仲直り
些細なことで喧嘩をしたのはもう3日も前。
それ以来、彼女とは一言も口をきいていない。
こんなに長い喧嘩をしたのは初めてで――いや、一緒に暮らすようになってから喧嘩自体が初めてだったと今更気づく。
最初の日にほんの少し意地を張ってしまったが為に、すっかり仲直りのきっかけをなくしてしまってこの体たらくである。
タイミング悪く、仕事でトラブルや急な対応案件が続いて残業が続いてしまったのもそれに拍車をかけている。
怒濤のように押し寄せる仕事の波をようやく片付けてやっと帰宅の途に就きながら、俺は肩を落としてため息を漏らした。
手にした似合いもしない小洒落た紙袋は、最近ネットで話題になっていた店の期間限定詰め合わせセット。今日こそは仲直りをするのだと、貴重な昼休みをまるまる潰して並んで手に入れた代物である。社の連中に見つかったら何を言われるか知れたものではないし、たかられたりしたら目も当てられない。だからこれは駅のコインロッカーに預けておいたのだ。
時間を確認しようとスマホを取り出したが、いつのまにかバッテリーが切れてしまっていたようで、電源ボタンを押してもうんともすんとも言わない。そういえば、今日はあまりに忙しすぎて途中で充電をするのも忘れていたなと思い出す。
すっかり遅くなってしまったが、彼女はまだ起きているだろうか。これから帰るから起きて待っててくれと、そんなメッセージを送ることも叶わない。
「おまえさあ、たかがそんなことくらいでそんな怒ることないだろ」
「あんたにとっては『たかがそんなこと』かもしれないけど、私にとっては大事なことなの!」
「んなこと言ったって、実際別に大したことじゃないじゃん。おまえが大袈裟すぎんだよ」
コンビニの前を通りかかったところで、カップルらしい大学生くらいの男女が大声で言い合っている。
その会話は、奇しくも3日前に自分達が交わしたものとよく似ていて、胸の奥がざわついた。
「もういい!」
「ああそうかよ! じゃあ勝手にしろ!」
売り言葉に買い言葉。
男の方は恐らくそんな程度の感覚で発した言葉だったのだろう。
だが、投げつけられた言葉を受けた女の方は、その目にはっきり失望を湛え、くしゃりと顔を歪ませた。
見るともなしに目に入ってしまったその表情が、3日前の彼女に重なる。
あの時、彼女は背を向けて肩を震わせていたから、実際にはどんな顔をしていたのかは分からない。けど、もしかしたら、俺も彼女にこんな顔をさせてしまっていたのかもしれないと、罪悪感が胸いっぱいに広がっていく。
思わず足を止めてしまった俺に気づいたのだろう。男の方はここが往来であることを思い出し、少し冷静さを取り戻したらしく、誤魔化すように咳払いをして彼女の肩をポンと叩く。
「……ごめん、言い過ぎた」
「……」
「悪かったって。な? ほら、泣くなってば」
こちらをチラチラ気にしながら、男は宥めるように猫撫で声を出す。
彼女はしっかり顔を手で覆ってしまい反応は示さない。恐らく男の謝罪が第三者の目を気にした口先だけのもので、心からの発言ではないと察しているのだろう。
そんな様子もまた自分達に重なって、俺はどうしようもない居た堪れなさを抱きながら足早にその場を立ち去った。
アパートまでの道すがら、頭の中はさっきのカップルの喧嘩でいっぱいだった。
あの時、女の目に宿った確かな失望が、まるで網膜に焼き付いたかのように消えてくれない。
正確には、あの夜、彼女が浮かべたのではないかという想像が、というべきか。
誰よりも大事にすると誓ったのに、彼女の真摯な訴えを軽く扱って一蹴した。それどころか、ふざけ半分で揶揄さえした。怒る彼女に「そのくらいのことで」と言い放ち、更に油に火を注ぐような発言までしてしまった。
もしかしなくても、彼女もさっきの女のように、俺に失望したのではないだろうか。
手にした紙袋が、急に空疎なもののように思えてくる。
俺は本気で彼女に詫びる気持ちがあっただろうか?
話題の店で、わざわざ並んで買ってきてやったのだから、これで誠意は示した、だから彼女も機嫌を直してくれるだろう――そんな傲慢さがなかったと言えるだろうか?
絶え間なく襲い来る後ろめたさと、居ても立っても居られないほどの焦燥感に苛まれ、気がつけば俺は早足から小走りに、そしていつしか全力で走り出していた。
息を切らせてアパートに辿り着く。
見上げた窓には明かりは灯っていなかった。
脳裏を過ぎるのは、熟年離婚したという上司の噂話――あるとき家に帰ったらテーブルの上に記入済みの離婚届が置かれていて、奥さんは自分の荷物を纏めて出て行ってしまっていたという。本当は何度もそれらしい前兆はあったのに、高を括り、それと気づかず見過ごしてそんな事態を招いてしまったという、居間の俺にとってはとても他人事とは思えない恐ろしい話である。
今朝までは、口はきいてくくれなくとも、そんな兆候は感じられなかった。
だが、はたして本当にそうだったか?
彼女は怒っていたのではなく、俺の言動に失望して、もう完全に見限られてしまっていたのではないか?
3日もあればさして荷物も多くない単身者の引越の手筈を整えるのには充分だろう。今は家具も一式揃っている格安の賃貸物件もある。俺が残業にかまけている間にこっそり荷物を纏めていても不思議はない。
そもそも彼女の両親は、いくら結婚を前提としているとはいえ、同棲にはあまり賛成していなかった。彼女が出て行く意志を示したなら、きっと「それみたことか」と進んで協力してくれそうだ。
嫌な想像ばかりが猛スピードで頭を埋め尽くす中、俺は縺れそうになる足を叱咤して階段を一段抜かしで駆け上がる。
どうかもう一度、俺にチャンスをくれ。
もう絶対に、おまえの真摯な想いを笑ったりあげつらったりしないって約束するから。
生涯を共にしたいと思うのはおまえだけなんだ。
震える手でノブを回すと、鍵は掛かっておらず、ドアはすんなり開いた。
電気を点け、室内に変わったところがないことを――彼女の私物が消えているなんてことはなく、見慣れた状態のままであることを確認し、少しだけ安堵する。
じゃあ彼女はどこに……と視線を巡らせたところで、ソファで丸くなっているその姿を目にして、心臓が嫌な音を立てて軋んだ。
おそるおそる覗き込むと、頬にはくっきり涙の跡、目元は真っ赤に泣き腫らされていた。泣き疲れて寝てしまったのが一目で分かる姿に、申し訳なさと不甲斐なさで鼻の奥がツンと痛む。
「泣かせてごめん……」
心の底からの詫びの言葉が滑り落ちた瞬間、彼女の瞼がぴくりと震えた。
ゆっくりと目を開けた彼女は、俺の顔を見るや、途端に顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。
「良かった……帰ってきた……」
まだ少し寝ぼけているのかもしれない。
そう思いながらも、泣きじゃくる彼女を安心させるように力いっぱい抱き締める。
「ごめん……変に意地張って、おまえのこと傷つけて……」
「わたしもごめん……夕方からずっとLINEも既読つかないし、電話かけても出ないし……も、もう、わたしのこと、面倒になって……嫌になっちゃったんじゃないかって……」
「そんなわけあるか。仕事が立て込んでてスマホの充電切らしてただけだし、俺にはおまえ以外考えられないから。俺だって、帰ってきたら電気消えてるし、おまえが俺に愛想尽かして出てっちまったんじゃないかって生きた心地しなかった」
お互いにバカみたいに抱き縋って、謝りあう。
そうして、俺達の長い喧嘩は終了し、無事に仲直りすることができたのだった。
その後、俺達は改めて二人で暮らしていく上でのルールを決めた。
喧嘩をしても、なるべくその日の内に仲直りをすること。
不満はちゃんと口に出して溜め込まないこと。
相手の不満にちゃんと耳を傾け、お互いに歩み寄る気持ちを忘れないこと。
他人と関わる上で、当たり前といえば当たり前のことではある。けれど、親しくなる内に忘れがちなことでもある。
だからそれを敢えて言葉にして確認しあうことにしたのだ。
熟年離婚した上司の二の轍は踏まないように、俺は今回の反省を込めて、しっかりそれを胸に刻みつける。
同時に俺の傲りを気づかせてくれたコンビニ前の喧嘩カップルに感謝しつつ、彼らもまた、ちゃんと仲直りして幸せになってくれるようにと祈るばかりである。
仲直り
もじすきーで出たお題「仲直り」で挑戦させて頂いた作品になります