所が狙撃された地点
ラブフィールド空港からのパレードには合計12台[注釈 5] の車が参加して、車列の先頭が先導する白バイで次にシークレット・サービスだけが乗った車で、その次が大統領夫妻が乗ったリンカーン・コンチネンタル、その後ろに再びシークレット・サービスが乗った車、そしてその次にジョンソン副大統領とレディバード夫人が乗った車を中心にパレードの車列は11時50分にラブフィールド空港を出発し、ダラス市内を時速16キロメートル(時速10マイル)前後のスピードを保ったまま、ダラス・トレードセンターに向かってゆっくりと進んだ[5]。
ダラスの至る所、ルートに沿ってケネディに批判的ないくつかの団体がプラカードを掲示しビラを配布した。手製の抗議サインは車列の見物人達によって高く掲げられた。しかし車列は、ケネディが数人の修道女および数人の児童と握手するために2度止まる以外はほとんど何事もなくその全ルートを通過した。大通りに入ったリムジンの前に1人の男性が走り寄ったが、シークレット・サービスによって地面へ押し倒され車列から遠ざけられた。しかし全体としては歓迎ムードで、後にコナリー知事は「心からの温かさ、理解、敬意を示す大変な数の市民が繰り出していた。大統領もジャクリーン夫人も心から喜んでいる様子であった。」と語っている。ネリー夫人は大統領の方を振り返り「これでもうダラスがあなたを歓迎していないって、おっしゃらないでしょうね[注釈 6]」と言うと大統領は「もちろん。考えていませんとも[注釈 7]」と答えている[6]。 これがジョン・F・ケネディの生涯最後の言葉となった。
12時30分にケネディのリムジンはメイン通りからディーリー・プラザに入って右折し、ヒューストン通りをテキサス教科書倉庫ビルの正面にゆっくり進んだ。そして次にリムジンはゆっくりと左折して、エルム通りに入り、教科書倉庫ビルからわずか20メートル離れた位置に達した。
狙撃
ザプルーダー・フィルムより白黒で複写された、ケネディ大統領に最初の銃弾が命中した瞬間のコマ。ケネディは被弾した喉を手で押さえている。
狙撃直後、後方の護衛車からリムジンに飛び移るシークレット・サービスのクリント・ヒル
リンカーン・コンチネンタルが教科書倉庫ビルの前を通過し、緩やかな下り坂をブレーキを掛けて速度を落としながら走行(この時のシークレットサービスの運転は明らかに護衛対象を危険に晒すものであった[要出典]。)するという絶好の機会を利用したかのように立て続けの発砲音が轟き、およそ6 - 9秒[要出典]の間にケネディは狙撃された。狙撃の間リムジンの速度は時速14キロメートル(時速9マイル)[要出典]から時速21キロメートル(時速13マイル)[要出典]であった。ウォーレン委員会はその後、3発の銃弾の内1発は車列を外れ、1発がケネディの頸部に命中、貫通のうえコナリーを負傷させ、最後の1発がケネディの頭部に命中し、致命傷を与えたと結論を下した。全ての委員がケネディに2発の銃弾が命中し、頭部への被弾で死亡したことを認めている[注釈 8]。
犯人が最初の第1発目の発射後、群衆から様々な反応が起こった。多くの者は後にクラッカーかアフターファイアーが鳴ったと思ったと証言している。リムジンに乗っていた大統領夫妻や知事夫妻は一斉に右方向を向き、大統領は喉を押さえるように両腕を開き胸に当てて頭を下向きにして苦しい顔になり、ジャクリーン夫人は一瞬何が起こったのか判らず、大統領の顔を覗き込んだ。その前列では撃たれたコナリー知事[7][8][9]が「ノー、ノー、ノー!大変だ、皆殺しにされるぞ!」と叫び、その声で運転していたビル・グリアーは素早く振り向き、叫んでいる知事と大統領を確認して前方を見た。その時に彼はブレーキを踏んでおり[注釈 9]、再び後方を振り向くとケネディが頭部に致命傷を負う瞬間を実際に目の前で目撃することとなった。[注釈 10]。
犯人が狙撃したとされる教科書倉庫ビル。6階右端の窓(写真の印(A))から撃ったと目撃されている。
ケネディに命中した第2発目がケネディの右側頭部を貫通すると、彼はわずかに前傾し、彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになり、その後座席後方のクッションに垂直にぶつかり、すぐに妻のいた左側に崩れ落ちた。ジャクリーン夫人が動転して後方に目を移し、オープンカーの後方のトランクに這い出た(この時、夫人はトランクに飛び散ったケネディの頭部の骨片を手にしており、病院到着後に医師に渡している)。1発目の直後に後続の車を降りて駆け寄った護衛官のクリント・ヒルが夫人が這い出るのとほぼ同時にリンカーン・コンチネンタルに追いつき[注釈 11]、トランクに飛び乗って夫人を座席に押し戻し、パークランド記念病院へ向かうよう、大統領専用車の前席にいたケラーマンが運転手に指示した[11]。
テキサス教科書倉庫ビルの前は芝生の広場で通称ディーリー・プラザと呼ばれている[注釈 12]。この広場の道路をパレード中の大統領が市民の目前で撃たれてすぐにリンカーン・コンチネンタルが猛スピードで走っていくところを多くの市民が見て、エルム通りはパニックに陥り、パレードを見に来ていた市民が一斉にディーリー・プラザをかけ抜けていった。地元ダラス警察の白バイ隊員がバイクを置いてその場で拳銃を取り出して構えたが、何がどうなったのか分からず警察官もパニックになっていた。
大統領の被弾
大統領が最初の弾を受けた時は喉に手を当てようと両腕の肘が上に向かっている。背中の上部から喉仏に貫通したと見られているが、この1発だけの被弾であれば致命傷に至らなかったとも言われている[注釈 13]。2発目が大統領の右側頭部を貫き、大統領の頭部はひどく破壊され、これが致命傷になった。狙撃の瞬間をたまたま8mmフィルムで撮影していたエイブラハム・ザプルーダーのいわゆるザプルーダーフィルムの映像(後述)では、被弾した際に大統領の身体が一瞬後方に動いて、その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、オズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。ただし、ザプルーダーフィルムのコマ番号313では血しぶきなどの飛沫は前方に飛び散っている。
ケネディ狙撃の速報と死去報道
ダラス市内でのパレードで大統領が狙撃されてから数分後には、全米のラジオとテレビで「ケネディ大統領が撃たれて重傷を負った」との速報が相次いで出された。
大統領の車がパークランド記念病院に向かっている時に、パレードの後ろの車に乗っていたUPI通信の記者メリマン・スミスが「ケネディ撃たれる」の速報を打電し、12時35分には地元ダラスのラジオ局KBOXが放送中に「何か、パレード中に起こったようです」と最初にアナウンスしている。
12時36分にはABCがラジオで臨時ニュースで報道し、後に暗殺事件調査委員会委員長となるウォーレン最高裁長官は、12時37分にMBSラジオ[注釈 53] でその第一報を聞いた。
12時38分、CBSのニューヨーク本局にいたウォルター・クロンカイトは、スミスの打電を受けてすぐにテレビで速報を出す決意をしていたが、テレビカメラを動かすのに時間がかかるので、ラジオのスタジオに入り、音声だけで「CBS NEWS BULLETIN」(CBSニュース速報)をテレビに流した[注釈 54]。この時、ダラス時刻12時40分(東部標準時13時40分)でケネディ大統領がパークランド病院に担ぎ込まれた時であった。それは次のレポートであった。
Here is a bulletin from CBS News. In Dallas, Texas, three shots were fired at President Kennedy's motorcade in downtown Dallas. The first reports say that President Kennedy has been seriously wounded by this shooting.
(CBSから速報です。テキサス州ダラスでケネディ大統領の車列に3発の銃弾が撃ちこまれました。第一報によりますと、ケネディ大統領はこの銃撃で重傷を負ったとのことです。)
ほぼ同じUPI通信のレポートをNBCテレビは12時45分に最初の速報で放送している。この頃には全米で大きな混乱が巻き起こり、ワシントンD.C.では、12時43分(東部標準時13時43分)から電話網が59分間散発的になった。回線はニューヨークを経由させることとなったが、結局つながらなかった。人々は最新の情報を得るためラジオやテレビに張り付いた。ニューヨークでは車のカーラジオに歩行者が集まって来て、刻々とニュースが流れるのを聞き入っていた。
12時53分(東部標準時13時53分)には、NBCテレビがニューヨークのスタジオからの報道体制に入ったが、テレビカメラが動かないので、しばらくは固定画面で音声だけのもので、12時57分に画面が3人のアンカーマン[注釈 55] を映し出し、3人が揃って各通信社の打電文とダラスからの電話レポート、ラジオが伝える情報を次々と報道した。
CBSテレビとABCテレビも、13時(東部標準時14時)には通常番組を切り替えてスタジオからの報道体制に入った。ABCテレビは夕方のイブニングニュースのアンカーマンであるロン・コーチャンが、レストランで食事中に速報を受けて急遽スタジオに入り、13時08分から報道していた。
CBSテレビは昼食会場であった「ダラス・トレードマートセンター」にカメラを配置していたので、そこから当時CBSダラス支局長であったダン・ラザーがレポートしていた[注釈 56]。そしてダン・ラザーはジャクリーン夫人付きの警護担当者が語ったケネディ大統領死去の第一報を伝えている。この時はまだ公式な情報ではなかった。ニューヨーク本部にいたウォルター・クロンカイトは「ダラス・トレードマートセンター」からのレポート以外は報道室からずっと喋っていた。
CBSの報道体制が整った時に、これより前にすでにジャクリーン夫人付きの警護担当者がケネディが死亡した模様だと語ったとUPI通信が打電し、地元ダラスのテレビ局WFAA-TVのジェイ・ワトソン[注釈 57] が12時58分に伝えている[注釈 58]。
そしてケネディ大統領に終油の秘蹟を行った司祭がパークランド病院を出た直後に、取り囲まれた報道陣の質問に答えて大統領の死亡を伝え、これが直接大統領の死去を確認したものであったので、13時30分過ぎにこの情報はすぐにテレビやラジオを駆け巡った。ABCテレビではこの情報が入った13時33分に、大統領死去(ケネディの顔写真と下に1917〜1963と記されていた)と伝えた。ただいずれも非公式な情報で、生存説と死亡説が両方飛び交う状況が続いた。NBCテレビは13時35分に、この司祭からの情報とダラス警察の情報から、ダラスのWBAPテレビのチャールズ・マーフィー記者が「The President kennedy died」と伝えた。
この時とほぼ同時の13時33分、パークランド病院の一室で、今回の大統領一行の随員であったホワイトハウスのマルコム・キルダフ副報道官が報道陣を集めて「ケネディ大統領は本日午後1時に死去しました」と公式発表を行った。キルダフは顔面蒼白で今にも泣きだしそうな表情で、わずか3分の短いケネディ政権最後の記者会見であった。
死亡した同じ時刻13時(東部標準時14時)から大統領狙撃の報道特別番組を放送していたCBSのウォルター・クロンカイトは、それまで死亡説の情報が入っても未確認情報として慎重な姿勢で「still alive」「critical condition」と伝えていたのが、13時38分(東部標準時14時38分)に報道室に届いたこの公式発表のAP通信至急電を読み、途中メガネをはずして「ケネディ大統領は中部標準時の午後1時に亡くなりました」と述べたのに続けて、報道室の右上の掛け時計(この時、午後2時38分を指していた)を見ながら、「東部標準時では午後2時ですので38分前のことです」と言って絶句し涙ぐんだ。
From Dallas, Texas, the flash, apparently official: "President Kennedy died at 1 pm. Central Standard Time." 2 o'clock Eastern Standard Time, some 38 minutes ago.
(テキサス州ダラスから速報です。公式発表によりますと、ケネディ大統領が中部標準時午後1時に亡くなったそうです。東部標準時では午後2時ですので、いまから38分前のことです。)
「大統領撃たれる」の第一報が入ってからその対応で報道室から1人で喋り続け、寒い11月下旬なのにスーツの上着を着る余裕もなくワイシャツ姿で伝え続けたこの時のテレビ映像は、その後「ケネディ暗殺」の象徴的映像となった。
同じ時刻にNBCテレビでは、パークランド記念病院の電話回線を使っていたが、電話の相手側の声がどうしてもテレビの音声に入らないのでキャスターのフランク・マギーがNBCロバート・マクニール記者の電話報告を一言一句繰り返し復唱して公式発表を伝え[注釈 59]、レポートが終わって受話器を置いた瞬間にショックから涙をこぼした。
ケネディ大統領死去の公式発表に、全米は大きな衝撃と深い悲しみに包まれた。
なおケネディ政権最後の記者会見を行い、大統領死去の発表を行ったマルコム・キルダウ副報道官は、席次でいえば3番目のスポークスマンで、いつもの首席報道官ピエール・サリンジャーは東京での日米貿易経済合同委員会に出席するため、飛行機でラスク国務長官らと日本に向かっている時であり(この暗殺事件で途中で急遽引返した)、次席副報道官アンドルー・ハッチャーは首都ワシントンに留守番として残り、普段はあまり記者会見の場で立つことの無い人であった。また、彼が大統領死去の直後にパークランド記念病院内で、発表のタイミングを詰めるためジョンソン副大統領のところへ行った時に、「ミスター…ミスタープレジデント(大…大統領閣下)」と声をかけたことは有名な話である[注釈 60]。ここですでに新大統領となったジョンソンと打ち合わせて、ジョンソンがパークランド記念病院を出た直後に記者発表することとなった[75]。
暗殺事件の反応
ホワイトハウスの東の間に安置されたケネディ大統領の棺(1963年11月23日)
ラジオ、続いてテレビで報じられたケネディ暗殺のニュースは全米に衝撃を与えた。ニューヨークを始めとして多くの都市で男女が公然と泣き、多くの人々が最初はカーラジオでの速報に耳を傾け、テレビ報道を見るためにデパートに群れをなし、祈りを捧げる者達もいた。ニュースを聞いた者は衝動に駆られたように家族や知人に電話をかけた。この日の午後にはニューヨークで数十万台の電話がいっせいに使用中止となった。ケネディの死に関するニュースが車から車へと伝えられ、いくつかの地区では交通がマヒした。
ウォール街では株価が好景気を反映して午前中は堅調であったが、第一報が入った東部標準時午後1時40分ではまだ疑心暗鬼だったものの、刻々と情報が入るにつれて売りが殺到し、ニューヨーク証券取引所は午後2時10分に急遽市場閉鎖となった。大統領の死去が伝えられた2時30分過ぎより20分早く、かつて1933年8月にガス漏れ事故で閉鎖されたことはあったが、全く外部からの要因で証券所が閉鎖された初めてのケースとなった[95]。
アメリカ合衆国やカナダの学校では、学生を緊急下校させた。ニューヨークのコンサートホールではジョージ・セルがニューヨーク・フィルを指揮していたが、途中で演奏中止となった。ブロードウェイでは全ての劇場が公演を取りやめ、夜の社交行事も中止となった。
「地球が止まった気がした」と表現した人もあった。茫然自失の人、絶叫する人、蒼白となって走り回る人、マンハッタンにもさまざまな人間模様があった。その後には絶望感にも近い深い悲しみが一様にアメリカ国民を襲った[96][注釈 82]。
新聞各社は号外「KENNEDY EXTRA(ケネディ特報)」を発行し、「PRESIDENT DEAD(大統領死す)」の大きな見出しの号外を、通勤帰りのほとんどのビジネスマンが電車の中でむさぼって読む姿があった[97]。そして、「KENNEDY ASSASSINATED(ケネディ暗殺される)」の見出しが新聞スタンドに踊っていた。
NBC・CBS・ABCの三大ネットワーク[注釈 83] は、全ての定時番組とCMの放送を取りやめて特番のみとなった[注釈 84]。
ワシントンポスト紙のジェームズ・レストン記者は翌日の朝刊記事で詩を掲載してその最初の一行が「今宵アメリカは泣く」[注釈 85] であった。また、「テキサス州およびテキサス人」に対する怒りの声も聞かれた。
日本でも、折しも当日実施されていた通信衛星による初の日米間の衛星中継(当時は宇宙中継と呼ばれた)によるテレビ伝送実験[98]において、即座に事件の詳細が伝えられ、視聴者に大きな衝撃を与えた[注釈 86]。
「日米宇宙中継という輝かしい試みの電波に乗せて、悲しいニュースをお伝えしなければならない事を残念に思います。アメリカ合衆国第35代ジョン・F・ケネディ大統領は11月22日、日本時間11月23日午前4時、テキサス州ダラス市において銃弾に撃たれ死亡しました。」
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。夏目漱石」
「 好人物は何よりも先に、天上の神に似たものである。第一に、歓喜を語るに良い。第二に、不平を訴えるのに良い。第三に、いてもいなくても良い。芥川竜之介」
「くだらなく過ごしても一生。苦しんで過ごしても一生。苦しんで生き生きと暮らすべきだ。志賀直哉」
「by europe123 original」
https://youtu.be/WOd05LXYI2g
「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と呼ばれた高度成長時代の終焉と少子化の