蝶の標本
「拓海ー、遅いよ」
「うん、分かってる...んしょっ...」
肩に掛けた2人分の荷物をもう一度引っ張って掛け直す。
湖畔から蒸発した霧と朝露が朝日を反射させていた。俺が思わず目を細めると雪月は少し笑った。
雪月は俺の幼馴染で、彼がどこか行きたい場所があれば俺はどこへだって連れて行く。父の葬儀の日も、彼は俺が葬儀に顔を出すことも見送ることも絶対に許さなかった。
...許されるはずがなかった。
車で家から5時間。雪月を迎えに行ったので、合わせて6時間かけながら、俺が所有する美しい湖畔のある小屋へ真夜中に出発する。
雪月は眠るとなかなか起きないので、音楽は爆音で走行するのが決まりになっている。
クラシックを爆音で流すものだから、俺も雪月も終始無言で過ぎて行く信号機や暴走車を眺め、夜の高速を窓を全開にしてお互い別のことを考える。
...仲は良いと思いたい。彼が俺を絶対に手放さないと知っていてもなお、心のどこかで拭えない罪悪感が俺を苦しめる。
手放して欲しいとは思わない。俺は雪月から離れられないのだから。
「ここで待っていてくれ。熊がいないか確かめてくる。安全だったら呼ぶよ」
「...分かった。待ってる。」
雪月はポケットから俺があげたハンカチを取り出すと丁寧に折り畳み、小さな岩を見つけると、それを被せて腰掛けた。
朝日が雪月の輪郭を照らしてどこか神秘的に見える。
エメラルドグリーンの湖畔の水面をゆっくりと漂う水鳥のつがいが彼の注意を惹きつけているようだった。
小屋に近づくと、俺はわずかに違和感を感じた。
「ドアが、開いている...?」
荷物を地面に降ろし、辺りを見回す。ドアは開いているが、地面や小屋の柱に熊の爪痕は見当たらない。物盗りが荒らしに来たのだろうか。
一歩、また一歩と小屋に近づき、開いたドアから中の様子をうかがう。
机の上には非常食として棚に入れてあった缶詰が空いた状態でいくつも転がっている。ハエがたかっているし、倒れた缶の中にカビが生えている。...それに少し臭う。
人の気配はなかった。腹を空かせた誰かがここに入ったのだろうか。
中に入るが、物音はしない。念のため部屋中をくまなく探すも棚以外に荒らされた形跡はない。雪月がしてくれたベッドメイキングも前回のままだ。
雪月にそのことを報告すると、彼の顔が少し曇った。これは何か楽しいことを邪魔された時、面白くないと彼が思った時に見せる表情だ。
「やっぱり警察に言ったほうがいいと思うんだけど。」
「だめだよ。あいつらは面白がって僕を惨めにしたんだ。…僕の気持ちを踏みにじった。それに、ここに来るまでの道のりで不審な車は見なかったし、カビが生えているっていうんなら時間も経ってる。物盗りがきてから時間がずいぶん経ってるはずだ。今更、話して何になるんだ。」
「それと今回の話は違うだろ...。それに、実際被害が出て」
「......それ、って何?」
雪月の瞳が俺を鋭く睨む。背中に冷たい汗が流れるのを感じる。この目で見られると俺は動けない。息が詰まって、古傷が疼きだす。
カラスが上空で4、5回鳴き、ひぐらしの音も大きくなってきた。
「あー...ごめん、ごめん。雪月が嫌なら俺が部屋中見て問題なかったし、一旦、中に入ろうか。腹減ったよな。お湯沸かすから、お前にあげたタブレットでニュースでも見るといいよ」
「......。うん。」
雪月はあまり他のものに興味を示さない。自分のことに無頓着というか、放って置いたら死んでしまうような奴だ。
だが、自分が恥を受けるようなこと、他からの攻撃には非常に敏感で、すぐに感情的になる。
特に、俺に少しでも蔑ろにされるのを極端に嫌っていて、いや、憎んでいるようで、そういう発言をしようものなら先程のような眼光を僕に向けてくる。
でも、俺が命令しないと何もできないし、普段何を考えているのか、幼馴染の俺でさえほんのわずかしか把握していない。
俺と雪月の通っている大学はそれぞれ別の場所にある。俺は都内の大学で写真家を目指して通っているが、雪月は昆虫採集以外に興味は無く、夜間の大学に通っている。俺とは違って雪月は頭がいいのに、人目につくのを極端に嫌がる所がある。
雪月の通う大学は夜は危ないところなので、帰りは俺が車で迎えに行き、家まで送り届けている。俺が家に帰り着くのは大体10時ごろになる。そうなると俺はクタクタになって帰宅するので、風呂に入って歯磨きをして現像室にこもり、そのままソファーで眠る。
暗い部屋は居心地がいい。静かで暗くて、冷たい。外の世界から完全に遮断された空間。父も同じ気持ちだったのだろうか。でも、俺と父は違う。あんな人間と俺は違う。
ピーーーッ‼︎
ヤカンがけたたましく音を立てる。火を止め、カップ麺にお湯を注ぐ。
...まただ。
お湯の張ったカップ麺にダシ粉の入った袋が浮かぶ。いつも取り忘れてしまう。隠れているからいけないのだ。
「あちち...」
短い割り箸で袋をつかんだその時、視界にうごめく何かがうつった。
カサカサッ...
「ぎゃーーー!!!」
「...!!?なに!」
俺は急いで台所から雪月のいる部屋へ一目散に駆け出す。
「で、出た...」
「ふふっ、まだダメなんだ?」
「お前には悪いけど、俺はアレだけは無理だ!頼むからアレを追い出してくれ!雪月、お前なら外に逃すなり殺すなり出来るんだろう...?」
「ううん、だめ。克服しないと。」
「や、何言って...!!俺の話を聞いてたか???」
雪月の瞳が、獲物を見るような目に変わる。
「ちょ、ま...って」
「早く、早く」
雪月に押されて台所までまた戻ってしまう。彼の力は相当なもので、とても逃げられそうにない。というか、今逃げたらただじゃ済まないだろう。
「わあ、大きいね」
「やめろっ...見せんな...ひっ...ぁ」
「ほら、掴んでみせてよ」
「嫌...嫌だ、やめてくれ...」
雪月が僕の背中にまわって強引に俺の腕を黒い物体に近づける。腰が抜けて立てそうもないのを分かってて、笑っている。雪月の興奮した吐息が首の後ろにかかるたび、背筋がゾクッとする。このままでは、俺が失禁してしまう。
「俺がっ...俺が悪かったから...!!“それ”なんて、もう言わないから...だから!!」
「そう...次から気をつけてくれればそれでいいんだよ」
ボソッと雪月がそう呟く。
瞬間、掴んでいた手が乱暴に離され、俺は地面に倒れ込む。涙でぐしゃぐしゃになった顔を必死に袖で拭うと、何も考えらなくなった。
雪月はというと黒い物体を難なく掴み、挙句には撫でている。口から泡を吹き出しそうになるのを耐え、床を這いずり、壁をつたってなんとか立つことができた。
「バイバーイ」
ブーン...
「手...手だけは洗ってくれ」
「はいはい、わかってるよ」
何故か雪月は上機嫌になっていた。ここに来て初めての虫に触れたからだろうか。それとも...
「あーあ、麺、のびちゃった。あ、また袋出し忘れてる」
「出そうとしたらアレが出たんだよ...仕方ないだろ。あと、袋が隠れてるのが悪い!」
「ふーん。早く食べて散歩したいからどうでもいいんだけどさ、拓海...ボーッとしすぎじゃない?」
「あ、散歩のことだけど、俺は疲れたから食べたらしばらく横になりたいな...なーんて」
視線を感じて上を向く。雪月の不満げな顔がそこにあった。面白くない、といったあの顔だ。無表情だから尚更感情が読めなくて混乱する。
「分かった...分かったからそんな目で見ないでくれ。熊...は無理でも蛇だったら守ってやるからさ」
「へえ?...もし物盗りが出ても君が犠牲になるんだよ」
「物騒だな...ま、虫よりマシか」
「君のそういう能天気なところは尊敬するよ」
褒めているのかけなしているのか...。雪月は、さっさと2人分のカップ麺を持って、いつも食事をするテーブルへと向かって行った。
まだ心臓が落ち着かない。とても食べ物を啜る気分ではないが、食べないとまた彼が不機嫌になる。それだけは避けたい。不機嫌になった雪月が、俺に今度は何をするか分からない。
ーー2時間後ーー
雪月は背の高い草を手袋でかき分け、ぐんぐん前に進んでいく。俺はというと後からビシバシ跳ね返ってくる草を顔面に受け止めながら必死について行く。一応足元に蛇がいないかどうかだけ確認はしているつもりだ。
長靴は足が蒸れる。石ころや虫が靴の中に入るよりはマシだが、ぬかるみに足を取られたり転んだりして、バイトで貯めたお金で買った大事なカメラを傷つけでもしたらと思うと気が気でない。
大学の課題も兼ねてここに来ているので、いい被写体がないかどうかも探しつつ、雪月の昆虫採集に付き合っている。
「っは...はぁ...ここは結構いい蝶が出るから緊張するよ。ねぇ...そのちょっと嫌そうな顔、どうにかなんない訳?」
「え?顔に、出てた...かな。それより、少し休憩しないか?」
「仕方ないな。いつもの切り株まで行ったらそうしよう」
雪月は虫のことになると容赦がないというか、時間を気にしなくなる。おそらく俺がいなくなっても気付かない。
虫を獲って何をするかというと、彼は昆虫採集の次に獲った虫を標本にするのが趣味なのだ。いや、もしかしたら標本のために虫を獲っているのだから標本の方が趣味といってもいいのかもしれない。
虫を探している間の雪月の眼は嫌いだ。あの獲物を狩る目は普通じゃない。あの眼で見られたら、俺は......
「一匹の美しい蝶が蜘蛛の巣に引っ掛かっていたとする。拓海、君ならどうする?」
「ん...どうって」
切り株に腰掛けるなり、雪月が俺に質問をする。6時間ぶっ通しで運転して更に山奥の切り株に来るまで3時間ほどが経過している。頭は朦朧としているし、彼が言ったことを半分も理解できていない。
「その蝶の価値がどうであれ、俺に助ける義理はないよ。ん、助けるとかそういう話ではないのか?期待通りの答えじゃなかったらごめん。...頭がうまく回らないんだ。」
「それはいつもじゃない?」
「え...ひど......」
だんだんと心地良い風が出てきた。草木に当たった光が風にそよいで湖畔の水面を揺らしている。
雪月は既に切り株を離れて作業を再開し、虫網を片手に地面や木の幹を熱心に見つめている。
俺はその姿に何気なくカメラを向ける。被写体としての彼は、まるであの事件の前日までの無邪気な少年そのものだ。いつも明るくて正義感の強い、それでいて優しい奴だった。
あの日から彼は変わってしまった。俺が学校に忘れ物さえしなければ、一緒に学校まで戻っていれば彼の人生はこんなにめちゃくちゃじゃなかったのに。
俺の母もその事に心を病んで、あの事件を話題にしたのは父の葬式で僕が出席しない事を伝えた朝以来、全くない。
俺は雪月に責任を感じているし、何より一緒にいるのは嫌じゃない。雪月にはどんな仕打ちをされたって構わない。それが彼への償いになるなら…。俺があいつといれば安全なんだ。
...それにしても蜘蛛の巣に引っかかった蝶の話は何だったんだ?虫が虫を捕食するのは自然の現象であって、俺がどうこうする理由はない。
何か別の問題を重ねて質問されたのだろうか。そうだとしたら俺はお手上げなんだが...。俺は頭が良くないから、雪月に振られた話を理解するのに時間がかかる。簡単な話ならいいのだが、なにしろ相手の頭の良さが違う。
こんな俺の側にあいつがいてくれるだけで、ただそれだけでいい。でも雪月は許してくれないだろう。...俺は今のままじゃダメらしい。
もっと勉強して雪月の話を理解しないと、彼からどんどん遠くなってしまう。
「あ!勝手に撮らないでよ!」
「...ごめん。俺の課題なんだ。顔は映さないから、続けて」
雪月は何か考えたような後、また作業を開始した。
ああ、あれは後で俺にお返しをさせてやろうとした間なのかもしれない。
今度は何の虫を見せられるんだ?足が何本もついている虫はごめんだ。ダンゴムシとかてんとう虫とか指を噛んでこないやつ以外はみんな害虫だ。ムカデとかゲジゲジとかカマドーマとか、本当になんなんだよあれ。あんな虫がいなくたって俺は生きていけるというのに…。
一度、雪月が俺の服の中にそいつ(脚がいっぱいついた何かの虫)を入れてきたことがある。俺はというと、泣き喚いて、雪月にみっともない姿を晒して、今すぐに俺の服を脱がせて虫を取ってくれと懇願した。
その時は2人、何かで喧嘩をしていた時期だった。
雪月は、なんの躊躇もなく俺のシャツを破り、腹の辺りにいたそいつを口元に置いてきた。記憶はそれまでだが、俺が謝ったのは言うまでもない。その虫の脚が一本、千切れていたとかなんとかという理由でねじ伏せられ、俺は何故か雪月に10万円を渡すハメになった。
はっ…忘れてた。あいつ、確か虫を食べるんだった。俺、絶対ヤダ。雪月に殺されても良いけど、虫だけは体内に取り入れたくない。最悪だ...どうかさっきの一考の時間は無かったことにならないだろうか。
そういえば食事中、タブレットの付属品のペンが欲しいとか言ってたような。
雪月、俺、それだったら何本でもあげるよ。一本一万だろうが50万だろうがあげるよ!だから、考え直してくれ...!
...カシャッ
獲った写真の中には大人になっても子供のように昆虫をがむしゃらに取り続ける雪月の姿が、朝日に照らされて永遠のように写っている。
雪月は今、幸せだろうか。夜の孤独で苦しみもがいていないだろうか。雪月の傷付いた手首を、俺はただ眺めることしか出来ないのだろうか。
ブーン
「ぎゃーーー!!!」
「ちょっと...!今度はなに」
「蜂!大スズメバチ!!!囲まれた!」
「動くな!じっとしてろ!」
雪月の大声で俺は正気に戻る。ああ...どうしてこんなに災難ばっかりなんだ。蜂が目の前をぐるぐるブンブン飛んでいる。俺は今にも発狂しそうだ。それよりも雪月の獲物を狩るような眼がこちらを向いている。...動けるわけないだろ。
「おい、カメラをこっちに投げろ!黒いものは今危ないんだ!」
「...!!!だめだ、それは出来ない!」
「お前、分かってんのか!死ぬんだぞ!」
「それもヤダ!でも、投げなかったらお前は俺を嫌いになるか?!」
「はぁ!!?」
「俺の質問にも答えろよ!どうなんだ?見殺しにするか?」
「はあ...馬鹿」
雪月が突然こちらに突っ走る。え?なに...?俺、あいつに吹っ飛ばされて死ぬの?そういう最期??
「ぎ...っ!!ごめんなさいぃ!!」
シューーー...
...?
目を開けると真っ暗だ。雪月が僕の目を手で覆い、何かのスプレーを周りに撒いている。
「雪月、それは......っ!ッゲホ!!」
「息すんな!これ全部撒いたら全力で逃げるんだから!」
「ん......俺、逃げれない。腰抜けちゃってさ...コホッ、足に力、入らないんだ」
雪月の柔らかくて土臭い手...虫とかバッタを触りまくった手。今はもうどうだっていい。
スプレーを撒き終わったのか、雪月が俺の背中に手を回し、切り株から離れる。
「多分、切り株の下に蜂の巣があったんだ。僕達が座って振動を起こしたから、敵だと思って、最後まで座っていた拓海を襲ったんだろう。」
「俺、パニくって気付かなかったんだけど、刺されてるかもしれない。さっきから、腕が…痛いん…だ……」
「おい!しっかりしろ!おい…拓…海……」
段々と意識が遠のく。太ももに鈍痛を感じながら、俺はそのまま目を閉じた。
「…い、…おい、僕が分かる?」
「ん…雪月……」
ここは、この天井は、俺の小屋の天井…?
俺はどうやら、雪月に運ばれて小屋のベッドに寝かせられていたらしい。クッションに包まれてふかふか気持ちがいい。ベッド横の机にあるアルコールランプだけが部屋の明かりだ。
「はあ、よかった…。蜂に刺されてホルモン剤も打ったから、帰ったら病院で検査だよ。」
「病院…?雪月、俺が病院を何よりも嫌いなの、分かってるだろう?」
「ふふ、君も苦しむといいさ…まあ、目も覚めたし、ご飯食べれるなら様子見だね。」
俺は幼少期、病弱で学校にもあまり行けていなかった。だから、幼稚園から親友だった雪月が毎日プリントを届けに家まで来てくれていた。学校に行ける日は彼がいつも付き添ってくれた。
雪月は独占欲が強いのか、俺の周りに他の生徒が来るといつも結構強い口調で追い払った。悪い虫、とかなんとか言って…。
おかげで俺にはまともに友人と言える友人はそれまでおらず、大学に入ってからほんの少し、それもまた雪月が制限をかけているが、いるにはいる。
だからその友人たちが雪月について「君たちの関係はお互いを破滅させる」だとか、「あの男には気をつけたほうがいい」だとか言ってくると、俺は雪月に相談して、助けを求める。
だって、雪月は何も悪くない。悪いのは俺と、俺の父だ。それでも雪月は俺を見捨てないで、そばに居続けてくれる。今更、何を理由に離れる必要があるというのか。雪月には俺の一生をかけないと償っても償うことはできない。
「あ、おい……起きて大丈夫なの?」
「大丈夫。せっかくだからさ、外で焼きそば作ろうよ。あぁ、それより雪月、お前寝てないだろ。どうせ明日も休みだし、今日はもう寝るか。あ、久しぶりに一緒のベッドで寝る?」
「僕は…いい。拓海、僕は君の方が心配だよ。寝ている間に他にも刺されていないか服を脱がせて見てみたんだけど、腕以外にも腰、背中の数カ所を刺されていたんだよ。」
「…!!?寝てる間に見たの?」
「しょうがないだろ。吸引機で吸い出さないと身体中に毒が回っちゃうんだから。」
それもそうだ。雪月が刺されていたら、俺もそうしただろう。
「それに拓海、痩せすぎじゃないか?骨も浮き出てたし、もしかして病気が再発してるんじゃ…」
「ううん、大丈夫だよ。やっぱり、心配したよな。最近疲れてて…それだけだよ。」
「ふーん、そう…無理はしないでよね。ああ、そういえば僕、拓海がカップ麺作ってる間、ニュース見てたんだけどさ、ここ最近、脱獄犯が出たって聞いてたろう?それがどうやらこの辺りに潜伏しているらしいんだ。昼のニュースの時点では、ここはまだ捜索対象じゃなかったんだけど、今見たらどうやらここも捜索対象に入ったらしい。脱獄犯は一週間前に逃走して今はこの小屋の辺りに潜伏している可能性が高いんだって。」
脱獄犯か。逃げ切れるはずがないのに何で逃げるのだろうか。確かに、俺が無実なのに罪を着せられて死刑にでもなったら逃げるかもしれないけど…。
「俺、さっき大丈夫って言ったけど、車の運転できるほど元気じゃない…。ごめん。」
「うん、分かってるよ。拓海は僕に対していつも強がるからね。嘘くらい分かるよ。僕も免許持ってないからどこにも行けない。でも、寝るのは危ないと思う。君が寝ている間、屋根裏から軋むような音が聞こえたんだ。動物の可能性もあるけど、用心した方がいい。君が元気だったら真っ先に見に行ってもらってたけどね。これで無理させて死んだら夢見が悪いだろ?」
「んしょ...俺、屋根裏見てくるよ。」
「おい、君…僕の話聞いてないだろ!本当は僕、拓海が蜂に刺されていなかったらそのまま山でキャンプするつもりだったんだ。この小屋は危険かもしれないし、僕は今日を2人の命日にするつもりはないよ。」
「雪月、俺だってそうだ。だから、確認するだけ。俺はあの頃より身体は丈夫になったし、急に倒れたりなんかしない。」
少し、わがままを言いすぎただろうか。雪月の反応を見ようと下から顔を覗き込む。目が合って、5秒くらい経つと、雪月が口を開いた。
「やっぱりだめ。今2人が離れ離れになるのは避けたい。僕は拓海以外の男性が怖いし、君は君で体調が万全じゃない。」
「う...確かに。でも、このままじゃ...」
「僕たちが必ず刺されるとも限らない。この家には刃物は置かないことになっている。」
「ねぇ、念のために聞くけど。」
「......」
「カミソリ持ってきてないだろうね?」
雪月がここに来て初めて俺から顔をそらす。罰が悪そうに服の袖のあたりをめくったり伸ばしたりして次の言葉を選んでいる。
俺は手を伸ばし、雪月の腕を掴む。雪月はハッとした顔でこちらを見るが、それ以上の反応はなかった。
「また、やってないだろうな」
長い、…長い沈黙だった。
それはつまり、やったということ。
「自分を傷付け続ける人間とは、俺は一緒に居続けられない。」
「え...」
雪月の消え入りそうな声が地に落ちていく。
「俺がいないとお前は何も出来ない。雪月、お前は何も出来ないんだ。」
「拓海...?落ち着けよ、な?」
「話、逸らすなよ。何でそんなことするんだ。自分も俺も苦しめられて満足か...?どうして逃げないんだ?あの時だって父さんから逃げたらよかっただろ!なぁ!?」
「大きい声...出さないで......」
掴んだ雪月の腕が小刻みに震えている。
「拓海...痛いよ、傷口がズレる。それに、君が怒った顔をすると君の父親を思い出して怖い…」
見ると、握った腕から俺の手首に血が伝って滴っている。
「ッ......!!」
「病院の拓海はいつもチューブに繋がれて眠ってた。どんなに話しかけても返事はない。ただ、無菌室の中にいる管だらけの拓海と、僕と、機械の音だけがして、まるで世界がそれだけしか存在していないみたいだった。」
「よせ、俺の意識がないときの話はやめろ...」
「僕、怖かったんだ。お前がこのまま目を覚さなかったら、このまま死んじゃったらって…。だから、自分を傷つけると安心するんだ。君がいない世界でもやっていけると思えるんだよ。でも…でもね、僕、分かったんだ。拓海のいない世界に僕なんかいらない。だって意味ないじゃないか。拓海だって本当は僕のこと、重荷に感じるだろ?」
「やめろ、雪月。俺はそんなこと思ったことない。」
「拓海の目が覚めてよかった。だって君が死んだら僕はこの怒りと虚しさをどうしたらいいか分からないよ。君の父親はクソ野郎だけど、拓海は違う。僕は君が他人と愛情を交わらせるのも、君が僕を愛するのも許さない。絶対に。…だって、君は僕の蝶だから。」
「蝶…?」
「ふふっ…もう忘れたの?昼間の蝶の話だよ。蜘蛛に捕まってしまった哀れな美しい蝶。」
「雪月、俺はその蝶だって言いたいのか?」
「もちろん、醜くて狡猾な蜘蛛は僕のことだよ。」
雪月は座っていた椅子に座り直し、俺の顔を覗き込むように前屈みになる。
「蜘蛛は蝶からどう思われようとも構わない。獲物を捕らえ、それを自分のものにして自分の粘着質な糸でぐるぐる巻きにして、中の体液を啜ることができればそれで満足なんだ。蝶の自由は許さない。許せば蝶は二度と戻ってこないから。僕は君の父親が病死して、嬉しかったと思う?」
「俺は…分からないよ。」
「君はそうだね。それでいいよ。僕も蝶になりたかった。自由が欲しかった。羨ましかった。どうして僕は蝶になれないのか、君の父親が死んで分かったんだ。僕は自分の糸でがんじがらめになって苦しんでいただけだってね。」
「俺は、雪月…お前の標本になっても構わないよ。俺を殺したらお前は少しは自由になるんだろう?それならそうした方がずっといい。それでお前が自由になれるなら。」
「君はまだ分かってないんだね。僕は君を失うつもりはない。でも、どうしても君のクソな父親を許せない。拓海は知らないだろうけど、拓実が迎えに来れない日はいつも学長が家まで送ってくれるんだ。無理やりキスされたり、太ももをまさぐられたりしながらね。君の病気の研究をするために毎回耐えたさ。拓海が迎えに来てくれる時は本当に安心してた。でも、もう我慢できない。拓海のためにやってるのに、どうして報われないの?学長や、お前の父親が僕の身体を好きなようにいじって弄んだあの日さえなければ僕だって蝶になれたさ。なりたいのに…どうして、こんなっ……僕は惨めなんだ。」
「雪月…俺はお前を惨めだなんて思ったこと、一度もないよ。お前は立派だ。哀れなのは俺の方じゃないか。学校でも落ちこぼれだし、友達も少ない。大学で俺、なんて言われたと思う?雪月の忠犬ハチ公だってさ。俺は俺なりに犯罪者の息子として生きてきた。記者から散々写真を撮られてネットにも顔を晒された。同情してくれる人はほとんどいない。でもお前は憎い犯罪者の息子の側に、たとい被害者だとしても一緒にいてくれた。俺は、ただ、嬉しいんだ。ごめんな。お前が嫌でも俺はそれが、たまらなく嬉しいんだ。それとその大学、絶対辞めた方がいいよ。俺のために通ってるなら尚更だ。帰ったら学校やめる手続きしてさ、俺の実家でバイトすればいい。ね…だから雪月、俺から逃げないでいてくれてありがとう。…あれ?ごめん、これだと俺だけ救われてるかも。」
「…なんだよ、それ」
2人で少し笑った。本当に言いたかったこと、言えてよかった。
これで俺が余命あと数日だってことを知られない限りは、それ以外はどうだっていい。
彼を1人にしてしまうのは心苦しい。もっと側にいて喧嘩して笑い合いたかった。でも時間が、足りない。罪を償えない。時間が残酷に俺たちを引き離す。俺がいない世界で雪月、お前はどうやって生きていくんだろうか。元気でよろしくやっていて欲しい。素敵な女性を見つけて、結婚して、俺の墓まで子供を見せにきてくれるだろうか。俺は父親の墓にまだ行ってない親不孝者だけれど。
俺がもし病院に行ったら、そのまま天寿を迎えることになる。若くして死ぬことに悔いはないけど、雪月だけが心残りだ。何故だろうか。涙が止まらない。雪月、俺とお前の流している涙の理由は違う。言えたら楽なのに。でも、俺は雪月に許されないまま死にたい。だって許されないじゃないか、あんなこと。雪月は何も知らないまま俺を嘲ってくれてさえいればそれでいい。何も知らない、可哀想な被害者・雪月として。
ギィ……ミシッ‼︎
すぐ背後で音がした。雪月の顔は今までになく青ざめている。
誰かがいる。それもすぐそこに…。
彼の青ざめ方は異常を示していた。腰を抜かして、ベッドに横になっている俺の腕にしがみついてきた。
ぶるぶると体が震えて、息がうまくできていない様子だ。
「雪月、落ち着け。俺を見ろ、な?」
俺は雪月の首を手繰り寄せ、手のひらでそっと彼の柔らかい髪を撫でてやる。雪月の手が俺のシャツを力一杯掴んでなかなか離さない。正直、指が俺の腹の肉を絶妙に挟んでいて、それが地味に痛い。しかし今はそれどころではない。
明らかに人…成人男性の重さを支える床が軋んだ音がした。
「雪月、誰かそこにいるのか?」
雪月が震えながらも、俺の目を見て小さくうなづく。
「怖い…拓海、俺を離さないで。頼むから…お願い。」
「大丈夫だよ。そのままでいいからじっとしてて。俺がなんとかする。」
「なんとかって…なんだよ!」
「今度こそお前を守りたい。な、雪月。」
雪月が掴んでいた手をゆっくりと離す。熱っぽい、しっとりとした、長いまつ毛が瞬きをする。
「ごめんな、坊やたち。ここをおじさんの隠れ家に使わせてくれ。」
「……!!」
突然、低い男の声がする。雪月は俺の手を握った。俺もすかさず手を握り返す。
「お前だな…食料を荒らしたのも、今警察に追われているのも。」
「ガキがうるさいな。それになんだ、お前。女みたいな顔して男の声だ。名前はなんだ、言ってみろ。お前だよ。そう、地毛だか染めたんだか分かんねぇ薄茶の髪のお前。」
「…雪月。」
「下は」
「え」
「だから、下の名前はつってんだろーがよっ!!」
「は…、波瑠。雪月波瑠。」
「下の名前も女みてーな名前だな。お前みたいなのが俺をおかしくさせるんだ。男のくせにいやらしい体つきしやがって…」
「ひ……っ」
「…雪月をそういう目で見るな!」
「お前は誰だよ。名前は。」
「秋の波と書いて秋波。下の名は拓海だ。」
「は?秋波…?はて、どっかで……あーうん、いたいた。小学生の男子児童を自分の息子がいない間に自分の写真を現像する暗室で犯したやつが。お前、その息子だろ。ヤフーニュース載ってたじゃん。俺、実はそのクソ野郎と清掃が一緒でよぉ、その話聞いたよ。お前の父親、ずっとその話ししてくれるんだよ。たまんねぇよな。その時はどういう状況で、どういう行為をして、その男子児童の名前はとか…あ、お前、波瑠って…へぇー!面白れぇな。何?被害者と加害者の息子がまだ仲良しなんだ?傑作じゃねーか!」
「黙れ。それ以上喋るようならどうなるか分からないぞ。」
「はあ?包帯ぐるぐる巻きのやつが何言ってんの?ま、性犯罪者は刑務所の中ではカーストが低いが、あいつがいる間はそれなりに楽しかったぜ。ところでだ…なあ、波瑠ちゃん?こっちにきて俺にもその白い肌を触らせてくれよ。」
「い…いやだっ!それ以上僕に近寄るな!!」
「いいよ別に。抵抗してくれた方がそそるからね。秋波のあんちゃんは動けないみたいだし、お前はどうせ俺に捕まる。なんなら、行くところまで行ったっていいんだぜ?俺が慰めてやるよ。」
どこから入手したのか、男がすらっと長いナイフをポケットから取り出す。雪月が俺の父親に襲われた日、ナイフで脅されたのを知っていての犯行なら、この上なく怒りが湧いてくる。
「拓海…嫌だ。もう他の人に触られるのは嫌だ。犯されたくない。これは僕の身体だ…うぅっ。」
「…雪月、俺の手を離すな。」
雪月は完全に立てなくなっている。俺の体は何故か動きが鈍りつつあった。声も遠い。
雪月の掴んでいた手が、俺から離れていく。手に力が入らない。
男は雪月の首元にナイフを突き立て、馬乗りになって頬を殴り、シャツを脱がしていく。
拓海、助けて拓海!
雪月の声がサイレンにかき消されていく。
近くまで捜索隊が来て、小屋を取り囲んでいるらしかった。捜索隊か何かが俺に必死に話しかけているようだったが、耳が遠くなっていて何を言っているのか分からなかった。腕さえ上げることも出来ない。
俺の意識は急に薄れ、そのまま眠りに落ちた。
「拓海、起きて、拓海。」
「う…ん。」
「よかった、目が覚めて。」
「けほっ……ここは…病院?」
「そ、病院。君の大嫌いな。」
「そっ…か。助かったのか。」
「僕は助かってなーい!」
ギリギリと雪月が俺の頬を突っぱねる。
「あとは、2人でね。」
「母さん…お見舞いに来てくれたの?ありがとう。…ごめん、心配かけて。」
「いいのよ。私があなたにしてあげられることなんて、もう限られているんだから。あなたの大好きなリンゴだって食べさせてやれないのよ。分かってちょうだい。」
「母さん、まさか…」
「拓海、話は全部聞いたから。覚悟しててね。」
「あなたひどいじゃないの。親友に自分の最期を教えないなんて。一番ダメよ、そんなこと。隠したって、いずれ入院して分かることだったんだから。」
「…はい。」
「じゃあ拓海くんのお母さん、僕、急いでいるのでどっか行っててください。」
「はいはい。じゃあ、また明日来るわね。」
ガラガラ……ピシャンッ
相変わらず母はドアの開け閉めが激しいな。病室から出て行く、気丈に振る舞っていた母の小さな背中を見送り、雪月に目を移した瞬間だった。
パシッ……!!
「いっ…!!?」
「バカか、君!」
「ご、ごめん…けほっ」
「何に謝ってるの?僕?」
「あ、いやぁ…だってさ、言えないよ。けほっ…言えるわけないだろ。」
「何で…!!いや、いい。僕だって君の立場なら多分そうしたかもしれない。でも、黙ってるなんてお前ひどいぞ。寝てる間に何度腹を殴ってやりたいと思ったか…!っ……いてて」
「どうした!あの後一体何が…」
ギュッ…!
「ふふ、捕まえた。」
「これは大変…もう、逃げられないね。」
雪月が僕の服の裾を掴んでいる。腕に刺さっていた針付きの点滴用のチューブが抜けた。何故だろうか。今日の彼の力は弱いみたいだ。やけに息が荒い。それに何だろう、なんだか血生臭い。
「僕が、君の父親を君の人生から奪ったんだ。僕はね、君を恨んでなんかいないよ。だって拓海は悪くない。僕には何で君がひどい目に遭わなきゃいけないのか分からない。拓海、なのにどうして僕を置いていくんだ?元気になったんじゃなかったのか?僕に嘘つきやがって…!」
雪月は啜り泣いている。涙が俺の服の裾をベチャベチャに濡らしている。腕が濡れて冷たい。
「ごめんな。もう起き上がれないんだ。喋るのも正直辛い。元気なふりも限界だ。お前の声も聞こえなくなってきてる。でも一番辛いのは雪月を置いていくことだ。」
「うん…だからね、僕もお前を置いて行かない。ほら、僕のここ、触って…」
雪月が俺の手を取ると、何か生暖かいものに指先が触れる。何だろう…濡れてるし、糸みたいな感覚も感じる。
そこで俺は急に全てが分かった。
「雪月、これ……!」
「驚いてくれてよかった。僕ももう助からないらしい。医者の勉強してたらそれくらい分かる。僕ね、あいつが警察に捕まる前にあいつに刺されちゃった。それで、死ぬ前に隣のICUを抜け出してきたんだ。だから、君は1人じゃない。一人じゃ逝かせない。だって拓海は寂しがり屋さんだからね。」
「そうか、それはよかった。あは、安心したら眠くなってきたな。雪月、隣においでよ。」
雪月がベッドに上がると、大量の血液が僕に染み込んでいくのがわかる。どうりで血生臭かったわけだ。雪月の目の下のクマもひどい。俺もかもしれないけど。
「手を繋ごうか。そうしたらお前も蝶になれる。雪月、俺たち、今、最高に自由じゃないか?」
「そう、そうだね。」
よく晴れた日の昼下がり、二人の青年が同じベッドの上で息を引き取った。
秋波拓海(23)は隔離され、辺りがガラスとビニールで覆われた無菌室に居たが、そこに別の病棟からやってきた男性、雪月波瑠(23)が加わり、室内の効力は低下。秋波拓海はそれが原因で死亡。雪月波瑠もそこで力尽き、同じベッドの上で手を繋ぎ、果てていた。縫い合わせた腹部の縫合は無理な運動で千切れており、口からも血を吐いたようで、床もベッドの上も血の海だったという。
この雪月波瑠という青年は先日の〇〇県刑務所脱走事件の逃走劇の中で起きた傷害事件の被害者であり、警察は傷害から殺人に容疑を切り替えて捜査を進めている。
学校関係者は二人の姿をよく目撃しており、そこには近寄り難い空気があったという。
雪月波瑠は幼少期、秋波拓海の父親に強姦されており、加害者は2年前に病死している。事件の後も被害者と加害者の息子は友好関係にあり、秋波拓海が夜間学校に通っている雪月波瑠を毎晩送り迎えしていたという。
「雪月波瑠は優秀な生徒で、前途有望だった。アメリカ研修の道もこちらで用意していた。ICUから逃げ出していなければ、今もまだ生きていたかもしれない。このようなことになって非常に残念だ。犯人にはしっかりと罪を償い反省して欲しい」と医学部・学長はコメントで怒りをあらわにしている。
今回の件で秋波拓海の母親、秋波綾子は脱走した重症のICU患者、雪月波瑠をかくまっていたということで事情聴取を受けているが、雪月波瑠の遺族からの訴えはなく、近々釈放される予定である。
看護師の話によれば、院内で若くして死亡した二人のその姿はまるで、雪月波瑠が部屋に大切に飾っていた、ドイツ製の木箱のガラスに閉じ込められていた、二対の小さな蝶の標本のようだったという。
蝶の標本