相性の悪い男と昭和の犯罪事件及び学問の進め冒頭

相性の悪い男と昭和の犯罪事件及び学問の進め冒頭


 本日の写真は、今は無き、三田キャンパスの表玄関であった旧南校舎と裏門であった幻の門。




 ある男の事を思い出した。尾上雄二とは全く相性が悪く悉く嫌っていたという。且つてカプコンというゲーム会社の役員だったその男は腰掛のつもりで仕事をしていた。
 暫らくし元部下の営業マンと二人でゲームの個人会社をつくった。その男はインベーダーゲームで一時名を知らしめたタイトーコーポレーションの営業役員。
 代表者はミハイルコーガンというロシア人でロシア大使館の近くに家があったが、此の国の者に売却をしたようだ。
 雄二の事を何故か悉く嫌った此の男が部下などに持ちかけた話の内容は、カプコンが上場するから株を購入しておけという事だと聞いた。
 株価は上がり男の知人たちが大儲けをしたのは言うまでもない。数十年経ってから男の部下達が次々に病で倒れて行ったと生き残った唯一の部下から聞いたのもかなり以前の事・・雄二は興味は無かったのだが・・。
「・・あ?・・さん?とっくに亡くなったよ・・」
「・・ゲーテは亡くなる直前に・・有名な言葉を・・もっと灯りを・・。其れに対し江戸幕府の指南役で有り剣の達人であった柳生宗矩(但馬の守でもある。)柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。
 また、有名なお話としてこんな事も・・慶長20年(1615年)の大坂の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を瞬く間に倒したという。
 なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時とされている。更に・・柳生但馬が無くなる時にこんな事を言ったとされている。『・・明るい・・青空が見える・・』但馬は一生を全うし・・悟りを開けたところが・・ゲーテとは対照的だ・・」
 どうしてこんな事を言うのかなのだが・・その男と飲んでいた時に雄二が其の話をしたという・・途端男は血相を変えた様に怒り出した・・『辛気臭い事を言うな・・』。此の辛気臭いとは・・元は関西で使用されていたようだが・・意味は『思うようにならず、いらいらするさま。また、気がめいるさま。』とされている。悟りを開く事とどう繋がりがあるのかは不明だ。
 雄二は生き残りの元部下から其れを聞いた時に呟いた・・。
「・・其の人・・青空は見えたのかな・・?」
 男はあの世で再び怒っているのかも知れないが・・あの世などというものは存在しない・・。
 死ねば終り・・。
 男は権力主義者だったから・・あのバブルの時期にも其の後の崩壊時にも彼方此方の役員を兼務していた事が・・面白く無かったのかも知れないが・・まあ、どうでも良い事。
 ただ・・先日の岸田絡みの一末が不意に浮かんだ・・。明らかなトリック・・首謀者は誰か・・も分かっている。
 其れは兎も角・・其の後の「翔」との文字が付く息子の不祥事だが、以前も同じ文字を名に取り入れていた子供が脳の病で大変だった事があった・・幸い現在は病も失せ大人になったと聞く。
 読んで字のごとく・・飛んで行ってしまうから「翔」なのだ・・飛翔ならまだ良いのだが・・。
 同じ文字が名にある者も少なく無いだろう・・気にする事は無いが、幾つかの例があるのも事実である・・。
 其れは兎も角・・雄二の遥かな同窓であると聞き雄二は一瞬顔を曇らせていた。今の世代には義塾の名を汚す者達が・・例えば・・体育会アメリカンフットボール部員が強制猥褻を・・等三年前位に記事になっていた。
 どういう訳か・・犯罪者の所属学校名が記載される・・其れが身を正せ・・の意味合いであるような気もすると彼は言う。 
 彼は学生時代にアルバイトをやった事があり、三越デパート日本橋本店だったというのだが・・何回目かの時に知り合ったのが同じアメフトの部員だったが・・何処かの金持ちの息子で性格は素直・気さくだったらしく・・仕事が終わった後飲んでから六本木のDiscoに行き・・結局・・タクシーで部員の親が購入したマンションに泊まって行けよ・・と言われたそうだ。
 金があっても・・決して奢り高ぶる事は無かったというが・・今の世代と異なるのかも知れない。
 では・・昭和の時代の義塾で有名な事件があった。三越は慶応閥だった。余りに義塾だらけというのも良く無かったと見え、ご存知岡田茂事件を追ってみる。
 同じ義塾卒同士の争いと成れの果て・・を以下に・・。そして・・猟銃立て籠もりと言えばこの事件を思い出すというものも下記に・・。
 最後に・・創始者の諭吉の言葉を簡単に載せる事にする。
 岡田の言葉・・「何故だ?」はその年の言葉となった記憶がある。
 岸田の「・・注意をしといた・・」も、今年の流行語になる?ならないな(笑)あまりにもおつむが悪すぎ・・判断力欠如・・語彙不足・・であるのだから。
 貼り付ける前に一言・・野党が非難をした事は正しい。ところが・・維新は少し頭に乗り過ぎている様で・・代表者?の「・・写真を撮ったくらいで大した事は無い・・」は戴けない・・国民の中からもこんな声が。
「・・以前にも岸田は・・暴力団員との交際があったと言われた・・」
 雄二は関心は無かった様だが、巨人の長嶋選手の息子の一茂君はこんな事を。
「・・本人は成人なのだから自らが詫びるべきだ。大体二代目は馬鹿だって言われる事もあるんです。僕も散々馬鹿だ馬鹿だと言われた・・」
 親の躾(しつけ)がいかに大事なのかを物語っている・・。岸田家の母親はそれどころか・・USA迄公費で航空運賃を使い・・一言も物言わず・・今回も然り・・一体全体・・自民は何処まで腐った伝統を引き継いでいるのか・・?
 今の世代の国民は何も知らず・・謂わず・・物事の善悪の区別がつかないようだ。
 よくは知らないが、雄二は・・立憲民主の長妻という者は内閣経験者で且つ真面目では無いか?国民党が連合から「立憲と組んで悪と戦え・・」とまで言ったかどうかは分からないが・・其れでなくとも力のない野党は協力しなければならないのでは?社民の唯一女性弁護士もいるし・・。
 社会党の「おたかさん」が衆院議長をやったのが・・いまだ印象に残っている。阪神大震災の際の村山君は寅さん最終話に姿を見せているし、結果はどうであれ・・此の国で唯一野党が政権をとった事だけでも貴重だった・・。
 

 では・・感単に二つの事件を貼り付けてみる・・。何れもウィキペディア(Wikipedia)からのもの。

 三越事件(みつこしじけん)とは、1982年(昭和57年)に発生した、老舗百貨店・三越に係わる一連の事件の総称である。
 名門百貨店を舞台にした不祥事は、三越の社長解任劇に発展、世間を大いに賑わせた。

 1972年(昭和47年)、三越社長に就任した岡田茂は自身に批判的な幹部を次々と左遷し、「岡田天皇」と呼ばれる独裁体制を確立させる。以降、岡田は不明瞭な経理によって会社を私物化していった。特に、岡田のライバルと目されていた常務の坂倉芳明を追放、坂倉は堤清二の誘いで西武百貨店の副社長に就任した(坂倉はのちに社長に就任、更にその後三越に復帰して社長に就任)。
 岡田はジャーナリストの恩田貢から紹介された竹久みちを愛人として寵愛、竹久は岡田の庇護のもと三越内において発言力を強め、「三越の女帝」と呼ばれるようになる。
 1982年(昭和57年)、週刊朝日が4月23日号で「三越・岡田社長と女帝の暗部」という記事を掲載。
 同年6月17日、納入業者に対し三越の商品や日本映画『燃える秋』の映画前売券等の購入を要請(押し付け販売)、協賛金や社員派遣を要請、種々の催し物への費用負担の要請につき、三越は独占禁止法第19条の不公正な取引方法(優越的地位の濫用)に当たるとした審決を受ける(公正取引委員会昭和57年6月17日同意審決)。
 なお大和運輸(現・ヤマトホールディングス)は、創業直後から三越の契約配送業者だったが、上述した映画前売券などの購入を強要された[1]ことに加えて配送料金の値上げを拒否されたことから、本事件が明るみになる以前の1979年(昭和54年)2月、三越との配送契約を解除していた[1][2]。ヤマト運輸が三越との取引を再開するのはそれから31年後の2010年(平成22年)4月1日で[2]、三越と伊勢丹が経営統合して2008年に三越伊勢丹ホールディングスが発足した後のこととなる。
 贋作事件発覚後、三越をグループ傘下に置く三井グループの「二木会」では、岡田に対して退陣勧告を通達。また、社外取締役であった三井銀行(現・三井住友銀行)相談役の小山五郎は、古代ペルシア秘宝展問題の引責を辞任理由とすれば、岡田にあまり傷がつかないとして岡田に辞任を勧告したが、岡田は喧嘩腰にこれを拒否した。以降、小山を始めとする三井グループ各社の幹部や三越内部の反岡田派は、岡田の社長追い落としを図り始めた。
 1982年(昭和57年)9月22日、取締役会で第5号議案までの審議が終わった後、岡田は腹心の杉田忠義専務に議長を交代した。配布資料で「その他」とのみ書かれていた第6号議案は、事前の打ち合わせでは岡田についての風説は事実に反することの確認とされており、それゆえの議長交代であった。しかし、杉田は岡田の社長職と代表権を解くことに賛同する者の起立を求め、それに応じて14人の取締役が起立した。
 驚いた岡田は「何だこれは!」と叫んだが、理由を説明する義務はないと突っぱねられた。さらに岡田は「おかしいじゃねえか。議長は俺だ!」と食い下がるが、小山五郎社外取締役の提案により改めて発議された動議は16対0[注 2]で可決成立し、その場で岡田は非常勤取締役に降格となった[4]。
 岡田はなおも「違法だ!」と怒鳴ったが、隣室に控えていた顧問弁護士が呼び出され、解任手続きに瑕疵がないとの旨を述べた[5]。この時に岡田が発したとされる言葉「なぜだ!」はこの年の流行語となった。岡田は小山から「岡田君、もう終わったのだよ」と声をかけられても「なぜだ……」と力なく呟き続けていたという。その後、役員陣は記者会見を開き、岡田茂の解任事態を公表した。
 後任には、岡田によって左遷された名古屋三越社長の市原晃が就任した。
 刑事訴追
 1982年8月29日、日本橋本店で開催された「古代ペルシア秘宝展」の出展物の大半が贋作であることが、朝日新聞社の報道により判明した[注 1]。一部は既に億単位の値がついていたとされる[3]。
 さらに、竹久の経営する「アクセサリーたけひさ」に不当な利益を与えていたり、自宅の改修費用に会社の資金を流用していた問題などが報道される。
  
 と此処までにする。
 次は猟銃を所持し立てもった事件から。

 金嬉老事件

 金嬉老事件(きんきろうじけん、キムヒロじけん)は、1968年2月20日に、大韓民国人(在日韓国人二世)の金 嬉老(きん きろう(キム・ヒロ)、改名後の本名:権 禧老(クォン・ヒロ)、1928年11月20日 - 2010年3月26日、事件当時39歳)が犯した殺人を発端とする人質事件である。寸又峡事件とも呼ばれる。籠城の様子がテレビを通じてリアルタイムで報道されたことで日本初の 劇場型犯罪となった[1]。

 経緯
 1968年2月20日、金嬉老は借金返済を求める暴力団への返済を約束して静岡県清水市(現・静岡市清水区)の歓楽街にあるクラブ「みんくす」で暴力団・柳川組組員と面会した。その場で暴力団員2人(未成年の少年1人を含む)に対しライフルを乱射して殺害し逃亡した[1][2][3]。
 翌日には、同県榛原郡本川根町(現・川根本町)寸又峡温泉の「ふじみや旅館」で経営者と宿泊客ら13人を銃で脅し、人質にとって籠城した[1]。
 金は、M1カービン用の30発弾倉を取り付けた豊和工業製の猟銃「M300」とダイナマイトで武装していた。籠城すると、自ら警察に居場所を通報し、警察が民族差別について謝罪することを人質解放の条件とした。88時間にわたる籠城を経て、2月24日に金は記者に変装した警察官に取り押さえられ、逮捕された[4]。
 旅館には、警察とともに、報道陣も詰め掛けた。金は「わたしは昔から警察からひどい扱いを受けてきた。これを世間に訴えるには、こうした騒ぎを起こし、新聞やテレビで取り扱ってもらうしかない」と事件をマスコミに扱ってもらうために起こしたと主張しだした。何度も記者会見を開き、「これまで受けた差別」を訴え、「警察官による在日韓国・朝鮮人への蔑視発言について謝罪すること」を人質解放条件として要求、マスコミの報道内容で人質の扱いを変えるなど、それ以外の要求をほとんどしなかった。これにより、事件は「差別の告発」として報道された[2]。
 金は「朝鮮人は日本へ来てろくな事をしない」と警察官が発言したと主張し、「日本人と在日朝鮮人のケンカの仲裁に呼ばれたにもかかわらず、日本人の行為は不問にし朝鮮人だけを逮捕し、このように言った」と主張している。静岡地方裁判所で行われた検察側の論告で「冷酷で計画的な殺人であり、民族差別論は問題のすり替えである」と指摘されている[5]。
 金が籠城する様子はテレビやラジオで実況中継され、関連していたとされる警察官がテレビに出演するなどもした。連日各テレビ局のワイドショーは、人質被害者の安否や被害者家族の意向などお構いなしにスタジオから「ふじみや旅館」に独自に生電話を入れて視聴率を稼いだ。
 一部のメディアは、銃を持って戸外を警戒している金に対し「金さん、ライフルを空に向けて射ってくれませんか」と要望を出し、金が空に向かって数発、ライフルを乱射しているところをカメラで映して演出までした(のちに金本人が法廷陳述で一連のマスコミ報道の裏を暴露して不満を表明している)。また金の本国である韓国でも大々的に報道され、金は「差別と戦った民族の英雄」として祭り上げられた[2]。
 事件直後の4月、事件を取材していた記者たちの手記が静岡県警の部内誌に掲載され、金の主張や要求に沿った報道をおこなったことについて反省の弁を述べている[2]。
 


 此処までとしておくが、以上二つの事件は何れも映画・小説・フジTVの番組では、ビートたけしを主役にしたドラマを放送した。
 二つの事件はあくまでも重大な犯罪事件である事は言うまでもない。 

 ただ、現在政府により報道規制がとられている事とは関係が無く、やはり、報道機関には事実を正確に把握し国民に伝える義務が存在し、如何に政府と雖も此れを規制する事を・・公序良俗に反するとか誹謗中傷に触れない限りはしてはならないと言える。
 そうで無いと・・明らかに岸田政権の戦前全体主義にそっくりな事が理解できない国民や民放局は、事実を隠匿する事ばかりに協力をする事になる。
 特に、NHKは兎も角、フジ・MX・TV朝日・日本TV・等は恰も政府御用達の報道機関となり下がってしまった様にみられる。
 ・・遺憾であり・・また政府に対しては・・其の暴挙は許せない・・。


 ではLastに、岸田家私利私欲に対し・・義塾の創始者である福沢諭吉の学問のすすめ冒頭を残して終わる事にする。
 福沢諭吉という人類を其のまま尊ずるのではない・・この言葉をして一時でも義塾に関係したモノ故に・・という意味である。
 同じ同窓として・・国民には誠に申し訳なく・・只管お詫び申し上げる・・。
 また、物書きである雄二とし、岸田事件そのものについては何れ真相を取り上げるつもりであるとの事。


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」
 此れは東館に刻まれていてラテン語で表示されている。
「HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR」 

 お終い。

   

相性の悪い男と昭和の犯罪事件及び学問の進め冒頭

相性の悪い男と昭和の犯罪事件及び学問の進め冒頭

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-28

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