飛ぶ金魚

飛ぶ金魚

 霧がかかっていた。浴衣が重い。ぽたりぽたりと滴を垂らす頭上を仰ぐと、灰の空へ竹葉が揺らいでいる。青草の瑞瑞とした臭い。生ぬるい、唾が溜まる。
 きっと夢であろう。そう私は考えた。そして笑った。久方ぶりに訪れた祖父母の家で見る夢が、裏手にある竹林の夢だとは。
 この竹林は、昔から私の落ち草であった。寡黙で何を考えいるかよくわからない祖父のことが恐ろしく、祖父母の家へ来ると、私はいつも散歩と言って、誰も居ないこの場所へ逃げていた。竹林は、先日の洪水に呑まれて大方なくなっている。だから、これは夢であろう。
 雨の音か、風の音か知れないが、辺りはささやかな濁音に包まれている。私はひとつ身震いした。肌寒い。ざわついた肌を鎮めるようにゆっくりと息を吐くと、何処からか、こぽこぽと水の泡立つ音が聞こえた。その音に耳を澄ませていると、まるで滾々と湧きでる泉に浸かっているかのような気になった。
 不意に、赤い塊が視界をよぎる。
 ふり向くと、それは金魚であった。私の頭よりも大きい、奇怪な蘭鋳である。
 金魚はゆらりゆらり竹の間を泳いでいく。迂曲した軌跡に、透きとおった尾ひれの赤が余韻を残す。
 私はその金魚を追った。その大きな赤い姿にいたく魅了された。捕まえたいと思った。
 竹を避け、避け、避け、霧中で金魚を追いかけた。しかしいっこう追いつけない。遥か先で、戯るかのようにすいすいと泳いで行く。
 追い回すうち、私はどうしてもその金魚を捕まえねばならないと思うようになった。汗みずくで息切れても、走るのを止めることができない。捕まえなければ生きる意味がないとすら思った。あの金魚を捕まえるために自分は生まれたのだと思った。
 しだいに私は目を開くことも困難になってきた。代わりに開きつづけている口から涎が流れ、汗と混ざり顎を伝った。それでも金魚の赤い尾ひれを追い続けた。
 目の前がだんだんと暗くなる。しかしそこには一つの光明が見えている。私のすぐ目の前に、金魚が泳いでいるのだ。私は腕を伸ばした。



 祖父は妾の子であった。子供ができなかった曾祖父母は養子をとろうとしたのだが、やはり本家の血の通った子を、と、妾を迎え、子を産ませた。その子、つまり祖父は、離れで妾によって育てられた。曾祖父母が引き取るはずであったが、生まれてすぐに、曾祖母が病を患ってしまったのだ。
 曾祖母が病から回復したときには、祖父はもう五つになっていた。それから祖父は母屋で育てられたが、曾祖母になかなか懐かず、暇があれば離れに行っていた。
 或る日、離れに行くことを禁じてもなお赴く祖父に激昂した曾祖母は、祖父を物置に閉じ込めた。次の日、祖父は家政婦によって解放されたが、家中に妙な空気が漂っているのに気づいた。平時以上に居づらく、こっそり抜け出して離れの母親へ会いに行った。しかし、部屋に入ると、そこはもぬけの殻だった。混乱した祖父は、叱られるのも恐れずに、何があったのか家の者へ訊こうとしたが、曾祖父は家におらず、曾祖母は部屋に籠もり、家政婦はそわそわと浮き足立っていてはぐらかす。仕方なく祖父は縁側に腰掛けて母を待ったが、日が落ちてもいっこう姿を現さない。夜遅くに帰ってきた曾祖父へ母のことを尋ねると、曾祖父は青白い顔で、出て行った、と答えた。
 それから、祖父は離れへ籠もるようになった。もう誰も祖父が離れへ行くことを咎めなかった。祖父は離れの縁側に座り、ただぼうっと、脇にある小さい池を眺めつづけた。それを気味悪がったのか、曾祖父はその池の水を抜いて埋めさせた。すると祖父は離れにぱったりと行かなくなった。代わりに、温厚で寡黙だった祖父は、池の底に広がる苔のように陰鬱で、夜の竹林の闇間のように不気味な雰囲気を纏うようになった。
 妾が去ってからずっと床に伏せっていた曾祖母が死んだとき、祖父は涙一つ見せなかった。最後を看取ろうと集まった親類は、曾祖母の真っ赤に膨れ上がりいくつも瘤のついた顔に血の気が引いたが、祖父はなんと、笑ったらしい。
 池にいた金魚と瓜二つですね、お義母さま、と。



 辺りはしんと静まり返っていた。濃い霧の中で、幾多の竹が聳えている。
 腕の中で、ぬるぬるとした赤い生き物が蠢いた。一抱えもある大きな蘭鋳が、虚空を見つめ、パクパクと喘いでいる。
 決して手放すものかと、私は思った。息切れしながらも、我知らず、笑みが浮かぶ。これは、何人にも渡してはならない。
 ふと、私は祖父にこの金魚を見せたいと思った。恐ろしかった祖父も、きっと私を褒めてくれるだろう。そうだ、見せよう。ぜひ見せよう。
 再び私は駆けた。しかし祖父の家がどこにあるのかわからなかった。どこまで駆けても竹と霧と腐葉土しか見えない。人へ聞こうとも、誰一人として見かけない。荒い呼吸を止めて耳を澄ませるが、かすかな濁音に、こぽこぽと、水の泡立つ音がするだけだ。
 しだいに走り疲れてきて、足が動かなくなった。立ち尽くし、終わりの無い竹林の先を見る。膝の力が抜け、湿気た地べたにすとんと腰が落ちる。
 私は一人きりになっていた。いつからそうだったのかは思い出せない。だだ広い竹林に、大きな赤い金魚を抱えてたった一人きりになっていた。
 景色が滲み、喉が熱くなる。霧の中へ、これまで傍にいてくれた大切なものたちを全て落としてしまったかのように思えた。
 水の泡立つ音がごぼごぼと強くなる。微かであった濁音がやがて渦のように激しくなり、腕の中で金魚がもだえる。それを必至に押さえつけるが、だんだんと視界がぼやけ、遠のいていく。
 と、出し抜けに、うしろから声がして、肩を叩かれた。途端、意識が明瞭になり、驚いてふり返るが、そこには誰もいない。
 何故だろう。その声が、祖父の声に聞こえた。
 私は金魚をじっと見た。それから、そっと腕を緩めた。金魚はぬうっと舞い上がり、滑るように竹林の奥へ消えていった。



 目を覚ますと、私は祖父母の家の玄関に転がっていた。妻が傍らへ座っている。周りには段ボール箱が山と積まれ、その一つに伯父が腰掛けている。二人の顔は、ガラス戸から差し込む陽へうっすら照らされている。妻へ話しかけようとすると、祈るかのように両手で支えられていた団扇が振り上げられ、私の額を強かに打った。
「朝早くから黙ってどこへ行っていたんですか。こんなに汚れてしまって」
 見ると、たしかに私は浴衣から裸足の指先まで泥だらけであった。
「おふくろの言った通り、大事なかったな」
 伯父が薄暗い廊下の先へ声をかけると、暖簾の間から祖母が顔を出した。私はぎょっとして息が詰まった。一瞬、祖母の顔が大きな赤い蘭鋳に見えたのだ。祖母は私をゆったりと見下ろした。それから、
「ずいぶん汚れたね。沸かしてあるから、お風呂へお入り」
 とだけ言って、再び暖簾の向こうへ消えた。



 伯父夫婦の家へ引き揚げる前に、私は居間の隣にある和室へ寄った。暗闇に、大きな仏壇がどっしりと佇んでいる。座布団に乗り、燐寸を擦って蝋燭へ火を移す。黒檀の上の、無愛想な祖父の遺影がじっと私を見る。線香の匂い、輪の音。手を合わせ瞑目すると、祖父が火葬されたときのことを思い出した。もう何年も前のことだ。白装束を着て、口を真一文字に結んだ祖父。その傍らに、色とりどりの花と、後生大切に持っていたという、竹と水紋の描かれた掛軸。御斎の際、掛軸について聞くと、ビールを飲んで薄紅になった親族達は皆揃って首を傾げた。親族は祖父が生まれてから晩年にいたるまでの様々なことを話してくれたが、誰もその掛軸について詳しいことは知らなかった。数時間の後。灼熱の鉄扉の向こうから引きずり出された祖父からは、骨ばった頬や、気難しそうな表情など、七十余生きた痕すべてが抜け落ちていた。何も訊ねる余地のない、無音のまっさらな白骨になっていた。祖父は死んだのだ、と、下唇を噛み締める父親の横で、私は妙に実感した。
 伯父夫婦の家に着くと、伯母が出迎えてくれた。その後ろから私の子が駆け寄ってきて、「どちらさま?」と私へ向かって首を傾げたので、どっと笑いが起きた。子は不思議そうな顔をしていた。
 祖父母の家の荷造りを手伝った私と妻に、伯父は謝礼金を渡そうとしてきたが、私たちは受け取らなかった。代わりに、伯父は鮨の出前をとってくれた。伯母の手料理と鮨を食べながら、家の引き払いについて少し話した後、我々は帰宅することにした。
「盆休みなのに、ありがとな」
 駅まで見送ってくれた伯父は、帰り際、大きな封筒を渡してきた。今朝、私が風呂へ入っている間に祖母から預かったのだが、すっかり忘れていたらしい。封を開けてみると、古びたノートが一冊入っていた。父の日記であった。
 妻と子が眠りについた後、私は焼酎を飲みながら、父の日記を開いた。父が学生の頃の日記だった。多くはその日にあったことが淡々と箇条書きされており、日記というよりは業務連絡のようである。あまりに父らしい書き方で可笑しい。祖母の意図がわからず、父に悪い気がしつつもぺらぺらとページを捲っていると、金魚、という文字を目にして、手が止まった。他の日とは違い、その日の日記はごく普通の日記になっている。ただ、内容が、あまりに特異である。

 八月十五日
 今日、裏の竹林で大きな赤い金魚を捕まえた。竹の間を縫うように、宙を泳いでいたのだ。そのあまりの美しさに心奪われ、捕まえてから、すぐに部屋へ閉じ込めた。すると時間が経つにつれ、どんどん金魚が弱っていく。最後は泳ぐ力もなくなってしまい、それがあまりに哀れで、再び竹林へ持って行った。金魚はしばらく地に伏していたが、よろよろと起き上がって、竹林の奥へ泳いでいったので一安心した。
 この話を誰かにしたく、夢だと断ってから父に話すと、父は、お前が見た金魚はこういうのだったか、と、サッと絵を描いて私に見せた。父の描いた金魚がとても上手いので驚いたが、それが私が見た金魚とそっくりだったのにはもっと驚いた。そうだ、と答えると、父はうなだれた。そうして黙っている父は泣いている様に見え、どきりとした。それから、唐突に、父は昔話を始めた。父が昔話をすることなど初めてだ。父の生い立ちは興味深かった。中でも二人の祖母の死には肝を潰した。長い昔話の後、父は、もしまたその金魚を見かけても、決して捕まえてはならん、と言った。夢だと断ったことも忘れ、私は真剣に、決してしない、と頷いた。すると、父は微かに笑って私の頭を撫でた。父に頭を撫でられたのは、物心ついてこの方、記憶にない。照れよりも戸惑いの方が大きく、ではおやすみなさい、と、逃げるように部屋へ戻ってきた。

 私はそのページを何度か読み返してから、残りの杯を呷り、電気を消して眠りについた。



 伯父が生まれてから一年と経たない内に、祖父は再び離れへ籠もるようになった。そのせいで、子育ての忙しかった祖母とは諍いが絶えなかったという。もし祖父の家に長年勤めていた家政婦が仲裁に入らなかったら、父は生まれていなかったかもしれない、と言われるほど、険悪な仲であった。
 その関係が変わったのは、伯父が五つのときである。その年の晩夏、家政婦が病を罹って入院した。家政婦が亡くなる一週間前、何度目かの見舞いから帰ってきた祖父は、家に着くなり、居間の隣の仏間で大暴れをした。まだ乳呑み児であった父を抱いた祖母と伯父が驚いて立ち竦む目の前で、鬼のように憤怒して顔を青白くさせた祖父は、仏壇を引っ張り倒し、祖父母の遺影を真っ二つにした。祖父はそれから昼餉も済ませないまま離れに籠もった。
 その日、祖父は離れから帰ってこなかった。朝になっても帰らず、周りが不審がっていると、夕方になって、離れから轟々と火柱があがった。付近の住民が駆けつけると、燃え盛る炎の前で、祖父が一人、崩れ行く離れを見上げている。炎はこの世のものとは思えぬほどに凄まじく、消防団が到着したときには、既に離れのほとんどが焼け落ちていた。いくら水を吹き付けても残り火は消えず、まるで池に水を注いでいるかのようであったという。火は離れを悉く焼き尽くしてからようやく治まった。不思議なことに、それだけの業火であったにも拘わらず、竹林には一切火の手が回らなかった。
 延焼が何処にもなかったためか、当時の田舎の馴れ合いのためか、それとも祖父の権力のためなのか。ともかくも、消防団による厳重注意と、始末書一枚によって、事件は速やかに収束した。
 それから後、祖父は打って変わって、人好きのする性格になった。寡黙で人見知りなのは変わらないが、以前あった陰鬱さや不気味さがなくなり、多少気難しいものの、良き夫、良き父親、良き隣人となった。子供の時分、私は祖父の寡黙さが苦手であったが、周囲にはそれが生真面目さや誠実さと捉えられたようだ。
 離れで祖父が何をしていたのか、それは誰にもわからない。祖父はその離れに自分以外の者が近づくと激昂した。中を見たのは、件の火事の前日、母屋へ戻ってこない祖父を心配して覗きにいった、伯父のみである。竹葉から漏れでる朱の光の中、静かに雨戸をずらして隙間を覗く。ガラス戸と廊下を挟んだ向こうの障子に、ぼんやりとした明かりに照らされた祖父の影が、まるでお辞儀をするかのように揺れている。離れの中からは悪臭が漂っていて、それは糞のような、獣のような臭いであったという。



 祖母が伯父夫婦の家へ越してから一月と経たず、祖父母の家は取り壊された。妻子を連れて跡地を見に行くと、本当にそこへ祖父母の家があったのか、と疑ってしまうほど、きれいな更地になっていた。曾祖父母や、祖父母、家政婦、そして伯父、父が長年住んでいた痕跡は、何一つ残っていない。記憶と重なるのは、辺りを囲む、わずかな竹林のみである。
 妻と並んで呆けていると、子が更地へ、どこからか摘んできた花を、ぽい、と投げ入れた。花は地面をころころと転がり、やがて止まった。子が私を振りかえり、にい、と笑う。私も、子に笑い返す。
 あの大きな赤い蘭鋳は、あれ以来見かけていない。もし再び出会うことがあっても、決して追いかけはしまい。あれはおそらく、泳ぐに任せておくのが一番良いのだ。
 折れた竹で遊ぶ妻と子を眺めながら、私はひとりそう誓い、それから、ウンと大きく伸びをした。空を仰ぐと、曾祖父母が住んでいた頃から変わらずに、洪水に呑まれてもなお残った竹が、晴天の端を縁どっている。だいぶ少なくなったが、幾年と経たずまたすぐに生い茂るであろう。飛ぶ金魚がみせた、幻想のように。
 私を呼ぶ声がする。見ると、妻と子が二人しゃがんで手招きしている。なに、と訊ね、立ち上がる。尻に、腰かけていた青石の熱が残っている。落ち葉を踏みしめ歩き出すと、遠くから来た風に、背を押され。
 頭上で、秋空に伸びる竹が、囃すように、さんざめいた。

(了)

飛ぶ金魚

飛ぶ金魚

縦書き6,007字 竹林 水の泡立つ音 掛軸 火柱 飛ぶ金魚

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-03

CC BY
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