令和五年五月の雑談

・景勝とは広い意味でいえば自然環境と都市部や居住地も含めた国土のあらゆる景観の保護保全管理が一体化された概念であり、更に当然ながらそれらに関連してあらゆる環境や景観に関る建設建築等や他のあらゆる経済活動のすべてが景勝の下に監督されるべきであり、また更にそれらに基いて育まれ進化する国民という人間そのものとその夫々の才能やそれらの才能から生み出されるものも景勝に含まれるべきであり、そして更にそれらのより根本をなす財政政策さえも景勝という名の下に一括して連動して統轄されねばならない。
・より狭い意味でいうのであれば、景勝とは詰りあらゆる命と営みの保護保全管理を一纏めにした概念であり、その下ではあらゆる生命や景観と人間の創造物が一つのものとして捉えられる。
・人間そのものも本当はその概念に含まれて然るべきではあろうとも、それをすれば却って今までやられて来たことと餘り変らない。今から人間が山々や森や草原の中に融け込んで生活して、人々の意識の中でも人間と自然との境目が無くなるようになるのがそんなに望ましいことだろうか。抑々然うなるとも思い難い。より大きな括りをつくってしまえばその括りの中でまた自然と人間と人工物という区別がなされ結局自然と人間は切り離されていってもしまうかも知れない。
・人間は人間であり寧ろ自然の中に下手に融け込まない方が良い。それよりも「人間が創り出してしまうモノ」をこそ自然と一体に考えて自然に融け込ませねばならない。
・しかし例えば自然環境を管轄する環境省だの建造物を管轄する国交省だのと無粋に分けられた役所、また景観について夫々が思い思いにちょっとだけ定めるような諸條例、あるいは観光だの文化戦略だのといって「文化推奨的な名前」のつけられたやっぱり無粋な個別の役所。それらが只別々に手分けしながら達成感を味わって居ても無難に自然や歴史的な遺産は守られるかも知れなくとも、それらと人間の営みが融合することはない。人々の「意識」が「文化」が山や川や森や海や空々に許されることは決してない。
・人類を文明を自然の中に融合させるのでなく、人間ひとりひとりが自分達の文明の道を山や川や森や海や空々目掛けて伸ばし続けていくことこそが肝腎である。その為には、道も一本の真っすぐなものでなければならない。徒に太くても良い。どうせ道は道なのだから。どうせ人工物は人工物で、それなら成るべく太くても良い。だからその代り、一本筋の通った真っすぐなものであるように、すべての関連する部局は景勝の名の下に一つに纏められる。
・自然や歴史遺産やその他建築など細かな担当部署の区別はその都道府県や市町村にある景勝部署の各内部に於ける課の区別で初めて登場することが望ましく、それらもまたその夫々の部署の景勝を監督する地位の者の下で常に統合されてなければならない。
・但し観光と銘打ったものは景勝という名の下の部署には必要がない。観光とは宣伝広報でありその為に必要な意識や改善は本務院の中央的な公報局が専ら責任を以て行うべきことであり、抑々のあらゆる観光資源自体はそれこそ景勝という名の下で日頃から管理され磨かれた自然や伝統や景観が只そこにあれば良いことからして尚更観光とは単に広報戦略という意味で解されるよう努められたい。それ故その広報戦略を担うのは観光の現場ではなく強力な中央の精鋭たちである。

・総理は本務院の長ではあるが、その前に理智論評会の長である。教育や才能、学問や科学技術などを所管するところの長としての資質を備えた者でなければならない。詮議大任と併存する中で総理は決して形式的なものではなく、寧ろ理智論評会の長という専門的な立場にあることが総理たる所以でありその上で飽く迄副次的に本務院の長としての役割を担うという方が正しい。但しそのことからしても本務院の諸長の中でも特に重要な存在であるのもまた事実なので決して肩書のみの実態の無い地位でもなく、最終的には本務院の長としての責任を完全に負わなければならない。
・所謂これまで文化庁の領域とされたものの内、伝統や歴史遺産など以外の文化的なものの管轄は才大臣とその下の才局が担うところだが大きな枠組みでは景勝であり、その管轄下の文化が自然や遺産や景観などと関係する場合は同じ景勝の名の下の組織として才局と景勝部局による緊密且つ迅速な連携が常に行われるよう整理されて居る必要がある。


・人命という概念は所謂「自由」「民主主義」「人権」などの価値観をはじめから中に含んだものであり、つまりそれらの従来の価値観は人命という概念のほんの一部に過ぎない。
・或国に於て宗教的な不自由がある中で例えば服装の自由は許されたり、政治的歴史的な軋轢がある中で外国の文化に触れる機会が許されたりなどして少しでも寛容な状況が齎されればそれは立派な自由の一歩であり、しかしだからといってその国自体が自由自由と声高くして外国の言う儘に国づくりを進めていくわけでもなく、しかしその中でも小さくともその国なりに自由を追求してゆくことは幾らでも出来る。俗に民主主義と呼ばれるものもまた同じで、それらは如何なる国にも存在し存在し得る自由や尊厳というものを殊更に大袈裟に表現しようとしたものに他ならず、しかしだからといって自由や民主主義といったものを根本から否定する必要もなく、つまりは自由や民主主義といったものは「人命」というものを或角度から表現した数ある意見の一つに過ぎない。
・人々には出来るだけ健康であって欲しい。出来るだけその才能を能力を発揮できる生活を送って欲しい。心地よく労働できる環境に居て欲しい。然うした親身な感覚こそが人命の本質と言え、場合によってはそれを人権と呼ぶ者も居る。すべてを含めば良い。只一つ確かなのは権利よりも命こそが大切だということだろう。

・人命警察隊は旧自衛隊から特に国民から高く評価される理由でもある災害救助集団としての側面をより円滑に引き継ぎ更にそれをより強調する為の枠組みである。現実として俗に国軍と謂われるものを再建しようとしたとき、その基本的な骨組みとなるのは勿論今この時に自衛隊に属し関って居る者達であり組織であり能力ということになる。しかしその中には戦闘は殆ど想定して居ない災害救助や慈善活動を主とした能力を持つ人員も含まれよう。
・それらの人員も新たな軍隊の枠組みに含まれても差し支えないが、自衛隊としての非戦闘的な活動は軍事的な行動とは全く別のものとして世に受け入れられてきた以上は軍隊の一部として計算されてしまうことに違和感を禁じ得ず、且つ世界でも随一の災害大国に於ける然うした特別な集団だというのであれば軍隊とは異にする特別な枠組みの半軍事的な組織として存在する方が良い。それこそが人命警察隊である。
・但し、自衛隊に於ける陸上戦力は殆ど人命警察隊に組み込まれる。そこは専ら軍事組織的なものであり、国土離島の防衛に尽力する。だがそれもすべて陸軍などとしてではなく人命警察隊として行うことであり常にその監督権は陸戦力と人命機能を備えた人命警察隊全体を統轄する者に委ねられ、また陸上に於ける市民の保護などに際して積極的に人命部門の隊員たちと連携疎通する義務が課せられて居る。
・その性質はつまり、諸外国に置ける平和維持目的又は紛争処理解決目的などによる日本の活動を行う人命警察隊としての性質ともいえよう。人命警察隊の陸戦力は飽く迄も人命を市民を優先する人命警察隊という組織の下に理念の下に活用される。その在り方は支持を得てきた旧自衛隊の温度感を継承するものであらんとする。
・人命警察の所管の内、半軍事的な側面を持つもの以外は通常の人命警察が専ら担うものとし、そこには医療厚生や生活や労働などのみならず公安も含まれる。


・財務省の官僚たちを敵視しても何も齎されない。勿論その者達には出来る事と出来ない事、足りて居る部分と然うでない部分がある。つまりそれは官僚たちを批判する者達にも言えることであった。何にせよ重要な省庁の重要な役目を担うまでになっただけでも相当な何かの素晴らしい能力がある。きっと目指すべき方向設定が間違って居るだけで、国家の番人としては計り知れない何かの能力を一人一人が必ず持って居る。その能力を、「財政の均衡」ではなく「貨幣量の抑揚」の為に使ってもらえればこれ以上のこともない。
・財務省としての矜持が強い者も居るかも知れない。それ故に市場警察は更に格式高いものとしなければならない。単なる「財務省」のような名称では他国の財務省と重複し何の格式も正直無いし、その枠組みでなら近代という歴史でみると英国などの大蔵省の方が遥かに格式を持ってるのでその時点でもう噛み応えが無い。
・もう財政の主導権を握る権限も政権側の経済政策機関に統合してしまって、その代りその財政経済政策を補助あるいは監視する存在としての市場警察が新しく堂々と設立される方がずっと格式がある。いかなる国も皇統の歴史には敵わないのと同じように、近代行政の数百年の歴史を先に持つ欧洲諸国と同じようなものを只つくっただけでは格式の面で敵わない。その点で市場警察は少なくとも「パッとした」ものなのは間違いない。


・核保有は一切目指してはならない。核抑止が有効なのは明らかでありそれを維持したり或は多国間で共有したりすることは充分理解し得ることに違いない。しかし日本がそこに踏み込む場合、例えば自ら新たに核兵器を保有するにしても、例えば駐留軍に核配備をさせるにしても、何れにしてもそれは「アメリカによる核保有」であり「アメリカによる核抑止」である。
・日本の独立を重視する趣旨で自他による日本の核抑止を主張する者はそれと同時に日本の独立を遠ざけようともして居る。現状、日本の核に関する能力も実質的な決定権も潜在的にはアメリカに紐づけされて居る。一度そこに踏み入ったならば、愈々戦後からの一体化計劃は少しばかり思いもよらない形で完成してしまう。
・仮に日本が核保有した場合、どんな曰くつきの状況であれ世界の主要な一大国として存在し続けることはできることだろう。所が世界の秩序を主導する存在ではない。やはり今から日本が核抑止を手にしたとしたら必ずそこには米国の許しがある。その許しの下での擡頭であり日本自身に主体性が無い以上は寧ろ核保有して居ない今の日本の状態と何も変らない上に前述の通り餘計に独立を難しくするに過ぎない。
・現時点の周辺環境下での日本の「安全」を重視するのなら独立はもっと長い視点で遠からぬ将来に実現するものとして保留し現状では米国に依存せざるを得ず、今この時点では「安全」と「独立」を両方同時に求めることはできない。核保有したとしてもこの文脈に合致してしまう。ならば日本の核保有や共有は扨置いて核によらざる自他の抑止力の充実を促進するにとどまれば良い。我々は日本の「安全」も「独立」も求めていくのが当然である。安全は現状に於ても達成され得るし将来に於ても確保することは充分にできる。しかし今の日本にとって独立はそれに比べれば果てしない。少しでも独立を難しくするような要素が加わればその実現は百年と二百年と数百年と遠のいてゆくことであろう。
・日本は海に囲まれて居るという地理的側面でも資源エネルギーの側面でも勿論だが近隣諸国と政治的文化的に機能的な連合関係が構築されて居ないしされ得ないという点でも世界で最も孤立し易い国である。
・であると同時に、微塵も矮小な存在と言える餘地がない。大きくもあり大き過ぎず、そして丁度良すぎるわけでもない。かといって大陸国家でもなく、また英仏が猛威を振るった時代のように文明技術の差が地域毎に如実にある時代というわけでもないので多くの国を長期的に脅かし呑み込んで長期的に世界の大部分を支配することができる体力もない。しかし国として能力があり人があり恵まれた環境があり歴史がある。
・日本は敢て、自らこそが真に世界を主導していくに相応しい存在だとして公言する必要がある。またそして、自分達が簡単に孤立し簡単に困窮してしまえる存在であり潜在的な脅威となる存在ではないということも声高に言わねばならない。中立というには餘りにも大きくて密度が濃くて、支配者というには心許ない。
・だからこそ我々が世界を主導していくべきとしたとき、核廃絶を訴えんとしそれに取組む存在としてどれほど日本は望ましいことか。世界の幾つかある主要国の一つとしてではなく、世界を導き国際社会の場を形作ってゆく中心として輝くのならば唯一の道はそこにある。


・政治に経済に文化にあらゆる分野に於てその強大な一国の影響力に大きく依存し、また多くの者がその一国に集中的に留学をし、社会を中核で動かして居る。果して今日の日本はその強大な一国に依存しなければ存在しなかったのだろうか。如何なる国も相互に全く影響を受けないことはあり得ないし、寧ろ日本は戦争以前から欧州と並んで米国からの影響も正しく多大に受け入れて来たことだろう。
・それが強大なたった一国に偏るとなればどうか。日本が世界中に於て得る名声はすべて、アメリカのお陰ということになる。
・これが例えば政治や経済や文化や他のあらゆる分野で欧州各国と米国に適度に依存して居ればどうだろう。日本の名声となる。どこか特定の而も強大な国のお陰とは少なくとも言うことができない。でもその場合でも米国とは浅からぬ関係を有して居たと思うし欧洲とももっと交流があったろうし近隣諸国ともユーラシアの他の国々ともアフリカ諸国とも南米諸国などとも当然に関係が構築されて居たに違いない。にも関らず日本という国は、強大な一国に依存する今日の形でなければ発展しなかったというのだろうか。そんなことはあり得ない。
・所がどこか特定の而も強大な一国にすべてを依存し偏った途端、日本の名声は地球上から一切なくなる。他の国々は、日本のすべてをアメリカという枕詞を踏んだ上でしか見てこない。
・而もその強大な一国は、自分達の「支配者」であるということである。
・日本は昔から外国のものを柔軟に採り入れてきた、という通説を頼りにしてアメリカ式の外来語を積極的に使わんとする者が目に餘るかも知れない。抑々大陸などの他の殆どの国は島国ではなく一体何が「外来」で何が「外来」ではないのか判別できないだけのことだと思うが、日本も勿論外国からの文化を採り入れてはきたことだろう。だがしかし、それらの外来文化が「支配者」の文化だったことは未だ嘗てない。そこが全く以て違う。中華も欧洲も日本の支配者だったことはなかった。
・それでも数字上の見た目上の名声は得ることができる。どこかに目を瞑って居れば俗に言うアイコクシンとやらを感じることができるかも知れない。でも、その根底には嘲笑がまじって居る。そして、「アイツらに比べ自分達はまだ独立してるし自分の名声は自分の名声として得ることができる」という優越感を他国が感じる為の単なる道具に成り下がる。
・それで日本が数字的にどんな損をするのかといってもそれは證明し得ない。だからこれは最早、「景勝」の範囲になる。より美しいもの。より素晴らしいもの。より心の底から尊敬を得られるもの。日本が常に然うであって欲しいという、効率の悪い感覚の部分。これをどうでも良いというのであれば、高架下の闇市崩れの商店街を讃美すれば良い。電線と顔色の悪い地面建物だらけの甚だみすぼらしい景色を「日本」と呼んで偶に目にする外国の景色を讃美しながら「気を張る必要も無く誰にも怒られることもない何だか安心で気持ち的に楽な立ち位置」に佇んで居れば良い。
・皆、それに納得して居るのだろうか。実は小心者なだけではないのか。小心者でどうしようもなくなって結局現状を受け入れるしかないんだからということで納得してる風の自分を演出しよう演出しようとした結果、本当に納得してしまうような人間になってしまってるだけではないのか。
・ただ、心の内から湧き出る程の、小心を吹き飛ばす程の、熱く噴き出る程のものが無いのは間違いない。小心者が自分の内にとどめて置いてしまえる程度の、全く馬力の無い空砲と呼んでしまおう。熱い熱い、すかしっ屁。その程度の魂である。
・日本の価値を蝕んでドブに捨て去り、もしくは売りに出せば良い。価値を知らない者。知ろうとしない者。価値を明け渡す者。それとも数多の、小心者。そんな愚か者は誰かが優越感を感じる為の道具の方が相応しい。地獄を見ろとも思わない。どこが地獄か判別する感性も無い。
・思うに、これらもすべては「政治」であり「政治的な感性」かも知れない。兎に角「政治的な感性」が微塵もない。学校の何とか委員会のノリでその延長線上で惰性でやりこなしてるだけの国会審議こそが日本にとっての「政治」だった。学級委員の何チャラのノリで駅前で紙ペラを配ったり誰も聴く気にもなれない朝礼を繰り返すことこそが「政治」だった。これではいけないと思う感性は皆あるかも知れない。しかし問題なのは、みんな結局そのような只やりこなすだけのような作業を只やりこなすだけで終りにしてしまうことだった。
・「政治的な感性」とは単に政治に興味を持ったり政治家になろうとすることではなく、「価値を思い知らせてやりたい合法的な暴力心」に違いない。それが無い。でも然ういうのって、後からわざと身につけるにしては碌でもない感性だし、いや抑々身につかない。
・だから只単に、美しいもの、何かイイモノ、カッコいいモノをとにかく社会義務的に社会責任的にぜったい意識しなきゃいけないよねみたいな感じで然ういう習慣が身につく方が良い。実はそれこそが「政治」の定着であり「政治」は桁違いに増進される。それが、「景勝」あるいは「理智」と呼べるものではないか。
・飽く迄も「習慣」が身につくのであって「感性」が育まれるのではない。つまり、豫想に反して「感性」が育まれれば育まれるだけ儲けものだとも言うことができる。抑々それぞれの現場でそのように導いてくれる指導者が必要だしそのそれぞれの指導者の質にもよるしそのそれぞれの指導者も国を挙げて育てていかねばならない。
・そのような教育にあたって、例えば新時代の教育の形とかいって最終的には先生を廃し受け身の授業というものそのものから子供を解放しようとする思想もあるかも知れないが、現状の日本社会の人々は本当にそれに見合って居ようか。根拠もないので證明することもできないけども、少なくとも結局みんな先生と向き合いながら授業を受けるという形に落ち着こうとするような気がする。
・かといってどれだけ質の高い教師が育成され維持されるかもわからない。だからこれも豫想以上に充実したならそれはそれで儲けものだが、もし然うならなかったとしても景勝いうものを過度に複雑に考える必要もない。決められた事をやりこなすことしかしなかったり或はそのようにしか出来ない者は何時の世も少なくないことだろうし、そこを無理に矯正しようとしても国の長い歴史に基いた国民性というのも勿論あるので餘り期待できない。でもそれでも構わない。
・肝腎なのはやはり景勝や理智という「習慣」を身につけること。習慣というのは意識とも謂える。学校でやってたからとか学校で言われた事だからという理由で皆がもはや無意識に自分の価値は何たるかを意識し自分の価値が周りからその価値に相応しいほどに最大限美しく見えて居るかを意識し、またその流れで自分の住んでる街が国が成るべく出来る限りその価値に見合うように美しくなって居るのかを意識するようになるのであればそれで良い。そのためには教師の創造性が欠かせない、わけでもない。今までと異なる臨機応変さを求めねばならないこともない。
・その価値に見合うようにカッコつけよう。変に凝らずに難しく考えずに簡単な配置や色合いで色んなものを美しくしよう。自分とか他の人とかあらゆる物事のそれぞれの価値が何なのかわからなくても「みんなそれぞれにそれぞれなりの価値がある」のは確かだし然ういう事実を只漠然と常に意識して居るだけで良いから然ういう風にしよう。日本や他の国々を凄いと思ったり凄くないと思ったりしても、全部それって自然環境が齎したものだから寧ろ自然のように目を向けよう。とはいえそれぞれのその国が元来持ってる「有利なもの」ってのは他の国のものにすることは出来ないから自分達の持ってるものは最大限自分達が輝く為に活用していこう。
・というようなボンヤリとして併し確かなことを生徒たちと共有し共に納得し合える教師が成るべくたくさん居ると良い。
・この世に於ける「愚かさ」とは、学が無かったり掟を忠実に守れなかったり失敗を繰り返してしまうことではない。自分が自分達が望ましい立場になかったり望ましい結果に恵まれなかったときに、「自分の自分達の価値が正当に報われて居ない」「自分は自分達はその価値に見合った状況に恵まれねばならない」と思うことなく「自分なんて自分達なんてこんなもんだ」という結論に至ろうとしてしまうことだった。これ以上の愚かさなど存在しない。

令和五年五月の雑談

令和五年五月の雑談

  • 自由詩
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-06-01

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