泥濘に落ちる
目覚めるととうに昼を過ぎていた。そういえば私は弥奈のアラームで共に起きていたのであったと気付いた。
カーテンを開けると、強い日差しが目に染みた。顔をしかめて狭まった視界に、飛び上がっていく鳥が霞んで見えた。
軽やかに羽ばたきながら空を泳ぐ彼等は楽そうに見えた。増えぬ金、売れぬ本、反比例して堆く積み上がる駄文、恋愛、友人への劣等感、自責、自己嫌悪、その他諸々のシガラミ……私を縛り苛む全てをかなぐり捨てて大空へ駆け出していけるなら、どれ程爽快であろうか。
弥奈へ別れ話を切り出したのは、私の方であった。弥奈とは大学在学中に出会ったから、もう10年近い付き合いだったことになる。
冷めた、結果だけを見ればそう言えるかもしれないが、そこへ至るまでの経緯は、少なくとも私にとっては複雑なもので、偏に愛情の減衰したからであるとは言い切れない。
弥奈は姿見のような存在であった。しかし、それは決して似た者同士というわけではない。私にない性質を塗り潰していった結果私の姿が醜く浮き彫りになり、己の形を知らしめられる仕組みである。売れない作家である私へ真摯に寄り添い、自らも働きに出て私の稼ぎ切れない分を補い、怒ることもなく、それも我慢しているのではなく根っからそういう気質であった。それが私には苦痛となっていた。弥奈の傍にいると、己の愚劣さが際立つ。私がいかに体もない卑小な人間であるかをまざまざと思い知らされるのである。初めは確かに恋愛感情があったにせよ、それらとせめぎ合う内に磨耗していき、数年前から弥奈といることは義務であった。我慢していたのは寧ろ私の方である。
やがて弥奈との関係は義務感すら通り越して罪悪感を生じ始めた。弥奈は未踏の雪原、私はそこを泥塗れの靴で踏み荒らす放浪者である。雪原に刻まれる汚れた足跡を見て、私は雪原を汚したことを知る。雪原は物を言わない。踏み固められて尚、そこへ静謐に蟠っている。新雪の積もる庭へ1番に下りる子供のような無邪気な背徳はない。私はただ見ていられないのだ。私がここへ留まる限り、雪原は汚泥に侵蝕されていく。その罪悪感に押し潰されそうになっていた。
弥奈の方でどう思っていたかは知らない、否、彼女の涙を見てそれを察せなかった筈もない。私は見て見ぬ振りをしたのだ。例えどれだけ長く関わっていたとしても、私は私であり、それ以外は皆他人である。他人という埒の中で誰にどのラベルを貼るのかを決めているのは、鰡の詰まり私に外ならない。弥奈が私の言い分を理解し得ず、私もまた、それでもまだ私を好きだという彼女の心情を把握できないことが、その証左である。畢竟、私が最も可愛がっているのは私自身であり、最後の最後で背中を押したのは、私の心奥へ確と根を張る傲慢なエゴと卑屈な自衛心であった。心に余裕のない者は、恋愛などすべきでない。自分自身を労れない者が、どうして他人を労れようか。
根負けした弥奈は、その後すぐに新たな家を見つけ、昨日とうとう出て行った。別れを切り出してから昨日までの間は、水中で暮らしているかのような息苦しさと体の重さであった。
玄関で靴を履く弥奈の背後へ私は、元気でな、と声を掛けた。弥奈は固まった後、震えた。しゃくり上げる声が、金属のように硬質な沈黙へよく響いた。弥奈の去った玄関に残る涙のシミが直截に辛かった。しかしながらその辛さは私の未練を表してはいない。職業柄、無闇矢鱈と発達した感受性を以て弥奈を思い遣った故の結果に過ぎない。心中には安堵の風が吹いてさえいた。
これで良かったのであろうか、それは愚問である。現段階で私には知る由もない。大きなツケの回って来てようやく、己の英断を称えるべきか、浅慮を悔いるべきかが決するのである。
記憶、ひいては人生そのものの中にも遠近法は働いている。直近で起こっている出来事は重大事に見え、遠い過去、遥か未来は些少に思える。時間による解決、それは即ち時間的距離の生じることである。人生を俯瞰した時、より重大であり深刻なのは食い扶持、有り体に言えば金である。弥奈のいなくなった今、私は私だけで稼がねばならない。私は精神的でなく、経済的に弥奈へ依存していたのかもしれない。そんな残酷な着想を得た自分を恐れた。
ともかく、私に今できるのは書くことのみである。
「で、お前は唯一の取り柄を失ったってわけか」
水上は呆れた様子であった。
「傷心中の友人に向かって言うことか」
「自分から振っといて傷心もクソもねえだろ」
ったく、なんだよ、と水上は毒づいた。
「珍しくそっちから誘ってきたと思ったら、弥奈さんがいなくなって寂しいから慰めろってか」
「違うよ」
「じゃあ何なんだ」
「……どうやったらお前みたいな小説を書けるんだ?」
水上は私と年齢もデビュー時期も近い。だが、その業績は雲泥の差である。水上の小説はデビュー作から既に映画化しており、最近発表した新作も、何らかの形でメディアミックスされるだろうという目算である。
「知らねえよ」
水上は途端に機嫌を悪くした。
「俺みたい、ってのは売れるやつ、って事だろ。知らねえよ。俺とお前じゃあ随分作風も違ってる。俺に寄せたって売れねえよ、どうせ」
けど、と言いながら水上はグラスを傾けた。
「そういう売れたいって願望が芽生えただけでも良かったんじゃねえか」
「……」
「今日はもう帰ろう、1秒でも多く悩んだ方がお前のためだろうぜ」
半ば強制的にその場はお開きになった。
私は別に売れる小説を書きたくなったわけではない。確かに、自分の書く文章がそれ1本でこの先私を支えていくには心許ないと不安になったのは事実である。私はただ知りたくなったのだ。水上のような流行作家が何を考えて書いているのかを。聞き方が悪かった。何を考えて書いている、そう尋ねた方が、望む回答を得られたであろう。
悩みを捨てた先の清々しさ、それは仮初めである。新たな悩みが生じるまでのラグに過ぎないのだから。
さあ、これからどうしようか。
私がとぼとぼと帰路を踏んでいると、俄然、両肩をがしりと掴まれた。見ると、薄黄色い鉤のような足が肩に食い込んでいる。両肩共に同様である。藻掻くと、より深く食い込んだり肉の裂けたりすることが容易に想像できるので、なまじ抵抗することもできない。見上げると、白地の羽毛へ黒い羽毛がV字を並べたような縞を作っている。
「ピィィ」
耳をつんざかんばかりの鋭い声がしたかと思うと、私の体はフワリと浮き、あっという間に街を優に見下ろせる高度まで上昇した。ばさ、ばさ、と何かがはためく音がした。状況を理解する間もなく、今度は水平移動が始まった。
瞼の奥が焼けるような光で私は目覚めた。私は未だ空中にいた。それを認識した途端、肩へ鉤爪の食い込む痛みを思い出した。あろうことか、私はこの巨大な何か──おそらく鳥──に運ばれながら眠ってしまったらしい。肩を強く押さえられて腕を上げられないので、顔の各部を中央へ寄せるような表情をする以外に旭日の陽光を遮る手段がない。しかし、それを除けば存外に爽快であった。
深夜から夜明けまで連れ回されているだけあって、眼下へ広がる風景は全く見覚えのないものであった。広大な茶色い地面が、海のように一面に広がっているのみで、住宅どころか山などの起伏のある土地も見当たらない。寝起きの蕩けた意識も漸う覚醒して、流石にそら恐ろしくなってきた時である。
何の前触れもなく鉤爪が開き、私を宙へ放り出した。私は仰向けで、重力に任せ落下していく。ポケットからスマホや財布がこぼれ、風に流されながら明後日の方向へ運ばれていく。距離が離れてようやく、私を連れ去った誘拐犯が鳥──巨大な鷹であることを確認した。群青の空へ貼り付けられた鷹のシルエット、それが私の最期に見る光景である。
ねち
着地した時にそんな音がして、私は柔らかさと粘性のある不快な布団に受け止められた。どうやら泥である。見る見る内に私は沈んでいく。大地に取り込まれるような恐怖であった。私はまず、服をすべて脱いだ。そして、どうにか体を起こし、直立の姿勢へ立て直した。それでも沈み続けたが、不思議と臍が隠れた辺りで止まった。足が底へ着いた感覚はなかった。体勢の落ち着いてようやく、辺りを見渡せた。広漠と泥濘が続いている。上空から見下ろした際にも果てのある気配すらなかったように、水平線、否、泥平線の見えるまで万頃と泥沼、最早泥海である。途方もなく、気の遠くなる広さであった。
取り敢えず、どこかへ進まねば抜け出せない。しかし、どこへ。何を目安にどの方向へ進めばいいのか、皆目見当がつかない。かといって、ここへぽつねんと立ち尽くしていたとて埒が明かない。私は起き上がった時に向いていた方へ歩くことにした。
だが、先述の通り私の足は底へ着いていないので、歩を踏み出そうと泥を蹴ると、真下の泥を掻き出してその分沈んでしまう。そのくせ前には殆ど進めない。暫く泥とじゃれ合った結果、私は膝を曲げ、水平方向へ軽く蹴り出すことで推進力を得る、という歩法を発明した。
私はこの一様な風景によって方向感覚を失いやしないかと懸念したが、私の進んだ後、泥は私の体に掻き分けられて溝のような跡が残り、それは暫く元には戻らないため、少なくとも来た道をそのまま戻るということはなくなった。
こうして、体力の続く限り歩く毎日が始まった。
第一に食糧の心配が過ったものの、それは泥を食べることで解決した。この泥がどういう成分を含んでいてどう私に作用しているのかは知らない。味も良くない。想像する泥そのままの風味である。にちゃにちゃとした感触と共に、苦みと臭気が体を満たしていく。だが、背に腹は代えられぬし、私は生きていられる上に、蕩尽できぬ量の食糧がそこら中にあると思えば、寧ろ幸運であるとすら言える。
排泄に関しては、その場で垂れ流すことにした。臭いも、歩いて離れてしまえば問題ない。
最も難儀するであろうと予測できたのは睡眠であるが、それも思った程苦ではなかった。泥の上へ仰向けになると、一定の所までは沈むものの、それ以上は沈まないのである。それに、慣れてしまえば、泥のひんやりと肌を包む感触が心地良く感じられた。
朝になると、私をここへ落とした巨大な鷹が、頭上の空を旋回しながら「ピィィ」と鳴く。その声で目覚め、歩き始める。
歩くのに疲れると、私は大声で歌ったり叫んだりした。運良く誰かに聞こえてくれればいい、という目論見も含んでのことであった。誰か、どころか私と鷹以外の生物を見た試しはなかったが、開けた空間へ思い切り声を響かせるのは至高の快感であった。
声を出すのにも飽きると、今度は泥の上へ寝転んで空想に耽った。やっていることは文章を書く時の案出しと相違ないのであるが、娯楽の目的を持って望むと、無限に思考が広がった。これは面白くない、これでは売れない、そんな堰を壊して止めどなく流れていくのだ。
1週間近く経った辺りで、日付の感覚は完全になくなった。まだまだ果ての見えない旅路に軽く絶望して初めて、私の脳裏に弥奈が浮かんだ。次いで水上が浮かんだ。あの2人は、私を心配しているのであろうか。いや、そもそも私の失踪を知り得てすらいないのではないか。弥奈は当然、私へ電話を掛けても、アパートを訪れてもいないであろう。別れたばかりの恋人へそんなことをするような図々しい性格ではない。水上はどうだ。私と連絡が取れないことを案じて……否、最後に交わした会話があの調子であったから、暫く連絡が取れなくてもあまり不自然には見えないかもしれない。だとしても、いつまでもそれが続けば流石に様子を見に来るくらいのことはする筈である。あるいは、大家が先に気付くかもしれない。そういえば、締切も近かったはずであるから、編集が先か。
弥奈と別れていなければ、私はこうならずに済んだのであろうか。
弥奈と別れたから、私は自分の小説と向き合ってしまい、心配になって水上を誘い、そして、あの時間、あの場所を歩いていたのである。仮に弥奈と別れずともここに運ばれたとて、弥奈が家にいれば、いち早く警察へ報せたのではないか。
悔やんでも詮方ない。私は手元の泥を一掴み取って食んだ。
ともかく、私に今できるのは掻くことのみである。
翌朝、鷹が来ないと思ったら雨が降った。この泥濘と雨の相性は最悪であった。泥は水を含み、力を加えれば何の抵抗もなく崩れるまでに柔らかくなり、更に、私の歩んだ後へできる轍に雨水が溜まり、泥が崩れてそれを埋め、私は全く方向を見失った。雨の勢いは強まるばかり、泥の吸収できる量を遥かに上回る様子である。泥の上に水の層ができ始めていた。
雨は止まぬまま、辺りが暗くなっても降り続けていた。依然として豪雨である。私はといえば、泥の上へ溜まった水に浮いていた。そうせねば溺れてしまう高さまで水嵩が増えていた。いつ頃からか風も強く吹いてきて、私は流されるままに水面を漂っていた。大きな雨粒が当たるので、目を開けていられない。背面の水、雨粒の水面を叩く音、風のびゅう、と吹く声、体の押し流される感覚、それが全てであった。
私はここへ来てようやく、私を攫った鷹を恨み始めた。
あの鷹に意思があるのかは知らないが、何故私なのだ。私をこんな所へ運び、喰らうわけでもなく、置いて飛び去るのでもなく、毎朝毎朝様子を見に来る。馬鹿にしているのか。私という卑小な存在の生への執着を嘲笑っているのか。お前も俺のように飛べるのであれば楽に抜け出せるのにな、と悦に入っているのか。そのくせ、このような豪雨、自らの命が危ないとあれば来ないのである。
その日の夜は、どんな夜より暗く長く、恐ろしかった。月光は鈍く分厚い雲に遮られ、都会にいては見られない闇であった。
夜が明ける頃、やっと雨は止み、雲の隙間から少し日が覗いた。鷹がやって来て、「ピィィ」と鳴いた。私は憎々しげに鷹を睨んだ。
再び泥を掻いて進めるようになるまで、何日も要した。雨は降らなかったものの、曇りが続いたのである。
水の乾かぬ間、私はどうにか鷹の気を引けないかと躍起になっていた。何かのはずみで鷹が私を連れ戻してくれやしないかと思い至ったのだ。とはいえ、できることといえば大声で呼び掛けたり手を振ったりする程度であった。
しかし、思いの外それは功を奏し、鷹は旋回する高度を段々と下げ、やがて顔をはっきりと視認できる高さまで下りてきた。その距離で鷹を見たことで、私はその大きさに驚いた。私を掴んで悠々と飛べるだけあって、羽根を広げると7、8メートルはあるであろう。だが、それだけ近付いたところで、鷹の振る舞いは変わらない。「ピィィ」と鳴くのみである。私の苛立ちは増していった。
ある日、泥を搔く中に、泥でない感触があった。手探りで掘り出してみると、それはスマホであった。鷹に落とされた時ポケットからこぼれたものであった。先日の豪雨で流されたのであろう。電源を押してみたが、案の定反応はなかった。文明の利器も、こうなっては黒い鏡である。泥に塗れた男の、ニヒルな笑顔が映っていた。私は思い切り振りかぶって、その無用の長物を投げ上げた。空を仰いで初めて、私は鷹が頭上を旋回していることに気付いた。真昼であった。
「ピギィ」
間抜けな声が落莫と響き渡った。
──べちゃ
鷹が墜落し、大きな泥飛沫があがった。鷹はびくびくと痙攣し、やがて息絶えた。
「はっ」
ははははは、と私は大きく笑った。全てが滑稽であった。私は泥へ倒れ込んで笑った。羽を広げて横たわる鷹、その横で私は大の字になった。声が枯れて出なくなっても、かっかっか、と嗄れ声でまだ笑った。
さあ、これからどうしようか。
泥濘に落ちる