プラネタリウムの夜
最近コロナでDV被害が増えているらしいというのを聞いて考えた末、小説という形で出すことにしました。
朝、身体中の痛みで目が覚める。
「うー…痛てて…」
手首にできた麻縄の跡は朝になってもまだ消えていない。いや、むしろ鬱血して酷くなっている。
昨晩のことは思い出したくない。
いつも通り、なるべく何も考えないように今朝も出勤した。見送ってくれる妻の優しい笑顔をまだ鮮明に覚えている。
最近は妻から逃げようとしても腕を掴まれ、強引にベッドに押し倒され、両手を無理やり電気コードやズボンのベルトで繋がれ、毎晩行為を強要されている。興奮させるような精力剤を飲まされ、早めに終わらせてもらえる日もあった。
男が襲われるなんて変な話だが、夜が来るのが怖い。毎晩、次の日に仕事があるのはわかっているはずなのに、こちらの言い分を全く聞いてもらえない日々が続いている。
最近の彼女の束縛と暴力、そして暴言は日に日に激しくなり、度を越している気さえする。スマホにGPSを入れられ、メールやライン、全てのやり取りを電話履歴に至るまでチェックされている。
最初は心配性な奴だなとのんきに思っていたのだが、こう毎日続くと浮気を疑われているのかと、少し不安になる。正直言って、あまりいい気分ではない。
それでも妻のことは愛している。笑うと可愛いし、料理は美味しい。お弁当だって、たまにキャラ弁も作ってくれる。根が悪い訳ではない。俺に悪いところがあって、俺が直せば妻も分かってくれる。
俺に暴力を振るう時以外は普通に接してくれるし、誰にでも明るく、至って普通の対応をしている。
俺の両親は俺の子供の頃に交通事故に遭って、既にこの世にはいない。
兄はいるが、海外で忙しく飛び回っている。そんな忙しい兄に、自分の妻のことで相談をして心配や迷惑をかけたくない。
もちろん、妻とは子供の話をしたりもする。
でも、ゴムを外して行為をさせてもらったことがまだ一度もない。何故なのか話を追求しても、怒鳴られたり、殴られたりして話はそこまでになってしまう。
俺が不甲斐ないばかりに、妻を苛立たせてしまっていると思うと非常に申し訳なくなる。夜、帰りが遅くなると妻は非常に不機嫌になり、その日の夜は普段より一層、痛みの伴う行為になることが多い。
棒切れで感覚がなくなるまで殴られることもある。縛られているから抵抗することもできない。
だから、結婚後は年末の飲み会に行ったこともなければ、男友達と遊んだり、同窓会に行ったことさえない。もし行けば結果はわかっている。
昔は、妻とよく旅行に行っていた。俺も彼女も温泉が好きだから。でも、最近はどこにも行けていない。
…身体中の痣がだいぶ目立ってきたからだ。熱湯をかけられた時の火傷の跡もあり、病院に行かないで自宅療養をしたために治りがあまり良くない。転んだにしても不自然な傷が多すぎるし、周りの目も気になる。これでは入れ墨を入れているのとさほど変わりはないようなものだ。
入浴後の至福の牛乳の一杯だって、もう何年も飲んでいない。
最初の誘いはもちろん俺からだった。行為の最中にするキスが好きだった。だけど、ある時から妻の方から行為の内容に関しての指示が出たりしだしたので、それに従う形になっていた。その頃には俺は口に布を噛まされ、どんなに痛くても声を出すことさえ許されなくなっていた。
俺は初めの頃、妻が行為を嫌がるならやらないと心の中で決めていたのだが、意外なことに妻からの誘いが多く、いつの間にか立場は逆転していた。最初は嬉しかったが、今はなんの感情もない。むしろ恐怖で固まっていることが多い。
泣き喚いても無駄なのはわかっているので、早く終わるようにただただ心を無にしている。
もちろん、夫婦間の行為そのものに問題がある訳ではない。ただ、頻度と拘束が異常なのだった。
明日、新入社員に女性が入ってくるそうなのだが、また妻に質問責めにされるのは懲り懲りなので、これは言わないでおくことにした。
「おはようございます」
「あ、佐藤さん!おはようございます。んー?なんか、顔色よくないすね…」
「そうか?いつも通りだと思うけど。ていうか、机の上汚ったな!」
何気ない会話でも心臓がバクバクしている。
顔に傷とかないよな?そういえば、今朝は顔を洗う暇もなく出社してしまったな。気づかないうちに見えるところに痣とか出来てないといいんだけど。
前回のゴールデンウィーク明けにも疑われているので注意しなくては…。
無意識に手首の辺りを触っては、さすってしまう。
「いいんすよー。なんでも、昨日見たネットで、机の上が汚い人は頭がいいって書いてあったんすよ!これ、僕のことっすよね!」
「んな訳ないだろ。大体、頭良かったら私語なんて無駄な時間は必要ないだろ」
「コミニュケーション、っす」
コミニュ…正しくはコミュニケーション、な。
この隣のデスクのやたらと俺に構ってくる男は、雪月春彦27歳。最近、家族に不幸があったらしく、1ヶ月ほど会社に顔を出していなかったが、つい最近から会社に出社するようになった。ハーフなのか金髪で、顔も整っていて女子ウケがかなりいい。性格もさっぱりしていて気軽に話しやすい。
どうやら、彼の亡くなった家族は、とある事件に巻き込まれたらしく、ニュースにもチラッと流れたらしかったが俺は彼の家族に干渉するつもりはないし、一番辛いのは家族だってことはわかっている。新聞でもそれらしい記事があったが、そこは読み飛ばしてしまい、特には読まなかった。
人の不幸は見ないふりが一番だ。妻の暴力だって、いつかは終わる。子供ができたら、流石に行為もなくなるし、大丈夫だろう。
昼休憩の時間になった。
「ん゛ーー!はぁ…。ご飯ご飯」
伸びをして一息ついていると、隣からいつものようにニュッと雪月が顔を覗かせる。
「お、また愛妻弁当っすか?妬けますねぇー」
「いいだろー。お前もそろそろ身を固めたらどうだ」
「僕はまだ…あ、それよりー」
話を逸らされた。しまったと思った。兄弟が亡くなって間もないというのに、俺はなんと馬鹿なことを言ってしまったのだろうか。あまりに無神経すぎる発言だった。今からでも謝らないと…!
「す、すまん!今のは忘れてくれ……。お前もまだ辛い時期なのに俺が変なこと言って」
「いや、マジでいいんすよ。弟は自分で自分の最後を選んだので。一緒に死んだのがあの子ならあいつもそれで良かったはずです。そりゃ、弟を刺した男には腹わたが煮え返りまくりですけど、弟が望んだのはいつも一緒にいた同級生と同じベッドで同じ時間に死ぬことだったので。かなり気難しいやつだったし、最後の会話も覚えてないけど、わざわざICU抜け出してまでするなら僕だって、止められない…ないから……っ」
いつの間にか雪月は大粒の涙をポロポロと地面に溢していた。
僕は慌てて雪月をオフィスから連れ出す。辺りは騒然としていた。
気丈に振る舞っていても、やはり、心の中ではまだ、兄弟である弟の死を受け止められていないようだった。涙を我慢して、体を震わせているのが俺にも伝わってきた。
「雪月、俺が悪かった。今日は仕事が終わったら飲みに行こう。もちろん、俺の奢りだ」
「……その前に、これ、よく見せてもらってもいいすか?」
はしっと雪月が俺の腕を掴む。一瞬、なんのことかと疑問に思ったが、急に俺は青ざめた。手首の痣があらわになっていたのだ。
「ここ…屋上に来るまでずっとチラチラ見えて気になってて」
「そういう…プレイだ。妻の性癖が特殊でな。俺を縛らないと興奮できないらしい」
おおおお、俺は後輩になんてことを口走っているんだ!!?
落ち着け、素数を…いや、今はそんな場合ではない。なんとかして全力で誤魔化さなければ!こいつは普段何を考えているかわからない分、勘だけはかなり鋭い。気をつけなくては。
「ふーん…ならいいすけど。でもこれ訴えたらぶっちゃけ勝訴できるくらいにはひどいっすよ。さっき伸びしてた時にも見えててギョッとしましたけど。家で普段どんな扱いなんすかwそれもっとkwsk」
「ふ…夫婦間の問題だ。君には関係な…」
「僕も…僕も弟と、その、友達の拓海くん?って子の間に割って入ったことないんすけど、今回あんなことになったから、後悔したくないんす。大事じゃなかったらそれでいいんすよね?じゃあ、僕にも話してください!」
この男には隠しきれない。そう思うと、自分の今まで溜め込んでいた思いが栓を切ったように溢れ出した。自分でもかなり驚いたが、雪月は黙って、全てを噛み締めるように最後まで一言も発せず、ただ俺の言葉の一つ一つを理解しようとしているらしかった。
俺はこんなに追い詰められていたのか?こいつだって言いたいことはたくさんあって辛いだろうに…。目を合わせ、ゆっくり頷き、俺が辛い話をすると、彼も同じ辛そうな顔で親身に話を聞いてくれた。
それが俺にはとても心地よかった。
気づいたのは、昼休憩の終わりの予鈴が鳴ってからだった。今まで妻の愛妻弁当を一度も欠かさずに食べてきた俺だったが、この日は雪月に話すのに夢中でお弁当を食べることなく昼休憩が終わり、仕事が始まった。
隣の雪月のデスクをチラッと見る。背筋をいつになくピンと伸ばして、真面目に仕事をこなす彼の姿があった。
俺もいつまでもクヨクヨしないで、頑張らなくては。そう思うと、午後の仕事はやけに捗った。
夜になり、残業を終え、雪月の肩を叩いて呑むジェスチャーをする。
雪月はニコッと笑い、パソコンを素早くシャットダウンし、先にトイレに行くからとオフィスを後にした。
「メール、しとかないと怒るよな」
……っ
指が動かなかった。いつもは逐一していた仕事終わりの報告に違和感を覚えた。俺はいつも同じ時間に帰るのに、どうして連絡が常に必要だったんだろう。どうして少しでも帰るのが遅くなっただけで足蹴りされて、ソファーの角に頭をぶつけられるんだろう。俺は彼女が好きで、彼女も俺を好きだと言ってくれているのに、俺がおかしいのだろうか。
どうして。それを考えるとありとあらゆるどうしてという疑問とモヤモヤした気持ちが心と頭の中でごちゃごちゃになっていた。
…とにかく、今日は言わないでみよう。普通の家庭でそんなことをしたら叱られるか呆れられるだけで終わるはずだ。手が出るのはやはりおかしい。俺が殴られて血が出るほどの悪いことではないはずなのだ。
コミュニケーションは確かに大事だ。だが、一方的な牽制と制裁は果たして正常な夫婦間のやり取りとしてはあまりにそぐわないものではないだろうか。
思えば、妻は常に怒るようなきっかけを自分で探していたように思う。
そうだ、今日はちゃんと話してみよう。花屋で花を買って、日頃の感謝を伝えよう。妻は大きな花が好きだ。紫陽花を買って、今度の休みにでも一緒に庭に植えよう。俺が妻にできることと言ったら、それぐらいしか思い浮かばない。
ガチャ…
雪月がお花を摘み終わって戻ってきたのだろう。俺はさっと席を立って、荷物を持って振り返った。
しかし、そこにいたのは雪月ではない、見知らぬ女性だった。スーツを着ているから、ここの社員だろうか?しかし、見たことのない顔だった。この会社はかなり大きいし、社員の数も半端じゃないが、顔ぐらいは毎日見るから少しは覚えているはずだ。
でも、自信がない。彼女は、正直言って…かなり、美しかった。35の俺でもかなりグラッときてしまうくらいに。目が合った。こちらが会釈をすると、向こうも丁寧にこちらに向かって会釈をしてくれた。いいところの育ちなんだろうな。そう感じるような動作がいくつかあった。
若い女性に振る話題も思い付かず突っ立っていると、雪月が帰ってきた。雪月も彼女に気付き、お互いに会釈をして何かを話していた。意外と話は盛り上がっており、携帯を振って、ラインの交換までしているようだった。
おお、そうだ。2人ならお似合いじゃないか、って、だめだだめだ。また雪月の涙を無駄に流すような俺の無神経さを繰り返してはいけない。
雪月がこちらに向かってきた。彼女はというと、もう帰るようだった。
「彼女、どうしたの?こんな夜遅くにここに来るなんて…」
「明日から入社する人らしくて、今日はたまたまここまで来てまだセキュリティー掛かってなかったから入ってみただけらしいっすね。なんか先輩と話したいことがあるみたいでしたけど、恥ずかしがって帰っちゃいましたねー」
俺に用がある?何かの聞き間違えではないだろうか。正直言って彼女の顔には見覚えはないし、電車通勤の時に目が合いました〜ぐらいなら流石に覚えている目立つような顔だ。
「そんなことよか、はやく行こう。俺、久しぶりなんだ、飲むの」
「いいすねー。そういえば僕も休んでから飲んで無かったっす。先輩の金でパーッといきましょう!人の金で食べる肉は美味いんで!」
「うはは、じゃんじゃん食えよ!今夜は飲むぞー!」
気分がだいぶ軽い。でも、今はなるべく家に帰ってからのことは考えたくない。家に帰ってからのことは俺が一番わかってる。殴られてもいい、蹴られてもいい、血を吐いたっていい。
とにかく話を聞いてもらえないことには何も進まない。今夜だけは許してくれ。そしたら気の済むまで何にでも付き合ってやる。会社を明日から一ヶ月休んでデートでもいい。とにかく、俺たち夫婦が愛し合っていることの確認がしたい。
深夜になった。マンションの辺りはしんとしていて、よく分からない鳥の声だけが聞こえる。それがやけに不気味だったのを覚えている。
翌朝、俺は冷え切った浴槽の中にいた。
酒のおかげか記憶が飛んでいるが、同時にかなり頭が痛くてそのまま浴槽に吐いてしまった。そしてその吐瀉物を見てギョッとした。
血が混じっていた。それも、かなりの量に見えた。昨日食べた焼き肉の肉片か?でも俺は少し焦げるまで焼いてから食べる方だ。生焼けの肉は絶対に食べたりしない。しかも、吐いてから気付いたが、口の中がありえないぐらいに切れている。頭が痛いのも、頭がパックリ切れているからだった。浴槽の色は最初から赤く染まっていたみたいだった。
俺はついにその場で泣き出してしまった。覚えていなくても彼女が俺に何をしたかがわかったことで泣いているのではない。
俺たちの間には愛なんて無かったことが証明されたのが嫌でも認めざるを得なかったことが悲しかった。
手足は縛られていて、口にはめられていたであろう布が首に掛かっている。張っていた湯は浅く、ギリギリ溺死しない水位になっていた。
会社に行かなくては…。雪月や他の同僚に心配を掛けたくない。どうにかして浴槽を出ると、床は凍っているのかと思うほどに冷たかった。水面台にあったカミソリで縄を切り、再びシャワーを浴び直し、玄関先で散った花を後にして、俺は靴も履かずにマンションから逃げるように出社した。
出かける際に妻の靴はあったので、まだ寝室で寝ているのだろう。
出社すると、既に新人の挨拶は終わっているらしく、仕事は始まっていた。俺はうまく歩けず、片足を引きずるようにしてやっと席に着いた。周りがなんだが騒がしい。マスクを駅中のキオスクで買ったけど、傷跡…見えちゃってるのかな。
お茶を汲んで戻ってきた雪月は、デスクでうずくまる俺を見るなり大声を上げて俺をオフィスから引きずり出すと急いでタクシーを呼んだ。
意識は朦朧としていて、吐き気が止まらなかった。涙も嗚咽と共に流れた。
何故か、昨日見た新人の女性も一緒に乗り込んでいた。
目が覚めると、俺は病室の一角のベッドの上にいた。後頭部が引っ張られるような感覚がして、痺れているのか少し痒い。
口の中が血の味でいっぱいだ。薬みたいな味もする。嫌だな…口内炎。俺は口の中を切ると必ず口内炎が出来るタイプだから。
白いレースのカーテンが外からくる風をなぞっては、やわらかくなびいている。
「…風が気持ちいいな」
「それはよかった」
「…?!」
かなりビックリした。誰だって誰もいないと思っていたところに声を掛けられたら驚くはずだ。まだ心臓がバクバクしているが、起き上がり、声のする方を見上げる。
白衣を着ている。お医者様らしい。優しそうな目をしているがそれでいて、物事の奥の方まで見透かしているような目だった。
まだなにも聞かれてもいないのに全てを話してしまいそうな雰囲気があった。
「驚かせてしまったようですまない。私はあなたの主治医で、いくつか質問があってここに寄ってみました。」
「あ、はい…。俺、まだ、ここにいるのが信じられなくて。ちょっと混乱してるんです。仕事だってまだ残ってるし、明日の会議の資料集めもまだで」
「いいんです。何も心配なさらないでください。病院からは会社側の説明もあって通報させてもらいました」
「つーほーって…え、あ…何言って……誰が通報されたんですか?俺、そっか、俺か」
「何を言ってるんですか?あなたの奥さんを、ですよ」
頭が真っ白になった。そんなの馬鹿げている。俺はちょっと怪我をしただけじゃないか。警察に突き出すなんて、どうして…
「どうして…だって彼女は俺がいないと。あ、帰らなきゃ…」
「帰っても奥さんは家にいませんよ。彼女がいるからあなたは今、病院に入院をしているんです」
主治医のやさしくも厳しい声にハッとする。
「まだ混乱しているようですね。頭を強く打っているようだから、せん妄かもしれないね。…もうしばらくしてから質問をしに来ます。勝手に何処かに行くようでしたら拘束具を付けることになりますから、気を付けて」
拘束具。そう聞いた瞬間、クラッとしてベッドに倒れ込んだ。一瞬であの記憶がフラッシュバックしてブルブルと全身の震えが止まらなくなった。轟音のような耳鳴り。足の先から冷えていく感覚がする。
「嫌…嫌だ…あんなのはもう嫌です。どうか、殴らないで。俺は静かにしていますから、放っておいてください」
主治医は無言で俺の肩に手を置き、そのまま病室を後にした。
俺は再び目を閉じた。もう起きていたく無かった。このまま目が覚めることなく眠っていたかった。
翌朝、いつもの出勤時間に目が覚めた。思わず会社のバックを探してしまい、1人で笑った。こんなによく眠ったのは何年振りだろうか。いつも夜は痛くて緊張していて、休めたものでは無かった。腕を上げっぱなしで眠ることがないので、痺れていないのが久しぶりだ。
目が覚めてから、声は出なくなっていた。主治医が言うには、精神的なショックからくるものだということだった。今日は昨日よりだいぶ落ち着いて看護師と筆談で話をすることができた。妻以外の女性と長く接するのも久しぶりで、なんだか新鮮だった。妻と暮らしている間は彼女以外の女性と話すのは浮気をしているようでなんだか気が引けたから。
病室の窓の外から親子を見かけた。子どもは泣き喚いて母親の注意をひこうとしている。母親は子どもを優しく抱き上げ、背中を軽く叩いてあやしている。
俺と妻にも子どもがいたら、彼女もあんな風に子どもをあやしたのだろうか。ないものねだりは良くないとわかっていても、あったかもしれない未来に胸がぎゅっと締め付けられ、親子からしばらく目が離せなかった。
その親子の帰り際を、何度も、何度もまばたきしてその光景を目に焼き付けた。
午後になると、面会が許され、雪月が病室までやってきた。お互いに目が腫れていて、かすれた声で笑い合った。
「先輩、僕が焼き肉を断ってたらこんなことには…」
俺はにこりと笑って首を横に振る。
遅かれ早かれいつかは同じ未来をたどっていたはずだ。きっかけがどうであれ、雪月には感謝している。飲みに行ったのも、俺が彼と本当に行きたかったからそうしたことだ。
久しぶりに感じた、本当に楽しい時間だった。全部、浴槽に吐いてしまったけど。
「奥さんのこと、僕に話してくれて、ちょっと変かもしれないけど、うれしかったです。信頼してくれてるみたいで、とても。弟のことがあったからかもしれないけど、先輩が血だらけで僕のデスクにうつ伏せになってた時はさすがにパニックになりかけましたよ!僕の席に誰かいるし、おまけに血まみれなんですよ?」
ん…?あれ、雪月のデスクだった?頭を打って認識できてなかったのか…。考えると恥ずかしくなってきた。書類とか血だらけにしてないといいんだけど…。
「それで、録音できました?」
俺は首を縦に振る。
「え、なに?上着のポッケにある?」
雪月は俺のジェスチャーでベッド下からまだ洗っていない洋服を取り出し、俺のスマホを探す。
「あったあった。じゃあ、僕が先輩の代わりに弁護士に渡してきます。これもクリーニング出しておきますから、出来たら僕の家で預かっておきます。」
本当に、もう終わりなんだな。そう思い、俺は薬指からくすんだ銀色の指輪を外した。
すると、雪月は俺を抱きしめた。
そして鼓膜が破れて聞こえない方の耳元で何かを囁いてくる。
その声色は優しくて、でもどこか悲しみを帯びていた。
まるで懺悔するかのように。
もう片方の耳からかろうじて聞こえた「ごめんなさい」
何に対して謝っているのかわからない。
俺は雪月の背中をポンポンとたたき、抱き返した。
そうしてやると安心したように雪月が笑った気がした。
あぁ、この後輩を悲しませるようなことはもうしないと誓ったはずなのに…。
それから少しの間抱き合ったあと、雪月が口を開く。
「そろそろ行きますね。先輩も早く病院で良くなってくださいね」
俺はこくりと頷く。
病室の外まで見送ろうと立ち上がろうとするが足に力が入らない。どうしようかと思っていると、雪月は首を振って俺をベッドにいるように促した。見送るのはもう少し体力が出てからにしようと思った。
ドアの外には誰もいない。
「じゃあ、お大事にっす!」
笑顔で言う彼に手を振り返す。ドアが閉まり、静寂に包まれる。
窓を見るともう日は暮れていて、星空が広がっていた。
「流れ星……また一緒に見に行きたかったな」
また、耳鳴りがして目を閉じた。
それから約二ヶ月が経った。
雪月はあれから毎日病室に来てくれた。
「今日は何があったんすか?」
いつものように俺の話を聞いてくれる。
そんな日々が続いていたある日のことだった。
朝起きると、なんだか体が軽かった。
それに、すごく頭が冴えているような気がする。声も出せるようになっていた。
これならすぐに退院できるかもしれないな。
そう思いながら朝食を食べようとナースコールを押した。
看護師がやってくるなり、「体調が良いので退院したい」と言うと、少し驚いた様子で「先生に相談してくるわね」と言って部屋を出ていった。
数分後、医師とともに部屋に入ってきた看護師に退院の話をされた。
「いいですよ」とのことらしい。
手続きのために車椅子に乗せられて、そのまま玄関へ向かう。
家に帰れるといっても、そこはもう妻のいない空っぽの家だ。
1週間後、退院をし病院を出ると、そこにはなぜか雪月がいた。
昼なのにどうしてここにいるんだろうと考えているうちに雪月と俺の目が合う。何故か、やけに嬉しそうに息巻いていた。
「わざわざ来てくれたのか。でもどうして?お前、仕事してる時間だろ?」
「先輩に良いお知らせがあるっす」
「なんだなんだ?お前の言う良いことはまだ良かった試しがないが」
「まあとりあえず聞いてほしいっす。なんとですね、先輩の家の家具、僕の家に持ってきちゃいました!」
...?え?今なんて?
「だから、先輩の家にあった荷物を全部僕の家に持ってきてあげましたよ!ほら、これが鍵です」
渡された銀色の鍵を見て唖然とする。
だって、それはつまり……
「俺たち二人で住むってことか!?」
「わかってるじゃないすかー。もちろん先輩の部屋と僕の部屋は別々っすよ。あ、天月さんには秘密にしてて欲しいっす。僕が嫉妬されるんすから。」
「お、思い切ったなぁ」
俺はそれしか言葉が出なかった。
「一週間後は退院祝いパーティーっすよ!あ、天月さんも呼んでおいたっす。僕ってば気がきくなぁ...」
「なあ、さっきから天月さん天月さんって、誰のことなんだ?」
雪月は俺の荷物を車に載せる手を止める。
「そっか...先輩その日はいなかったっすもんね。先輩と僕が焼肉に行った日にオフィスに来た子っすよ。そうだ!天月さんのライン教えときますね。二ヶ月もお預けなんて可哀想っすから」
そう言って彼はポケットをまさぐり、スマホを取り出し、俺は先週返してもらったスマホからQRコードを読み込んだ。天月宇由。それが彼女の名前だった。
天月さん...彼女、天月宇由さんっていうのか。雪月はきっと彼女が好きなんだろうな。彼女の話をする雪月はとても嬉しそうな顔をする。なるべく邪魔しないように気を使わなければ...。
それからというもの、毎日のように雪月からラインが届くようになった。
「おはようございます。朝ご飯は机の上っす。テキトーにチンして食べてください」「今日も暑いっすね〜。先輩大丈夫すか?クーラーの温度は自由に変えて良いっすよ」「今日は仕事早く終わったんで帰りますね。晩御飯何食べたいっすか?」「洗濯物は取り込んでおいた!俺に感謝しろよ」「マジですか!?めちゃくちゃ感謝!!!」
妻に暴言・暴力がなければこんな会話を毎日していたんだろうなと思いながら、雪月が家にいない間は俺が部屋の掃除や片付けをした。俺の妻は、俺が家で何かしようものなら、「役立たず」だの「邪魔」だのと言っては蹴ったり叩いたりしてきた。以前はこれが当たり前だと思っていたことを考えると少し涙が滲む。
夜になると、雪月は俺のベッドの隣まで来て、俺が寝息をかくまで添い寝をしてくれた。やがて、毎晩うなされていた悪夢は少しずつ、少しずつ見ることがなくなった。大の大人が年下の後輩に寝かしつけ役を任せてしまうのは気が引けるが、雪月は、死んだ弟を俺に重ねているようで、俺は何も言えなかった。
とびきり優しい声で、ねんねーこ、ねんねーこ...。それはまるで耳鳴りのような、さざなみのような、星の声のような、寂しそうな響きがあった。
兄弟というものは、どんなに喧嘩したとしても、翌日にはまた一緒に遊ぶ。昨日のことなどお構いなしで、夢中で外が暗くなるまでずーっと。自分の片割れのような存在が死んだとなれば、その悲しみは計り知れない。俺がもし、あの時死んでしまっていれば、兄も雪月のようにいつまでも「弟のようなもの」を探し、さまよい続けるような人生を送ることになったのだろうか。
「雪月…少し、話がある。」
俺はある日、雪月に声を掛けた。雪月は、あのとびきり優しい声で返事をする。俺は雪月と目を合わせながら話を続けた。
「俺は、俺は雪月に助けられた。事件が起こる前、お前は焼肉屋で肉を一緒に食べながら、スマホでボイスレコーダーをつけたままにしろ、とか、何かあったら電話しろとか、他にも色々アドバイスをしてくれた。お前は俺のために、出来ることは全てしてくれた。それはきっと弟にも同じようにやったはずだ。誰もお前を責めない。俺が口を出すことじゃないことくらい分かってる。だが、弟の死は受け入れろ。今すぐには無理だ。それは俺がよくわかってる。俺の両親をいっぺんに失ったあの事故は今でもつらくて苦しいトラウマだ。俺はいまだに乗り越えてない。俺の妻にされたことよりもつらいんだ。つらいのは一生続く。だから雪月、俺はお前の弟にはなれない。お前の弟は一人だけだ。」
俺がそういうと、雪月は静かにベッドから降り、部屋を出ていってしまった。
俺は雪月を深く傷つけてしまったのではないかと急に不安になり、雪月を探すために部屋を歩き回った。
ガサッ…ガサガサ…
音がした方に歩いていくと、畳部屋にたどり着いた。暗い襖の中で雪月が何かを探しているらしい。
「雪月、すまない。さっきのことで何かがお前の気に触ったなら謝る。俺は明日にでも出ていくよ。住民から変な噂が立ったらお前も迷惑だろ?」
「あったあった…」
雪月はスマホのライトで大きな箱を照らした。星のようなデザインが見える。きらきらスターライト…?何かの機械だろうか。舞った埃のせいか雪月がくしゃみを連続で3回した。
「思い出したんです。僕と弟の最後の会話。あいつ、プラネタリウムが見たいって言ってたんです。これは父さんが持ってたものを僕が譲り受けたもので、弟と奪い合いになったんですけど、じゃんけんで僕が勝ったので…。はは、こんなことになるなら僕が我慢して弟にあげればよかった。それに、僕が持ってたら、弟が僕の家に拓海君と一緒にプラネタリウムを見に遊びに来てくれるんじゃないかって、そう思ってたんです。でも、それはもう一生叶わない。ぐすっ……会いたい、会いたいよ…波瑠…うぅ~!!」
俺はすかさず雪月の元へ走って行って彼を抱きしめた。このまま放っておいては、彼は壊れてしまう。今は思う存分泣いて、涙が出なくなるまで泣くといい。
暗闇が、重く2人にのしかかっている。重くて押しつぶされそうだ。雪月は俺の背中に手を回し、わんわんと泣いている。泣いたところで強くはならない。泣いた数は、嫌でも自分の弱さを認めた回数だ。
雪月、お前は強い。お前は逃げなかった。だから、俺ももう逃げない。でも、ここは居心地がいいから俺は雪月に甘えてしまう。もう少しだけ、そばにいさせてほしい。仕事をしないで日中ゴロゴロするのも悪くない。一人暮らし以来、一人で過ごすことがなかったから、仲のいい友人と暮らすのは新鮮で気分が落ち着く。
俺はふと、雪月の言っていたプラネタリウムに目をやる。蓋は開いており、中から大きくてゴツゴツした黒い鉄の塊のような機械が顔をのぞかせている。
「雪月…悪いんだけど、この機械の電源を入れてくれないか?実は俺、一度も見たことなくてさ。両親とプラネタリウムを見に行く約束をしたことはあったけど、結局それは一生叶わなかった。もし、雪月がいやじゃないなら…」
「ズズッ…いいですよ。スン…スンッ、ええと、電源はここらへんだったはず…」
雪月が鼻声で、床を這いながらコンセントを探し、プラグを挿し込む。瞬間、繊細な光が部屋中に散らばり、俺は子供のように歓声をあげた。締め切ったカーテンにも壁にも天井にも星の小さな粒が映し出され、まるで夢の中のような世界が広がった。
「ふふ…佐藤さん、本当にはじめてなんですね。でも、僕も久しぶりに見たなぁ。箱から出したらもっときれいに見れますよ…っと」
雪月がプラネタリウムを箱から取り出すために持ち上げると、天体がぐらっと揺れ、俺もつられて座りながら倒れそうになった。雪月は肩を震わせて必死に息を殺している。…笑うなら笑い飛ばしてくれた方が恥ずかしくないのに。
俺は咳払いをして、雪月の隣に座り直した。雪月は息を整えながら、思い出したかのようにクスクスとまた笑いをこらえようと体をゆらゆらと揺らしている。
「んふふっ…はぁ……あ、寝て眺めませんか?弟とも昔、そうやって寝落ちするまでつけっぱなしで見てたんです。」
雪月はそう言うと、コロンと転がるように畳の上に寝そべった。
「星座、分かります?あれがこいぬ座で、あれがおおいぬ座。あれが…」
「オリオン座」
「そうです。弟はあのオリオン座の向こう側にうごめくなにかがあって、そこに天国があると、そう教えてくれました。」
「弟くんは物知りなんだね。俺もそれをどこかで聞いたことがある。」
雪月は無言でプラネタリウムの何かのスイッチを押した。天体はゆっくりと部屋を一周、二週していった。十周する頃には明かりも勝手に消えて、二人で何もない暗い和室の天井をそれぞれ眺めた。雪月の寝息が聞こえてくる頃、俺はまだ目が冴えていて、もう一度プラネタリウムのスイッチを押した。
地球にいることなど忘れて、夢中で星空を眺めた。白い息を吐きながら妻と星空を眺めに行ったことをまだ覚えている。近くの海が波打つ音を聞きながら、高い灯台に登って、夜空に指をさしあいながら身を寄せ合った。
天井に映る偽物のオリオン座に手を伸ばした。あの頃には戻れないし、もう戻ろうとも思わない。もう夏なのに、灯台に登った時のように、あの事件の夜、冷たい浴槽の中にいた時のように、手の指先から血の気が引いて冷たくなっていく。これからはロープやコードで縛られて朝を迎えることはない。
「おやすみ」
俺はそう言って、腕をおろし、静かに深呼吸をした。この先、幸せは見つかるんだろうか。隣で長いまつ毛の間から涙を流しながら眠る雪月を見ながらそう思った。
プラネタリウムの光が部屋を照らしている。目を閉じると、目の裏でも閉じる前と同じような星空が薄く見えた。息をするたびにその光も失せていった。
星は昼間には見えない。夜に輝く月でさえ太陽の光に負けている。しかし消えているわけでもない。確かにそこにあるのだから、無くなったりはしない。
俺がもう少し良くなってここを出ても、雪月の家にはたまに遊びに行こう。
プラネタリウムはいつもそこにあるのだから。
プラネタリウムの夜