『小林古径と速水御舟』展
一
拙い知識で記せば、小林古径と速水御舟が入会していた紅児会は市中の画塾であり、歴史画を軸にした絵画表現の研究をしていた。
その活動の特徴としては中心メンバーであった安田靫彦や今村紫紅、また途中入会の小林古径といった面々がそれぞれの師の元で、いわゆる新派と呼ばれる画風を学んでいたこともあって西洋画の写実的な描写や色彩の表現の研究も積極的に行い、その実践を通じて絵画表現の刷新を試みる作品発表を行なったことが上げられる。その一端といえる小林古径の「静物」は現在、山種美術館で開催されている『小林古径と速水御舟』展で鑑賞できる。
本作は器に乗った果実の様子をキャンバス生地に油彩を用いて描かれたものである。その驚きは本展に居並ぶ絹本の作品と比較してこそよく知れるもので、用いる画材で絵画を語るという愚の骨頂を犯すつもりは全くないが、何を用いて描くかという点について何の拘りも見せない小林古径の力強い言葉と共にその一枚を目にすると肌にまとわりつく画壇の決まり事に風穴を開けてやろという紅児会の揺るがない意志が代弁されている様に感じられて、ゾクゾクした。
二
かかる紅児会に入会していた小林古径と速水御舟は二十七歳という年齢差に関係なく、画家として互いに認め合う存在であった。例えば小林古径は速水御舟について絵にかける情熱が並々ならぬものであり、尊敬の念を覚えるという趣旨の発言を残しており、また速水御舟は画家としての小林古径を自身が見定めた道を真っ直ぐに進む人と評し、その姿を称えている。
山種美術館のホームページでも紹介されている事を繰り返せば、大正十一年頃にヨーロッパ見学に派遣された小林古径はロンドンの大英博物館にて「女子箴図巻」の模写の機会を得られたことを大きな契機とし、東洋画の線描を極める画風へと変化していった。その代表作といえる「髪」は湯上がり姿で座る姉の髪を妹が梳く様子を描いた一作で、背景が描かれない分、黒く蓄えられた様子を見せる姉の髪に注目は集まる。近付けば一本、一本と丁寧に描かれた線がばらけだし、毛先を離れるまでに制御された絵筆の力強い意思を汲み取れる。その始まりから終わりまで通るべき道を知る流れの澱みのなさは只々美しいと言わざるを得ない。
かかる一作を『小林古径と速水御舟』展で観ることは叶わないが、そこに認められる小林古径の美意識の淵源はたっぷりと堪能できる。「桜花」を例にとってその説明を試みれば、枝ぶりを描くことにすら用いられなかった線描に対する自制の意識が必然、小ぶりに咲いた花々を生かす画面全体の動きを丁寧に間引くまでに至り、自然風景に覚える感動を生きたまま縫い止める写実と色彩の偉業を成し遂げている。この美意識が、例えば「赤絵鉢」や「三宝柑」の様な静物の描写に及ぶとモチーフとなる陶器の冷ややかさだけでなく、器の中に置かれた果物と陶器が接触するピンポイントな想像を喚起させ、重点的な情景描写の鍵を開ける。あの「猫」の美しさもそんな扉が開いた先の光明の元で見つけられるもので、事もなげに見えて仕方ないその完成度は一ミリたりとも動かせない緊張感に支えられ、そばに描かれた桔梗の花もそこにしか咲けなかった運命に従っている。しかしながら息苦しさは全く感じられない。美なる意識は画家の手により簡潔明瞭に終えられ、一枚の絵として存在することを許されている。絵画表現としてのこの潔さを知ってこそ小林古径の天才ぶりは味わえる。
このような小林古径の歩みに対して、速水御舟は院体画や琳派の特徴といえる優れた写実性と色彩表現が織りなす絵画の装飾性を究める道を進んだ。その理由としては歴史画といったジャンルに積み重なった伝統が、描こうとする題材の選択や描き方の発想を狭めかねないことへの問題意識があったと筆者は考える。同様の危機感を、例えば小林古径の「清姫」にも見つけられる。
三
「清姫」は、歌舞伎の演目にもなっている「安珍清姫伝説」の話の筋を小林古径が八面に分けて描いたものである。
熊野詣でに旅立った安珍という僧がある村で一晩の宿を借りたところ、その宿の娘である清姫がその安珍に一目惚れ。熱い想いに従う清姫は安珍に迫る。その清姫に対して安珍は熊野詣での後での再会を約束するが、宿に戻って来るつもりは一切なかった。騙されたことに気付いた清姫は怒りに駆られて安珍の後を追い、蛇の姿になってまで日高川を渡って遂に道成寺で安珍を追い詰める。彼は境内の鐘に隠れて難を逃れようとしたが、しかし蛇と化した清姫は鐘の外側からぐるぐると巻き付ついて、その中にいる安珍を焼き殺してしまう。
この「清姫」を描いた理由として、歴史画になる物語でも心の赴くままに表現してみたかったという趣旨の発言を小林古径は残している。その言葉どおりに画家は「清姫」の最後を飾る一枚、「入相桜」を満開に咲かせた。この世では決して叶わなかった願いのように恋しく舞い、その地に折り重なっていく花びら。その心許ない様子は見る者の胸の内から優しい言葉を導き出す。
『小林古径と速水御舟』展で鑑賞できた名画の数々の中でも特に好きなこの一枚は、ある意味で小林古径が試みた心情表現であったと理解できる。しかもそれは、画風を変えるにあたり速水御舟がその題材に選んだ花鳥風月の絵画表現でもあった。
ところで、その小林古径と速水御舟が口を揃えていうには写実表現は対象の形を真似るのでなく、対象そのものを画面に表すのが肝要であるという点である。
筆者自身も『奥村土牛』展で初めて拝見し、直近の『富士と桜』展で再び鑑賞できた「醍醐」について内観の果てに画家が目の前の枝垂れ桜そのものになっているという感想を抱いたことがあったが、たかが素人のこの拙い発想に二人の天才の言葉を重ねる暴挙をここで行えば、対象を写実に描くというのは目の前にあるものの様(さま)に画家が覚えるものを徹底して引き伸ばし、それを客観的に描き直すことをいうのでないか。つまり、拭えば拭うほどにこびりつく喜怒哀楽の移り変わりを技量の限りを尽くして写し取れば、人の目が捉える花鳥風月に人称性の殻は付着し、フィクションの風味が加味されて誰かを感動させる「自然な」形の美は成る。
デザイン性に優れているとも評される琳派の絵画表現が、しかし広告の手段となるデザインそのものとは決して評価できないのも「企業や商品の価値を紹介するという営利目的を有しない」からという形式的理由に止まらず、俵屋宗達を始めとする琳派の画家が花鳥風月に覚える個々人の美的経験を様式化して一般的に語り得るにまで昇華したからで、それがいつしかパターンとなり、鑑賞者の目を楽しませるものにならなくなったとしてもその高い完成度は人の心と共に移り行く時代の節目で何度でも再評価された。この事実が示す絵画表現としての不滅のあり方は、美とは何かという難題に対する真理とまではいえなくても、その一つの答えにはなる。
画家としてこの点を見定めていた速水御舟であったと仮定すれば、その絵画表現は見る者の心を抜きにしては語れないし、見る者の目を楽しませるものでなければならない。適切な絵具がなければ自分で作ったという逸話が残るぐらいの研究熱心で知られる速水御舟がその生涯を賭けて追い求めた装飾性は、だから何十年、何百年先も見据えた創意工夫に満ちていて当然である。例えば「翠苔緑芝」の紫陽花に施された人の手によるものは思えないひび割れの表現、または重要文化財に指定されている「炎舞」の下部で渦巻く紋様に踊らされ、古代から連綿と続く仄暗い神秘性に引き寄せられる人間の業をちりちりと焼くあの暗闇の表現は画家の超絶技巧に支えられ、時代の裁定に今も耐え続けている。
四
金泥に彩られた葉と時季を選んで成った柿の発色を、大胆に切り取った構図の中で描く小林古径の「秌采」は琳派と評し得る色彩表現の良さに加えて、古径ならではの線描の表現の幅広さが堪能できる一作である。画面上部に描かれた枝の向く先は奥に手前にと自由闊達、空間の自由を楽しんでいるように見えるのに対して、下部に描かれる籬(まがき)を邪魔くさそうに思わせる勢いで鋭く描かれた枯竹の小言みたいな存在感が好対照の作品表現は、輪郭線の淡さと引き換えにクスッとする可笑しみを画面内部に招き入れたようである。
シンプルな構図と正確かつ適切な線描を特徴とする新古典主義の代表といえる画家のこのような遊び心の発露は、その見た目に大きく反して、速水御舟が追い求めた装飾性と何の変わりもないと筆者は思う。つまりは心を知り、心を描くという点以上に二人の天才を比較するのに適した最近類はないということだろう。絵画表現の一つの真実に触れられる稀有な機会は、山種美術館で開催中である。
『小林古径と速水御舟』展。興味があれば是非、会場に足を運んでほしい。
『小林古径と速水御舟』展