みんなだいすき、あかいおさかな
極東の国、日本。海に囲まれたこの国では、古来より数々の海の幸を食して生きていた。日本の人々は、厳しくも様々な恵みを与える海を愛し、暮らしていた。
日本国民は永遠に海からの恵みを享受できると信じて生きていた。
2057年、3月27日。日本国民にとって信じがたい発表が、国立海洋研究センター水産総合課より発表された。
「皆さんに、大変残念なお知らせでありますが――海から、マグロが消えました」
静まり返る会見場。普段の会見であれば様々な質問を飛ばす記者たちも、茫然自失とした様子で、一言も発せずにぼうっと、センター長の次の言葉を待っていた。
たっぷり5分は経過しただろうか。常日頃より地球環境の保全を強く主張する新聞社の、まだ若い男性記者が手を挙げた。
「海から、というのは……日本の周辺から、という意味ですか? それとも――」
「世界各国の協力機関からの情報をまとめると、世界中の海から、と言わざるを得ません」
「それでは、私たちは……日本国民は……。もう、二度と、マグロを食べられない、ということ……ですか?」
その質問に、センター長は沈痛な面持ちでうなずいただけだった。
世界の海からマグロが消えた。そのニュースは瞬くうちに日本中を駆け巡り、人々は嘆き、悲しみ……各地の寿司店に詰めかけ、スーパーからはすべてのマグロが消えた。
マグロが消えた、という報道からわずか3日で、日本にあったマグロは食べ尽くされた。企業が値上げをする暇を与えない、電撃戦という言葉が相応しいスピードだった。普段はマグロを食べないという人も関係なくマグロを食べ、そして、マグロの代替物を求めた。
はじめに試みられたのは、マグロの養殖だった。それは2000年代初頭に実現していた。そのデータと稚魚をもとに、各地の研究所が養殖を試みた。しかし、結果は芳しくない。手順通りの工程を踏んでも、稚魚たちはうまく成長せず、生存率は1%未満と、とても量産には踏み切れない数値を記録していた。
マグロの養殖失敗が報道されると、日本国民は露骨に落胆した。仕事に手がつかないという人が増え、心療内科にかかる患者も増えた。これはどれほど日本国民がマグロという魚を愛しているか、ということを示しているといっても過言ではない。
対岸の火事的にこの騒動を見ていた他国の学生たちは、盛んにこの熱狂を研究し、そしてみな一様にマグロに取りつかれた。とあるフランス人学生は「我々は日本人のマグロへの愛を甘く見ていた。調べれば調べるほど、かの魚に魅了されてしまう。どうしてマグロがいる間に、食べなかったのかと後悔し枕を涙で濡らした夜は数えきれない」という言葉を発し、在学中に環境保全ジャーナリストにまでなった。
養殖失敗の次に試みられたのは、完全なる代替物の製作だった。これには数多くの大学や研究所、企業が参加し、最終的には個人もクラウドファンディングによって資金を集め、マグロの代替物を生み出そうと躍起になった。
これには一定の成功が見られた。さすがに刺身の完全再現には時間を要したが、赤身のぶつ切り程度は1年弱で一般の食卓に上るほどに普及した。このぶつ切りは本物のマグロと区別するために“ウツシマグロ”と命名された。
ウツシマグロの味と触感の改善を繰り返し、本物のマグロと遜色がなくなった頃、ようやく刺身化への着手が始まった。ぶつ切りが量産化されてから、実に13年の月日が経過していた。
マグロの刺身の復活は日本国民の悲願である。日本マグロ研究所はそう信じていた。だからこそ、先の見えない研究にも挫けず、かつて当たり前に存在し、食していたマグロの代替品を生み出すという崇高な使命に邁進することができた。
だがしかし、熱狂は長くは続かない。かつてマグロを食したことがある人々ですら「これはマグロだ」と言わしめるものを生み出してしまった以上、それがぶつ切りであろうと刺身であろうと頓着する人間はそういなかった。早い話、国民はもう“マグロの刺身”を切望していなかった。
全盛期は1兆円以上もあった国民からの寄付も、今はもう5億円にまで減ってしまった。日本マグロ研究所の所員たちは、なによりもまず研究所の閉鎖を心配する必要が生まれた。沈みゆく船から逃げるネズミのように、所員が1人辞め、2人辞めていく。日本マグロ研究所が開設されて10年目の節目に所属している所員は、開設時の1万5000人を下回る8000人足らずだった。
残った所員たちは、それでも研究を続けた。残ったのはもともとマグロが好きか、研究するうちにそれに魅了された人物ばかりだった。
ある日のこと。いつも通りウツシマグロの研究に勤しんでいた日本マグロ研究所所員たちの耳に、信じられないニュースが入った。
『日本の皆さんに大ニュースです! マグロが……マグロが再発見されました! 我々は夢でも見ているのでしょうか? 数えきれないほどの魚影が、今もレーダーに観測されています! 再び食卓にマグロが上る日も近いでしょう!』
みんなだいすき、あかいおさかな