文豪作品を貼り付けと他に少々。

文豪作品を貼り付けと他に少々。


(今日は一時間程しか時間が無いので急いで・・。)


 尾上雄二曰く・・。
 意地の悪い者もいる一方、どうしてこんなに良い人なの・・という方もいた。
 前者は挙げれば挙げるほど馬鹿らしくなるので、後者の一例を挙げる。ああ・・その中間でよく分からない者も・・。
 で、雄二に代わる。
 自民党橋本という者は既に亡くなったと思うが、確か此の国で初めて消費税を課したと思う。
 其の後安部君等も確か消費税を更新(笑)し、法人税を二度ほど下げたと思う。現在税率が10%なのか8%なのかは分からないが、国民の半分には結構しんどいものだと思う。
 よく海外諸国と比較するという言い訳が使われるが、此れは問題外で其れだけでなく其々全くお国事情が異なるので比較は無理。
 第三世界の貧しい国と北欧とでは極端な違いがあり、後者では昔から高齢者には評判が良いと言われたが、反面、国が行き詰まらないような仕組みがあったからならではの事。
 橋本なのだが、義塾の同窓であった。
 体育会の剣道部で、ミシンメーカーだったジューキミシン(今はJUKIかな。)の社長も同じ剣道部の後輩だった。
 そんな事から二人の会話がいろいろあったが、大体体育会系の先輩後輩なら其れなりの恩恵があって然るべきだろう・・が好きではない。
 橋本の後の義塾出身が「郵政改革・・自民党をぶっ潰せ・・」の小泉氏となる。勿論アイディアマンの彼にとり、自民党の首相なのだから本音では無いが・・面白い人だ。
 少なくとも「・・馬鹿野郎・・解散・・」の吉田茂よりはましだと思うが・・国内・議員や自民党内での評価は無視。
 人類社会ではこんなケースもあった。
 其のジューキに副社長で出向したのは芙蓉グループの要である富士銀行~今のみずほbankは第一勧銀と富士銀が合併したもの。
 別の三次元空間所在の巨大コンツェルンは自分達の文明がこしらえたものだが・・一部参考にした。
 ざっと流す・・。
 芙蓉グループ。
 芙蓉グループ(ふようグループ、英語:FUYO GROUP)は、安田財閥、浅野財閥、大倉財閥等の系譜を引く企業と富士銀行(現:みずほ銀行)の融資系列からなる企業集団である。
 芙蓉会、芙蓉懇談会に加盟する企業からなる。“芙蓉”の名は、中核だった富士銀行の“富士”の雅称に由来する。
 芙蓉のローマ字表記の頭文字を取って「Fグループ」とも呼ばれる。
 富士銀行との“つながり”がベースとなって形成された企業集団であり、「富士銀行を筆頭とする垂直関係を具備したグループとしての経営支配」ではなく、「グループ企業が互いに対等な関係にあっての業種を超えた交流」といえる。
 安田財閥の創始者・安田善次郎は「金融業は金融業に徹するべき」という哲学をもっており、三菱・三井・住友のような他の財閥と異なり重工業や通商には参入しなかった。
 そのため経営資源を金融部門に集中することで金融財閥として成功、安田銀行・安田火災・安田生命などの強力な金融企業を育てた。
 また沖電気や日本精工などといった旧安田関連の企業へも融資等を行っていたものの、企業の育成や経営支配などについてはおおよそ消極的であった。
 安田善次郎の死後になって安田銀行も企業育成に乗り出すようになり、浅野財閥・根津財閥・大倉財閥など小規模財閥への融資を行った。
 また、新興財閥である森コンツェルン・日産コンツェルンとも親密となる。しかし、これらは融資関係に留まり直系企業として産業を垂直支配しようとする動きはなかった。
 第二次世界大戦後、安田財閥の持株会社であった安田保善社は、GHQによる財閥解体令を待たずして自主的に解散。
 プロパーの安田銀行幹部は安田家による同族経営と決別し、1948年に安田銀行は富士銀行と改称した。
 これ以降も戦前の小財閥との関係は続いた。
 富士は、終戦後、しばらく都市銀行界においてトップの地位にあった。だが、2位の三菱銀行、3位の住友銀行が企業集団を背景にトップの座を目指し猛攻を開始。旧安田財閥には事業部門に優良企業がなかったため、富士は苦戦が目立ち始めた。
 そこで、案出された戦略が「経済主流取引」であった。「経済主流取引」とは、その時々の経済情勢において、主流を成すと思われる経済主体(当時は大企業)取引を強化しメインバンクとなることであり、富士は東京大学卒の優秀な行員を企画部に配置。
 「経済主流取引」を任せられる有為な人材の育成に力を注いだ。この「経済主流取引」が全店レベルで実践に移されると、重点を置く企業の取引担当店(主管店)が取引先を調べ、その取引先の所在地の支店と協力しながら、取引を開拓する「躍進三大運動」(預金の躍進、基盤の確立、合理化)を展開した。
 なお、この「経済主流取引」なる用語を考えた出したのは業務部綜合企画課課長代理であった松沢卓二(のち頭取)であった。
 富士を中心とした企業集団が明確に形成されるのは、1950年代のことである。当時常務であった岩佐凱実(のち頭取)が中心となって有力取引先の社長らと懇談を重ね、融資先とのコネクションの形成を担った。
 そうした中、髙島屋から分離して発足した商社の高島屋飯田が経営不安に陥り、再建策が俎上に載った。
 当初三井物産などに営業譲渡が模索されたが、結果として富士の主導で丸紅との合併話が進み、丸紅飯田(のち丸紅に改称)が誕生した。これに伴い、融資系列も住友銀行から富士の系列となり、丸紅は富士における融資系列を代表する企業となった。
 加えて丸紅は富士の融資系列企業との商取引も拡大。これによって、従前、繊維部門偏重だった丸紅は総合商社として脱皮することに成功した。
 こうして、資金の流れを管理する銀行・モノの流れを管理する商社からなる戦後高度経済成長の企業集団に必要な2つの要素が揃い、芙蓉グループの基礎が整った。
 芙蓉懇談会・芙蓉会結成
 富士は1960年4月、日本鋼管(現:JFEホールディングス)の千葉進出計画を契機に富士、丸紅飯田、日本鋼管、昭和電工、東燃石油化学(現:東燃化学)、日本油槽船(現:日本郵船)による「企画部長会」を結成。徐々に参加メンバーを拡げ、1963年11月にグループ機関誌「F」を創刊した。
 そして、1964年12月に富士の融資系列企業22社の営業担当役員が一堂に会して、第一回販売促進グループ懇談会を開催。 のちにこの会合を「芙蓉懇談会」と改称した。
 同じ頃三菱グループが「BUY三菱」(三菱を買いましょう)運動を始め、1965年に「あなたの三菱、世界の三菱」をグループの共通宣伝標語として三菱グループ企業の従業員とその家族を対象として「三菱ファミリー・ショー」を開催した。 すると、これに追随し住友グループ、三井グループも企業集団ぐるみの広報・マーケティングを展開し始めた。
 こうした動きを見て、三大財閥の系譜を引かない企業間でグループ化して対抗していかなければならないとの機運が高まり、1966年1月に富士は融資系列に有力財界人を加えて社長会「芙蓉会」を結成。
 また副社長会「芙二会」、総務部長会「芙総会」、企画部長会「芙水会」と各役職ごとの会も生まれた。
 芙蓉グループの特徴として、歴史的な因縁で結ばれた財閥系グループと異なり、合理性のある、反面ドライな繋がりであることが挙げられる。
 芙蓉懇談会の発足に際しても、富士頭取の岩佐凱実は「歴史的資本的に強く結びついた閉鎖的なものでなく、相互連携のメリットを求め合う友人のような企業の集まりに」と述べている。
 後に頭取を務めた松澤卓二は「他のグループの企業と連携することは一向に差し支えない」と発言している。
 芙蓉グループの発足に沿って、グループの総合化を図ろうとかつての財閥系列以外の企業も積極的にグループに取り込んだほか、共同投資会社の設立も活発となった。
 この方針に則り、1969年に芙蓉海洋開発、また翌年5月に芙蓉情報センター(現:みずほ情報総研)が発足した際には系列以外も含めて出資先は53社を数えた。 このほか1972年に芙蓉総合開発(現:ヒューリック)、1973年に芙蓉石油開発の共同投資会社も設立した。
 下記加盟企業にあるように、「融資系列」として親密になったメンバーも多い。しかし、2度のオイルショックによる景気後退で、企業の資金需要が後退し、都市銀行の威光に翳りが見え始めると、1978年頃には富士と非財閥系である三和銀行との合併計画も現出、次第に芙蓉グループは求心力を弱めていく。
 バブル経済後
バブル景気崩壊後は、富士の巨額不良債権問題と公的資金注入および芙蓉懇談会メンバーであった主幹事証券の山一證券の自主廃業、それに連動し富士と安田信託銀行の株式の売り浴びせなど、芙蓉グループに所属する企業は時代の荒波をもろにかぶった。
 大倉商事倒産の際には、富士、丸紅、大成建設のトップが集まり、富士が丸紅に大倉商事の全面救済を依願したが丸紅は拒否。
 また日本鋼管が大倉商事との取引を一時ストップしたことが危機説に拍車をかけたとも謂われた。
 さらに昭和海運の債務超過による日本郵船への吸収合併の際には富士は冷淡なスタンスに終始した。
 加えて、日産自動車が経営危機に陥り、ルノーと業務提携を結び同社からカルロス・ゴーンをCOOと招き、リストラを断行した際には、富士は経営計画の策定に関与できなかった。
 このほか、安田財閥の系譜を引く東邦レーヨンは1960年代に業績不振に陥り、富士の主導で日清紡績傘下に収まったが、1999年10月に帝人が炭素繊維部門の強化を狙い買収。子会社化した。これを機に東邦レーヨンは芙蓉会を脱退した。
 これら以外にも商社冬の時代による丸紅の経営不振、飛島建設の不良資産なども持ち上がった。
 一番の転機は、富士が2000年9月に第一勧業銀行、日本興業銀行とともに設立した持株会社みずほホールディングス(現:みずほフィナンシャルグループ)のもとで経営統合、みずほFGが発足した事が挙げられる。
 これに伴い、富士は前年秋に芙蓉会の幹事を退き、幹事は丸紅、安田生命、安田火災の3交代制に移行。
 富士(みずほ銀行)は芙蓉会の一加盟社となった。さらに2000年9月には事務局を丸紅に移した。
 この後、安田火災は2002年に日産火災と合併し損害保険ジャパンとなり、2010年に損害保険ジャパンは日本興亜損害保険と経営統合。
 2014年に両社は合併し損害保険ジャパン日本興亜となった。また2004年1月に安田生命も三菱グループの明治生命保険と合併し、明治安田生命保険となった。
 2017年現在、芙蓉会はトップの懇親会として26社が加盟し、丸紅、みずほFG、みずほ信託銀行が幹事社を担うが、芙蓉グループとしての活動はほとんど行っておらず、グループとしての活動は64社が加盟する(2017年11月現在)芙蓉懇談会を中心に地道に展開している。
 具体的に企業を上げようと思ったのだが、時間が十分しかない・・。
 堅苦しい話ばかりでなくこんな事も・・。
 日産自動車以外の車は購入できない・・。
 家を建てると全国に転勤させられる・・。
 此れは・・ほぼ事実・・。
 下宿のおじさんも日本冷蔵の会長で・・よく麻雀をやろうと誘われその時間・・下宿が麻雀荘になった事も・・。
 此の人の面白いのは麻雀牌に「中」があるでしょう・・。此れは色が赤色だから・・こんな事を言いながら場に捨てた。
「・・共産党の蠅叩き・・」
 経営者にとっては・・そうなのかも知れない・・組合の事・・。実際には此の国で共産主義など有り得なく・・共産党は中道左派と言える・・。
 そういえば・・最近投げ込み禁止とうたってあるにも拘わらず・・チラシを投げ込む者がおり・・注意をした。
 大抵は・・皆素直で・・法律上の説明をすれば・・済みません・・。
 中には・・善人だが・・空手道場・・極真空手と言えば・・大山倍達(ますたつ)・・知っているかな?・・牛を殺したり・・ヒグマを空手で倒したのは此の人だけのようだが・・。創始者だ・・。
 其れは良いが・・こんなチラシも・・「中国共産党はこんな酷い事を・・USAミシシッピー州で・・」
 いい加減呆れる・・。
 CHINAは他国で・・どうであろうと・・内政干渉にあたる・・し、中国共産党とくると・・他国の政党まで面倒見れるの?・・全く関心は無い・・。
 で、何を言おうとしたか・・。
 ああ、富士銀の役員がいた・・勿論、会社四季報に載っていた・・此の人の話なのだが・・東京大卒で何れ富士銀の社長と言われていた。
 優秀は優秀だった。此の人・・。
 時の社長と口論になった・・此の人が社長に言ったのは・・。
「・・貴方の言う事は正しい・・しかし・・その言い方は宜しくない・・」
 そんな事を言えば・・平役員にされてしまう・・。
 しかし、ジューキの副社長~社長は上記橋本の後輩である者~として勤め・・他にも社長を兼務したが・・USAジューキが経営難とか?USAに駐在し交渉をした・・。
 
 本当はこんな事を言うのでは無かった。
 銀行で消滅したのは・・おかしな形の本社だった・・長銀ともう一つ・・不動産銀行・・というものがあった。
 良い銀行だったが・・元其処にいた人が同窓だった。実に人の良い人で・・珍しい人類だったが、ある学生が大不況の折就職が決まらなかったそうだ・・。
 同じ義塾というだけで・・ひょんなことがきっかけで・・大した関係では無いのだが・・此の者の就職を一緒に歩き回って探してくれたそうだ・・。
 ゼロックスだ・・東京会館だ・・こういう人も珍しいと思っただけだ・・。
 
 

 時間が無いので・・文豪作品を貼り付けて終わる・・。



 夏目漱石

 夢十夜から。

 第四夜

 広い土間の真中に涼み台のようなものを据すえて、その周囲まわりに小さい床几しょうぎが並べてある。台は黒光りに光っている。片隅かたすみには四角な膳ぜんを前に置いて爺じいさんが一人で酒を飲んでいる。肴さかなは煮しめらしい。
 爺さんは酒の加減でなかなか赤くなっている。その上顔中つやつやして皺しわと云うほどのものはどこにも見当らない。ただ白い髯ひげをありたけ生はやしているから年寄としよりと云う事だけはわかる。自分は子供ながら、この爺さんの年はいくつなんだろうと思った。ところへ裏の筧かけひから手桶ておけに水を汲くんで来た神かみさんが、前垂まえだれで手を拭ふきながら、
「御爺さんはいくつかね」と聞いた。爺さんは頬張ほおばった煮〆にしめを呑のみ込んで、
「いくつか忘れたよ」と澄ましていた。神さんは拭いた手を、細い帯の間に挟はさんで横から爺さんの顔を見て立っていた。爺さんは茶碗ちゃわんのような大きなもので酒をぐいと飲んで、そうして、ふうと長い息を白い髯の間から吹き出した。すると神さんが、
「御爺さんの家うちはどこかね」と聞いた。爺さんは長い息を途中で切って、
「臍へその奥だよ」と云った。神さんは手を細い帯の間に突込つっこんだまま、
「どこへ行くかね」とまた聞いた。すると爺さんが、また茶碗のような大きなもので熱い酒をぐいと飲んで前のような息をふうと吹いて、
「あっちへ行くよ」と云った。
「真直まっすぐかい」と神さんが聞いた時、ふうと吹いた息が、障子しょうじを通り越して柳の下を抜けて、河原かわらの方へ真直まっすぐに行った。
 爺さんが表へ出た。自分も後あとから出た。爺さんの腰に小さい瓢箪ひょうたんがぶら下がっている。肩から四角な箱を腋わきの下へ釣るしている。浅黄あさぎの股引ももひきを穿はいて、浅黄の袖無そでなしを着ている。足袋たびだけが黄色い。何だか皮で作った足袋のように見えた。
 爺さんが真直に柳の下まで来た。柳の下に子供が三四人いた。爺さんは笑いながら腰から浅黄の手拭てぬぐいを出した。それを肝心綯かんじんよりのように細長く綯よった。そうして地面じびたの真中に置いた。それから手拭の周囲まわりに、大きな丸い輪を描かいた。しまいに肩にかけた箱の中から真鍮しんちゅうで製こしらえた飴屋あめやの笛ふえを出した。
「今にその手拭が蛇へびになるから、見ておろう。見ておろう」と繰返くりかえして云った。
 子供は一生懸命に手拭を見ていた。自分も見ていた。
「見ておろう、見ておろう、好いか」と云いながら爺さんが笛を吹いて、輪の上をぐるぐる廻り出した。自分は手拭ばかり見ていた。けれども手拭はいっこう動かなかった。
 爺さんは笛をぴいぴい吹いた。そうして輪の上を何遍も廻った。草鞋わらじを爪立つまだてるように、抜足をするように、手拭に遠慮をするように、廻った。怖こわそうにも見えた。面白そうにもあった。
 やがて爺さんは笛をぴたりとやめた。そうして、肩に掛けた箱の口を開けて、手拭の首を、ちょいと撮つまんで、ぽっと放ほうり込こんだ。
「こうしておくと、箱の中で蛇へびになる。今に見せてやる。今に見せてやる」と云いながら、爺さんが真直に歩き出した。柳の下を抜けて、細い路を真直に下りて行った。自分は蛇が見たいから、細い道をどこまでも追ついて行った。爺さんは時々「今になる」と云ったり、「蛇になる」と云ったりして歩いて行く。しまいには、
 「今になる、蛇になる、
  きっとなる、笛が鳴る、」
と唄うたいながら、とうとう河の岸へ出た。橋も舟もないから、ここで休んで箱の中の蛇を見せるだろうと思っていると、爺さんはざぶざぶ河の中へ這入はいり出した。始めは膝ひざくらいの深さであったが、だんだん腰から、胸の方まで水に浸つかって見えなくなる。それでも爺さんは
 「深くなる、夜になる、
  真直になる」
と唄いながら、どこまでも真直に歩いて行った。そうして髯ひげも顔も頭も頭巾ずきんもまるで見えなくなってしまった。
 自分は爺さんが向岸むこうぎしへ上がった時に、蛇を見せるだろうと思って、蘆あしの鳴る所に立って、たった一人いつまでも待っていた。けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。




「人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ。夏目漱石」

「 矜誇、愛欲、疑惑、あらゆる罪は三千年来、この三者から発している。同時にまた、おそらくはあらゆる徳も。芥川竜之介」

「仕事は目的である。仕事をはっきりと目的と思ってやっている男には、結果は大した問題ではない。志賀直哉」



「by europe123 」
https://youtu.be/WOd05LXYI2g 

 
 
 




 

文豪作品を貼り付けと他に少々。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-30

Copyrighted
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