5月26日夏目漱石京に着ける夕

5月26日夏目漱石京に着ける夕


 京に着ける夕
 夏目漱石



 汽車は流星の疾はやきに、二百里の春を貫つらぬいて、行くわれを七条しちじょうのプラットフォームの上に振り落す。余よが踵かかとの堅き叩たたきに薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉のどから火の粉こをぱっと吐はいて、暗い国へ轟ごうと去った。
 たださえ京は淋さびしい所である。原に真葛まくず、川に加茂かも、山に比叡ひえと愛宕あたごと鞍馬くらま、ことごとく昔のままの原と川と山である。昔のままの原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至っても十条に至っても、皆昔のままである。数えて百条に至り、生きて千年に至るとも京は依然として淋しかろう。この淋しい京を、春寒はるさむの宵よいに、とく走る汽車から会釈えしゃくなく振り落された余は、淋しいながら、寒いながら通らねばならぬ。南から北へ――町が尽きて、家が尽きて、灯ひが尽きる北の果はてまで通らねばならぬ。
「遠いよ」と主人が後うしろから云う。「遠いぜ」と居士こじが前から云う。余は中の車に乗って顫ふるえている。東京を立つ時は日本にこんな寒い所があるとは思わなかった。昨日きのうまでは擦すれ合あう身体からだから火花が出て、むくむくと血管を無理に越す熱き血が、汗を吹いて総身そうみに煮浸にじみ出はせぬかと感じた。東京はさほどに烈はげしい所である。この刺激の強い都を去って、突然と太古たいこの京へ飛び下りた余は、あたかも三伏さんぷくの日に照りつけられた焼石が、緑の底に空を映さぬ暗い池へ、落ち込んだようなものだ。余はしゅっと云う音と共に、倏忽しゅっこつとわれを去る熱気が、静なる京の夜に震動を起しはせぬかと心配した。
「遠いよ」と云った人の車と、「遠いぜ」と云った人の車と、顫えている余の車は長き轅かじを長く連つらねて、狭せばく細い路みちを北へ北へと行く。静かな夜よを、聞かざるかと輪りんを鳴らして行く。鳴る音は狭き路を左右に遮さえぎられて、高く空に響く。かんかららん、かんかららん、と云う。石に逢あえばかかん、かからんと云う。陰気な音ではない。しかし寒い響である。風は北から吹く。
 細い路を窮屈に両側から仕切る家はことごとく黒い。戸は残りなく鎖とざされている。ところどころの軒下に大きな小田原提灯おだわらぢょうちんが見える。赤くぜんざいとかいてある。人気ひとけのない軒下にぜんざいはそもそも何を待ちつつ赤く染まっているのかしらん。春寒はるさむの夜よを深み、加茂川かもがわの水さえ死ぬ頃を見計らって桓武天皇かんむてんのうの亡魂でも食いに来る気かも知れぬ。
 桓武天皇の御宇ぎょうに、ぜんざいが軒下に赤く染め抜かれていたかは、わかりやすからぬ歴史上の疑問である。しかし赤いぜんざいと京都とはとうてい離されない。離されない以上は千年の歴史を有する京都に千年の歴史を有するぜんざいが無くてはならぬ。ぜんざいを召したまえる桓武天皇の昔はしらず、余とぜんざいと京都とは有史以前から深い因縁いんねんで互に結びつけられている。始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規まさおかしきといっしょであった。麩屋町ふやまちの柊屋ひいらぎやとか云う家へ着いて、子規と共に京都の夜よるを見物に出たとき、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯を見て、余は何故なにゆえかこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日こんにちに至るまでけっして動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた第一印象でまた最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだに、ぜんざいを食った事がない。実はぜんざいの何物たるかをさえ弁わきまえぬ。汁粉しるこであるか煮小豆ゆであずきであるか眼前がんぜんに髣髴ほうふつする材料もないのに、あの赤い下品な肉太にくぶとな字を見ると、京都を稲妻いなずまの迅すみやかなる閃ひらめきのうちに思い出す。同時に――ああ子規は死んでしまった。糸瓜へちまのごとく干枯ひからびて死んでしまった。――提灯はいまだに暗い軒下にぶらぶらしている。余は寒い首を縮ちぢめて京都を南から北へ抜ける。
 車はかんかららんに桓武天皇の亡魂を驚おどろかし奉たてまつって、しきりに馳かける。前なる居士こじは黙って乗っている。後うしろなる主人も言葉をかける気色けしきがない。車夫はただ細長い通りをどこまでもかんかららんと北へ走る。なるほど遠い。遠いほど風に当らねばならぬ。馳けるほど顫ふるえねばならぬ。余の膝掛ひざかけと洋傘ようがさとは余が汽車から振り落されたとき居士が拾ってしまった。洋傘は拾われても雨が降らねばいらぬ。この寒いのに膝掛を拾われては東京を出るとき二十二円五十銭を奮発した甲斐かいがない。
 子規と来たときはかように寒くはなかった。子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行あるいた事を記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑なつみかんを買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した。余は夏蜜柑なつみかんの皮を剥むいて、一房ひとふさごとに裂いては噛かみ、裂いては噛んで、あてどもなくさまようていると、いつの間まにやら幅一間ぐらいの小路しょうじに出た。この小路の左右に並ぶ家には門並かどなみ方一尺ばかりの穴を戸にあけてある。そうしてその穴の中から、もしもしと云う声がする。始めは偶然だと思うていたが行くほどに、穴のあるほどに、申し合せたように、左右の穴からもしもしと云う。知らぬ顔をして行き過ぎると穴から手を出して捕とらまえそうに烈はげしい呼び方をする。子規を顧かえりみて何だと聞くと妓楼ぎろうだと答えた。余は夏蜜柑を食いながら、目分量めぶんりょうで一間幅の道路を中央から等分して、その等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党ふへんふとうに練ねって行った。穴から手を出して制服の尻でも捕まえられては容易ならんと思ったからである。子規は笑っていた。膝掛をとられて顫ふるえている今の余を見たら、子規はまた笑うであろう。しかし死んだものは笑いたくても、顫えているものは笑われたくても、相談にはならん。
 かんかららんは長い橋の袂たもとを左へ切れて長い橋を一つ渡って、ほのかに見える白い河原かわらを越えて、藁葺わらぶきとも思われる不揃ふそろいな家の間を通り抜けて、梶棒かじぼうを横に切ったと思ったら、四抱よかかえか五抱いつかかえもある大樹たいじゅの幾本となく提灯ちょうちんの火にうつる鼻先で、ぴたりと留まった。寒い町を通り抜けて、よくよく寒い所へ来たのである。遥はるかなる頭の上に見上げる空は、枝のために遮さえぎられて、手の平ひらほどの奥に料峭りょうしょうたる星の影がきらりと光を放った時、余は車を降りながら、元来どこへ寝るのだろうと考えた。
「これが加茂かもの森もりだ」と主人が云う。「加茂の森がわれわれの庭だ」と居士こじが云う。大樹たいじゅを繞めぐって、逆ぎゃくに戻ると玄関に灯ひが見える。なるほど家があるなと気がついた。
 玄関に待つ野明のあきさんは坊主頭ぼうずあたまである。台所から首を出した爺さんも坊主頭である。主人は哲学者である。居士は洪川和尚こうせんおしょうの会下えかである。そうして家は森の中にある。後うしろは竹藪たけやぶである。顫えながら飛び込んだ客は寒がりである。
 子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったのはもう十五六年の昔になる。夏の夜よの月円まるきに乗じて、清水きよみずの堂を徘徊はいかいして、明あきらかならぬ夜よるの色をゆかしきもののように、遠く眼まなこを微茫びぼうの底に放って、幾点の紅灯こうとうに夢のごとく柔やわらかなる空想を縦ほしいままに酔えわしめたるは、制服の釦ボタンの真鍮しんちゅうと知りつつも、黄金こがねと強しいたる時代である。真鍮は真鍮と悟ったとき、われらは制服を捨てて赤裸まるはだかのまま世の中へ飛び出した。子規は血を嘔はいて新聞屋となる、余は尻を端折はしょって西国さいこくへ出奔しゅっぽんする。御互の世は御互に物騒ぶっそうになった。物騒の極きょく子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日こんにちに至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山まるやまへ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺ただすの森もりの奥に、哲学者と、禅居士ぜんこじと、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑かんと暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。
 若い坊さんが「御湯に御這入おはいり」と云う。主人と居士は余が顫ふるえているのを見兼て「公こう、まず這入れ」と云う。加茂かもの水の透すき徹とおるなかに全身を浸つけたときは歯の根が合わぬくらいであった。湯に入いって顫えたものは古往今来こおうこんらいたくさんあるまいと思う。湯から出たら「公まず眠ねぶれ」と云う。若い坊さんが厚い蒲団ふとんを十二畳の部屋に担かつぎ込こむ。「郡内ぐんないか」と聞いたら「太織ふとおりだ」と答えた。「公のために新調したのだ」と説明がある上は安心して、わがものと心得て、差支さしつかえなしと考えた故、御免ごめんを蒙こうぶって寝る。
 寝心地はすこぶる嬉うれしかったが、上に掛ける二枚も、下へ敷く二枚も、ことごとく蒲団なので肩のあたりへ糺の森の風がひやりひやりと吹いて来る。車に寒く、湯に寒く、果はては蒲団にまで寒かったのは心得ぬ。京都では袖そでのある夜着よぎはつくらぬものの由を主人から承うけたまわって、京都はよくよく人を寒がらせる所だと思う。
 真夜中頃に、枕頭まくらもとの違棚ちがいだなに据すえてある、四角の紫檀製したんせいの枠わくに嵌はめ込こまれた十八世紀の置時計が、チーンと銀椀ぎんわんを象牙ぞうげの箸はしで打つような音を立てて鳴った。夢のうちにこの響を聞いて、はっと眼を醒さましたら、時計はとくに鳴なりやんだが、頭のなかはまだ鳴っている。しかもその鳴りかたが、しだいに細く、しだいに遠く、しだいに濃こまやかに、耳から、耳の奥へ、耳の奥から、脳のなかへ、脳のなかから、心の底へ浸しみ渡わたって、心の底から、心のつながるところで、しかも心の尾ついて行く事のできぬ、遐はるかなる国へ抜け出して行くように思われた。この涼しき鈴りんの音ねが、わが肉体を貫つらぬいて、わが心を透すかして無限の幽境に赴おもむくからは、身も魂も氷盤のごとく清く、雪甌せつおうのごとく冷ひややかでなくてはならぬ。太織の夜具のなかなる余はいよいよ寒かった。
 暁あかつきは高い欅けやきの梢こずえに鳴く烏からすで再度の夢を破られた。この烏はかあとは鳴かぬ。きゃけえ、くうと曲折して鳴く。単純なる烏ではない。への字烏、くの字烏である。加茂かもの明神みょうじんがかく鳴かしめて、うき我れをいとど寒がらしめ玉うの神意かも知れぬ。
 かくして太織の蒲団を離れたる余は、顫えつつ窓を開けば、依稀いきたる細雨さいうは、濃かに糺の森を罩こめて、糺の森はわが家やを遶めぐりて、わが家の寂然せきぜんたる十二畳は、われを封じて、余は幾重いくえともなく寒いものに取り囲まれていた。
  春寒はるさむの社頭に鶴を夢みけり



  

5月26日夏目漱石京に着ける夕