冒頭の遺体について
冒頭の遺体について
1 閉ざされた幸運
自宅に帰ると女が居た。
女はきっぱりと全裸で床に横たわっている。
すでに遺体である。念のため声を掛けるが、反応はない。元々肌の白い女だが、今や血の色が消え、磁器のような青白い光沢を放っていた。
密会はモールの駐車場だ。テナント募集の貼紙が目立つ。核テナントのスーパーだけは営業中。他の店舗はほぼ空き家だ。
駐車場は何か所かある。不便な地は空きが目立つ。店には悪いが密会には好都合。女の発案である。
ニヤつきながら車中で待つ。相方も車で来る。隣に車を停め、素早く助手席に滑り込む手筈だ。その後は二人仲良くどこに行く。野暮な話にはなるまい。洒落たレストランなど論外だ。下手に気取ったりすると、狭い田舎町では人目につく。誰にも見られない密室に直行するのが最上だ。
何も言わずホテルに直行するか。「行先は任せてくれるね」と一応断ってからにするか。「どこか行きたいところがありますか」と野暮な質問を飛ばしてみるか。大人の付き合いである。紳士の嗜みである。近隣のラブホテルは地図で確認済みだ。
彼が先着して、女が遅れて現れるという順序となる。レデイを待たせるわけにはいかない。約束の時刻のだいぶ前に到着し、湧き上がる笑みをこらえながらひたすら待つ。
待っている時間も無駄にはしない。楽しみがどう展開するか、妄想は縦横無尽に膨れ上がる。
長すぎる妄想の時間もようやく終わりを告げた。待望の時刻となったのだ。定刻ぴったりに現れると期待してはいけない。相手を待たせるのが美女の礼儀だ。焦ってはいけないのだ。
待ちくたびれた顔で出迎えるのは興ざめだ。鷹揚な表情を作るのだ。
最初は彼にも余裕があった。だが、約束の時刻から五分、十分、いやそれ以上経過しても女は現れない。
化粧に手間取る、着ていく服が決まらない、勝負下着の選定に行き詰まる。十代の少女じゃあるまいし、分別ある人妻が時間を浪費するか。
彼の方が場所や時刻を間違えたのか。いや、この単純な作戦に手違いは生じまい。モールの広告に案内図がある。目標の駐車場に印を付け、時刻をメモしたのは女の方だ。メールなど証拠を残すへまはしない。ありふれた広告なら、落書きがあったとしても誰も気に留めたりしない。
「ここで待って、さっと乗るから」
女の提案で、間違えようの無いシナリオだ。心変わりなら、断りの電話一つ欲しいところだ。提案者側は取り消しも自由だ。想像を絶する程落胆するが、自殺まではしない。
突然の不都合。亭主の出張が取りやめになった。車が故障した。駐車場の入り口で知人出と会ってしまった。
想定内の支障なら携帯で連絡するぐらいは簡単だ。連絡ができないとなれば、のっぴきならない事態か。
考察は不吉な方向に一直線。
直前に邪魔立てする男が登場したとする。この場合邪魔立てする男は女の亭主が第一候補。だが、女には亭主以外に愛人がいる。その存在を自分の目で確認済みだ。
密会に出かけるところを亭主或いは愛人に勘付かれたか。
「脅されて無理やり呼び出されたの。私は被害者よ」
女は被害者であると弁明し、彼が当然のごとく悪者なる。
「弱みを握られたの、断れなかった。あいつは卑劣漢よ」
卑劣漢とは彼のことだ。確かに女の弱みらしきものを握った。それが無ければ女から誘ってくることはなかった。
弱みといっても大げさなものではない。女が旦那以外の男と抱き合っているところを目撃しただけだ。
突然の遭遇
2 突然の遭遇
会議室のドアがわずかに開いている。どうしても中をのぞき込むことになる。
熱い抱擁場面だ。男が女の首に、ドラキュラの如く吸い付いている。ドラキュラ男は後ろ姿だが、誰なのかはすぐわかる。
女は第三者の出現に気づくが、慌てた様子は無い。指を唇に当て、可愛く口をすぼめて見せた。悪戯が見つかった少女のようだ。
「内緒にしてね。後でご褒美あげるから」
女のサインをこう読んだ。
ドラキュラ男は女の首筋に吸い付きながら、両手は身体をまさぐるのに忙しい。背後に出現した第三者に気づかないのも無理はない。
絶体絶命の場面でも愛嬌のあるしぐさで相手を幻惑する女の度胸に驚嘆した。ちょっとふざけていただけという言い訳は通るまい。極め付き濃厚な抱擁だ。映画で見るそれはあくまでも演技だ。本物の迫力にはかなうものではない。
すでに男女の関係にある二人が、一瞬の間隙を突いてスリル満点の快楽を貪っていたのだ。二人には実に刺激的な時間である。目撃した者が同様な快楽に浸れる訳ではない。
現場の迫力に気圧されて、思考停止のまま忍び足で立ち去ることしかできなかった。
ドラキュラ男、気に食わない男だ。社内の人間関係に疲れたと、離れた所への異動を希望した男だ。当然仕事ぶりも芳しくなく、左遷も兼ねて関係会社へ追放した経緯がある。女漁りで忙しければ、仕事も人間関係も不調となるのは無理もない。今回動かぬ証拠を押さえたからには、嫌がらせぐらいはしておかないと示しが付かない。とはいえとっさには名案は浮かばない。
女とドラキュラ
3 女とドラキュラ
事件の翌朝、実に魅力的な笑顔に遭遇した。新婚旅行から帰って来た花嫁が、仲人に挨拶するかのようだ。こちらも屈託のない朗らかな笑顔で挨拶を返した。その清々しい表情は、我ながら高評価だ。「俺は見たぞ」という下品さは微塵も無い。
「もて過ぎちゃって困る美人の宿命ね」女の笑顔はこう語っていた。
面と向かって難詰する勇気があるはずがない。女がニコニコしていれば、こちらもニコニコするしか手は無いのだ。
女の亭主に注進に及ぶのも野暮過ぎる話だ。
せめてドラキュラ君に対する嫌がらせをと、知恵を絞るが、良いアイデアが出て来ない。巧妙な嫌がらせを際限なく繰り出すのが得意の輩もいるが、生憎そうした才能には恵まれていない。
ドラキュラ君の近況を調べてみる。
以前に離婚していて今は独身だ。子供が出来なかったのは色んな意味で幸いだった。離婚原因は調べるまでもなくドラキュラ君の素行不良だ。この際、人妻との不倫が暴露されても大してダメージは無いという強みがある。
勤務先での評価はもとより芳しくない。会社そのものも赤字続きだ。ドラキュラ君が足を引っ張っていることは間違いないが、どの程度業績に寄与しているかは不明だ。
つまらない話だが、業績の悪い子会社をどう整理するか課題になっている。最悪の場合を想定して問題点を整理するよう上司から指示された。まともに取り組むのは切羽詰まってからだと、先送りにしておいたが、考えざるを得なくなった。気の重い話である。
子会社を整理する際、在籍のまま出向した者は救済するが、離籍して出向した者はあえて救済の義務はない。「もう戻りたくもありません」と捨て台詞を残したドラキュラ君は当然籍を抹消している。解雇通知を送り付ければ事足りる。悪くない話だ。
俄かに意欲が湧いてきたところだが、担当者の思い通りにいかないのが企業の労務だ。昔の体質を色濃く残す上層部は、ドライな手法はお気に召さない。劣悪でも、余命を食いつなげるところを世話するというのが本社の思し召しだ。「長い間ご苦労様でした」と、にこやかに送り出して終了するという、すっきりとしたアイデアは採用されそうもない。
問題社員の姥捨て山に最適なブラック職場も、用意が無いわけではない。ドラキュラ君ではとても勤まらない厳しい環境下に、温情を装って送り出すのだ。
4 女は行動する
4 女は行動する
愚図愚図と悩むのが無意味なことを、女の方が行動で証明した。
「この書類、目を通していただいた方がよろしいかと」
複数の部署にまたがる事案で、直属の上司でない彼の押印も必要になったらしい。
「わかりにくい点がありまして、少し説明させてください」
いったん机の正面に立った女は、思い直したように回り込み、彼の脇に来て、持ってきた書類の頁をめくり始めた。
女の柔らかな腰が椅子のひじ掛けに密着した。慌ててひじ掛けから腕を離したが、思い直して、恐る恐る腕を元に戻す。柔らかな感触は逃げ去る気配はない。
女は書類の要点を説明するが、大した事案ではない。どちらにしろ、内容に彼が集中することができるはずもないが。
「ここは重要なのでご確認を」
女が声を強める。開いた頁には、事案とは無関係な商業施設の広告が挟み込んであった。栞替わりかと思ったがそうではない。
女は広告に載っている駐車場案内の一角に丸印を付け、時刻を書き込んだ。
「ここはいつも空いています」
そう言いながら腰を一層強く擦り付けてくる。
「誰かと鉢合わせする心配もないの」
甘い誘いの意味は即座に理解できた。
「了解、どこに判子を押すのかね」
いかにも仕事を進めている雰囲気の声を出した。
「それではここに押印をお願いします。ありがとうございます」
広告の紙一枚だけ残し、書類の束を抱えて、さわやかな笑顔で女は去った。
5 不倫は論ずるより難し
5 不倫は論ずるより難し
ドラキュラ君の後処理という辛気臭い難題に頭を痛めていたが、局面は一転した。陰気な報復措置などどうでも良い。
部下の不倫を論じている場合ではない。自分自身の身の処し方だ。
忽ちのうちに、自己保身が最優先課題となって、マイナス思考が先回りをする。部下との不倫が万一露見したら。
「何、不倫と言っても職務上の非行ではない。あくまで私生活での話だ」
自分のことになると即刻に道徳規律は甘くなる。
「外形的に違法性が無いのはあきらかだ。事象ではあっても、事故ではない。まして不法行為などとんでもない」
万一発覚しても、関連会社に左遷される程度だ。転勤を拒否して退職を選ぶ手もあるが、こんなことで筋を通す必要は無い。左遷先は針の筵か。弟子入りを希望する者達にちやほやされるか。いずれにせよ責任のある仕事は除かれ給料ダウンだが、気にすることはない。金を使って見栄を張る必要は無くなる。
こう見切ってしまえば、怯える必要も無い。社内での出世を目標にしているならともかく、もとより関心が無いのだから、冷や飯だろうが食べていければそれで良い。
割り切ってしまえば先憂を省略して、お楽しみの進め方だ。
「しつこくて困っていたの」
共通の話題はドラキュラ君しかない。
「俺からガンと一発食らわせとく」
「素敵、一発で片が付くわ」
話は早い。ドラキュラ君を遠隔地に飛ばすことで片が付く。
女の方としてもドラキュラ男とは嫌々付き合っていたに違いない。追放すればさぞ喜んでもらえる。
妄想中も時は刻まれる。有頂天になりながらも、肝心の場所と時刻を間違えるようなへまはしない。
約束の時刻よりかなり早めに件の駐車場に到着した。事前説明に誤りなく、出入りはフリーで、中は空いている。目立たない所に車を止め、じっくりと待つ。
だがいつまで待っても女は現れない。
約束の時刻を五分過ぎ、十分過ぎ、二十分過ぎるころには余裕というものが急速に失われた。時間の経過とともに、快楽の予感に満ちた妄想が消え失せ、不吉な思い込みが急速に膨らんできた。
単なる心変わりで待ち合わせをすっぽかしただけなら気に掛けるほどのことはない。時間を少し無駄にしただけの結果だ。だが、無理やり口説いて漕ぎつけた密会の約束ではない。女からキャンセルするには強い理由があるに違いない。
作戦変更で男が現れて、弱い立場の女性の味方であると宣言したらどうするか。
男が登場するとしても、当のドラキュラ君ならさほど恐れることはない。人妻に手を出すとは不当であるとなじられたとしても、貴様に説教されるいわれは無いと言い返すことができる。
期待したお楽しみは実現しないが、窮地に追い込まれることはない。
ドラキュラ君とは別の男が登場したとする。人妻との密会は怪しからんと詰問される。あんたこそ何者だと言いたいが、ドラキュラ君と違い決定打にならない。
あってはならない場面を目撃したので、注意しようとしただけだ。職場では差しさわりがということで、人目に付かない場所、誘ったのも選んだのも女のほうだ。
言い訳染みて苦しい説明だが、一応筋は通っている。お楽しみを期待して近隣のホテルも調査済みだと、自ら白状する必要も無いのだ。
難詰されたらどう答えるか、苦しい弁明を熟考したところで、シャツが汗にまみれて身体に張り付いていることに気が付いた。
先ほどまでの湧きたつような高揚感は完全に消え去り、得体の知れない焦燥感が身体を包むようになった。
約束の時刻はすでに大幅に超過している。長居は無用である。
今にも息せき切って女が駆けつけるのでは。情けない未練を残しながらも、車を自宅に向けた彼であった。
冒頭の遺体について