タイムマインド(①惣一編)
昭和二十五年 四月
──前世。愛子さんは、その言葉をどのように受けとめるだろう。
口に手をあてて笑うだろうか。首をかしげて困るだろうか。もしくは眉をひそめて怪訝に思うかもしれない。いずれにしても、聞き慣れない言葉にとまどうだろう。僕は、いつも彼女の反応を思い描けずにいた。
机の引き出しから一つ帳面を取ってぱらぱらとめくった。
そこには愛子さんとの三年分の思い出が書きつづられている。道端の花の名称を僕にたくさん教えてくれたことや、親の目を盗んで果樹園の掘っ建て小屋に行き、日が暮れるまで彼女とおしゃべりしたことが、文章にかたちを変えておさめられている。淡く、透明な思い出たちだ。
ページを繰りながら、僕は、そろそろいいのではないかと思った。愛子さんに話してもいいのでは、と。
僕は、自分の過去を知っている。言葉どおり解釈をすればそのとおりなのだが、これが少し違う。すなわち、今の自分が生まれる前──前世の記憶を所有しているのだ。
子どもの時分、誰もが前世の記憶を有していると思い込んでいた僕は、親に訊ねたことがあった。
──お父ちゃん、お母ちゃん。僕が昔に住んどったところは、どこにあるだあ?
直後に、親の呆然とした表情は、今でも憶えている。なにを言っているんだと、僕に対して恐れや不気味さを抱いた、あの表情。
試しに兄や姉にも言ってみると、やはり親のそれと同じだった。
肉親の反応を見たあと、一番はじめに思った感想はこうだ。
──このことは自分しか知らないんだ。人にはしゃべらない方がいいんだ。
それ以来、僕は前世について口外しなくなった。家族のみんなも、やがて年端もゆかぬ子どものたわ言だったのだろう、と割り切ったようだった。そんなことがあったなど、もう忘れているのかもしれない。
──しかし。
しかし、僕には前世というものがわかる。いや、知っていると言った方が適切かもしれない。
僕はうやむやな気持ちのまま、十九まで生きてきた。親すら信じてくれない記憶を抱えたままやり過ごしてきた。親しい友人にも言えず、ときには叫び出したくなるほどの衝動に駆られながら、深まっていくわだかまりをごまかしてきた。
もはや限界に達していた。僕は、奥田愛子さんに聞いてもらおうと決心した。どのような反応が返ってこようとかまわない。ばかにされようがあざ笑われようがかまわない。それに、相手が彼女なら、正直に言えそうだった。
僕はゆっくりとまぶたを閉じ、記憶の断片を探った。
しばらくしてぼんやりと、前世の僕が学校に登校している光景が――よみがえってきた。
時代は明治初期。どこの県か町かもわからないが、あたりは田舎町のようだ。小石を蹴りながら横幅の大きな道の端を歩いていると、友だちがつぎつぎに声をかけてくる。前方に二階造りの瓦屋根、上下合わせて四十坪あまりの校舎が見えはじめた。
国語読本を読み上げる声が教室に響く。
──てのなるほーへ。てのなるほーへ。それ、おにがきました。にげませう。にげませう。
名前は思い出せないが、一人の同級生が教員室に呼び出された。坊主頭がうつむいていて、口ひげをたくわえた校長がつばを飛ばしている。どうやら授業料を払っていなかったらしい。その坊主頭の家は下等で、二銭支払えばすむのだが、それすらもままならない。だから校長が憤慨しているのだ。引き戸の窓ガラスを透かして、みんなが室内の様子をうかがっている。坊主頭の親父はろくでもないやつで、毎晩博奕に明け暮れていることは、周知の事実だった。
ここで記憶が飛ぶ――二つ上の兄が、殴りかかってきた。なぜこんなにも怒っているのか判然としない。僕はやみくもに拳を振りまわして反撃している。しばらくして父が仲裁に入ってきた。僕と兄はみっちりと説教とげんこつをくらい、みそ蔵に閉じ込められた。暗闇の中で兄は泣き出し、呼応するように僕も泣いた。蔵を出てからも当分の間はみその臭みが消えなかった。
つぎに思い浮かぶ情景は、ずいぶんと大人になってからだ。
現在の僕と変わりない、農業に励んでいる、自分の姿が見える。水田のぬかるみを歩き、ヒルに噛まれながらもせっせと稲を植えている。額に汗をにじませた野良着姿の妻もいる。僕たちは強い日射しの中で立ち働いていた。
また記憶が飛ぶ――村落の集まりだろうか、宴会の席で、僕は割り箸で茶碗をたたきながら気持ちよさそうに歌っている。顔はほてり、十分に酔いがまわっているようだ。みんなも手拍子して盛り上がっていた。
──農業こそ国家の大本なり!
ぐでんぐでんに酔っぱらった僕は、威勢よくこう唱えた。
──増産増収はもちろんだが、適地適作、品種改良、病害虫防除、栽培技術の改善などに研鑽を積み重ね、従来の農業体型から逸脱し、水稲のほか、気候風土に適した特産物を取り入れた複合経営に取り組み、近代農業経営の代表的指標となることを、ここに誓います!
帰路、千鳥足の僕を支えている妻の横顔は、なんだか楽しそうだ。
大義名分を打って農作に従事したものの、僕より優秀な者はたくさんいて、結局は蚊帳の外といった恰好だった。しかし、僕は田と畑を往復する平素に満足していた。穀物や野菜が育っていく過程を見守るだけでよろこびを味わえた。子どもたちの世話は妻に任せ、できるだけ農業に携わった。純粋に夢中になれて、人生を捧げてもいいとまで思っていた。
前世の僕はささやかな幸福に満ち満ちていた。
そして、還暦に差しかかるころだろうか。僕は脳卒中で倒れ、あっけなく人生に幕を下ろした。自ら築き上げたと言ってもいい我が家を眺めているときだった。
終焉に見た空は、突き抜けるような青空だった。
こめかみが錐でつつかれているように痛み出し、僕は、遠い遠い遙か昔の回想をやめた。
僕は長い夢を見ていたかのような錯覚に陥った。感傷などない。胸にもやもやとしたものが渦巻いている。この国のどこかで僕は別の人生をまっとうしたのだと思うと、ふしぎな気分だった。
人は同じ魂のまま、いつまでも姿を変えながら循環しているのだろうか。
仏教ではそれを輪廻転生というらしい。
──愛子さんはどう思うだろうか?
僕は、この生まれ変わりの現象を誰かに信じてもらいたかった。自分だけが特別な記憶を持っているという圧迫感にたえきれない。小さいころはよく、自分だけがおかしいことに、ある種の後ろめたさややり切れなさにさいなまれたものだった。
──初瀬惣一(はせそういち)。
天井の、人の顔に見える木目を、ぼうっと眺めながら自分の名前をつぶやいた。そうしないと自分が自分でなくなっていくような、薄れていくような気がしたからだ。
――よし、僕は初瀬惣一だ。ほかの何者でもない。
もう一度、力強くつぶやいた。
愛子さんの姿が、頭の中でふわふわと漂っている。おかっぱ頭、二重の大きな目、かわいらしい小鼻、禁欲的な唇。空想の愛子さんは笑顔で僕を見つめている。そのうち僕は、どうしても彼女に会いたくなった。
ポロシャツにくたびれたズボン。そのままの恰好で家を飛び出した。朝の新鮮な空気が僕を包み込んでくれた。空には藍色が張りついていて、まだ夜明け前だった。親や妹が僕の不在に気づけば、怪訝に思うかもしれない。それに、これから朝仕事がある。どうしようかと考え、いつものように散歩でもしていたと言ってごまかそう、と思った。車庫から自転車を引っ張り出しサドルにまたがると、家の前のなだらかな坂を一気に下っていった。日本家屋や田畑が後方へと流れていく。
たまにこのような衝動に駆られるときがある。愛子さんに会いたい、奥田愛子さんの顔が見たい、と。
田んぼ沿いの道を進んでいく。すずしい風が頬をなでてくれるが、それ以上に汗が噴き出てくる。僕はペダルをこぎつづけた。ガチャガチャと自転車が鳴る。
ガチャガチャ、ガチャガチャ……
愛子さんのうちは、田園の片隅にぽつんとたたずんでいる。一階建ての木造住宅だ。その手前に自転車を置き、僕は忍び足で敷地へと侵入した。縁側を通り抜けて裏にまわった。
引き戸と障子をそろりと開けた。ほとんど家具だけが置かれた、整理整頓の行き届いている部屋だった。愛子さんは、仰向けで眠っていた。その横顔に、どきっとしてしまう。
愛子さん、愛子さん。僕は片手を口もとに持ってきて、静かに呼びかけた。気づいてくれ、と、念まで送った。
もぞもぞと掛け布団が動いた。惣一さん? たしかにそう聞こえた。
「うん、僕だ。起きとるだか?」
僕が答えると、愛子さんの目がゆっくりと開かれ、そして顔がこちらに向けられた。
「なんとなく、来られるかなと思っていました」
「しばらく会っとらんかったけぇ。どうしようもなくなって、来てしまった」
「うちも、会いたかったですよ」
愛子さんは上体を起こし、急いで着替えますから、と言った。
僕は自転車のところに戻り、愛子さんを待った。何カ月ぶりだろうか、と思った。
僕たちは非公認の付き合いをしている。家族には言っていないのだ。だから、こうやってつかの間の逢瀬、というわけだった。だが、この手はあまり使えない。いつもお互いが朝にいなくなっていれば、いずればれてしまう。人目をはばかっての付き合いは、なかなか思い通りにいかない。
お待たせしました。愛子さんはそう言って、庭の方から出てきた。水玉模様のワンピースの上にカーディガンを羽織っていた。
「そんな恰好じゃ、寒かろうに」
愛子さんははにかむように笑って、
「あんまり長く待たせちゃ悪いので……」
僕はまたどきっとさせられた。この人といると心臓が活溌になる。
「とても似合っとるで」
「そう言っていただけると、着た甲斐があります」
やはり、会いに来てよかった。
「さあ、乗って」
僕は、彼女を自転車の荷台に招待した。
ペダルをぐっと踏み込む。少しハンドルが危うかったが、なんとか持ちこたえた。来た道を引き返す。
目的地は決まっている。我が家を通り越して空山(そらやま)の頂に行くのだ。朝日が上るのを眺めるのである。
愛子さんの両腕が僕の腹部にまわされた。それだけで、体はぎこちなくなってしまう。緊張したまま、自転車を走らせる。毎回のことだが、どうしても慣れない。
会話は無用だった。流れる景色を二人で見ていることに、意味があった。愛子さんと同じものを目にしていることに、しあわせを感じた。
空山のふもとを過ぎたあたりで、僕は自転車から降り、彼女と肩を並べて歩いた。この山は丘陵と言っていいくらいの高さなので、頂上へはそんなに時間がかからない。
「果樹園はどうですか」
我が家の果樹園を通り過ぎるとき、愛子さんは大人しい口調で言った。
「今はそんなに大変じゃないけど、問題はこれからだなぁ。もうすぐ枯れとった草が生えてくるけぇ、忙しくなるわ」
「果樹園、広いですものねぇ。刈るのに苦労するでしょう?」
「うん、全部刈り終えたと思ったら、最初のところがすぐに生えだすけぇ、堂々めぐりでかなわんわぁ」
僕が大仰にため息をつくと、彼女のひかえめな笑い声が聞こえた。
「がんばってくださいね」
僕は内心で首をかしげた。いつもの愛子さんならば、もっと笑ってくれるはずだった。どこか、暗いものが顔に張りついているように感じられた。
ささやかな石段を上がり、雑木林を抜けると、いきなり眼前が開く。なにもない、空き地に出たのだ。僕たちはゆったりとした歩調で、崖の方へ向かった。
村が、町が、遠くの山が見渡せる。何度訪れてもここはいい。最高の眺めだった。
座りましょう、と愛子さんは言った。
東の空はだいぶ明るくなっていた。本格的な朝が来ようとしていた。
「愛子さん」
「はい」
僕はうつむいた。彼女を誘ったのはいいが、あの話をしていいものか……前世というものをいったいどこまで理解してくれるか、急に不安になった。愛子さんはやさしい。決してあざ笑ったりはしないだろう。真剣に耳を寄せてくれるだろう。しかし、変な人だと思われないだろうか。親や兄弟にばかにされたくらいなのだ。愛子さんも内心ではばかにするかもしれない。
「どうしたんですか?」
彼女はおっとりとした表情でこちらを見つめてくる。
「なにか言いたそうな顔をしていますよ」
う、ん。僕はなおも言い渋った。前世。その言葉が喉に引っかかってしまい、なかなか吐き出せない。
「うち、最近思うんです」
沈黙にたえかねたのか、愛子さんは口を開いた。
「うちと惣一さんは、点ではなく、線なのだと」
「線?」
愛子さんはうなずいた。
「そう、線なんです。点と点では、どんなに近くにいても、お互いが思い合っていても、距離があるように感じます。だけど、うちらは一本の線で結ばれているのだと思うんです。線だと……長い距離だとしても、いくら離れていても、たとえ蛇行していても、つながっているのです。気持ちは相手に伝わっている。確実に。うち、惣一さんとは線の関係だと思ってるんです。うちらは一人と一人ではなく、うちと惣一さんで、一つ」
線、かぁ……。心の中でつぶやいた。愛子さんはそんなふうに思っているのか。僕は純粋にうれしくなった。
「線の関係でずっといられれば、いいでな」
「うちはずっといられると確信しています」
力強い口調だった。愛子さんは唇を引き締めてから、しぼり出すように言った。
「離れ離れになっても」
僕はとまどった。彼女の口調になにがふくまれているのか、わからなかったからだ。なぜ突然にそんなことを言い出すのか――だけど、僕を思ってくれているのは、痛いほど伝わった。
朝日が山の稜線を照らしながら上っていく。僕は不安になって、また見にこようで、と言った。また、の部分を強調した。愛子さんはうなずいてくれた。
と、視界にこうこうと輝くなにかが入ってきた。
「きれい……」
愛子さんはうっとりとした表情で、そう言った。
僕たちの目の前には、朝日と同じ黄金色の光を身にまとった、一羽の蝶々が飛んでいた。なんという名の蝶だろうか。こんなにも光り輝くのは、はじめてだった。
蝶はしばらく優雅に飛びまわり、そして日差しにとけ込むように、すーっと薄れていった。
一
早起きのニワトリがせわしなく鳴いている。まるで「起きろー、起きろー」と催促しているかのようだ。他人様のものならまだしも、我が家の愛くるしいニワトリたちが言っているのだ、悪態をつくわけにもいかない。僕は寝ぼけまなこをこすりながら野良着に着替え、牛小屋に行った。こちらは殊勝なもので滅多に鳴かない。朝っぱらからあの間が抜けた声を聞くと仕事の意欲がそがれるので助かる。牛一頭とニワトリたちに飼料を与えると、油を差していないせいかガチャガチャきしむ自転車をこいで、果樹園へ向かった。
昨日の愛子さんの言葉を思い返してみる。僕たちの関係を「点」ではなく、「線」だと言ってくれた。線は永遠につながっているものだ。自然と頬がゆるむ。
分厚い雲がどんよりとたれ込めていて、細かい雨が降っていた。どうやら日の出は拝めそうにない。この村の人たちはすでに畑に出て野菜を採っている。そこを通りかかるたびに声をかけられ、僕も返事を返した。
山のふもとに位置する果樹園に着くと、父が慣れた手つきで作業をしていた。僕と同様の、ひさしの大きな作業帽子をかぶって、テキライ──梨の木の主枝や亜主枝先端の腋花芽、子持花をもぎる作業──をする姿には、憧れを覚える。僕は妙にうれしくなり、同時に、父に対して照れくささを感じて、少し距離をおいて仕事に取りかかった。
ここは谷間のような地形だが、なだらかな勾配のおかげで歩きやすい。父はときどき「うちはいい土地に恵まれとるわ。作業するのがちっとも苦にならん」とつぶやくことがあるが、僕も同感だった。梨の木の背は低く、歩く際には腰をかがめなければならない。これで足場が悪ければ、無意味に体に負担がかかってしまう。父が言ってくれるまでは考えもしなかったことだ。
「おい、そっちから向こうには入るなよ。奥田のバカタレが、どこで見とるかわからんけぇな」
雑木林の近くにいる父が胴間声を張り上げた。山に反響しなくても、耳をつくほどの大声だった。
「ああ、わかっとる」
答えながら、僕はとなりの果樹園を見やった。父が言う「奥田のバカタレ」とは、そこの地主──僕と付き合っている奥田愛子さんの、父親のことだ。
僕の父と愛子さんの父親の仲は、五年前から急激に悪くなった。それまでは同じ農家として意見を交わし合う間柄だったのだが、どちらからともなく「わしの果樹園の木を切りおって!」だの「無断でこっちの土地に入ってくるな!」だの言い出して、互いを牽制しはじめたのがきっかけだった。一時期は、相手との土地の境に石を置いたり杭に印をつけて主張したりと、あからさまに敵対心をむき出しにしていた。肩をいからせて法務局に出向き土地の図面をつぶさに見ても、なかなか解決には至らず、いまだににらめっこをつづけている。偏屈者同士の土地争いは複雑な問題だが、僕にはどうも「さるかに合戦」に見えてしかたがない。
その合戦を繰り広げているうちの一匹――僕の父が、
「この雨脚じゃあ仕事ができん。きりのいいところで引き上げるぞ」
と言った。
仕事をあらましすませると、僕は大きく伸びをした。関節の節々がぽきぽきと音を立てた。深呼吸をして遠方を見渡した。点在する民家、朝飯を食べに帰る村人──農地のさらに向こうは、雨でかすんでいる。
鳥取県は日本海沿いに位置している、小さな県だ。当たり前といえば当たり前なのだが僕はこの町並みが好きで、眺めていると気持ちが安らぐ。季節を感じさせる山々の息づかい、人家や村落そのもののにおい、透き通った空気、生きものの生命力、町と人が織りなす気配が体に染み込んでくる。
自然をたっぷりと味わってから家に帰ると、風呂場で四つ年下の妹が洗濯をしていた。衣類を洗濯板にこすりつけながら歌を口ずさんでいる。
「着替えるけぇ、ちょっとあっち行っとけぇや」
「そこの風呂釜に入って着替えたらいいが。人の邪魔、せんでぇや」
妹は僕の言葉を一蹴して、知らん顔で洗濯をつづける。妹の名は静子というのだが、「静」の文字をどこにも感じさせない、勝ち気な性格だ。
しようがなく、僕は据え風呂の釜の中に入って濡れた野良着を脱いだ。後ろから静子の歌声が聞こえる。
向こ~う横町の煙草屋の、か~わいい看板、む~す~め~。と~しは十八、番茶の出~花、愛しいじゃな~い~か~。ぼ~くが煙草を、買いに行きゃあ……。
静子は歌が好きでいつも歌っている。ラジオから流れてくる歌謡曲を真似て歌うぐらいだが、歌に興味がない僕が聴いても、うまいと思う。聴く者を楽しませる声質をしているのだ。
ポロシャツとズボンに着替え土間の炊事場に行くと、母がせわしなく立ちまわっていた。
「ほら、惣一も手伝ってぇな。お母ちゃん、てんてこまいだわ」
本当に「てんてこまい」という言葉が似合っているので僕が苦笑すると、母も照れたように笑った。
朝食の支度が整うと、ちょうど静子もセーラー服に着替えてきて、家族四人で一つの円卓を囲んで食事を摂る。みそ汁をすする音やバリバリと漬けものを咀嚼する音が、雨音に負けず劣らずよく響く。
寂しい食事風景だと、僕はいつも思う。祖父母は長屋から滅多に出てこないので、この人数ではしんみりとしてしまう。
それに――この寂しさの原因は、他にもある。我が家はもともと九人家族だったが、五年前の太平洋戦争中に二人の兄のもとに赤札が届き、それから間もなく戦死した。姉は二年前に嫁いでいってしまった。なので、僕はときどき置いてきぼりをくったような、体のどこか一部分にすきま風が吹いているような気持ちになってしまう。
沈黙にたまりかねたのか、母が、白いご飯にととを添えて食べたいねぇ、とつぶやいた。「とと」とは魚のことだ。農家といっても主食は稗や粟、麦がほとんどなので、魚はごちそうだった。
「贅沢を言うな。のたれ死にせんだけでも、ありがたく思え」
父は口から飯粒を飛ばして怒鳴った。
「……すみません」
母は弱々しい声で謝った。たちまち険悪な空気が漂いはじめた。ご飯がまずくなる。
すると、静子が身を乗り出して、
「そういえば昨日な、歌を歌いながら学校から帰っとったら、たまたま勝ちゃんに会うて、静子は歌手になれるぞって、褒めてもらったんよ。うち、うれしかったわぁ」
と、満面の笑みを浮かべて言った。
「そう、よかったなぁ」
母はぎこちなくほほえんで相槌を打った。
「どんな歌を歌っただ?」
「聴きたい?」
「やめろやめろ。飯をくっとる最中に騒ぐな」
父がみだりに口を挟んできたが、僕は、静子の歌を聴きたいなぁ、と言ってやった。父は新聞を広げ、あからさまに目をそむけた。
静子はせき払いを一つして、「銀座カンカン娘」を歌い出した。陽気なこの歌は静子の性格をそのまま表していた。張りつめていた居間の空気が和んでいくようだった。いつの間にか父も──新聞を読むふりをしながらも──つり上げていた眉を下げていた。
我が家は妹の静子に助けられている。二人の兄を失って姉が嫁いでいってしまった今、静子の明るい性格は救いだった。
ころあいを見計って家を抜け出した。雨のおかげで休日となったので、今日も愛子さんの家に行ってみることにしたのだ。
左手に番傘を差したまま、自転車を走らせた。ガチャガチャ、ガチャガチャ……。村を出て田舎道に差しかかると、両端に田んぼが広がっている。裏作をしている家が大半で、そこには一区画ずつ菜の花や麦、そら豆が植えてあり、僕は、五月に刈り取られるまでのこの期間が好きだった。中でも──今はまだ若芽をのぞかせている程度だが──レンゲ草が気に入りで、蝶形の花に思わず見とれてしまう。
レンゲ草に関心を持たせてくれたのは、愛子さんだった。付き合いはじめは、花を見かけるたびに立ち止まる彼女にいらいらしていたのだが、気づけば、僕も花に見入ってしまっていて、近ごろは立場が逆転している。
奥田愛子さんと交際できるようになるとは夢にも思っていなかった。なぜならば、彼女は町でも有名な雑貨屋の看板娘だったのだから。
三年前──農業試験場に通っていたころ、僕は愛子さんに一目惚れをした。母に買いものを頼まれて使いに出されていた静子が、えらい美人のお姉ちゃんが店番しとったで、と言ったのがきっかけだった。あまりにも静子が絶賛していたので、僕は少し気になって試験場の帰りに立ち寄ってみたのだ。愛子さんは青年学校に通っていたけれど、四時ごろにはいつも店番をしているとのことなので、都合がよかった。
引き戸を開けるやいなや、愛子さんに目が釘づけになったことは、今でも鮮明に憶えている。おかっぱ頭に二重まぶた、薄い唇――端正な顔立ちには非の打ちどころがなかった。僕が黙って眺めていると、愛子さんは噴き出した。僕は、なぜ笑うのかとふしぎに思った。のちに聞いたことなのだが、僕が金魚みたいに口をぱくぱくしていたので、おかしかったらしい。
それからというもの、僕は雑貨屋へと通いつめた。ふた言三言会話するだけで、一日中浮かれたりしていた。大勢の男性が彼女を狙っていたので、僕には付き合えないだろうと勝手に思い込んでいた。ただ話さえできればいい、と自分に言い聞かせていたのだ。
しかしある日、試験場の帰りにもっとも仲がいい友人──勝ちゃんにはやし立てられ、その気にさせられてしまった。同じ村に住んでいる勝ちゃんは、静子とも仲がいい。これは憶測なのだが、たぶん静子が勝ちゃんに、僕が愛子さんに恋心を抱いていると告げ口したのだろう。
そんなこんなで勝ちゃんはおもしろがって、思いの丈をぶつけてみろや! とかなんとか僕に言って、僕は雑貨屋に無理やり連れて行かれたのだ。
ビスケットの代金を払いながら、愛子さんに告げた。
──前から気になっとったんです。
店の外から見ているであろう勝ちゃんの視線を背中に感じているせいか、緊張のあまりに陳腐な言葉しか思い浮かばなかった。
包装している愛子さんの手がとまり、顔がほのかに赤らんだ。うつむき加減で恥じらうような表情だった。
その後、どのような話を交わしたのか、憶えていない。ただ笑い合っただけかもしれないし、彼女がこっくりとうなずいてくれたのかもしれない。気づけば、僕たちは逢い引きをする仲になっていて、手をつなぐにはどうしたらいいのか、勝ちゃんに相談するようになっていた。それらのことは静子も知っていたが、なにせ土地争いで親同士の仲が悪いので、もちろん家では口にしなかった。
感傷的な気持ちを抱えて愛子さんの家に着くと、軒先に自転車を置いた。そのとき、腰の曲がった婆さんが玄関から出てきた。
「あ~、よかったよかった。すんなりと決まって、うらもほっとしたわ」
と独り言を言っていたが、こちらに気がついたようで、はっと口をつぐんだ。
僕はすれ違いざまに会釈してから、引き戸を開けた。玄関は雑貨屋に改装してあり、菓子類や日用品が目に飛び込んできた。
陳列棚をはたきではたいている愛子さんが振り返った。三角巾を被って、前掛けをかけている姿は、なんともかわいらしい。さきほど回想していたせいか僕は妙にどきどきして、付き合いはじめのころの新鮮味を感じた。
しかし、愛子さんの顔色が一瞬だけくもった。彼女は滅多に暗い顔などしないのだが──昨日と同様、今日もどことなく元気がなさそうに見えた。
僕は番傘をたたみながら、遠慮気味に訊ねた。
「来ては、まずかったか?」
愛子さんはかぶりを振り、にっこりと笑った。
「ぜんぜん。会いたかったです」
僕は胸をなで下ろした。もしかすると杞憂だったかもしれない。
「ところで、今、だいじょうぶかな」
もちろん、愛子さんの両親がいないかどうか、ということだ。初瀬の息子が来たと知れれば、僕まで「さるかに合戦」に巻き込まれてしまう。
「今し方、仕入れに出かけましたから、当分は帰ってきません」
そうかそうか、と僕はひとりごちた。これで心おきなく前世の話を切り出すことができる。
僕はせき払いをして、
「ところで愛子さん、聞いてもらいたいことがあるんだが」
「なんですか、やけに改まった口調で」
「実はな──」
「お姉ちゃん、お手玉教えてー」
僕の声は子どもたちの声にさえぎられてしまった。後ろを振り向くと、三人の子どもがずぶ濡れのまま店の中に入ってくるところだった。五歳くらいの女の子たちは雨など意に介していない様子で、大切そうに、小豆を詰めたお手玉を握りしめている。
「あらあら、髪もずいぶん濡れてしまって……」
愛子さんは棚に置いてあるタオルと櫛を取り、子どもたちの濡れた髪の毛を拭き、ていねいに梳かした。
「お姉ちゃん、早くやってー」
子どもたちはじれったそうに言い、お手玉を愛子さんに差し出した。
はいはい、と愛子さんは笑い、そのまま土間に座って歌いながらお手玉の遊びを披露した。
お~みんで、お~さ~ら、お手のせお手のせ、落として、お~さ~ら。おつかみ、おつかみ、落として、お~さ~ら……。
子どもたちは胸の前で両手を握りしめて、目を輝かせて見ている。愛子さんの白く細い手を眺めていると、愛おしくなってきて、今すぐにでもその手に触れてしまいたい欲望が渦巻く。
お手玉を一通りやり終えると、愛子さんはちらっと僕を見てから、
「お姉ちゃんはこれから用事があるから、また今度でいい?」
と子どもたちに言って、アメの入った袋を三つ手渡した。
「今度はなにを教えてくれるだぁ?」
「そうねぇ、折り紙なんて、どうかしら」
愛子さんは得意そうに、
「やっこさんや、騙し船や、鶴にカブト、袴、椿の花──折り方をたくさん教えてあげる」
「やった! じゃあ、折り紙を持ってくるけぇ、教えてなぁ」
快活な子どもたちの声が遠ざかっていくと、急にもの静かになった。なぜだろうと外を見ると、いつの間にか雨は弱まっていた。
「人気者だな」
と僕は笑った。
愛子さんは上がりかまちに腰かけて、
「それで、聞いてもらいたいこととは、いったいなんです?」
僕も彼女の横に座り、生唾をのみ込んでから、言った。
「輪廻という言葉は、知っとるか」
りんね、と彼女は小首をかしげた。
「どういう意味です?」
「仏教の教えなんだがね、世の中の生きものが生まれては死に、また生まれては死にをいつまでも繰り返すことを指しとるんだ」
「はあ……」
愛子さんはきょとんとした表情だった。
「その……愛子さんは、そういうことをどう思う?」
「そういうこととは?」
「だから、生まれ変わりを」
「惣一さんって、おもしろい人ね」
彼女は冗談だと思ったのか、微笑を取り戻した。
「違う。本当のことなんだが。生まれ変わりというものは、実際にある」
つい声に力が入ってしまった。彼女は身を硬くした。
すぐに僕はすまんと謝り、できるだけ感情を抑えて前世の記憶を話して聞かせた。
小学校で坊主頭の生徒が授業料を払えなくて叱られていたことから、兄と喧嘩して味噌蔵に閉じ込められたこと、農業に精を出して取り組んだこと、死ぬ間際に見た青空を──憶えている場面はすべて話した。これは作り話ではないんだと、何度も何度も心の中で訴えた。愛子さんは真顔で聞いてくれた。さいわい、店には誰も来なかった。家の奥から振り子時計の正午を指す鈍く重い音が聞こえた。
僕が話し終えると、愛子さんはうんうんとうなずいた。
「惣一さんがそう言うのなら、本当にそんなことがあるかもしれないわ」
信じてほしいと願っていたが、あまりにもあっけらかんと言われてしまったので、僕は正直とまどった。
「愛子さんは疑わんだか? こんな滑稽な話を」
「疑ってなんかいませんよ。憶えているのでしょう? その、前世の記憶を」
「だけど、誰も──親でさえ──信じてくれなんだのに……」
「うちは信じますよ」
愛子さんは目を細め、そっと口角を上げた。やわらかな表情だった。
「うちも前世を思い出したいわ」
何年ものわだかまりが、すーっと消えていくようだった。彼女の一言が、僕を身軽にしてくれた。
「もしかすると、僕たちは遙か昔にも、出会っていたのかもしれんな」
そうであってほしいという希望も込めて口にした。
しばらくは前世の話題で盛り上がった。愛子さんは、自分の前世は猫だったかもしれないと言った。理由は、悠々自適に過ごす猫を見るとうらやましくてしかたがないから。僕はなんだろうかと考え、鳥や魚かもしれないと言った。空を自由に飛びまわるのもいいし、清らかな小川に身をゆだねるのも、いい。運命や幻想を言い合っていると、次第に甘い気持ちになってきた。彼女に打ち明けてみて本当によかった。
来客があったので、僕は何気なくビスケットを購入し、愛子さんに別れを告げた。
雨はすっかり上がっており、雲の間から日が差し込みはじめていた。午後からは陽気な春が戻ってきそうだ。
踏切を渡り桜の並木道に差しかかると、僕は自転車から降りて、ちらほらと舞い落ちる花びらを眺めた。そよ風に踊らされる淡紅色のそれはきらきらと輝いて見えた。雨のせいだろう田んぼの水嵩は増していて、側溝からよどんだ水が勢いよく流れている。
僕は紙袋からビスケットを取り出した。麦のほのかな香りが鼻先をかすめた。
二
晴れたので午後からは果樹園に行き、黄昏どきまで花芽をちぎる作業に没頭した。前世のできごとを愛子さんに信じてもらえたということが、僕の然るべき場所を満たしていた。
愛子さんの笑顔を思い起こす。にごりのない純粋で聡明な瞳、やさしい口もと──おとぎ話に近い話を受け止めて考えてくれた、僕の愛しき人。
彼女は、もう僕の唯一の拠りどころとなっていた。その夜、父から話を聞かされるまでは──
ほどよい疲れを感じながら食卓につき、いつもどおり家族四人で食卓を囲んだ。そしていつもどおり漬けものや野菜をかじる音、みそ汁をすする音。静子は母に学校での事柄を話している。持久走で三位になったと、自慢そうな声。母もうれしそうに、そりゃよかったねぇと相槌を打っている。
ご飯をおかわりし、煮ものを添えて食べていたときだった。
新聞を読んでいる父がふと思い出したように顔を上げ、
「そういやぁ、奥田のバカタレの娘が嫁ぐらしいじゃねぇか」
と、さもどうでもよさそうに言った。
たちまち頭の中が真っ白になった。父がなにを言ったのかかろうじて理解できたものの、体内の、自分さえよく知らないところが悲鳴を上げた。その悲鳴は喉もとまで出かかっていたが、けんめいに押し殺した。
横にいる静子が僕の顔色をうかがうように見た。僕と愛子さんの関係を知っているだけに、痛々しく思ったのだろう。
「あら、そうですか。おめでたいわねぇ」
なにも知らない母はのんきに言って麦ご飯をほおばり、じっくりと咀嚼する。
「愛子さんって器量がいいから、ちゃんとつり合う相手なのかしらねぇ。かたづき先はどこなんです?」
「ふん。島根におる呉服屋のせがれだとよ。どうせ、苦労のくの字も知らん坊っちゃんだろう」
父はつばきを飛ばしながら吐き捨てた。
「また奥田のバカタレがいい気になっとるわい」
「どこまで段取りは運んでいるんでしょうねぇ」
「結納だ結納。今日仲人が結納をおさめに来とった、っちゅうことだ」
──そういえば。
愛子さんのうちの前ですれ違った婆さんが、なにか言っていた。すんなりと決まってよかった──たしかそんなことを口にしていた。もしかしてあの婆さんが仲人だったのではないだろうか。
心臓が不整脈を打ち、息がつまりそうだった。なにかの間違いであってほしい。そう、祈りに近い気持ちだった。
静子も、どうしたらいいのかわからないといった顔つきで、視線を膝もとに落としている。
父は腹巻きを少し下げ、鼻息を漏らした。
「まあ、見識が高いところに行ったけえってな、しあわせになれるっちゅうもんじゃない。楽をしとる人間は、いつかひどい目にあうと、相場が決まっとるだけぇ。呉服屋のせがれにうつつを抜かして、まわりのもんを見下しとったら、奥田の娘も、いつかはしっぺ返しをくらう羽目になるわ。なんちゅうか、因果じゃ因果。因果応報だわい」
わけのわからないことを抜かして、父は高らかに笑った。忌み嫌っている相手の家がしあわせになることに、内心悔しいのだろう。
玄関先の方から牛が間延びした声を上げた。はっはっは、牛も笑ってやがる、と父はもう一度豪快に笑い声を立てた。
愛子さんの顔が浮かんだ。雑貨屋に行ったときの、憂いを帯びたあの顔が。あれは僕に結婚話を切り出すことができないやるせなさが招いた表情だったのだろう。さぞかし苦しかっただろうが、そんな気持ちは微塵も感じさせずに、真剣に前世の話を聞いてくれた。僕は胸が締めつけられるような思いに駆られた。今すぐにでも愛子さんに会いたくなった。結婚の話をたしかめたいわけではなく、ただ、会いたくなった。
いてもたってもいられなくなった。
果樹園に農具を忘れた、と言って家を飛び出し、自転車のペダルを必死に漕いだ。夜のとばりの降りた村にガチャガチャ鳴り響く。今朝通った道とは思えないほど、長い道のりだった。頬や首筋にまとわりつく風がいとわしく、月さえも僕をあざ笑っているようで腹が立った。
愛子さんの家に着くころには、額や背中に大量の汗が噴き出ていた。玄関から正々堂々と上がり込みたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえて裏手にまわった。そこには田んぼと小径があるだけでほかに障害物はない。誰かがここを通りかかったら見つかってしまうだろうな、などと考えてしまい、こそこそしている自分が情けなかった。
板壁に腹をつけて、網戸の隙間から中をのぞいた。ちょうどそこは五畳ほどの居間になっており、愛子さんと両親が向かい合って座っている。僕からは愛子さんの顔しかうかがえない。食事はすませたのだろうか、卓上にはなにも置かれていないし、それに、兄弟が何人かいるはずだが、いまは三人だけだった。
「よかったなあ愛子、いい人が見つかって」
奥田のバカタレが高笑いして、まわりに同意を求めた。
「分限者に嫁ぐとなると、嫁入り道具も考えものだな。愛子に相当の品物を持たせてやらな、いけんわ」
「あなた、そのことなんですけど……」
愛子さんの母親はどことなく、水を差すようで申し訳ないといった雰囲気だった。
「実は……愛子には好いてる人がおるんです」
「本当かいな? わしは知らんで、そんな話」
たちまち奥田のバカタレの顔色がくもった。
「あなたが仕入れでいないときに、会っていたようですから、知らないにも無理はありません」
「どんなやつだ。わしが知っとるやつか」
「ほら、初瀬さんのうちの息子さんですよ。惣一さん」
奥田のバカタレは拳を卓にたたきつけた。鈍い音に、愛子さんと母親は肩をすぼませた。
「わしに相談せずにあんな馬鹿息子と逢い引きしとったんか! ……なんだ、これはわしへの当てつけかいな。初瀬のアホンダラとわしとの仲をわかってやっとるんか。愛子、なんか言わんかい!」
終始うつむいていた愛子さんが、やっと顔を上げた。今まで見たこともない、沈んだ表情だった。彼女が僕よりも苦しんでいることが痛切に伝わってきて、こっちまで泣きたい気分になった。
「うちは」
愛子さんは口を開いた。
「うちは今、惣一さんとお付き合いをさせていただいています」
「おまえはこの縁談をどう思っとるだ? おばさんが持ってきた写真を見て、いい人そうだと言っとったがな」
「それは、お父さんがあまりうれしそうにしていたから、つい……」
「あなた、考えてみてくださいよ。お見合いのときも、この子は乗り気でなかったじゃありませんか。それをあなたが無理やり──」
「うるさい、黙っとれ。わしは愛子と話しとるだけぇ」
母親を一蹴して、奥田のバカタレは腕を組んだ。
「別れろ。初瀬の名を聞くだけで、虫酸が走るわ」
「お父さんが初瀬さんを嫌っているのはわかります。でも、惣一さんまで──」
なあ、わかってくれぇや、と、奥田は一転して蚊が鳴くような声に変わった。
「親を悲しませるようなことはせんでくれ。呉服屋に嫁いだら、一生苦労せんでいい。しあわせになれるだけぇな、そこのところをわかってくれぇや。おまえのためを思って、わしは一概になっとるんだぞ。だけぇ、初瀬のせがれとは、縁を切ってくれ。このとおり、頼むわ」
しばしの沈黙のあと、愛子さんはか細く、
「考えてみます」
と言った。
僕はめまいがして二、三歩あとずさると、手のひらでこめかみのあたりを押さえた。どういう事態が起こっているのかさきほどの会話でわかってはいたが、素直に認めたくなかった。しかし、頭の片隅にはちゃんと冷静な自分がいて、諦めろ、と囁いている。諦めろ。おまえがどんなに手を伸ばしても、愛子さんは遠くに行ってしまうんだよ。
僕は何度も首を振って、それを否定した。
めまいがおさまり、ゆっくりと目を開けた。溜まっていた涙がこぼれた。
網戸越しに、愛子さんと視線が合った。彼女は、かすかに驚いた表情をして、こちらを見ていた。僕は窓から離れ、ポロシャツの袖で目もとをぬぐった。
「どうしただ?」
という奥田の声が聞こえた。愛子さんは、いいえ、と返事をした。
遠方の山からフクロウが鳴いている。それに応えるようにどこからか猫の鳴き声が響く。
慌てて自転車にまたがると一気に家路を急いだ。早く自分の部屋に戻って布団を頭からかぶってしまいたかった。明日になればなにかがよい方向に変わっているかもしれない。目覚めれば愛子さんはいつもどおり雑貨屋の店番をしていて、僕が来ると笑顔を見せてくれるのではないだろうか。夢物語だと思いながらも、僕は空想をやめられなかった。
あたりはすっかり暗闇に包まれていて、僕は何度か転び、転ぶたびに泣きそうになった。
三
あくる朝、僕は果樹園の仕事を中断して、愛子さんの家に行った。昨日の空想を引きずっているわけではなく、別れるなら別れるで、直接言ってほしかったからだ。目の前で言われれば僕だって決心がつくかもしれない。
玄関の引き戸のガラスを透かしてそっと中をのぞき込むと、愛子さんが割烹着姿で棚を拭いていた。しばらく見ていたが奥田のバカタレが出てくる様子もない。もしかしたら出かけているのだろうか。僕は迷ったが、しかしためらっていても埒が明かないので、思い切って引き戸を開けた。
いらっしゃい、と振り向いた愛子さんだったが、僕を見るなり表情が沈んだ。昨日とは違って、明るい態度にはならなかった。
彼女から視線をはずし、棚に並んだ下げびらやミルクキャラメルの箱を見つめた。
「呉服屋のもんと結婚するっちゅう話は、本当か?」
「昨日の晩……やっぱり、聞いていたんですね」
「ああ」
愛子さんは下唇を噛み、持っていた雑巾を両手でぎゅっと握りしめた。
僕は、責めているわけじゃない、と、なるべくおだやかに言った。責めてはいない。ただ、自分でもどうしていいのかわからないのだ。
僕は息苦しくなり、思わず話をそらした。
「……ビスケット」
「え?」
「ビスケットを、もらおうかな」
愛子さんはぼんやりとしていたが、気がついたのか少しうなずいて、ビスケットの箱を取った。
「ああ、それと、この際だから、乾物もな。ほら、そこのワカメをもらおうか。あと、ぎょうせんアメも、ひさしぶりに食いたいな」
この際――その言葉を言った直後に、そのとおりだと思った。もう二度とこの店に来ることはないのだから、本当に、この際、だった。
愛子さんは菓子を紙袋に入れながら、ごめんなさい、と言った。顔が悲しそうにゆがんでいる。
「いい」
なかば自分に言い聞かせるように、
「いいだっちゃ。これはしかたないことだけぇ」
僕は金を皿に入れ、紙袋を受け取った。そのとき愛子さんの手に触れ、反射的にその手を握りしめた。愛子さんは目を濡らし唇をわななかせている。喉もとまで、それじゃあ元気で、という別れの言葉が出かかっていたが──なかなか言い出せない。
「おーい、愛子や」
廊下の暖簾をめくって、奥田のバカタレが顔を出した。僕はとっさに手を引っ込ませて紙袋を持った。が、雰囲気でわかったのか、奥田のバカタレは血相を変えて、裸足のまま土間に出てきた。
「おい、おまえが初瀬のとこの、惣一か。大きゅうなったなぁ」
奥田のバカタレは僕の胸ぐらをつかんで、
「うちの愛子になにするだいや。早う出ていってくれんかのお。なにせ嫁入り前だけぇな、変なうわさを立てられとうないんだわ。おまえのせいでこの結婚話が水に流れてみい。わし、一生恨んだるで」
「お父さん!」
愛子さんが大慌てで止めに入ったが、奥田のバカタレは依然として威嚇する野良犬のような目でにらみつけてくる。僕はこれ以上愛子さんを困らせてはだめだと思い、入り口に向かった。
しかし、このまますんなりと帰ってしまうのも、癪だった。僕は引き戸を開けると振り返り、
「愛子さんを困らせとるのは──僕もだけど、あんたもだで」
と言い捨てた。
果樹園に行くと、僕は無心に仕事をした。心を空っぽにして、単調な作業を繰り返した。僕は努めて平静を装っていたつもりだったが、父に「なに、かりかりしとるだいや」と見抜かれてしまった。奥田のバカタレのことを思い出すまいと心がけていたが、体は正直で、怒りをあらわにしているようだ。
晴れ晴れとした空が恨めしい。
すぐ近くに、父の大型のラジオが置かれている。昨日、徳川要請問題に関し国会で証言した菅季治が吉祥寺駅の周辺で電車に飛び込み自殺をしたことと、米大統領トルーマン、ダレスを対日講和担当の国務省顧問に任命したという報が流れていた。僕は気持ちを落ち着かせるためにそれを聞きながら花芽を取った。
昼になった。父に「先に帰っといて」と言って、もう少し果樹園にいることにした。
作業に集中しているときだった。掘っ建て小屋のあたりに人影があった。
となりの果樹園に向かう奥田のバカタレかと思ってとっさに身構えたが、僕と背格好が変わらない青年だったので、すぐに違うと思い直した。さっきからじっとこっちを見ているようなので、僕は気になって、その青年のところに行った。
「なにか用ですかな」
僕が訊ねると、青年は目を細めた。頭にポマードをなでつけて、顔は女みたいに白く平べったい。農業をやっている者ではないとわかった。それに、上等なウールの着物を着ている。
「初瀬惣一さんですか」
「ああ、はい」
青年は、たちまち眉間に険しい縦じわを刻んだ。
「愛子さんのお父さんから聞きました。朝、家に来られたそうですね」
体が硬くなった。こいつが、愛子さんの婚約者だとわかった瞬間、僕は激しい怒りを覚えた。腹の底が煮えたぎる。両の拳を握りしめて、なんとか抑えようと努力した。そうしないと、今にでも相手を殴ってしまいそうだった。
「あの、状況がよくわからないと思いますので、簡単に説明しますと──」
「あなたが、愛子さんの婚約者、というわけですか?」
言下に、僕は聞いた。
呉服屋は軽く首を傾け、うっすらと笑った。見れば見るほど腹が立つやつだ。
「なんだ、もう勘づいていらっしゃるみたいですね。ならば話は早い。私がここへ来た理由も、ご理解いただけますね」
「金輪際、愛子さんとは会うな、というわけですか」
「まあ、手っとり早い話、そういうことです」
呉服屋は両腕を袖に入れて、空を仰いだ。ポマードがてかてか光る。
「しかし、島根から来てみて、よかったですよ。いやね、結婚日時を決めるのが目的だったんです。こんなややこしいことになっているとは思ってもいませんでした。でも、やはりここは婚約者である私が、じかにあなたと会って話をするのが道理ってものですから、いやぁ来てよかったです」
真摯な態度をとろうとする青年だが、裏には蔑みが巣をつくっているようで、僕は、どうも好きになれそうにない。しかし、愛子さんの夫になる人なのだ、悪く言うもんじゃない。
僕は頭を下げ、
「愛子さんには二度と近づきません。どうか、おしあわせに」
と苦々しく言った。早く去ぬれ、と内心では毒づきながら。
呉服屋は満足げに大きくうなずいてから踵を返した。愛子さんのうちからはずいぶんと距離があるっていうのに、歩いてここまで来るとは、ご苦労なことだ。呉服屋といっても暇を持てあましているに違いない。呉服屋の姿が見えなくなるまで、僕はずっとにらみつけていた。
拳の力を弱めて手のひらを見ると、爪のかたちをした血がにじんでいた。
一晩経っても、僕は抜け殻のようにやる気をなくしたままだった。今朝果樹園に行って仕事をしていると、──さいわい傷口は浅かったものの──うっかりノコギリで指を切ってしまった。父には怒鳴られ、母と妹には心配された。昼食を食べて出かけるために支度をしていると、父に「おまえは来んな。邪魔になるだけだけぇ、今日は休め」と、母には「病院に行きんさい。朝ご飯も昼ご飯もろくに食べんと、どこか悪いところでもあるんじゃない? 生気のない顔をしとるで。目も落ちくぼんどるし」と言われてしまった。
僕は畳の上に横になったまま、柱にかけられた暦を見やった。今日は仏滅だった。外から子どもたちのにぎやかな声が聞こえてくる。鬼ごっこでもしているのだろうか。僕は深いため息をついた。このもやもやした気持ちをどこにぶつければいいのかわからなかった。愛子さんに会えない、あのやわらかな手に触れることはできない、声も聞こえない──前途が遠のいていくようだった。
「お兄ちゃん、聞いてぇな」
静子が部屋に入ってきた。
「うち、今度の学芸会でクラスの代表として歌わな、いけんことになっただがぁ。それでいまいちコツがつかめんところがあるけぇ、ちゃんと歌えとるか、聞いといてぇな」
僕はごろんと後ろを向いて無視した。とてもじゃないが、相手をしてやれるほどの気分ではない。
「ちょっと、お兄ちゃん!」
静子は僕をゆさぶる。
「なあ、うちが学芸会で恥をかいてもいいんか?」
「知らんっちゃあ。河原でも野原でもいいけぇ、どっかに行って勝手に練習せぇや」
「一人じゃあ、どこが悪いかわからんもん。お母ちゃんもどこぞに出かけとるけぇ、お兄ちゃんしかおらんだが」
「今は静子につき合うほどの元気がないだっちゃ」
僕が邪険に体をひねると、静子は押し黙った。しばらくして、
「そんなに愛子さんのことで悩まんと、きっぱり諦めたらええが」
簡単に言うなよ、と胸のうちでつぶやく。
「だいたい愛子さんは、お兄ちゃんのような平凡でぱっとしない人の、どこが気に入ったんかなぁ。うちにはわからんわ」
うるさい、ほっとけ。
「そう考えると、もともとお兄ちゃんと愛子さんは縁がなかったってことよ。相手は高嶺の花。ひとときのいい夢だったって、割り切ったらええが」
「それができりゃ苦労せんわ!」
沈黙が降りた。そろそろ立ち去ってほしいのだが、妹がここを動く気配はない。なにをしているのかと振り向くと、静子は顎に人差し指を添えて天井を見つめていた。そしてパンと両手をたたいた。
「なら、うちを愛子さんだと思えばいいが」
「はあ?」
「うちの髪型は愛子さんの物真似だし、ちょうどええで。実はな、ひそかに愛子さんを見習っとるけぇ」
そういえば今どきは大半の子が三つ編みにしているが、妹はおかっぱ頭を変えようとしないし、自分のことを「うち」と言うところも──子どものころは「私」だったのに──愛子さんそっくりだ。
僕は顔をしかめて、
「静子が愛子さんのようになれた日にゃ、お月様がひっくり返ってしまうわ。それに愛子さんは、方言をあんまり使わん」
「別に方言ぐらいいつでも直せるけぇ、いいもん」
静子はふくれっ面をした。生意気さを感じさせるその顔つきは、愛子さんとかけ離れている。
妹の相手をしているうちにどっと疲労を感じて、僕は頼み込むように言った。
「お願いだけぇお兄ちゃんを一人にしといてくれぇや。静子とおると疲れるだっちゃ」
「なんでそんなにうちを邪魔者扱いするだあ?」
「今はここにいてほしくないだが。それぐらいわかるだろ? 静子は、僕と愛子さんとの関係を知っとるだけぇな。それとも、僕がこんなに弱っとる姿が、おもしろいんか?」
静子は応えていない様子で頬をふくらましていたが、次第に目に涙が浮かんできた。勝ち気な顔がゆがんでいく。しまった、と思ったときには、もう遅かった。
「うち、知らんわ!」
と言い残し、静子は敷居を飛び越えて去っていった。
僕は額を打ち、妹を傷つけてしまったことを悔やんだ。妹は妹なりに落ち込んだ僕を励まそうとしてくれていたのに──なんてことを言ってしまったのだろう。
家に一人取り残された僕は部屋の中でさえ居心地が悪く、やるせなかった。
そのとき、ふと目についたのが机の上に置かれた帳面だった。僕を支えている根元的な部分がぼろぼろと崩れ落ちている今、どこかにこの愛子さんへの切実な思いを放出しなければ自分が自分ではなくなるかのように感じていた。だから僕は書くことで放出しようと思い至り、さっそく帳面を開いて書きはじめた。つらつらと書きつづることで、愛子さんの存在を文字の中に押し込んでしまえばいい。それに、この状態のままだと家族に迷惑をかけてしまう。
裏山の檜林に沈んでいく西日を浴びながら、黙々と筆を動かした。
頭の隅々に散らばったかけらを拾い集めて再構築する作業は、感傷をともなう。僕はページを埋めながら――ときには涙を流し、ときには恥ずかしくなりながらも――ふつふつとわき起こってくる感情をすべて文章に直した。愛子さんに会いたくなる、その積もりに積もっていく雪のような気持ちを、時間が経って溶けるまで必死にこらえた。精神の奥に秘められている事柄は、虚構を書くときと違い、すらすらと書きつづけられた。帳面と向き合う時間は、愛子さんと向き合う時間でもあった。晩飯を少しだけ胃に流し込むと、すぐに自分の部屋に戻った。そんな僕を、父と母は訝しげに見ているだけだった。静子とは顔すら合わさなかった。
こんばんは。
来客の声が聞こえ、帳面に向かっていた意識がぷつりと途切れた。
母が玄関に行く足音が聞こえた。
「ああ、おばさん。こんばんは。惣一のやつはおりますか?」
「あら、勝彦君じゃないの? どうしただぁ、こんな時間に」
「いやぁ、ちょっとあいつに用があって」
「まあまあ──じゃあ、上がってくださいな。惣一は部屋におるけぇ」
お邪魔しますと言って、友人はドタドタせわしなく歩いてくる。僕は帳面を座卓の下に隠した。
「開けていいか? 勝手に開けるぞ」
襖が開き、日に焼けて浅黒くなった顔が見えた。開けていいかと問いかけておいて返事を待たないとは失礼なやつだが、いつものことなので僕はなにも言わなかった。
「ほれ、酒を持ってきてやったぞ」
勝ちゃんこと、大竹勝彦は笑って一升瓶と風呂敷を持ち上げた。
「よもぎ餅もある。うまいぞ」
「それより、どうしただいや? 急に」
「まあ、話はあとじゃ。一杯やろうや」
勝ちゃんはどかっと座って、風呂敷をほどき重箱を開けると、さっそくよもぎ餅をぺろりと食べた。
しかたなくぐい飲みを用意して、僕たちは酒を交わした。勝ちゃんは開けっぴろげな性格で、長男の嫁と祖母とのそりが合わないことや、それが原因で祖母が倒れてしまったことをおもしろおかしくしゃべった。調子が出てきたところで、勝ちゃんは戦陣訓の書かれた扇子を法被の懐から取り出した。
僕は日本酒を飲みながら勝ちゃんの軽口に相槌を打っていた。頭の隅では帳面のことが気になっていた。
「おい、俺ばっかり話しとるがな。おまえの話も聞かせぇや」
勝ちゃんは扇子で、僕の肩を痛いほどたたいた。焼けた肌では酔いのまわり具合がわからないし、切れ長の目では据わっているかどうかも判断がつかない。勝ちゃんは、気づけば立っていられないほど酔っぱらっていることがあるので、注意しておかなければならない。酒にのまれた彼は凶暴だからだ。
「来たときから思っとったけどな、おまえ、元気ないでないか。なんか、あったんか?」
「いや、なんも……」
楽天的な彼だが、ときどき鋭い洞察力を発揮する。それは三月に雪が降るぐらいの確率だが、今言われるとは思いも寄らなかった僕は、反射的に顔に出てしまった。
「やっぱり、なんかあったんだな。言ってみぃや。俺らは旧知の間柄、すなわち親友っちゅうもんだろがい。互いに隠し事はなしだわ。現に、俺はおまえになんでも言っとる。だから、ほれ、おまえも吐け」
勝ちゃんが勝手に言っとるだけだろ、と反撃したかったが、とうてい弁達者な友人にはかなうはずもなかったので、生唾をのんで押し黙った。
僕が言い渋っていると、勝ちゃんはしきりに「親友だろ」と口にして詰め寄ってきた。
思い返してみれば、愛子さんと交際できるきっかけをくれたのは勝ちゃんだ。農業試験場の帰りに彼に催促されていなければ、僕は思いの丈を愛子さんに言えなかっただろう。だから、彼にはちゃんと話しておくべきだし、それにどっちみち知られる羽目になるだろう。結局、僕は愛子さんの結婚話を聞いたところから、昨日呉服屋のせがれと会ったところまでをかいつまんで説明した。その間、勝ちゃんは神妙な様子で酒をあおっていた。
「もちろん、このまま引き下がるつもりはねぇだろ?」
と勝ちゃんは扇子をあおぎながら言った。障子の破れた個所から少々肌寒い風が入り込むのだが、彼は暑そうにしている。
「引き下がるもなにも、僕はもう愛子さんと会わん方がいい。ことを大きくしてしまうだけだけぇ」
「ばか野郎。一丁前に澄ました顔をするな。奥田愛子に会いとうて会いとうて、かなわんくせに」
核心をつかれ、胸をえぐられた。自分の気持ちをごまかすために手酌で酒をそそぎたす。手が小刻みにふるえていた。
「酒ばかり飲んどらんと、餅も食え。まだいっぱい残っとるぞ」
勧められてよもぎ餅をほおばると、青臭さが鼻の奥をついた。
「よし、決めた。俺は決めたけぇな」
勝ちゃんは自分の膝を、噺家のように扇子でぺしぺしとたたいた。彼は泥酔するとさらにしゃべり上戸になりお節介になる。彼に捕まってしまったな、と苦く思った。
「明日おまえらを引き合わしたる。しょうがないけぇ、俺が一役買って出たる」
「いいっちゃあ、ややこしいことになるけぇ」
「いいや、おまえは愛子さんと会わないけん。うやむやの別離ほど、二人にとってつらいもんはないけぇな」
僕は観念して、わかったよ、とつぶやく。この饒舌な親友には百年経っても太刀打ちできそうにないし、酔っぱらっているせいかすべてがどうでもよかった。
勝ちゃんは横になり両手を枕にして、「別離~の、涙は~」と歌い出した。調子はずれのへんてこな歌だけど、気づけば僕は笑いながら音頭を取っていた。勝ちゃんには人を楽しませる性質があるらしい。静子と似ている。
僕も顔がほてってきた。障子を開けると、ゆったりとした風が頬を冷ましてくれた。夜空には星くずが散りばめられていて、静謐な闇をあやなしていた。
「ん? なんだいや、これは」
視線を戻すと、勝ちゃんは胡座を組んで机の下にあった帳面をめくっていた。
「なになに……『ああ、もうじきあの人は手の届かないところへ行ってしまう……恋のわずらいは深まるばかり……』──なんじゃこりゃ。おんなじようなことがずうっと書かれとる。気持ち悪いやっちゃなあ」
僕は慌てて帳面を引ったくった。
「やめぇや! 人のもんを見んないや」
勝ちゃんは顎をなでながら、
「ははぁ、未練がましいことをやっとりますなぁ」
「とやかく言われる筋合いはないっちゃ」
「まあまあ、そう興奮しなさんなって。初瀬惣一の奥田愛子に対する思いは、十二分にわかった」
耳たぶが熱かった。丸裸にされた気分だった。僕がむっつりしていると、勝ちゃんは愉快そうに酒をあおった。僕も酒を一口ふくむ。冷たい液体が喉を通り、かっと胸を焼く。
勝ちゃんは心得顔になって、
「この帳面を愛子さんに渡せ」
と言った。僕は、すぐには勝ちゃんの言葉が理解できなかった。目をしばたたかせて、どうにか意識を保とうとすることで精一杯だった。
「いけんっちゃ。こんな恥ずかしいもんを見せられるかいな」
と言ったつもりだが、ちゃんとろれつがまわっているかどうか怪しい。
「いいや、この文章は見せるべきだ。おまえが渡さんのだったら、俺が渡したる」
勝ちゃんは帳面に手を伸ばしてきた。僕は体をひねって渡すまいとする。
「明日はおまえたちをすっきりと別れさせてやるつもりだったがな、この帳面に書かれとることを読んで、おまえが彼女に抱いとる気持ちがよくわかったわ。文章はあんまりうまくないけどな。まあ、そういうことなら俺の考えも変わるっちゅうもんじゃ。俺の考えとしては、おまえはその恋心を愛子さんにぶつけないけん。この帳面は、愛子さんの目に触れてこそ、はじめて意味あるもんになるけぇな、絶対に見せないけん。臆病者のおまえはどうせうじうじして渡せんだろうけぇ、俺がなんとかしたるわい」
「いいけ、いいけぇ。よけいなことはせんでくれぇや」
僕はよろけて、勝ちゃんを道連れに畳に倒れた。
「なにがいいだいや。愛子さんをごっつう好いとるくせに。そんなに好いとるんなら、とことん尾を引きずって別れろ。それしかないで。いくらきれいごと並べてもな、後悔先に立たずじゃ。アホなおまえはあがいてあがいて、いっぺん潮騒にもまれないけん。潮騒に……」
頭が眠りを欲求している。勝ちゃんの言葉が遠のいていく。ひどく胸焼けがする。天井からつり下がった電球に蛾がぶつかっている。ぼんやりした意識の中で、ただ一つわかっていることがあった。
それは、勝ちゃんのこの大声は家中に響き渡っているだろう、ということだ。
四
激しく体を揺さぶられ、僕は目を覚ました。胸に帳面を抱いている。よかった、勝ちゃんに取られなかったようだ。小鳥のさえずりが聞こえる。
頭を振って身をよじると、そこには静子が立っていた。
「早く朝飯を食えって、お父ちゃんが怒っとったで。あと、勝ちゃんが帰る際に『昼前には迎えに来るけぇな』だって」
そして僕がなにかを言う前に、うち、ちゃんと知らせたけぇね、と言って立ち去ってしまった。まだ昨日のことを引きずっているのだろうか。
ずきずきする頭を押さえ、うめきながら立ち上がる。ぐい飲みと一升瓶が横たわった部屋をあとにして、急いで便所に駆け込むと、胃に溜まったものをすべて吐き出した。今日はこんな調子でだいじょうぶだろうかと不安になったが、二度目の吐き気が襲ってきて、また顔を下に向けた。
胃液を出せるだけ出して居間に行くと、すでに両親と妹は食事をしていた。三人がかもし出す雰囲気で、わかる。昨夜、勝ちゃんの大声は筒抜けだったのだろう。僕たちの会話をみんなが聞いていて、事情も把握しているようだ。とくに隠していたわけではないが──父が、奥田のバカタレを嫌っているために、言わなくてもいいことだと思っていただけなのだ。それでも、やはり気後れしてしまう。とたんに居心地悪くなったが、だからといってこの場を離れても、あとから両親に問いつめられるに違いない。
渋々食卓についた。が、酔いが残っているために、箸が進まない。漬けものばかり食べていると、父が顔を上げた。
「あのおぼこ頭の娘と交際しとるんか」
言い逃れはできない。
「……はい」
「よりによって、あいつのうちの子とはな」
「もう別れました、安心してください」
「ふん。奥田のバカタレがわしに対してふんぞり返るのも、無理もないわ。おまえは、結婚する愛娘にたかっとる害虫のようにしか思われとらんぞ。世間に恥をさらしとることがわからんだか?」
「十分にわかっとります」
父は鼻を鳴らし、口をつぐんだ。
はす向かいからの母の鋭利なまなざしも痛かった。静子は素知らぬ顔でご飯を食べている。不穏な朝だった。僕は、祖父母と一緒に長屋で暮らそうかと本気で考える。
僕は昼前まで、檻に閉じ込められた傷兵の気分で過ごした。
勝ちゃんとの約束の時間が迫るころ、静子が部屋に入ってきた。帳面に、昨日のように愛子さんへの思いを書いていたところだったので、ひどく慌てた。とっさに柳行李の中に隠した。
「お兄ちゃん。うちな、応援しとるけぇ」
静子は所在なさそうに片足をぶらぶらさせながら言った。
「昨日はせっかく励ましてあげようと思ったのに、あんなふうに冷たくあしらわれて、正直かちんときたけど──でも、考えてみればそれほどお兄ちゃんが思いつめていたってことだけぇね。うちはもう、気にしとらんよ。それより、愛子さんと、ちゃんと話をつけな、いけんで」
「ああ、ありがとうな」
僕は素直に礼を言った。
静子は照れくさそうに笑って、いつもの元気な静子に戻った。そしてぴょんと跳ねて一歩前に出ると、
「なんなら駆け落ちでもしたらええが」
「アホ」
大胆なことを簡単に言ってのける妹になかば呆れた。
そのとき、玄関の引き戸が開く音がした。勝ちゃんが来たようだ。静子は「駆け落ち~の、夜は~」と──たぶん即興でつくった歌を──歌いながら炊事場の方に行った。本当に勝ちゃんと静子はよく似ている。
僕は傘立てに差してあった蛇の目傘を取ると、勝ちゃんとうなずき合ってから、家をあとにした。
上空から見下ろせば亀の甲羅のように田んぼが並んでいることだろう。僕と勝ちゃんはその亀裂の上を歩いて愛子さんのうちに向かった。
五人の子どもが、レンゲ草が植えられている田んぼの中を走りまわっている。勝ちゃんが笑いながら注意すると、子どもたちは「わー」と喚声を上げて畦道に戻っていった。僕も、幼いころおたまじゃくしを捕まえに水田に入り、勝ちゃんのような大人によく叱られたものだ。
桜並木に差しかかると勝ちゃんは、
「ここらへんの木の陰に隠れて待っとけぇや。俺が、愛子さんの親を連れ出したる。おまえはそのあとでゆっくりと愛子さんと話せばええ」
そう言い残して足早に行ってしまった。
僕は言われたとおり桜の木の陰に身を隠し、線路の先にある家を眺めた。法被姿の勝ちゃんが扇子をあおぎながら入っていく。親を連れ出す、といってもいったいどうするのだろう。強行に走らなければいいのだが……。僕は内心はらはらした。
しばらくして、
「泥棒!」
と悲鳴が聞こえた。これは愛子さんの母親の声だ。つぎに勝ちゃんが勢いよく店から飛び出してきた。脱いだ法被を胸に抱えて逃げていく。
愛子さんの母親は軒先で立ち止まり、勝ちゃんの背中と家の方を交互に見ている。
「あなた、あなた早くぅ!」
「おい、どこのどいつだ! 盗人めは」
「あの、大竹さんのうちの息子さんですよ」
「あのやんちゃなガキか」
奥田のバカタレが出てきて、二人とも勝ちゃんを追いかけていった。こんなことを言っては失礼だが、なんだか喜劇を見ているようで、僕は呆気にとられてしまった。
はっと我に返り、僕は、急いで愛子さんの家に向かった。思ったとおり、五、六個、あめ玉やせんべいが道端に落ちている。僕はぴしゃりと額を打ち、天を仰いだ。勝ちゃんの作戦とは、万引きで両親をおびき寄せるということだったのだ。よくよく考えてみれば、あの勝ちゃんに奸智があるはずがなかった。見事に不安が的中してしまい、僕はため息をついた。愛子さんの両親を連れ出すには成功したものの、あと始末を考えれば余計ややこしくなるに決まっている。とんでもないことになってしまったなと、つぶやかずにはいられない。
しかし、今さら後悔している場合ではなかった。せっかく勝ちゃんが我が身を犠牲にして両親を引きつけてくれているのだ、ここで愛子さんに会わないわけにはいかない。
僕は意を決して玄関をくぐった。
ごめんください、と声をかける前に、廊下の奥から呉服屋が慌てた様子で出てきた。まだ島根に帰っていなかったのか、と僕は舌打ちをした。向こうも、僕を見るなり顔をしかめた。
が、呉服屋は着物の襟を正すと、言った。
「なぜ、ここに?」
「……いや、それは」
ほかに言いようがなく、口を濁す。
「お引き取りください。もし愛子さんに会いに来たとしても無駄ですよ。もうあなたとは会わないそうです」
僕は突っ立ったまま、どうすることもできなかった。子どものようだなと思い、同時に自分が情けなくなった。土間のひび割れた部分をじっと見つめた。呉服屋は上がりかまちに立っているので、たぶん勝ち誇ったように見下しているだろう。
「ったく。まさか、万引きの直後にあなたと会うとは……」
呉服屋は鼻息を荒らげていたが、ふと真顔に戻り、首をひねって僕を見た。
「もしかして、あなたが仕組んだことですか?」
勘の鋭いやつだ。僕は目をそらした。それが答えになってしまったようだ。呉服屋は、やはり、と静かに言い、あなたは最低な人だ、と怒気をはらんだ声を出した。
「あなたはさきほどの泥棒──いや、たぶん知り合いでしょう──その人に愛子さんのご両親を引きつけてもらい、その間に愛子さんと会うつもりだったのではないですか? 違いますか?」
僕が黙っていると、呉服屋は得意そうに、やっぱり、と言って指を鳴らした。言動もそうだが、ポマードで整えられた髪型も癪にさわる。僕はきっと、一生好きにならないだろう。
「昨夜、愛子さんのお父さんと酒を交わしました。私は酒が苦手なものですから、吐きっぱなしでしたよ。えらくて、ずっと寝ていました。今も気分がすぐれません。だからこれ以上、逆撫でしないでほしいんです」
僕は拳を握りしめて我慢した。呉服屋に対する怒りがおさまらない。だが、このまま立ち去るのが賢明だろう。
踵を返しかけたそのとき、呉服屋が、
「百姓の分際で」
と吐き捨てた。
腹に溜まっていた怒りがうねり、僕は顔を上げた。こいつを殴らなければ気がすまない。
しかし、彼の肩越しに愛子さんが立っているのが見え、意表をつかれた僕は、呉服屋に抱いていた感情さえも忘れてしまった。物陰にひそんで聞いていたのだろうか。愛子さんは、これまで見たことのない、痛々しい表情をしている。
呉服屋は僕の顔をふしぎそうに見てから、ゆっくりと後ろを振り返った。そして、にやりと笑った。
「これはこれは、すべて聞かれてしまったようだ。私としては、愛子さんが幻滅しないうちに、初瀬さんに大人しく帰ってもらいたかったのですが、しかたありませんね。愛子さん、私も信じがたいのですが、初瀬惣一さんは知り合いを焚きつけて万引きさせたんです」
愛子さんは一歩前に出て、深く頭を下げた。
「……お引き取りください」
一瞬、耳を疑った。彼女ならば、僕がここまでして会いにきた理由を悟ってくれると思っていた。むしろ愛子さんもそういう気持ちだと思っていた。なぜなんだ、と心の中で叫んだ。僕は上がりかまちに片足を載せ、蛇の目傘を持ったまま、彼女の両腕を強引に揺さぶった。
「今すぐ身支度しろ! 一緒に遠い町に行こうや。僕がしあわせにしたる。こんなやつのところに無理して行く必要も、親の言いなりになる必要もないだけぇ」
僕は、気づけば静子に言われたことを言っていた。
「駆け落ちしよう!」
そうだ、愛子さんと一からはじめよう。こんな呉服屋や奥田のバカタレがいないところ、邪魔者が手出しできないところに行って平穏に暮らそう。平穏でささやかに。
愛子さんは眉をゆがめ、口をきゅっと結んだ。
彼女の苦しさが伝わってきて、僕は胸を締めつけられた。僕だってどうにもならないことぐらい、わかっている。自分が言っていることが淡い幻想だということぐらい……だけど、言わずにはいられなかった。
なにをやっているんだ! と、呉服屋が割り込んできて僕をはがいじめにした。愛子さんの腕をつかんでいた手が虚空をかきむしるように放れ、僕は無我夢中でもがいた。
愛子……愛子さん!
涙が視界に膜を張った。その膜の外側にいる愛子さんが両手で顔を覆っている。
僕は呉服屋に引きずられ軒先に突き飛ばされた。後頭部をしたたかに打ち、目の前に銀粉がちらつく。引き戸が閉められ、がたがたと心張り棒のかかる音がした。その音は、愛子さんと僕をつなぎ止めていた道に、仕切りを設けるような響きだった。
僕はすすり泣きながら何度も拳を地面にたたきつけた。
なんであんなやつのところへ行ってしまうんだ! なんで僕を選んでくれないんだ!
地面に散らばった破片をたたき割るかのように、右手に血がにじみはじめてもなお、やめなかった。やめられなかった。
五
桜の木の下に腰を下ろすと、幹に体を預け、田んぼのずっと向こうにある、僕の村を見た。小高い山に囲まれた辺鄙な村だ。明日から村と果樹園を往復するだけの味気ない日々がはじまり、いずれ愛子さんを忘れていくのだろうか。そう思うと、湖の波紋が消えていくような空しさを覚える。やみくもに腕を振りまわし抗おうとしても、所詮、自分のちっぽけな力ではたかがしれている。
上空では一羽のトンビが大きく弧を描きながら飛んでいる。あの子どもたちはどこに行ってしまったのか、もう見当たらない。そよ風が心地よく、菜の花がうれしそうに首を振っている。
もう、終わったのだ。
そうつぶやくなり、目の前に砂嵐が起こった。つづいて頭が圧迫される。激しい眩暈もやって来た。
僕は歯をくいしばり、両手で割れてしまいそうな頭を押さえた。電子音のような耳鳴りがする。背中が冷たくなって肌が粟立つ。額にはいやな汗がにじんでいる。
ふいに――眩暈がおさまった。かえって奇妙なくらいおだやかになった。さきほどの苦しさをすでに忘れている。僕は頭から手を放して、顔を上げた。
すると、一区画先の畦道に、青年が一人たたずんでいる。いったいどこから現れたのだろう。幽霊だろうか、と怪しんで目を凝らすが、青年の足もとは雑草に隠れていて、わからない。もっとも足はあるのだろうが、それにしても、浮いているような印象だ。
顔は?
僕は目をこすり、もう一度よく見た。青年の顔は、まぎれもなく、僕だった。遠くにいるので正確にはわからない。が、髪型から顔のかたちまでそっくりだ。格子柄の服に、紺色のズボン。このへんでは見かけない格好をしている。
青年は依然として微笑を浮かべている。その場から一歩も動いていないが、こちらに迫ってくるようだった。
僕に似た青年が近づいてくる──いや、これは僕が、僕の方が青年に吸い込まれているのかもしれない。手足はなかなか動いてくれず、首だけが小刻みにふるえる。
どんどんどんどん青年が間近に──僕はあまりの怖さに目をつむった。
その瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
――人の気も知らないで、よく平気でそんなことを言えるよな!
とうとつに聞き覚えのある声が聞こえた。僕の怒鳴り声だった。
はっとして、僕は目を開けた。するとそこには、セーラー服を着た少女がいた。静子が通っている学校の子とは違うようだ。どういうわけか、机の上に倒れ込んでいて、顔をゆがませている。
と同時に、僕はおそろしいことに気づいた。僕が、その少女の首を絞めていることに。
また眩暈が襲ってきた。吐き気もする。視界が揺らぎ周囲の輪郭が幾重にも重なる。なにをしているんだ! と自分に問うが、答えはわからない。目の前で起こっていることが理解できない。
あたりは明かりに満ちているが、視界がぼやけているせいで、まったくと言っていいほど何も見えない。室内のようだが、それにしては広々としている。なぜか椅子が散乱している。雨が窓をたたく音もしている。聴いたことのない音楽も流れていた。ココハドコダ。
それよりも早く少女の首から手を放さなければ、と思い至り、僕は必死に手の力をゆるめようとする。が、意に反して、手は動かない。むしろますます指が少女の首にくい込んでいく。体内から汗がぶわっと噴き出てくる。どうすればいい? 思考がうまく働かない。
少女は苦痛を訴えながらも、鋭いまなざしでこちらを睨みつけている。僕は心の中で、わかってくれ、わかってくれよ、と懇願している。
視界の片隅を何かがよぎった。
上目遣いに見ると、そこには、蝶々が飛んでいた。黄金色の光を身にまとっている。
ああ、と、思った。ああ、また会ったな、と。黄金色のそれを、僕は知っていた。空山の頂で、愛子さんと日の出を眺めていたときに見たのだ。きらきら輝く蝶なんてはじめて見たものだから、よく憶えている。
頭も胸もずきずきするというのに、ふしぎとおだやかな気分になれた。
蝶は虚空をさまよっている。その不規則な動きを、僕は目で追いかける。
そのとき、突然少女が起き上がった。いつの間にか首を絞めていた手がゆるんでいたらしい。
少女は部屋を出ていく。
――ちょっと待てよ!
僕は叫び、慌ててあとを追う。
暗く長い通路を走る。少女が突き当たりを右に折れるのがわかった。
行かないでくれ、と、僕は内心でつぶやいた。頼むから行かないでくれよ、愛子さん……。
僕は暗がりを駆け抜けながら、愛子さん、愛子さん、と呼んでいた。
──愛子さん、置いていかないでくれ!
走っても走っても、一向に突き当たりにたどり着けない。頭がぼんやりとしていて、今にも倒れてしまいそうだ。僕は歯をくいしばり手足を振りつづけた。走るのをやめたら、もう二度と愛子さんと会えなくなるような気がしていたからだ。
前方の暗闇に愛子さんの姿が見える。顔に微笑を張りつかせている。どうやら僕を待っていてくれているみたいだった。
──愛子さん!
あとちょっとで届きそうだ。彼女に追いつき、その肩に手をかけた。
──愛子さん!
眩暈がおさまった。そして彼女は消えていた。あまりにもあっけなく。闇の世界がゆがむ。僕の体もぐにゃっとゆがみ、でたらめに引き伸ばされていく。足がどろどろした液体のように流れはじめる。叫ぼうとしたが、声が出ない。愛子さんを探そうとまわりを見まわすが、しかし何もかもがあやふやになっていった。
心には、彼女をつかまえられなかった後悔だけが、寂しく残っていた。
惣一……。誰かが呼んでいる。
惣一。惣一。声が少しずつ鮮明に響いてくる。
「おい、惣一。起きろや」
目を開けると、そこには勝ちゃんがいた。
ぼんやりとあたりを見渡す。平凡な田園風景が広がっている。日差しに、山が、雲が美しく照らされている。それらは思わず目を細めてしまうほどまぶしい。僕は桜の木にもたれかかっていた。ずんぶんと眠っていたのだろう、体の節々が痛い。
でも、いつ眠ったのだろう? あの、自分に似た幽霊を見たところだろうか?
さきほどの夢は、いったいなんだったのか。僕は、知らない少女の首を絞めていた。そして、その少女に愛子さんを重ね合わせていた。
もう少しじっくりと考えてみたかったが、勝ちゃんの声にさえぎられてしまった。彼は僕の横で胡座をかきながら、言った。
「それで、どうなっただ。愛子さんと、ケリはついただか?」
僕は、そんなことよりも勝ちゃんの左頬が青く腫れているのにびっくりした。
「ここ、青くなっとるで! どうしただいや?」
「いやあ、こんなもん、どうでもええがな」
「よくないっちゃ。もしかして、奥田のバカタレに捕まったんか?」
「情けないことに、溝にはまってしまってな」
勝ちゃんは頭の刈り上げをかきながら陽気に笑った。僕は素直に謝った。
「すまんかった……僕のせいで」
「ええっちゃ、ええっちゃ。気にすんな。愛子さんとどうなったか、早う教えてくれ」
「それがな……」
体を張って協力してくれた勝ちゃんには申し訳ないが、呉服屋のせがれに邪魔された、と告げた。作戦は失敗に終わった、と。
勝ちゃんは腕を組んで、下唇を突き出した。
「残念だったなぁ。もう、手はないで」
「ええけ。愛子さんを一目見られただけで満足だっちゃ」
僕は努めて明るく言い、話題を変えた。
「それより、あれにはびっくりしたで。勝ちゃんが、法被に大量の菓子を入れて逃げるのには」
浅黒い顔から大きな前歯がのぞいた。
「おもろかっただろ」
「なにがおもろいだいや。無謀っちゅうもんだわ。なんも聞いとらんこっちは、冷や汗たらたら、だったわ」
僕たちは冗談を言い合いひとしきり笑った。風が強まり、舞う桜の花びらが多くなった。何日かたてば新緑が生まれることだろう。
勝ちゃんは花びらを手のひらに載せて、
「静子も、おまえのことを心配しとったけぇなぁ」
しみじみと言った。
「ああ、あいつはやさしい心根をしとるけぇ」
「昨日、俺んちに来たことは、知っとるか」
「昨日? 静子と会ったんかいな」
「昼飯を食っとったら静子が来てな、お兄ちゃんが心配だと言うんじゃ。えらい深刻な顔だったな。俺はてっきり、おまえが事故にでも遭うたんかと思ってしまったわい」
昨日静子が家を飛び出していったときのことを思い起こした。悪いことをしたな、と僕は心の中で妹に謝った。
「まあ、そんなこんなでな、俺もおまえと愛子さんのことが気になって、酒を持っていったっちゅうわけじゃ」
「……ありがとうな」
意外な言葉を聞いたかのように勝ちゃんは瞠目した。
「よせやい。そんな言葉を聞きたいためにやったんじゃねぇしよ」
「静子と勝ちゃんには、たくさん助けられたな」
「気にすんな」
「ああ、勝ちゃんも何か困ったときは言ってくれぇよ。僕にできることならなんでもするけぇ」
「わかった、わかった」
「たとえば、いつでも静子と会わせたる。二人っきりにでもしたるで」
「な、何を言っとるだいや」
「だけぇ、たとえばの話じゃ」
「ああ、そうかそうか。たとえば、か」
勝ちゃんは目を左右に泳がせながら、両手の指をもじもじさせている。わかりやすい反応に、僕は噴き出してしまった。
「何がおかしいだいや」
「いや、すまん」
愛子さんの存在を消すために、僕は大いに笑った。足もとには出かけるときに持ってきた蛇の目傘がある。それを彼女に渡せなかったことが、心残りだ。
「おーい、お兄ちゃん!」
遠くから静子の声がした。勝ちゃんが驚いて、首をきょろきょろ振る。
静子は、愛子さんの家の近くで手を振っていた。あんなところで何をしているのだろうと思っていると──愛子さんが家から出てきた。水玉模様のワンピースを着ている。まぎれもなく、彼女だった。
静子は愛子さんをこちらに引っぱってきている。そのとき汽笛が鳴り響いた。線路の向こうから蒸気機関車が近づいてきた。僕は立ち上がった。もう会えないと思っていた愛子さんが、踏切を挟んで立っているのだ。
蒸気機関車は愛子さんを隠しながら轟音とともに通過していった。やがて静子と愛子さんがやって来た。
桜並木は彼女たちをよろこんで迎え入れているかのように花びらを散らせる。
愛子さんは、僕の前まで来ると顔を上げた。
「……もう会えないと思っていました」
僕が思っていたことを彼女も思っていてくれていたようだ。純粋にうれしくなった。
静子は勝ちゃんに駆け寄り、背中を押した。
「さあさあ、さっさと邪魔者は立ち去るべし」
「あ、ああ、そうだな」
勝ちゃんが動揺した面持ちで扇子をあおぐ。そして静子に押されながら連れて行かれた。静子たちの足取りは存外速く、見る見るうちに遠のいていく。帰ったら、妹に、勝ちゃんのことをどう思っているか聞いてみようと思った。
愛子さんが、
「あの二人、お似合いですね」
と言った。
「両方気が強いし、快活だしな。だけど、ありゃあ、勝ちゃんの方が尻に敷かれるで。結婚したら間違いなくかかあ天下になるわ」
愛子さんは笑った。その笑顔をひさびさに目にしたようで、僕は胸が躍った。
「それにしても、よく家を抜け出してこれたなぁ」
「静子さんのおかげです」
愛子さんは風になびく髪を耳に引っかけて、
「彼女が帳面を持ってきてくれたんです」
「帳面?」
「ええ、惣一さんの」
僕は恥ずかしくなった。それに、静子にあの帳面のことを知られていたなんて──そういえば、昨夜、勝ちゃんが大声で「この帳面を愛子さんに見せるべきだ」とかなんとか言っていた。静子はそれを聞いていたのだろう。
「静子さんに、この帳面に書かれてあることは兄の本当の気持ちだからって、一生懸命説得されました。そして、読みました──うち、惣一さんの気持ちが痛いほどわかって、どうしようもなくなりました。家族のみんなは反対したんですけど、でも、今会っておかなければ取り返しのつかないことになると思ったんです。だから、ここに来ました」
僕が黙っていると、愛子さんは、座りませんかと言った。二人で桜の木の下に腰かけると、舞い落ちる花びらが雪のように輝いて見えた。
「それでも」
僕は吐息とともに言葉を吐き出す。
「それでも、行ってしまうんか」
彼女は心底悲しそうにうなずいた。
「なんでそこまでして、嫁ぐだ?」
「親を悲しませるな。その、父のひと言で、うちは決心しました」
反論できなかった。愛子さんが従順というわけではなく、それが当たり前なのだ。親に刃向かうほどの親不孝者は、この町にいない。誰もが親の示した道を選ぶ。
「うちは今日限りで惣一さんのことを忘れなければいけません。このような生半可な気持ちのまま、嫁ぐわけにはいきませんから」
「あの呉服屋のせがれのことは、どう思っとるだ?」
愛子さんは、僕の問いには答えず、
「うちはあなたが話してくださった、生まれ変わりを信じています。いや、すがっていると申したほうが正しいのかもしれません」
「どういうことだ」
「今度生まれ変わったならば、そのときこそ、あなたと結ばれたい」
ゆるやかな口調だったが、言葉の底に痛烈な響きがこもっていた。
僕は窒息してしまいそうなくらい息苦しくなった。静まれと言い聞かせるように心臓を押さえながら、僕は切れ切れに告げた。
「名前をつけよう」
「名前?」
「ああ、孫になるかひ孫になるかわからないが、自分が死ぬ前に、生まれてくる子に名前をつけるんだ」
「どういうことです?」
僕は、さきほど見た夢を思い出していた。僕が追いかけていたあの少女は、愛子さんなのではないか──そう思えてしかたがない。あの夢が示唆するところによると、僕はいつか、なんらかのかたちで愛子さんと再会するに違いない。夢では名前すら呼んでいなかったから、本当にあの少女が愛子さんかどうかはわからない。あの少女が「愛子」という名前でなくても、もしかすると、愛子さんの生まれ変わりかもしれない。そこで、僕は考えた。
「僕たちは未来で再会するかもしれない。たぶん、生まれ変わって。そのときに証拠がほしい。その人は、本当に奥田愛子の生まれ変わりで、魂が同じものかどうか、という証拠が。もっとも、名前がついているからといって、その人が愛子さんとは限らないし、逆に、僕とも限らん。同じ名前のもんはようけぇおるから。でも、お互いのしるしとして名前をつけておいた方が、わかりやすいにはわかりやすい、と思う」
思いがけない衝動に突き動かされるまま、僕は言う。
「だから、名前をつけるんだ。そのままでなくてもいい。たとえば、僕だと惣一の『惣』を、愛子さんなら『愛』をつけて、強く念じるんだ」
「生まれ変わるにしても、そう都合がよく、望んだふうにいきますかねぇ。孫に名前をつけたとしても、その孫に生まれ変われるかどうか、わかりませんもの」
「いや」
僕には確信があった。それはおそろしいほど強靱なものだった。
「望めば、その子として生まれ変われると思うんだ。僕の話を理解してくれた愛子さんならわかるだろ? 人間の魂は、たとえ身を変えようとも、同じもんだ。魂に強く言い聞かせておったら、きっとその身に移れる。季節が訪れれば、また芽が出て花が咲くように、人も植物もなんら変わらん。そしてその木に生まれた花は、終わることなくずっとその木に咲きつづける」
「うちには、まだよくわかりませんが……」
愛子さんは表情をやわらげた。
「もしも、惣一さんと一緒になれる可能性が少しでもあるのならば、それに賭けてみようと思います」
風が強まった。枝を揺さぶられた桜が、淡紅色のそれを目一杯降らす。
僕たちはしばらくの間、無言で桜を眺めて過ごした。しゃべらなくともお互いの気持ちが離れることはない。僕は、愛子さんの手を握った。彼女は抵抗しなかった。時間がとまってほしい、と心から願ったが、無情にもあたりは暗くなっていった。
愛子さんは静かに泣いていた。
僕はきれいだと感じた。本当なら彼女を誰にも渡したくなかった。どうにもならない現実が憎々しく、同時にやるせなかった。
未来はどうなっているだろう。周囲の反対を押し切ってまでして、愛しい人と添い遂げられる時代になっているだろうか。それとも、女性はまだ親の言いなりになり、人生を決められなければならないのだろうか。できればよりよい方向に変わっていってほしい、と願わずにはいられない。
「そろそろ、行きます」
愛子さんは消え入りそうな声で、言った。
僕は心臓をわしづかみにされたような痛みを引きずりながら立ち上がった。彼女の家と僕の家は反対にある。ここで別れなければならない。
「そうだ!」
僕は、ずっと持っていた蛇の目傘を差し出した。
「これは嫁入り道具にと思って持ってきたんだが……、受け取ってくれるか?」
「……うれしいです」
愛子さんは傘を大事そうに胸もとに寄せて、
「大切にします」
そのとき、僕の体内で強烈な波が打った。両手を彼女の肩に置き、強引に引っ張り、口づけをかわした。
愛子さんも腕をまわしてきた。お互いがお互いを強く引き寄せて放さなかった。
今を憶えておこう。永遠に忘れまい。この胸が焦がれる思いや彼女の感触、あたりの沈んだ光景を──今の人生でも、つぎの人生でも憶えておこう、と僕は心に誓った。僕たちは「線」でつながっているのだ、離れることはない。
どれくらい時間が流れただろうか。どちらからともなく唇を離した。
愛子さんはいつものやさしい笑みを残して、去っていった。最後に見た彼女の後ろ姿は、りんとしていて、揺るぎない決心に満ちあふれていた。
タイムマインド(①惣一編)